8 / 22
7 気遣い
しおりを挟む精神的ダメージが大きかったせいか、シイナの熱は何日も続いた。
最初のような高熱ではないが、微熱が下がらず、鈍い頭痛はおさまらない。
日常的に眠れなかった疲労の上に、暗闇を恐れ、明かりを消すことさえできなくなった。
そんな状態で、仕事に行くどころではなくなった。
クローンと同じ空間にいるのが、想像でも耐えられなかった。
医局のクローンでも駄目だった。
フジオミが診てもらうかと促しても頑なに拒否した。
そこで、フジオミが手配して、体調が戻るまで研究区はフジオミの管轄下に入った。
端末をシイナの部屋に持ち込んで、リビングで報告を受けながら、フジオミはシイナの面倒を見る。
居住区内のクローンを近づけることなく、徹底してシイナを隔離した。
シイナは逆らわなかった。
寧ろそのフジオミの采配に素直に従った。
フジオミが傍にいるなら、もうあんな恐ろしいことは起こらない。
それだけで安堵した。
「シイナ、薬は?」
食事のトレイを片付けに部屋へ入ってきたフジオミは、薬の包みが開けられていないのを見て、そう問うた。
「飲みたくないの。効かないし、返って気分が悪くなるから」
「まだ、眠れないのかい?」
「――深く眠れないだけ。横になっているから大丈夫よ」
もの言いたげにフジオミはシイナを見ていたが、結局何も言わずにトレイを片付けに行った。
しばらくして、もう一度寝室のドアがノックされる。
「フジオミ?」
ドアが開くと、フジオミはトレイにカップを載せて入ってきた。
「薬が嫌ならこれを。安眠効果があるらしいから」
手渡されたカップからはほのかに湯気が出ていた。
「これ、お茶?」
「ああ、ハーブティーだよ。カモミール、だったかな」
いつもコーヒーばかり飲んでいたシイナには、あまり馴染みがないものだったが、ゆっくりと一口飲んだ。
コーヒーとは違う、ハーブ特有の独特の味がしたが嫌ではなかった。
熱すぎず、丁度良く飲める温度も良かった。
「美味しいわ……」
それを聞いて、フジオミが笑う。
「じゃあ、今度からは食後に飲めるよう準備するよ」
温かさが胸の奥に染み渡るのは、ハーブティーのせいだけではないような気がした。
フジオミの気遣いを、今なら素直に受け入れられる。
それが、不思議だった。
たった、これだけのことが、なぜ。
どんなに考えても、シイナにはわからなかった。
鈍い頭痛のせいだと、思いたかった。
シイナがハーブティーを飲み終わると、フジオミはカップを受け取り、椅子から立ち上がる。
部屋から出て行こうとしている。
「フジオミ」
咄嗟に、シイナは声をかける。
「何? 他に欲しいものでもある?」
答えを探せずに、シイナは躊躇した。
だが、ここで何でもないと答えれば、フジオミは部屋から出て行く。
今はまだ、一人になりたくなかった。
「眠くなるまで、何でもいい。何か話していて」
「――」
フジオミは、その言葉に、一瞬だけ動きを止めた。
それから、懐かしそうに目を細めて微笑んだ。
「?」
シイナには、フジオミがなぜそんな表情で自分を見るのかわからなかった。
「フジオミ?」
「――ああ、いや、懐かしいなと思って。憶えてる、シイナ? 君、小さい頃はいつもそう言っていたこと」
虚をつかれて、
「憶えて、ないわ……」
シイナは、咄嗟に嘘をついた。
「――」
「小さい頃はいつも、僕が学習したことを話して聞かせろとせがんでいたよ。僕が話すまで、決して諦めなかった。君が言うまで、僕も忘れていた」
フジオミは、そのまま椅子に座り直して、研究区の報告書を読み上げ始めた。
シイナは、その声を聞いていた。
資料の中身はすでに聞いてはいなかった。
低く響く優しい声。
昔とは、違っていた。
昔はもう少し高く、やわらかかった。
封じ込めて、押しやっていたはずの、記憶が甦る。
憶えている。
自分の記憶の大半には、いつもフジオミがいた。
ずっと一緒に育ってきた。
誰よりも一番、近くにいた。
それこそ、自分の存在が、否定されるまで。
同世代で産まれ、すでに親もなく、周りの大人全てから育てられたといっていい。
本来なら、自分に生殖能力がある正常な女性体であったなら、当然のように自分達は互いの伴侶となるはずだった。
最後の楽園の、アダムとイヴのように。
しかし、そうなることはなかった。
自分は、イヴにはなれなかった。
フジオミは、最後のアダムになりえたのに。
当然の義務を放棄した。
逆らうことなどなかった彼が、初めて抗った。
それが、今以てわからない。
小さい頃から、フジオミには、当然のように大人達は義務を要求した。
フジオミも従順に応えた。
逆らうことなど有り得なかった。
それでも。
自分の記憶の中のフジオミは、応えている割に、いつもどうでもいいような顔をしていた。
あんなにたくさんの大人が、関わってくれているのに興味がなさそうだった。
反対に、自分は、甘やかされていたとも、思う。
今ならわかるが、大人達は、自分に生殖能力がないことをすでに知っていたのだ。
だから、厳しい義務も与えなかった。
自分はただ、何も知らずにフジオミと一緒にいて、フジオミの真似をしていたに過ぎなかった。
十二になって、それを知らされても、自分を取り巻く状況は変わらなかった。
今までと同じ。
厳しい義務もなく、ただ、今まで通りでいられると思っていた。
その義務は、自分には必要のないものだったから。
だが、なぜ、そんな自分に、突然義務が強いられたのか、シイナにはわからなかった。
――シイナ、君は君の義務を果たしたまえ。
あの時、自分の信じていたものは、全て壊れた。
父親のように接していてくれたカタオカの、義務を強いる硬い声音と温かな感情を見いだせない眼差しが、自分の心を壊した。
あれから、十年以上経っても、自分はカタオカを許せないでいる。
「シイナ、眠ったの?」
そっとかかるフジオミの声。
意識はあったが、シイナは答えなかった。
ハーブティーのせいなのか、意識が朦朧としていた。
フジオミがトレイを持って静かに離れていく気配がした。
明かりはつけたままだ。
目を閉じたまま、シイナは朧気に考えていた。
カタオカに、理由を、聞けば良かったと。
当時は、裏切られたショックで、何も受け入れられなかった。
全てを拒否し、遮ることで、必死に自分を保っていた。
そうでなければ、生きてさえいられなかった。
だが。
もし、聞いていたなら、自分達の関係はここまで捩れることはなかっただろう――
悪夢を見た。
身体を貫く熱い欲望。
突き上げられる感触。
自分の身体はそれを知っている。
目を開けて、自分に覆い被さる人物を見て驚く。
幼さの残る、少年の顔。
欲望に満ちた眼差しが、自分を見ていた。
今の自分を、十四のフジオミが犯している。
それなのに、今の自分は拒むどころか足をフジオミの腰に絡め、腕を頸に絡めている。
信じられなかった。
セックスで快感を得たことのない自分が、それを喜んで迎え入れているなんて。
快感を感じたこともないくせに、夢の中の自分はあげたこともない淫らな声で啼いている。
こんなことは有り得ない。
フジオミの律動が早くなるとともに、自分の声も大きくなる。
耳を塞ぎたかった。
気持ちが悪い。
自分の身体なのに、誰かに操られているかのように、フジオミに縋り付いている自分。
揺さぶらないで。
こんなのは、自分じゃない。
助けて、誰か――
実際に悲鳴を上げる寸前、シイナは目を開けた。
「……」
見慣れた天上が見える。
明かりは点いたままだ。
身体を起こすと、空調がきいているはずなのに寒かった。
静まりかえった部屋には、先ほどまでの悪夢の続きは何もない。
いつもの、いつも通りの自分の寝室だ。
それなのに、シイナは恐怖に身を竦ませていた。
時計を見ると、日付は変わり、すでに夜明け間近となっていた。
ようやく眠れたと思ったら、おぞましい夢。
眠っている方が体力を消耗しているなんて、馬鹿げている。
いつまで、こんな夜が続くのか。
「……うぅっ……」
堪えきれずに、嗚咽が漏れる。
怖い。
恐怖を、克服できない。
いとも容易く、自分が壊れていく。
涙が視界を滲ませた。
「シイナ?」
ドアの開く音に目を向ければ、そこにはフジオミの姿がぼんやり映る。
「泣いてるのか――」
驚いたような声とともに近づいてくるフジオミに、シイナは慌てて涙を拭う。
脅えていた自分を悟られたくなかった。
だが、フジオミはベッドのすぐ傍まで来て、シイナの脅えように気づく。
シイナを威圧しないようベッドのすぐ脇に跪いて、右手をそっとベッドの上に置いた。
そのまま、シイナを見つめて静かに問う。
「手に、触れてもいいかい?」
それ以上何も言わず、フジオミはただ待った。
シイナは躊躇いながらも頷く。
フジオミの手が、すくうようにシイナの指をとらえる。
「冷たくなっている」
それから、左手を重ねて宥めるようにさすっていく。
冷え切っていた手に、フジオミの温もりは心地よかった。
このフジオミは違う。
もうシイナを傷つけない。
それなのに、どうしてあんな夢を見てしまったのか。
自分は、おかしくなってしまったのか。
シイナはフジオミが優しければ優しいほど、安堵する反面混乱する。
堪えきれない涙がぽつんと落ちた。
「シイナ、お願いだ。何があったのか話してくれ」
シイナの手を優しくとらえたままフジオミが言う。
その眼差しは労りに満ちていた。
「君がおかしくなったのは、あの日――僕の目の前で倒れてからだ。何かあったんだろう?」
シイナは迷っていた。
フジオミを、信じてもいいのか。
勿論、自分を襲ったのがフジオミでないのはわかっている。
だが、怖かった。
フジオミも男なのだ。
そんな彼に、自分の恐怖が理解できるのか。
彼ら男性体にとっては、女は生殖能力がなければ価値がないのだ。
未遂だからとなかったことにされたら。
再びそんな扱いを受けたら、耐えられない。
「――」
躊躇うシイナの手を、フジオミはさっきより強く握る。
「シイナ。こんな脅えた君を見ているのは辛いんだ。言ってくれ。力にならせてくれ」
その言葉に促され、シイナは、息を吸った。
「……資料倉庫に、いたの。一人で。探していた資料があったから」
できるだけ、平静を装うとしたが、声は震えて漏れた。
鼓動が速くなるのは緊張のせいか。
恐怖がぶり返してきたせいなのか。
「資料を見つけて、読んでいたら、いきなり、明かりが消えて……非常灯も点いてなくて、それで、倉庫から出ようとしたわ。そうしたら、いきなり、後ろから抱きすくめられて……」
我知らず、フジオミの手を強く握りしめた。
「押し倒されて……身体を触られた……」
フジオミが、強ばった表情で自分を見ていた。
手が、さらに強く握りかえされた。
「シイナ、顔は見えた?」
「見えなかった……真っ暗だし、止めろと言っても止めなかった。だから、ペンを腕に突き立てたの。そうしたら、逃げていった……」
あいている手で、シイナは胸を押さえた。
甦る恐怖に、息が上手くできなかった。
「だから、明かりを消すのを嫌がったんだね」
頷くシイナを、フジオミは切なげに見つめていた。
「抱きしめてもいい? それ以上は何もしないよ」
返事をきく前に、フジオミはベッドの端に座り、シイナを優しく引き寄せた。
触れられて強ばった身体は、恐怖をそのまま表していた。
それ以上は何もしないとフジオミは言ったが、あの時の恐怖に支配されて、締めつけられているわけでもないのに息が苦しかった。
フジオミは、そんなシイナを安心させるように優しく抱きしめて、その背をさする。
そうして、時間だけが静かに流れていく。
労るように優しく扱われて、シイナは身体の強ばりとともに、押しつけ、堪えていた感情が溢れてくるのを感じた。
「……部屋から出るのが怖い……」
視界が滲んでいく。
「シイナ。約束する。二度と、君をそんな目に遭わせたりしない。誰にも触れさせない」
シイナの手が、縋るようにフジオミの背中に回った。
「本当に? 守ってくれる? もう嫌なの。本当に、嫌なのよ」
「ああ。君の嫌がることはしない。他の誰にもさせない」
その言葉に、シイナは肩を震わせて泣き出した。
フジオミはただ黙って、シイナを抱きしめていてくれた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる