竪琴の乙女

ライヒェル

文字の大きさ
上 下
29 / 78
六章

カスピアンの想い

しおりを挟む
カスピアンは執務室で、山積みの書状や誓約書に目を通し、署名などの政務をしていた。ノックの音がして、外で警備していたエイドリアンが扉を開けると、マゼッタ女官長がサリーと共に入室する。
マゼッタは、カスピアンの母、前国王の正妃シルビアの直属女官であり、幼い頃からカスピアンを見守り教育してきた、いわば叔母のような存在だ。
「陛下、よろしいでしょうか」
カスピアンは書類から目を離し、マゼッタに目を向けた。
サリーもその後ろに控えている。
二人はほぼ毎日、この時間帯にカスピアンのもとへ報告に来る。
カスピアンは、闘技場に向かう前に寄る執務室でのこの短い時間を、とても楽しみにしていた。
通常の政務に加え、軍事パレード、婚儀に伴う関連祭事の準備、諸外国の要人の招待に関する事項、改装中の奥宮の進捗確認など、数えきれないほどの責務の合間に、お妃教育が始まっているセイラの様子を聞くのだ。
幼い頃から帝王学を学び、次期国王として教育を受けてきた自分とは違い、まったくの庶民でありしかも異世界から突然ラベロア王国に来たセイラにとってはすべてが初めてのことである。
しかも、通常3ヶ月のお妃教育を1ヶ月に凝縮し強行していた。これはカスピアンの強い意向によるものであったため、果たしてセイラがこなしきれるかどうか、大きな懸念を覚えていた。
「セイラ様は大変ご熱心に取り組まれております。今朝は、講師がお迎えにいく前に、シルビア様の書庫に向かわれ調べ物をされていらっしゃいました」
マゼッタが微笑ましそうに目を細めて、一枚の紙をカスピアンに渡した。そこには、青いインクで書かれた沢山の文字が所狭しと並んでいて、地図の走り書きなどもあった。
「休憩のお時間中も、ご自分で復習され、夕方まとめてご質問を提出されます。ご休憩中、お茶や菓子を召し上がりながら勉強を続けようされたので、そこはご注意しましたが」
可笑しそうにマゼッタが笑うと、後ろのサリーもクスクスと笑い、マゼッタの話に続けた。
「セイラ様は、複数の作業を同時に並行して切り替えながら実行すれば、時間の節約になると反論されたのですが、マゼッタ様が、マナー上に問題があると申し上げたら、悲しそうなお顔をされながらも、本を閉じられました」
その様子を脳裏に描き、カスピアンはくすりと笑いを零し、小さく頷いた。
「陛下、率直に申し上げて、セイラ様は勉学に大変慣れていらっしゃるお方です。どちらの国からいらっしゃったのかは存じませんが、非常に高等な教育を受けてお育ちになられたのは間違いございません」
マゼッタが深い感銘を受けたように述べると、後方のサリーが大きく頷いて微笑んだ。
カスピアンは頬杖をつき、静かに報告の続きに耳を傾ける。
「科学や数学に限らず、講師陣の存じない分野の難解なところまで理解されており、また、政治、商業のしくみについても、すでにご存知でいらっしゃったので、そちらの分野では新たに学ばれる必要はございませんでした。現在は主に、地理と歴史、言語を学ばれております。また、セイラ様が、国の産物や加工技術、国際関係などについても学ばれたいとおっしゃるので、講師陣はセイラ様がご所望される分野についても講義を行っております。私どもも、王妃様がそこまで勉強される必要はないと申し上げましたが、国政に関わることは知りたいとおっしゃるので、お止めはしておりません。このような博学で勤勉な姫君が王妃様になられるのは、我が国にとって大変喜ばしいことです」
カスピアンは柔らかく微笑み、頷いた。
ラベロア王国では、貴族の女子は基本的にマナーを中心に学び、勉学は国の生い立ちくらいで、それほど学問を推奨されることはない。だが、セイラの話だと、セイラが居た世界では男女共に6歳から最低でも9年間、通常は12年間は学ぶとのこと。しかも、ラベロアよりも遥かに高度な文化を持つ世界だという。また、セイラは12年間の教育を受けた後さらに進学し、外国の文学を専攻、その後は輸出輸入に関わる仕事に就いていたらしい。通常の勉学とは別に、幼い頃から竪琴を続けており、音楽に関わる理論や音楽療法も学び、時折竪琴の演奏会に出ていたということだった。
セイラの世界について話を聞いた時、カスピアンはセイラの物怖じしない態度や自立した考え方は、生まれ育った環境から自然と身に付いたものだったのだと納得した。
予測していた通り、勉学に慣れていない姫君とは違い、学び方をすでに知っているセイラの成長ぶりは周りを驚嘆させた。一旦、お妃教育に取り組むと決心したセイラの真摯な姿勢と努力の度合いの高さは、カスピアンでも驚くものだった。
「セイラ様が苦戦されている唯一の事と言えば、やはり、マナーです。御公務に出席されるためにも早急に身につけていただく必要があるのですが……」
当然ながらセイラは、ラベロア王国の王族や貴族の姫君達のように、幼いころから優雅な振る舞いを教育された娘ではない。そのため、話し方から歩き方、表情、日常生活のすべてにおいて厳しい作法を一から叩き込む必要がある。しかも、王妃という国の頂点に立つ者として、超越した気品を身につけなければならないのだ。
「セイラ様は非常に負けず嫌いでいらっしゃるので、決して弱音は吐かれません。ですがその分、根を詰めすぎて、大分お疲れでいらっしゃると思います」
マゼッタの言葉に、カスピアンは思案するように腕組みをした。
毎夜、執務を終えた後にセイラの様子を見に行くのだが、このところ、まともに起きていた試しがない。昨晩も様子を見に行ったところ、部屋の灯りはついていたが、カウチで書物を抱えたまま眠りこけていた。その前の晩は起きてはいたが、腕に抱いて話を始めてまもなく、急に言葉を発しなくなったと思えば、うつらうつらと船をこぎ始めていた。
婚儀が済み、国王と王妃の間に移り住めば、共に過ごせる時間も格段に増えるが、それまでは、お互いが多忙である上、前もって予定を調整しない限り、食事も共には取れない。眠りに落ちたセイラの隣で朝まで過ごしたいという思いが脳裏をよぎったが、国王となり王子時代とはまた違う立場にあるため、やはり、神聖なる婚儀を終えるまでは、慣例通り、就寝は別であるべきと考え、自制している。
お妃教育がある程度進めば、婚儀前であっても、公務や社交の席にセイラを同行することも出来るが、まだしばらくは時間が必要なようだ。
「この後のセイラの予定はどうなっている」
「ご休憩の後は、ロドリゲス大神官様のところで、祭儀に必要な古代語の勉強と婚儀に関する講義を受けられます。ご昼食の後は、乗馬の練習、マナーレッスンです。恐らく、ご夕食の後はまた書庫に向かわれるかと」
「では、乗馬の際に、闘技場のほうへ寄るように手配しろ」
「闘技場のほうでございますか」
「今日の議会は中止になっている。午後の軍事パレードの演習に私もそのまま残る予定だ。これを機に、セイラにも我が国の騎士団を見せてやろうと思う」
「かしこまりました。よい気分転換にもなりますね」
マゼッタがにっこりと微笑み、深々とお辞儀をすると、サリーと共に退室した。


ラベロア王国の兵力は近隣諸国でも首位を争う規模である。
選りすぐりの屈強な男達が、厳しい訓練や審査を経て階級をあげていくことが出来る、唯一、生まれは問われない職業だ。実際、商人や農民の出でありながら、騎士官までのしあがった強者もいる。だが、体格的に恵まれず弱い者は必然的に淘汰されていく、決して生易しい世界ではない。実戦はもちろん、鍛錬中に命を落とすものも少なくはないのが現実だ。
今回予定している軍事パレードはもともと、近隣諸国に我が国の軍事力を誇示し、同時にエティグス王国を牽制する効果を狙いつつ、国民の意識を統一するために行う予定だった。だが、セイラが戻ってきたため、今回の軍事パレードは婚儀に先立つ祝賀も兼ねるものとなり、急遽内容に変更を入れている。

カスピアンは、時折この空白の3年間のことを思い出していた。
セイラが突如姿を消してから、何の情報もないまま、捜索活動だけは継続していた。周りは当然ながら、戻るかどうかもわからない娘のことなど忘れ、早く世継ぎ王子として妃を娶り、即位をするようにと詰め寄ってきた。やがて、父エスタスがこれ以上在位する気力がないと言い出し、カスピアンの即位を進めるにあたり、独り身の国王の誕生は大問題であると議会でも大騒ぎになった。カスピアンは、即位前に妃を娶る事を拒絶し、議会と対立。
即位を見送っている間に、父の体調がさらに悪化したため、カスピアンは24代ラベロア国王として即位せざるを得なくなった。
妃不在のまま国王として君臨することになったカスピアンがあえて妥協したことは、儀式や公務の際に同行するべき妃の代わりとして、暫定的に妃候補という、いわゆる婚約者として姫君を採用することだった。議会の推薦で、王立学校時代から知っている有力貴族の娘、サーシャが妃候補として抜擢され、表面上は公務の遂行に差しさわりない状態になる。
セイラがいつ戻ってくるのか、果たして本当に戻ってくるのかも明らかでない空白の3年の間、議会は何度もカスピアンの説得を試みようとした。セイラが戻れば新たに妃として娶ればよいのだから、まず一人、二人を先に妃に迎えるべきと繰り返す議会にほとほと嫌気がさしたカスピアンは、己の意思を見せつけるため、セイラが不在にも関わらず、24代国王の妃は一人であると宣言した。
議会の反論を打破するきっかけとなったのは、カスピアンが、ラベロア王国の信仰する太陽神テグロスの妻は大地の女神ディアナのみであり、王家も過去に遡れば、妃は一人であったという史実を示したからだ。
いつ頃からか、近隣諸国との紛争や流行した病で、世継ぎとなる王子が全て亡くなったことを機に、複数の妃を持ち、多くの王子、王女を生むのが当たり前となっていたが、これは実際は信仰に相反する制度だというカスピアンの主張には、多くの神官達が支持の姿勢を見せた。
カスピアンは、これまで代々国王の妃達が使っていた複数の部屋の排除も決定した。
宣言のみならず、実際に妃達が使っていた部屋をぶちこわしたことで、議会も、カスピアンが複数の妃を娶るつもりがないという意思を認めざるをえなくなったのだった。
カスピアンは、セイラが戻った後を考え、国王と正妃が共に使う、ひとつの寝室を作る事にした。セイラが驚くような広さになったのには理由があった。ラベロア王国では、王子、王女は生まれ落ちたその瞬間にそれぞれの個室を与えられ、女官達が主に世話をし育てるのが習わしだったが、カスピアンは自分とセイラの間に生まれる王子、王女は、せめて歩けるようになるまでは目の届くところに置きたいと考えたからだ。
叶う事なら、王妃などという重い責任を背負わせず、ただ妻として幸せにしてやりたいと思った。いずれ生まれてくるであろう子供達にも、世継ぎなどという宿命を継がせず、自由気ままに育ててやれる立場であればどれほどよかったかとも思う。
しかし、現実は、自分は国王であり、一般庶民のような家庭を持つ事は不可能である。
カスピアンの懸念をよそに、セイラは王妃になるための試練に真っ向から向き合い、着実にその成果を見せ始めた。逃げ腰になるどころか、文句のひとつも言わず、一生懸命に取り組んでいる。王妃の座など欲しくもなかっただろうに、自分と共に生きて行くためだけに、あえてその試練に挑む健気な様子に、ますます愛おしさが募っていく。
カスピアンはラベロア王国の発展のためには、政治改革の前にまず、王室の在り方を見直す必要があると考えている。
文明の進んだ世界で育ち、多くの知識を持つセイラと共に取り組めば、国民の一人一人が幸福だと思えるような国を作る事も決して夢ではないだろう。
「陛下、そろそろお時間です」
エイドリアンが呼びにきた。
カスピアンは立ち上がり、エイドリアンから剣を受け取ると執務室を後にした。
闘技場はラベロア王国の誇る巨大な施設のひとつ。
3代前のアンドレア国王がついに完成させた、楕円形のこの巨大な建築物は、収容人数は4万という、近隣諸国では一番の大きさである。
第二王子であった兄ユリアスはどちらかというと頭脳派であったため、少年時代から闘技場に足しげく通っていたカスピアンは、18歳になった時に父より、軍の総指揮官に任命された。国王となった今では、一言で軍隊を動かす権限さえ持っている。
闘技場は王宮の敷地外であるため、馬での移動。
準備されていた愛馬に乗り、裏門のほうへと向かう。
馬を早足で走らせていたところ、神殿へ続く渡り廊下をいく人影に気がつき、馬を止める。
女官と護衛、計10人に囲まれたセイラが、サリーに手を引かれ歩いていた。
艶やかな黒髪は奇麗に結い上げられ、白、薄紫の生花で留められた薄いベールが時折ふわりと風に浮く。ベールが浮く度に見え隠れする、その細く真っ白な首筋の艶かしさに胸が妖しく騒ぐ。
セイラは視線をあげ、背筋をまっすぐに伸ばし、柔らかい光沢のある若草色のドレスを緩やかに波打たせながら、滑るように歩いている。その様子は可憐な妖精のように軽やかだ。真剣に目を大きく見開いて前方を見ている様子から、優雅に歩く事に如何に集中しているかが見て取れた。
しばらく前に、背中に棒を固定して、書物を頭に乗せたまま、真っすぐに歩く練習をしているセイラを見た時には驚いたが、このように軽やかに歩いているところを見れば、効果てきめんだったらしい。
「セイラ様だ」
「なんとお美しい……」
背後でこそこそと小声で囁く護衛達の感嘆に、喜ばしいような、腹が立つような複雑な気持ちになっていると、歩いていたセイラが足を止めて、こちらへ目を向けた。
中庭で馬を止めているカスピアンと連れの護衛達に気がついたようだ。
セイラの顔がぱぁっと明るくなり、瞳をキラキラと輝かせたが、皆に見られているということを意識したのか、一瞬身を固めた後、優雅にお辞儀をしてみせた。
まるで美しい蝶がゆっくりと舞うような優艶な所作に、カスピアンは笑みを零す。
顔を上げたセイラは、カスピアンの微笑みを見ると、嬉しそうに頬を紅潮させた。そして視線を神殿に戻すと、軽やかに歩みを進め、やがて、一行は神殿の入り口の向こうへと姿を消した。

こうして時折、セイラが王宮で姿を現すようになってから、これまで隠された存在として広まっていた根拠のない噂や憶測が消え始めた。それは、これまで反発していた議会も例外ではない。
先日、王立学校の校長が、議会でとある懇願書を提出したことも、大きな契機となった。
その嘆願書は、セイラが正式に王妃となった後、王立学校の顧問に就任してほしいという内容だ。校長は、ラベロア王国の教育制度や方針につき、セイラの助言と指導を賜りたいと、長々熱弁を振るっていた。これがきっかけとなり、セイラの博識さと聡明さは議会に出席していた貴族達全員の知るところとなった。
また、王宮に居る人間の大多数を占める女官や兵士など、下々の者達の多くがセイラを歓迎していることも、王宮内の雰囲気が大きく変わり始めた理由だろう。セイラは関わり合うすべての者に対し、その者がどのような下働きであろうと、一人の人間としてしっかりと視線を合わせるらしい。これまで、王族はもとより、貴族の者は、下働きの者など人間としてさえ見なさないような風潮があった。セイラは、次期王妃としての品格は落とさずとも、すべての人間を尊重し、接し方に気を配ることは出来るのだと、身を以て証明した。
カスピアンがついに妃を迎えると知らされた近隣諸国は、ラベロア王国の今後の動向を注意深く見守ろうとしている。
エティグス王国の動きを常時監視するため忍ばせている部下の報告では、セイラが戻って来たという知らせは、その二日後にはもうルシアの元に届いていたとのことだ。
ラベロア王国内のどこかに、エティグスの間者が潜んでいるのは紛れも無い事実なのだ。
策略家と有名なルシアが、何かを画策する可能性は決して低くはないだろう。
このまま、ただ、指をくわえて成り行きを眺めているような男ではない。
一瞬たりとも油断は出来ない状態であり、厳重な警備体制は引き続き継続しなければならない。
カスピアンは、護衛達が惚けたようにセイラが通り過ぎた渡り廊下を見ている様子に苛立ちを覚えながら、馬の手綱を強く引いた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

ある公爵令嬢の生涯

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,966pt お気に入り:16,123

君がずっと好きでした。〜君が届かなくなる前に。〜

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:54

最初に私を蔑ろにしたのは殿下の方でしょう?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:12,687pt お気に入り:1,962

悪役令嬢の中身が私になった。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:420pt お気に入り:2,628

一目惚れ婚~美人すぎる御曹司に溺愛されてます~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:220pt お気に入り:1,124

リセット〜絶対寵愛者〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:35pt お気に入り:2,260

処理中です...