上 下
16 / 31
最後の一週間

夜空の下で肩を並べて

しおりを挟む
30分後、アレクサンダープラッツ駅に到着する。
外に出て大通りを歩いていると、交差点の向こう側に濃いピンク色の大きなビルが見えて来た。こちらから見えるビルの側面には窓が一切無くて、上層階の壁に大きくALEXAとビル名が設置されていた。交通量の多い大通りを渡って、モールの前に来る。
かなりの客で賑わっているらしく、メインエントランスの人の出入りも激しい。中に入ると、カラフルなモザイク模様のフロアに、明るい照明で照らされた広々としたホールが真っ直ぐに伸びていた。
見た所、どこもピカピカで、かなり新しいショッピングモールのようだ。
ビルのど真ん中を走るホールから上を見上げると、2階、3階のほうまでよく見渡せる。ファッション関係の店から本屋、小物屋に電気製品店からスーパーマーケットまで、なんでも揃っているらしい。
館内案内図をちらりと見たヴィクターが聞く。
「お土産以外で、なんか買いたいものでもあるの」
私は少し考えてから首を振った。
「ううん、お土産くらいかな。でも、観光土産とかじゃなくて、ソープとか、小物とか、日用品みたいなの。ここにあるかな?とりあえず上に行っていい?」
歩き出すと、いつもの癖で、エスカレーターで最上階に上がり、上から順番に各フロアを見て行く。やはり日本のショッピングモールとは違う雰囲気のお店も多くて、中に入らずともぐるりと回ってチェックしていくのは楽しい。
途中、RITUALS COSMETICSというコスメショップに入って、同僚達のためにローズのリップケア用品やサクラのボディスクラブなどを選ぶ。
「リオ」
どこからかヴィクターの声がして振り返ると、メンズセクションのところで彼が手招きをしていた。そう言えば、今までよく文句も言わずにずっと付いて来てくれていたんだと思い出して、急に申し訳ない気持ちになりつつ、そちらへ向かう。
「サムライコレクションだって」
「サムライ?」
目を向けたら、棚にずらりと並ぶメンズ用のスキンケア商品には、黒炭色に茶色がベースのパッケージに、赤い漢字で「武士」と書かれている。
商品名は「侍」で、パッケージは「武士」と印刷。
なぜに、サムライ、じゃなくて、ブシ?
どっちかに揃えたらよかったのに。
なんて心の中でツッコミを入れていると、パンフを手に取ったヴィクターがそれを読んだ。
「日本のサムライは毎朝のグルーミングが日課とか、ほんと?」
「……さぁ、現代にサムライは存在しないし、私もよく知らないけど、そう書いてあるから、そうなのかもね……?」
曖昧に答えるが、本当のところが分らないのだから仕方が無い。
「このショップ、サクラにサムライとか、どうして日本関係の商品が多いんだろう?」
「さぁ?俺も普段、こんなところに入らないから知らないな」
鮮やかなコバルトブルーのシャワージェルのチューブや、シャンプーを手に取り、ヴィクターがそれらを眺めていたが、やがてレジのほうへ歩き出した。
どうやら、サムライ・コレクションを買ってみる事に決めたらしい。
私はお土産用の商品を持って後に続き、レジに行ってカウンターに置くと、その前に置かれていたヴィクターのものを自分のほうへ引き寄せた。
「リオ、なにやってるんだ」
びっくりした様子でヴィクターが取り返そうとしたので、私はその手を押し返した。
「いいの。長々付き合ってもらったし、今までいろいろ助けてもらったから、これくらいさせて!」
そう言ってもうさっさとカードをレジのお兄さんに渡した。ヴィクターが困惑した様子で黙っていたけれど、私は全然気にしなかった。
支払を終えて別々の紙袋へ分けてもらうと、私はヴィクターの分を彼に差し出した。
「はい、ヴィクター。いろいろ、有り難う!」
ヴィクターは困ったように私を見ていたが、やがて小さく頷いてそれを受け取る。
「ありがとう、リオ」
何故だかぎこちなさそうにそう言って、苦笑いしている。目元が少し赤らんでいる気がするので、少し照れているのかもしれないなと思いながら、足は自然と出口へ向かう。
8時近くなってそろそろお店も閉まり始めるのか、モールを出る人達が増えていた。
表に、ホッドドック販売の人達が数人並んでいて、グリルで焼けるソーセージの匂いに急に空腹感を覚える。モールに居るとつい食べるのを忘れて長々と歩き回ってしまうのは、女性特有のことかもしれない。
「あれでも食べとく?ベルリンの、ソウルフード」
「ソウルフード?ホットドッグが?」
「カレーソーセージ」
「カレー?」
聞いた事もないその、ソウルフードとやらを覗く。
焼きたてのソーセージに、ケチャップ、カレー粉をかけたもので、お好みでパンに挟むらしい。ケチャップとカレーの組み合わせは絶対に合うだろう。
財布を出そうとしたら、ダメと言われたので、無駄な抵抗はせずにそのまま奢られることにする。
ヴィクターが私の分のカレーソーセージ・ホットドッグをくれたので、お礼を言って早速一口食べてみた。
熱々のソーセージに、ケチャップとカレー粉のハーモニーは、なかなか癖になりそうだ。日本の、たこ焼きみたいに、庶民の心を掴んで離さないソウルフード。
「美味しい!カレー粉をかけるだけで、こんなに味が変わるの?」
「ケチャップも、カレーソーセージ用がある」
「そうなの?じゃ、ケチャップも普通のじゃないんだ」
そこまで拘るのかと感心する。
駅の方を見たヴィクターが、立ち止まって私を見下ろした。
「リオ、テレビ塔のライトアップを見てから帰る?」
「あ、いいね!この間は、夕方だったし」
バッグにはカメラを入れっぱなしだ。ライトアップされたテレビ塔や、市庁舎の写真もついでに撮ろうと思いつく。
今歩いているアレクサンダー広場は、かなりの人でごった返していて、ストリートパフォーマンスの連中や、これから食事や飲み会に行こうとしているグループ、写真を撮るのに忙しい観光客に溢れていた。
「ここでちょっと待ってて。飲み物、買って来る」
後ろからヴィクターの声がしたので、オッケーと返事して、私はあたりの様子を伺う。
ふと、この間、拓海と待ち合わせた世界時計を思い出し、ほんの10mくらい離れたそちらのほうへ行ってみた。世界時計の前では、相変わらず多くの人が待ち合わせの相手を待っている様子で、私の脳裏に、あの待ち合わせの夜のことが蘇る。
まだ、結論を出していない自分。
この数日、拓海のことをろくに考えないまま、時間だけが過ぎていた。
こんないい加減な人間であってはならない。
どうして、私は結論を出せないのか、自問自答してみる。
きっと、心のどこかで、不安なのだろう。彼以上に、自分をあれほど強く求めてくれる人が現れなかったら、という、そんな不安。
そして、不毛な恋愛を繰り返し疲れてしまって、もう、さっさと結婚して落ち着きたいという、若干投げやりな気持ち。拓海のことは、嫌いじゃないし、好きかと聞かれた、きっとそうだと答えてしまうだろう。
一緒にいたいかと聞かれたら?
もしかしたらそうかも……?
でも、それがプロポーズによって生じた錯覚じゃないとも言い切れない。
そしてその気持ちが、結婚を決意させるものなのか、確固たる自信がないから、こうして足踏みしてしまうのだ。
勢いに乗ってしまえ、と蓮美ちゃんが言ったことがあるけれど、その肝心の勢いが、ない。
迷いもなく先へ突進するという奇跡の瞬間は、やはり、訪れる事はないのだろうか。
こうして、悩んで悩んで、自問自答しながら、無理矢理その答えを編み出すのが、私の人生ということなのか。
世界時計の下で待つ人々の前に、お待ちかねの恋人が現れると、皆、幸せそうに抱き合って、手と手を取り合い、その場を去って行く。なんの疑いもなく、笑顔で見つめ合うカップル達を見て、心なしか落ち込んでしまった。
下降気味の気持ちを振り切るように、世界時計から離れて、先ほど居た広場のあたりへ戻る。
そろそろヴィクターも戻って来ただろうと思って、広場の中央を見渡すが、その姿が見えない。ものの3、4分、世界時計のところに居ただけだから、まだ、飲み物を買いに行って戻って来ていないのだろうと思い、しばらくその場で動かず待っていたが、5分経っても、彼の姿は見えなかった。
どうやら、すれ違ってしまったらしい。
この人込みだし、ここで待っててと言われたのに、ほんの少しの間、違うところに居たから、その間にヴィクターが戻って来てしまったのだろう。
携帯電話があれば、すぐに連絡がついたのに。
軽卒な行動だった、と自己嫌悪に陥りつつ、歩き出して広場のあちこちを探してみる。人が多いこともあり、どう探しても彼の姿は見当たらず、私は大きく溜め息をついて立ち止まった。
このまま、一人で帰ってしまうことも出来るから、迷子とかいう大きな問題ではないけれど、もし、ヴィクターもまだここで私を探しているとしたら、その彼を放っておいて、自分だけさっさと帰るわけにはいかない。
彼の性格を考えたら、私を放置してそのまま帰るということは、まず、ないだろう。
どうしよう、と夜空を見上げ、視界に、ライトアップされているテレビ塔が入る。
そういえば、あのテレビ塔を見に行こうと言っていた。
駅の反対側にあるテレビ塔。
このアレクサンダー広場からは少し離れてしまうけれど、テレビ塔を見に行こうと話をしていたことを考えれば、あちらのほうへ行っている可能性もある。
そう考えて、私は広場を離れた。
混雑する駅の構内を通過して、テレビ塔や市庁舎のある広場へ出てみると、こちらは人は少ないものの、明かりが少なくてやや暗く、別の意味で人探しをするには都合の悪い環境のようだ。
テレビ塔の周りを一周して、その周りにいた人達を注意深く見たけれど、ヴィクターの姿はない。ここに居ないとしたら、後は、どこだろうかと再度考えて、前回来た時に写真撮影をした、ネプチューンの噴水を思い出し、そちらのほうへ行ってみる事にする。
噴水に向かって歩く。
薄暗い中にライトアップされた銅像が若干、不気味な雰囲気を醸し出していて、いかにも幽霊が出てきそうだ。噴水の水音も、しっかり効果音ぽく聞こえてしまう。
ほんの数人しかあたりに居ないので、立ち止まって見てみると、噴水の枠に寄りかかっている、後ろ姿のヴィクターを発見した。腕組みをして、ライトアップされてキラキラしているテレビ塔を見上げている。
ここに、居たんだ。
ほっとして、そちらへ行こうとして、私は立ち止まる。
せっかく、この不気味な噴水に来たのだ。
少しくらい、余興があってもいいんじゃないか。
我ながら子供っぽい発想だが、このチャンスを逃すまい。
私はそうっと噴水の水に手を差し込むと、ヴィクターの頭めがけて水をはじいた。
ぱしゃり、と小さな音がして水がかかったヴィクターが、驚いたように噴水の淵から立ち上がり振り向く瞬間、私はさっと銅像の背後に身を隠した。
こっそり見ていると、水のかかった髪に手をやりながら、訝しげに眉を潜め、こちらの様子を伺っているのが見える。
私は、ヴィクターがまた、あちらを向いたら、何食わぬ顔をして反対から出ようと思い、息をひそめてそのタイミングを待つ。しばらくこちらをじっと睨んでいたヴィクターが、また、背を向けてテレビ塔のほうを向いた。
水をかけたことは、言わないでおこう。
何か言ったら、亡霊じゃないか、ととぼけてやろう。
そんな根性の悪いことを考えつつ、そうっと銅像の影から反対のほうへ出ようとした。
「バレバレだ!」
一歩、歩き出した途端、ぱっとヴィクターが振り返ってそう叫んだので、ドキンとして顔をあげると、こちらに背を向けていたはずの彼がもうこちらへ駈けてくるのが見え、慌てて走り出した。
「ごめんっ!」
謝罪の言葉を叫ぶと、一目散にテレビ塔のほうへ駆け出す。
「リオ!」
後ろから叫び声が追って来る。
人のまばらな広場では、追っ手を撒いて逃げ切ることは不可能だ。
しばらく走り回ったが、後ろを振り返って見たら、ヴィクターはずっと同じ間隔を保ちながら追って来ている。どうやら、ヴィクターは、わざとスピードを上げずに私を走らせ続け、いずれ疲れて走れなくなるのを待っているらしいと気がつき、私はついに諦めて立ち止まった。
久しぶりに思い切り走って、息が切れ、両膝に手をあてて前屈みになりつつ、呼吸を整える。
「逃げ切れるはず、ないって」
呼吸も乱れずに余裕の笑みを浮かべたヴィクターが目の前に立つ。
「そんなことないよ!私だって、こんなブーツなんか履いてなかったら、もっと早いのに」
私は自分の足下を見下ろして、負け惜しみを言う。
もともと、短距離選手なので、走るのは早いほうだ。でも、低めとはいえヒールのあるブーツを履いていたら、転ばない様に気をつけて駈けるわけだから、どうしてもスピードが落ちる。
「ほら、水」
目の前に差し出されたミネラルウォーターを受け取り、私は一気に半分を飲み干した。そして大きく深呼吸をすると、ライトアップされたテレビ塔を見上げた。キラキラと輝く美しい塔が、暗闇の中に浮かび上がり、都会の喧噪を忘れさせる静かな夜景の一部になっている。
「12月になると、ここに大きなクリスマスツリーや観覧車が設置されたりするんだ」
「この広場に?」
それは、さぞかし美しいことだろう。
もう一度、テレビ塔を見上げて、その夜景を想像してみる。寒空に煌めく大きなクリスマスツリーと、ゆっくりと回転する観覧車のイルミネーション。脳裏に浮かぶその夜景に思わず溜め息が出た。
「雪も降ったら、もっともっと、奇麗なのかもね」
「そうだな」
ヴィクターも頷いて、テレビ塔を見上げた。
結局、下から見上げるだけで上層部まで上らなかったけれど、またいつか、来た時の楽しみということにしておこう。
私はバックからカメラを取り出し、数枚、暗闇にそびえ立つテレビ塔の写真撮った。
「……また、いつか来れたら」
独り言のように呟くと、隣にいたヴィクターが私を見下ろし、ゆっくり目を細めて微笑んだ。
きっともう、残りの滞在期間中にここに来る事はないだろう。
これで当分見納めだと思い、しばらくじっとテレビ塔を見つめていた。
やがて、もういいかと思って隣のヴィクターを見たら、同時に彼もこちらを見る。
「……そろそろ」
私の言葉の続きを、ヴィクターが可笑しそうに笑いながら口にした。
「帰るか」
タイミングのよさにウケて、二人で吹き出した。
テレビ塔を最後にもう一度見上げた後、駅に向かって歩き出す。
電車に乗ると、車内は外よりも暖かく、また、欠伸が出て来る。隣に立つヴィクターも、案の定また大欠伸をしていた。
カスタマーサービスの不規則なバイトだけでなく、イヴァンの仕事を手伝っていたということなら、想像以上に睡眠時間は少ないのかもしれないなと思い、ふと、最初に見た、彼の姿を思い出す。
カマキリ色のTシャツを来て、踊り場で爆睡していたヴィクター。
ずっと前に、道路で動けなくてもがいていたカマキリを思い出し、その虫の姿とヴィクターが重なってつい、頬が緩む。
「なに」
「えっ」
にやついていたのを見られていたのかとびっくりしたが、ふと、あのカマキリ色のシャツのことを聞いてみようかと思いつく。
「ね、あの、すごいグリーンのシャツ、どこで買ったの?」
「グリーン?」
ヴィクターは一瞬、なんのことか分らない様子だったが、やがて思い出したように苦笑いした。
「あぁ、あれはさ、その日、退職するやつが、皆に配ったシャツだったんだ。そいつの誕生日が、3月17日の聖パトリックの祝日だから、グリーンにしたらしい」
「そうなんだ!じゃ、皆、グリーンのシャツをもらったんだね」
「オフィス中があのグリーン一色に染まってさ、ランチに行く時も俺達全員がグリーンだから、周りから白い目で見られてた」
私は、カマキリ色の集団が通りを歩く様子を想像して笑い出した。
かなり、異様な感じだ。
何かのデモンストレーションみたいに見られたのかもしれない。
「色がネオンカラーみたいだったしね。私も、踊り場で寝ている貴方を見た時は、あのシャツの色にすごく驚いた。結構、衝撃的で忘れられないかも」
「確かにすごい色だったよな。インパクトが強すぎるグリーン」
「でも、絶対にその退職した人のことは忘れないね」
「言えてる」
ヴィクターも可笑しそうに微笑んで頷いた。
最寄り駅についたのは、夜の9時すぎ。
少し肌寒い夜風が吹き始めたので、私はバッグの中からストールを取り出して肩に羽織る。
毎日、歩いたこの道を通るのは、あと、何回だろう。
そんなことを考えながら、ゆっくりと歩く。時折、風に吹かれて空から枯葉がちらちらと舞い落ちる。大きな手のひらの形をした、オレンジ色に染まった紅葉が、街灯に照らされながら、くるくると回転し落ちては、次々に道を覆っていく。
これから秋が駆け足で過ぎ去って、冬の本番に突入するのだろう。そして、街はクリスマスのイルミネーションでメルヘンチックに飾り付けられ、キリストが誕生した聖夜を迎える準備に入る。
東京のように、楽しいお祭り騒ぎで街が盛り上がるクリスマスとは、また全く違った、厳かなものに違いない。
いつものように、柵を開けてくれたヴィクターにお礼を行って、アパートの敷地内に入る。階段を上って、ヴィクターの階を通り過ぎる時に、振り返ってお礼を述べた。
「いろいろ、ありがとう。じゃ、おやすみ」
「こっちこそ。おやすみ、リオ」
ヴィクターが笑顔で片手をあげてから、鍵を取り出す。私もバッグの中から鍵を取り出しながら階段を上る。
4階へ続く階段の折り返しフロアに来て、最後の数段へ足を向けた時、ふと、立ち止まり、一歩下がって下を見た。
もう、アパートに入っただろうと思っていたヴィクターが、ドアを片手で開けたまま、こちらを見ているのに気がつき、ドキリとする。
カチリ、と音が聞こえたほど真っ直ぐに視線が重なり、私は、ハッとして息を飲む。
彼もまた同じく、不意打ちされたかのように、目を見開いている。
てっきり、もう姿はないと思っていたのに!
何も言わずに慌て目を逸らし、階段を上がる。
自分のアパートの鍵を開け、急いで中に入ってドアを閉めると、続けて、バタン、と階下のドアが閉まる音が聞こえた。
しおりを挟む

処理中です...