26 / 29
相談室の心音さん
しおりを挟む
『相談室の心音さんですもんね』
芳川さんはあたしが手渡した名刺を見つめて言った。
その呼び名は企画でも有名らしい。
『やっぱりみんなが残業して忙しいのに、あたしだけ帰れませんよ。そこは理屈じゃないです』
『まあ……それもそうよねえ』
17時になれば帰ってしまえばいい……という考えで仕事をしているのはこの会社でもあたしぐらいなものだろう。てゆうか……必要な仕事があれば残業もやむを得ないが、周りが残業していて会社が忙しいから雰囲気で残業してしまうのはあたしはキライだし、会社にも不利益だろう。
『でも、この場合は芳川さんの仕事が終わってたら帰っていいんじゃないかな?』
『それはそうだと思いますけど……ほかの人の仕事を手伝ってあげたりした方がいいのかな……とか考えちゃうんです。やっぱりなんだかそういう雰囲気じゃないというのもありますけど』
『そっか……』
あたしは黙り込んでしまった。
『残業』とか『仕事』という言葉は急にあたしの感情を制御してくれて、さっきまでのもやもやとした変な気持ちはどこかに消えて行くのがゆっくりと感じられた。
頭の中の霧が晴れていくような感覚……。
これは仕事。
そういう思いがあたしを冷静な感覚に引き戻していくのが分かる。
それはもしかしたら強がりなのかもしれないけど……。
なんとなくすっきりしてきた気持ちの中であたしは問題を整理して考えることができた。
仕事が終われば帰宅……これは当たり前のようで当たり前ではない。
特に芳川さんみたいに若い子になると、残業もせずに早く帰ろうとすると、それ自体では怒られることはないが、何か嫌味を言われたりすることにもおびえなければならないのだ。
『どうすればいいかな?』
あたしは逆に聞いてみた。
相談の大半は自分のしたい方向性が定まっていることが多い。
今回の相談に関してもざっくり言えば、早く帰りたいか否か、ということである。
『どうすれば……? う――ん……』
芳川さんはあからさまに『それが分からないからここに来たのに』という顔をしている。
分からないということは絶対にない。『こうしたい』という希望は間違いなくあるはずだ。
結論は出ているはずなのだ。
ただ……
本人がそれを実行する勇気があるかどうかだ。
『早く帰らなきゃならないんだよね?』
『はい』
『なんのために??』
『え……』
なんのために? と聞かれた芳川さんは少し驚いた顔でこちらを見た。
恐らく、なんで同じこと言わせるんだ、と思ったのだろう。
『早く帰りたいのはなんのため? 遊びに行きたいからなの?』
大事な質問なので追い打ちをかけるように聞いた。
あえて間違いの答えまで添えて。
『違います。さっきも言ったように子供のためです』
『心ちゃん、待ってるもんね』
『はい……』
『仕事と心ちゃん……どちらが大切??』
本来この問いかけはしてはいけない問いかけでもある。
仕事も大事だし、子供も大事。この両者は天秤にはかけることはできない。
余談になるが、女性はよく男性に『あたしと○○とどちらが大事なの?!』と問い詰めてしまう。
かく言うあたし自身も旦那にそう言ってしまったことがあるから分かるのだが、そんな答えのでないことを聞くものではないのだ。
女性はとにかく、男性から自分が一番大事にされていると思いたいものなのだが、男性にとっては仕事だって大事なのだ。
それに仕事しなければ生きていけない。
言われた方からすると、自分が必死になってがんばっているのに、そんな比較をされると、普段のがんばりを否定されたように感じてしまう。
これは○○の中が仕事ではなく趣味の場合でも同じ。
普段はこんなにがんばっているのに、どうしてこのぐらいの趣味でくどくど言われなきゃならないんだと感じるわけだ。
大事なものとそれと同じぐらい大事なものを比較してどちらが大事? という問いかけに結論などない。
どちらも大事なのだ。
だから……あたしがしたこの問いかけは本来はしてはいけないものなのである。
しかしこの二つの内、どちらかを選ばなければならないとしたら?
そして明らかにどちらを選ぶか……結論が出ていたなら?
そういう場合、話は変わってくる。
母親にとって、子供と仕事なら間違いなく子供の方が大事だ。
芳川さんの本音は『子供のために早く帰ってあげたい』のだ。そうでなければこんなに悩むことも、わざわざ休暇までとって会社の相談室に来ることもしないだろう。
結論から言えば子供のために早く帰ってあげたいと思っているのなら、なにも考えずに残業などせず堂々と帰宅すればいいのだ。
悩むことはない。
それに、言っちゃ悪いが、仕事と言ってもやってもやらなくてもいいような付き合い残業である。
自分の仕事はちゃんと終わっているのだ。
そんなもんどう考えても子供の方が大事に決まってる。
仕事と子供。
今、芳川さんはどちらかを選ばなければいけない。
それでどちらを選ぶか……
結論ははっきりしている。
でもその結論に従って行動する勇気がでない。
それはいろんなしがらみがあるから。
だからこそあたしは本来やってはいけない比較をあえてやったのだ。
彼女の背中を押すために……。
芳川さんはあたしが手渡した名刺を見つめて言った。
その呼び名は企画でも有名らしい。
『やっぱりみんなが残業して忙しいのに、あたしだけ帰れませんよ。そこは理屈じゃないです』
『まあ……それもそうよねえ』
17時になれば帰ってしまえばいい……という考えで仕事をしているのはこの会社でもあたしぐらいなものだろう。てゆうか……必要な仕事があれば残業もやむを得ないが、周りが残業していて会社が忙しいから雰囲気で残業してしまうのはあたしはキライだし、会社にも不利益だろう。
『でも、この場合は芳川さんの仕事が終わってたら帰っていいんじゃないかな?』
『それはそうだと思いますけど……ほかの人の仕事を手伝ってあげたりした方がいいのかな……とか考えちゃうんです。やっぱりなんだかそういう雰囲気じゃないというのもありますけど』
『そっか……』
あたしは黙り込んでしまった。
『残業』とか『仕事』という言葉は急にあたしの感情を制御してくれて、さっきまでのもやもやとした変な気持ちはどこかに消えて行くのがゆっくりと感じられた。
頭の中の霧が晴れていくような感覚……。
これは仕事。
そういう思いがあたしを冷静な感覚に引き戻していくのが分かる。
それはもしかしたら強がりなのかもしれないけど……。
なんとなくすっきりしてきた気持ちの中であたしは問題を整理して考えることができた。
仕事が終われば帰宅……これは当たり前のようで当たり前ではない。
特に芳川さんみたいに若い子になると、残業もせずに早く帰ろうとすると、それ自体では怒られることはないが、何か嫌味を言われたりすることにもおびえなければならないのだ。
『どうすればいいかな?』
あたしは逆に聞いてみた。
相談の大半は自分のしたい方向性が定まっていることが多い。
今回の相談に関してもざっくり言えば、早く帰りたいか否か、ということである。
『どうすれば……? う――ん……』
芳川さんはあからさまに『それが分からないからここに来たのに』という顔をしている。
分からないということは絶対にない。『こうしたい』という希望は間違いなくあるはずだ。
結論は出ているはずなのだ。
ただ……
本人がそれを実行する勇気があるかどうかだ。
『早く帰らなきゃならないんだよね?』
『はい』
『なんのために??』
『え……』
なんのために? と聞かれた芳川さんは少し驚いた顔でこちらを見た。
恐らく、なんで同じこと言わせるんだ、と思ったのだろう。
『早く帰りたいのはなんのため? 遊びに行きたいからなの?』
大事な質問なので追い打ちをかけるように聞いた。
あえて間違いの答えまで添えて。
『違います。さっきも言ったように子供のためです』
『心ちゃん、待ってるもんね』
『はい……』
『仕事と心ちゃん……どちらが大切??』
本来この問いかけはしてはいけない問いかけでもある。
仕事も大事だし、子供も大事。この両者は天秤にはかけることはできない。
余談になるが、女性はよく男性に『あたしと○○とどちらが大事なの?!』と問い詰めてしまう。
かく言うあたし自身も旦那にそう言ってしまったことがあるから分かるのだが、そんな答えのでないことを聞くものではないのだ。
女性はとにかく、男性から自分が一番大事にされていると思いたいものなのだが、男性にとっては仕事だって大事なのだ。
それに仕事しなければ生きていけない。
言われた方からすると、自分が必死になってがんばっているのに、そんな比較をされると、普段のがんばりを否定されたように感じてしまう。
これは○○の中が仕事ではなく趣味の場合でも同じ。
普段はこんなにがんばっているのに、どうしてこのぐらいの趣味でくどくど言われなきゃならないんだと感じるわけだ。
大事なものとそれと同じぐらい大事なものを比較してどちらが大事? という問いかけに結論などない。
どちらも大事なのだ。
だから……あたしがしたこの問いかけは本来はしてはいけないものなのである。
しかしこの二つの内、どちらかを選ばなければならないとしたら?
そして明らかにどちらを選ぶか……結論が出ていたなら?
そういう場合、話は変わってくる。
母親にとって、子供と仕事なら間違いなく子供の方が大事だ。
芳川さんの本音は『子供のために早く帰ってあげたい』のだ。そうでなければこんなに悩むことも、わざわざ休暇までとって会社の相談室に来ることもしないだろう。
結論から言えば子供のために早く帰ってあげたいと思っているのなら、なにも考えずに残業などせず堂々と帰宅すればいいのだ。
悩むことはない。
それに、言っちゃ悪いが、仕事と言ってもやってもやらなくてもいいような付き合い残業である。
自分の仕事はちゃんと終わっているのだ。
そんなもんどう考えても子供の方が大事に決まってる。
仕事と子供。
今、芳川さんはどちらかを選ばなければいけない。
それでどちらを選ぶか……
結論ははっきりしている。
でもその結論に従って行動する勇気がでない。
それはいろんなしがらみがあるから。
だからこそあたしは本来やってはいけない比較をあえてやったのだ。
彼女の背中を押すために……。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる