日陰者の暮らし

阪上克利

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辺見康彦の場合

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幸せとはなんだろう…。
そんなことをたまに考えてみるが結論が出ないので頭の中から考えを打ち消すようにしている。

それにしてもボクの人生は今まで周りの人間から余計な口出しをされていてばかりだった。
周りの人間が余計なことを言ってくる…。
ほっといてくれないかな。
ボクに任せてくれればなんでもうまく行くのだ。
万事うまくやる自信はある。

それなのに周りが余計なことを言うからうまくいかなくなる。
いつもそうだ。
会社にいたときもそうだった。

いちいち口を出してくる上司。
『君のことを思って言うんだけどさ…。』
口癖のように言ってくるそのセリフ。
本当にボクのことを思っているわけがないことぐらい分かっている。
本当に黙っていてくれないかな。

そして何かと言うことを聞かない後輩。
『そのやり方だと効率が悪いっす。』
敬語が使えないのか…と言いたい。

とにかく…
ボクのことはほっといてほしい。
ボクは周りから何かごちゃごちゃ言われると力が発揮できないのだ。

同僚はボクのことを『できない奴』というレッテルを張って見ていた。
こいつらもうるさかった。
『早くしてください。』
とか…
『修正が必要です。』
とか…
人の足を引っ張ることしか考えていない。

そういうやつらがいなければボクの仕事は完璧だったのだ。
分かってないのは周りであってボクではない。この世の中がボクを理解していないんだ。ボクの方で奴らに合わせていくつもりなんかない。

ボクは仕事を辞めて、自宅で『仕事』をするようになった。
今はパソコンでなんでもできるから便利だ。ボクはデザイナーとして、ネットを利用した仕事をすることにした。まずは依頼を得るためにも自分の作品をいろんなところに投稿している。

今のところは依頼は0だ。
ただ…世間にボクの良さはなかなか分かってもらえないのはもう分かっている。
良い作品はいつか必ず認められる。
それには時間がかかるのだ。
つまり…長い目で将来を見据える必要があるんだ。

親父が死んで、おふくろが腰痛で寝たきりになってから、ボクはこの『仕事』を選んでよかったと心から思っている。
ボクが『会社』という世間の檻にとらわれていたなら、両親の世話はできなかっただろう。
世の中の奴らはこの『会社』という檻のために自分の両親をないがしろにしているがボクは違うのだ。
『仕事』も『家庭』も両立してこそ、一人前の男だろう。

『お部屋の中が少し汚れていますね…。』

ケアマネージャーの佐藤絵里子という女は言った。
部屋が汚れているなど…余計なお世話だ。
別に埃で人が死ぬわけではない。
ほっといてくれ。

『まあ…ちょっと汚れてますけどね。ヘルパーさんとかで掃除してもらえませんかね?』
『それは無理ですね。介護保険のルールとしてヘルパーさんが同居のご家族さんがいる場合は生活援助…いわゆる家事全般を行うことは基本的に想定されてないですから。』
『はあ…。』

この女・・・どうも苦手だ。
物事をずけずけと無神経に言う割に、答えを言わない。
部屋が汚れていると言ったのはそっちじゃないか。
だったら解決策までちゃんと提案するのが筋だろう。
『まあ…掃除しなくても人は死にませんからね。』
ボクはなるべくにこやかに笑顔を作って言った。
この手の人間には下手したてに出るに尽きる。
『ただ…埃がたまりすぎるとお母さんの身体にはよくないと思いますよ。やはり健康には清潔保持が一番ですからね。』
下手に出ると調子に乗る。
最悪である。
『はあ…。』
なんとも反応のしがたい会話である。
まさか自分で提案しておいて投げっぱなしということはないだろうな。
『毎日、軽く掃除機掛けだけでもすればいいかもしれませんね。』
佐藤絵里子は笑顔でそう言った。

年の頃で30半ばぐらいか・・・。
確か同姓同名のサトエリという愛称のモデルがいたはずだが・・・。
同じサトエリでもえらい違いだ。こっちのサトエリはジャージ姿だし、モデルとは程遠い体型だ。
左手には指輪がないからどうせ独身なんだろう。
ふん。
お前の笑顔など見たくもない。

『はあ…。部屋は…とくに毎日やらないといけないほどは汚れてないと思いますが…。』
『失礼ですがベッド周りには埃がたまってますし、台所の流しも洗い物がたまっておられるようですから…。』

だから余計なお世話だと言っている。
台所の洗い物はこれからやろうと思っていたのだ。

『はあ…。』

もうボクはこんな反応しかできない。
それにしても美人でもないくせに余計なことを言うやつだ。
大体からして、ボクのような芸術家はそういうことに無頓着であるべきなんだ。
そういうこだわりはこんな無神経な女には理解できないだろう。

『お身体の調子が思わしくないということですが、家事をして少し身体を動かすのもいいと思いますよ。』

うるさいな。
ほっといてくれ。
確かにボクは身体の調子がよくない。
医者に行っても原因不明だ。
身体がだるく、やる気がでないことが多い。
それにしても、こいつに言われるまでもなくボクは掃除ぐらいはできる。

『はあ…。』
『不衛生にしてますと、ほかの病気にもなりかねませんからね。』
『はあ。不衛生ですか・・・。』
『はっきり申し上げますけど・・・この部屋・・・衛生的ですか?』

本当に無神経だ。
人の家に入り込んで『不衛生』とはなんだ。
そこまで言われるほど我が家は汚くはない。
こういう無遠慮なずけずけものを言う女は大嫌いだ。
大体、この女は背も低くて少し小太りなくせして、このボクの女房にもなったつもりなのだろうか。
ボクは気を使って自分を抑えて物を言っているんだ。もう少し口のきき方に気を付けてほしいものだ。

ただ、こいつの調子に合わせてやるのもばかばかしい。
ボクはこいつよりも高尚な人間だから自分のやり方は曲げないのだ。

『はあ…。』
『こまめに掃除した方がいいと思いますよ。』

どうしてこんなに押し売り的に話をされなければいけないのかが不満である。
大体、お金を払うこちら側がなぜいちいち指図を受けなければならないのだ。

ケアマネジャーという奴らはみんなこうなのだろうか。
人の生活に土足で踏み入って、あれやこれやと聞いてくる。
そんな横暴許されていいのだろうか。

『あの~。』
『はい。』
『今日、いろいろ聞かれたから仕方なくお話しましたけど、うちの母の介護と何か関係があるんですか?』
『すみません。説明が足りなかったですね。一見、介護とは関係のないようなことをお聞きしているようですが、それは今までのお母さんの生活スタイルを変えないように援助していくために必要なことなんですよ。』
『1か月の収入とか・・・介護となんの関係があるんですか?』

そうだ。
収入とか本人の生活歴なんか、介護とはまったく関係ないじゃないか。
それなのにこの女、いろいろ聞き出しやがって・・・バカじゃないのか?

『収入をお聞きしたのは介護サービスがどれぐらい入れることができるか、ということの指標になるからなんですよ。』
『はあ・・・。じゃあ母の生活歴は?』
『今までの生活歴を聞くことによってその方の生活習慣や価値観がある程度見えてきますから、その方にあわせた介護ができるんです。』
『生活習慣?価値観?』
『たとえば・・・康彦さんは朝食は何を食べてますか?』
『はあ・・・朝食ですか?ボクはパンとコーヒーですね。』
『朝食に、がっつり和食がでてきたらどうします?』
『はあ・・・。そりゃ・・・一日ぐらいならガマンしますけど・・・毎日だとちょっとね・・・。』
『あらかじめ料理を作る人が康彦さんが朝はパンを食べることを知っていればそういう失敗はしないじゃないですか。つまり生活歴をお聞かせいただいているのはそういうことなんですよ。』

詭弁だ。
さっき家事はできないと言っていたではないか。

この女…だから独身なんだ。
こういうちょっとした気遣いができない。
いちいち介護サービス受けるのになんでそんなこと聞かなきゃならないのだ。そんなことは言われなくても察するのが当たり前じゃないか。
そういうことの分からない女は主婦向きではない。
したがって結婚もできないのだ。
愚か者め。

結局、ボクは仕方なくこの女に合わせて訪問介護サービスとやらと、通所介護サービスとやらを入れてやることにした。

両方とも我が家には必要のないものである。
母親の介護はこのボクが十分に行っているのだ。

部屋が汚い?

どこを見て言っている。
十分、キレイじゃないか。確かによく見れば床には埃があるところもあるだろう。
だが、他人であるお前に言われたくない。

母親を外出させる?

本人は嫌だと言っているじゃないか?
なぜ嫌だと言っているものを外に出す必要がある?
まったく理解に苦しむ。
我が家の家計をそんな無駄なものに使うのはどうか…とも思ったが、まあ…いつの日かボクの仕事が世間に認められる日がくればそんな出費もたいしたことはなくなるだろう。

ボクは大人だ。
ここはボクが自分の意見を曲げようではないか。
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