浮気の末に国外逃亡!

白霧雪。

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第一幕 一節

夢に浮く橋の上2/2

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「そこまでわかっているのだなあ。頭のいい子だなあ」

 よしよし、と頭を撫でられる。

「なぁ、名前を教えておくれよ。俺は自分のモノは大事にするぞ?」

 頭を撫でていた手が耳を掠め、額をなぞり、目蓋をなぞり――グッと目の下に添えられた親指に力が込められた。

「ッ……! いやっ」
「あぁ、すまない。なに、驚かすつもりはなかったのだ。少し、嫉妬をな。いやはや、嫉妬に駆られた男は醜い」

 カラカラカラと、夢浮橋は笑う。
 その蒼い瞳を抉ってしまえば、俺だけになるだろう? 当たり前のように囁かれた言葉に肩が震えた。神様相手に、恐怖を抱いてしまったほうが負けなのだ。信仰や畏怖は神様を成り立たせる要素のひとつである。
 神様は傲慢で、我が儘で、理不尽だ。気に入ったと、夢浮橋は言う。自分のどこを気に入ったのかなんて、わからないと言うつもりはない。無自覚でいられなかった。並みの人よりも、その筋の人よりも霊力量が多く、霊力を抑える術具を付けていなければ神隠しされてしまうだろうと言ったくらいに、依弦は神やアヤカシから見たらとてつもない御馳走なのだ。それに加えて、綺麗な容姿に、純白の魂。人為らざるモノは美しいモノを好む。容姿に、魂に、膨大な霊力。好かれないはずがないのだ。
 頬に添えられた手が滑り、胸を、心臓の上をとん、と人差し指で突いた。ぞわり、と全身の毛が逆立つような感覚に思わず夢浮橋を凝視する。何を、したんだ。

「なぁに、そう怯えるな。ただ、ちょいと守護を書き足しただけのこと。『此処』ではそなたは恰好の餌食だ。喰べられたくなど、ないだろう? 一番は名を教えてくれるのがいいんだがなあ、蒼月は教えてくれなんだ」
「教えたら、私は夢浮橋様の眷属となるのでしょう」

 油断をすると、自分の意識とは別にするっと名前を名乗ってしまいそうになる。こんなときだけ、巫女としての自分の性質が憎い。神様は崇め讃え、奉り、逆らってはいけない存在であるとこの心身に深く教え込まれているのだ。
 淡い紫から視線を逸らさず、眦をキツくつり上げて睨みつける。

「ふふ、愛いなぁ」
「ッ、なにを、」

 聞きたいことは山ほどある。ここがどこなのかも、何も聞いていない。せめて外の様子を見ることができる窓でもあれば状況把握の役に立っただろうに、小さな和室は四方が襖に囲まれていた。右手に桜と鶯、左手に椿と鶴、足元に百日紅さるすべり時鳥ほととぎす、頭上に彼岸花とかささぎ。なんとも派手な襖である。
 首筋をするりと撫でられて、懐かない猫のように依弦は警戒心を露わにする。意識をしていないと、神々特有の気にあてられて従順になってしまいそうだった。

「なんとも、愛い、甘美で、そそられる」

 衣擦れの音。頭の両脇に手をついた夢浮橋は、誘われるがままに依弦の目蓋に唇を落とす。ひんやりと冷たい。ちゅ、ちゅ、と頬、鼻先、唇、耳の裏、とだんだんと下がっていく、首筋に吐息がかかった瞬間、ぶつり、と皮膚を突き破る感触に悲鳴が溢れた。頭の天辺から足の爪先まで、全身を駆けぬける激痛に声にならない悲鳴を上げる。じゅるり、と耳のすぐそばで啜る音に鳥肌が立った。
 血を、啜られている。ぐんと体温が下がっていく。指先が震え、全身を倦怠感に包まれた。

「いくらよその神の守護が在ろうと、体を暴いてしまえば関係ないさ」

 息を飲んだ。蒼い目を見開いて、夢浮橋を凝視する。サァっと、顔が青を通り越して白くなる。あからさまに恐怖を面に出した依弦に、夢浮橋は口角を上げて笑う。どこまでも美しく、綺麗な微笑だった。
 首元を緩められ、今さら自分は浴衣を着ていることに気づく。

「そこまでだよ、夢浮さん」

 落ち着いた、低い声に夢浮橋はぴたりと静止した。ほとんどくっついているんじゃないかと、目と鼻の先にある美しいかんばせにドクドクと心臓が早鐘を打つ。

「ほら、さっさと主様ぬしさまの上から退いてくれるかい、不届き物の夢浮さん」
「あなや、不届き物とは酷い。俺は蒼月と親睦を深めようとだな」
「はいはい、そういうのいいから。奥殿で橋姫が夢浮さんのことを探していたよ」
「……なんと、みんなして俺と蒼月の逢瀬を邪魔するとは」
「誰も邪魔してないし、夢浮さんのは抜け駆けでしょ。主様と逢瀬したいのはみんな一緒なんだから」

 コントでも見ているようだった。気心の知れた仲なのか、ぽんぽんと言葉を交わす夢浮橋と、彼岸花と鵲の描かれた襖を開けて中を覗いている金目の色男。彼も、神様だろう。穏やかな神気を感じた。穏やかで、包み込むような温かさ、けれどどこか物足りない。

「こら、蒼月。主は俺だけを見ていればいいのだ」
「んっ」

 ちう、とリップ音を立てて口吸いをされる。反射的に目を瞑れば、ばしんっと何かを叩く音がして、夢浮橋が離れて行った。おそるおそる目を開ければ、膝をついて心配そうに顔を覗き込んでくる金色があった。甘い、とろけるような蜂蜜色の瞳。
 息を呑んで、一拍のち「あの、」と声をかければハッと慌てて遠ざかる。

「ご、ごめんね! 綺麗な蒼だったから、つい」
「……おい、俺のだぞ」

 拗ねたように言う夢浮橋だが、自分は誰の物でもない。しいて言うなら、夫の物ではあったが離婚するので今は関係ないだろう。そういえば、蜂蜜色の彼はどことなく夫と似ている気がする。甘い顔立ちに、目じりを下げた笑い方――愛していたのに。

「大丈夫かい?」
「、え」
「心ここに在らず、と言った感じだったけど。夢浮さんに嫌なことされた?」

 背中に腕を添えられて体を起こされる。やはり全身を包む倦怠感に力が入りにくい。まったく、と溜め息を吐いた彼はキツい眼差しで夢浮橋を見やる。

「なにしてくれちゃってるんですか。半分以上夢浮さんの気に浸蝕されてるし、これじゃあ暫くは立って歩くことも、自分で食事だってできないじゃないですか」

 えっ、と夢浮橋を見れば、「それがどうした」とでもいうかのように首を傾げて笑みを湛えている。
 もしかしてこの倦怠感って、神気を体内に注がれたから……? 自分の状態を自覚して、息ができなくなった。普通の人間に神気を注げば、その注がれた人間は神の気に耐えられず発狂、狂い死ぬか、良くて神気が体に馴染んだとしてもそれは人間の枠からはみ出した人外だ。

「あぁ、大丈夫だから、ね? そんな死にそうな顔しないでよ。主様であれば、数日もしたら神気も抜けていくよ。まだ、大丈夫だから、泣かないで」
「……泣いてなんか、いません」
「あはは、そっか。うん、泣かれちゃったら僕にはどうすることもできないから、よかったよ。さて、じゃあ広間へ行こうか。みんなが待っているからね」
「広間か。それなら俺が蒼月を運ぼう。どれ、」

 だぁめ、ととても甘い声音で抱き寄せられる。温かい、安心するような、甘い香りがした。

「今の今まで夢浮さんが独占していたでしょ。今度は僕の番さ。それに、奥殿で橋姫が待ってるって言ったじゃないですか」
「……ぐ、ぬぬ。……はぁ、致し方ない。こやつに何かされたら大きな声で叫ぶんだぞ」

 夢浮さんじゃあるまいし、という呟きはすでに和室を出て行った彼の神様には聞こえなかったようだ。ふたりきりになって、なんとなく気まずさが先を行く。未だ抱き寄せられたまま、胸に体を預けているために、彼の心臓の音がとくんとくんと聞こえた。一定の速度で、ゆっくりと紡がれる鼓動に眠気が誘われる。

「眠い?」
「……すこし、だけ」
「そっか。寝かせてあげれたらいいんだけど、ごめんね。他の子たちが主様主様ってうるさいんだ」

 甘い香りを嗅ぐように頭を摺り寄せれば苦笑が降ってきた。寝ちゃだめだよ主様、と甘い声音で囁かれる。
 主様、とは自分のことなのだろうか。疑問は尽きない。聞きたいことだらけだ。夢浮橋は結局、疑問にも何も答えてくれずに好き勝手していなくなった。あんな、深い口づけ、初めてだった――思い出して、頬が赤くなる。抱きしめているこの人になんとなく見られたくなくて、彼の濃紺の着物に顔を寄せた。
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