浮気の末に国外逃亡!

白霧雪。

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第二幕 月の章

蒼い主様2/2

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 目が覚めてからというもの、目まぐるしいほどに忙しかった。

「あるけますっ」と何度も抗議する蒼の声を笑顔で受け流し、腕の上に座らせるように抱き上げられてしまった。下の階へと進めば、出会う神様皆が皆、大げさなまでに喜び歓喜に表情を溢れさせ、桐壺なんて腕に抱えていた書簡を放り投げ、紅葉賀に至っては包丁が天井に突き刺さった。手を振り上げた勢いのまますっぽ抜けてしまったのだ。
 あまりの喜びように、もしかしたら自分は病か何かで臥せっていたのかもしれないと思いつつもあた。中らずと雖も遠からず、である。
 数日間は宴会騒ぎが続いていたが、料理もだいぶ普通(宴会料理に比べたら)の物に落ち着いて、神様たちも平静を取り戻しつつあった。――しかし、問題がひとつ残った。

 若干の舌の痺れによる舌足らずな口調と、うまく動かない足。原因も何も分からないハンデを背負うことになってしまった。
 しばらくすれば歩けるようになるだろうと、誰もが思った。塔内で医療関係を受け持つ神様にも診てもらった。苦い表情で「回復は見込めない」と言われた。じぃっと、動かない足を見つめ、軽くぱしんと膝の辺りを叩いた。軽い音が鳴るだけで、叩かれた感触も、動く様子もなかった。
「……あるけない、のですか?」
 きょとん、と理解しているのかいないのか、あどけない声で再度問いかける蒼の頭を撫でたのは大きくて暖かい夢浮橋の手のひらだ。
 目覚めてからというもの、蒼の移動は夢浮橋に抱きかかえられてだった。だから気づくのが遅れてしまったとも言える。

「すまない」小さな囁き声が忘れられなかった。
 意図的に、足を奪われたのだろうか。真相は未だ聞けずにいる。
 主様の執務室で、膝の上に乗せられて文机に向かっている蒼の手は筆を握っている。文字書きの練習だ。少しずつ、少しずつ、できることが増えている。けれどできることをさせてくれない。寝食に湯浴み、ひとりでできると訴えているに「危ないから」と抱き上げられてしまう。しまいには、夢浮橋に抱きかかえられていないとなんだか不安にさえ思ってしまうようになった。

「うむうむ、蒼は覚えが早いな」
 だってもともとは成人済み女性だったんだもの、あたりまえじゃないか、とは口には出さない。む、と引き結んだ唇を指先でつままれる。
「ん、んむ、うえういさあ、やえれくらひゃい」
 ぽたり、と意味のない黒いシミが白い紙にできる。唇を抓んでいた指先は頬に移動して柔らかい耳朶をぷにぷにと弄っている。くすぐったくて身をよじれば、ぽたり、とまた墨が垂れた。
「こら、暴れるでない。せっかくの召し物が墨で汚れてしまうぞ」
「ゆ、ゆめうきさまがジャマをしなければいいだけですっ」
 ぷくっと膨らませた頬を突かれればぷすっと空気が抜けた。

 平穏で、平和で、満たされた毎日なのだろう。優しい神様に、温かい寝床、美味しい料理。忙しなく後ろを、時間を追われることも、闇夜を不安に思わなくてもいい。幸せ、なのだろうか。よくわからなかった。
 囲われていると、囚われていると思う。以前はかえりたい、かえりたいと考えていたのに、今はよくわからなかった。自分のことなのに、わからないんだ。不安でしかたないはずなのに、夢浮橋に抱きしめられるとふわふわ夢心地でなにもかもどうでもよくなる。
 このままじゃいけないのに。かえらないと、名前もわからない月の神様の元へ、かえらないと。

「……そろそろ湯浴みをしようか」
「ぁ、え、あの、わたし、ひとりで」
「何を言っておる。その足で水場など危ない以外にないだろう。湯殿の準備も終わっているだろうし、それに気づいているか? 手のひらが真っ黒だぞ」
 くすくす、と笑う夢浮橋に言われて手のひらを見れば、筆から伝った墨が黒く指先やらを汚している。慌てて筆を置き、着物が汚れないように手を遠くに伸ばす。手拭きは、と目で探しているうちに夢浮橋が立ち上がっていつもの如く抱き上げられてしまう。

「ひぁっ」
 突然高くなった視界に驚き、癖で首元に抱き付こうとするが墨で汚してしまうと思い至る。鑑定したわけでも、目利きに自信があるわけでもないが、見た感じとても高価で質の良い夢浮橋の着物を汚すまいと手を遠ざける勢いで体を離せば、ぐらりと頭が傾いて蒼褪める。
「おっと、ほら、しっかりつかまれ」
「で、も……」
 気にするな、と朗らかに笑う夢浮橋に、困り顔をする。せめて手拭きで軽く墨を拭うことができれば、と思うが、わざとらしく腕を緩められて落ちそうになる。「きゃあ」甲高い悲鳴を上げて神様に抱き付いた。

 よきかな、なんて満足そうに頷くけれど、蒼の頭の中は汚してしまったという罪悪感に苛まれる。
「気にするな。葵あたりに頼めば綺麗にしてくれるさ」
「……あとで、あやまります」
「はは、蒼は優しいなぁ。……少しばかり、優しすぎるな」
 声が暗くなった気がする。顔を見ようと頭を上げれば、大きな手のひらが後頭部を押さえつけた。

 ゆめうきさま?
 声には出さずとも疑問は伝わったのだろう。やわく、頭を撫でられた。
「何も心配することはない。すべて、俺に任せておけ」

 この美しい神様が何を考えているのか、ひとかけらもわからない。それがとても、悲しかった。
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