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異・世界革命Ⅱ 空港反対闘争で死んだ過激派は異世界で革命戦争を始める 02

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 戦闘を開始したら五分と持たないだろう。支援部隊が到着するまで、戦闘の開始を引き延ばす。生き残るには、それしかない。

 指揮官らしい大男が、サフィナ公爵令嬢の死体の前にひざまずいて、号泣している。それほどの価値のある女には、見えんかったがなぁ。残りの六人は、剣を抜いて半月状にオレを取り囲んだ。全員青筋を立て、刺し違えてでもオレを殺す気満々だ。これじゃあ三人は斬れても、オレも串刺しになる。前世の女神や聖女の時の三の舞いだ。寄ってたかっての滅多刺しは、本当に気が狂うほど痛いからもうカンベンしてほしい。
 二メートルもある大男の指揮官が、サフィナ公爵令嬢の死体をお姫様抱っこして馬車に安置した。
「レオン・マルクス。なぜ、お嬢様を殺した?」
 なにを言ってるんだ? 襲ってきたからだよっ。だが、そんなことを言ったら、すぐに殺されてしまう。
「⋯⋯殺したくはなかった。だが、大勢が見てる前で斬りかかってきた。王族に刃を向けたら、ルイワール公爵家は、族殺刑で一族から使用人まで死刑になる。斬るしかない」
 少しは殺気が⋯⋯下がらないね。なんとか会話を引き延ばさなければ。
「なぜ、お嬢さんを止めなかった? 公爵家を滅ぼしたいのか?」
「お止めしたわっ! だが、お嬢様は、兄君の仇を黙ってみてるような方ではないっ!」
 あの人間のクズが、兄君ぃ? 馬鹿じゃねえのか?
「今ならまだ間に合う。お嬢さんの死⋯遺体を運んで公爵家に帰るんだ。公爵の力があれば、なんとかなる」
 王族襲撃が「なんとかなる」わけがない。口車に乗って引き揚げてくれればと思ったのだが⋯。
「たとえ我ら死のうとも、お嬢様の仇は、許しておけぬ。お顔に傷をつけおってえぇぇ!」
 あと十七分か⋯⋯。もたねえな。どうする?
「お嬢さんが、いきなり斬りかかってきたから、両手を斬ってしまった。もう助からないから、できるだけ早く楽にした⋯」
「問答無用。覚悟せい!」
 一斉に斬りかかってこられたら、百パーセント死ぬ。最後の手段だ。手に持っていた細剣を地面に放り出した。
「どういうつもりだ? あきらめたか?」
「ああ、降伏する。戦っても無駄な死人が出るだけだ。なあ。それよりルイワール公爵に会わせてくれ。娘さんの最後を知りたいだろう」
 指揮官は、ちょっと思案し始めた。味方の到着まで十五分。できるだけ長く考え込んでいてくれ。
「駄目だっ。旦那様は、おまえを助命するかもしれぬ。おまえは、今すぐここで死ねっ!」
 連中は、剣を握り直した。一斉に突くつもりだ。
「そうか⋯。じゃあ、おまえらに言っておく。サフィナ嬢の最後の言葉だ。ルイワール公爵に伝えてくれ」
 もったいをつけているが、もちろん、口からのでまかせだ。
「お嬢さんは、正面から騎士を率いてきて口上を述べた。自分はルイワール公爵家の娘で、兄の仇を討つと」
 そんなことを仕出かしてくたばったのは、この嬢ちゃんが馬鹿だからだ。そこをいかにも立派なことのように語ってやる。
「騎士たちの剣を運良く切り抜けて、前を見ると驚いたことにお嬢さんが剣を構えて立っている。⋯逃げるかと思ったんだがな」
 まぁー、馬鹿女は足がすくんで逃げられなかっただけだが、立派に振る舞ったことにしておく。
「そして、斬り込んできた。太刀筋が鋭く、避けることができず斬ってしまったのだ」
 大嘘だがなー。ああぁぁ、もう話せることがない⋯⋯。
「うつぶせに倒れているお嬢さんを仰向けにして⋯」
 本当は、脇腹を蹴ってひっくり返したんだがね。⋯あと十二分。
「目を開いたお嬢さんから最後の言葉を聞いた」
「最後の言葉とはっ? なんとおっしゃった?」
 話しに引き込まれた指揮者が訊いてくる。聞いたらすぐに斬るつもりだろう。⋯駄目だ。間に合わない。
 見ると、こいつらの馬車にはね飛ばされた平民が、五~六人血だらけになって転がっている。うめき声が聞こえてくる。

 ⋯こうなったら仕方ねえや。へっ! 破れかぶれだっ! ひとりでも多く道連れをつくってやるぜっ!
「はははははははははははっ!『こわーい。ヒィ、たすけてぇ』だとよっ! マヌケっ!」
 言いざまに脇差しを抜いて七人の中に飛び込み、喉笛をえぐってやった。血を噴いて一人倒れる。
「卑怯者!」
「おのれ!」
 なーにが卑怯者だ。七人で囲んでおいて笑わせんなってんだ!
「おぉっ! レオン・マルクスは、ここだっ。まとめて相手してやる。どこからでもかかってきやがれっ!」
「殺せっ!」
 テロ団が一斉に斬りかかろうとしたとき、バラバラと石や土瓶が飛んできた。取り囲んで見物していた野次馬たちが投げつけている。
「レオン隊長、ガンバレ!」
「愚連隊の人殺しっ」
「よくも母ちゃんをはねたなっ」
「伯爵、逃げてください」
「大勢で襲うなんて卑怯だぞっ!」
 ワ────────────ッ! 

 テロ団の二人が、剣を振り上げて野次馬に向かっていく。蜘蛛の子を散らすように逃げ出す野次馬たち。
 大衆の自然発生的な蜂起は、少数でも訓練され武装したテロ集団には勝てない。ここまでか⋯。

 その時、野次馬の人垣が崩れた。
「どけっ!」
「隊長っ! 隊長は?」
「無事ですかっ!」
 平服の親衛隊騎士が、四人飛び込んできた。対峙している連中を見るや瞬時に事態を把握し、剣を抜いて斬りかかっていく。増援部隊に気を取られた敵の隙をついて、喉を突いてやった。血煙を上げて倒れる。よし。これで五対五だ。
 親衛隊騎士は、激しく撃ち合っている。公爵家のお抱え騎士とは、訓練の質と場数が違う。勝つだろう。
 大男の指揮官と向かい合った。こいつは別格だ。それよりタチの悪いことに、刺し違える気だ。命を惜しまない者は強い。
 野次馬には、七十センチ程度の脇差しを構えるレオンと、二倍も長い長剣をふるう身長二メートルの指揮官は、ダビデとゴリアテの決闘のように見えた。どう見てもゴリアテの方が強そうだ。

 こんな野郎の地獄の道連れにされたら、たまらない。精神的に崩してやる。
「女は骨が細いから、簡単に両腕を切断できたぜ。でも、脂肪が多いから、剣がベタベタして気色悪いな。ヘヘッ!」
「おのれぇぇ!」
「ははっ! 最後までコワいとかたすけてぇとか、とんだ甘ったれ嬢ちゃんだったぜ! トドメに目玉をくり抜いてやったわ。くっくっくっ⋯」
「⋯⋯こっ、こっ、殺すっ!」
 怒りで全身をふるわせている。
「売女の用心棒が、なにを悔しがってんだ? もう乳繰り合えねぇもんな。へへへ⋯。残念だったね」
 間合いを外して、地面に転がっている玉を剣先に突き刺した。目の前でフリフリして、よーく見せてやる。
「おら、お嬢ちゃんの目ん玉だ。グズだから拾い忘れてたなぁ。ダメじゃないかよぉ。ははっ! こんな汚いもん、くれてやるよ。ほーれ! ハハハハッ!」
 ヒュッッ⋯
 顔面に放ってやった。目玉は頬に当たり赤い液を飛び散らせて落ちた。
「ウゴアアァァアアァァァァ───ッッ!」
 凄まじい勢いで斬りかかってきた。だが、怒りに我を忘れて大振りだ。勝った!
 大剣を受けずにかわし、そのまま思い切って踏み込んで懐に入り、横っ腹を叩き斬った。大男は、血を噴きながら転がって倒れる。トドメに薙ぐようにして首を切り裂いた。血が吹き出して赤い池ができた。
 うおぉ─────────────っっ!

 野次馬たちが、神を見る目でレオンを見た。
 不意打ちで一斉に斬りつけられていたら、まず助からなかっただろう。正規の騎士訓練を受けてテロに不慣れな連中だったおかげで、どうにか死なずにすんだ。
 それに優秀なカムロのおかげで、命拾いした。親衛隊宿舎に駆けていく途中に、親衛隊騎士がよく利用する食堂があることを思い出し、飛び込んだのだ。たまたま四人食事していて、代金も払わず駆けつけてくれた。あと五分遅かったら、レオンは死んでいただろう。親衛隊部隊が到着したのは、全てが終わってから七分後だった。

 公爵家の騎士団が、王族でしかも王宮親衛隊中隊長の殺害を狙って襲撃した。大胆にも白昼堂々とである。数百人の王都民がそれを目撃した。もちろん世論は、レオンの味方だ。
 親衛隊宿舎にとって返したレオンは、王命も待たず「反撃」と称して第四中隊を率いてルイワール公爵邸に突入した。抵抗した数名をその場で斬り伏せ、居合わせた全員を殺さず捕縛して、いつもは誰も入っていない王宮の地下牢に叩き込んだ。
「またレオンか⋯⋯」
 国王は、何度目かの頭を抱えた。これは、王族に対する殺害未遂事件であり、王宮警備の指揮者に対するテロ未遂事件でもある。なまなかな対応は、王権を揺るがす。しかし、犯人グループは、建国以来続く最上位貴族の公爵家で、数世代前には王家と縁戚となっているほどの家柄だ。有力貴族家との繋がりも深い。
 温厚なアンリ二世は、まずは穏便にコトを収めようと考えていた。ところが、アッという間にレオンがルイワール公爵家全員を逮捕して、足下の王宮地下牢にぶち込んでしまった。第四中隊の騎士たちが、殺気をみなぎらせて牢番をしており、だれも近づけない。
 レオンがテロ事件の背後にいたルイワール公爵家の者を殺さず捕縛したのは、自分が手を汚すまでもなく、どうせ死刑になると踏んだからだ。レオン=新東嶺風は、空港反対闘争の苦い経験から『合法性』を重視するようになった。インチキ手続きにであっても、ひとたび合法性を獲得したら、立ち退きを拒否した七十歳近い老婆を歯が折れるほど殴りつけて引きずり出し、今まで住んでいた小屋を目の前でぶち壊すような無茶な真似が、社会に承認され、一部では賞賛さえされた。ペテンな合法性に刃向かうと、『お上』に逆らう犯罪者として機動隊に滅多打ちにされ投獄される。
 レオンは、このままでは何度でも襲われ、遅かれ早かれ殺されると考えた。弱く貧しい者の側に立つと、必ず嘲笑を浴び迫害される。
 ならばレオン個人ではなく、フランセワ王国の総意として法に基づいてルイワール公爵家の連中を始末させようと考えた。全ての権力者を巻き込んで、共犯に仕立てるのだ。これで保守派貴族は、不平を鳴らせない。「おまえらも死刑に賛成したじゃないか」。
 レオンは、こんなんでも準王族であり、命を狙ったら大逆罪が準適用される。たとえ国王であろうと、みだりに法を曲げることはできない。しかもコトは、国事犯である大逆罪だ。
 代々穏やかな統治をしてきたフランセワ王国で、三百年も前にできた『大逆罪』などは、ほとんど忘れられた存在だった。国王は、条文を読んで今度は青くなった。『九族皆殺しの刑』が適用される。このままでは、貴族を何百人も処刑することになってしまう。
 高位貴族一族の死刑に関わることなので、御前会議が開かれた。王族、最高裁判所の判事、貴族裁判所の判事、宰相、閣僚、元老院の代表、貴族会議の代表、さらに王国大学から法学者が召集された。
 カンカンガクガクの大議論⋯⋯とはならなかった。国王は、内心頭を抱えていたが、親衛隊中隊長として警察権を持つレオンは、王都民を苦しめていた犯罪集団を所定の手続きをとり合法的に一掃した。それに逆恨みした黒幕が、暗殺団を差し向けてテロって返り討ちにあった。レオンが準王族であること以外は、単純な事件だ。白昼堂々と名乗りまで上げ、死体という動かぬ証拠が十二体も残っている。言い逃れの余地はない。おまけに襲われて殺されかかった当のマルクス伯爵が、目の前に座っている。今は帯剣していないとはいえ、こいつの気の荒さは⋯⋯。
 法務事務次官が、淡々と説明を始めた。被害者は王族の配偶者であり、直系王族ではない。なので罪が一等軽くなる。この場合は、『九族皆殺しの刑』ではなく、準王族に対する危害罪として『三族皆殺しの刑』が適用される。処刑の対象は、犯人の『父、母、妻、子、孫、兄弟、姉妹』である。ちなみに『九族皆殺しの刑』となると、これに『曾祖父母、祖父母、伯父母、叔父母、従兄弟、従兄弟の配偶者、甥姪、妾、同居者、使用人、使用人の親・子・兄弟。さらに国王が指名したその他の者』が加わる。
 国王は、ゾッとした。こんな野蛮な連座刑がまだ残っていたとは⋯⋯。ルイワール公爵の兄弟には、王宮勤めで国王とも顔なじみの貴族が何人もいる。姉妹は、他家に嫁いで平穏に暮らしている者も多い。彼らの多くは、なにも悪いことはしておらず、先代が亡くなってから評判の悪い兄が当主となったルイワール公爵家から距離をおいていた。なぜ彼らが処刑されねばならぬのか?
 さらに法で定められた処刑法を聞いて気分が悪くなった。『生き胴刑』である。王宮前広場での公開処刑で、胴を三分の一程度斬られる。見物人が囲んでいる刑場に放置され、半日ぐらい苦しみ抜いて死ぬ。主犯は、一族郎党がもだえ苦み、自分を呪いながら死ぬのを見せつけられ、全員が死んだら最後に胴斬りで処刑される。
 国王は、いつもうるさく物申してくる貴族の代表どもが、この件に限っては、やけに静かなのに気づいた。ルイワール公爵家は、貴族の面汚しとしてマトモな貴族家からはひどく嫌われていた。しかし、それにしても静かすぎる。貴族代表が、チラチラと様子をうかがい気にしていたのは、レオンではなかった。ジュスティーヌ第三王女である。
 ジュスティーヌは、レオン暗殺未遂の一報を受けると平静を装いながらも蒼白となり、内心は半狂乱となった。六歳から従ってきたアリーヌ侍女にも、これほど取り乱した姫様は初めてだった。
 続けて、援軍の到着が数分遅れていたらレオンは死んでいたという報告を受けた。安堵と恐怖のあまり数分間気絶して目を覚まし、憎悪に取り憑かれたジュスティーヌは、我が夫を害する者どもを根絶やしにすることを決意した。生き残りを見逃したら、今度こそレオンは殺されてしまうかもしれない。「あの人がいなければ、わたくしは生きていけない」。
 美しく、常に微笑みを絶やさず、誰にでも優しく思いやりのある理想的な王女を演じているジュスティーヌだが、内面には気性が激しく物事を徹底する性格の強さを隠し持っていた。しかも知恵があって頭が良く、自分の身分や美貌を効果的に利用するやりかたを十分にわきまえている。王族として子供の頃から訓練されてきた有能な政治家でもあった。
 あの父王が助命や減刑を試みることは、分かりきっていた。父王が動く前に関係各所の要路を押さえ、必要とみたならば自ら赴いて働きかけた。「法にもとづいた公正な判決を期待します」。被害者の妻である王女でしかも超絶美人からの至極もっともな要望だ。反論できる者など誰もいない。だがこれは言葉はきれいだが、「ルイワール公爵家を根絶やしにしろ」と言っているのと同じである。ジュスティーヌは、レオンを愛するあまり、子熊を奪われた母熊のように内面に狂気をみなぎらせていた。
 この御前会議でジュスティーヌは、生まれて初めて激怒していた。怒りすぎて表情が固まり、蒼白になった。下手人のルイワール公爵家は当然として、ノコノコと一人で外に出たレオン。少しでも減刑しようと考えている父王。犯人を即決処刑せず、のんきにこんな会議を開く制度にも激しい怒りを感じた。表情は固まっていても、女性王族序列二位、王位継承順位六位のジュスティーヌ王女の怒りのオーラは、全員にビンビンと伝わってきた。必然的に皆の口が重くなった。
 数十人が参加したこの御前会議で、ジュスティーヌより立場が強いのは、父王と王太子とレオンだけだ。国王は、父祖が定めた法を曲げろと言うわけにはいかない。父に負けず優しく穏やかな王太子は、何をするか分からない精神状態のジュスティーヌが恐ろしかった。この妹の気性と能力は、子供のころからよく知っている。とにかくこの件には関わり合いになりたくない。この場を収めることができるのは、事件の被害者でもあるレオンだけということになった。
 無関係な者まで巻き込んだ『生き胴刑』などというバカげた大量処刑をやらかし王都民の反感を買うのは、得策ではないとレオンは考えていた。できるだけ自分の政治的利益になるような処罰が望ましい。殺してしまっても意味がなく、かえって反感を買うような者は、適当な理由をつけて赦免し慈悲深さをアピールしたい。
「当事者としては、たとえ主犯の繋累であったとしても事件と無関係で善良な者は、特赦されるよう国王陛下に嘆願いたします」
 会議室の空気が軽くなった。権力者といっても血の通った人間だ。親戚が犯罪をおかしただけの罪もない女子供を斬殺する片棒なんか担ぎたくない。レオンなら激怒して、「今すぐ殺せぇ!」と強硬に主張すると予想していたので、意外でもあった。
 むしろレオンは、冷徹そのものだった。「事件と無関係な『善良』な者の、特赦を嘆願」なのだから『善良でない者』は、赦免されない。どうやら、『善良』かそうでないかを決めるのは、レオンになりそうだ。
 ところが、ジュスティーヌが猛然と反論した。夫婦喧嘩だ。レオンとジュスティーヌは、二人とも事件の始末に飛び回っていて、口裏を合わせる時間がなかった。
「あなた⋯いえ、マルクス伯爵への襲撃は、王族に対する殺害未遂です。法を曲げ刑を軽くするなど、フランセワ王国の柱である国王陛下のお命を軽くすることに繋がりかねません」
 レオンへの愛に目を曇らせたジュスティーヌは、ルイワール公爵家を族殺する気満々だ。フランセワ王国は、王が啓蒙専制君主とはいえ絶対王政の国だから、このように『国王』を引っ張り出されると当の国王ですら反論が難しくなる。
 ジュスティーヌ以外の全員は、多少無理があっても法律を柔軟に解釈し、処刑から助けられる者は助けたいと考えていた。しかしジュスティーヌ王女は、王家の者として法の厳格な執行を強硬に求める。ルイワール公爵家を見せしめにして、常に危ない橋を渡っているレオンを守るのだ。朗らかで優しいジュスティーヌ王女を子供のころから見ていた重臣たちは、ジュスティーヌの見せる一面に驚愕した。
 法的にはジュスティーヌが正しいのだから、論争しても勝ち目はない。やむ得ずレオンは切り口を変えた。
「今回の事件の首謀者は、死亡したサフィナ・ド・ルイワール公女です。個人の怨恨による犯行であるからルイワール公爵家には⋯」
 全てを言わせずジュスティーヌが反論した。
「襲撃は、ルイワール公爵家騎士団が実行しました。このことからも王族弑逆未遂は、ルイワール公爵家の総意として行われたと見るべきです。首謀者は、ルイワール公爵家当主です」
 ことの真相は、ワガママ放題で勝ち気な貴族娘がことの重大さをわきまえず、女王様気分で使っていた公爵家騎士団をレオンに差し向けたといったところだ。
 公爵家騎士団を使ったのがまずかった。これでは公爵家が襲ったことになってしまう。好き勝手に権力を振りかざし人を踏みにじってきた上位貴族のお嬢ちゃんは、父の公爵以外に自分より強い権力が存在しており、それとぶつかった時にどうなるか全く考えていなかった。この女は、その場でレオンに斬り捨てられたが、そうでなくてもレオンを襲撃した時点で親族を巻き込んで死んでいたのだ。
 なぜ、主犯がだれであるか問題になるのか? 首謀者がレオンが主張する通り死亡した馬鹿娘のサフィナ公女とされた場合は、処刑されるのは親のルイワール公爵・公爵夫人とファイナの兄弟姉妹十一人の計十三人になる。サフィナの兄弟姉妹たちは、揃いも揃ってどうにもならないクズばかりで、遊び回って悪いことをするのに忙しく、既婚者や子持ちはいない。なので、これ以上は連座が広がらない。レオンが最も嫌う子供に対する処刑もない。
 しかし、当主であるルイワール公爵が首謀者となると、話が違ってくる。すでに隠居した前公爵夫妻。ルイワール公爵の弟妹十人とその配偶者。ルイワールの子十一人の三十五人に連座処刑が広がる。
 ルイワール公爵の弟たちは、分家して主に王宮で法服貴族として過不足無く官僚仕事をしていた。妹たちは、他の貴族家に嫁いでいる。ルイワール公爵が首謀者とされるとこの兄弟姉妹たちは、全員胴切りで処刑され分家は取りつぶされる。妹たちの嫁ぎ先の貴族家も無事ではすまされない。家の女主人が大逆罪で死刑になったのだから、やはり取り潰しは避けられないだろう。これでは建国以来の名門貴族家が六家も潰れることになってしまう。
 しかも、襲撃事件とは関わりのない無実の使用人たちが五百人近くも連座し、家が取り潰され流刑や追放刑を受けて路頭に迷い、悲惨な死を迎えることになる。国家転覆をたくらんだとされる大逆罪に連なった者に手をさしのべるのは、余程の覚悟がないと困難だ。
 襲撃犯は、すでに全員死んでしまっている。レオンとジュスティーヌの論争は水掛け論になった。この国で二番目に高位の女性と、その夫で国王の親衛隊中隊長で当の被害者が口論しているのだから誰も間に入れない。唯一、王族として見物に来ていたジュリエット第四王女が、皮肉を飛ばした。
「あら、お二人で死刑のご相談とは、夫婦仲のよろしいことね。でも、お姉さまったら、あまり大声をはりあげるのは、少しはしたないですわよ。フフッ」
 ジュスティーヌは、腹違いの妹に冷ややかな一瞥をくれただけで返事もしない。
 穏健で賢い国王は、レオンが襲われたくらいで何十人も処刑し五百人もの連座刑者を出すつもりはなかった。なので普段は優しいジュスティーヌが、根回しまでして必死になってルイワール公爵家とその周辺の根絶やしを主張するのに困り果てた。ジュスティーヌにキズをつけずにどう収めるか⋯。同時にレオンが、事件をなるべく軽く穏便に済ませようとしていることは、やはり意外だった。それまでは剣の達人だが、殺人をなんとも思わないような暴力的な男だと考えていたのだ。
「あなたは、わたくしの気持ちを考えていません」だとか、「オレのやることにクチバシをはさむな」とか、裁判ではなく完全に夫婦喧嘩になりそうなところでレオンが立ち上がり、言った。
「陛下。恐縮ですが、十分ほど休憩時間をいただきたく存じます」
 国王をはじめ、列席した者たちは皆くたびれてしまった。
「よい。しばらく休憩する」
 苛立ったレオンがジュスティーヌの腕をガッと掴み、そのまま閣議室の隅に引っ張っていく。本来の身分は比較にならないほどジュスティーヌが高いのに、家庭内での力関係は逆なのか? 会議の参加者たちは、見ない振りをしたが内心目を見張った。
 会議中の閣議室を出ることは許されない。広いとはいえ同じ部屋なので、どうしても二人の会話が漏れ聞こえてくる。
 さっきまであんなにやり合っていたのに、ジュスティーヌは哀願調だ。
「あなたが死んでしまったら、わたくしも生きていけません。お願いですから⋯」
 レオンは、あれほど賢いジュスティーヌを諭すようにたしなめている。
「オレは、自分の手で三十人は殺している。それにオレの命令で、三百人近く死んだ。恨まれて当然だ。殺すだけ殺しておいて自分だけは死にたくないという理屈は、通らない」
「いつもあなたは、わたくしや民を守るために、戦ってきました。ただの人殺しではありません。断固とした処置を取らなければ、今度こそあなたは、逆恨みした者に襲われて殺されてしまいます」
 私欲のない公的な殺人は良い殺人で、「ただの人殺し」とは違う。だから、レオンが恨まれる筋合いは無いとジュスティーヌはいう。
「それはどうかな⋯。ルイワール公爵家を根切りにしてオレを守ろうというなら、逆効果だ」
「え?」
「ルイワール公爵家と縁戚関係にある貴族家が、六家は廃絶される。貴族が流刑されたり街に放り出されたら、どうなるかわかるよな? オレを憎みきった五百人が、食うや食わずの状態で国中に散らばることになる」
 ジュスティーヌは青ざめた。レオンの死という恐怖で視野狭窄に陥っていて、そこまで考えていなかったようだ。
「王都民だって、三十人も胴切りで公開処刑されるのを見たくないだろう。オレがやらせたと思われたら、かなわないしな」
 ジュスティーヌは、頭の回転が速いので話も早い。
「それは⋯そうですが。それでは⋯どうすれば⋯⋯」
 レオンは、前世の経験から人間に強い不信感を抱いている。まあ、当然だろう。
「やつらは、助命してやってもオレをひどく恨むだろう。ただ、命や身分が惜しいから、殺そうとまではしないはずだ。襲撃してきたサフィナ公爵令嬢は⋯⋯。あんな馬鹿は滅多にいない。でも、失う物がないやつは怖いぞ。無敵の人になる」
 ジュスティーヌは、考え込んでしまった。
「あなた、お願いです。常に護衛をつけて下さい。二度とあのような危ないことはないと約束して下さい」
 こっそり二人の会話を聞いていた大臣や貴族代表ら、それに国王は、ジュスティーヌがどれほどレオンに執着しているか知って驚いた。普通は、逆なのではないか?

 会議が再開された。ジュスティーヌは、ピタリと黙ってしまった。結果、国王とレオンのキャッチボールで会議は進行した。
 死亡したサフィナ公爵令嬢が、首謀者ということになった。連座して死刑を食らうのは、ルイワール公爵夫妻とサフィナの兄弟姉妹の合計十三人だ。一人でも善人が混じっていたら後味が悪かっただろう。幸い?全員が権力をかさにきて弱い者をいじめ殺すのが趣味のような人間のクズだったので、かえって幸いだった。
 ルイワール公爵の弟妹らには、罪を問われなかった。ロクでもない長男が家長になったので、早々に見切ってルイワール公爵本家を出た者が多かったことが幸いした。奪爵や降格すらなかった。恐れ入って勝手に謹慎したり引退する者がいるかもしれないが、王家としては好きにさせて感知しない。
 最後にレオンが国王に願い出た。訓練の機会は逃さないのだ。
「処刑は、私が指揮する王宮親衛隊第四中隊に執行させてください」
「よかろう」
 いくら減刑を主張していたレオンでも、思うところがあるのだろうと国王は考えた。実際は、まだ人を殺したことのない第四中隊の騎士に処刑させて、殺人訓練をしたいだけだ。
「執行時に雨であった場合は、屋内で処刑することをご許可ください」
「うむ、許可する」
 本当は、公開での斬胴刑でなければならない。だが、あまりに残虐なところを見せて民衆の反感を買いたくない。なので、雨のため屋内で処刑せざる得ないという口実で、非公開で処刑しようと持ちかけたのだ。
 さすがに最高責任者のルイワール公爵本人だけは、民衆の面前で公開処刑にする。血を見るのが嫌いな国王は、ここでもレオンの提案に乗った。治安責任者の殺害を狙って襲撃するという、ある意味で国家体制に対する挑戦にしては著しく処分は軽い。絶対王政国家での王族の殺害未遂事件にしても、非常に軽い判決である。
 採決ではジュリエット第四王女だけが棄権し、他はジュスティーヌも含む全員一致で可決された。その場で処刑日を空白にした死刑執行勅状が発行された。
 アンリ二世は、その治世において一度も本格的な戦争をすることがなく、二度のファルールの地獄をも乗り切った名君だった。晩年に至っては、寛容にして慈悲深い君主となった。この慈悲深さが一年半後に迫った非業の死に繋がることになる。

 公爵家ともなると親族や係累が千近くいる。親衛隊騎士といえども、そんな有力者の首をはね恨みを買うのは避けたいだろうと予想したのだが、意外にもまだ人を殺したことのない騎士は、張り切って立候補した。殺人経験のない騎士は、どうやら第四中隊では肩身が狭いらしい。
 戦争や内乱でもない限り、超高位貴族である公爵を斬る機会などない。公爵という名の珍獣扱いで、爵位に対するリスペクトなどは、もはや第四中隊には無かった。
 人を斬ったことのない騎士だけで剣術大会を開き、上位から斬る権利がある者を選ぶことにした。道場は大変な大熱戦で、負けてしまい床を叩いて悔しがる者がいるありさまだ。やはり斬り殺す相手は男から埋まり、女の人気はなかった。
 年始早々に騎士たちが待ちに待った大雪の日がきた。空欄だった死刑執行令状の日付を埋めて夜になるのを待ち、希望者と王宮の地下牢に向かった。
 公爵家の子息といっても、弱い者をいじめるのが趣味のような甘やかされたクズばかりだ。殺人などなんでもなく、平民だったらもう五回くらいは死刑になっているほどの極悪人揃いである。公爵家に生まれたから平民を殺す権利があるなどと信じている。
 ルイワール公爵家は極端だが、貴族など多少の差はあれこんな馬鹿が多い。領主貴族などは、領地では裁判権を持っているから、気まぐれで領民を処刑することだってできる。
 レオンたちが地下牢に降りていくと、こんな調子だった。
「早く出せ! 公爵家に逆らうやつは殺してやる!」
「田舎男爵くずれを妹が懲らしめただけだ。ここを出たら、ただで済むと思うな!」
「平民を連れてこい。そいつを身代わりに殺せ! カネならやる!」
「ルイワール公爵家に指一本触れてみろ。貴族が反乱を起こすぞ!」
「貴族らしい扱いをしろ! もっとマシなものを食わせろ! 女をよこせ!」

 ピーヒャラ~、ピーヒャララ~とうるさい。キーキー声をこらえつつ、無言で机や椅子を片付け扉を外すなどして、地下室に二十畳ほどのスペースをつくった。⋯⋯ようやくだ。
 獄中のクズ公爵家の連中に宣告する。
「今より、おまえらの死刑を執行する。ただし、チャンスをやろう。剣を渡す。それで騎士を倒したら、無罪放免だ」
 そんなことで無罪放免になるはずがない。少しでも真剣に戦わせるためだ。ゴロツキ愚連隊に親兄弟を殺されたカムロが何人もいたので、招待してやった。目の前で仇をとってやるぞぉ!
「一番! だれを希望する?」
「ルイワール公爵家長子を希望しますっ!」
 よーしっ! 公爵家の嫡子を斬る機会なんて、まずない。あとが恐いと、希望者が出ないことを危惧していた。だが、完全に杞憂だった。第四中隊は勇猛だ。
 牢から引き出されてきたドラ息子は、面白半分に平民を殺させ、女を犯して外国に売り飛ばす商売をしてきた極悪人だった。だが、悪の組織の仮面を剥ぎ取ってやれば、みじめなほど貧相な男だった。
「剣だ。取れ」
 目の前に抜き身の剣を突き出された瞬間、人身売買の強姦魔ドラ息子は腰を抜かしてヘタリ込んでしまった。
「そそそそんなもの、受け取らんぞ。あ、明日まで待ってくれ。マルクス伯爵、頼む。明日、きっと恩赦がある。国王陛下は分かってくださ⋯。人殺し、人殺し、人殺しぃ⋯⋯!」
『一番』が、困った顔をしてレオンに振り返った。
「かまわねぇ。殺っちまえ」
「ヒィ─────────────ッ!」

 狭い地下室とはいえ、往生際悪く逃げ回るやつを斬り殺すのは大変だ。レオンの足にすがりついてきた時には、さすがに閉口して蹴り飛ばしてしまった。そこらじゅうに血を飛び散らせ、ようやく一番がトドメを刺した。
 王都警備隊も手が出せない王都パシテの夜の公子と恐れられた男は、袋のネズミになって地下室で切り刻まれて死んでいった。

 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!

 カムロの子供たちが、泣き笑いしながら拍手している。ルイワール公爵家が後ろ盾していた愚連隊に、親兄弟を面白半分に殺され孤児になったのだ。
 ルイワール公爵の六人の倅の中で、まともに戦えた者は一人もいなかった。弱い者をいじめて喜んでいる卑怯者など、こんなものなのだろう。
 処刑される女どもは、淫売まがいに服を脱いで醜い裸をさらけ出して命乞いしたり、妊娠しているとかわめき散らす五十女とか、男どもよりもタチが悪かった。だが、極悪貴族主義者の涙に「同情」は禁物だ。真の戦士には、冷酷さが必要とされる。いざとなったら代わろうとレオンは考えていたが、その必要はなかった。クズ女どもも容赦なく処刑され、血の海に沈んだ。
 地下室中を逃げ回ったので死体は傷だらけになり、騎士たちも頭から血を浴びたように真っ赤になった。本当なら処刑方法は何時間も苦しめる『胴切りの刑』のはずなので、やはり胴体が斬れてないとまずい。処刑に参加できなかった者から募って、とりあえず一太刀いれさせた。
 王宮内で処刑が行われたのは、およそ二百年ぶりらしい。「今さっき人を殺してきましたよ」と言わんばかりの連中が、全身に返り血を浴びて二十人もゾロゾロと地下牢から上がってきた。たまたまそれを見た夜勤の王宮メイドや侍女たちは、悲鳴をあげて逃げてしまった。宿直していた他の中隊の親衛隊騎士たちも、驚愕し目を丸くしている。
 最後にレオンは、アジ演説をかました。夜中に大声なので王宮中に響き渡る。聴いた者は、あまりに激しい調子に戦慄した。
「ついに我々は、悪の手先、民衆の敵を打ち倒した。完全打倒の勝利を、この手でもぎ取ったのだ。公爵家の権力を振りかざす極悪の毒蛇は、自らの犯罪を暴かれると弱者を装い、牢内で這いつくばり許しを乞い、憐れみを求めた。我が第四中隊特別選抜隊は、人の優しさにつけ込む狡猾な狙いを鋭く見抜き、悪辣な敵を無慈悲に粉砕した。卑劣な策動にいささかも動揺することなく、せん滅戦を情け容赦なくたたかい抜いた。これが英雄的な戦士の強さなのだ! 死の処刑攻撃を貫徹した第四中隊の戦闘精神の勝利である。我らには前進あるのみ! 今日は、よくやった。解散っ!」

 その足でレオンは、王宮官房にルイワール一族の処刑が完了したことを簡潔に報告した。まだ起きていた国王にとっては後味が悪かったが、やらねばならないことだとも分かっていた。「あの貴族どもときたら⋯」。
 公爵という最上位の貴族が、凶暴な犯罪集団の背後にいた事実は、国王を暗澹たる気分にさせた。王都警備隊が、手を出せないのは当然だ。公爵より身分が高い者は、もう王族しかいない。やつらを野放しにして民衆に見放されたくなければ、王族が討伐するしかない。レオンは、よく膿を出してくれた。その結果、命を狙われることになったが⋯。
 最近の王都の民衆の間で、王家の人気がグングン上がっていることを、国王も実感していた。今までは馬車列で通っても、平民たちは目を合わせないよう顔をそむけ、立ち去っていった。暴力団に難癖をつけられないように、関わりを避けるのと同じ態度だ。ところが近頃では、国王の馬車列が通ると群衆が集まってきて、手を振ったり歓声を上げたりと結構な騒ぎになる。子供などは、国王の馬車を見つけると、以前なら「!!! 国王だーっ! にげろー! わーっ!」だったのに、今は「あっ! 王さまだ! 王さまの馬車、カッコいいー!」などと言いながら追いかけてくるまでになった。
 レオンの進言で、あえて防音処置を施さない馬車に乗りはじめた。おかげで民衆の声が、よーく聞こえるようになった。いかに大貴族が横暴で、王都の民衆に嫌われ憎まれていることか。周囲の目のある王都パシテの貴族ですらこうだ。領主貴族領の民はどうなっているのか?
 領主貴族どもは、主に西部国境に広大な領地を持ち、王家の目がおよばないのをよいことに、領民を奴隷として使役して莫大な利益をあげている。奴隷の労働で得た金にあかして騎馬兵団を養い、領主同士で狩猟大会よろしく戦争ゴッコに明け暮れている。
 ジュスティーヌの冷ややかな言葉が想い出された。
「奴隷などと⋯。本来なら、お父さまの臣民ではありませんか?」
 事実を知らなければ、問題意識を持つことはない。しかし、知ってしまった父王は、フランセワ王国の奴隷制について、調査・報告することを命じた。結果は驚くべきものだった。
 この国の五人に一人は奴隷である。今までフランセワ王国の人口は、千二百万人とされてきたが、実数は千五百万人だった。奴隷は人間ではないという理屈で、三百万人もの王国臣民が除外され、領主貴族どもに自由にされていた。人口の実に二割が国家の手を離れ、領主貴族の『私有財産』と化している。しかもあろうことか、奴隷の労働で得た財を遣って、最高の贅沢として領主軍を養い拡充している。これは早急に手を打たねば、国が危うくなる。王都民の歓呼の声を浴びながら国王アンリ二世は、思いを巡らせた。
 ジュスティーヌ王女を通じて国王に『領主問題』と『奴隷問題』が実は一体であり、きわめて危険であると吹き込んだのは、もちろんレオンである。今まで慎重に貴族どもの力を削ごうとしてきた国王は、ここにきて民衆の支持を得て権力基盤を強めた。貴族の横暴を掣肘し、とりわけ領主貴族に対して以前より強硬な態度をとるようになった。

「国王は、没落しつつある封建貴族階層と、力をつけつつあった市民階層のバランスに乗り、官僚制と常備軍を整えて強力に国家統一を進めた。この絶対王政は、中世の身分・社会秩序を維持したまま集権化を進めたことなどから、封建国家の最終段階であり、他方で、国王に主権を集中して一定の領域を一元的に支配する主権国家を形成したことから、近代国家の初期の段階とみなすことができる」(カウツキー『階級バランス論』 山川出版社『世界史B用語集』より)

 年の明けた一月十五日、スレット建設に頼んで、王宮前広場に再びヤグラを建ててもらった。あちらこちらに高札も立てさせ、「極悪犯罪集団の首魁・ルイワール元公爵」の公開処刑を王都民に周知した。死刑執行は昼からだが、夜明けとともに平民が王宮前広場に続々と集まってきた。普段から民衆を見下してきたお貴族どもは、この景色を見てさぞやゾッとしただろう。
 死刑を執行するのは、もちろんレオンだ。国王の娘婿なのだから、「王家は民衆を虐げる者を許さない」というメッセージを込めている。ヤグラに登ると王宮前広場は、数万の無言の王都民で覆い尽くされていた。


 さーて、イノシシの次は、公爵だあ!
 ヤグラに檻が引き上げられ、中からルイワール公爵が転がり出てきた。五十歳くらいか。意外に若い。大群衆が歓声をあげる。まずは演説だ。
「この男は、殺人者である! 手下に命令して、女や子供を含む三百人以上を残虐に殺させた! 数百人の女を犯し、数千人を奴隷として外国に売り飛ばした!」
 ウォ──────────────ッ!

 王宮前広場に民衆の怒りの声が、とどろいた。
「犯罪の捜査を行った王宮親衛隊の指揮官を、私兵団を差し向け凶器をもって襲撃した!」
 オオォォ───────────ッ!!

 ヤグラの近くにいる者は、騒がず静かだ。だが、ひときわ深い怒りと憎しみをみなぎらせている。おそらく、ルイワール公爵一味に殺された者の遺族だろう。千人近くいるだろうか。
「この男は、今も醜い言い逃れを続けている。だが、こいつの屋敷から、数百の死体が掘り出されているのだ! 赤子の骨まであった!」
 ウワ──────────────ッ!
 キャ──────────────ッ!!

 耳をふさいでいる女までいる。
「殺せっ!」
「死刑だ!」
「仇をとってくれ!」
「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せえっ!」

「残念ながら現在のフランセワ王国法では、公爵位の貴族を処刑することはできない」
 ウオォオォ──?
 ウォオォォオォォ───────ッ!

 大群衆の凄まじい怒りの声が地響きになった。よしよし⋯⋯。
「そのため国王陛下は、英断を下された。大逆罪と武装反乱に対する勅令を発せられ、王族会議・元老院・貴族会議・最高法廷・貴族法廷は、この男に爵位剥奪のうえ死刑を宣告した!」
 今度は、喜びの声で王宮前広場は沸き返る。
 ワアアァァァ─────────ッ!

「しかしっ、死刑の執行には、国民の同意が必要だ。フランセワ王国の兄弟姉妹たちよ。この男を無罪とするか?」
 シ────────────ン⋯⋯⋯⋯

 もちろん、「国民の同意」など必要ない。レオンは民衆を巻き込み、自らの力を認識させようとしている。

「王都の兄弟姉妹たちよ。この極悪殺人者に死を!」
 ワアァァァァァァァ────────ッ!

 今まで沈黙してきたフランセワの人民が、初めて怒りの声をあげた。
「そうだっ!」
「死刑だっ!」
「死刑にしろ!」
「早く死刑にしてくれ!」
 死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!!!


 よしよしよしよし⋯⋯。なにかと邪魔立てしてきやがるスマした貴族どもを、思いきりビビらせてやる。
 人民の力を思い知れっ!
「民衆の判決は、下された。死刑だっ!」
 ワァァァ──────────────ッ!
 ドッッ!! ワァァァァ───────ッ!
 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!!!
 ワアアァァァァ────────────ッ!

 よーし。剣を抜き、ルイワール元公爵を拘束していた縄を切ってやる。
「こんな男でも一応は元公爵だ。フフフ⋯。貴族らしく、最後は戦って死ねっ!」
 一メートル二十センチはある、長くて太くて立派な剣を足元に転がらせてやった。オレは片刃の日本刀もどきで、七十センチ程度の脇差しだ。五十センチも短いオレが不利に見えるだろう。だが、渡した太刀は、かえって扱いづらい。どうせ勝つのは見えているので、まあ、格好良く見えるように演出した。
 爵位がどうだの、外国の王族が親族だの、太刀を握ったままブツブツ言っているだけのクズ公爵は、かかってこない。チビ権力にあぐらをかき、ふんぞり返って手下に悪事を働かせる。結果に一切責任を持たない現代日本にもよくいる、つまらない下劣な腰抜けなのだ。
 待ちくたびれたので、ちょっと腹を突いてやった。剣先が刺さり少々血が出た。痛かったらしい。「ギャーッ!」とか叫んで、斬りかかってきやがった。
 そんなヘロヘロ剣に、殺られるかってんだよぉ!
「オラァ! 人民の敵は死ねっ!」
 太刀を受けずによけ、横から剣を思い切り首に叩きつけ、頭を斬り飛ばした。頭は後ろに転げ落ち、胴体は首から血を噴き出しながら前に倒れた。
 遠目では、一瞬で頭が胴から離れ、赤い霧を噴きながら飛んでいったように見えたらしい。二倍も長い剣を持ったやつをいなして瞬時に首を吹っ飛ばした技は、群衆には神業に見えたようだ。
 公爵という最高位貴族が、完全打倒された様子を目の当たりにした民衆は、固まって声も出ない。
 シ───────────────ン⋯⋯

「フランス革命を描いた絵にもこんなシーンがあったな」と思いながら、転がっている公爵頭の髪を掴んで掲げ群衆に見せつけてやった。狂気と狂喜に近い感情の大爆発みたいになった。
 ウォオォオォォオオオォォォォ─────ッ!

 そのまま生首をヤグラ近くの遺族たちの中に放り込み、胴体はヤグラから地面に蹴り落としてやった。あとは怒れる民が始末してくれるだろう。
 威張り返っていた殺人犯のゴロツキ貴族を大衆の目の前で処刑し、死体を民衆の手に引き渡してやった。多くの平民は、パワーを注入され自らの力を自覚し、幸せな気分で帰っていったはずだ。
 この日の公開処刑劇は、フランセワ革命の序章として歴史に残った。

 ヤグラから下りるとジュスティーヌと、どういうわけかジュリエット第四王女が待っていた。容姿は二人とも美しくて似ているが、まとっている衣装は対照的だ。白と青で飾りのない清楚な服を着たジュスティーヌと、深紅のドレスをまとったジュリエット。
 例によって侍女を十人ばかり従えたジュリエットが、飛びついてきてオレの手を握った。
「レオン! わたくし、勇気のある殿方が大好き。きっとお姉さまも、そうなのね」
 そんなことを言いながらジュリエットは、チラと横の姉を眺めて、ニッと笑った。ジュスティーヌは、無表情だ。侍女のアリーヌも無表情だが、よく見ると怒りで目をギラギラさせている。ジュリエットのお付きの侍女は十人で、ジュスティーヌに付いている侍女は今はアリーヌだけだが、主人へ忠誠心は十倍以上なので負けていない。
 ジュリエットは、オレの手を両手で包むと自分の胸に押しつけた。おっぱい⋯。目の前にジュスティーヌがいるのに、どういうつもりだー?
「お姉さまは、きっと強い殿方がお好きなのね。わたくしも好きよ。ウフフ⋯ウフフフフフ⋯⋯」
 オレは、ユーワクされてるのかなぁ?
「お姉さまが、フフ⋯家出される少し前には、ジルベールが婚約者候補でしたわね。ジルベールとなら、お似合いなのに! ジルベールったら、ルーマからお帰りになったらお顔に立派な傷をつけてられて」
 これって嫌味なのかなぁ? どうにもよく分からん。ジュスティーヌの方は、まったく表情を変えない。
「フフ⋯お姉さま、レオンと結婚なさらなかったら、ジルベールと結婚していたかも。そしたら、わたくしがレオンと婚約しましたのに。ズルいわ。ウフフフ⋯」
 セレンティアに降りてきたばかりの頃だったら、「姉妹で味は違うかな~?」なぁんて考えて、喜んで誘いに乗ってるところだ。だが今となってはジュスティーヌは、得難い同志だ。オレが王族ヅラをして公爵なんかを叩っ斬れるのは、こいつと結婚したからだ。裏切るわけにはいかない。
 ジュリエットの話は、全く実がないのでつまらない。ウンザリしてきた。よし。じゃあ、面白くしよう!
 ジュリエットの両手に包まれていた手を伸ばして胸元を突っついてやった。えいっ!
「ひっ! キャアアアアア────ッ!」
「オレと婚約するんじゃねぇのか? だははははははははっ!」
 そのままジュリエットに背中を向け王宮に向かう。声が聞こえた。
「待ちなさい。レオンに紹介したい人がいるの。きっと役に立つからっ」
 もういいから、さっさと立ち去ることにした。モーゼの海割りみたいに群衆が二つに割れて道を通してくれる。人なつっこいやつが、「よう! 伯爵、つえーな」などと声をかけてくる。「おう、ありがとうよ」とか言って愛想を振りまきながら王宮に戻った。
 王宮に入り群衆から見えなくなると、さっきから一言も口を利かず青ざめてふるえていたジュスティーヌが⋯⋯⋯笑い転げた。
「い、い、イヤだ、もう、あなたったら、本当に! やややめて下さいよ⋯ジュリエットに、もぉーっ。ウフッウフッフフフ⋯アハハハハハハ! アハッアハッアハッ、クックク! ハァハァハァ⋯アハハハハハ!」
 激しい気性をうまく隠し、いつも模範的な清純王女様を演じているジュスティーヌが、これほど笑うのをみたのは初めてだ。
「胸に手を押しつけられたら、もう突っつくしかないだろ?」
 さっきまで怒っていたくせに、アリーヌも笑っている。
「やや、やめて下さい。げげげ下品なことを⋯。プッ! ジュリエット様のあの顔ったら! 姫様っ、そんなにお笑いになると、ははははっはしたないですわっ⋯クックックッ⋯アハッアハッアハッアハハハ!」
 いつもスマしている完璧侍女のアリーヌが、こんなに笑ったのを見るのも初めてだ。ジュスティーヌとジュリエットの紅白王女姉妹は、いろいろあるみたいだ。


 もちろんレオンは、面白半分で処刑を見世物にしたわけではない。第一は、民衆に対する人気取り。第二は、長く穏やかな治世ゆえに増長した貴族に対する王家の威嚇。第三は、平民に自らの力を自覚させるため。これが一番大きい。
 平民といってもブルジョワとプロレタリアだ。封建体制を完全に打倒するまで、ブルジョワ民主主義革命の徹底が当面の目標となる。⋯⋯なんだか日共の路線みたいだなぁ。
 フランセワ国王アンリ二世は、三十年近くも穏やかに統治してきた。穏健な改革は進めていたが、全体に社会が沈滞し膿がたまっていた。レオンは、フランセワ王国の病巣にメスを突き立て血と膿を搾り出す作業を始めた。当面の目標は、王都の法服貴族の特権を剥奪し単なる官僚にすること。そして奴隷制の廃絶と領主貴族の絶滅である。
 フランセワ王国から船で一時間もかからない海上に位置する島国のブリタリア王国には、すでに領主貴族は存在しない。中央集権化を成し遂げ、原始的な蒸気機関を利用した紡績機の発明や鉄生産量の急激な増加という産業革命の萌芽が見られていた。フランセワ王国が封建的な領邦国家にとどまるならば、遠からずブリタリア王国に経済支配され半植民地にされる。最悪の場合は、軍事的に征服され併合される可能性すらある。そんなことになったら民主主義革命どころではない。
 軍諜報部を使ったレオンの報告は、国王を震撼させた。とりわけ鉄生産量の増加は、セレンティア世界では軍事力の強化に直結する。
 ブリタリア王国で繊維の大量生産が始まりつつある。レオンにとってこれは鉄生産以上に問題だった。繊維生産には漂白剤として大量の硫酸が使用される。当然、硫酸の大量生産も始まっているはずだ。硫酸は、硝石と硫黄を燃焼させて製造する。これは爆薬の材料そのものだ。爆弾のたぐいが開発されるのは、もう時間の問題なのだ。
 レオンが、軍の情報将校に発言を促した。
「ブリタリア王国軍が装備している鉄製品の量を、我が軍のそれと比較すると、どれほどの差があるのか?」
「はっ! 最低でも約三倍であります」
 国王は、たまげた。
「そ、それは間違いないのか?」
 情報将校が解説する。なかなか優秀だ。
「ブロイン帝国に次ぐ大国であるブリタリア王国には、多数の情報員を配置しております。また、難破したブリタリア軍船を調査した結果であります。間違いありません」
 領主貴族が存在しないブリタリア王国の爆発的な成長を目の当たりにしたうえで、レオンに国家を分断する領主制が国の発展をいかに阻害しているか説かれると、国王はうなずくしかない。
「以前お見せしたコンニャク印刷は、たった五分で二十枚印刷します。同じことを奴隷にやらせたらどうでしょうか? 字の書ける高額な奴隷を二十人揃えて、一時間はかかるはずです。もはや生産力の水準が違うのです」
 その実例を毎日見せられていた賢い国王は、瞬時に悟った。人力よりも科学技術に裏打ちされた機械力の方が、比較にならないほど生産性が高い。無償の強制労働に従事させられている奴隷には、新技術を開発し生産を増やすモチベーションはない。つまり奴隷制を残す限り、技術と経済の進歩は阻害される。
 レオンは続けた。
「軍事から農業まで、あらゆる分野でいえることです。国を分断する領主制とそれを支える奴隷制は、フランセワ王国を衰退させ、やがて滅亡させる疫病です」
 もちろんレオンは、嘘をついて国王の危機感を煽っているのではない。フランセワ王国の現状と予測される未来を正しく述べている。国王は、レオンの言葉に納得し取り込まれていく。現状のままでは、遅かれ早かれフランセワ王国は滅びるだろう。
 奴隷制の廃止は、奴隷労働による大規模農園を経済的基盤にしている領主制の崩壊を意味する。奴隷制が良いとか悪いとかいう問題ではない。奴隷制を廃止しないと、国が衰え滅びるのだ。
 領主領の連合組織と、おそらく内戦になるだろう。それに備えて、早急に王家を核とした強力な官僚と軍人を揃えなければならない。
 見透かしたようにレオンが言った。
「確実に、勝てます」

 ルイワール元公爵の処刑から半年ほど、それなりに平穏に過ぎた。レオンは、民衆派の唯一の代表扱いでフランセワ王国政府内に入り込んだ。妻のジュスティーヌ王女も民衆派だが、政府には加わっていない。
 近い将来、領主貴族どもに対して内戦か降伏かを迫る。この方針は、フランセワ王国政治指導中枢で極秘に共有され、基本的な政策となっていた。あとは深度と速さの問題だ。民衆派のレオンは数カ月以内の全面的な開戦を主張し、保守穏健派貴族は数年かけて説得と懐柔、それに恫喝を試み、従わない領主貴族に対して限定的に軍事的圧力をかけることを主張した。
 レオンは、それは甘いと考えていた。領主貴族が、抵抗せずに領地を差し出すことは、絶対にあり得ない。領主制の解体政策は、必ず内戦に至る。しかし、他国の介入を招くことは、避けたい。軍事介入は泥沼の全面戦争に発展すると諸国に理解させる。そして強力な軍事力を誇示することが、対外戦争を防ぐ唯一の手段だ。そのために早期に開戦し圧倒的な勝利をして、速やかに内戦を終結させなければならない。内外の敵に戦争を準備する時間を与えてはならない。
 産業革命を進めるブリタリア王国から、できる限りの技術情報を入手すること。西部領主領地域をまたいで国境を接するブロイン帝国の軍事介入を防ぐこと。この二つを前提として内戦へ突入可能な政治情勢をつくり出す。それが完成した時に『奴隷解放宣言』を発し、奴隷解放を拒否する各領主領と戦争を開始する。これがレオンの青写真だ。
 奴隷が可哀想だから解放するのではない。奴隷解放は、開戦のための口実であり、領主の経済基盤を根底から破壊するための手段でもある。
 レオンは、主戦派⋯。より正確には、内戦を主張する中心人物として活動していた。「人を奴隷にしてこき使い貴族暮らしをしてるようなやつは、死んで当たり前だ」。実は国王も、同じような考えを持っていた。性格的に奴隷制を忌んでいたし、それ以上に奴隷制の無い地域の方が比較にならないほど経済と文化が活性化することを知っていた。奴隷制は、社会を退廃させ国家を腐敗させる。そう考え国王は、長年かけて少しずつ奴隷制を潰してきた。国王直轄地では、もう少数の犯罪奴隷くらいしか存在しない。
 国王は、逆徒ルイワール公爵討伐の功績を口実に、レオンを大佐に昇進させた。陸軍なら四千名を指揮する歩兵連隊長。海軍なら戦艦か空母の艦長といったところだ。かなりエラい。ジュスティーヌと結婚し王族の末席に加わってから、わずか一年だ。まだ二十代で異常なほど早い出世である。
 同時に王宮親衛隊全てを指揮する総隊長に就任させる予定だったのだーがー、例によって問題を起こした。そのためにせっかくの出世がフイになり、レオンは政権の中枢から遠ざけられることになってしまった。失脚したわけだ。
 諜報機関を動かせる立場の親衛隊総隊長にレオンが就いていれば、国王は死なずに済んだだろう。


 王宮親衛隊は、四個中隊が一日交代で勤務し、残りの三日は訓練や休みにあてる。
 六月十五日は、第四中隊の当番日だった。二十四時間勤務といっても、交代で寝たり食事をとったりする。レオンは、王宮の親衛隊隊長室でグータラしていた。
 灯りの乏しいセレンティアでは深夜となる九時過ぎに、王宮メイドのミルヒが泣きながら隊長室に飛び込んできた。大店のラヌーブ雑貨店店主の娘で、一緒にルーマ巡礼に行ったレオンの仲良しだ。
「あああぁぁレオンさまぁぁああぁぁ! いやぁぁぁっ!」
 普段は「マルクス伯爵」と、かしこまって呼ぶのだが、動転している。
「やぁ、どうしたんだい?」
 ミルヒは、もう顔面蒼白でガタガタふるえている。ルーマで暗殺団に襲われたときも、これほどではなかった。
「ちっ、ちっ、血が⋯。きっ、来て下さいぃ。リリーがぁ。うああぁぁぇぇん!」
 普段は、仕事のできるしっかりした娘だ。これはただ事ではない。うわんうわん泣いているミルヒに案内され、普段から人気がない王宮の隅に駆けつけた。
 見ると十人ほどの第四中隊の騎士連中と、こわごわという様子でメイド・侍女・女官がなにやら群れている。レオンがやってきたことに気づいた騎士たちが、「あちゃー!」という顔をした。
 王宮メイドのリリー・フラワルが、血まみれになって死んでいた。
「うわああぁぁあぁん! リリー!」
 ミルヒが、床に転がっているリリーの死体に縋りついた。
「やろう⋯⋯。犯人は?」
 訊ねるまでもなく、すでに取り押さえられていた。第四中隊騎士のプイール中尉だ。
「てめえ、なぜ殺したっ?」
 正規軍なら中尉は、中隊長だ。二百名もの兵を率いる立場なのだが⋯。
「ちっ、違うんです。その、ちょっとからかったら、下女が無礼をはたらいたもので、そう、手打ちにしました」
 ふーん、へー。強姦されそうになって抵抗するのは、無礼なのか?
 床に布切れが落ちている。
「そこに落ちているのは、その女の下着に見えるが? 最近の王宮メイドは、パンツをそこらに脱ぐのか?」
 ミルヒが怒った。
「そんなわけないでしょっ! リリー! うわあぁあぁぁん!」
 前世の聖女マリア時代にゴロツキに輪姦されたことを思い出し、レオンはムカムカと腹が立った。

「一般に政治において怨恨は常に最悪の役割を果たす」  (レーニン)

「王宮内は戦場に準じ、警備護衛任務は戦闘行動と同等に扱われる。おまえは、戦闘中に自軍勤務員に対して強姦未遂と殺人を犯した。現場を目撃した者は?」
 芯の強いミルヒが、立ち上がった。
「わたし、見ました。人の少ない所に無理矢理つれてったんです。リリーは、嫌がって泣いてましたっ!」
 まあ、そうだろう。疑問の余地はない。それにしても勤務中に女を犯そうとして殺しちまうとは⋯。
「こともあろうに王宮内で、よくもやってくれたなぁぁ。貴様は第四中隊の面汚しだっ! 中隊長の司法監督権にもとづき、臨時軍事裁判を行うっ。戦時軍法における訴因は、戦闘中の自軍勤務員に対する強姦未遂と戦闘資材を使用しての殺人っ。軍法に則りっ、死刑だっ! 中隊指揮官の戦時司法指揮権によりっ、即時執行するっ! そいつを放せっ!」
 こんなんでもプイール中尉は伯爵令息だ。平民女を殺したくらいで? 即決裁判で? その場で処刑? いくらなんでもないだろうと、まわりを囲んでいる者の半分くらいは考えた。
 レオンをよく知っている親衛隊騎士は、大半が強姦男に冷ややかで、それでも数人はなんとか止めようとする。しかし、「中隊の面汚し!」と罵り地団駄踏んで激怒している隊長をなだめることはできない。
 いつも二本差しのレオンは、短くて太い方の剣をギラリと抜いた。刺身包丁を分厚くして長くしたような七十センチ程の文字通りの『人斬り包丁』だ。
「おまえも抜けっ。戦って死ね。邪魔だてするやつは、共犯として重ねて殺すっ!」
 プイール中尉は、レオンと斬り合っても、かないっこないことを知っている。助かるには命乞いするしかない。
「あの下女が、身分をわきまえず誘惑してきて。それで、つい、仕方なかったんです。短気を起こして斬ってしまったことは、はっ、反省してます。隊長、お願いです。プイール伯爵家は⋯⋯」
「下女」「身分」「わきまえず」「ボクは伯爵家」「誘惑された」「からかっただけ」「つい」「仕方ない」「手打ちにした」⋯。苦しまぎれにレオンの最も嫌う言葉を、これでもかとばかりに吐き散らかす。
 リリーの死体にすがりついて血だらけになったミルヒが、泣きながら叫んだ。
「うそだっ! うそよーっ!」
 ついにレオンの怒りが頂点に達し、爆発した。
「死ねっ!!!」
 怒りに煮えたぎる剣筋が、うなりをあげ強姦殺人犯の左肩を直撃する。凄まじい勢いで上から下に鎖骨と肋骨を七本続けて切断し、剣はそのまま心臓を両断して斬り下がった。血を噴きながらプイール中尉は、ゆっくりと崩れ落ち、リリーと自らの血の海に沈んでいく。
 我を忘れるほどのレオンの怒りは、この程度で治まるほど浅くも軽くもなかった。実はリリーとは、人の見ていない所では友だち喋りをするほど仲良しだったのだ。結婚大宴会でも、王宮メイドコーラス隊の中心になって恥ずかしがるメイドたちをまとめて働いてくれた。

「リリーは、本当に歌がうまいなぁ」
「エヘヘヘ⋯⋯。わたし、本当は歌い手になりたかったんです」
「いいところのお嬢さんなんだろ? そりゃあ⋯」
 ひと昔前の日本と同様に、セレンティアでも芸能人の地位は低く、差別の対象だった。気の利いた娼婦か、せいぜい遊女といったところだ。良家の娘がなれるものではない。
「いいんです、もう。大勢の人の前で歌えて、素敵な思い出ができました。一生忘れませんからね。ご結婚おめでとうございますっ!」

 あの時そう言って明るく笑ったリリー・フラワルは、今はねじれたような格好で床に転がっている。
 血の海にバシャバシャと踏み入ったレオンは、プイール中尉の髪を掴んで持ち上げると、一刀のもとに下手人の首をぶった切った。それでも気が済まず、悔しまぎれに床に投げつけると転がって戻ってきた頭を思いきり蹴とばし、壁に激突させる。グシャン!と嫌な音がして頭蓋骨が砕け、脳が飛び散った。
 一同が唖然としているとレオンは、そこらに落ちていたモップの柄を斜めに切断した。
 ダンッ!
 そのまま躊躇せず、モップの棒を生首に突き通した。そして棒の先に首を貫いたまま、どこかに持っていこうとする。どうやら、城門の前で晒し首にするつもりらしい。
 たしかに三百年くらい前の乱世のフランセワでは、そんな野蛮な風習もあった。軍法にもまだ残っているかもしれない。だが、これはいくらなんでもマズすぎる。国王陛下の耳に入ったら、今度はレオン中隊長のクビが飛んでしまう。
 なんとかレオンを止められそうなラヴィラント親衛隊騎馬隊長と傷のジルベール大尉を、誰かが引っぱってきた。血の臭いが立ちこめる有様に二人とも驚愕し、必死になってレオンを止めるが、足止めが精一杯だ。怒り狂ったレオンが棒に突き立てた生首を振り回すので、そこらじゅうに血や脳が飛び散り気持ち悪い。侍女やメイドが何人か腰を抜かし、逆に騒ぎを聞いて、ますます人が集まってきた。
 気のきく侍女がアリーヌを見つけ出し、事情を聞いて青くなったアリーヌが、飛んでいってジュスティーヌをつれてきた。
「なにをしているのですっ。恥をお知りなさい! あなたは、フランセワ王国王女の夫なのです!」
 さすがにジュスティーヌは王族だ。威厳がある。血の滴る生首をぶら下げているレオンを見ても、顔色も変えない。実はスカートの下の脚は、ガクガクふるえているのだが⋯。「この人は、とうとう気がふれたのだろうか?」。
 王女の叱責に、レオン以外の全員がふるえ上がった。
「このっ、ガキがっ、王宮内で、女を犯そうとして、斬り殺しやがった! 仕方なかっただと? フザケやがってえぇぇ。王宮前に獄門首をさらして、王都民にこのツラを拝ませてやるっっ!」
 ジュスティーヌは、ルーマの大神殿聖本堂でレオンが聖女マリアの聖柩をひっくり返し、止めようとした随員ともみ合いになった時に、本気で自分を殺そうと思案していたことを思い出した。この人なら、そのくらいのことは、する。
「落ち着きなさい。それでも王族の夫ですか? ⋯あなたは、こんなことで失脚するつもりなのですか?」
 レオンの動きが、ピタと止まった。元々トラックの荷台に乗りこんで、鉄パイプと火炎ビンを振りかざし、ピストルを乱射する警官隊に突っ込んでいった過激派の突撃隊員だ。激情型で頭に血が上りやすい。しかしヤクザのたぐいではない。政治党派である過激派だった。政治的人間でもあるのだ。ジュスティーヌの「失脚」という言葉を耳にして、一気に血が下がった。少し頭が冷えたレオンは、今の状況をどうにか政治的にうまく利用できないものかと考え始める。
 法もなにも関係なく腹立ちまぎれにプイール中尉をぶっ殺したのが、実際のところである。そこをなんとか「秋霜烈日。悪事を働くやつは、身内でも容赦しない厳正な正義の人」「女や弱者を虐げるやつを許さない、弱者の味方」とかいう善玉キャラクターに持っていけないだろうか~? 保守派貴族にはますます反感を持たれるだろうが、民衆にはウケるんじゃなかろうか? カムロを動員して王都にお話しを広めよう⋯⋯。まあ、たしかに獄門首は、イメージダウンになるよな。
 そうだ! リリーの葬式の祭壇に、コイツの首を捧げたらどうだろうか? このアイディアも、あらゆる者から止められた。平民の葬式で貴族の首をさらす。そんなことをしたら、プイール伯爵家が滅亡覚悟で斬り込んでくる。血の雨が降ってリリーの実家は、大変な迷惑だろう。
 レオンは首に興味を失い、床に放り捨てた。
 ベシャ!
 ジュスティーヌの言葉で、虎のようだったレオンが猫みたいにおとなしくなった。無茶をする夫を叱りつける賢妻を演じていたが、実のところジュスティーヌは、その場にへたり込んで泣きたい気分だった。

 この事件は、プイール伯爵家から強硬な抗議がきて、国王の耳に入った。
 国王が就寝中の深夜の王宮で、警備任務中の親衛隊騎士がメイドを強姦しようとして、抵抗されたため王宮備品の剣で刺殺した。平民出身のメイドといっても王宮勤めの期間は、準貴族の身分が与えられる。レオンが殺さなくても、プイール中尉は死刑判決を食らっただろう。しかし、執行はされない。
 プイール伯爵家が、四方八方、温厚な国王にまで手を回して減刑を勝ち取り、犯人は辺境に追放刑あたりが落としどころだったはずだ。しかし、それではクズに殺されたリリーは、どうなるんだ? 
 殺人まではいかなくても、王宮で貴族出身の親衛隊騎士が、平民出身のメイドに強引に迫って手込めにする⋯といえば聞こえがいいが、強姦することが稀にはあった。だが、それまで問題になったことはない。レオンは怒っていたし、事件の見え透いた先が読めてもいた。だから貴族特権で逃げる前に、その場でプイール中尉を斬って捨てた。
 レオン中隊長の即決裁判と即決処刑については、王宮を戦闘中の戦場と同等に見なすという国法により完全に合法であり、問題にならなかった。しかし、死体の損壊を問題にされた。生首を串刺しにしてさらすなんて刑罰は、数百年前に廃れているとはいえ、一応は合法だ。だが、転がった頭を思いっきり蹴っとばして脳ミソをとび出させたのが、マズかった。貴族の名誉がどーとかで、相手は一歩も引かない。レオンの方も謝罪を拒否し、「名誉だぁ? 強姦殺人で裁かれて赤っ恥かくのを止めてやったんだ。感謝しろっ!」と堂々と開き直った。たしかにレオンの言う通りなのだが⋯。
 レオンが、ひとこと謝罪すればそれで済むのに。うんざりしている国王、大臣、大貴族が居並ぶ王宮の大会議室で、父親のプイール伯爵と口汚い罵り合いになった。

「あの首はなんだ? 貴族を侮辱しおって。人殺しめが!」
「おぉ、首を叩き落としてやったわ! 蹴ったがそれがどうしたっ!」
「異常者だ! 変質者め! 殺人狂!」
「変質者は、強姦魔のおまえのセガレだっ!」

『生首蹴っとばし罪』など存在しないので、レオンに直接のお咎めはなかった。だが、保守派貴族からは、ますますますます嫌われて、非難轟々。国王にも抑えられない。おかげでレオンの王宮親衛隊総隊長就任は、立ち消えとなり、せっかくの出世はフイになった。同時に政治の中枢からも外されてしまった。ジュスティーヌですらレオンは暴れすぎたと考え、匙を投げた。
「しばらくは、おとなしくしていてくださいませ。⋯⋯はぁ⋯」
 保守派貴族がホッとしたことに、意外にもレオンは特に抵抗することもなく王族会議や貴族会議といった政治の場からの排除を受け入れ、淡々と去っていった。
 レオンは、失脚した。
 国王と取り巻きの高位貴族たちは、レオンを政治家としてはあまりに過激で暴力的すぎると見なした。内戦の即時開始を強硬に主張するほどだ。これではとても国政に参与させることはできない。とはいえ若手貴族の多くや平民たちからは、熱狂的な支持と喝采を受けている。
 レオンの失脚によって内戦の開始は遠のいた。良いことのように聞こえるかもしれないが、二百五十万もの奴隷の解放が遠のいたということでもある。

「国家権力の本質は暴力である」(レーニン)

 暴力装置である王宮親衛隊第四中隊長からの解任であったなら、手足をもがれたも同然だ。間違いなくレオンは、カムロに指示して王都民にゼネラルストライキを決行させ王宮や貴族宅にパンひとつ届かないよう首都機能を麻痺させたうえで、「マルクス隊長を戻せ」と民衆のデモや暴動を煽って抵抗しただろう。ジュスティーヌ王女という旗印があるのだから、第四中隊を率いて王宮に乗り込み反乱騒ぎぐらいは起こしたかもしれない。しかしレオンは、王家と貴族の利害の調整、貴族間の利害の調整、税と称して搾取した財の分配。実態はそんな仕事をしている宮廷政治などを侮蔑していた。
 レーニンの言うように「国家権力の本質は暴力である」ならば、肝心の国家権力の暴力装置とレオン支持派の民間暴力を掌握することに注力し、いずれ上と下からひ弱な貴族社会を圧し潰してしまえばよい。それまで、せいぜい宮廷政治を踊らせておいてやろう。そう考えた。
 レオンがここまで暴力、(聞こえ良く軍事力と言い換えてもよいが)にこだわるのは、前前前世の過激派だった新東嶺風の体験に根ざしている。

 早大戦争である。早稲田大学で自治会を握っていた革マル派が、革マルに批判的な学生を自治会室に拉致監禁し、凄惨なリンチを加えて殺してしまった事件だ。それまでも早稲田大学では、革マルを批判したり他党派に加わる学生に対するリンチが横行していた。殺人にまで至った学内支配に早稲田大学の学生は怒り、不信任を決議して自治会室から革マルを追い出した。ところが翌日には革マルは自治会室に居座り、他大学の外人部隊を呼び寄せ内ゲバ用に特製した二段収縮式鉄パイプで武装し、反革マル学生を襲い始めたのだ。反革マル学生側は、バラバラに戦っても勝てない。昼日中の衆人環視ならば襲ってくることもあるまいと、各グループのリーダーが集ってデパートの喫茶店で会議を開いた。そこをスパイから情報を得た革マルの鉄パイプ部隊が襲撃し、居合わせた客が悲鳴をあげて逃げまどうなかで、反革マル学生を滅多打ちにして数十人に重傷を負わせ、壊滅させた。早稲田大学の革マル派支配は、鉄パイプの暴力とスパイによって維持されたのだ。
 新東嶺風の属していた第四インターは、党派闘争で暴力を行使しないという『反内ゲバ主義』を党是としていた。内ゲバなどに使う力を権力に対して向けようという正論だ。しかし、いくら革マル派の悪事と追放を言論で訴えても、問答無用で鉄パイプの滅多打ちにするという暴力の前には、なんの役にも持たなかった。結果的に早稲田大学の仲間や反革マルに立ち上がった学生たちを見殺しにすることになったのだ。
 大学構内での拉致リンチ殺人という最悪の行いをし、一般学生に見放され政治的には絶対的に不利な立場にいた革マル派が早大戦争を勝ち抜き、その後二十年以上も早稲田大学を支配することができた理由は、暴力の恐怖と恫喝だった。リンチ殺人という悪業を働いた連中の非を責め、政治的にも道徳的にも正しいことを主張し、一般学生・大衆が支持したとしても、組織された仮借のない暴力の前には吹き飛ばされてしまう。
 新東嶺風は、早大戦争の苦い経験から、政治的に絶対不利であったとしても暴力によってひっくり返すことができることを学んだ。クラウゼヴィッツは「戦争とは他の手段を持ってする政治の継続である」と述べた。「異なる手段」とは、要するに暴力のことだ。つまり「戦争とは暴力による政治」なのだ。暴力は、エスカレートしてゆく。暴力が極限にまで達すると、戦争という暴力が政治の上に立つことになる。それをクラウゼヴィッツは『絶対戦争』と名付けた。
 もし政治的に誤りがあったとしても、戦争に勝ちさえすれば自己の意志を貫徹し、道徳性すら獲得できる。例えば、非戦闘員の頭上に無警告で原子爆弾を投下し数十万人も無差別に殺戮することは、政治的・軍事的には無意味であり道徳的にも誤っている。しかし、戦勝したアメリカにそれをいう者は、ほとんどいない。国や権力者、それに勝者が常に正しいという奴隷根性は、暴力を独占している者につき従いへつらってきた隷属の歴史から生まれたのだ。

 奴隷を解放しろということは、領主貴族にとって財産である家畜を無償で手放せというに等しい。奴隷制は領主貴族の経済的な基盤なのだから、奴隷を失えば全財産を失なってしまう。王命とはいえ従えるはずがない。逆に王家からすれば、奴隷制を残置すれば国の発展が妨げられ、いずれ産業革命を成し遂げた他国に滅ぼされ、フランセワ王国は植民地にされてしまう。奴隷制の廃絶は絶対に譲ることができない。
 一部の領主貴族は、国が奴隷を買い取ることを求めた。しかし、二百五十万人もの奴隷を買い取る資金など王国には無い。そもそも領主貴族が国民を不当に監禁し労役させているということが奴隷解放の根拠だ。道義的にも到底承諾できるものではない。奴隷制問題を話し合いで解決することは、不可能だ。
 暴力による自己の意志の強制。もうフランセワ王国には、戦争という暴力で奴隷を解放する道しか残されていない。内戦を避ければ国ごと滅びる。民衆派のレオン・マルクスから保守派貴族まで、その点ではフランセワ王国の意志は固まっていた。開戦が早いか遅いか。どこまで徹底的に奴隷制と領主領を破砕するかだけだ。
 いくら領主貴族たちが強力な騎兵部隊を持っていても、フランセワ王国に戦勝できる可能性は無い。しかし人間は、見たいものを見て、信じたいことを信じる。「なんとかなる。いつまでも自分たちの生活は安泰だ」。領主貴族は、ぼんやりとそう考えている。たしかに強硬派のレオン・マルクスは失脚した。だが、着々と力をたくわえ、巻き返しの機会をうかがっている。

 少々話しがそれたようだ。レオンが失脚する原因となったリリー・フラワル殺害事件に戻そう。 
 レオンは、殺されたリリーの実家まで謝罪に訪ねるのが気が重かった。殺害現場にレオンを連れていったことで、結果的に親友リリーの仇をとったミルヒが、案内してくれた。
 王宮親衛隊が厳戒態勢をとった。王族のレオンに手をかけたら、ルイワール公爵家の二の舞となり、男女問わず一門は処刑される。もともとプイール伯爵家は、中堅どころの法服貴族。王宮の官僚だ。ほとんど剣など握ったことはない。一族の中で一番強かった男が王宮親衛隊に入ったのだが、レオンに生首にされてしまった。ゴロツキを雇おうにも、相手がレオンでは応じる者がいるはずもない。
 国王は、王家直轄の親衛隊部隊に厳戒態勢をとらせることで、プイール伯爵家一族がレオンを襲撃しない口実をつくってやった。
 隊長のレオン大佐は俸給の半額を三カ月分、平隊員は半月分を返上し、五千万ニーゼの謝罪・賠償金をひねり出した。とはいえ、カネを払えばどうにかなるわけではない。
 賠償金を持ってリリーの実家を訪れたレオンは、両親がおびえるほど平身低頭だった。遺族が意外に優しかったのは、たぶんレオンが怖かったからだろう⋯。
 もともと一九七八年の日本に生きた新東嶺風が、レオン・マルクスの前前前世であり、今もその思考を支配している。こんな事件を起こしてしまったら、責任者が遺族に謝罪し、賠償金を支払うのは当然だという感覚だ。ところが、最高位に近い貴族が平民屋敷に賠償金を持参し、部下の悪事を謝罪する。これは身分社会のフランセワ王国では、信じ難いほどの驚きだった。しかも元凶の犯人は、責任者のレオンがその場で処刑している。
「下民などに謝罪するなど貴族の権威を損ねる」とかで、保守派貴族どもはレオンをますます嫌った。逆に王都の民衆の間では、もともと高かったレオン人気は、ガン!と跳ね上がった。
 失脚したといっても王宮内の宮廷政治でのことだ。親衛隊中隊長を解任されたわけではない。レオンは時がくるまで雌伏し民衆派の組織を固め、王都の民衆の人気取りに精を出すことにした。
 レオン人気のうなぎ登りには、理由がある。ついにガリ版印刷機が完成したのだ。こいつのおかげで短期間で大量の印刷が可能となった。
 手始めに今回のレオンの生首事件を印刷し、カムロにバラ撒かせた。それまでマスコミなどなかった王都民に、これは効いた。自作自演で大いに美化があるが、内容はまぁまぁ事実だ。

 前前前世の過激派時代に新東嶺風は、毎日のようにガリ版印刷機を使ってアジビラを刷ったものだ。その経験が役に立った。
 レオンは、ガリ版に関して思い出せる記憶をひねり出すと元浮浪児の発明少年を集めた開発チームに丸投げした。
 ガリ版の開発で一番苦労したのは、ロウ紙の製造だった。ロウを塗った薄い紙のようなものだ。これが印刷原版になる。ロウを溶かした液に紙を漬けたり刷毛で塗りつけてみたりと試行錯誤のすえ、蜂の巣から取った蜜蝋が最適だと分かった。子供の柔軟性とは、たいしたものだ。
 先が尖った鉄芯になっている『鉄筆』で、ロウ紙のロウを削って字を書く。下にヤスリ台を置きガリガリと音を立ててロウ紙を削るので、この作業を「ガリ切り」といった。削り文字だから曲線が苦手だ。『U』が『V』みたいになってしまい、字が角張る。細かく書くのも苦手なので、『闘争』を『斗争』、『権力』を『权力』と略したりした。独特の字体は、「ゲバ文字」などと呼ばれた。元はガリ版のビラから生まれた字体のようだが、立て看にもゲバ文字が持ち込まれた。
 ゲバ文字もセクトごとにこだわりがあり、似ているようで微妙に形が異なっていた。どうも中核派が一番上手で、民青はフヌケた感じ、ブントは荒っぽくて勢いがあり、ノンセクトは字がヘタで雑、第四インターは妙な飾り文字を多用していた。
 ロウ紙に消しゴムなどはないので、ガリ切りは一発勝負だ。過激派には妙な美意識があった。一文字でも書き損じるとボツになり、最初からやり直す。なんとか書き終わると、薄い布を張った木枠の下にロウ紙を取りつける。
 浅い箱の中にわら半紙を入れ、わら半紙の上にロウ紙をつけた布枠を乗せる。インクをつけたローラーを布の枠の上で転がらせる。文字部分にインクが通って、印刷できる。紙を出し入れする係と、ローラーを転がらせ布枠を持ち上げる係の二人一組で作業すると早い。慣れると一分で十枚以上は印刷できた。一時間で六百枚だ。
 残念ながら今回開発したガリ版印刷機は、インクとロウ紙の品質がまだまだで、一時間に二百枚印刷するのが精いっぱいだった。細かい字の印刷もまだ難しい。とはいえ、手書きやコンニャク印刷とは比べものにならない速さで大量の印刷ができる。
 さっそく、訓練も兼ねて印刷をしてみた。印刷物の内容は、今回のリリー殺害事件の顛末だ。交代で五時間ほどかけて千枚ばかり刷った。少し刷り上がるとすぐにカムロがアジビラを掴んで飛び出していく。貴族に読まれると吊し上げを食らいそうなので、夜陰に乗じて平民地域の掲示板に貼ったり、大衆酒場の主人に渡したりした。この世界では、紙自体が珍しい。千枚なんてアッという間に捌けた。
 レオンは、カムロたちにポスターの貼り方まで指南した。
 過激派は、ポスターのことをステッカーと呼んでいた。街の電柱にステ貼りをしてもほとんど反響はないし、警察に弾圧される。ステ貼り程度の軽犯罪で現行犯逮捕され、二十三日もぶち込まれた仲間もいた。なので基本的に大学構内に貼った。内ゲバの激しい大学だとステ貼りすら命がけだったらしいが、新東嶺風の通っていた東北田舎大学では、民青が「壁を汚すな」とか難癖をつけてくる程度だった。
 ステ貼りは二人一組が基本だ。貼りつけには本物の洗濯ノリを利用した。たぶん一番安価だったからだろう。一人が水と洗濯ノリをぶち込んでかき回したノリバケツをぶら下げ、もう一人が印刷したステッカーを抱えてサークル棟から出撃する。廊下といわず便所といわず空いている壁の端から端まで上・中・下の三回、刷毛で洗濯ノリをザーッと引く。続いてもう一人が、端からペタペタペタペタペタとステッカーを連続的に壁に貼っていく。校舎の一階から六階まで二人組でうろつき回り、空きスペースを見つけると偏執的に同じステッカーを何百枚も貼りまくった。お知らせなら要所要所に一枚ずつ貼ればよいのだが、セクトの勢力誇示や集会前の景気づけの意味あいもあった。
 他党派のステッカーを破いたり、上に重ね貼りしたりすると、小競り合いになってしまう。反内ゲバ主義が党是なのでレオンたちは気をつけたが、少数いた革マル派がよくそんなことをしてトラブルを起こしていた。

 コンニャク印刷の時と同様に、ガリ版印刷機を国王に献上した。王様が例の生首蹴っとばし事件で怒っていたので、ご機嫌を取ったのだ。こんなカラクリが好きな国王は、自らローラーを転がして印刷して喜んでいた。同じ書類を何度も書く必要がなくなった王宮総務部や経理部あたりは、もっと喜んだ。
 しかし、これが数カ月で王都民の意識を激変させる程の大発明だとは、誰も気づかない。
 ガリ版印刷機の開発は、金儲けだけが目的ではなかった。大量に印刷された紙媒体を利用して、レオンに都合のよい情報を王都に行き渡らせる体制をつくることが最大の目的だ。情報の素早い伝達ができなければ、大衆の組織化はできない。
 王都パシテのような都市では、情報がなければ人は生きていけない。それまでも木版印刷のかわら版や講釈師のようなものは、既に存在していた。水準はピンからキリまでだったが、それなりに質の高そうな連中に、レオンは格安でガリ版印刷機を譲ってやった。さらに印刷の技術指導の名目で、公然部門のカムロをつけた。セレンティアの大学院水準の教育を十四歳かそこらで施されたカムロたちは、仕事ができる。これからマスコミ界で出世するはずだ。
 ガリ版印刷機を格安でバラ撒くことには、カムロたちから異論がでた。高く売りつければいいのに⋯。しかしガリ版は、構造が単純だ。レオンは、模造品がつくられるのは時間の問題とみた。肝心のロウ紙とインクの製法を握っているのだから、印刷機を格安で譲って恩を売り、カムロをマスコミ界に押し込む方が得策だ。新聞の規模が大きくなったら、カムロの印刷所が受注する。当面の利益は、ロウ紙とインク、それに格安の粗紙で出せばよい。意外に商才があったレオンは、現代日本の悪徳プリンター屋の高額インク商法みたいなことを考えた。それに保守派貴族どもだって、いつか御用新聞を設立するだろう。やつらがあまりに敵対的な場合は、ロウ紙とインクの供給を停止してしまおう。
 王立印刷所をはじめ子会社の民間印刷所を設立し、どうにか二百五十人のカムロの生活の基盤をつくることができた。王都の浮浪児の数は、三千人以上だ。カムロたちがこの三千人に餓えない程度の生活物資を供給し、カムロ組織の目と耳を広げた。
 資金の裏付けができたおかげで、予算を国に依存しないレオンとジュスティーヌ個人に忠誠を誓う私兵団のタマゴを、なんとか設立することができた。
 印刷・製紙・商店の小僧・マスコミ・王宮の下働き・親衛隊の伝令・軍士官学校生。これがカムロの表の仕事だ。彼らの多くは、長じて政府高官や大ブルジョワに成長するだろう。そしていつか、レオンと最後のたたかいを決することになるかもしれない。とはいえ今は、ブルジョワは封建制とたたかう同盟軍という位置づけだ。そして封建制を倒したら、すぐさまブルジョワを打倒する社会主義革命に移行する。
 カムロの裏の顔は、情報収集と世論工作を中心に、レポ・大衆煽動・破壊活動・暗殺工作まで行える特務機関だった。表に露出している二百人が、正業について資金調達や広範な情報収集・世論工作を行う。特別に選ばれた五十人の非公然部隊が、専従工作員としてスパイ潜入から暗殺や破壊活動まで非合法活動を担った。
 レオン=新東嶺風のセクトは、『ゼロ部隊』と呼ばれるコマンド部隊を持っていた。しかし、秘匿された地下軍事組織は、あえてつくらなかった。地下秘密ゲリラ闘争は、たたかう人民から遊離した軍事偏重の代行主義であり、王道である大衆の実力闘争を阻害すると考えていたからだ。非公然を組織し、内部を入子細工のように二重化して非合法部隊を地下に完全に秘匿するやり方は、新東嶺風の死後に革命軍を組織してテロ・ゲリラ闘争を行った中核派を参考にした。

 レオンとジュスティーヌ夫妻のフランセワ・マルクス伯爵家の家計は、常に火の車だった。結婚した際に父王から下賜された祝い金は、屋敷を買いそれなりの家門を立てろという趣旨だった。ところが侍女のアリーヌが目を離した隙にレオンが持ち出して、民衆に酒を配ったり王立診療所を建てたりで、見事に全部つかってしまった。
 続けてレオンは、慈善に見えて実は国家体制を変えるほど重大な意義を持つ事業を始めた。どうにかカネを工面して、王宮のすぐ隣りに平民の子供のための剣道場を建てた。入門試験があるが、稽古料は格安だ。カムロと貧乏だが見どころのある子供は、無料にした。子供好きの親衛隊騎士が、交代で稽古をつける。
「子供の中には未来がある」などといいながら、レオンも時間を見つけては顔を出した。道場で頭がいい子供を見つけると、定期的に集めて泊まりがけの学習教室を開き、例のテツガクと文字や算数といった実学を教え込んだ。これは幕末維新の革命家、吉田松陰の松下村塾を真似した。
 親たちは喜んだ。上位貴族と口をきいて貰えるだけでも大変なことなのに、王族に勉強を教えて貰えるとは! きっと子供の将来の栄達の道を開くに違いない。
 しかし、一部の貴族は、レオンの子供剣術教室の危険性に気づいた。貴族や騎士が平民より上位にいるのはなぜだろうか? 様々なしきたりや因習のベールで隠されているが、究極的には彼らが武装し戦う権利を持っているからだ。たとえば、貴族同士が決闘で剣をふるっても、よほどのことがなければ罪に問われることはない。しかし、平民が喧嘩で刃物を持ちだしたら、立派な犯罪だ。
 子供剣術教室などという可愛らしい名称で隠して、レオンはなにくわわぬ顔で王都の平民階級に暴力を解放し、軍事力を手渡そうとしていた。

 アリーヌが憤り嘆き悲しんだことに、王族なのにジュスティーヌとレオンは、屋敷もかまえずに王宮に居候している。レオン=新東嶺風は、四畳半暮らしだったので、二十畳の部屋が五つもある元客間は、広すぎて落ち着かないくらいなのだが⋯。
 王宮に居候しているのには、レオンにも一応の考えがあった。屋敷をかまえるより、権力の中枢である王宮に住み着いた方がなにかと有利だ。
 レオンの俸給は、年に三千六百万ニーゼ。月給三百万円といったところだ。ボーナスは無いので、現代日本の政府高官とそんなに変わらない。王女のジュスティーヌには、毎年一億二千万ニーゼの王族手当がつく。多く感じるかもしれないが、日本には、年収二億や三億なんてブルジョワは、いくらでもいる。夫婦で一億五千万ニーゼ程度の年収で、孤児院と無料の診療所を経営しているのだから、まぁ、どうがんばっても家計は火の車になってしまう。
 再びアリーヌが嘆いたことに、ジュスティーヌは無用の贅沢をやめてしまった。王女が二度も同じドレスを着て貴族パーティーに出るなど、およそ有り得ない。賢いジュスティーヌは、二百着以上もあった結婚前のドレスを仕立て直したり着こなしを変えたりして、うまくごまかしている。もともとセンスが良いので、「結婚してからさらに美しくなった」なんて言われている。宝石や装身具のたぐいは、『王族の間』から借りだし、自分では買わない。
 腹違いの妹のジュリエット・ド・フランセワ第四王女は、十人も侍女を引き連れて連日のように貴族の集会に顔を出している。小さいながらも『赤い王女』主催のパーティーもよく開いていた。
『白い王女』と呼ばれるジュスティーヌ・ド・フランセワ・マルクス王女の侍女は、三人だけだ。伯爵家が雇用している侍女は、タヌキ美人で「~ですわ」が口癖の短刀投げの名手・マリアンヌだけ。アリーヌと猫娘のキャトウは、ジュスティーヌ王女付きの王宮王家侍女なので給金は王宮持ちだ。マルクス伯爵家の使用人は、公的にはこの三人しかいない。あとはカムロが常に数人待機していて掃除や雑務を行い、いざという時には伝令やレポになる。容姿が不細工だと王宮では目立つので、年少組の美少年ばかり集めたら、メイドや二級侍女の女の子たちが喜んでしまい、可愛がってくれるようになった。
 それにしても王女が降稼した伯爵家としては、マルクス伯爵家は異常に使用人が少ない。カネが無いことが一番の理由だが、レオンは自分がいつ殺されるか分からないと考えていた。三回連続で殺されているのだから、四回目もあるだろう。戦死ならともかく、貴族の権力争いに負けて罪に問われるなら、連座する者は少ないほどよい。手に職をつけたカムロたちなら、地方都市にでも逃げ込めばなんとかなる。もともと平民だったマリアンヌは、カムロの手引きで聖都ルーマにでも逃げ込めば、どうにでもなる。伯爵令嬢で実家の後ろ盾があるアリーヌとキャトウは、所属が王宮王家侍女だ。もし、レオンが権力闘争に敗れても、フランセワ王家が倒れでもしないかぎり巻き添えの連座はないはずだ。

 レオンが出世を棒に振る生首事件を起こしてから一年近くは、平穏に過ぎた。とはいえ保守派貴族どもに、やることなすことことごとく横やりを入れられ鬱陶しくて仕方がない。王宮親衛隊を中心に若手貴族には熱烈な味方が多いのだが、まだ若すぎた。家督も継いでない若手ではどうにもならない。貴族家の食卓でレオンの評価をめぐって家長と子が口論になり、レオンはますます家長に嫌われた。
 ジュスティーヌを保守派貴族との争いの矢面に立たせる真似はしなかった。王宮内の権力闘争では、どうせ勝てやしない。民衆派とみなされてジュスティーヌの父王への影響力が落ちたら、親衛隊中隊長の解任、完全失脚もありうる。ジュスティーヌには、乱暴者の夫に困っている妻が、王女権力で夫の暴走を抑えているように見えるようふるまわせた。生まれた時から貴族たちの権力闘争を見てきたジュスティーヌは、容姿に似合わぬ政治家でもある。大層面白がって演技し、要所を押さえてくれた。
 王宮の官僚貴族たちには、フランセワ・マルクス伯爵夫妻の奇妙な性質が見えてきた。この二人が並んで歩いている様子は、まるで熊と鶴だった。熊と鶴なのに夫婦仲は、とても良い。なのに、夫婦で出席が基本の社交の場には、レオンはまず出てこない。北欧系のモデルのようなジュスティーヌ第三王女が三人の美しい侍女を連れて、愛想を振りまいた。少しラテン系が入ったジュリエット第四王女が同じ会場にいると、白い薔薇と赤い薔薇が美しさを競っているようだった。
 どうしても男性パートナーが必要な場合は、腹違いの弟で仲が良いシャルル第四王子や、幼なじみで婚約者候補だった傷のジルベール侯爵令息に頼んでついてもらった。親衛隊の若い騎士にエスコートを頼むと、たちまち惚れられてしまい後で困る。親衛隊騎馬隊所属のジルベールは、黒馬に跨がったジュスティーヌ王女が王宮馬場を縦横に駆け巡り、女性騎馬騎士を辟易させているところを何度も見ている。容姿に似合わないじゃじゃ馬で、とんだ猫かぶりだということを知っていた。もともと下町育ちなので、貴族的な容姿のジュスティーヌ王女は、まるで好みではない。黒髪黒目の丸顔でよく笑い、クルクル働く小柄な雑貨屋の看板娘みたいな娘が好みだった。だからジュスティーヌと妙なことになる心配はない。ジュスティーヌとの婚約話が消えた時は、心底ホッとしたほどだ。
 レオンは、いずれ一掃するつもりの貴族階級の社交のたぐいには、なんの意義も感じられず関心もなかった。貴族なんて、人民の労働にたかる寄生虫だ。それでも政治や外交のネタには使えるかもしれないと、『貴族名鑑』やら外国王家と繋がりのある貴族家の系図やらを暗記した。ナントカ男爵家はカントカ領の村の村長みたいなことをしており、元はカントカ侯爵家の分家で、三代前に分かれ今も本家と分家の関係で繋がっているとか⋯。面倒くさい⋯。本当に役に立つのか?
 逆に王都パシテでよく行われている平民の町祭りには、レオンはふるって参加した。手みやげに三十万ニーゼ分くらいの酒や菓子を持って参加者にふるまい、余興に得意の居合いで立木を斬って大衆に大ウケした。祭りのついでに町内の困りごと相談なんかも受ける。こんな調子で民衆に顔を売って人気を取り、ヤクザではないがカタギでもない、地域のまとめ役とも顔をつないだ。
 なんといっても一番喜ばれたのは、ジュスティーヌ王女殿下の御来臨だった。ところが、ジュスティーヌが来ると、皆は喜ぶのだが酒盛りがおとなしくなってしまう。宴会が始まる前に顔を出して女や子供らとふれあい、酒が出る前に引き揚げるのが気後れせず、お互いに一番良いようだった。平民は貴族を嫌っていたが、レオンの努力のかいもあって王族は、別格に好かれていた。
 ジュスティーヌの結婚前の懸念は、レオンの乱痴気騒ぎ好きと安淫売宿通いの悪癖だった。乱痴気騒ぎの方は、王都の人たちを招いて十万人の大宴会をしたり、お祭りがあると聞くと大量の酒や菓子を寄付して参加するなど、大変にエスカレートした。「⋯でも、きっと必要なことなのでしょう」。
 安淫売宿通いは、結婚したらピタリと治まった。結婚前は、レオンが隠しもせず『フケツな場所』に繰り出して大騒ぎするたびに、ジュスティーヌは胸が締めつけられるようで息が苦しくなるほどだった。「この人から離れられないのだから、我慢するしかないわ。でも、せめて高級娼館にしてくれないかしら」とまで胸を痛めていたジュスティーヌにとって、これは嬉しい誤算だった。
 結婚は貞操義務を負う契約である。レオンは、約束を必ず守った。どうしても守れないときは、謝罪して筋を通した。男女差別の残るこの国では、女性貴族の不貞は刑事犯となり姦通罪で牢に入れられ辺境の神殿送りになったりする。ところが男の浮気に刑事罰はない。レオンは、予想外に良い夫になった。
 レオンは、ちょくちょく王宮メイドの仕事場に遊びに行った。最初は怖がられていたが、なじむと意外にモテた。だが、誰にも一回たりとも手を出すことはなかった。可愛いメイドの女の子に嬉しそうに愛嬌を振りまいている。もちろん目当ては女の子ではない。その後ろにひかえているブルジョワの実家に、伝手をつないでいるのだ。
 カムロの商売は、順調そのものだった。とりわけ紙は、王宮用紙に混ぜ物をするなどして品質を下げ、さらに大量生産することで千分の一以下に価格を下げることができた。一枚十ニーゼ程度の廉価な紙は、印刷物の需要の爆発的の増加をもたらした。試行錯誤していたカムロの資金調達部門は、王立印刷所とロウ紙・インク製造業を残して製紙業に全資本を投入した。製紙には大量の水が必要なので、全国に製紙工場を建て、地方の浮浪児もすくい上げることができるようになった。製紙工場を拠点に、フランセワ王国全土にカムロの『細胞』が育ちつつあった。
 紙の普及は、確実にフランセワ王国を変えていった。将来マスコミに成長するミニコミが、雨後の竹の子のように生まれた。おかげで王都パシテの動向は、数日でフランセワ王国の隅々にまで伝わるようになった。ほんの数カ月前には考えられなかったことだ。

 レオンが完全失脚をまぬがれたのには、理由がある。領主貴族を滅ぼすという点では、レオンら民衆派と保守派貴族は一致している。路線の違いがあるわけではない。その時期と徹底さが異なるだけだ。それに保守派からすれば、レオンはいざ戦争になった際に役に立ちそうな数少ない王族でもある。人気者のジュスティーヌ第三王女が、貴族の間を泳いで上手に取りなしてもいた。
 元々貴族階級なんぞ滅ぼすつもりのレオンは、ゲリラ革命路線の方が良いのではないかと考えることも、しばしばだった。国王と取りまきの保守派貴族は、レオンがそこまで考えているとは夢にも思わなかっただろう。だが、「コイツはナニをするか分からないやつだ」「野に放ったらロクなことにならない」程度の知恵はあった。
 レオンは、若手貴族のエリート集団である王宮親衛隊の強い支持を得ている。王都で警察活動をしているので、協力関係にある王都警備隊も影響下においた。民間暴力、ヤクザにも顔を繋いでいる。印刷所なるものを持ち、マスコミなるものを握り、孤児を利用した自前の特務機関らしきものまで運営している。なによりも平民どものレオン人気がすごい。
 レオンの多少のヤンチャには目をつぶり、首に縄をつけてうまく働かせるのが正解だ。貴族階級の飼い犬として働かされるために、レオンは失脚をまぬがれた。もちろん飼い犬は、いずれ飼い主の手を噛む気満々だ。
 政治から排除されたレオンは、保守派貴族どもを冷ややかに眺めつつ、民衆の人気取りと親衛隊第四中隊を鍛えることに熱中した。民衆の歓呼を浴び第四中隊を鍛えることができる一石二鳥は、やはり愚連隊狩りだ。
 ブラック・デュークの壊滅を見た他の愚連隊集団は、蜘蛛の子を散らすように逃亡してしまった。しかし、過去の悪行が消えたわけではない。チビ権力をかさにきて隠すこともなく悪事を働いてきたので、調べればいくらでも証拠が出てくる。虎の威を借りていた平民の愚連隊は、激怒した民衆にもう始末をつけられていた。数百人が半殺しにされ、とくに悪質な人殺しの百人以上がなぶり殺しの目にあった。
 隊長のレオンが失脚して時間ができたので、第四中隊はやり残した仕事に取りかかることにした。生き残りの百人ほどの愚連隊を摘発し、文字通りひとり残らずせん滅するのだ。レオンは、「赤色個人テロルと都市ゲリラ戦の訓練だ!」とやる気満々だ。
 まず、死刑相当の悪事を働いたやつらの名簿をつくり、司法当局に持ち込んで裁判に出廷せよという召喚状を逃げ込んだ実家に送りつけさせた。もちろん出てくるわけがない。欠席裁判で死刑を宣告させ、国王から即時執行可の令状を手に入れる。失脚させた負い目があったからか、案外簡単に発行してくれた。事実上の殺人許可証である。愚連隊がひそんでいる貴族屋敷を、二十四時間体制で厳重な監視下においた。
 愚連隊に対するカムロの恨みは、骨髄だった。浮浪児だった時に空腹でへばっていると、通行人に「邪魔だ」と蹴り飛ばされるようなことはよくあった。だが、愚連隊の暴力は度を超していた。捕らえた浮浪児を縛りつけて、面白半分に一本ずつ指を削いだ。泣きわめく浮浪児を引きずってドブ川に投げ込み、溺れて沈んでいく様子を酒を飲みながら笑って見物するという水準だ。愚連隊に仲間をなぶり殺しにされていないカムロなど、一人もいない。
 敵をとろうと監視しているカムロの執念は、凄まじかった。それなりに広い屋敷の庭に入り込み、薮に隠れてどれほど虫に刺されようとピクリとも動かないで見張っている。出入りの業者の平民なども愚連隊を嫌い抜いているので、情報を入手しやすかった。
 貴族屋敷に逃げ込んだ逃亡愚連隊には、外でなにが起きているのか分からない。どいつもこいつもクズなので、博打や買春が我慢できず、ほとぼりが冷めた頃だろうと実家のお抱え騎士を何人か護衛につけ、屋敷から夜陰に乗じて出てきた。すぐにレポからツナギのカムロに敵の動きが伝達され、十分後には親衛隊宿舎に報告が届いた。
「よーし。ウジムシがクソ壷から這い出てきたぞ!」
 レオンが地図を開き、ターゲットの予想進路と取り逃がさず最も有利な体勢で戦闘可能なポイントを選定する。ただちに二十名ほどの遊撃部隊が出撃した。もちろん駆け足でだ。訓練で隊長が散々走らせたわけが、ようやく分かった。

 顔を隠しコソコソと暗い裏道を歩いていた逃亡愚連隊の目の前に、すでに剣を抜いている親衛隊第四中隊選抜遊撃隊が立ちふさがった。先頭に立っているのは、抜き身の細剣を肩に乗せトントンやっているレオンだ。
「いよう。アルーイ伯爵令息のお出ましだ。会いたかったぜぇ。フッフッフッ⋯」
 仰天して飛び上がり回れ右して逃げようとするが、いつの間にか退路も親衛隊にふさがれている。王都で今や知らぬ者のないレオン・マルクス大佐率いる二本差しの殺人集団だ。
「イシス・アルーイだな。貴様に死刑許可令状が出ている。罪状は、殺人十一件。強盗、重傷害、強姦など計四十三件。フフッ。死にたくなければ、戦え。勝ったら放免してやるぞ」
 選ばれた親衛隊騎士が剣を抜いて前に出てきた。勝ったら放免してやるというのは、例によって本気で戦わせるための嘘だ。こんな極悪人を野放しにするはずがない。
「おおっと、護衛は引っ込んでな。手を出したらアルーイ伯爵家は、滅びるぞ」
 命がけで愚連隊の生き残りを護ろうとした護衛は、誰ひとりとしていなかった。ルイワール公爵一門滅亡事件は、誰でも知っている。それに、名誉ある伯爵家に転がり込んできたイシスとかいうこの愚連隊の犯罪者を、護衛騎士たちは大嫌いだった。ヒスを起こして物を投げる。なにが気に入らないのか使用人を殴る蹴る。女中を犯す⋯。内心、「こんなガキ、死ねばいいのに」と思っていたのだ。喜んで愚連隊のガキから離れた。
「護衛騎士の武装を解除する必要は、無いな⋯。これより死刑を執行する。よーし、やれっ!」

 一歩でも屋敷から出た逃亡愚連隊は、こんな調子でひとり残らず血祭りに上げられてしまった。しかし、絶対に屋敷から出てこない愚連隊が最後に何人か残った。
 貴族の屋敷に討ち入るには国王の勅許が必要だ。保守派貴族側に行った国王が、そんなことを許可するとは、到底思えない。気長に愚連隊が出てくるのを待つしかないという親衛隊幕僚会議の結論に、レオンがとんでもないことを言い始めた。
「ウジムシが出てこねぇなら、クソ壷からあぶり出せばいい。屋敷に原因不明の火が出る。消火に駆けつけた親衛隊部隊が、逃げてきたやつらを人相改めして、たまたま発見した愚連隊のガキを殺るってのはどうだ?」
 荒っぽい第四中隊の幕僚も、さすがにたじろいだ。この人は、ヤルと言ったら殺しでも放火でも必ずやる。⋯マズい!
「し、しかし、放火は⋯」
「放火? なに言ってんだ? 不審火だよ。火が出はじめるのは十日後ぐらいかな⋯。ツテがあったら最後の警告をしてやれや」
 レオン隊長は、最後の警告をしろと言っている。王宮親衛隊騎士は貴族であり、愚連隊が逃げ込んだ屋敷の主も貴族だ。縁戚関係や仕事のつきあいを利用して、忠告や警告を与えるくらいはできる。
 四方から寄せられる恐怖の警告に、屋敷の主は頭を抱えてしまった。グレて平民を殺した出来損ないをかくまったら、屋敷を焼き討ちされる羽目になるとは! ルイワール公爵家滅亡を思い出した。あのレオンという男なら、必ずやる。最高位貴族の公爵の処刑を、民衆の前で見世物にするような男だ。国王陛下に訴えても無駄だろう。「犯罪者をかくまっておるのか」と、お叱りを受けるのが関の山だ。
 十数人の愚連隊が、屋敷近くで自殺体で発見された。深夜に屋敷から走り出てきた馬車から、愚連隊の死体が放り出されたなんてこともあった。
 小知恵の働く逃亡愚連隊は、貴族のパパとママに守ってもらって王宮にたどり着き、国王に減刑を嘆願しようと悪あがきしてきた。屋敷を出た瞬間から行動が把握できているので、路上で遊撃隊に攻撃させることもできる。だが、たとえ国王にすがりつこうとしても無駄だと教えてやることにした。
 王宮の入り口を護っているのは、もちろん王宮親衛隊だ。「死刑判決を受け、逃亡中の愚連隊がくる」とカムロに耳打ちさせた。第四中隊ではなく、高位の保守派貴族が多い第一中隊の当番日を小狡く狙ったようだが、無駄なことだ。
「とっ、通せ! 余はアイーガ伯爵であるぞ! 国王陛下に、お目通りにまかり越した」
 門衛騎士にとってアイーガ伯爵どころか国王よりも、レオン隊長の方がよほど恐ろしい。怒らせてプイール中尉のように首を刎ねられたらたまらない。黙って剣を抜くと、お互い目配せして親の目の前で愚連隊のガキを斬り殺してしまった。
 待っていたようにレオンがやってきた。王宮の入り口でアイーガ伯爵夫妻が腰を抜かしており、愚連隊の死体がころがっている。貴族どもが見て見ぬ振りをして通りすぎる。
 レオンは、いたって満足げだ。
「これはこれは、アイーガ伯爵閣下。殺人犯を連行して下さり、お礼を申し上げます。死体は検査しますので、その後にお引き取りください。どうぞこちらへ。事情聴取にご協力いただきます」
 腰を抜かした伯爵が、どうにか取り繕おうとする。
「き、貴族は国王陛下の勅許なしでは逮捕できないはずだ。し、死体を片づけろ。アイーガ家の名誉が⋯」
 レオンは、明らかに嘲笑している。
「あんたを重罪犯隠避の現行犯で逮捕することもできますがね。そちらがお望みですか? 貴族の犯罪でも現行犯なら国王勅許は不要です。それと犯罪者の死体は、現場検証が終わるまで動かせません。⋯⋯おぅ! 連行しろっ!」
 登城する貴族たちは、必ず王宮門を通り跳ね橋を渡って城に入る。嫌でも愚連隊の死体と拘束されたアイーガ伯爵夫妻、指揮するレオンを見ることになる。いい機会だとばかりにレオンは、そのまま門前に死体を転がらせて見せつけてやった。失脚させやがった保守派貴族どもを威嚇しているのだ。愛情は裏切るが、恐怖は裏切らない。
 掃討作戦を開始してから四週間もたたずに、レオンは王都パシテから愚連隊を文字通り皆殺しにして一掃してしまった。愚連隊の暴力におびやかされていた王都民は、もう大喜びだ。レオンは、王都百五十万民衆の英雄になった。だが保守派貴族からは、ますます憎悪された。

 こんな調子でレオンは、王宮親衛隊第四中隊を鍛え上げた。豊富な資金を手に入れ、カムロの組織を整えた。わずか一年半でレオンは自由に使うことができる暴力装置と特務機関を作り上げたのだ。だが国家権力の最強の暴力装置は、なんといっても軍だ。
 自分の失脚により開戦の時は多少延びたとはいえ、必ず内戦が始まるとレオンは予測していた。フランセワ王国軍も同様の予想をし、目立たないように戦争の準備を進めている。
 戦争のどさくさに革命騒ぎを起こしても、おそらく周辺国の干渉で潰される。強力な民衆軍を創設して内戦に圧勝し、戦勝で力をつけた民衆と民衆派貴族による民主主義革命を行い、フランセワから封建遺制を一掃する。革命の結果、生産力は急激に増大するはずだ。その力を背景にして社会主義革命と世界革命戦争に突入する。この世界革命に勝利した暁には、階級の無い、搾取も国家も無い共産主義社会が実現する。これが今のレオンの革命の青写真だ。
 戦争とは、同等の知能と意志力を持つ敵対者の存在する行為だ。現実の戦争においては、全てが複雑であり流動的で予測は不能となる。だからレオンは、青写真の通りにうまくいくとは最初から考えていない。ただ、戦争目的が『世界革命の達成』であり、世界革命のための戦争目標が『敵の総せん滅』だと、ブレずに掴んでいた。
 革命の実現には、絶対に戦争に勝利しなければならない。そのための軍事力の強化には、土台となる生産力を増大させ、国力を強化することが必須だ。フランセワ王国でレオンが革命を成し遂げるためには、国家権力・軍権の掌握と、国力の裏打ちがある戦力の強化が絶対条件になる。革命のカナメは、大衆の支持と軍事力=暴力なのだ。
 国力と軍事力は、相関関係にある。なのでレオンは、フランセワ王国の国力を底上げしなければならない。それは容易な事業ではないように感じられるが、実はそうでもない。飼い殺されている二百五十万人の奴隷を解放すれば、国民が二割も増えたのと同じだ。領主貴族領を廃絶したら、重石がとれて流通が劇的に改善する。その結果、フランセワ王国の経済は爆発的に発展するだろう。浮浪児に落とされ無意味に死んでいった余剰人口は、経済成長の原動力に転化する。例えれば日本は、明治維新で幕藩体制という重石を外し爆発的に発展した。レオンは、フランセワ王国の重石となっている領主制と奴隷制を滅ぼして同じことを起こそうとしている。明治以降の日本は、他国を舞台に多くの戦争をしてきた。レオンは、帝国主義植民地争奪戦争ではなく解放戦争を、世界革命戦争を始めるつもりだ。
 
 フランセワ王国軍は、将官は主に上位貴族の軍大学校出身者から、士官は中下級貴族と平民出身の軍士官学校卒業生からなる。兵や下士官は、平民出身者で兵学校で訓練する。貴族と平民が士官学校寮で四~五年も一緒に暮らすので、貴族出身の士官層でも階級差別が少なく民衆派に同情的だった。兵と下士官は平民出身なのだから、民衆派だ。
 軍を動かすのは士官だ。士官の支持を得なければ、軍を民衆派の傘下に置いたとはいえない。いずれはトロツキーのように、兵に直接呼び掛けて赤軍を創設するかもしれないが、まだその時ではない。
 オルグ対象は、まだ若い士官候補生に絞った。ツテを使い、士官候補生が学ぶ軍士官学校に特別講座を開いた。講義のテイで、若い士官候補生をまとめてオルグするつもりだ。この方法が最も効率が良いだろう。
 百年以上も本格的な戦争をしていないフランセワ王国軍にとっても、王都で実戦さながらの戦闘を行った王宮親衛隊第四中隊の隊長で、しかも王族のレオンが講師を引き受けてくれるとは、願ったりかなったりだ。
 王族の特別講義ということで、一年生から五年生まで士官学校の全学生六百人と軍大学校の二百人が大講堂に集められた。学生たちは、英雄気取りの王族が愚連隊を追いかけ回して倒したとか下らない自慢をする程度に考えていた。まあ、実戦の経験談なら、少しは役に立つかもしれない。
 レオンが講義したクラウゼヴィッツの『戦争論』は、戦争の勝ち方とか戦術について述べた書物ではない。ヘーゲルが大成したドイツ観念哲学の影響を受けて、戦争の本質について考察したものだ。後にドイツ帝国を打ち立てたプロイセンの参謀将校だったクラウゼヴィッツは、志願した市民からなる歴史上初めての国民軍を率いたフランス革命の申し子ナポレオンとの戦争を教訓に『戦争論』書き、未完のまま没した。
 レオンは、革命的マルクス主義者を自称している。マルクス主義とは、イギリス古典経済学、フランス社会主義思想、そしてドイツ観念哲学が三つの源泉とされる。マルクス主義と『戦争論』は、もともと相性がよいのだ。マルクスの生涯の盟友であったエンゲルスは、晩年は『将軍』というあだ名を付けられるほど『戦争論』などの軍事の研究に没頭した。ロシア革命の指導者・レーニンと軍事指導者・トロツキーも『戦争論』を熟読している。現代日本の過激派も、武装闘争を指向するセクトは全て『戦争論』を読んでいるはずだ。
 実際に女神が飛び回り病気治しをするような世界では、神学は生まれない。神の存在について突き詰めて考察する意味がないからだ。なので神学から分岐した哲学も、セレンティアでは発達しなかった。『戦争論』は、戦争を考察した哲学書ともいえる本だ。哲学の部分を剥がして講義しても本当の理解はできない。かといって今までセレンティアに存在しなかった哲学をそのまま投げても、学生に理解できるわけがない。
 レオンは、マルクス主義の理解の助けにしたり、革マル派との論争に利用しようとつまみ食いした哲学入門を記憶の底から引っ張り出した。革マルとの論争では、「閉じた中世スコラ哲学的黒田理論」「革命を無限の後景に押しやる革マル式イデア論」「唯物論から観念論に退化した黒田宗派」などと言って散々バカにしたものだ。革マルも「武装蜂起妄想論者」だの「トロツキー教条主義」だの言い返してきたのであいこだ。お得意の鉄パイプでぶん殴られなかったのは、新東嶺風の在籍していた大学では第四インターの勢力のほうが強かったからだ。

 講義は、ギリシア哲学のイデア論から駆け足で始めることにした。哲学など存在しないところにレオンは、新しい『哲学』という学を創ってしまった。講義を始めると講堂は驚愕に包まれた。最初は面倒臭そうな顔をしていた教授・教官たちの顔色が変わり、最近安くなった紙を出してメモを取り始めた。
 イデア論から戦争論まで一足飛びは、とても無理だ。レオンは、我ながら偏っている哲学概史を何時間か講義し、それから本題の『戦争論』について深めるつもりだった。こんなところだ。
 ギリシア古典哲学、キリスト教神学、ストア派、スコラ哲学、ロマン主義、カント、デカルト、ヘーゲル、ルソー、フォイエルバッハ、ハイデガー、サルトル、仏教哲学、ゲーテ、ドストエフスキー。そしてマルクス、レーニン、トロツキー、毛沢東⋯⋯。
 メチャクチャなようだが、レオン=新東嶺風の頭の中では、それなりに整理されている。
 早く戦争論に進みたいのだが、最初のギリシア古典哲学で九十分が過ぎてしまった。すっかりくたびれて教壇から降りた。八百人の学生が総立ちとなり、熱狂的な拍手をおくってきた。なにがそれほどウケたのか分からないが、学生たちに軽く手を振って控え室に引き上げた。
 王族ご来臨ということで、控え室は磨き上げられていた。畏まった美人秘書のお姉さんから飲み物をもらい休んでいると、校長と教授・教官たちが押しかけてきた。質問責めにされ、分かることはどうにか答えた。
 レオンは、東大をスベって現役で国立の東北田舎大学に入った。それなりに頭は良い。早稲田大学に行かなかったのは、私立の高い学費が払えなかったのと、革マル派の拠点校だったからだ。三里塚闘争に忙しくてあんな連中はどうでもいいのに、早稲田で他党派だとバレるとリンチされる。
「物質とエネルギーは同じ」「重力によって空間は歪む」「時間の流れは一定ではない」などと明治時代の人に言ったら、ビックリ仰天するに違いない。レオンは、それと同じことをした。哲学なんて無い世界に、哲学的思考をポンポンと投げ込んだのだ。レオンが漏らした何気ない言葉は、歴史に残る哲学者が生涯をかけて哲学した結果だったりする。
 一般に共産主義者は、知識人を好まない。共産主義者自身が結構なインテリだし、共産主義が人類が到達した最高の思想であると信じている。共産主義とは革命を目指す行動・組織理論だ。安全地帯で安住している知識人のお気楽な発言は、卑劣であり『ブルジョワイデオロギー』を撒き散らす反革命にさえ見えてしまう。ゲリラ上がりのポルポト派なんて連中は、権力を握ると片端から知識人を殺しまくったほどだ。
 共産主義者にしてはレオンは、知識人に好意的だった。尊敬するトロツキーが相当な知識人だったからかもしれない。大衆だけでは、なにを行えばよいか分からない。民衆を先導するためには、共産主義的な知識人を中核とした前衛党が必要だと考えていた。
 フランセワ王国だけでなくセレンティアでは、知識人は希少だった。セレンティアの四大国のひとつで比較的文化水準の高い人口千五百万人のフランセワ王国ですら、大学は全学で四千人の王国大学と二百人の軍大学校しかない。識字率は、十パーセントあるか無いかだ。
 軍士官学校は、四~五年制の旧制高校にあたる。軍士官学校に合格すれば、学費無料で騎士の位が与えられ、手柄をたてれば貴族になるのも夢ではない。平民や騎士階級に凄まじい人気があり、大変な倍率をくぐり抜けたエリートだ。この連中を士官というだけでなく、将来の知識層としても掴まえてしまおうとレオンは考えた。
 大学らしいものは国内に二つしかないので、もちろん交流がある。本来は機密扱いのレオンの講義ノートは、軍大学校から王国大学に持ち込まれ回し読みされた。学生たちがノートを囲んで学習会を開き、そのうち講師が加わり教授連も顔を出した。

「三角形は、完全に見えても拡大すれば必ず角が丸みをおびる。つまり完全な三角形はありえない。しかし、我々は三角形の存在を知っている。現実世界とは別に、真実在が存在するからだ」(プラトン・イデア論)
「石に意識があったとしても、投げられて上がるのが良いことでもなければ、落ちるのが悪いことでもない。つかの間の意識を持つ人間にとっても、上がることが良くもなければ、下がることが悪くもない」(ストア学派)
「死とは何か? 何ものでもない。死は生命体の原子への分解であり、分解された原子は感覚や意識を持たない。したがって、死は安らぎでも恐怖でもない」(エピクロス学派)

 こんなくらいのレオンのつまみ食い哲学でも、この世界の学者たちを驚愕させた。もともとこの世界には論理を突きつめ真理を探究しようという習慣が無かったのだから、天才にも見えただろう。とりわけ知識層に衝撃を与えたのが、ルソーからパクったこの言葉だった。
「人間は生まれながらに自由である。ところが、いたるところで鎖につながれている。なぜか? その答えを出すには、人間を分析しなければならない。人間とはなんであるのか? どこから来てどこへ行くのか? なにをなすべきか? 失われた自由を取り戻すため働くことこそが、若者の任務だ」
 ヒネた現代人ならば、「王族サマがナニを言ってやがる」と一蹴するところだ。しかし、セレンティアの人たちは素直だった。特にフランセワ王国では、レオンの王族という箔がついていることもあり、素晴らしい理想として受け入れられた。それまでの大学は、出世のために知識や技術を学ぶためだけの場所だった。なのでなおさら理想主義は、若者に受け入れられた。レオンにすっかり脳を洗われてしまったジュスティーヌ王女と同じである。
 王都の民衆の間のレオン人気はすごかったが、知識層にもレオンブームが起きた。王国大学学長が自ら王宮に赴いて特別講座の開講を願い、レオンは快諾した。殺しの天才だとは思われていたが、知性の方でも天才だと勘違いしてもらえた。
 王国大学での講義は、大盛況だった。いい席を取ろうと朝から学生たちが列をつくっている。学生といっても、ほとんどが若い貴族だ。ごく少数だけ、運良く見出された天才的に頭の良い平民がいる。
 レオンは王族なので、学生が受講するにも正装しないといけない。しかし平民は正装など持っていない。だが、天才的な平民学生こそ、レオンが最も欲しい人材だ。
 レオンは、控え室を抜け出して講堂のまわりを見てまわった。案の定、平服しかない平民学生たちが締め出されている。どの世界も学生は同じだった。数十人の学生が警備員に入れろと食ってかかり、押し問答をしている。レオンが割って入り、「優秀な学生を排除するとはナニゴトか! オレがいいと言ったらいいのだ!」と警備員を押し切って、手を引くようにして講堂に入れてやった。平民学生たちが、マルクス伯爵の温情に大感激したのは言うまでもない。その後、レオンの講義は平服で出席してよいことになり、大講堂はいつも満員だった。

 レオンは、既存の権力機関を利用した上からの革命と、組織した民衆による下からの革命を結合した『サンドイッチ革命』を志向している。なので政界からは失脚したが、上からの革命の足掛かりにする貴族社会から完全に追放されるわけにはいかない。
 ⋯貴族的な虚飾や虚礼は、大嫌いなのだが。革命のためだ、仕方がない。貴族ジジイのご機嫌をとるかぁ。イヤだなぁ。令嬢だったら、まだ我慢できるか⋯。やれやれ…。高慢な貴族女をぶん殴っちまったらマズいよな。まあ、なんとかこらえるしかない。
 レオンの心配は、杞憂だった。レオンより高位の貴族はほとんどいない。なによりもレオンは、怖れられていた。貴族ジジイだろうが令嬢だろうが、面と向かってレオンを侮辱できる者は、ほとんどいない。そんなことをしたら、殺されかねないと思われている。
 宗教は、容易に反革命に転じる民衆の阿片だ。できるだけ使いたくないのだが、やむを得ない。人気取りに『女神の光』の傷治しを使うことにした。一日に二人くらい小さな傷を治すことができる程度のチンケな能力だ。しょうもない力だが、セレンティア全土で信仰されている女神セレンとの繋がりを示す証明書にはなる。これのおかげで講義で「女神の容姿は人間の美意識の反映である」「女神が人間をつくったのではない。人間が女神をつくったのだ」なんて放言しても、神殿に怒られずにすんだ。
 公爵や侯爵といった高位貴族の長女は、だいたいが深窓の令嬢だ。美術品のように扱われて成長する。肉体にも経歴にも、けっして瑕疵があってはならない。例外は、それ以上身分が高い者がいない王家の王女だ。
 フランセワ王家が海のそばの離宮に滞在する時は、王女が裸になって泳いだりしている。貴族たちの前では猫をかぶっているが、本当はジャジャ馬なジュスティーヌ王女などは、成人した十五歳になっても裸同然で海に飛び込んで喜んでいた。侍女たちにいつも入浴を手伝われているので、裸を見られることに抵抗が少ない。むしろ護衛の女性騎士のほうが、肌をさらすのが恥ずかしくて困っている。ジュスティーヌにとって、近くにいる男といっても父と兄弟たちだ。しかし、目のやり場に困った王子たちに、「いい加減にしてくれ!」と叱られてしまった。通常の高位貴族の令嬢では、こんなことはちょっと考えられない。
 高位貴族令嬢は、王女よりよほど過保護に育てられている。それでも子供時代に、ちょっとした怪我くらいはする。成人した令嬢は、その時にできた「醜い傷跡」にひどく悩んだ。自分が『傷物』だということを皆に知られたらどうしよう? 将来の夫に嫌われるのではないか? そんなしょうもないことで苦悶している令嬢は、少なくなかった。
 高位貴族出身の侍女と下級貴族出身の侍女に、王宮では差別は無い。だが、どうしても派閥に分かれてしまう。レオンは、高位貴族出身侍女が溜まっている控え室にズカズカと入ってきた。若い女性に対する遠慮なんてものは、全く無い。
 高位貴族侍女にとってレオンは、人殺しの恐怖でしかなかった。高位貴族侍女の筆頭格でレオンの至近にいるしっかり者のアリーヌ王家担当一級侍女が、レオンのせいで頭を抱えてたり、泣いているところを何度も見た。あのお優しいジュスティーヌ第三王女殿下に対するひどい仕打ち(?)も知っている。それに神聖な王宮で貴族子息の首を斬り、蹴り飛ばすような恐ろしい殺人者だ。保守派貴族の令嬢出身の侍女たちは、レオンの姿を見かけるとサーッと蜘蛛の子を散らすように消えていった。そんな恐ろしいレオン・ド・マルクス王宮親衛隊中隊長が、腰に剣を二本もぶち込んだ姿で、どういうわけか侍女の控え室に乗り込んできた。
 さすがに悲鳴を上げて逃げていくような侍女はいない。だが、貴族令嬢とはいえ若い女の子がお喋りしていた侍女控え室は、恐怖で凍りついてしまった。「誰かを捕縛しにきたのかしら? まさか、殺しに⋯? 怖い⋯⋯」。
 自ら何十人も斬り、何百人も殺戮する作戦の指揮をとってきたレオンは、このごろやけに凄みが出てきた。十人ほどの侍女が、恐怖で青ざめうつむいている控え室を見回した。誰が誰だかよく分からない。
「あー、休んでるところ悪いな。アイシャ・ド・スカニア侍女は、いないか?」
 アイシャ侍女は、真っ青になった。殺人鬼によばれてしまった。「どっ、どうしよう⋯。わたしは殺されるの?」。
「ちょっと来てくれ」
 卒倒しそうだが、なんとか立ち上がったアイシャ侍女は、ゆっくりレオンの方へ歩いていく。足許がおぼつかずフラフラしている。ほかの侍女たちが、固唾をのんでアイシャとレオンをながめている。
 貴族令嬢の割にアイシャは勇気があった。逃げずにレオンの前に立つ。
「ご、ご用でございますか?」
 無遠慮に腕を掴むと袖をまくり上げた。
「見せてくれや」
 肘のあたりについた醜く忌まわしい傷跡が露出してしまった。いつもアイシャは、この醜い傷跡が夫になる人にいつか見られるかと思うと消えたくなった。なんども泣いたが、いくら泣いても傷跡は無くなりやしない。このレオンという人殺しは、そんな苦しみの元である傷跡を無理やりさらすと、無遠慮にジロジロとながめ回している。アイシャがその場で失神しなかったのは、武門の貴族家の出で少々気が強かったからだろう。それでも恐怖にすくみ上がりふるえているアイシャに、レオンが言った。
「こんな程度の傷にそれほど悩むかねぇ⋯。消していいだろ?」
「くっ⋯」
 侍女とはいってもアイシャは、王宮勤めの侯爵令嬢だ。気位は高い。忌まわしい傷跡をさらされた屈辱に目に涙を浮かべながらも、レオンをにらんできた。
「⋯⋯消すぞ」
 野盗やら暗殺団やら愚連隊やらと殺し合ってきたレオンには、子猫ににらまれた程度にも感じない。
 レオンが人差し指を上げると、指先に銀色に輝くピンポン球が現れた。表面を金色の粒が浮遊している。
「女神の光だ。⋯なぞるまでもないな」
 つぶやくとレオンは、銀色ピンポン球をアイシャの小傷に当てた。その瞬間、あれほどアイシャを悩ませた傷跡は跡形もなく消えてしまった。
 !
 !!!!!!!!!
「女神セレン様の奇跡だわ⋯⋯」
 侍女の誰かがつぶやいた。レオンが苦笑しながら返した。
「奇跡なんてもんじゃない。小さい傷しか消せないしな。傷跡で悩んでる子は、いつでもおいで。じゃあな」
 レオンは、総立ちになった侍女たちを置いて、さっさと休憩室から出て行ってしまった。レオンが消えると、腰を抜かしたようになって床にへたりこんでいるアイシャに侍女たちが群がり、それまで気をつかって触れないようにしていたアイシャの傷跡が消えたことを確かめた。
 ジュスティーヌ王女殿下が、野盗に怪我を負わされた時に、あのレオン⋯⋯様が『女神の光』で癒されたと聞きました。⋯本当だったのですわ。国王陛下が、レオン⋯様の『女神の光』について口外することを禁じられたとも聞きました。
 侍女たちは、目を見合わせた。小さな傷跡で悩んでいるのは、アイシャだけではない。その日の内にレオンの傷跡消しの噂は、王宮中の全ての女たちに広がった。
 一日先着二名までなので、レオンが居候部屋から出てくると間髪入れず侍女に捕まる。どうやら侍女同士で談合して順番を決めているらしく取り合いはない。だが、手首を掴まれてどこかの小部屋に連行される。
「お願いでございます。どうか、わたくしの醜い傷を消してくださいませ」
 平伏せんばかりだ。まなじりを決した侍女に比べると、レオンは気楽なものだ。「醜い傷? これが?」。
「いいよー。傷をだしてくれー」
 侍女が真っ赤になり、口ごもりながらいう。
「あ、あの。太ももなのです⋯⋯」
 だからどうした?⋯なのだが、セレンティアでは女の子が太ももをさらすのは、すごく恥ずかしいことらしい。
「それじゃあ、太ももを出してくださーい」
「ううっ。はっ、はいぃ⋯⋯」
 太ももなんぞより、綺麗な女の子が恥じらってる姿の方がよほどエロい。
「んー? 傷跡なんか無いぞ?」
「そんな! もっとよく見てください」
「うーん。⋯⋯んんー?」
 言われてみれば、五ミリほどのスジが有るような無いような⋯⋯?
「いやっ! そんなに見ないでくださいっ!」
 ⋯⋯どうしろというのだ?
 たぶんこれだろうと見当をつけ消してやったら、泣くほど喜び、感謝された。だいたいがこんな調子だ。
 傷消しで侍女にレオンが人気者になったかといえば、そうでもなかった。だが、恐怖されていたのが、畏怖に代わった。侍女たちの間で、マルクス伯爵は女神セレンの使徒であるという説が急速に広がっていった。
 お礼の贈物が大量に届いたが、レオンは受け取らなかった。保守派貴族に買収されたと勘違いされたら、かなわないからだ。「お気持ちの物は病院か孤児院に寄付していただけると幸甚です」という手紙を添えて送り返した。すると大抵は、寄付者名と寄付金額が玄関先に大きく掲示される病院の方に寄付をしていった。贈物を全てつっ返したおかげで、「レオンには賄賂がきかない」が定説になった。

 スカニア侯爵家では、できる限り家族がそろって食事をとる。レオンが王家に加わってから、食卓で口論が絶えなくなってしまった。まず、当主のスカニア伯爵がレオンの悪口を言って口火を切る。
「あの成り上がり者は、王族でありながら下民と一緒になってドブ川の掃除をしたそうだぞ。まったく王家の威厳をなんと考えとるのか!」
 次期当主の長男は、ダンマリだ。若手貴族の間でのレオンの人気はよく知っているし、この場で父侯爵に逆らうのも賢くない。だが、次男と三男がそろって反論する。
「王族でありながら少しもおごらず、汚れ仕事を民と共に行い汗を流す。これほど気高い心がありましょうか!」
「レオン様は、民を守り慈しむという貴族の手本を示しているのです!」
「王族がドブさらいだぞ! 身分というものをわきまえない愚か者のすることだっ。国王陛下は、なぜあの男を野放しにしておるのか」
「私たちのこの食卓も、民が汗をかき⋯」
「なにを馬鹿な。この愚か者がっ!」
 いつもはここいらでアイシャが父侯爵を加勢して、口論は二対二になるのだが⋯。
「お父さま、お兄さま。マルクス伯爵は、国王陛下のご寵愛深いジュスティーヌ王女殿下の夫君です。軽々にお話してよい方とは思われませんわ」
「はっ?⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯?」
 今までは父侯爵と一緒になってレオンの悪口を言ってたのに、意外だ。王宮侍女となり、兄弟姉妹の出世頭のアイシャだ。父侯爵にとって娘のもたらす情報は貴重だった。
「⋯どうした? アイシャ。王宮で何かあったのか?」
 アイシャは、悩みの種だった傷跡をレオンに消してもらったことを話していない。
「ええ⋯。はい、そうですわね。レオン・マルクス伯爵と敵対することは、避けた方がよいですわ。決っして」
 アイシャがこのように断定的に話すことは、今までほとんどなかった。王家の内情と女神セレンの奇跡に関しては、口外厳禁だ。たとえ家族でも、うっかり喋ると必ず保安部にバレる。理由を尋ねても、アイシャは曖昧に首を振るばかりだ。
 スカニア侯爵は、保守派といってもなにか定見があるわけではない。レオンと利害の対立もない。貴族の権威をないがしろにし民衆に媚びているように見えるレオンが、階級意識的に気に入らないだけだ。レオンに敵対的な保守派貴族は、大抵がこんな調子だった。
 それに男親は娘には甘い。レオンが保守派貴族の令嬢に恩を売ることで、表立って敵対する貴族は、少しずつ減っていった。

 レオンは、愚連隊は根絶したことだし失脚して少々暇になったのをむしろ良い機会だと考え、進んで王都民の中に入り支持を広げることに専念した。スカニア侯爵が憤慨していたドブ川の整備もそのひとつだった。民衆の信頼を得られなければ、悲願である民衆軍など組織できない。
 スラムは、川に沿って密集している。川は、しばしば境界線であり、所有者が曖昧だからだ。いつの間にか貧民が集まり、スラムになった。悪臭や害虫などが発生し、生活環境は最悪だ。王都パシテを流れる川は、全く整備も管理もされておらず、大雨が降るとしばしば氾濫した。また、不潔な水は伝染病の発生源となった。
 専制君主国家では、王女が妻だと話が早い。レオンは、スラムの真ん中を流れるドブ川の有り様をジュスティーヌ王女に吹き込んだ。それだけでは足らないと、こっそりジュスティーヌをスラムに連れ出した。妻王女は、行動力があり知的好奇心が強いので、喜んでついてくる。ルーマでもスラム街に連れて行ったが、王都パシテの川沿いスラムの方が状態が悪かった。レオンの努力の結果、路上に餓死者が捨てられるようなことはもうないものの、餓死寸前の者や病死寸前の者はいくらでもいる。飢餓と病気の地獄だ。平服に着替えた忠誠な護衛たちですら、伝染病が恐ろしくてスラムに入りたがらない。
「その国の程度は、刑務所とスラム街を見れば分かるといってな⋯」
 王宮から三十分足らずの場所にあるスラムのこんな有り様は、王族には全く知らされていない。スラムに入り、死と病気と悪臭と不潔と貧困に取り囲まれたジュスティーヌ王女は、強い恐怖と怒りと悲しみにとらわれた。賢いジュスティーヌなら、レオンがあれこれ説明したり、スラムの隅々まで見て回る必要はない。
 すぐにスラムの顔役が飛んできて一行の前で這いつくばるように跪いた。
「ははーーーっ」
「跪礼は不要と言ってんのに。⋯⋯立て、ムーラス。死者の数はどうなっている?」
「ははーっ。おかげさまで去年の三分の一です。まだ大雨が、きておりませんので。はい、マルクス伯爵様」
『三分の一』という概念を知っているだけでも、ムーラスは、なかなかのインテリだ。識字率が十パーセント程度の世界なのだ。この顔役は、どうしてスラムに墜ちたのだろうか?
「やはり川だな」
「はい。川でございます」
 王女がスラムの伝染病に感染したら大問題になる。護衛の女騎士に布で顔半分を覆わされたジュスティーヌが口をはさんだ。
「川、とは?」
「ああ、大雨が降るとあのドブ川が氾濫する。住民は慣れているので逃げて溺れることはないが、洪水の後で必ず伝染病が発生し数百人死ぬ」
 ジュスティーヌは、毎年そんなことが起きているなどまるで知らなかった。
「なんですって! どうして今まで教えて下さらなかったのですか? これは⋯どうすれば⋯⋯」
「簡単だ。ドブ川をどうにかすればいい。底をさらい、川幅を広げ、堤防をつくれば、もう氾濫しない。解決する」
 ジュスティーヌは、腹を立てた。無知な自分や、今まで民をこんな状態に放置していた者たちに腹が立つ。
「そんなことで、数百人の命が救えるのですね」
 ジュスティーヌよりはるかに冷酷なレオンは、平民の貧困や苦しみは、許容範囲内ならば民衆派の勢力を伸ばすのに好都合だと考えている。福祉や慈善は、改良主義にすぎない。むしろ革命を阻害するだろう。社会を変えるのは、憎しみと怒りに裏打ちされた暴力だ。そもそもスラムの住民に慈愛の精神を向ける権力者など、この国のどこにもいない。
 しかし、この考えは諸刃の剣でもある。毎年数百人の死者。さらに伝染病が広がったら、万を超す死者を出すかもしれない。それは、許容範囲を超えている。地盤である平民が疲弊すれば、レオン率いる民衆派の力も落ちる。民衆の期待が大きいだけに、レオンの評判も下がるだろう。ここらで手を打つべきだ。河川と伝染病とを、政治宣伝と人気取りに使うことにした。
 大勢の耳があることを承知で、レオンが暴露した。
「王宮中を駆け回ったんだがな。どいつもやる気がない。予算もない」
 これはあまり事実とはいえない。レオンは、「王宮中を駆け回った」りしていない。王宮官房や関係部署に河川改修の建議書を提出しただけだ。レオンの提案には全て反対する保守派貴族の官僚に、予算不足を口実に拒否されてしまった。そうなることは、最初から分かっていた。とはいえ、本当に「王宮中を駆け回った」としても、結果は同じだっただろう。
 これ以上なにも言わなくても、ジュスティーヌが動くだろう。美しくて優しく人当たりの良いジュスティーヌ王女は、保守派にも受けがよかった。レオンと正面からぶつかると、民衆派と血を見る抗争になりかねない。民衆派の危険分子であるレオンを抑えて操縦できるのは、妻のジュスティーヌしかいないとさえ思われている。
 便所でありゴミ捨て場にもなっている不潔の極みのような川のまわりを、ムーラスに案内させ視察する。栄養不良のスラムの住人が、貴族サマを遠巻きにして黙って眺めていた。住民の栄養状態の悪さと川の殺人的な汚らしさに、珍しくジュスティーヌの表情が険しくなった。
 不意にスラム野次馬の表情が明るくなった。レオンが振り返る。
「おう、来たな」
 カムロたちが食糧を満載した荷車を何台も牽いてくる。
「二千食分ある。ムーラス、分配はおまえに任せる。二度と売り飛ばしたりしたら、殺すぞ。男の子がいるところに優先して配れ。行け」
 レオンが横目でにらむと、ムーラスは震え上がった。冷や汗をかいて平身低頭だ。何度もペコペコと頭を下げる。
「へえ、マルクス伯爵様。承知いたしました。不始末はいたしません。このムーラスに、おまかせ下さい。へい、たしかにお預かりしました。へぇ」
 ムーラスは、ノタノタと荷車に向かい走っていった。それをレオンが冷然と眺めている。
「引き上げるぞ」
 レオンがきびすを返すと、まだ険しい顔をしているジュスティーヌが横に並んだ。スッと美しい手を挙げると、二人の会話が届かないところまで護衛騎士が離れてゆく。ようやく臭いスラムから離れられて、護衛連中は内心ホッとしている。
 ジュスティーヌとて王女だ。美しくて人柄が良いだけの女ではない。
「あの者は、本当に信用できるのですか?」
 レオンが薄く笑う。
「信用? できないね。あんな顔してムーラスは、ここらのヤクザの親分なんだぜ」
 ヤクザといってもスラムの顔役で自治会長のようなものだ。育ちが良いジュスティーヌは、スラムの仕組みが分かっていない。少し驚いた。
「なぜ、そのような悪人に食糧を渡すのですか?」
 王女という貴人でありながら、分からないことは率直に質問する。ジュスティーヌの美点だ。
「ムーラスは、自分の地盤を固めるために、あの食糧を利用する。ヤツは、オレの配下だ。ヤツがスラムの支配権を握れば、スラムはオレの影響下に入る。ヤツに分配させるのが、一番効率的なのさ。だいたいだ、他にどんな方法で食い物を配る?」
 ジュスティーヌは、物心ついてから今まで宮廷内の陰湿な権力争いを見てきた。王宮親衛隊と民衆に足場を置こうとするレオンのやり方は、むしろ清々しいと感じるほどだった。しかし⋯⋯。
「あの者に裏切られたら?」
 顔に似合わないジュスティーヌの言葉に、レオンは思わず笑ってしまった。
「ははは⋯。命が惜しいから、オレに力がある間は裏切らないだろうよ。ムーラスのまわりには、何人かカムロを置いている。裏切ろうとしたら、すぐ分かる。クビだな」
 本物の首の方かもしれない。
 レオンは、良くも悪くも男女を区別しない。それはジュスティーヌが、よく知っている。
「なぜ、男の子がいるところを優先するようにとおっしゃったのですか?」
 分からないの?という調子でレオンが見返してくる。
「男はいずれ戦力になる。それに女は餓死しない。最後に売るものが残っている」
「つっ⋯!」
 ひどい言いようだ。しかし、現代の日本でさえ困窮し売春の稼ぎで子供を養っているシングルマザーなど、いくらでもいる。
 ジュスティーヌは、「この人は、人間を『物』のように見ているのではないだろうか?」と思うことも、たびたびだった。だが、今までスラムの悲惨を放置してきたのは、自分をも含めた王族と貴族であり、こんなスラムの状態を曲がりなりにもどうにかしようとした貴族は、レオンしかいないのも事実なのだ。
『清く貧しく美しく』など嘘だ。ひどく貧しければ汚れ仕事をしなければならず、『美しく』などいられない。蔑まれ、心がねじ曲がり、無知に落ちてゆく。前世の聖女だった時に大衆に痛めつけられ、結局殺された経験をしたレオン=新東嶺風は、左翼によく見られる弱者主義からはもう離れていた。
「スラムでは、十万人近くが飢えて暮らしている。二千食くらい配っても、焼け石に水だろ。それでも配ったのは、人気取りの宣伝のためだ」

 王宮に戻るとジュスティーヌは、さっそく動いた。
 穏健とはいえ専制君主国家である。国王が裁決しないと、なにもできない。国王と面談するには、大まかな用件を書いた書類を王宮官房に提出する。
 レオンの場合は、どうせ無駄だと分かっていたが筋を通すため、『スラム地区における河川改修に関する提言』として提出した。もちろん音沙汰はない。ボツということだ。本来なら治水は行政の仕事だ。しかし、どうせ拒否されるだろうから、自分でカネをかき集めて不十分ながらも何とかするつもりだった。慈善事業ではない。公益と私益を両立させるつもりだ。毎年数百人も死ぬ伝染病を防ぎ、十万人近いスラムの住人に恩を売り配下に置くことができる。河川改修を名目にして、スラムの連中の組織化を進めてやろう。王都内に私領をつくるのだ。
 国王は、今でもレオンを見放したわけではない。王族の中で荒事が得意で戦争ができそうな者はレオンしかいない。貴重な人材だ。面会願いは、王宮官房の保守派貴族に握りつぶされていた。
 印刷業と製紙業でレオンは、かなり儲けている。だが、入ってくるカネは右から左へと通り過ぎて、まるで貯まらない。地方都市にも浮浪児はいる。製紙と印刷で経済基盤を固めて、カムロ組織をフランセワ王国全土に広げたい。だが、莫大なカネが必要な土木事業を始めると、組織建設のピッチを落とすしかなくなる。カムロ組織の全国拡大か、十万人のスラム住民を支配下に置くか⋯。
 やはり土木事業は予算がかかりすぎる。治水の方は、税金で何とかしてもらいたい。国費でスラムの住環境を整備するが、名声はフランセワ・マルクス家でいただく⋯。
 そこで、父王に最も愛されているジュスティーヌ王女をスラムに連れて行った。もともとジュスティーヌは、自分のことを卑しい偽善者なのではないかと考えてしまう程に、潔癖で優しい心の持ち主だ。スラムのありさまを見て、王族の義務やら正義感やらを、いたく刺激された。
 ジュスティーヌは、官僚貴族どもがスラムの住民などゴミ程度にしか見ていないことを、よく分かっていた。レオンの河川改修案が無視されたのが、なによりの証拠だ。
 ジュスティーヌが政治に口を出すことは、ほぼ無い。それがレオンの妻でありながら、保守派貴族に排斥されない理由のひとつだ。ジュスティーヌの中に潜んでいる政治家は、そのことを知っていた。保守派の反感を買わずにスラム地区の環境改善策を、どうやって通せばよいのか?
 総理大臣に忖度する日本の官僚と同様に、貴族官僚が国王にへつらうことも、この王女は知っていた。父王を説得すれば簡単だが、それでは娘王女の立場を利用して政治に口出ししたことになってしまう。内宮で私的に「おねだり」するなど最悪の選択だ。権力を私物化したと見られても仕方がない。ことの善し悪し以前に縁故政治を嫌う父王が、承認しないだろう。保守派貴族に警戒感をもたれるだけの結果に終わる。スラム地区の治水事業を、保守派貴族の口から提案するように誘導しなければならない。
 王女のジュスティーヌといえども国王との公的な謁見を希望する場合は、王室官房に願書を提出する。『一、離宮の建設計画についての私案。二、王都で定期的に発生する伝染病の予防策について』。
 さすがジュスティーヌは直系の王族だ。官僚がソンタクしてくれた。翌日には、「明日の何時に謁見室にお越しくださいますように」という丁重な返書が届けられた。
 民衆派の提言とみなされると、適当な口実をもうけて潰されてしまう。なので、レオンは同行させられない。政治的な色のついていない王国大学の教授に補佐を頼んだ。謁見室では、国王を筆頭に関係閣僚や官僚が待っている。
 公的な場なので、ジュスティーヌは、娘王女であっても父王に自己紹介しなければならない。王族なので跪礼はしない。おつきの三人侍女たちは、後ろに控える。
 並んでいる大臣や高官の全員が、自分を子供のころから知っている。儀礼に過ぎない自己紹介を父親にするのが愚かしい。こんなふうに考えるようになったのは、レオンの影響だ。
「ジュスティーヌ・ド・フランセワ・マルクス第三王女でございます」
 教授二人は、跪いて挨拶する。お爺さんの貴族だが、生涯学問畑を歩んできた。こんな所に来るのは初めてだ。
「ロベール・ド・エルミール伯爵でございます。土木工学教授を奉職しております」
「ヴィクトール・ド・レーベル子爵でございます。公衆衛生学教授を奉職しております」
 国王をはじめ大臣高官連は、あのジュスティーヌ王女がなにを言い出すか興味津々だ。マリアンヌ侍女とキャトウ侍女が、大判の紙を掲げた。なにやらクネクネと二本の線が描かれている。
 レオンがたまげたことに、セレンティアには『グラフ』が無かった。紙の値段が、おそろしく高価かったからだ。貴族の学者は、工夫して使っていたかもしれないが一般には全く知られていない。ジュスティーヌは、小学校の先生のようにグラフの説明から始めることになった。生徒の国王・大臣・高官は、やはり頭が良い。すぐに理解してくれた。
「こちらの青い線が、パシテ川の秋の洪水で冠水した面積を年ごとに繋げたものです。赤い線は洪水から半年以内に伝染病で亡くなった人の数です」
 あまりの分かりやすさに、目からウロコが落ちそうだ。国王が身を乗り出した。
「うーむ。きれいに相似形を描いておるな」
 ジュスティーヌは、大きくうなづいた。
「はい。洪水の無かったおととしは、疫病の死者は十二人です。ところが大規模な洪水にみまわれた去年は、二百人以上も亡くなっています」
 しかし、スラムの住民など人間とも思っていない連中も多い。そんな貴族を説得するには⋯⋯。
「グラフの二十四年前をご覧ください。この年は平民街まで冠水する大洪水となり、一万二千人以上が疫病で死亡しています。五十年前にも同様の大洪水があり、その時も一万人以上が疫病で亡くなりました。資料によると、およそ二十五年周期で王都は大洪水にみまわれ、万余の死者を出しています」
 大臣どもは、「へー、そうなんだ~」という調子で他人事のように聞いている。だがあとは、伝染病は人を選ばないということを納得させればよい。
「レーベル教授。お願いします」
 美しすぎる王女の講義にポーッとなっていたレーベル教授は、我に返った。
「え? あっ、失礼しました。えー、二十四年前の洪水後に広がった伝染性の疾患では、貴族の感染者は約八百人。後遺症が残る例も多く、年配者と小児を中心に三百八十八人が亡くなっております。この病、えー、洪水病と名づけましたが、発病するとおよそ二人に一人が死亡いたします。現在も治療薬は、ございません」
 だれか大臣がつぶやいた。
「二十五年周期ならば、今年か来年ではないか⋯⋯」
 大臣どもには年寄りが多い。自分や孫が死ぬかもしれないとなったら、話しが違ってくる。少しは危機感を抱いたようだ。ジュスティーヌが、たたみかけた。
「治療法のない洪水病から逃れる方法は、ひとつだけです。エルミール教授、お願いします」
 この土木工学の先生も、レオンの紹介だ。レオンは、おそろしく顔が広い。干されても腐らずに、軍士官学校、王国大学、民衆の集まり等々にこまめに顔を出す行動力に、ジュスティーヌはすっかり感心している。
「えー、要するにですな、パシテ川が洪水を起こさなければよいのです。あそこは病原菌の巣でありますから。ジュスティーヌ殿下が集めて下さった洪水の資料を拝見しますと、毎年ほぼ同じ場所から出水しております⋯」
 国王が口を入れる。
「その場所をふさぐわけか」
「おそれながら、それでは別の弱い所が決壊いたします。洪水を防ぐためには、一時に大量の水が流れこまぬよう上流域に遊水池を掘り、川幅を広げ、堤防をつくる。二十四年前の洪水時の水量でしたら、これで氾濫を防ぐことができます。他に方法はございません」
 大規模な土木工事で治水するというのだ。国王と大臣たちの顔が曇った。フランセワ王国では、歳入と歳出がほぼ均衡している。借金の無い超健全財政だ。もちろん予備費はあるが、今年の分は、ほとんど使い切ってしまった。土木事業のために借り入れをするなど、とんでもないという考えだ。財政難が原因で滅んだ国はいくらでもある。セレンティアの発展段階では、そう無茶な政策でもない。
 だが、国王に「カネは出せぬ」と言われたらそれまでだ。ここからがジュスティーヌの正念場である。
「治水事業には、洪水と疫病対策以外にも素晴らしい効果が見込めます。流れを良くするために、川底をさらい汚物を除きます。皆が悩まされている夏のパシテ川の悪臭が、緩和されます。⋯川を清潔に保てれば、ですが」
 洪水のたびに伝染病の発生源になるような川だ。生ゴミから糞便、腐った死体まで浮かんでいる。特に夏場は、風向きによっては王宮にまで耐え難い悪臭が漂ってくる。
 もうひと押しだ。
「陛下。たしかに借金をしてはなりません。ですが、国を支える貴族が三百人以上も犠牲になりかねない疫病も防がなければ⋯」
「民衆の生活が~」とか「スラム住民の命が~」などと発言したら、王女とはいえ民衆派とみなされて潰される。ジュスティーヌは、美しい『偽善者』だった。
 借金が駄目なら支出を削らせるしかない。
「パシテ川の悪臭が無くなるのですから、王族が夏の悪臭から逃れるため予定されていた離宮の建設を延期したらいかがでしょう? 我がフランセワの土台たる貴族諸侯には、なにものも代えることはできません」
 本当は誰もパシテ川の悪臭が無くなるなどとは保証していない。だが、父王は、ちょっと得意な気分になった。この間まで小さな子供だったジュスティーヌ。今もまだ二十一歳の小娘だが、治水の財源まで見つけてきた。大臣たちも感心している。
 ジュスティーヌの腹の中は、貴族ではなく民衆を守るための治水事業であると気づいた者は、何人もいた。だが、この事業で大勢の貴族が洪水病から助かるらしい。王族の贅沢である離宮の建設などとは、重要性は比べものにならない。離宮建設の「中止」ではなく、「延期」としたところも賢い。しかもこれは、王族でなければ言えないことだ。
 国王が下問する。
「建設大臣。離宮新設の予算は?」
 建設大臣は、中堅官僚だった二十年前に、赤子のジュスティーヌを抱っこしたこともある。レオンには批判的だったが、ジュスティーヌには父性的な感情を抱いており、優しい。
「建設費と内装など、総額で百二十億ニーゼを予定しておりました」
「予定しておりました」などと、すでに過去形だ。
「エルミール教授。直答を許す。百二十億ニーゼで、パシテ川の治水事業は可能であるか? まことに悪臭は除去されるのか?」
 ──────────────────
 有力者には、もちろん年寄りが多い。そろそろ流行すると予想される洪水病で、貴族でも年寄りは死ぬかもしれないと学者に警告された。二十四年前。まだ若いころ、疫病で悲惨な死に方をした有力貴族を何人も知っている。王族の離宮などより、洪水病対策が優先だ。
 国王は、離宮建設を延期して浮かせた予算で洪水病対策の治水事業を行い、貴族どもに恩を売ることにした。王様だって洪水病に感染するかもしれないのだから、当然の判断だ。
 ジュスティーヌは、「戦争の足音が、すぐにこの人たちにも聞こえてきます。そうなれば、離宮どころではなくなるでしょう」。そう考えている。
 

 異・世界革命Ⅱ 空港反対闘争で死んだ過激派は異世界で革命戦争を始める 03に続く
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