騎士と魔女

雨漏そら

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魔女と騎士

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 アルトリウス・カストゥスは市井の出である。国一番の歓楽街で働く遊女を母に持っている。実際、アルトリウスは7歳程度まで遊女達の住まう歓楽街に住んでいた。子供に出来る悪い事はほぼ行っただろう。万引き、スリ、詐欺。働くことで忙しく、アルトリウスにほとんど構わなかった母にこの事がバレる事があってもお咎めされることは無かった。寧ろ、よくやったと。私はお前の分の食費を稼ぐつもりなど無いのだからお前はそうやって生きろと。そう教えられた。性格はこのようなものだったが、男ウケは良かったらしい。だが、それが原因だったのか。アルトリウスが7歳の頃、母は客に刺殺されたのだという。現場を見ていないアルトリウスは分からなかったが、少なくとも母が亡くなったことだけは分かった。遊女達の館を取り仕切る主人は、アルトリウスを王宮へと連れて行った。アルトリウスはなんとなく、自分はここで奉公をさせられるのだと思っていた。王宮の下働きとして奴隷の様に一生働くのだろう、と。
 だが、当時学問として研究されていた魔法によって体の隅々まで調べられた結果、アルトリウスは国王陛下の息子とだということが発覚してしまった。戯れに抱いた遊女が身籠っていた隠し子である。
 事態は一変せざるを得ない。王宮はアルトリウスを『王子』として引き取る羽目になったのだ。そこからアルトリウスは王宮内での歩き方や礼儀作法、言葉遣いまで修正させられる羽目になった。嫌だと言っても整えられる髪の毛や体。アルトリウスはここで何ヶ月かぶりの風呂に入らされた。
 王子ということで、王位継承権が自然と発生した。そのせいか、アルトリウスは暗殺の対象としてよく襲撃されるようになった。それが原因で、アルトリウスは自らを守り通す為に護身術を身につけた。元々運動神経も良く、体を動かす事に関しては何でもそつなくこなす器用さを持っていたアルトリウスは剣術・長柄術・飛び道具、馬術に果ては暗器までほぼ武器という武器の使い方を覚えた。その姿は騎士と言うよりも傭兵に近かっただろう。そもそもアルトリウス自身に騎士という自覚等無く、あくまで自らの体を守る為。そして、何かとアルトリウスをいじめる姉や兄達に勝てるものがこれしか無かったというのもあった。
 そんな時である。
 彼女に出会ったのは。



「初めまして。私はヘレナと申します!」
 黒いとんがり帽子を被った女から唐突に話しかけられた。アルトリウスは訓練を終えたばかりで疲れた体を引きずるようにして部屋に帰ろうとしていたため、大変面倒くさそうな目で振り返る。童女のようにキラキラした瞳を持つ女性がアルトリウスを見ている。誰だこの女。
「あー……初めまして?」
「はい! 初めまして!」
「はぁ……? で、要件は?」
 眠そうに大あくびを一つ。アルトリウスは半眼で眠そうに瞼をこする。ヘレナと名乗った魔法使いと思しき女はキラキラした瞳でアルトリウスを見上げているだけだ。
「?」
「貴方、すっごくいい体をしていますね!」
「はぁ……は?」
「私の……魔法の実験台になって下さい!」
 アルトリウスはこの時彼女を絞め殺そうと思ったと後に語っている。



「い、いやぁ~まさか……アルトリウス殿下とは思わず失礼を致しました……ご、ごめんなさい!」
 笑って許されると思って笑いながら謝っていたが空気的に許されそうに無かったので必死に頭を下げるヘレナ。アルトリウスは腕組をして足を組み、椅子に深く背を預け、『王子』では無くいかにも悪い組織のボスの様な様相でヘレナを睨みつけている。ヘレナは恐縮したようにアルトリウスを見つめていた。
「あ、あの……もう二度と魔法の実験台に、等言わないので許していただけないでしょうか?」
「よーし分かった許してやろう」
「本当ですか!?」
「ただし、」
 パァッと表情を輝かせるヘレナに、アルトリウスは無表情で言い放つ。

「脱げ」

 極々簡潔なその言葉に、ヘレナの頭の中は真っ白になっていた。呆然とした様子で立ち尽くしている。アルトリウスはさらに恐喝に近い声音で告げる。
「聞こえなかったか? 脱げ」
「、!」
 次ははっきりとヘレナの頭は認識したらしい。ずざ、と後ずさりするヘレナを未だ無表情で見つめ続けているアルトリウス。
 アルトリウスに連れて来られた部屋には二人の他には誰も居ない。ヘレナの表情が引き攣った。アルトリウスの瞳は何の感情も映さず、ヘレナを催促する視線を投げている。相手は仮にも『殿下』である。逆らう事は許されない。実験台にさせてくれ、等と他の王子達に言っていたらもしかしたら首を飛ばされていた可能性すらある。
 ヘレナは瞳に涙を溜め、ゆっくりと自らの衣服に手を掛けた。ヘレナは常にゆったりとした衣服に身を包んでいる為、その体の線が他人に目に触れられる事は殆ど無い。が、ヘレナの体は出る所はしっかり出、引っ込む所はしっかりと引っ込むという理想的な体型をしている。行き遅れとまで囁かれるが、その体は男を知らない割には男を誘うものとしては極上のものとして存在している。涙をこぼしながら、ヘレナは一枚一枚とその服を剥ぎとっていった。服の多さは人一倍と自覚しているが今回はそれが幸をそうした。一枚に時間を掛ければ時間は大分稼ぐことが出来る。
 だが、とうとう彼女を守る服は最後の一枚になってしまった。ヘレナは震えた指で最後の一枚に手を掛ける。
「ぶっ」
「ふぇ?」
 唐突に、アルトリウスが吹き出した。その肩は小刻みに震えている。ヘレナは唖然とした様子でアルトリウスを見た。
「く、くく……ばーか!!」
「……え?」
 腹を抑え、大爆笑するアルトリウス。その目尻は笑いすぎて涙が浮かんでいる。
「普通本気で脱ぐかよ! 純情すぎだろ! はっらいってぇ!」
「………………」
 余りの出来事に言葉を失うヘレナを無視し、アルトリウスは椅子から立ち上がりヘレナの脇をすり抜けて部屋を出て行こうとする。ヘレナはそのアルトリウスの腕を掴んだ。
「あ?」
「失礼」
 平手でも食らうのかと身構えたアルトリウスの両頬をヘレナは両手で包み込む。強引に引きずられるようにアルトリウスの顔の向きは変えられた。アルトリウスの唇に柔らかい物が触れた。アルトリウスは大きく目を見開いていた。
「、な」
 唇を離し、ヘレナは目の前で驚愕するアルトリウスと目を合わせながらべー、と舌を出した。
「ヴァカ」



「殿下ー」
 初対面以降、ヘレナは言葉では『殿下』と呼びつつ、その態度は友達のそれと変わらなかった。一応の敬意を払いつつもヘレナは初対面で脱がされたことをまだ根に持っているらしい。だがアルトリウスからしてみるとなぜ嫌煙せずに逆に寄ってくるのか意味が分から無いというのが正直な所である。
「殿下。聞いて下さい」
「聞かない」
 アルトリウスは地面に転がった男たちを眺め、ヘレナにそんな返答をした。模擬戦を申し込まれたのだが、三人の騎士を相手にアルトリウスはたった一人で全員を気絶させていた。殺してはいない。とは思う。倒れる時の当たりどころが悪ければまずいが、勝手に試模擬戦を申し込んでおいて木刀ではなく真剣で向かってきて尚且つ複数で向かってきた向こうが悪い。アルトリウスは忌々しげに『弱い』と吐き捨てた。
「殿下」
 イライラした様子で去っていこうとするアルトリウスの背中に声を掛けるヘレナ。アルトリウスは変わらずイライラした様子でヘレナに振り返った。
「んだよ?」
「私と、模擬戦をしませんか?」
「はぁ?」
 唐突な提案に、思い切り眉根を潜めるアルトリウス。ヘレナはニコッと笑った。
「この前の制裁、私のはまだ終わってません」
「まだ根に持ってんのか」
「『魔女』ですから。私が勝ったら脱いで下さいね、殿下」
「はぁ!?」
「当然です。大丈夫ですよ、私は殿下と違って大笑いなんて事しませんから」
「俺が勝ったらどうすんだお前は」
「殿下のお好きにして構いませんよ」
「くっだらねぇ……まぁいいだろう。お前が勝ったらこの前のことチャラにしてやるよ。ついでに魔法の実験でも何でもしろ。ただし殺すなよ」
「まぁ太っ腹。さすが殿下ですね」
 ふふふ、と笑うヘレナ。アルトリウスはヘレナから距離を取り剣を構えた。ヘレナは特別動くことも無くアルトリウスに真正面から笑いかけている。アルトリウスは怪訝な表情を浮かべつつも、ヘレナへの距離を詰める。ヘレナは笑いながらアルトリウスに向けた指先を上へ向けた。
「なっ」
 次の瞬間、アルトリウスの体が宙に持ち上げられる。空中でもがくもどうしようもない。恐らく逆さまに落ちれば命は無いであろう高さにまで持ち上げられ、アルトリウスは表情を引き攣らせた。
「降参しますか?」
 童女のように笑いながら、ヘレナは問い掛ける。アルトリウスは仕方なく頷いていた。



 上半身を脱がされ、アルトリウスは椅子に座らせられていた。背中を丸め、膝に両肘を着いてぼんやりと部屋の天井を見上げてみる。どういう原理なのかは分からないが、天井が見えない。何か黒いもやのようなものが掛かっていて天井を覆い隠している。そのせいか、やたら天井は高く感じた。何らかの魔法を行使しているのだろう、と検討を付けるが何の意味があるのかは分からなかった。
「どうかしましたか? ご気分はどうです?」
 背後から掛けられた声に、アルトリウスは首だけで振り向いた。ヘレナはいつもと同じ装いでアルトリウスの元へと歩いてくる。
「あまり機嫌は良くないな」
「圧倒的惨敗でしたもんね、殿下」
「てめぇ……」
 微笑むヘレナに頬を引き攣らせるアルトリウス。ヘレナの手がアルトリウスの頬に触れた。
「では、少々失礼致しますね」
「……好きにしろ」
 深い溜息を吐くと、ヘレナの手が嬉々として首から下へと伸びていった。筋肉を観察するようにヘレナの指が滑る。特に関節を中心に調べているらしく、肩を入念にチェックされる。
「……へぇ……ほぉ……おぉ……!」
 何に感動しているのか心底疑問である。ぺたぺたと背中に手が触れている。アルトリウスは眠そうにその手に身を委ねていた。不意に、ヘレナの唇が耳に寄せられた。
「……?」
「殿下、お聞きしたい事がございます」
「二人しか居ないのに囁かれるなんてエロいな」
「安心して下さい、殿下の下半身に興味はないです」
「そりゃ残念」
 眠そうに返答するアルトリウス。首は正面を向いたままだ。ヘレナがどんな表情をしているのかアルトリウスには見えなかった。
「殿下は……どうしていつも一人なんですか?」
「……なんでそんな事を聞く」
「少し気になったんです。殿下は何故か……私と同じ匂いがしますから」
「……お前は天才であるが故の孤独だろう? 俺とは違う」
「なら、どうして……?」
 ヘレナの言葉に、アルトリウスは押し黙った。背中に視線を受け、アルトリウスは渋々といった様子で口を開く。
「俺の母は市井の出でな」
「市井……え?」
「歓楽街の遊女だったんだ。7歳まで歓楽街で育った」
「歓楽街の遊女を……王が簡単に抱くでしょうか」
「知らねーよ。ただ、皆は口々に『王が戯れで抱いた女の子供』って俺を指さす。それが嫌で剣の腕とか色々な技術を磨いた。まぁでも根性に染み込んだ歓楽街の生き方がこの宮殿の連中は気に喰わないんだろうな」
 違い過ぎる生活だ。当然とも言えた。これでアルトリウスの乱雑な口調も態度も納得が行く。
「でも、宮殿に引き取られる際……直されなかったんですか?」
「あー口調とか直されたよ。私はなになにですって言えって。まぁそれは目上の人間の時だけだ。陛下とか……兄殿下様『共』とかな」
 あくまであれは殿下としての姿であり、この乱雑な口調や態度は彼の素顔のようなものだ。
「……殿下は、やっぱり私と似てます」
「なんで?」
「自分を偽れない所とか。でも殿下って女好きみたいな態度取ってますけど女性経験少ないでしょう?」
「るせぇ」
「だって、軽くキスしただけで顔が赤くなってましたもんね」
「戯けたこと抜かすな。あれはお前の報復の仕方が異常過ぎて驚いたんだよ」
 そっぽを向くアルトリウス。そんなアルトリウスにヘレナはくすっと笑っていた。
「おい、なんで笑った」
「いえ……可愛いなぁって思って」
「てめぇぶん殴るぞ」
 そんなアルトリウスの脅しにもヘレナはくすくす笑うだけだった。



「聞いて下さい殿下!」
「聞かない」
「聞いて下さい! 聞くと得ですよ! お買い物に行ったら3%値引きされてる位お得ですよ!」
「そこは出血大サービスして50%位値引きしろよ……」
 不毛な会話が続く。
 初めて出会ってから早3年が経過している。毎日犬のようにアルトリウスの周囲を付いて回るヘレナ。アルトリウスは鬱陶しいと感じつつも彼女を追い払う事は滅多にしなかった。アルトリウスは時折ヘレナの研究に手を貸し、ヘレナはアルトリウスの模擬戦に力を貸す。等価交換のように二人は関係を成り立たせていた。 
 関係が囁かれるものの、特別な関係には至っていない。王宮一の不良王子と王宮一の賢者にして奇人のコンビ等誰も好き好んで触っては来ない為今のところ二人の関係は良好に平和だった。
 ただ、最近少々二人の会話に変化が訪れていた事以外は。
「あぁ、そういや。お前この前俺の部屋来た時忘れ物したろ? 変な物置いていきやがって。今日の夜辺り取りに来いよ」
「……え? あ……い、今から取りに行きます!」
「は? なんで?」
「何でもです! よ、夜に殿方の部屋を尋ねる等淑女のすることではありません!」
「お前淑女じゃねーだろ……」
 という会話である。以前まで夜お互いに部屋に行くことは全く気にしていなかったというのに。どんな心境の変化だとアルトリウスは訝しむがヘレナは慌てたようにアルトリウスの部屋へと急いだ。アルトリウスは急かされるようにヘレナに腕を引っ張られている。
「そんなに急がなくても日は暮れねーぞ?」
「で、でも出来るだけ急いだ方が良いでしょう? で、殿下だって今日は夜伽が来るかもしれないし!」
「いや、俺の王位継承権はかなり下だから来ないってそんなもん……って聞いてんのか?」
 ヘレナにアルトリウスの話を聞く気は無いらしい。アルトリウスの部屋に辿り着くとヘレナは勝手に部屋に侵入していく。何故か自分の部屋の前で待たされる事になったアルトリウスが大きなあくびをした。
「……最近、またあくびが増えてきたな」
 眠気で目尻に涙が浮かぶ。アルトリウスは眉間に皺を寄せた。まぁ、あくび位なら心配は無いだろうと結論付けてヘレナが出てくるのを待った。だが待てども待てども出てくる様子は無い。
「おい、お前人の部屋なんだからさっさと出てこい」
 アルトリウスが扉を開けて自室に入った。ざっと見回してみるも、彼女の姿は見られない。
「は?」
 素っ頓狂な声を上げる。ぐるりともう一度見回すと、明らかにベッドが膨らんでいるのが見えた。アルトリウスは自分のベッドまで歩いて行くと、その膨らみの上に手を乗せた。
「何してんだお前は」
「だ、だって……殿下ったらいきなり入ってくるからびっくりしたんですよ!」
「びっくりはこっちの台詞だ。てめぇ勝手に人のベッドで何してやがる」
 シーツを引剥がし、中に居たヘレナを剥き出しにする。が、ヘレナはしっかりとシーツを掴んでしまっている為中々引き剥がせない。
「おいこら」
「ほ、放っといて下さいー!」
 シーツで顔を隠そうとするヘレナからシーツを奪うためアルトリウスも身を乗り出した。しばらくシーツを奪い合うためにいがみ合う。いつの間にかアルトリウスはヘレナに馬乗りに鳴っている状態になっていたが、二人とも気にした様子等無い。シーツの奪い合いに夢中になっているが為だった。
「だぁーもう! お前手離せよ」
 面倒くせぇ、と言いたげにアルトリウスが肘を折ってベッドに肘を着いた。
「、!」
 ヘレナが分かりやすく狼狽した。肘を着いたせいでアルトリウスとの顔の距離が明らかに近くなったからだろう。アルトリウスは顔を真っ赤にさせるヘレナに不思議そうな表情だ。
「この位の距離で何赤くなってんだお前は」
「へ、変なこと言わないで下さい!」
 ドン、と。アルトリウスを突き飛ばすヘレナ。アルトリウスはヘレナの上から引き剥がされるも、ベッドから落ちる等という無様な失態は晒さなかった。終始訳が分からないと言った表情のアルトリウスに、ヘレナは顔を赤くしたまま部屋から飛び出して行ってしまった。アルトリウスは呆然とするしかない。
「……何なんだ?」



 逃げ出してしまった。ヘレナはそんな考えに苛まれていた。相手はアルトリウス殿下だというのに突き飛ばしてしまった。どうしよう。
「……う……あ、あんな近くに顔を近づけないで欲しいなぁ。そもそも今までだってあんな近くで会話することなんて無かったじゃないですか……」
 ただでさえ、最近まともに顔が見れないのに。はぁーと深い溜息を吐き出し、ヘレナは自分に充てがわれた研究室へと足を進めていく。今更アルトリウス殿下の部屋に戻る気にはなれなかった。
「そもそも……どうしてあのタイミングで……!」
 部屋に入って自らの私物を発見し、部屋を出ようとした時ふとベッドが目に入った。起床してそのままになっていたベッドである。シーツはぐちゃぐちゃで枕等何処にあるか分からなかった。普段であれば侍女がベッドメイキングを早々に終わらせてシーツは元の綺麗な物に戻されているはずだった。だが、今日に限って何故かベッドは起床したそのままの状態で保存されていたのだ。ヘレナはシーツに触れ、温もりが既に消えている事を確認したのにもっと触れたくなってベッドの中に飛び込んでしまったのだ。シーツはアルトリウスの匂いで包まれていた。まだ替えられていない証拠だと微笑んでいた自分が懐かしい。何故あんなことをしたのか自分でも分かっていない。ただ、アルトリウスが眠っていたシーツに包まれていたらアルトリウス本人が入ってきて思わず隠れてしまった。きっと、アルトリウスの事だ。本当のことを言えば「眠いなら使ってもいいけど自分の部屋のベッド行けよ」と言って来るに違い無い。
「……殿下のだから潜ったのに、って何を言っているのかしら私」
「大賢者ヘレナ?」
「!?」
 不意に背後から声を掛けられ、ヘレナは素早く振り向いた。一人の貴婦人がにっこりを笑ってヘレナの背後に立っていた。
「、! お、王妃様……! わ、わたくし等にお声を掛けていただけるだなんて……!!」
「大賢者ヘレナともあろうお方なのよ。寧ろわたくしが尊敬するべきお方だわ」
「滅相もございません……!!」
 狼狽するヘレナを無視し、ニコニコと笑う王妃。王妃はヘレナの手を取り握りしめた。
「貴方にお話があるのです大賢者ヘレナ」
「は、え? わ、わたくしにお話……ですか?」
「えぇ。そうよ。もっと仲良くなりたいでしょう? アルトリウスと」
「……!」
 それはどういう意味なのか、と。ヘレナが問い掛けるより先に王妃は先に言葉を出した。
「理由は無粋でしょう? 貴方の最近の行動を見れば分かるわ。でも貴方とアルトリウスでは決して結ばれる事は無い……殿下と王宮魔法使い等結ばれる事はあり得ないのです」
「……お、王妃様?」
「そこで、貴方に一度だけチャンスを差し上げようと思うの。大賢者ヘレナ」
「ちゃん……す?」
「えぇ。一度位夢を見たいでしょう?」
 ふふふ、と王妃は笑った。
「貴方、夜の経験はお有り?」



 アルトリウスは眠い目をこすりながらベッドに腰掛けた。ヘレナがやって来ていた時と違い、ベッドはきちんとメイキングされている。だるそうに首を回したり関節の骨を鳴らし、リラックスしたように肩を落とすとベッドに潜る為にシーツを捲った。
「アルトリウス殿下」
 コンコン、と部屋のドアがノックされると共に名を呼ばれた。夜も深いこのような時間に誰だとアルトリウスはむっとした様子でドアを睨む。声は女だった。嫌な予感がする。深い溜息と共に扉に近づいていき、魔力の無い人間でも扱える簡単な施錠魔法を解いた。
「開けましたよ」
 語気は気怠げだが一応の敬語。相手が誰だか分からない以上、下手に乱雑な口調で対応するわけにもいかない。戸が開かれ、一人の女性が部屋に入ってきた。アルトリウスの予想通り、案の定彼女は夜伽用の薄い白いワンピースに上着を羽織っていた。ただ、その人物だけはアルトリウスにとっては予想外だった。
「……お前、何してんだ?」
「……夜伽を」
 ヘレナは上着を脱ぎながらおずおずとそう言った。アルトリウスは頭を抱えるしかない。
「夜伽の意味分かって言ってるか?」
「知識はあります」
 経験は無い、と。頬を引き攣らせるしかないアルトリウス。夜伽用のワンピースに身を包んだヘレナは戸に向かって指をさす。詠唱も無しに施錠魔法を達成するとアルトリウスを睨みつけた。その睨みが緊張から来るものなのだとアルトリウスはなんとなく予想出来てしまった。
「はぁー……何なんだよ。昼間は夜に殿方の部屋に訪問するなんてーなんて変なこと言ってたじゃねーか。どういう心境の変化だ?」
「お、王妃様から直々にご指名があったもので……」
「あんの糞ババァ……」
 忌々しげに吐き捨てるアルトリウス。血の繋がりの無い継母のような存在だが、彼女から良く思われていない事は重々承知している。とはいえ王妃からの指名となればヘレナが首を縦に振らざるを得ないのは仕方がない事だ。さしもの大賢者も仕える王宮を裏切ることは許されない。
「まぁいいや。部屋に居ろ。お前のことだし本くらい持ってきてるんだろ? その辺の椅子に座って読んでろ。もう俺は寝る」
「で、でも私に与えられた仕事があります!」
「夜伽っつーのは予行練習みたいなもんなんだよ。経験も無い女相手に予行練習してどうすんだ?」
「で、でも……!」
 ヘレナはアルトリウスの背にすがりついた。アルトリウスは深く溜息を吐き、ヘレナを見る。
「そんな責任感じなくていいんだよ。適当にやれ適当に」
「で、殿下……」
「もういきなり脱げなんて言わねーよ。ほら上着着ろ。寒いだろ」
「殿下」
「なんだよそんなに呼ばなくても……?」
 ヘレナの様子がおかしかった。アルトリウスは思わず言葉を失う。ヘレナの瞳が崩れそうにアルトリウスを見上げている。こんな目は見たことが無かった。
「……お前利用されてんだぞ?」
「知ってます」
「俺を許したら、他の兄殿下達もお前を娼婦扱いしてくるんだぞ?」
「知ってます……!」
 アルトリウスの兄達がヘレナの体にしか興味が無いこと等とうの昔に知っている。宮廷ではあまり見ないタイプだがヘレナは美人だ。奇人として嫌煙されていてもあの兄達にはどうでもいいこと。
「大丈夫です……大丈夫です、から……」
 瞳には涙を溜めて、ヘレナは懇願した。
「……怖かったら言えよ?」
「え?」
 アルトリウスはヘレナを軽々しく横抱きにするとベッドまで連れて行きベッドに降ろした。ベッドに降ろし、彼女を真上から見下ろすように顔の横に手を着く。明らかにヘレナの顔が緊張で強張っている。眉間に皺を寄せ、躊躇うように服の上からその体に触れた。横腹を撫で上げ、首元に舌を這わせる。ゆっくりと、丁寧に首筋を舐め上げ、手の位置が移動していく。新しい場所に触れる度、彼女の体がビクリと震えるのが嫌でも分かった。豊満な胸を撫で、体の線をなぞる。
「………………」
 ワンピースの裾が終わった部分に手が触れた。丁度そこは彼女の太もも辺りである。アルトリウスの手が次はゆっくりと登っていく。ただ、その手はワンピースの裾の下、肌を『直』に登っていた。
「ひ、やっ……!」
 明らかな拒絶の声に、アルトリウスはパッと上体を起こして手を離した。涙目のヘレナは呆然とした様子でアルトリウスを見上げていた。
「はい残念。失格です」
「……え? あの、殿下?」
 ベッドから降り、アルトリウスはテーブルの傍に置いてあった椅子に座る。ヘレナは体を起こし、困惑した表情でアルトリウスを見ていた。
「あ、あの……殿下? どうして、」
「王子との情事との際にあんな声出すか? 普通」
「……あ、」
「それに関しては許してやるからこっち来い」
「あの、殿下」
「なんだよ?」
「……私では不満なんでしょうか」
「だからそういう話じゃなくて失格」
「殿下は、私に触れるのを恐れているように感じます」
 ヘレナのその言葉に、アルトリウスは笑ったようだった。ヘレナは不思議そうな表情でアルトリウスを見上げた。
「男がお前のことどういう目で見てるか知ってるか?」
「?」
「本能的な生き物だからよ。綺麗だなーいい体してんなーと思ったら下の事位しか考えねーんだよ。お前はその最たる存在だな」
「……殿下は、私の事どういう目で見ているんですか?」
「おい馬鹿にすんな。俺は健全な男子だぞ。エロ目線で見てるに決まってんだろ」
「は?」
 そんな事を言われるとは思わなかった。素っ頓狂な声を上げるヘレナ。アルトリウスはヘレナから視線を逸らした。
「でもまぁ……なんか嫌なんだよ。こういうの。どうせなら、」
「どうせなら?」
「……なんでもない。お前のせいで眠れなくなったんだ。付き合え」
 唐突に話を逸らし、アルトリウスはヘレナを手招きした。ヘレナは服を整え、ベッドから降りた。
「どうせなら、口説き落としてからの方がいい」
「え?」
「なんでもねーよ」
 ヘレナを隣の椅子に座らせ、アルトリウスは深い溜息を吐いた。ヘレナはキョトンとした表情でアルトリウスを見上げるだけだ。
「こうやって腰据えて話するなんて久しぶりだろ? 少し位付き合えよ」
「……はい」
 ヘレナはおずおずと頷いた。
 他愛もない会話だった。最近では周辺で魔物が出現し始めている件から今日の夕飯の献立についてあーだーこーだと。アルトリウスは時折ヘレナの頭を撫でていた。アルトリウスが頭を撫でる等今まであり得ない事であったが、ヘレナは無性に嬉しくてそれについては黙ったままだった。
「あの兄貴の野郎がさ、たまには貴族らしい趣味を身に付けろってうるせーんだ」
「貴族らしい趣味ってなんですかね?」
「さぁ。絵とか……狩り? 狩りなら楽しそうだな」
「狩りなら殿下はお上手でしょうね。でも、いっその事全然知らない分野に手を出してみてはいかがですか?」
「知らない分野ー?」
「さっきも言っていた、絵とかどうでしょう?」
 ヘレナの提案にあまり乗り気では無いアルトリウス。絵等書いたことが無い。
「紙とペンがあれば絵等手軽にできます。殿下羽ペンとインク持っていませんでしたっけ?」
「仕方ねーな」
 面倒くさそうにアルトリウスが立ち上がり、羊皮紙と羽ペン、そしてインクを手にテーブルに戻ってきた。
「何か描いてみてくださいよ」
「はー? 仕方ねーな見てろよ」
 さらさらとアルトリウスの手が滑る。そして、羊皮紙に描かれたものを見てアルトリウスとヘレナは二人して言葉を失った。
 頭部と思われる部分には何かが尖っていた。全体的に丸いのだが何の絵なのか分からない。
「……何ですかこれ」
 ヘレナがようやく言葉をひねり出す。アルトリウスは頭部と思われる部分の上に\にゃーん/の文字を追加した。どうやら猫を書いたつもりだったらしい。
「……殿下。絵下手ですね」
「うるせーよ。だったらてめぇ描いてみろ!」
 そう言って乱雑に手渡された羊皮紙と羽ペン。ヘレナは少し悩んだ後、さらさらと羊皮紙の上に手を滑らせた。
 そして、またもや同時に言葉を失う二人。
 次は全体的に角張っており、何がなんのか分からない。かろうじて目のようなものがあると確認出来た。
「……なんだこれ」
 ヘレナはその質問を不服と感じたのか、先ほどのアルトリウス同様その生き物の上に\わん!/と追加した。
「お前の方が酷いじゃねーか!」
「絵なんて描いたことないんだから当然じゃないですか!」
 ヘレナの言い訳じみた悲鳴にアルトリウスは舌打ちした。ヘレナは罰が悪そうに笑っているだけだ。
「二人して下手ですね……絵」
「これは流石に悔しいな」
「……絵の勉強、なさるんですか?」
「悔しいからな。ちょっと手出してみるか」
 羊皮紙を本当に悔しそうに眺めながらアルトリウスはそう言っていた。ヘレナはそんな横顔を見て嬉しそうに微笑む。
「じゃぁ。人が描けるようになったらモデルでもやって差し上げましょうか?」
「ヌードじゃねぇと描かねーぞ」
「……変態」
「芸術家ってそういうのを描くんだろ……?」
 何かを履き違えた様子のアルトリウスに肩を落とすヘレナ。とはいえ彼女もそこまで芸術に詳しい訳でもない。
「……でも、殿下が望むならやってあげてもいいですよ」
「ホントか。じゃぁお前も何か練習しろよ。俺がモデルやってやるよ」
「え? 私も絵を練習するんですか!?」
「俺だけなんてつまらんだろ」
 当然の如くそう言ったアルトリウスに、ヘレナは驚いたようにアルトリウスを見やる。アルトリウスは楽しそうに笑っていた。
「じゃぁ……夢は描き合いっこですね」
「おうよ」
 本当に楽しそうに笑うアルトリウスに、ヘレナも釣られてその口元に笑みを浮かべていた。



 数日後、大きな戦が起こった。
 アルトリウス小隊は全滅。原因は敵国が使用した広範囲の殲滅魔法。アルトリウスは死体すら残らなかったという。敵味方の区別無く範囲内の者を全て消去した殲滅魔法にアルトリウスは為す術も無かった。
「アルトリウスがようやく死亡したんですってね」
「蓄積した薬が功をそうしたようですね、母上」
「えぇ。目障りな毒婦の息子が居なくなって王宮がようやく平和になるわ。あの大賢者もどうしてあんな下賤な子を選んだのかしら。私の息子たちはもっと素晴らしいというのに」
 王妃や王子達のこの会話をヘレナは知らない。アルトリウスの死を受け入れられなかったヘレナは自室で呆然と言葉を繰り返すしか無かった。
「殿下……絵、どうするんですか。私、描けないじゃ……無いですか。お願いです……戻って、きて。お願いです……お願い、お願い……!」
 涙はとどまる所を知らなかった。
 まだ、何も言えていないのに。

 

「大昔……この世界は魔法で満ち溢れていました。魔法使い、という魔法を使って様々な事象を起こす者達が職業として成り立っていた時代です。世界は、平和とは程遠く。物凄く大きな戦争が起きていました」
「戦争……ですか?」
 ニーナの言葉に、ヘレナは微笑みながら頷いた。テーブルに視線を落とし、ヘレナは昔を懐かしむように唇を震わせている。
「その大きな戦争で……恐らく世界の七割の人間は死に絶えたと聞きます。その戦争は、魔法の研究が引き起こした戦争でした。最初はただただ領地や資源の奪い合い等の小競り合いでしかなかったのですがね。人を生き返させる事が出来るとしたら、ニーナ様はどうされますか?」
「えっ……そう、ですね。亡くなった父を、生き返してもらうでしょうか」
「そうですね。もう一度会いたい方を蘇らせたい。その思いが、戦争を引き起こした引き金でした」
 悲しそうに目を伏せ、ヘレナは続けた。
「人を蘇生させる魔法は、決して戦争を引き起こそうと思って始まったものではありませんでした。寧ろ、世界が良くなるだろうと思って研究は進められていたんです。でも……それは禁忌でしかなかった。どうして禁忌とされたのか。私はあの時初めて思い知りました。私達人間は、人が手を出してはいけない領域に手を伸ばしてしまったのだと」
 まるで、その場で居合わせていたかのような口調だった。ニーナはそれが嘘とも思えず、事実なのだろうと理解してしまった。この魔女は、その大きな昔から生きているのだと。
「その時代には、まだ神が存在していました。戦争によって多くの人間が死に絶えました。ですから、神はそれを憂い魔法を封印することに決めたのです。そして、その魔法の封印の依り代として、私が選ばれた。私以外の人間が魔法を使用することを固く禁じ、私は人間であることを禁じられた」
「どうして……貴方が選ばれたのですか?」
「私が……研究の発案者だったからです」
 ヘレナは、唖然とするニーナに微笑みかけるだけだ。
「だから、これは私の罪。ヒトが魔法に手を触れる事を私は固く禁じた。それによって人命が失われるのだとしても、それによって更に多く失われる事を考えれば……四の五の言っている余裕はありませんでした」
 故に、相手が国王であろうと容赦はしなかった。いや、国王だからこそヘレナはあの暴挙に乗り出したのかもしれない。国王としての影響力の高さを考えて。
「私がヒトだった当時、恋を……していたんです」
「え?」
「当時、私がお仕えしていた国……カストゥール王国の第三王子……アルトリウス殿下という方でした。彼は、剣の腕はそこそこで。騎士として戦場に立つような人でした。戦場で殿下が亡くなったという報告を聞いた時、私は息が止まって死んでしまうかと思いました」
「……それで、人を蘇らせる研究を?」
「ふふ、馬鹿な女でしょう? 彼が居なくなることを……受け入れる事も出来なかった」
 自嘲気味に笑うヘレナ。
「私が人を蘇らせる研究をしている理由を神が知った時、神はあろうことか殿下を蘇らせてくださいました」
「えっ?」
「ですが蘇った殿下は……人の姿をしていませんでした」
 遠い目をしたヘレナの心境はニーナには窺い知れない。運命を呪っているのだろうか。未だに後悔しているのだろうか。ニーナには問いただすことも出来なかった。
「殿下の姿はウェルシュと言う名の赤い竜でした。神が差し向けた、私を唯一殺せる存在。赤い竜の力によって、私が死に、世界から魔法を失くす。それが神の計画でした。でも赤い竜は私を殺そうとはしなかった。寧ろ王国に散らばる村を襲撃したりし始めたのです。赤い竜は……ウェルシュには、既に理性等無かった」
 彼女の瞳から、表情が消えた。
「理性を無くし、国から恐れられたウェルシュは、次第に国から疎まれる存在となった。その時です。私と彼が、ニヴァシュの山にて死闘をする羽目になったのは」
 ヘレナの瞳には表情がない。それが、感情を抑えている為だとニーナは気が付いた。
「国からの要請で、私はウェルシュと戦うことになりました。ここで私が死ねば、全ては終わる。でも私が死んだ場合、ウェルシュはどうなるのだろうと思ったら、分からなくなりました。気がつけば私は……ウェルシュを自らの手で殺していたんです。おかしいですよね。蘇ることを望み、蘇らせることを考えて戦争まで起こしたのに。蘇った彼を、私は自分の手で止めを刺したんです。その代わり、私はウェルシュの爪を胸に受けて大きな怪我を負いました。ニヴァシュの山で絶え間なく流れる私の血はいつしか小川から河へと変貌していたのに、私の体は死を知ることはありませんでした。ウェルシュが亡くなったことで、ウェルシュの爪はその力を失い、結果私を殺す事が出来なかったんです。そのまま私が死ぬことが出来ていれば……もっと事態は違っていたでしょう」
 固唾を飲んでニーナは次の言葉を待った。
「その時流れた血がニヴァシュの山に染みこみ、恐らく貴方方の持つエーテルが出来上がった。採掘されるようになったのは最近と言って居ましたね。恐らく、結晶化が進んだのでしょう。この100年の歳月によって」
 冷えた紅茶を眺めながら、ヘレナはぽつりとそう言った。ニーナは言葉を失い、唇を噛んだ。
「あ、あの……」
「はい、なんでしょうか?」
「その……大きな戦争なんですが。私の記憶ではそんな大きな戦争があった事を記憶していません。それに……赤い竜だって、」
「消しましたから。人間の記憶から、書物等の記録から、全てを」
「……え?」
「人間が覚えていなくても良いことだと私が判断して消しました。私の魔法の影響を受けない赤い竜の騎士……ルキウス殿下は簡単にその記憶を思い出してしまったようですけれど」
 断言するヘレナ。ニーナはまたもや呆気に取られてしまった。ヘレナはまた微笑んでいた。
「愚かでしょう? 私」
「……でも、分からないでも、ないのです」
「………………」
「私だって……ルキウス殿下を失ったら、何をするか……」
 呟くほど、小さな声だった。ヘレナは冷えた紅茶を一口含み、また唇を開く。
「ルキウス殿下は……私を唯一殺せる存在なのです」
「えっ?」
「赤い竜が居なくなってしまっては、私を殺せる存在が居なくなってしまう。だから神は、アルトリウス殿下と同じ出自の人間に赤い竜と同じ力を備えさせて生み出した。でも、今の彼では私を殺せない。だから、私は私を殺せるよう彼にあれを渡したんです」
「ま、待って下さい! それじゃ、貴方は……!」
 焦るニーナ。そんな彼女にヘレナは、笑いかけるだけだった。
 ニーナの中でそれはあり得ないという思いが駆け巡るが、魔女はそれを否定して来ない。寧ろ肯定するように微笑むだけだった。ニーナは脱力したように椅子に深く腰掛ける。
「……どうして、そんな……」
「絵を描きたいんです」
「え?」
「約束したんです。アルトリウス殿下と。絵の描き合いをしようって」
 遠い瞳でそう呟いたヘレナに、ニーナは黙り込んだ。
 小屋の中に沈黙が舞い降りる。静寂の中、まだ片付けられていなかった絵筆がぽつんと寂しそうに床に転がっていた。
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