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淑女の香り
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憎い相手を何度も殺せたら、どれだけ気持ちがいいだろうか。
私は赤黒い本心を押し隠しながら、今日も淑女の香りを纏う。
「伯爵令嬢リシェル・ヴァルフェルト。お前との婚約を、ここに破棄する」
アルベルト殿下、王家の第二王子であり、私の婚約者であるその人は、どこか軽い眼差しで言い放った。
彼の父である王は見下ろし、謁見の間の背景がざわめくのに、殿下の言葉は透き通って響いている。
「かの公爵令嬢を貶め、嫉妬から罪を犯した。王宮からの追放刑に処す故、領地にて静かに暮らすがいい」
安心させるように、優しく私へ眼差しを向ける殿下。心配はいらない、すぐに助け出して見せる、と、そう言わんばかり。
嗚呼、その瞳を何度抉り取ってやろうと思ったことか。
煮詰まった悪意が腹の底から溢れ出ようとするが、この身に纏う浄香が許しはしない。
「承知いたしました、殿下」
口から出た声は、自分でも驚くほど澄んでいた。
かつては愛していた。
しかし今残っているのは、真っ赤な憎しみだけだった。
◇ ◇ ◇
ヴァルフェルト家は、王宮御用達の調香師の家だ。
空気を清め、人々の意識を整える。香水のような隠す匂いではなく、人の精神を引き締めたり鎮める、癒やしとしての香り。
調香師として王宮へ来た私は殿下に見初められ、婚約者になった。
しかし殿下は、私を見ない。
私の言葉など受け止めず、ただ我慢しろとだけ命じる。私が行動を起こそうとすると、必ず先回りして止めに入る。
余計なことはするな、と。
今もそうだ、殿下の我儘で私が婚約者となったのに、こんな冤罪ごときを晴らすこともできずに唯々諾々と公爵家に従う。
私が被る汚名に苛立つくせに、私の心を気にしていない。
最初の頃は、信じていた。
殿下が私を婚約者にしたのだから、少なくとも私の声くらいは拾ってくれると。
父である伯爵とは不仲で、後ろ盾の弱い私は、王宮では格好の的だった。
あからさまな態度があるわけではない、常に悪意に晒されるわけではない。
私だけ招待状が届かない、開始時刻が私だけ違う、席順表に私の名だけがない。
どれも些細で、立場の弱い私が声を荒げれば「過敏」になる種類のもの。失礼であるはずなのに、誰もそれに疑問の声を上げない。
だから私は、一度だけ殿下に言った。助けてほしいと、礼儀を踏まえた貴族的な言い回しで。
「殿下。私……最近、少し怖いことがあったのです」
殿下は書類から目を上げ、優しく眉を下げた。
きっと、私の話を聞いてくれると、その表情に救われる気がして――
「大丈夫。すぐ慣れる」
それで終わった。
は、と口が開いて、音は出なかった。
何が怖いのか、誰が何をしたのか、ひとつも訊かれない。
私の『怖い』は殿下の中で『お前の気のせい』に丸められて消えた。
でも、と私が続ければ、殿下は困ったように眉をひそめて言い放つ。
「我慢しろ。お前は賢いから、分かるよね?」
そして殿下は、慰めるように私の手を取った。
握る力は強くないのに、じっとりと確かめるように撫でられる。
「外の声なんて聞かなくていい。お前は僕の婚約者だ。僕の言う通りにしていれば、誰もお前を傷つけられない」
――守る、という言葉の形をした檻。
私は笑って頷くしかなかった。
……そして茶会で私が恥をかいて、屈辱で震えるままに帰った後。
殿下は私をサロンに呼び、何事もなかったかのように、銀の小皿を差し出した。
上に乗っていたのは、色とりどりの菓子。殿下の手で甘い味わいが口に入れられ、喉の奥へ貼り付くレモンの香りが満ちていく。
「今日はよく耐えたね、偉いぞ」
……幼子へ宣うようなそれに、褒められたのだと理解するまで、少し時間がかかった。
殿下は満足そうに頷いて、私の髪を指先で撫でてから、砂糖より甘い声で囁く。
「そう、お前は賢い。ちゃんと我慢できる」
私は淑女の微笑みを保ったが、胸の奥で何かが蠢いた。
そのまま、殿下は細い鎖のチョーカーを取り出した。
華奢な金属の輪に、小さな王家の紋章が下がっている。
「これを着けていれば、誰もお前に失礼な真似はできない」
そう言って、殿下は私の首にそれを着けた。
「似合うよ。お前は本当に、僕の理想だ」
殿下は私の頬を撫でる。
冷たい金属が肌に触れて、小さく音が鳴った。
「外すのは禁止、無くしたら大変だからね。僕が、管理しているんだから」
優しく、当然のように。私の尊厳を全否定する。
鉄の香りに、微かな目眩がした。
まるで、首輪みたいだと――仄暗く、思った。
私は、彼の愛玩動物。
彼を癒やすためだけの香りを作るペット、王子妃としての役目を期待されていない愚か者。
そう理解するまで、さして時間は掛からなかった。
一度だけ、父に手紙を書いたことがある。
助けてほしい、とは書けなかった。代わりに、遠回しに状況を並べた。
招待が届かないこと。侍女の不注意にされること。殿下が笑って済ませること。
――私が、少しずつ削られていること。
返事は早かった。
中身は短く、冷たく、いつもの伯爵家の文章で、
読んだ私は、衝動的に手紙を破り捨てていた。
『王宮で恥を晒すな。お前は伯爵家の名を背負っている』
それだけ。
私は『娘』ではなく、『名札』なのだと理解した。
助けを求める相手がどこにもいないのだと、拳を握って一人、耐えた。
その夜、寝台の中で思った。
私がどれだけ正しくても、私がどれだけ傷ついても、彼らには関係がない。
私は、誰かの体面を保つために、静かに押さえつけられる。犬のように"待て"を命じられる。
胸の奥で、黒いものが静かに香りを持った。
絶望が熱を持って、血の匂いに変わっていくのが分かった。
私は我慢した。
淑女の鑑として、耐え抜いてきた。
殿下の言う通りに、何も出来ずにただ黙って耐えた。
……だから、こうなるのは必然だった。
◇ ◇ ◇
処断された私は馬車に押し込まれ、身一つで領地へ向かわされる。弁明も裁判もない、一方的な通告、王家の体裁のための生贄。
窓の外、忌々しい王都が遠ざかっていく。
それを眺めても、不思議と何の感情も抱かなかった。
ただ、あの殿下が私を追いかけてくるのが確定していることに、気が滅入った。
馬車が領地へ近づく頃、空が暗くなった。
雨だ、自然はいつだって自由に顔色を変える。それが羨ましい。
ぬかるみが振動を大きくすると、不意に、馬車が大きく傾いた。
ぐらりと傾く衝撃、馬の嘶き、護衛の叫び。
視界が回転し、身体が宙に浮く。
……嫌な音が響いて、全身に衝撃が襲った。
私は思った。ああ、これが終わりか、と。
痛みが来るより先に、冷たい香りが胸を満たした。
――悔しい。
――許せない。
――私が何をした?
最後に、殿下の顔が脳裏をよぎる。
あの、気色悪い瞳。私を装飾品としてしか見ていない目。
掠れた笑い声が、喉の奥からこぼれそうになった。
血の匂いを感じながら、私は――
(……殺してやればよかった)
その決意だけを握りしめて、血の中で闇が落ちた。
私は赤黒い本心を押し隠しながら、今日も淑女の香りを纏う。
「伯爵令嬢リシェル・ヴァルフェルト。お前との婚約を、ここに破棄する」
アルベルト殿下、王家の第二王子であり、私の婚約者であるその人は、どこか軽い眼差しで言い放った。
彼の父である王は見下ろし、謁見の間の背景がざわめくのに、殿下の言葉は透き通って響いている。
「かの公爵令嬢を貶め、嫉妬から罪を犯した。王宮からの追放刑に処す故、領地にて静かに暮らすがいい」
安心させるように、優しく私へ眼差しを向ける殿下。心配はいらない、すぐに助け出して見せる、と、そう言わんばかり。
嗚呼、その瞳を何度抉り取ってやろうと思ったことか。
煮詰まった悪意が腹の底から溢れ出ようとするが、この身に纏う浄香が許しはしない。
「承知いたしました、殿下」
口から出た声は、自分でも驚くほど澄んでいた。
かつては愛していた。
しかし今残っているのは、真っ赤な憎しみだけだった。
◇ ◇ ◇
ヴァルフェルト家は、王宮御用達の調香師の家だ。
空気を清め、人々の意識を整える。香水のような隠す匂いではなく、人の精神を引き締めたり鎮める、癒やしとしての香り。
調香師として王宮へ来た私は殿下に見初められ、婚約者になった。
しかし殿下は、私を見ない。
私の言葉など受け止めず、ただ我慢しろとだけ命じる。私が行動を起こそうとすると、必ず先回りして止めに入る。
余計なことはするな、と。
今もそうだ、殿下の我儘で私が婚約者となったのに、こんな冤罪ごときを晴らすこともできずに唯々諾々と公爵家に従う。
私が被る汚名に苛立つくせに、私の心を気にしていない。
最初の頃は、信じていた。
殿下が私を婚約者にしたのだから、少なくとも私の声くらいは拾ってくれると。
父である伯爵とは不仲で、後ろ盾の弱い私は、王宮では格好の的だった。
あからさまな態度があるわけではない、常に悪意に晒されるわけではない。
私だけ招待状が届かない、開始時刻が私だけ違う、席順表に私の名だけがない。
どれも些細で、立場の弱い私が声を荒げれば「過敏」になる種類のもの。失礼であるはずなのに、誰もそれに疑問の声を上げない。
だから私は、一度だけ殿下に言った。助けてほしいと、礼儀を踏まえた貴族的な言い回しで。
「殿下。私……最近、少し怖いことがあったのです」
殿下は書類から目を上げ、優しく眉を下げた。
きっと、私の話を聞いてくれると、その表情に救われる気がして――
「大丈夫。すぐ慣れる」
それで終わった。
は、と口が開いて、音は出なかった。
何が怖いのか、誰が何をしたのか、ひとつも訊かれない。
私の『怖い』は殿下の中で『お前の気のせい』に丸められて消えた。
でも、と私が続ければ、殿下は困ったように眉をひそめて言い放つ。
「我慢しろ。お前は賢いから、分かるよね?」
そして殿下は、慰めるように私の手を取った。
握る力は強くないのに、じっとりと確かめるように撫でられる。
「外の声なんて聞かなくていい。お前は僕の婚約者だ。僕の言う通りにしていれば、誰もお前を傷つけられない」
――守る、という言葉の形をした檻。
私は笑って頷くしかなかった。
……そして茶会で私が恥をかいて、屈辱で震えるままに帰った後。
殿下は私をサロンに呼び、何事もなかったかのように、銀の小皿を差し出した。
上に乗っていたのは、色とりどりの菓子。殿下の手で甘い味わいが口に入れられ、喉の奥へ貼り付くレモンの香りが満ちていく。
「今日はよく耐えたね、偉いぞ」
……幼子へ宣うようなそれに、褒められたのだと理解するまで、少し時間がかかった。
殿下は満足そうに頷いて、私の髪を指先で撫でてから、砂糖より甘い声で囁く。
「そう、お前は賢い。ちゃんと我慢できる」
私は淑女の微笑みを保ったが、胸の奥で何かが蠢いた。
そのまま、殿下は細い鎖のチョーカーを取り出した。
華奢な金属の輪に、小さな王家の紋章が下がっている。
「これを着けていれば、誰もお前に失礼な真似はできない」
そう言って、殿下は私の首にそれを着けた。
「似合うよ。お前は本当に、僕の理想だ」
殿下は私の頬を撫でる。
冷たい金属が肌に触れて、小さく音が鳴った。
「外すのは禁止、無くしたら大変だからね。僕が、管理しているんだから」
優しく、当然のように。私の尊厳を全否定する。
鉄の香りに、微かな目眩がした。
まるで、首輪みたいだと――仄暗く、思った。
私は、彼の愛玩動物。
彼を癒やすためだけの香りを作るペット、王子妃としての役目を期待されていない愚か者。
そう理解するまで、さして時間は掛からなかった。
一度だけ、父に手紙を書いたことがある。
助けてほしい、とは書けなかった。代わりに、遠回しに状況を並べた。
招待が届かないこと。侍女の不注意にされること。殿下が笑って済ませること。
――私が、少しずつ削られていること。
返事は早かった。
中身は短く、冷たく、いつもの伯爵家の文章で、
読んだ私は、衝動的に手紙を破り捨てていた。
『王宮で恥を晒すな。お前は伯爵家の名を背負っている』
それだけ。
私は『娘』ではなく、『名札』なのだと理解した。
助けを求める相手がどこにもいないのだと、拳を握って一人、耐えた。
その夜、寝台の中で思った。
私がどれだけ正しくても、私がどれだけ傷ついても、彼らには関係がない。
私は、誰かの体面を保つために、静かに押さえつけられる。犬のように"待て"を命じられる。
胸の奥で、黒いものが静かに香りを持った。
絶望が熱を持って、血の匂いに変わっていくのが分かった。
私は我慢した。
淑女の鑑として、耐え抜いてきた。
殿下の言う通りに、何も出来ずにただ黙って耐えた。
……だから、こうなるのは必然だった。
◇ ◇ ◇
処断された私は馬車に押し込まれ、身一つで領地へ向かわされる。弁明も裁判もない、一方的な通告、王家の体裁のための生贄。
窓の外、忌々しい王都が遠ざかっていく。
それを眺めても、不思議と何の感情も抱かなかった。
ただ、あの殿下が私を追いかけてくるのが確定していることに、気が滅入った。
馬車が領地へ近づく頃、空が暗くなった。
雨だ、自然はいつだって自由に顔色を変える。それが羨ましい。
ぬかるみが振動を大きくすると、不意に、馬車が大きく傾いた。
ぐらりと傾く衝撃、馬の嘶き、護衛の叫び。
視界が回転し、身体が宙に浮く。
……嫌な音が響いて、全身に衝撃が襲った。
私は思った。ああ、これが終わりか、と。
痛みが来るより先に、冷たい香りが胸を満たした。
――悔しい。
――許せない。
――私が何をした?
最後に、殿下の顔が脳裏をよぎる。
あの、気色悪い瞳。私を装飾品としてしか見ていない目。
掠れた笑い声が、喉の奥からこぼれそうになった。
血の匂いを感じながら、私は――
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