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冒険者編
忘れ得ぬ者へ、また会おう
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「…はぁぁ、なるほどな。いつか来るとは思っていたが、こんなに早いとは思いもよらなかったぞ」
「なんだ、シケ込んだ顔して。辛気臭いったらありゃしねぇぜ」
冥府の間、冥王の玉座。
そこに座るルドラの前には、一人の老婆が仁王立ちで佇んでいる。
草臥れた髪は白く長く、皺深い相貌は笑みを浮かべ、そしてその緑の瞳は、かつてと同じように不敵に笑っている。
そんな相手をマジマジと見てから、ルドラはため息を吐く。
「久しぶりだ、ネセレ」
「ああ、久しぶりだな、クソジジイ」
老婆…そう、彼女こそがネセレ。かつての大盗賊で、皇帝の影の右腕であった、諜報員ネセレ。
そんな彼女も、今ではもう老いた老婆であり…そして、今ではただの死人であった。
「まさか、お前たちの中で一番最初にお前が来るとはなぁ…死因はなんだ?」
「病死だよ。アタイらリングナーは、ちょいと老いやすい体質だからねぇ。フェスにゃあ悪いことをしちまったかもしれねえが」
「まあ、フェスベスタには三人の子供と孫がいるから、そう寂しくはなかろうが…」
帝国に帰化したフェスベスタは、今ではデグゼラス帝国の竜伯として、お飾りながら爵位を得ている存在だ。とはいっても、当人は不戦協和を結んでいるので、一切の戦闘ごとには関わらないという制約があるが。
老婆は恐れることもなく飄々とルドラに近寄り、肩をすくめた。
「それより、てめぇだよジジイ。なんだってあれから一度も面ぁださないかね。お陰でチビ共が寂しがってしょうがなかったんだよ。ああ、あとアタイも言いたいことは山ほどあった」
「神が下界に顔を出しまくるのも問題でね」
「はん!適当こくんじゃねえよクソッタレめ。どうせ気恥ずかしくって合わせる顔が無かっただけだろうが!」
それに関して、ルドラは黙秘を行使した。図星かどうかはノーコメント。
死の神へのズケズケと物を言うそれに、周囲の補佐神…最近入った新入りが、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているのだが、事情を知っているヴァルスがそっと人払いした。出来た息子である。
ルドラの前に椅子を出して去るヴァルスに、ネセレは呆れ顔。
「てめぇと違って、出来た息子じゃないかね」
「だろ~?…かくいうお前の息子と娘達は、お前と違って優しい子に育ったじゃないか。お前とぜんっっぜん似てないがな!」
「ばーか!アタイに似ないように徹底的にシゴイたからだよジジイ!おかげさまで今じゃ帝国のお偉いさんだ。盗賊なんてチンケな職に身を落とさなくって結構だぜ」
「なんだ、てっきり後継者でも育てるかと思ってたんだがな」
「伝説の大盗賊はアタイ一人で結構、ガキでも超えさせる気はないね」
「大盗賊はオンリーワンかね。親のプライドか、はたまた親心か」
ネセレの武勇伝は、彼女が表舞台から去って後、今では口伝として人々の口端に乗っている。噂が無くなり、もはや居たかどうかもわからないほど時間が経ってしまった今、過去の栄光はただの物語になる。
そんな物語の主人公も、今や老婆となって死を迎えたのだ。
そこに、無常観を抱く。
「…なんだ、シケ込んだ面して」
「………ネセレよ。お前、再び生を得たくはないか?」
「…あん?」
ルドラは提案する。
死の尖兵となって、死者を束ねる存在にならないか、と。
その、様々な感情の込められたルドラの提案に、ネセレは…、
「…かぁー!!ばぁか言ってんじゃねーよクソジジイ!!」
一蹴した。
どこまでも傲岸に、ネセレは言い放つ。
「いいかいジジイ!アタイは、アタイの人生には、一切合切の未練がねぇ!アタイは立派に産まれ、生きて、そして死にきった!ガキこさえて家庭をもって、アタイを見下してた連中全てに胸ぇ張って誇れるほどの人生を歩んで来たんだ!それを今更、どの面下げて戻れっていうんだい?あぁん?」
「だが、本当に未練は…」
「ねぇな!」
「フェスベスタは、まだお前のことを」
「フェスにゃあしっかりと別れを言ってきた。それ以上は求めねぇよ」
「だが…」
「あぁもう!てめぇらしくもねぇな、ジジイ!」
ネセレはグイッとルドラの胸ぐらを掴んで、睨め上げる。老婆となってもまだ、かつての頃のような威圧感は健在だった。
「いいか、ルドラ。アタイは、もう生きる気はねぇんだよ。もうこれ以上、自分の人生の後を汚す気はさらさらねぇんだよ。自分の、定めある者の領分くらいは弁えてんだ。だからてめぇはきっちり、神さまとしての仕事をしな」
「………」
説教までされ、ルドラは大きく息を吐き、力なく笑った。
「…まさか、お前に説教される日が来ようとはな」
「てめぇが不甲斐ないからだろ、ジジイ」
「まったく…お前は最後まで、その口の悪さが治らなかった。死んでも治らないんじゃないか?」
「けっけっけ!いいねぇ、アタイは何度生まれ変わってもアタイなんだよ。ま、そんときゃよろしくな、ジジイ」
「…ふん」
ルドラは指を鳴らす。
すると、門の一つが輝き、扉が開かれる。
「お前は悪さを腐るほどしてきたが、同じくらい善行も成した。そして世界を救った…それを鑑みて、天国行きだ。まあ、好きなだけ寛いで来い」
「はっ!当然だね!」
「どこまでも自信過剰な小娘だ…」
ケラケラ笑いながら、老婆は進んでいく。そこに一片の迷いもなく、振り返ることもない。
それに、少しだけルドラは顔を歪めた。
「…おい、クソジジイ!」
光に消える、その間際。
ネセレは一度立ち止まり、振り返った。
…その相貌は、在りし日と同じもので、
「…楽しかったぜ」
ただ、無邪気な笑みで、こちらを見つめた。
それに目を見開いてから、ルドラは静かに笑みを浮かべた。
「………ああ、私も、楽しかったぞ」
その言葉に、ネセレは当然、と言わんばかりに頷いて、背を向けた。
「…んじゃ、あばよ、ルドラ!」
そして、今度こそ、ネセレは門の奥へと去っていく。
彼女らしく、あっさりと、未練もなく、
輝きの奥へと、消えていく…。
「…まったく、本当に…最後まで口の悪い、小娘だな」
ルドラはずっと、その去った場所を、見つめ続けていた。
いつまでも、いつまでも……。
※※※
デグゼラス帝国暦689年 ベレストの月 18日、
デグゼラス帝国領、首都ケンタック。
その皇城の、最奥にて。
豪奢な寝台の上に、一人の老婆が伏していた。
黒く艷やかであった髪は、今では白く輝きを失い、瑞々しかった柔肌は、今では枯れ木のよう。
されど、その柔和な相貌の黒い瞳だけは、凛とした輝きを宿している。
暗い刻限、夜半を過ぎようというそこでは、しかし多くの人々が詰めかけていた。
老婆の話を興味深げに聞いていた幼子、黒髪の少年は、老婆の手を握りながら言う。
「おばあさま、また明日もお話をしてくださいますか?」
それに、老婆はベッドに伏しながらも微笑みかける。
「そうですわね…また元気があれば、ね」
「本当ですか?」
「ええ、本当」
それに少年は満足そうに微笑み、母に促されて手を引かれながら眠そうに去っていく。
その背を見つめながら、老婆は笑みを薄めて目を細める。
「シャディは、きっといい子に育ちますわね…」
「ええ、当然です。お祖母様が手づからお育てになられたのですから…きっと、この帝国を背負う、良き名君となりましょう」
「…ふふ、それは貴方も一緒ですわよ」
老婆の孫である青年、現デグゼラス皇帝の言葉に、老婆はひっそりを笑みを深めた。
それに皇帝はやや面映い様子で口をひん曲げるも、それ以上は何も言わない。ただ、じきに来る運命の時を、少しでも伸ばせるように、神へと祈る。
と、そこで侍従が来賓を告げた。
夜遅くのこんな時分。
されど、皇帝はわかっているように、賓客を招いた。
そして、やってきたのは、二人の青年。
「…お久しぶりでございます、ライナディール陛下、メルサディール上帝陛下」
一人は、金色のくすんだ髪をした、青と赤のオッドアイをした男。
そして、もう一人。
「…久しぶり、メル姉」
黒く長い癖毛を首元で括った、赤目で背の高い偉丈夫。
たくましい青年となった彼へ、老婆は嬉しげに微笑み、目を細める。
「まあ、ケルティオ、ハディ。よく、いらっしゃいましたね…持て成せなくてごめんなさいね」
「いいって、メル姉。そのまま寝ててさ」
成長と共に低くなった声は、在りし日の少年の声とは違えど、その心遣いは同じだ。
老婆は、姿が変わらない腹違いの弟と抱擁を交わし、最後の会話をする。
「ハディ、ダーナはどうですか?」
「ああ、ダーナもいつもどおり、元気さ。泣いちゃうからこっちには来なかったけど」
「ふふ…またそんなことを言っていると、お尻を抓られますわよ。…ああ、ケルティオは、又甥が出来たそうですわね」
「ええ、とはいっても、あちらは知らないでしょうが…どこか、ゲーティオ兄上の面影がありますよ。きっと大成するでしょうね」
三人の会話に、皇帝は空気を察して人払いをし、自身も退席した。彼らが何者なのか、皇帝は幼少の頃から知っている。
…だから、最後の時は、在りし日の仲間と共に…そう思ったのだ。
三人はしばし、楽しげに談話をする。とはいっても、ハディが面白おかしく話し、ケルトが補足し、メルが力なく笑うだけなのだが。それでも、まるでかつての頃のように、三人は自身の立場も忘れて、笑いあった。
「ふふふ…こんなに笑ったのは、いつぶりでしょうかしらね」
「メル姉はずっと公務で忙しかったんだ。これからは、自由に笑って過ごせるさ」
「あら、ハディも同じでしょう…?都市の王様は大変でしょうに」
「まあ、こっちは頼もしい仲間も居るし」
「ええ、貴方の無茶振りにはいつも辟易させていただいてますよ、陛下」
「そう言うなって、ケルト。でも助かってるよ、昔っからさ」
「ふふふ…あなた達は本当に、変わりませんわね」
いろいろと変わった部分は多いだろうが、その心根はいつまでも昔のままだった。
メルは目を細めて、二人を見つめる。
「…時を重ねないあなた達にも、辛いことはあるでしょう。けれど、忘れないでくださいませ。過去に置いていかれる者にとっても…あなた達のその心に、救われ続けているのだということを」
「………メル姉」
「…………少し、喋りすぎましたわね。二人共、ちょっとだけ、休ませていただいても、よろしいかしら?」
メルは少し肩で息をする。その仕草に、ハディはこの上もなく痛ましげに顔を歪めたが、それも一瞬のこと。
次に顔を上げた時、ハディは笑顔でうなずいた。
「………ああ、そうだな。ゆっくり、休んでくれよ、メル姉」
「………ええ、ごゆっくり、お休みください、メルさん」
「……………ありがとう、ハディ、ケルティオ」
か細く息を吐くメルを見つめてから、二人は音もなく立ち去っていく。去り際、ケルトはそっと窓の一つを開けて、頭を下げてから出ていった。
本当に強く、たくましくなってくれた、と同時に、優しさも失わなかった彼らへ、メルは心の底から感謝の言葉を紡ぐ。
薄い息を吐いて、目を開けば、月光が斜陽の如く差し込んでいる。
光と影の陰影が浮き出るその部屋で、一人、メルは微笑み囁いた。
「………来てくださったのね、おじい様」
メルの横の椅子、そこに音もなく座る、一つの人影。
フードをすっぽりと被ったそれは、微動だにせずただ、じっとメルを見つめていた。
まるで死神のような姿だが、メルは恐れることなく、むしろ安心したように微笑む。
「来て、下さらないかと、思いましたわ…」
「………メル」
老爺は、暗い影の中からメルを見つめ、囁く。
「もう、よいのかね?」
その問いに、メルはしっかりと、頷く。
「ええ、アタクシはもう、十分に生きました」
確固たる意思の言葉に、老爺は項垂れるように首を下げた。
しばしの沈黙の後、老爺は続けた。
「………メルよ。今なら、お前に永遠の生を与えることができる」
ポツポツと、雨音のように降る声。
「新たな神性を与えてやろう。勇者としての神性だけでなく、お前が、お前で在り続けるための、神の座。そうだな、救世の女神なんて、どうだ?」
「…あら、十分な申し出ですわね」
「…なら」
「けれども、お断りします」
「………何故だ?と、尋ねるのは愚問、か…」
長い、長い、溜息。
それに、老女は静かに笑う。
「ずっと、錬金術で延命してきましたが、それでも…これ以上は必要ありません。ひ孫もできて、ようやく、アタクシも摂理に則って…去ることが出来ますわ」
老爺は暗い影から、萎れた声で呟く。
「…歴代の勇者の中で、お前という存在は、なかなかに愉快だった。私の退屈を紛らわせてくれる…そんな貴重な存在であった」
「…」
「お前は、消えてしまうのか?このまま…ブレイブリーとして帰還すれば…お前はきっと…………消えてなくなる」
そう、死とは人格の消失だ。
死すれば、神であるブレイブリーへと、還るだけ。
それは、メルサディールという人間の、死である。
「…おじい様」
メルの死に惑っているルドラへ、彼女は優しく声をかけた。
「…おじい様、アタクシは…勇者として生まれ、その責に翻弄され、運命を恨んだこともありました……けれども、その全てが今となっては、ただ…愛しく思います」
メルにとって、勇者とは人生の前半期であり、皇帝であることが後半期であった。
その中で、もっとも初期の思い出は、彼女にとっては苦味と、なくてはならない記憶だ。
「…初めて、相談に乗ってくださいましたね…貴方にとって、小さな悩みだったでしょうに…立場にとらわれず、根気強く話を聞いて、こんな小娘の相手をしてくださいましたわ…それはね、とても…素敵なことだった、と、思いますの…」
ルドラにとっては、ただの暇つぶしだったのだろう。
だがそれに、メルサディールは支えられていた。見えない友は、会話がうまく出来なかったから、ちゃんとした悩みを打ち明けられるのは、ルドラだけであった。
時に叱咤され、時に励まされ、頭を撫でてくれるようなあの感覚は、今でも思い出せる。
それへ、幼かった彼女は、言葉にできない感情を抱いたのだ。
「…ああ、家族というものがいれば、こういうものなのかしら、って…そう、思いました、わ」
「………」
「………おじい様」
メルは、微笑んだ。
月の光の中、老婆となってもなお、夜薔薇の如く、美しく…。
「…メルサディールは、幸せでした」
「…っ!」
その言葉を耳にし、ルドラは大きく息を呑み、次いで思わず叫んでいた。
「いくな!メル、逝くな…!!」
「………」
「待ってくれ…!頼むから、私は…私は………」
「……おじい様」
縋るように、メルの手を両の手で包むルドラへ、メルは小さく握り返した。
「…人を…見放さないで、ください………人は、貴方にとって…とても、弱く、臆病な存在でしょう……それでも…だからこそ……人の心、は、美しい……」
「メル………メルサディール…!」
「だから、ね………」
―――人を、嫌いにならないで。
そして、彼女は最後の一呼吸を、吐き終えた。
「………………」
「………………………………」
「…………………メルサディール」
・・・・・・・・・・・・
宵闇の中、扉の前でもたれ掛かっていたハディは、何かに気づいて顔を上げる。
同じく、ケルトも顔を上げて、廊下の窓へと近づいた。
「…雨」
………それは、まるで夜空が泣いているかのように。
満月が照らすその夜は、日が差し込んでも尚、しとどに濡れ続けたのだ…。
※※※
死とはなんなのだろう、と私は思う。
私は死を与えるもの、冥府の管理者、それを作った存在…だというのに。今はただ、その死というものが、どこか憎たらしく思える。
冥府の間、ぼーっと天を仰いでやる気なく過ごす。仕事があるはずなのだが、ヴァルスが空気を読んでいるのか、一向に何も来ない。…出来た息子だ、と褒めるような余力もない。
正直、私は…理屈の上でしか、死というものを理解していなかった。
死とは停滞、生の終着点。
そこに辿り着く者を何十、何百億と見続けてきたのに、実感がなかった。
私自身は、死人だと言うのに。
…なんとも、皮肉なものだ、と自嘲する。
…あれから、ブレイブリーが現れた。
神界に帰還した、ということで挨拶をしに来たのだが、正直、あいつの顔を見ることが出来なかった。どうしても、その中にメルの面影を求め、裏切られて傷つくことが予測できてしまったからだ。
ブレイブリーもまた、メルの記憶を保持しているが、人格は違う。性格も、性質も、何もかもが違うのだ。
それがわかっているのか、ブレイブリーは手短に去っていった。
ただ、最後に、
「彼女の言葉を、忘れないであげてください」
と、それだけ言って。
………………
メルは消えた、死んだのだ、と改めて思うも、どこかふわふわとした夢見心地だ…まあ、神なんてずっとそんな感じなのだが。ただ、メルを失うとはっきり実感した、あの金槌で殴られたかのようなショックに比べれば、浮き心地がいいというか………ただの現実逃避かも知れない。
「…ああ、そうか、あれが…」
あれが恐怖なのだ、と、なんとなく察する。
ずっと以前、ここへ来る前は知っていたはずなのに、改めて感じると、それは………魂の奥がひやりとするものだな、と思う。
その恐怖に人は常に脅かされ、生き続けていく。ならばきっと、生きることはとても窮屈なものなのだろう、とぼんやり思う。
「………」
いつまでも、くよくよしては居られない。
私は神で、裁定を待つ人々を送らねばならない身なのだ。
ここで、こうして居続けることは出来ない。
…だというのに。
天を仰いで、息を吐く。
冥府の月は、私の心を反映するように、青ざめていた。
「…………メルサディール」
失った者。失った笑顔。
嗚呼、私はあの子を、愛していたのだな、と、ぼんやりと自覚した。
そしてそれはもう、この世界のどこにも存在はしない。彼女を作り出すこともできない。
二度と、会うことは叶わない。
それがストン、と胸の奥に収まった時、私は…。
「…………嗚呼」
不意に、雨が降った。
ぽつり、と一粒の雨は頬を流れ、地に染み込んでいく。
一滴の雫の後に、ポツポツと、冥王の間に雨が降る。
月が輝く夜空の元で、私はただ、天を仰ぎ続けている…。
夜に生きる者が滑稽だと、人は笑うだろうか?
神である者が別れを恐れるなどと、人は笑うだろうか?
だが、忘れてはならなかったこと…
私の魂は神ではなく、私も又、人間でしかないのだと。
別離に涙し、再会を祝う、小さな営みに
心を砕いて存在する、それが小さき人なのだ。
この痛みは、悲しみは、
私が確かに、この世界に在るという、証。
だから、
私は忘れてはならない。
―――所詮、これは神ごっこに興じている死人の、ただの走馬灯に過ぎないのだ。
※※※
【デグゼラス帝国暦689年 ベレストの月 25日、 今日も雨
上帝カレンデュラの崩御から連日、ゲンニ大陸では雨が振り続けている。
晴れているのにも関わらず降り続けるそれに、
まるで天が涙を流しているかのようだ。
そのせいか、神が勇者の死を悲しんでいるのかも知れない、
との噂が囁かれている。
我らが上帝様は、やはり神に愛されし御方なのであろう。
しかし、夜になると必ず月が出る。
今までに見たこと無いほどに、青ざめた月。
怪異の前触れかと思ったが、魔物は出ることもなく静かな夜が続いている。
夜刻神ですら、彼女の死に心を痛めているのだろうか。
デグゼラス帝都騎士団日報より】
【デグゼラス歴624年に起きた「赤月の事変」に関して、解明されていることは未だに多くはない。一般では寝物語として語られる有名な英雄譚の一つなのだが、多くの研究者がこの事変に関して調べ、歴史的な研究を行ってきたが、答えとなるべき資料が少なく、詳細な真実が明かされることはなかった。
事の次第は、巨大な怪物、黒き大樹が帝国のやや西側に生えたことから端を発する。
資料によれば、それは天を突くほどに大きく、禍々しい色合いをしており、枝に葉は無く、空を覆うほどであったとされる。同時に、空は紅色をした霧に覆われ、陽光を遮り、代わりに真っ赤な月が現れたという。この月は、一説によれば吸血鬼の祖である「赤月の始祖」が生み出したとされる。
その後、大樹から魔物の大軍勢が現れ、帝都を襲撃した。それの指揮をしていたのが赤月の始祖と、後の魔王クレイビーであるとされている。彼らは帝都を攻撃するが、それに打って出た英雄達の手によって、倒されることとなる…。
一説によれば、この魔王とも言うべき存在達は大樹を守っていたようだ。途中で大樹の瘤から、とんでもなく巨大で邪悪な存在が産み落とされ、あわや世界が滅びかけたと言われているのだが、見た者達はその時の記憶が曖昧らしく、記録としてはほぼ残されていない。ただ、皇帝カレンデュラ、もとい救世の皇女メルサディールは知っている筈なのだが、彼女は「あれは世界を滅ぼさんとする邪教の手によるもの」とだけ言い、後は言葉を濁し続けていたようだ。何故、断言に至らなかったのか、彼女にも言えぬ事情があったのか、興味は尽きない。
この物語の最後に、決まって巨大な光り輝く巨人が現れる。これの正体が何なのか、古の神の顕現した姿であるという見解は一致しているのだが、その正体が誰なのかで、研究者達の意見は割れている。輝ける天光神ヴァーベルか、慈悲深き大地神ティニマか、それとも当時でも信仰されていた始祖ヴァルスか…というあたりで論争されるのだが、個人的には夜刻神ルドラでも面白いと思うのだが、無慈悲なる夜の神が人を助ける理由が思いつかないので、あまり受け入れられてはいない説である。
そして不可解な点といえば、これに関して神々は沈黙を守っている、という事だ。
神が下界に干渉していた時代ならば、信仰心を広めるためにこの事変を大々的に広めても良いはずなのだが、不思議と神は沈黙を守り通したようだ。何が不都合だったのか、我ら定命の者たちには理解できない狙いでもあったのかも知れない。
ともあれ、神は黙して語らず、
真実は歴史の闇に埋もれていったのである。
ベシュア・シュレイン著「勇者物語」より】
「なんだ、シケ込んだ顔して。辛気臭いったらありゃしねぇぜ」
冥府の間、冥王の玉座。
そこに座るルドラの前には、一人の老婆が仁王立ちで佇んでいる。
草臥れた髪は白く長く、皺深い相貌は笑みを浮かべ、そしてその緑の瞳は、かつてと同じように不敵に笑っている。
そんな相手をマジマジと見てから、ルドラはため息を吐く。
「久しぶりだ、ネセレ」
「ああ、久しぶりだな、クソジジイ」
老婆…そう、彼女こそがネセレ。かつての大盗賊で、皇帝の影の右腕であった、諜報員ネセレ。
そんな彼女も、今ではもう老いた老婆であり…そして、今ではただの死人であった。
「まさか、お前たちの中で一番最初にお前が来るとはなぁ…死因はなんだ?」
「病死だよ。アタイらリングナーは、ちょいと老いやすい体質だからねぇ。フェスにゃあ悪いことをしちまったかもしれねえが」
「まあ、フェスベスタには三人の子供と孫がいるから、そう寂しくはなかろうが…」
帝国に帰化したフェスベスタは、今ではデグゼラス帝国の竜伯として、お飾りながら爵位を得ている存在だ。とはいっても、当人は不戦協和を結んでいるので、一切の戦闘ごとには関わらないという制約があるが。
老婆は恐れることもなく飄々とルドラに近寄り、肩をすくめた。
「それより、てめぇだよジジイ。なんだってあれから一度も面ぁださないかね。お陰でチビ共が寂しがってしょうがなかったんだよ。ああ、あとアタイも言いたいことは山ほどあった」
「神が下界に顔を出しまくるのも問題でね」
「はん!適当こくんじゃねえよクソッタレめ。どうせ気恥ずかしくって合わせる顔が無かっただけだろうが!」
それに関して、ルドラは黙秘を行使した。図星かどうかはノーコメント。
死の神へのズケズケと物を言うそれに、周囲の補佐神…最近入った新入りが、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているのだが、事情を知っているヴァルスがそっと人払いした。出来た息子である。
ルドラの前に椅子を出して去るヴァルスに、ネセレは呆れ顔。
「てめぇと違って、出来た息子じゃないかね」
「だろ~?…かくいうお前の息子と娘達は、お前と違って優しい子に育ったじゃないか。お前とぜんっっぜん似てないがな!」
「ばーか!アタイに似ないように徹底的にシゴイたからだよジジイ!おかげさまで今じゃ帝国のお偉いさんだ。盗賊なんてチンケな職に身を落とさなくって結構だぜ」
「なんだ、てっきり後継者でも育てるかと思ってたんだがな」
「伝説の大盗賊はアタイ一人で結構、ガキでも超えさせる気はないね」
「大盗賊はオンリーワンかね。親のプライドか、はたまた親心か」
ネセレの武勇伝は、彼女が表舞台から去って後、今では口伝として人々の口端に乗っている。噂が無くなり、もはや居たかどうかもわからないほど時間が経ってしまった今、過去の栄光はただの物語になる。
そんな物語の主人公も、今や老婆となって死を迎えたのだ。
そこに、無常観を抱く。
「…なんだ、シケ込んだ面して」
「………ネセレよ。お前、再び生を得たくはないか?」
「…あん?」
ルドラは提案する。
死の尖兵となって、死者を束ねる存在にならないか、と。
その、様々な感情の込められたルドラの提案に、ネセレは…、
「…かぁー!!ばぁか言ってんじゃねーよクソジジイ!!」
一蹴した。
どこまでも傲岸に、ネセレは言い放つ。
「いいかいジジイ!アタイは、アタイの人生には、一切合切の未練がねぇ!アタイは立派に産まれ、生きて、そして死にきった!ガキこさえて家庭をもって、アタイを見下してた連中全てに胸ぇ張って誇れるほどの人生を歩んで来たんだ!それを今更、どの面下げて戻れっていうんだい?あぁん?」
「だが、本当に未練は…」
「ねぇな!」
「フェスベスタは、まだお前のことを」
「フェスにゃあしっかりと別れを言ってきた。それ以上は求めねぇよ」
「だが…」
「あぁもう!てめぇらしくもねぇな、ジジイ!」
ネセレはグイッとルドラの胸ぐらを掴んで、睨め上げる。老婆となってもまだ、かつての頃のような威圧感は健在だった。
「いいか、ルドラ。アタイは、もう生きる気はねぇんだよ。もうこれ以上、自分の人生の後を汚す気はさらさらねぇんだよ。自分の、定めある者の領分くらいは弁えてんだ。だからてめぇはきっちり、神さまとしての仕事をしな」
「………」
説教までされ、ルドラは大きく息を吐き、力なく笑った。
「…まさか、お前に説教される日が来ようとはな」
「てめぇが不甲斐ないからだろ、ジジイ」
「まったく…お前は最後まで、その口の悪さが治らなかった。死んでも治らないんじゃないか?」
「けっけっけ!いいねぇ、アタイは何度生まれ変わってもアタイなんだよ。ま、そんときゃよろしくな、ジジイ」
「…ふん」
ルドラは指を鳴らす。
すると、門の一つが輝き、扉が開かれる。
「お前は悪さを腐るほどしてきたが、同じくらい善行も成した。そして世界を救った…それを鑑みて、天国行きだ。まあ、好きなだけ寛いで来い」
「はっ!当然だね!」
「どこまでも自信過剰な小娘だ…」
ケラケラ笑いながら、老婆は進んでいく。そこに一片の迷いもなく、振り返ることもない。
それに、少しだけルドラは顔を歪めた。
「…おい、クソジジイ!」
光に消える、その間際。
ネセレは一度立ち止まり、振り返った。
…その相貌は、在りし日と同じもので、
「…楽しかったぜ」
ただ、無邪気な笑みで、こちらを見つめた。
それに目を見開いてから、ルドラは静かに笑みを浮かべた。
「………ああ、私も、楽しかったぞ」
その言葉に、ネセレは当然、と言わんばかりに頷いて、背を向けた。
「…んじゃ、あばよ、ルドラ!」
そして、今度こそ、ネセレは門の奥へと去っていく。
彼女らしく、あっさりと、未練もなく、
輝きの奥へと、消えていく…。
「…まったく、本当に…最後まで口の悪い、小娘だな」
ルドラはずっと、その去った場所を、見つめ続けていた。
いつまでも、いつまでも……。
※※※
デグゼラス帝国暦689年 ベレストの月 18日、
デグゼラス帝国領、首都ケンタック。
その皇城の、最奥にて。
豪奢な寝台の上に、一人の老婆が伏していた。
黒く艷やかであった髪は、今では白く輝きを失い、瑞々しかった柔肌は、今では枯れ木のよう。
されど、その柔和な相貌の黒い瞳だけは、凛とした輝きを宿している。
暗い刻限、夜半を過ぎようというそこでは、しかし多くの人々が詰めかけていた。
老婆の話を興味深げに聞いていた幼子、黒髪の少年は、老婆の手を握りながら言う。
「おばあさま、また明日もお話をしてくださいますか?」
それに、老婆はベッドに伏しながらも微笑みかける。
「そうですわね…また元気があれば、ね」
「本当ですか?」
「ええ、本当」
それに少年は満足そうに微笑み、母に促されて手を引かれながら眠そうに去っていく。
その背を見つめながら、老婆は笑みを薄めて目を細める。
「シャディは、きっといい子に育ちますわね…」
「ええ、当然です。お祖母様が手づからお育てになられたのですから…きっと、この帝国を背負う、良き名君となりましょう」
「…ふふ、それは貴方も一緒ですわよ」
老婆の孫である青年、現デグゼラス皇帝の言葉に、老婆はひっそりを笑みを深めた。
それに皇帝はやや面映い様子で口をひん曲げるも、それ以上は何も言わない。ただ、じきに来る運命の時を、少しでも伸ばせるように、神へと祈る。
と、そこで侍従が来賓を告げた。
夜遅くのこんな時分。
されど、皇帝はわかっているように、賓客を招いた。
そして、やってきたのは、二人の青年。
「…お久しぶりでございます、ライナディール陛下、メルサディール上帝陛下」
一人は、金色のくすんだ髪をした、青と赤のオッドアイをした男。
そして、もう一人。
「…久しぶり、メル姉」
黒く長い癖毛を首元で括った、赤目で背の高い偉丈夫。
たくましい青年となった彼へ、老婆は嬉しげに微笑み、目を細める。
「まあ、ケルティオ、ハディ。よく、いらっしゃいましたね…持て成せなくてごめんなさいね」
「いいって、メル姉。そのまま寝ててさ」
成長と共に低くなった声は、在りし日の少年の声とは違えど、その心遣いは同じだ。
老婆は、姿が変わらない腹違いの弟と抱擁を交わし、最後の会話をする。
「ハディ、ダーナはどうですか?」
「ああ、ダーナもいつもどおり、元気さ。泣いちゃうからこっちには来なかったけど」
「ふふ…またそんなことを言っていると、お尻を抓られますわよ。…ああ、ケルティオは、又甥が出来たそうですわね」
「ええ、とはいっても、あちらは知らないでしょうが…どこか、ゲーティオ兄上の面影がありますよ。きっと大成するでしょうね」
三人の会話に、皇帝は空気を察して人払いをし、自身も退席した。彼らが何者なのか、皇帝は幼少の頃から知っている。
…だから、最後の時は、在りし日の仲間と共に…そう思ったのだ。
三人はしばし、楽しげに談話をする。とはいっても、ハディが面白おかしく話し、ケルトが補足し、メルが力なく笑うだけなのだが。それでも、まるでかつての頃のように、三人は自身の立場も忘れて、笑いあった。
「ふふふ…こんなに笑ったのは、いつぶりでしょうかしらね」
「メル姉はずっと公務で忙しかったんだ。これからは、自由に笑って過ごせるさ」
「あら、ハディも同じでしょう…?都市の王様は大変でしょうに」
「まあ、こっちは頼もしい仲間も居るし」
「ええ、貴方の無茶振りにはいつも辟易させていただいてますよ、陛下」
「そう言うなって、ケルト。でも助かってるよ、昔っからさ」
「ふふふ…あなた達は本当に、変わりませんわね」
いろいろと変わった部分は多いだろうが、その心根はいつまでも昔のままだった。
メルは目を細めて、二人を見つめる。
「…時を重ねないあなた達にも、辛いことはあるでしょう。けれど、忘れないでくださいませ。過去に置いていかれる者にとっても…あなた達のその心に、救われ続けているのだということを」
「………メル姉」
「…………少し、喋りすぎましたわね。二人共、ちょっとだけ、休ませていただいても、よろしいかしら?」
メルは少し肩で息をする。その仕草に、ハディはこの上もなく痛ましげに顔を歪めたが、それも一瞬のこと。
次に顔を上げた時、ハディは笑顔でうなずいた。
「………ああ、そうだな。ゆっくり、休んでくれよ、メル姉」
「………ええ、ごゆっくり、お休みください、メルさん」
「……………ありがとう、ハディ、ケルティオ」
か細く息を吐くメルを見つめてから、二人は音もなく立ち去っていく。去り際、ケルトはそっと窓の一つを開けて、頭を下げてから出ていった。
本当に強く、たくましくなってくれた、と同時に、優しさも失わなかった彼らへ、メルは心の底から感謝の言葉を紡ぐ。
薄い息を吐いて、目を開けば、月光が斜陽の如く差し込んでいる。
光と影の陰影が浮き出るその部屋で、一人、メルは微笑み囁いた。
「………来てくださったのね、おじい様」
メルの横の椅子、そこに音もなく座る、一つの人影。
フードをすっぽりと被ったそれは、微動だにせずただ、じっとメルを見つめていた。
まるで死神のような姿だが、メルは恐れることなく、むしろ安心したように微笑む。
「来て、下さらないかと、思いましたわ…」
「………メル」
老爺は、暗い影の中からメルを見つめ、囁く。
「もう、よいのかね?」
その問いに、メルはしっかりと、頷く。
「ええ、アタクシはもう、十分に生きました」
確固たる意思の言葉に、老爺は項垂れるように首を下げた。
しばしの沈黙の後、老爺は続けた。
「………メルよ。今なら、お前に永遠の生を与えることができる」
ポツポツと、雨音のように降る声。
「新たな神性を与えてやろう。勇者としての神性だけでなく、お前が、お前で在り続けるための、神の座。そうだな、救世の女神なんて、どうだ?」
「…あら、十分な申し出ですわね」
「…なら」
「けれども、お断りします」
「………何故だ?と、尋ねるのは愚問、か…」
長い、長い、溜息。
それに、老女は静かに笑う。
「ずっと、錬金術で延命してきましたが、それでも…これ以上は必要ありません。ひ孫もできて、ようやく、アタクシも摂理に則って…去ることが出来ますわ」
老爺は暗い影から、萎れた声で呟く。
「…歴代の勇者の中で、お前という存在は、なかなかに愉快だった。私の退屈を紛らわせてくれる…そんな貴重な存在であった」
「…」
「お前は、消えてしまうのか?このまま…ブレイブリーとして帰還すれば…お前はきっと…………消えてなくなる」
そう、死とは人格の消失だ。
死すれば、神であるブレイブリーへと、還るだけ。
それは、メルサディールという人間の、死である。
「…おじい様」
メルの死に惑っているルドラへ、彼女は優しく声をかけた。
「…おじい様、アタクシは…勇者として生まれ、その責に翻弄され、運命を恨んだこともありました……けれども、その全てが今となっては、ただ…愛しく思います」
メルにとって、勇者とは人生の前半期であり、皇帝であることが後半期であった。
その中で、もっとも初期の思い出は、彼女にとっては苦味と、なくてはならない記憶だ。
「…初めて、相談に乗ってくださいましたね…貴方にとって、小さな悩みだったでしょうに…立場にとらわれず、根気強く話を聞いて、こんな小娘の相手をしてくださいましたわ…それはね、とても…素敵なことだった、と、思いますの…」
ルドラにとっては、ただの暇つぶしだったのだろう。
だがそれに、メルサディールは支えられていた。見えない友は、会話がうまく出来なかったから、ちゃんとした悩みを打ち明けられるのは、ルドラだけであった。
時に叱咤され、時に励まされ、頭を撫でてくれるようなあの感覚は、今でも思い出せる。
それへ、幼かった彼女は、言葉にできない感情を抱いたのだ。
「…ああ、家族というものがいれば、こういうものなのかしら、って…そう、思いました、わ」
「………」
「………おじい様」
メルは、微笑んだ。
月の光の中、老婆となってもなお、夜薔薇の如く、美しく…。
「…メルサディールは、幸せでした」
「…っ!」
その言葉を耳にし、ルドラは大きく息を呑み、次いで思わず叫んでいた。
「いくな!メル、逝くな…!!」
「………」
「待ってくれ…!頼むから、私は…私は………」
「……おじい様」
縋るように、メルの手を両の手で包むルドラへ、メルは小さく握り返した。
「…人を…見放さないで、ください………人は、貴方にとって…とても、弱く、臆病な存在でしょう……それでも…だからこそ……人の心、は、美しい……」
「メル………メルサディール…!」
「だから、ね………」
―――人を、嫌いにならないで。
そして、彼女は最後の一呼吸を、吐き終えた。
「………………」
「………………………………」
「…………………メルサディール」
・・・・・・・・・・・・
宵闇の中、扉の前でもたれ掛かっていたハディは、何かに気づいて顔を上げる。
同じく、ケルトも顔を上げて、廊下の窓へと近づいた。
「…雨」
………それは、まるで夜空が泣いているかのように。
満月が照らすその夜は、日が差し込んでも尚、しとどに濡れ続けたのだ…。
※※※
死とはなんなのだろう、と私は思う。
私は死を与えるもの、冥府の管理者、それを作った存在…だというのに。今はただ、その死というものが、どこか憎たらしく思える。
冥府の間、ぼーっと天を仰いでやる気なく過ごす。仕事があるはずなのだが、ヴァルスが空気を読んでいるのか、一向に何も来ない。…出来た息子だ、と褒めるような余力もない。
正直、私は…理屈の上でしか、死というものを理解していなかった。
死とは停滞、生の終着点。
そこに辿り着く者を何十、何百億と見続けてきたのに、実感がなかった。
私自身は、死人だと言うのに。
…なんとも、皮肉なものだ、と自嘲する。
…あれから、ブレイブリーが現れた。
神界に帰還した、ということで挨拶をしに来たのだが、正直、あいつの顔を見ることが出来なかった。どうしても、その中にメルの面影を求め、裏切られて傷つくことが予測できてしまったからだ。
ブレイブリーもまた、メルの記憶を保持しているが、人格は違う。性格も、性質も、何もかもが違うのだ。
それがわかっているのか、ブレイブリーは手短に去っていった。
ただ、最後に、
「彼女の言葉を、忘れないであげてください」
と、それだけ言って。
………………
メルは消えた、死んだのだ、と改めて思うも、どこかふわふわとした夢見心地だ…まあ、神なんてずっとそんな感じなのだが。ただ、メルを失うとはっきり実感した、あの金槌で殴られたかのようなショックに比べれば、浮き心地がいいというか………ただの現実逃避かも知れない。
「…ああ、そうか、あれが…」
あれが恐怖なのだ、と、なんとなく察する。
ずっと以前、ここへ来る前は知っていたはずなのに、改めて感じると、それは………魂の奥がひやりとするものだな、と思う。
その恐怖に人は常に脅かされ、生き続けていく。ならばきっと、生きることはとても窮屈なものなのだろう、とぼんやり思う。
「………」
いつまでも、くよくよしては居られない。
私は神で、裁定を待つ人々を送らねばならない身なのだ。
ここで、こうして居続けることは出来ない。
…だというのに。
天を仰いで、息を吐く。
冥府の月は、私の心を反映するように、青ざめていた。
「…………メルサディール」
失った者。失った笑顔。
嗚呼、私はあの子を、愛していたのだな、と、ぼんやりと自覚した。
そしてそれはもう、この世界のどこにも存在はしない。彼女を作り出すこともできない。
二度と、会うことは叶わない。
それがストン、と胸の奥に収まった時、私は…。
「…………嗚呼」
不意に、雨が降った。
ぽつり、と一粒の雨は頬を流れ、地に染み込んでいく。
一滴の雫の後に、ポツポツと、冥王の間に雨が降る。
月が輝く夜空の元で、私はただ、天を仰ぎ続けている…。
夜に生きる者が滑稽だと、人は笑うだろうか?
神である者が別れを恐れるなどと、人は笑うだろうか?
だが、忘れてはならなかったこと…
私の魂は神ではなく、私も又、人間でしかないのだと。
別離に涙し、再会を祝う、小さな営みに
心を砕いて存在する、それが小さき人なのだ。
この痛みは、悲しみは、
私が確かに、この世界に在るという、証。
だから、
私は忘れてはならない。
―――所詮、これは神ごっこに興じている死人の、ただの走馬灯に過ぎないのだ。
※※※
【デグゼラス帝国暦689年 ベレストの月 25日、 今日も雨
上帝カレンデュラの崩御から連日、ゲンニ大陸では雨が振り続けている。
晴れているのにも関わらず降り続けるそれに、
まるで天が涙を流しているかのようだ。
そのせいか、神が勇者の死を悲しんでいるのかも知れない、
との噂が囁かれている。
我らが上帝様は、やはり神に愛されし御方なのであろう。
しかし、夜になると必ず月が出る。
今までに見たこと無いほどに、青ざめた月。
怪異の前触れかと思ったが、魔物は出ることもなく静かな夜が続いている。
夜刻神ですら、彼女の死に心を痛めているのだろうか。
デグゼラス帝都騎士団日報より】
【デグゼラス歴624年に起きた「赤月の事変」に関して、解明されていることは未だに多くはない。一般では寝物語として語られる有名な英雄譚の一つなのだが、多くの研究者がこの事変に関して調べ、歴史的な研究を行ってきたが、答えとなるべき資料が少なく、詳細な真実が明かされることはなかった。
事の次第は、巨大な怪物、黒き大樹が帝国のやや西側に生えたことから端を発する。
資料によれば、それは天を突くほどに大きく、禍々しい色合いをしており、枝に葉は無く、空を覆うほどであったとされる。同時に、空は紅色をした霧に覆われ、陽光を遮り、代わりに真っ赤な月が現れたという。この月は、一説によれば吸血鬼の祖である「赤月の始祖」が生み出したとされる。
その後、大樹から魔物の大軍勢が現れ、帝都を襲撃した。それの指揮をしていたのが赤月の始祖と、後の魔王クレイビーであるとされている。彼らは帝都を攻撃するが、それに打って出た英雄達の手によって、倒されることとなる…。
一説によれば、この魔王とも言うべき存在達は大樹を守っていたようだ。途中で大樹の瘤から、とんでもなく巨大で邪悪な存在が産み落とされ、あわや世界が滅びかけたと言われているのだが、見た者達はその時の記憶が曖昧らしく、記録としてはほぼ残されていない。ただ、皇帝カレンデュラ、もとい救世の皇女メルサディールは知っている筈なのだが、彼女は「あれは世界を滅ぼさんとする邪教の手によるもの」とだけ言い、後は言葉を濁し続けていたようだ。何故、断言に至らなかったのか、彼女にも言えぬ事情があったのか、興味は尽きない。
この物語の最後に、決まって巨大な光り輝く巨人が現れる。これの正体が何なのか、古の神の顕現した姿であるという見解は一致しているのだが、その正体が誰なのかで、研究者達の意見は割れている。輝ける天光神ヴァーベルか、慈悲深き大地神ティニマか、それとも当時でも信仰されていた始祖ヴァルスか…というあたりで論争されるのだが、個人的には夜刻神ルドラでも面白いと思うのだが、無慈悲なる夜の神が人を助ける理由が思いつかないので、あまり受け入れられてはいない説である。
そして不可解な点といえば、これに関して神々は沈黙を守っている、という事だ。
神が下界に干渉していた時代ならば、信仰心を広めるためにこの事変を大々的に広めても良いはずなのだが、不思議と神は沈黙を守り通したようだ。何が不都合だったのか、我ら定命の者たちには理解できない狙いでもあったのかも知れない。
ともあれ、神は黙して語らず、
真実は歴史の闇に埋もれていったのである。
ベシュア・シュレイン著「勇者物語」より】
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