想い猫

追々

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第四章

恐怖という名の知能ロール

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りなが吹奏楽部に戻ってくると、大会に向けて新たな一曲が演奏曲として追加された。相変わらず、りなは上達が早く大体の流れは掴んでいるようだ。早希は確かにそんなりなを見ていると焦る気持ちはあるが、今自分出来ることをやるだけだと自分に言い聞かせる。それに何より、りなとこれからも変わらず吹奏楽部をやることが出来る。早希はそれだけでも十分だった。
――でも。
 やはりソロパートとなると話は別だった。部長には以前、「この曲は誰よりも理解している」とは言ったが、技術の面では全く追い付いていなかった。それでも早希はソロパートだけは頑なに自分の意見を推し進めた。
 そんな風に穏やかな毎日が過ぎていっているように表面上では見えていたが、やはりそういう時間は長くは続かないのだろうか、それとも、早希が失ったものを取り戻す為に必要な出来事なのか。
 梅雨が終わり、定期テストから解放され夏休みを迎えようかというときにその男は早希の前に現れた。


「ごめん、早希。今日用事があるから先帰るね。ほんとごめん」
 りなは帰り支度をしている早希にそう告げると、顔の前で手を合わせた。
「別にいいよー。また明日」
「うん、またね」
 りなはそう言うと音楽室を早足で出ていった――。

――最近猫達を見てないな。
 早希は帰り道、いつも猫達が現れる公園にフラリと寄ってみたが、そこはひとけがなく早希は公園の前を通り過ぎようとした。
 と、そのときよく知る顔が公園の向こう側を通った気がした。
――あれは。
 早希は思わずその後を追いかけた。その人物は早希がよく知る普段の顔とは余りにも表情が違っていて、話しかけるのも躊躇われたが、公園の近くにある橋まで行くと階段を下り、立ち止まった。
 そこには知らない男性が立ってその人物と待ち合わせをしているようだった。紺色のネクタイを締め、ブレザーを着ている――あの制服は早希の中学の近くの高校の制服だ。地元の人間はよく知っている進学校で、その男子生徒は制服を着崩すことなく、醸し出す雰囲気や物腰は柔らかかった。
 ただ、遠目に見てると男子生徒の方は楽しそうに話しているが、もう一人はずっと俯いたままだ。
 しばらく話したかと思うと、男子生徒は人物を置いて階段を登り橋の向こう側に消えて行った。早希はその人物に思い切って近づき話しかけた。
「りな?」
「早希!」
「こんなとこで何してるの?」
 りなが振り向くと、その表情はさっき公園で見かけた思いつめたままの表情をしていた。自分に話しかけたのが早希だと知ると、すぐにいつものりなの顔に戻る。
「ごめん。りなが丁度こっちに歩いていくのが見えたからさ」
「……そっか」
 りなはそれだけ言うと押し黙ってしまった。
「彼氏?」
「え?」
「今の人。あの制服ってあの有名な高校の制服でしょ?」
「ああ……まあそんなとこかな」
 いつもの調子で返事をするが、無理に明るく振る舞おうとしているのが早希はすぐにわかった。
「りな?」
「……今日は先に帰っちゃってごめんね。多分明日は大丈夫だと思うからさ! 私帰るけど早希もそろそろ帰った方がいいんじゃない?」
 りなはそう言うと階段の方へと歩き出した。
 しかし次の日も早希はりなと帰ることはなかった。
 りなは今日も用事があるからと言って早々と帰って行ったのだ。
――りな。
 何故だか胸騒ぎがする。それは昔タケルと例の島に行ったときの感覚と似ていた。
 でも、りなは何も言わない。早希もあのりならしくない表情を見るとただ事でない気がして何も聞けなかった。
 早希はやはりあの公園へ来ていた。今日は何故だか会えそうな気がしたからだ。
『早希』
 振り向くとそこには、茶色のぶち模様をした猫がいた。
『僕はロール。早希の失った“恐怖”を持つ者』
「初めましてロール」
 そう挨拶をする早希にロールも拍子抜けしたようで、何も返せないでいるようだ。
「あなたはどうして今日私の前に現れたの?」
 自分の方から話しかけるがロールは一定の距離を保ったまま、早希に近づこうとしなかった。
『早希。痛みはどうして人間に備わっているかわかるかい?』
 ロールは早希の質問を無視し突拍子もないことを話し出した。
『痛みを感じないとね、自分が怪我をしていても気がつかない。擦り傷程度ならそれでも大丈夫かもしれない。けど腕の骨がいつの間にか折れていたらどうする?』
「痛みを感じないからそのままなんじゃないの?」
『確かにそうだ。でもねその折れた腕のまま生活してたらきっとそれはなかなか治ることはないだろうね。そしてそれに気づかずそのままもっと大きな怪我をするかもしれない』
 ロールは早希のことはお構いなしに話し続ける。
『恐れを持つことも同じだと思うんだ。大きなことに巻き込まれる前にそれを察知して回避する。今の早希はそれがない。それはとても怖いことなんだよ。タケルのときもそうだったろ?』
「……そうだったっけ」
 それはつい最近のことだったと思うのにその記憶は霞がかってうまく思い出すことは出来ない。
『早希。とにかく危険なことはなるべくしないでくれ。この先何があろうともだ』
「ちょっと待って。それってどういうこと?」
 早希が質問を投げかけるが、ロールは既に公園の出口に向かっていて、消えたように姿を消していた。

「早希。早希また泣いてるのか」
――タケル。
「早希は本当に怖がりだもんなあ。でもそんな泣いてばかりいるとみんなにいじめられるぞ」
 そこにいるのは幼い頃の早希とタケルだ。
「大丈夫! だってタケルがいつも一緒にいてくれるでしょ?」
 そう言うと少し困ったように笑うタケル。でもタケルはその言葉の通りいつも早希の隣りにいて私のことを守り続けてくれてた。なのに――。
 私があのとき止めていればよかった。行かないでって引き留めてたら私達は今もあの頃のまま笑い合えていたのだろうか?

「早希さん? 大丈夫?」
 不意に肩を叩かれるとそこには部長が心配そうにこちらを見ていた。
「いくら呼んでも返事しないんだもん。何だか顔色も悪いし……早退する?」
「あっ、いや。大丈夫です。すいませんぼーっとしただけです」
「それならいいんだけど……。最近急に暑くなってきたから体調壊さないようにね」
 夏休みに入った途端、文字通り、毎日うだる様な暑さが続いてた。夕方になれば多少ましになると言えど、午後はまだまだ音楽室にも熱はこもり、部員はみんな汗をぬぐいながら楽器と格闘している。
「りなさんも今日休んでるみたいだしね」
 結局先週から早希はりなと一緒に帰ることはなくなっていた。だけど、以前の様に喧嘩をしたわけでもなく、音楽室で会えば普通に話し、練習もお互いをカバーしながら励んでいる。なのでそれほど気にしていなかった――りなの表情が曇っていなければ。
 あの橋の下で見かけたときからりなは時折、何かに怯えているような目を見せるようになった。
 何かあったのか聞いても、
「何もないよー。それに何かあれば早希にすぐ言うし」
「そっか……」
 りなにそう言われると、早希はそれ以上問いただすことが出来なかった。
 今日りなの家に行ってみよう。
 昨日、先に帰ってるねと言ったりなは張りつめた顔をしていた。それでも何とか笑顔を見せようとしていたりなを見るとやはり何も聞くことが出来なかった。そのことを思い出すと胸騒ぎが止まらなかった。
 そして、あれは先週のこと。早希が一人で帰っていると、りなの後姿を前と同じ橋の下で見つけた。あの高校生とどうやら一緒にいるようだった――それに気づいたのは、橋の下まで降りてりなに話しかけた後だった。橋の影で見えなかったのだ。早希はそれに気づくと一瞬、まずいことをしたなと思ったが、後には引けなかった。
「あ、えっと。初めまして。私、りなと同じ吹奏楽部で早希って言います」
「吹奏楽部……?」
 初めて聴くその声は低く、感情をあまり感じられず少し驚いたが、構わず続けることにした。
「はい。りなと同じトランペットで。家も近いんで仲良くさせてもらってます。……りなから聞いてなかったですか?」
 高校生はりなの方を見るが、りなは俯いたままだ。
「ああ……。吹奏楽部ね。もちろんりなから聞いてるよ。挨拶が遅れました。僕は白鳥って言います」
 白鳥はそう言うと、早希に微笑みかける。
「りなとは前の学校のときから付き合ってるんだ」
「やっぱりそうなんですね。 その制服って……」
「ああ。君たちも知ってると思うけどあの高校の制服だよ。まあ僕はたまたま入学出来たようなものだけどね。じゃあ僕はそろそろ帰るね。君たちもあまり遅くならないようにしなよ」
 そう言うと白鳥はりなを置いて帰って行った。白鳥が見えなくなった後りなによかったの?と聞くが、りなは弱々しく微笑むだけで何も言わなかった。
 早希はそのりなの態度も気になったが、白鳥の目が気になった。言葉や物腰はやはり柔らかいものだったが、その目は冷たく、人間らしい感情を感じることが一切出来なかったからだ。その冷たい目を思い出し、一瞬体が震えた。

 ピンポーン。
 チャイムを押すが何の反応もない。もう一度押してみるがやはり反応はなかった。
 りなの家は両親とも共働きだ。だから出るとしたらりなのはず。
 どこか行ったのかな――。
 早希が帰ろうと玄関から離れようとしたとき、ふと庭の方から誰かが泣いてる声が聞こえてきた。それはとてもか細く耳を澄まさないと周りの音にかき消されるような本当に小さいものだった。思わず、庭の方に足が向かった。
「……りな?」
 その声に窓際に座っていたりながびくっと反応し、こちらを見た。
「早希?……どうして」
「……その顔……」
 早希はあまりに驚き言葉を失った。りなの左頬にはシップが貼られていたからである。
「それどうしたの?」
「…………」
「誰にやられたの? ねぇ、答えてよ!」
 何も言葉が返って来ないことに苛立ち、思わず声を荒げてしまう。――ねぇ、りなどうして?
 それでもりなは何も答えず、静かに涙を流すだけだ。その何かに怯えているようなりなを見ているとふと思い出した。
「……もしかして白鳥さんに」
「違うの! あの人は関係ないから」
 早希の言葉を遮るように、そこで初めてりなが喋った。早希はあの何の感情も感じることの出来なかった冷たい目を思い、りなのその態度で確信した。
「あの人に殴られたんでしょ。……ねぇ、りな。本当のことを言って」
 早希はりなの前に行くと、同じ目線になるようにその場に座り込む。りなは観念したかのように一度だけ頷いて見せた。
――りなにこんな顔をさせるなんて。
 早希は思わず、りなの家を飛び出した。どこに向かおうとしているのか。自分でもわからなかったが、居ても立ってもいられなくなった。
「早希!」
 りなはそんな早希を追いかけようと、走りだ出したが玄関ですぐに立ち止まった――そこに早希が驚いた表情で立ちすくんでいたからである。その視線の先には白鳥が立っていた。
「どうして……」
 早希が思わず言うと、白鳥の口だけが微笑み早希に語り返る。
「どうして僕がここにいるかってことかい? そんなの恋人だからに決まってるからじゃないか」
「……嘘」
 早希の体は震えている。
「恋人なら……りなのこと殴ったりなんかしない」
「それはりなが悪いんだよ。僕に何も言わずに引越したりするから」
「それにこんな悲しい表情だってさせないはず」
 そう言うと早希はりなの方を見る。りなと目が合うと、その目には早希の言葉に複雑な感情を抱いていることがわかった。
「……確かにそうだね」
 白鳥は一歩早希に近づく。早希は思わず後ろに後ずさる。なんの躊躇もなく近づいてくる白鳥の目はりながまるで映っていなかった。
「でも……それは君も悪いんだよ。せっかくりなとまた会えたのに君がいるからりなは僕の方を見てくれない。りなは君のせいで変わってしまったんだ」
「……何言ってるの?」
 白鳥が早希に手を伸ばしてくる。早希の体は凍りついた様に動かなかった。
――タケル!
 早希は思わず目を閉じた。
「君たち。そこで何してるの?」
 そう声がすると早希は我に返りその方を振り返ると、そこには自転車に乗った警官の姿があった。
「なんだか喧嘩でもしているようだったけど……大丈夫かい?」
 白鳥も警官だと気づくとその場を離れようとした。
「えっと……大丈夫です」
 早希は白鳥の後姿を目で追うが、その姿はすぐ見えなくなったしまった。
「あの人ね、私の元カレなの」
 白鳥はその場から離れ、警官もいなくなると早希はりなの部屋に上がり話をすることにした。
「でも……白鳥さんは恋人だって」
「私はもう別れたつもりだった」
「それってどういうこと?」
 早希がその先を促すとりなはポツリポツリと話し始めた。

「これ君のでしょ?」
「え?」
 そう言って手渡されたのは生徒手帳だった。歩いている途中、いつの間にか落としていたらしい。
「……ほんとだ。ごめんなさい。ありがとうございます」
「別にいいよ。気をつけてね」
 そう言うとその人は駅の方へ消えていった。
 今にして思えば一目惚れだったかの様に思う。それがきっかけで二人は出会い、付き合うことになった。
 最初、白鳥は本当にりなに優しかった。ただいつからだろうか。白鳥は時々りなに手を上げるようになった。
 りなはりなでチア部をあんな風にやめた後なので不安定な時期だったこともあり、りなは白鳥の傍にい続けた。
 そんなとき父親の転勤が決まりりなは引越すことになった。白鳥にはそれほど離れてもいかなったので言うのが引越しするギリギリになってしまっていた。
「何言ってるんだよ……。りなは僕がいつでも会える距離にいないとダメなんだよ! そうだろ! なあ!」
 引越しのことを伝えると、人目も気にせず白鳥はりなに対して声を荒げ続けた。りなは怖くなりその場を逃げだしたのだ。
 そして今の学校に来てから早希と出会い、仲良くなりりなは少しずつ変わっていった。白鳥にはメールで別れを告げ、連絡が途絶えそれで終わったと思っていた。

「でも……突然あの人が私に声をかけてきたの」
 その姿を見て懐かさを一瞬感じたが、それはすぐ恐怖へと変わっていった。早希と出会い、白鳥に依存していた頃の自分が間違っていたことがわかったりなだったが、白鳥は何一つ変わっていなかった。あのときは僕が間違っていた。僕とまたやり直してくれ。そんなことを何度も何度も言われた。
 そしてあの日、早希と白鳥が鉢合わせをした日。りなは早希を見る白鳥の目を見て、このままでは早希にまで手を出してしまうのでないかと思ったという。
「それで昨日話したの。もう私に構わないでって。そしたら……」
りなはそこまで喋ると俯いてしまった。
「私のせい……?」
「え?」
 思わぬ言葉にりなは顔を上げた。早希もいつの間にか俯いている。
「だって……私があそこで会わなかったらりなは白鳥さんに殴られることも怖い思いもしなかったはずじゃない?」
「そんなことない!」
 今度は早希がその言葉に顔を上げた。
「そんなことないよ早希。私は早希と出会えたから白鳥さんともう会わないって決めたの」
「りな……」
「でも結局早希のこと巻き込んじゃったね。さっきだって……」
 早希に伸びてくる二本の腕。白鳥はあのまま警官が現れなかったら早希に何をしようとしたのか。
 思い出すとまた体が震えた。
『早希。とにかく危険なことはなるべくしないでくれ。この先何があろうともだ』
 そのとき、ふとロールの言葉を思い出した。
 ロールはこうなることを知ってた?そう言えば今までも――。
「早希。大丈夫?」
 思いつめた表情をしていたのか。りなが心配そうに声をかける。
「ああ。ごめん。とにかくりなはもうこれから一人で帰らないこと! わかった?」
 努めて明るく振る舞う早希にりなは困った様に微笑みながら頷いた。

「じゃあ私こっちだから」
 部活を終え久しぶりに一緒に帰った二人は、丁度二人が別れる十字路まで来ていた。
「うん。また明日ね」
 早希がそう言い、りなに背を向けようとする。
「早希! ……いろいろありがとね」
 それだけ言うとりなは駆け出すように去って行った。
 早希はりなと別れたあと、ここ最近のことを思い出していた。
 言葉や記憶を失った早希。その前に現れた猫たち。時折見るタケルの夢。そして――。
 あの島はどこだったろうか。思い出そうとしても頭痛と、霞がかった記憶が邪魔をした。
――タケル。
『この島に来る途中に話したじゃないか。――のことを』
 あのときタケルは何と言ったのだろう。
「早希さん」
 急に声をかけられ、いつの間にいたのだろうか、後ろを振り向くとそこには夕日を背に浴びた白鳥が立っていた。
「……白鳥さん。なんですか?」
 白鳥の顔は影になっているせいで読み取れないが、やはりその声に感情はない。
「今日は一人なんだね」
「……そうです」
 早希が警戒しながらそう言うと、その口はニタリと笑ったように感じた。
「知ってるよ。ずっと見てたからね」
「え?」
「りながいつからか早希さんと帰るようになったのかも。あれはまだ転校したばかりの頃だったね。そして二人は喧嘩もしてたんだっけ? でも少しするとまた一緒に帰り始めた」
「……ずっと見てたんですか?」
 早希はもうその顔を見ることは出来なかった。
「りなは僕にあんな顔見せなかったからね。早希さんが羨ましかったよ。……君がいなかったらりなは僕の傍にずっといてくれたはずだったのに。……そうだよ、君さえいなければ」
 白鳥は徐々にその距離を縮めてくる。
――怖い。
 早希は白鳥に対してはっきりとそういった感情を持った。今すぐにでもこの人から離れたい。怖い。
 でも――りなはずっとこの怖さを一人で抱えていたのかな。そう思うと自然と口が動いていた。
「白鳥さんはりなこと本当に好きでしたか?」
「何言ってるんだ。当たり前じゃないか。だから今でもこうして……」
「そんなの違う」
 早希ははっきり白鳥の顔を見て言葉を投げかける。
「好きな人にあんな顔させるなんて間違ってるに決まってる。りなのこと本当に考えてるなら、好きならどうしてそんな風に出来るの? 私はりなにあんな顔させない。りなには笑ってて欲しいから」
「……君に何がわかるんだ」
 白鳥の顔は笑っているのか、それとも怒っていたのかもうそれすらもわからなかった。
「大体りなは君のせいで変わってしまったんだ! そうだろう?! 君さえいなければ、君がりなと出会わなければ僕はこんな思いをしなくてすんだんだ! ……そうだ。なんだ。簡単なことじゃないか。だったら最初からいなかったことにすればいい」
 それは一瞬のことだった。りなの家の前でしたように白鳥の手が早希に向かって伸びてきた。しかし、前とは違い今度はその手は早希の首を捕まえる。
「いなかったことにすれば……りなはもう一度僕の元に戻ってきてくれる」
 そう言いながらその手に徐々に力が入っていく。早希はもがくが、その手から逃れることは出来なかった。
――タケル。
 早希は諦めたのか、もがくのをやめたとき、やっとその手から解放された。
「何をしているんだ!」
 気づくと白鳥は警官に取り押さえられている。
「早希! 大丈夫?!」
 早希が咳き込み、その場に座り込むとりなが背中をさすりながら声をかけた。
「りな……どうして?」
「昨日あんなことがあったから……やっぱり怖くなって早希のこと追いかけたの。そしたらその人と早希が話してて……。怖くなってそれで」
 りなの目には涙が浮かんでいた。
「とにかく……早希が無事でよかった」
 りなは早希のことを力いっぱい抱きしめ、泣き続けた。

『早希。恐怖がどういうものだったか思い出したかい?』
 公園でロールが早希に話しかける。
 白鳥はパトカーに乗せられると、警官と共に去っていった。最初こそ暴れていたものの、りなが泣いているのを見ると途端に大人しくなった。
 りなは少し話を聴きたいからと警察署に向かうと言っていた。
 早希も警官に送っていくと言われたが、一人で帰れるからと断った。警官もショックを受けていると思いそれ以上言うことはなかった。
 早希が一人になるとやはり早希の前にロールが現れた。
「うん。すごく怖かった。あの人に首を絞められたとき、何で私がこんな目に遭わなくちゃいけないのって思った。……少しだけりなのこと恨みそうにもなった」
 早希は思い出したのか、首をさする。
「……でもね、りなが泣いてたから。直接は言われてないけど助けてって私に言ってる気がしたの」
 りなの家の庭で見た彼女は誰にも気づかれないように泣いてた。その背中は本当に小さく今にも消えてしまいそうなほどだった。
「守りたいって思った。……だから」
 そこまで言うとロールは少しずつ光り始める。
『いいんだよ、早希。それでいいんだ』
「ロール……」
『怖いって思ったり、人のことを憎んでしまったり。それは当たり前のことだから。でも早希はそういう感情を持っても立ち向かえただろ?』
 早希はその言葉を噛み締めながら、光るその体を見つめる。
『僕も今怖いよ。このまま消えたらどうなるんだろうって考えるとやっぱり怖い。でもそういう感情を知って見えるものがあったはずだよ、早希』
「うん……」
 怖いと思った。でもそれを乗り越えても守りたいものがあった。
『さよなら早希』
 ロールの体は光に包まれ消えた。早希は悲しい表情のまま、それをずっと見ていた。


「部長。ちょとお話したいことがあるんですけどいいですか?」
 早希は部長の元に行くとそう切り出した。
「ソロパートの話なんですが……。やっぱり今の私には無理だと思って」
 部長はその言葉を聞いても驚くことはなかった。
「身勝手なことはわかってます。でも私なんかよりふさわしい人がいると思ったから」
「……りなさん?」
 早希はこくりと頷く。
「ソロパートやりたい気持ちに変わりはないし諦めたわけでもないです。でも今の私の実力じゃ全然りなには適わない。だから」
「わかったわ」
 部長は早希に微笑みかけると言葉を続けた。
「話してくれてありがとう」

「早希ー。部長と何話してたの?」
 パート練に戻るとりなが早希に軽い調子で聴いてくる。
「りなには内緒」
 何よそれーと言いながら小突きあっていると部長が近づいてくる。
「りなさん。ちょっといい?」
 りなは不思議そうな顔で部長のあとをついて行った。早希はそれを穏やかな気持ちで見送った。


 タケルのあとをついて森の奥へと進んでいくと、二人は社を見つけた。この暗い森の奥には似つかわしくない立派な社でそこに行くには長い階段がある。二人は思わず息を飲んだ。
「早希。入ってみようか」
「え?でも……」
 厳かな雰囲気が早希を思い留まらせる。
「大丈夫。僕がついてるからさ」
 その言葉に背中を押され早希とタケルは階段を登り始めた。
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