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 帰城すると、安土城に移り住むにあたり吉日を神官に占わせた。

 信長が占いや呪いを信じなかったと伝わるのは確かにその通りであろう。
 しかしそれは依存したり行動を妨げる程の効力を其処に期待しないという意味合いに近く、どうせ移るならば吉日の方が良いという柔かさはあったと思われる。

 現代人の信仰心と感覚的には似たようなものかもしれない。

 三年掛かって漸く完成した安土城は、地下を含むと七階建てで、色彩も豪華絢爛さも巨大さも、そして今までの山城の概念を覆す造りをしていた。

 その斬新さを挙げればきりがないが、戦い籠城する為のものではなく、居住し人を圧倒し魅せる為の城であったと言えるだろう。

 まず城へ上がる大手道の幅が広く真っ直ぐであるのは珍しい。
 従来の城は攻め難いように曲がりくねっているからだ。

 総見寺という寺が城郭内に建てられ、百々橋口から登る道の途中にあり、外から城を訪ねる人間は必ず寺の境内を通り抜けなければならないというのも一つの特色だ。
 
 百々橋口側には曲輪さえ築かれていなかったと云う。

 五月十一日が吉日と出て、いよいよ安土城に移り住む事になった。
 
 外側から見れば、近くからでも遠くからでも見応えのある華やかな金、朱、青、白、黒の彩飾を施した外観は、完成に至るまでの間に大勢の人の目に触れてきた。

 問題は内観である。
 信長自身が完成を心待ちにしていたのは言うまでもないが、乱法師も城の内部を見るのは初めてなので胸が高鳴る。

 付き従う他の側近、小姓達が中に足を踏み入れると一斉にどよめいた。

 一階から金尽くしである。
 内壁は黒漆で塗られ、襖絵は狩野永徳が筆を取り、絵が描かれている襖が全て金なのだ。

 広さの記述は間数で残るが、柱が二百四本という方が、現代人には感覚的に広さが伝わるかもしれない。

 襖絵は墨で梅、鳩、鵞鳥《がちょう》、雉、唐の儒者等。
 絵に因み名付けられた部屋は鵞鳥の間である。

 煙寺晩鐘図《えんじばんしょうず》の前に盆山を設けた。

 煙寺晩鐘とは濃い煙霧の中、日没後の僅かな光に浮かびあがる寺を描いたもので、静寂で神秘的な情景の事だ。

 一階(地下を含むと二階だが一階と記載)が一番広い為部屋数が多く、食膳を調える場も設けられていた。

 二階に上がると柱の数は百四十六本となり、賢人の間、麝香《じゃこう》の間、花鳥の間など絵の名が付けられた部屋が此処にもいくつかあった。

 三階は九十三本の柱が立つ。
 竹の間、松の間、岩の間、鷹の間と絵に因んだ部屋の他には、龍虎、鳳凰や俗事の絵を描かせた襖が印象的だ。

 三階までは居住、生活の空間の趣があるが、四階からが特色のある造りとなっていた。

 四階には絵が無く、五階は八角形で外の柱は朱塗り、内側は金で絵は釈迦の弟子、鬼、餓鬼など、やや宗教的、哲学的思想が色濃い。

 外側から見ると四階と五階は繋がっていた。

 最上階は内も外も全て金色。
 柱に上り龍と下り龍、天井には天人、座敷の内側には、三皇、五帝、孔門十哲、商山四皓・竹林の七賢が描かれていた。

 こうして真っ先に信長に従い、安土城の内部を隅々まで観覧出来るのは側近の特権であろう。

 これから日々、真新しい木、墨、絵の具の芳しい香りに包まれながら、壮麗な城で信長に仕えるかと思うと胸踊った。

 小姓として召し抱えられる事になっている弟の坊丸と力丸は、金山を出立し明日にはこちらに着くだろう。

 この城を見たら、どれほど驚くだろうか。

 母と末弟の仙千代は、別の日に後から来るとの事であった。

 天守閣の最上階からの眺めは素晴らしく、広く城下町や琵琶湖が見渡せる。

 こんなに高く巨大な城から人々の生業を見通すというのは不思議な心地がした。

 巨大な城に住む主の一番側近くに、いつの間にか侍る事が当たり前になっている己の存在そのものが不思議に思えたのかもしれない。  

 「そなたの弟等の謁見は明後日じゃ。」
  
 「かしこまりました。」
 
 乱法師に膝枕をさせ、寛ぎながら信長は言った。
 「そなたの部屋はどこが良いか?」

 「──?邸は天守の近くでございますので、部屋まで賜らずとも通うのに不便はございませぬ。」

 「そなたに不便がなくとも邸まで儂が通うのは不便故与えるのじゃ。」

 成長したとはいえ、色気のある話と直ぐに気付かない鈍さが恥ずかしく顔が火照った。

 「風邪でもひいたか?声がおかしい。」

 信長に言われ身体を固くする。

 実は古池田から戻って以来、喉の調子がおかしく、陣中で酒を呑み過ぎたのが原因かと深く反省していたのだ。

 心配してくれているというのに、声がしゃがれているのを、まさか「酒やけかと思われます。」などと口が裂けても言えない。

 「慣れぬ陣中で風邪をひいたのではないか?体調が優れぬのであれば邸に戻って休むが良い。」

『……何と…何と…お優しい御主君であろう。十度生まれ変わっても、これ程の御主君には巡り合えないだろう。儂は禁酒するぞ!酒やけなどで御心配を掛ける訳には参らぬ。』

 そう心に固く誓いながら、「私は元気でございますが風邪の引き始めで大事なお身の上様に万が一うつしてしまうとも限りませぬ。念の為、医師に診て貰って参りまする。」

 と、酒やけではなく真に風邪であったら側にいられなくなってしまうと慌てて邸に飛んで帰り医師を呼びつけた。

 「はい。あーんとして下され。」

 医師が喉の奥を診る。

 「特に赤くはないようでございますな。喉に良い薬をお渡しするので、二、三日もすればお声も元に戻りましょう。」

 「では人にうつす事はないのじゃな?上様の御側にいても構わないのじゃな?」

 医師は彼の強い語調と、この問いに答えにくい何かが含まれているような気がして一瞬躊躇ちゅうちょした。

 「は、はぁ...通常お側にお仕えするには特に御心配はないかと...…」

 「通常でない場合は駄目という事か?」

 医師は答えに窮した。
 
 「…あ……あまりにも近づけば、うつしてしまう事はあるかと……」

 これ以上ない程近くで奉公する必要のある乱法師は三日分の薬を一気飲みしたが、すぐに良くなる筈もないのに「やぶ医者め。」と治らないのを医者のせいにした。


 いざ弟達が安土に着くと、会うのを楽しみにしていた筈なのに、互いに背が伸びたくらいで大した変化が無い事に気付き感動も薄れ、男兄弟らしくあっさりとした再会になった。

 「謁見の練習をしよう!」
 
 乱法師が提案した。

 何しろ信長役をやるのが楽しくて、無意味な駄目出しや変な質問をして真面目に答える弟達の姿に笑いを噛み殺しながら何度もやった。

 謁見当日は、二人とも安土城の絢爛豪華さに度肝を抜かれ、更に初の謁見ともなれば緊張が伝わってくるようだったが、いつものようにあっさりと、あっという間に終わり、練習が全く無意味だった事がばれた。

 それにしても安土城内は広く、己が出仕した時には仮御殿だから良かったものの、部屋の位置や名前を覚えるのが大変そうだ。

 乱法師自身もだが、良く迷っている者に出くわし、暫くは信長ですら慣れない様子だった。

 「母上や仙千代は、いつ頃此方へ?」

 「恐らく二、三日後には着くじゃろう。」
 
 兄弟の中では一番しっかり者の坊丸が答える。

 「仙千代は馬にも乗れるようになったし、剣の腕もあがったぞ。」

 力丸は兄弟の中では気性が優しく呑気で、やんちゃで気の強い仙千代の事を可愛がっている。

 「それにしても安土の城は凄い。町も大きい。京にはまだ行った事はないが、京や堺より凄いのではないか?」

 「京や堺とはまた趣も異なるが人がどんどん集まって来ているのは確かじゃ。そのうち堺よりも商人が多くなるやもしれん。」

 城下町では楽市楽座が行われているため、新しい商売を始めたい者にはもってこいで、他では見られない珍しい物も手に入る。

 「それにしても兄上は邸まで賜って、上様は豪気なお方じゃ!小姓になると邸を賜るものなのか?」

 「力、上様のお心の広さと、亡き父上や兄上達の熱心な奉公あっての事じゃ。儂らが小姓に取り立てられたのも乱兄上が邸を賜ったのも。続いておるのじゃ。儂らも熱心に励めば仙も小姓に取り立てて貰えるやもしれぬぞ。」

 無邪気な力丸の発言に対して、良く物事が見える賢い坊丸が諭すように言う。


 力丸は納得し、天真爛漫で素直な乱法師は感動した。

『坊は何と賢いのじゃ!いちいち言う事がもっともじゃ。実にまともな弟じゃ!兄弟の中で一番まともじゃ。』

 全くその通りであった。
 
 ともかく鬼のように強いが血の気が多く、味方とも争いが絶えない長兄、長可。
 
 知性や美しさなど、並の人間が持たざるものを多く持つが故に人の悪意に鈍く、偏りを感じさせる次兄、乱法師。
 
 穏やかで優しいが呑気で頼りない弟、力丸。
 
 やんちゃで我が儘な末弟、仙千代。
 
 坊丸は、才能はあるが人間的に偏りのある兄達と頼りない弟達と共に育ち、唯一均衡の取れたまともな人間として成長した。

 なので賢い賢いと言われながら、人の裏側が余り見えていない乱法師とは異なり、世情にも詳しく、邸を賜ったのが通常の奉公だけによるものではない事くらい察していた。

 当の乱法師が、そうしたところは鈍く、薄らぼんやりしているのも坊丸は良く分かっている。

 
 そうこうするうちに母の妙向尼と末弟、仙千代も安土に到着した。

 妙向尼は母らしく、金山を出てから二年の歳月で立派に成長した息子の姿を見て涙ぐんだ。

 「乱法師殿、お久しゅう。すっかり背も伸びてご立派になられましたな...…お声も変わられて……」

『さすが母上じゃ!背が伸びたくらいで涙を流して喜んで下さるとは。これぞ家族との再会ぞ。弟達とは偉い違いじゃ。──ん?待て──声まで?』

 「母上、声まで、と申されたか?」

 「──声変わりされたのではないのですか?」

 母の言葉で漸く合点がいった。

『声変わりとは気付かなかった。』
 
 しゃがれ声の原因が、酒やけでも風邪でもないと分かり脱力する。

 「はい!先日、陣中より声の調子が変わって参ったのです。」

 陣中というところに力を込めて言う。

 「もう初陣まで済まされて...…亡き殿にも立派な姿を御覧に入れたかった。」

『良かった!これで儂がつつがなく、これ以上ない程元気に過ごしていると分かって下されたであろう。』

 「次は元服でございますね。」

 さらりと言われ、胸にずきりと妙な痛みが走り答えられずにいると、妙向尼は彼を見詰め訝しげに眉根を微かに寄せた。

 母に全てを見透かされているようで、何も悪い事をしていないのに沸き起こる罪の意識から、僅《わず》かに視線を逸らした。
 
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 乱法師は城内に賜った部屋と自邸の両方に古田佐介の造った焼き物をいくつか置いて楽しんでいた。

 面白い形に焼き上がった時には相変わらずただでくれる。

 いくら貰っても困る事はなく、この時代の上流階級では食器を使い捨てにする事はしばしばあり、邸や城跡から陶器の欠片が出土するのはその為だ。
 
 元々試作品である為、古田にとっても乱法師にとっても、出来を批評しながら惜しみなく使い捨てにした。

 出来の良いものは残し、香炉と花入れ、酒の徳利がお気に入りだった。

 佐介の造る焼き物の独特の歪みが、花入れの場合は季節の花を摘んで無造作に生けると趣があり、また徳利は剽げた形が何とも楽しげである。

 特に佐介の自信作の緑色の香炉は、色も形も素朴さと優雅さが融合した実に見事な出来栄えであった。

 乱法師の部屋の調度に対する色の好みは青、紫、緑色系で、どうしても女子の部屋と比べると色味と華やかさに欠けてしまう。

 今宵は信長が部屋を訪れるというので、日頃は気にしない調度品の配置などを工夫してみた。
 
 部屋を賜れば寵を受ける男女問わず、主を迎える形になるのがこの時代の常である。

 寝衣姿で待っていると、信長が来たので平伏して迎えた。

 「声変わりとは気付かなかったな。」
 
 どこか面白がっている。

 乱法師の主な務めは奏者番《そうじゃばん》として諸将を取り次ぎ、謁見の際には献上品名や氏名を読み上げる事だ。

 或いは主からの下賜品を使者として届ける際も口上を述べ、ともかく主と家臣達との繋ぎ役として非常に多くの人々と接する。

 江戸時代においては言語明瞭、英邁《えいまい》な人物でなければ勤まらない役務とされ、重職の一つであった。

 「斯様に掠れた声では御不快でございましょう。」


 「──あれは?」

 彼の憂慮を意に介さず信長は枕元の香炉に目を止めた。

 「実は古田佐介殿が試しに焼いた、変わった焼き物を度々頂いているのです。お気に召しませぬか?」

 「いや、中々面白い。」

 それよりも、初心《うぶ》だと思っていた寵童が閨の調度を気にするまでに成長しているとは──

 信長は私的な時間に公を持ち込む事を嫌う。
 彼がこの部屋に来た目的は一つで、愛おしい者と濃密な時を過ごす為である。

 今、目の前にいるのは有能な忠臣ではなく、雛鳥のように懐に入れ慈しみ、大事にしたいと思う者だ。

 そっと抱き寄せると「掠れ声も良い─そなたは随分成長した──」そう言い、唇を重ねた。

 以前は成すが儘だった乱法師も、未熟ながら房術に長けてきている。

 自ら相手の唇を求め舌を深く差し入れると、信長の寝衣の間に手を滑らせ、固くなり始めた昂りを優しく扱く。

 信長の手も同じように裾を割り、乱法師の花茎を包み込む。

 唇を深く重ね舌を絡めながら、手を使って暫く互いを高め合うと、やがて性に長けた信長が上に乗り、乱法師の身体を優しく解《ほぐ》し支配し始める。

 喘ぎ、悶えながら愛撫に身を委ねた。


 「声が良い。掠れたままでも良いのではないか?」

 行為の後、淫らな睦言を交わす。

 「私は早く掠れ声が落ち着いて欲しゅうございます。」

 「もう三年目か。最初の頃は抱くと泣いていた。そんなに儂が嫌だったのか?嫌と言われても結局抱いていただろうがな。」

 「……嫌だったのではありませぬ。ただ、どうして良いか分からず恐ろしく恥ずかしく……ただ子供だったとしか申せませぬ。」

 その頃の己の心情を表現するのは難しい。

 今思えば最初から信長を慕っていたのかもしれない。

 幼い初恋にも似て、相手が主君という事もあり性愛を嫌悪し恐れ、恋慕う思いと情欲を結びつける事を忌避した。

 「あの頃のそなたも良かったが今はもっと愛おしい。抱く度に愛おしくなる。」

『この先、何度死に何度生まれ変わっても、これ程人を愛する事はないだろう。』
 
 そう思うと乱法師の胸は引き裂かれそうになる。

 彼の身体は男として否応なしに成長し、元服という時を迎えれば共寝をする事は許されなくなる。

 この時代の男色は、現代の同性愛の概念とは異なり、男性が男性を愛するという明快なものではなかった。

 年上の念者《ねんじゃ》からすれば、女子とも見紛う美童を愛する事は、異性を愛する事と比べ、さしたる違和感は無かったのだろう。

 だが肉体を伴う関係であれば、本来は女性を欲する男性が、長じて男らしく髭も生え、骨格も逞しくなった相手を女子のように可愛がるのは性的本能に従えば難しくなってくる。

 愛される年下の念弟《ねんてい》側から見れば、男性としての意識が未熟であるうちは年上の念者に性技を導かれ、女子のように可愛がられる事を受け入れても、身体の成熟に伴い、受け身ではなく能動の性に目覚め女性の肉体を欲するようになるのだ。

 美童のみが性の対象になるからとはいえ、年長者が未熟な者の性を摘み取り弄び捨てるのではなく、少年の成長に力を貸し、長じるまで守り育てるという父兄としての庇護的側面も持っていた。

 念者は美童を抱く事により快楽を得るが、同時に心が相手に縛りつけられ、同性であるが故に結び付きも強く、己の身に代えてでも守りたいと思う程狂おしく愛を注ぐようになる。

 それ故、同衾する事がなくなっても互いを思い合う情愛は生涯続くのだ。

 とはいえ、若く性に目覚めたばかりで人を愛する事が初めての乱法師からすれば、この時が永遠に続けば良いというのが本心だ。

 己の成長を止める事は出来ないが、終わりを考えるのは辛過ぎる。

「今、上様の腕の中で死ねましたら本望にございます。」

 意識せずに、そんな言葉が洩れた。

 普段の落ち着いた様子と、大らかで感情を剥き出しにする事が滅多にない寵童の激しい愛の言葉に信長は驚いた。

 裏切り謀略、身内ですら信用出来ず、戦いの中に常に身を置き、一瞬の油断で首を落とされる、張り詰めた日々であった。

  乱法師は明らかに未熟で、まだ世間を知らない。

 信長から見れば余りにもか弱い存在だが、血を浴びた事すらない無垢な彼がぶつける純粋で真っ直ぐな愛は、心の奥深くまで入り込み退廃を浄化していく。
 
 厠で用を足す、風呂に入る、閨で睦み合う、一日の中で気を抜ける時間こそに命の危険が潜み、巨城の主となった今も、それだけは変わっていない。

 乱法師は日頃女人と出来るだけ視線を合わせないように努めている。

 美男として女達の興味を惹き、熱の籠った視線を感じる事もしばしばあるからだ。

 だが女性に対する意識は広く漠然としてぼんやりとした靄《もや》のようだ。

 ただ一人の者に心奪われるという経験と、親しく女性と接した事がない為、意識はまだ未熟であるとも言えた。

 女人に心惹かれるだけでも信長を裏切るようで嫌だった。

 せめて同衾が許される間だけは身も心も信長だけのものでありたい。

 由緒正しい武家の男子として、いずれ妻を娶り子を成しても、心はずっと信長のものだと己自身に固く誓っていた。
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