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第9章 主と母

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 天正八年、正月を迎えた。

 静かに降り続く雪が、いつの間にか情景を真っ白に塗り変えていた。

 ひらひらと灰のように降るから灰雪と呼ぶべきか。

 雪を花に例え、天華、銀華、雪華という実に美しい表現もあるようだ。

 香りがしない花という意味で『無香の花』或いは、雪の結晶の形から『六出花』などという別名も面白い。

 外に出て積もりかけた所に足跡を付けるように歩くと、まだ柔らかい雪はさくっと軽く沈んだ。

 

 播磨では、別所長治等が立て籠る三木城に動きが見え始めていた。

 後々まで三木の干殺しと伝わる過酷な兵糧攻めは兵達を苦しめ、昨年の荒木村重の妻子達の無惨な処刑が城内に伝わり、次は自分達かと皆が怯え疑心暗鬼に陥っていた。

 落城は時間の問題かと思われた。
 
 「邸に戻って家族と過ごせ。」
 
 一日だけ正月休みを貰い、邸に戻ると庭に雪だるまがあった。

 弟の仙千代が作った物であろうと悪戯心が湧き、もう少し大きな雪だるまを作って傍らに置くと、ちょうど兄弟のように見えて面白くなった。

 昨年、伊丹城が開城すると坊丸や力丸も小姓衆として二十日交替で詰めるなど、責任ある任務に携わるようになってきている。

 小姓の仕事は年中無休で正月であろうと基本は関係ないのだ。

 信長の身の回りを世話する者が誰もいない訳にはいかないので、正月でも休みは取りにくい。

 陣中にいる武将達も大変だろうが、側仕えの者達は役得もある分気苦労が多く、休みらしい休みがないのが実情だ。

 だが信長の小姓は数が多く、乱法師の邸は天守からも近い為、弟達も昼過ぎからは邸に戻って来られるだろう。

 今年は良い年になるようにと願うのは毎年の事ながら、良い年とはどんな年だろうかと考えてみる。

 織田家にとって良い事、つまり戦に勝つ事は森家にとっても吉事だが、やはり家族が病や怪我無く無事に過ごせるのが一番なのかもしれない。

 信長は側近衆や小姓達に籤《くじ》を引かせ、当たりが出た者達に献上品の多くを下賜した。
 乱法師は鮭が当たり、正月祝いの膳の良い御馳走になると喜んで持ち帰った。

 邸の主の新年初の帰宅に、母と仙千代が出迎える。

 立派な鮭を持った中間が乱法師の後ろに控えているのに目敏く気付き、仙千代は瞳を輝かせた。

 
 荒木村重の妻子達の過酷な処刑は、侍女や若党も含めると七百名近くに及んだ。

 検使役でさえ目を背けたくなる程の凄惨な処刑を見て来たとは思えぬ程、その後も妙向尼の様子は淡々として常と変わらなかった。

 乱世の女と言えども戦に出る程の剛の者は僅かだが、城で待つ女達は男達が取った首が少しでも身分が高く見えるようにと化粧を施す。

 首級だらけの部屋で黙々と長時間作業に及ぶ事もある。

 母の妙向尼は斎藤道三の元で少女時代を過ごし、信長以上に苛烈な処刑を行い、蝮《まむし》と恐れられた、あの道三に認められた女だ。

 賢く気丈で美しい彼女に白羽の矢を立て、愛娘帰蝶(お濃の方)の傅役としての責務を、己が娘と年が変わらぬ少女に科したという事になる。
 
 自室で寛いでいると母の声がした。

「乱法師殿、母ですが入っても宜しいですか?」

 無論、断る理由などない。

 妙向尼が襖を開けて入って来ると、彼の前に姿勢を正して座った。

 少し妙な雰囲気を感じ取ったが、母親がきちんと座っているのに己が寛いでいるのもまずいと思い背筋を伸ばす。

「お忙しいようなので中々言い出せず……新年早々申し上げるのも心苦しいのですが、他に頼める時、頼める御方も思い浮かばず。」

「──?私で力になれる事でしたら力になりたいとは存じますが、何か御心痛でもおありなのでございますか?」

 すぐに兄の長可の顔が浮かんだ。
 
『最近は戦で血の気の多さを散じているおかげか、大きな問題は起こしていない筈だが。』

 内心、己の知らぬ新たな悪行を耳にするのかと鼓動が早まる。

「顕如殿の事です。」

「顕如?金山の寺の母上のお知り合いの僧侶でございますか?」

『はて?顕如?何処かで耳にしたような。僧侶にはありがちな名前じゃが。ああ、本願寺の顕如と全く同じ名ではないか。紛らわしい。』

「その御方が何かお困りでなのですか?」  

 「乱法師殿、大坂本願寺の顕如上人から書状を頂いたのです。内容は上様と和睦をしたいと。そして助命をと。」

 耳にした瞬間は何を言っているのか理解出来なかった。

 暫くして様々な思いが胸中に去来し、母に確認したい事で膨れ上がり頭の中が飽和状態になってしまった。

 「.................」

 沢山あり過ぎて言葉が出てこない。

 冬だというのに汗が吹き出してくる。

 表情を変えずに妙向尼が言葉を続けた。

 「実は昨年の事です。本願寺からの書状を読み、私の立場から、はっきりとは返事を出来ずにおりました。荒木の妻子の方々の憐れな有り様を見て、二度とこのような悲劇を起こしてはならないと……顕如殿も同じお気持ち。戦いを止め降伏し、衆徒の命を救いたいと思われているのです。」

 乱法師は先程よりも気持ちが少しだけ落ち着き、冷静に状況を理解すべく努めた。
 
 そして最も重大な事を問いかけた。

 「何故、母上なのですか?」

 「何故、和睦にしても助命嘆願にしても──朝廷ではなく──母上なのですか?」

 答えを聞くのは恐かった。

 十年近くに及ぶ石山本願寺との戦は、お互い不利になる度に朝廷の仲介で和睦をしてきた。

 無論、便宜上結んでいるだけで、本気で和睦するつもりがない為毎回破られて今日に至っている。

 此度は顕如が本気で真の和睦を求めていると感じた。

 顕如は諸国に信長打倒を訴え一向一揆を煽動したり、毛利や上杉と手を組み織田家に与した大名に叛意を起こさせ、さんざん信長を苦しめてきた。

 毛利頼みの反信長勢力は最早虫の息だ。

 備前の宇喜多直家が織田方に寝返り、三木城は補給路を完全に絶たれ、城内では餓死者が出ている有り様。

 荒木村重も毛利頼みの籠城だったが救援は来ず、村重は逃亡したが今や生きる屍同然の状態。

 八上城の波多野兄弟は明智光秀に包囲され、兄弟そろって磔に架けられた。

 本願寺も長く毛利と手を結んできたが、天正六年、九鬼嘉隆の鉄甲船に毛利水軍六百艘が打ち破られ堺の港を制圧された結果、援助の道が絶たれ今や風前の灯火である。

 最も信長を苦しめてきた敵が、今更命を助けてくれなど虫が良い話だが、憎悪の感情を脇に置ければ和睦自体は悪い話ではない。

 和睦と言えば対等のように聞こえるが、弱体化した本願寺にとって今回の申し入れは降伏すると言っているに等しいからだ。

 これ程頑強に抵抗してきたのに、この期に及んで和睦を申し入れてきたのは、毛利の援助が望めなくなったからだけではなく、荒木村重の妻子達の処刑の影響も大きいのかもしれなかった。

 向こうから泣きついて来たからには、表向き和睦でも、こちらにとって有利な条件を全て承諾させる事も可能だろう。

 もし本気で戦を止める気があるなら、十年にも渡る戦を終決させる事が出来、上手く行けば無血開城である。

 いつものように朝廷を介してならば、和睦をするもしないも信長が決断すれば良い事。

 只この話、森家が深く関われば、とてつもなく深い落とし穴に落ちる事になりかねない。

──────いや、既に耳にしてしまった時点で、己が巧妙な罠に嵌まってしまったような気がした。

 「本願寺からの助命嘆願の御取り次ぎを乱法師殿にお頼みする以上は全てをお話し致しましょう。」

 「私は一向宗に深く帰依する者として顕如上人の教えを仰ぐうちに、頻繁に文のやり取りをするようになりました。」

 一旦言葉を切り、また話を続けた。

 「私自信の事ばかりでなく、あちらもお困りの時もございましたので、私の知り得る事で力になれればと文に書いて送りました。」

 「.............」

 「──そなたの叔父にあたる森家家老の林長兵衛は、良く雑賀衆の孫一殿と文のやり取りをしていました。」

 膝の上に置いた乱法師の左手の小指がぴくりと動いた。

 雑賀衆とは、簡単に言えば鉄砲に長けた武装集団である。
 
 では彼等が何故本願寺に味方するかというと、雑賀という土地が本願寺の近くにあり、一向宗徒が数多くいるからという理由もある。

 雑賀衆は忍びと同じく傭兵という立場で大名達に力を貸し、『雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける』と言われた程、鉄砲による戦闘能力を評価されていた。

 独立した存在の彼等が本願寺に力を貸し続け、織田軍を散々苦しめたのは信仰心故と言えるのかもしれない。

 あらゆる身分の領域に入り込み、心を取り込む宗教という存在は恐ろしい程侮れない。

 背中を冷たい汗が流れた。

 妙向尼は女であり、文の相手が顕如となれば内容は軍事に関わるものではなく、純粋な信仰心に基づくものと言い逃れも出来なくはない。

 林長兵衛為忠は妙向尼の弟にあたり、兄弟の叔父であると共に森家の家老を務めている。

 家老と言っても年齢は乱法師と九歳しか違わない。

 雑賀孫一は、織田軍との戦いにおいて本願寺に力を貸し続けてきた。

 その孫一との書状のやり取りとなると、呑気な世間話とは到底思えないし、世間話をしていただけと言っても通用しないだろう。

 全身の力が抜け目眩《めまい》を覚えた。

『──世間では、こうした事を内通と呼ぶのではなかろうか?』

 『へうげもの』古田佐介の顔が脳裏を過った。

 荒木村重本人にも本願寺に対する内通疑惑はあったが、謀叛を起こした要因の一つは古田佐介の義兄、中川清秀の家臣が本願寺に兵糧を流していた事実の発覚を怖れたからとも言われている。

 己の家族でさえ裏で本願寺に通じていたとなると、探れば多分、他にも似たような事をしている者が多数いるに違いない。

 重い告白をしているとは思えぬ程、母の瞳は深く澄み、既に死を覚悟している事が窺えた。

 「母上、本願寺と交わした書状は.....その.....まだ、まだ....お手元に?」

「ほとんど処分してしまいましたが、いくらかは手元にありますから御覧になりますか?」

 妙向尼は彼の瞳を真っ直ぐ見つめて答えた。 

 「……はい。全ての書状を私にお渡し下さいませ。本願寺の助命の件はその後で。少し考える時間を頂きたい。」

 
 結局、書状を渡されたものの中身を読む勇気はなく、というより、長年に渡り敵対していた本願寺と密なやり取りをしていた事自体が相当問題だからだ。

 書状は庭で燃やす事にした。

 炎がめらめらと書状に燃え移り、ちらちらと燃えかすが時折風で舞い上がっていく。

 庭先に座り赤い炎を見詰めながら考えを巡らせていたところ、傍に仙千代がいつの間にか座っていて、共にじっと見ている事に驚き飛び上がりそうになる。

 「兄上、何を燃やしているのですか?」

 「い──芋じゃ!芋を焼いておる!」

 咄嗟に苦しい嘘で誤魔化す。
 
 「私も食べとうございまする。」

 「芋は儂一人で食べるのじゃ!意地汚い奴め!そちは、あっちに行っておれ!」

 上手く追い払えぬのに苛立ち、大声で怒鳴り付けた。
 
 物凄い目付きで睨み付けると仙千代は驚き、泣きそうな顔で向こうに行ってしまった。

『きっと意地悪な兄と思ったであろう……』

 意地悪どころか寧ろ芋を独り占めする意地汚い兄と思われたであろう。
 弟を漸く追い払うと、再び深刻な顔で考えに沈む。

 幼い時から繰り広げられてきた本願寺との戦いに関しても、他の敵との戦いにしても、どのような結末を迎えるのか、或いはどのように終決させるべきかなど考えた事はなかった。

 一度始めた戦はいずれ終わるのだ。

 どちらかが死滅するまで?

 否、そんな戦い方をしていたら、味方の被害も甚大なものになってしまう。

 本願寺の勢力が弱まっている事は確かだが、問題は彼等は武士ではないという点だ。

 皆がその名を耳にしただけで震え上がる程信長が怖れられているのは、敬うべき神仏をも畏れず、皆殺しも厭わず虐殺する徹底したやり方にもあるのだろう。

 にも関わらず不思議なところは、逆らう者は断じて赦さないという厳しい処罰を行いながら、片や決して宗教そのものを弾圧しないところだ。

 施政者にとっては時として宗教は邪魔な存在だ。
 後に切支丹《きりしたん》が弾圧されたのは、結局のところ、その思想が邪魔だったからだ。

 容赦なく本願寺を攻め、老若男女を殺してきたというのに、家中に一向宗徒がいる事を気にしていないし改宗を命じる素振りもない。

 頭の中で信仰と政《まつりごと》がはっきりと分離されているからだろう。

 己や兄も一向宗ではあるが、織田家家臣として戦に出れば、本願寺と戦う事に迷いはない。

 だが一向宗の顕如を敵とする事に抵抗を感じる者は、織田家中に少なからず潜んでいるに違いないのだ。

 世間の人々は、荒木村重の妻子達に対する処刑を目の当たりにし、信長はともかく残虐非道で容赦がないと感じただろう。

 天下を治める上で、そのように力を誇示し恐れられる事は時として必要な場合もある。

『上様は戦いを、どのような形で終決させようと考えておられるのだろうか?十年も苦しめられ、顕如も立て籠る衆徒も全て完膚なきまでに叩き潰す事をお望みなのだろうか?』

『いや、上様は弱き者から信仰まで奪うおつもりはなく、一向宗そのものを叩き潰したいとまでお考えではない筈じゃ。あくまでも武装を解かせ、武士に刃向かう力を削ぎ、僧侶としての本分に立ち返らせる事こそをお望みの筈。』

 とはいえ、戦いは長引けば長引く程互いの憎悪は積もりに積もり、疑心暗鬼に陥り相手を益々信用出来なくなっていく。

 何度も和睦が結ばれながら破られてきた経緯から、本願寺の申し出をどの程度承諾するか、そもそも問題は信用出来るかなのである。

 顕如を生かしておけば、民や武士にも信者がいるのだから、煽動して再び戦いを仕掛けてこないとも限らない。

 要は信長が本願寺を信用出来ないだけでなく、顕如も信用していないのだ。

 信長という男を。

 和睦と助命を承諾したと見せ掛け、本願寺を明け渡させ、出てきたところを虐殺、そのような恐れを抱いているように思える。

『だから朝廷ではなく母上に頼む事にしたのか?』

 朝廷は中立の立場として今まで和睦を取り持ってきたが、助命に関しては本願寺に真剣に肩入れはしないだろう。

 あくまでも和睦を取り持つのは形だけ。

 一旦和睦を承諾し、また破ったところで朝廷が信長を罰する事はないのだ。

 朝廷と謂えども今の信長には逆らえない。

 助命が真にされるのかどうか、降伏すれば真に生き延びられるのかが不安なのだろう。

 だから森家に頼む事にした。

 されど妙向尼は女の身。
 信長と直接交渉する為には取り次いで貰わなければならない。

『つまり.....儂.....という事か。』 

 寵臣である息子の乱法師に話を持ち掛ける事は明白。

 母からの頼みを断れない乱法師が取り次ぐ。

 敵対する本願寺に肩入れし助命嘆願すれば場の空気が険悪になり、話の流れがまずい方向に傾く可能性は十分ある。

 政策を邪魔する者と見なされ、信長の怒りが爆発すれば妙向尼の命が危うくなってしまうだろう。
 
 そうなれば必死に乱法師は母を助けようとするに違いない。
 彼は本願寺の助命ではなく、母の願いを叶え命を救いたいだけなのだが。

 信長があっさり和睦と助命を快諾してくれるのが無論一番良いが、いつものように朝廷に頼み、和睦が成立したから一先ず安心と高を括って良いような相手ではない。

 少なくとも乱法師が取り次げば話も聞かずに一蹴される事はない上に、彼が深く交渉に関わり助命の約束が成されたのであれば、命は保証されたものと信じ、織田方のどんな条件も呑む覚悟を固められる。

『儂を狙って母上に頼み込んだというのか?随分買い被られたものじゃ。真に必死なのじゃな。此度は……』

 母や己の立場を利用していると考えると気に入らないが、和睦をする事には寧ろ賛成である。

 それにしても、いくら寵愛されているからとはいえ、信長の心の中で本願寺を叩き潰すと決めているのなら、己如きが嘆願したくらいで決心を変えられると考えているなら随分甘い話しだ。

 だが本願寺と和睦する利を強く訴えれば可能性はあるかもしれない。

 何よりも不安なのは、森家から助命を願い出れば、本願寺と森家との内密な関係を追及されるという点だ。

 内通と捉えられれば、本願寺の助命どころか、問答無用で自分達が成敗されてしまう危険すらある。

 己一人だけなら良いが、兄弟や家臣達まで荒木一族のように処刑される事になったら?

 恐ろしい不安が冷静な思考に取って代わり、胸と胃の辺りがきりきりと痛んだ。

 かつてない程の窮地に思い悩み苦しんでいると、城から戻って来た坊丸と力丸の明るい声が聞こえてきた。

『坊や力には伝えねばなるまい。』

 乱法師一人のみが、せっかくの極上の鮭の味も舌に残らず、心ここにあらずといった風情で食事を済ませると、二人の弟達を部屋に呼んだ。

 多分──この時点で決断していた。

 弟達には相談する為ではなく、己の決意を承諾してもらう為に部屋に呼んだのだ。

 「本願寺からの頼みを断ってしまえば良いではないか。そうじゃ!そうすれば……ば、ばれぬ。」

 話を聞いた後、一番呑気な力丸が言った。

 「儂は本願寺からの頼みを引き受け上様に取り次ごうと思っておる。」

 力丸の目は大きく見開かれ、呆然とした顔で乱法師を見た。

 坊丸は黙って聞いていたが、ぽつりと呟いた。

 「それしか道はないのかのう……」

 「なぜじゃ!斯様な事に軽々しく関われば森家が睨まれる事になるのではないのか?最悪……皆殺し……」

 力丸はどうしても納得がいかない。
 
 乱法師は二人の弟達に静かな眼差しを向け話し始めた。

 「力、逃げられぬのじゃ最早。退くよりも進んでみるしかあるまい。」

 「…………」
 
 「儂とて始めは黙っていようと考えた。だが疾うに母上は死を覚悟しておられる。取り次ぎを拒んだところで、あらゆる手を使い上様に助命を請われるであろう。そうなるくらいなら儂が取り次ぎ、母上の御気持ちが済むまで、共に上様に御願いしてみようと思うのじゃ。」

 「もし上様の御気持ちを変えられぬ場合は?仮に変えられたとしても、その後儂らが本願寺を助けた罪を問われたら?そこまでして命を賭ける理由があるのか?」

 それまで黙って聞いていた坊丸が訊ねた。

『命を賭ける理由は儂にはある。仏敵──』
 
 乱法師は心の内で言葉を呑み込んだ。

 「母上が苦しむ御姿を黙って見てはいられない。」
 
 それは心に秘めた思いとは異なるが、偽らざるもう一つの本心であった。

 「儂は腹を切ろうと思っている。」

 坊丸と力丸は城から戻って来て、いきなり深刻な話を持ち出され、心がまだ付いてきていなかったのかもしれない。

 兄に腹を切ると言われ、改めて大変な事態であると悟った。

 「儂一人の命で御許し下さるように何とか御願いするつもりじゃ。」

 「──勝蔵兄上(長可)には黙っているつもりなのか?」

 「兄上にまで腹を切られては困る。何も伝えずにいれば、知らなかったで済まされるやも知れぬ。」

 あらゆる可能性を考えたところで、所詮楽観論でしかない事は承知している。
 
 己が腹を切ったとて、家族一同処罰される可能性が消えてなくなる訳ではない。

 力丸も避けられぬ事と理解した。
 
 母は信仰に命を賭けている。

 そして信長は天下を平定する事に命を賭けている。

 命がけの者同士がぶつかり合ったらどうなるのか。

 戦と同じく、どちらかが敗れるまで戦うか、手を取り合うのか。
 
 いずれにせよ、命がけの者達の気持ちを変える事は容易ではない。

 「力、そちは腹を切る練習はしておるのか?」

 坊丸がぼそっと力丸に言った。
 
 「──え?死ぬ機会がないから、忘れてしまった……」

 「たわけ!切腹の本番は一回だけじゃ!そんなに何度も腹を切れるか!」

 「斬首か磔だったら、せっかく練習しても無駄になってしまうがのう。」

 乱法師以上に緩やかな心の動きをする力丸は、どこか呑気で緊張感がなく憎めず、周りの空気を自然と和らげる。

 「全くそちは呑気で良いのう。状況が分かっておるのか?」

 坊丸が呆れたように言う。

 「ちゃんと分かっておる!要は死ぬ覚悟をしておけと言う事じゃろう?それにしても上手い腹の切り方とか、或いは首の斬られ方、磔に上手く架かる方法はあるのかのう?死ぬ前には好きな物をたらふく食っておきたい!今日食べた鮭は実に旨かった!!ビスカウトも金平糖も、雉肉も食べてから死にたい。死ぬ前じゃから豪勢に鯉《こい》も良いのう。」

 やはり緊張感が足りないのか、うっとりと目を細める。

 「……そちに上手な死に方を教えてやろう。切腹でも磔でも斬首でも!死ぬ前には、たらふく食うな!死ぬ前にはなーー食うのではなく厠に行っておくもんじゃ!」
 
 坊丸に諭され、力丸は死に際の現実を知り、最期の晩餐の夢が終えてがっくりと肩を落とした。

 だが乱法師は弟達のやり取りを見ていて少し気持ちが楽になった。

 部屋を出て坊丸と二人きりになると力丸が言った。
 
「のう、兄者!面倒じゃから、いっそ並んで腹を切ったらどうじゃ!生きようと思うから、ごちゃごちゃ考える。死ぬと思えば考えなくて済むじゃろう?それに一人切るより、三人で切った方が効果あるかも知れん。」

『こいつ──どこまで呑気で腹が座っておるのか。そして、たわけなのか。』

「面倒という言葉の使い方がまず間違っておる。それに三人で切ったら兄上が腹を切る意味がなくなってしまう。少しでも家族が処罰されずに済むようにと申されておるのじゃ!大体、そちが腹を切ると言っても、あまり意味がない。」

「乱兄上なら良いのか?」

 力丸が無邪気に訊ねた。

『こういう鈍さは乱兄上にそっくりじゃな。』

 何事にも気が回る坊丸は、兄と弟の鈍感さにたまに苛々する。

 どうして簡単な事に気づかないのか。
 
 乱法師が腹を切るから意味があるのだ。
 
 とはいえ、信長の気持ちをどうしても変えられない場合のみの最後の手段とする事を兄には勧めたい。

 馬鹿正直な兄の事、信長が赦すと言っても腹を切りそうなのが恐ろしい。

 少し着物の前を寛げて肌を見せ、涙を浮かべ睫毛を震わせながら、しっとりとした風情で懇願すれば信長の心も揺らぐかもしれないと思った。

 兄のそんな姿を想像するのは気色悪いが、血で血を洗う戦国時代、生き残る為に使える手は何でも使った方が良い。

『果たして、あの薄らぼんやりした兄に、そんな腹芸が出来るかどうか。代われるなら儂が代わりたいぐらいじゃ!』

 力丸がふと思い出したように聞いた。

 「仙には言わなくても良いのか?」

 この時代の十一歳は子供とは言えない。

「まあ、末っ子じゃからのう。そのうち言えば良いじゃろう。」

 だが、いつの時代も末っ子は末っ子扱いであった。
 蚊帳の外に置かれながら、この後一番あおりを食う羽目になるのだから、この時代の末っ子は大変だった。

 乱法師は二人が部屋を出て行った後、ある者を呼んだ。

 甲賀五十三家の一つ、伴家の忍びである。

 「御用は?」
 
 忍びは静かに座すと簡潔に問うた。

 「二つある。一つは林長兵衛(妙向尼の弟、森家家老)にこの書状を。もう一つは雑賀孫一の行方を探って欲しい。」

 「見つけたら?」

 「始末せよ!」

 暗くなり始めた室内に、美濃和紙が巻かれた灯明の炎が揺れ、乱法師の美しい顔を照らした。


─────翌日

 どう見ても良く寝たとは思えぬ顔で乱法師は出仕した。

 本人はいつもと変わらぬ風を装おっているつもりだったが、目の下の隈が憂鬱な胸中を表していた。

「お乱殿、随分お加減が悪そうじゃが大丈夫ですかな?」

 長谷川秀一が楽しそうに訊ねてきたが、今日は嫌味を気にしている余裕すらなかった。

 いつも通り書状に目を通したり、信長の朱印状の副状を書いたりしながら、母の目通りを何時願い出ようかと悩んでいた。

 信長の周りには、自ら一人になりたい、もしくは乱法師と二人になろうとしない限りは多くの者達が侍っている。

 今日に限って人が多いように感じた。

 「乱!」

 一瞬呼ばれた事に気づかぬくらい暗い淵に囚われていたのか、驚いて顔を上げる。

 信長が一人になる時に良く過ごす部屋に、共に来いという事らしい。

 襖を閉じると直ちに問われた。

 「顔色が悪い。何かあれば儂に申せ!」

 通常、主と家臣というものは、謁見に臨む場では常に対峙する関係にある。

 乱法師のような側近達は、座す場所がまず違う。
 小姓は主の後ろで刀を持ち、側近は主の斜め前に座るのだ。

 どちらにしても家臣寄りではなく、主の側に座している。
 
 座る場所は、そのまま主との関係性を示しており、逆に忠誠心にも影響するのかもしれない。

 対峙する家臣達には無意識に威厳ある強い態度で接し、さながら『味方の中の敵』であるかのように振る舞う。

 だが乱法師の事は『味方の中の味方』という認識でいる。

 どのような時も、己の側に寄り添う者だと信じている。

 信長は本能と感覚で敵か味方かを嗅ぎ分け、無意識に相手を牽制したり情愛を示すのだ。

 彼に何か悩みがあれば本気で心配し守ろうとするのは、まるで親鳥が雛の苦しみまで背負おうとするかのように盲目的で、主としては常軌を逸しているが本人は気に止めていない。

 乱法師も信長を庇護者と認識し、己の手に余る事態が起こった場合、自然に信長の顔が心に浮かぶようになっている。

 真に困った時に浮かぶ顔は、最も信頼する相手と言えるだろう。

 他人には知られてはいけない悪事でも、親ならば全てを受け入れ許してくれるから、まるで悪さをした子供のように縋り付く。

 父がいないから、父よりも強く、甘やかな相手に────

 

 
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