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第14章 血闘

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  白樺やブナ、アカマツが群生する林の間を騎馬武者達が続々と通り過ぎて行く。

 がしゃがしゃと甲冑の音を響かせ、その後を足軽達が追う。
 
 森氏の鶴丸紋が染め抜かれた旗と梶原氏の矢筈紋の旗が、走る足軽達の背で揺れた。

 「しっかし、まあ似ておらんのじゃなぁ。」

 「──?何の話をしておる!」

 馬上から話し掛ける朋輩の団平八に鋭い視線を向けたのは、此度共に先陣を任された森長可だ。

 逸早く木曽義昌が武田方から寝返った為、岩村に着陣した信忠の指示を得て、木曽谷から侵攻を開始した。

 織田軍に恐れを成し更に内通する者が続き、信州の松尾城主、小笠原信嶺が軍門に下った。
 
 先陣を任され気負い立つ二人、森長可と団平八は、妻籠から梨子野峠を通り、下伊那の飯田城を目指し進軍の途上にあった。

 二人共に二十代の半ばにも満たぬ若き武将。

 槍の穂先を研ぎ澄まし敵と刃を交え、次から次へと武田の城を落としてやろうと血が滾るのも無理からぬ事。

 二人の行く手を阻む城は面白いように落ちた。

 もっとも戦いによってではなく、寝返りか逃亡のどちらかである。

 松尾城主の小笠原の裏切りに先立ち、滝之澤城主、下条信氏は織田軍を迎え撃とうとしたのだが、家老が寝返り織田方の河尻秀隆の軍勢を岩村方面から引き入れてしまった為、やむを得ず逃亡した。

 苦労して城を落とす事を望んでいる訳ではないが、あまりの手応えの無さと武田軍の意気地の無さに団平八が苛々してきたところだった。

「お主と乱の事じゃ。先日、岐阜に来ていたであろうが。改めて兄弟なのに似ておらぬとな。」

「何ぃ?先日、岐阜に来ておったじゃと?」

「知らなかったのか?伊勢神社だったか、遷宮の費用がどうとか。相変わらず品の良い仕事を仰せ遣っておるのぅ。麗しの弟君は。」

 平八は迂闊にも長可に教えてしまい、乱法師に少しだけ済まない気持ちになる。

「お主には挨拶して、兄の儂には挨拶無しで素通りとは。たわけた弟め!」

 昨年の馬揃えの最中に大問題を起こした兄の顔を、敢えて見たくないという弟の気持ちに平八は同情した。

「そっれにしても、勇猛で聞こえた武田の武者が城を捨てて逃げ出してばかりとはなぁ。いつになったら、こいつに血を吸わせてやれるのじゃ!」

  兄弟喧嘩に巻き込まれたくないと話題を変え、槍を振った。

「ふ──落ち着け、平八!これから、いくらでも戦える。」

 長可の愛馬、百段が枯れ木を踏み、足元でぱきっと音が鳴った。

「まさか鬼武蔵に落ち着けと言われるとはなぁ。先陣を賜っておきながら、あっちに手柄を先に取られたらと思うと、つい──お主とて面白くなかろう。河尻や毛利に先を-──」

 平八の言葉を遮るかのように鎌十字の槍、人間無骨で茂みを薙ぎ払うと、野鳥がばさばさと音を立てて飛び立った。

 鬱憤が溜まらぬ訳がない。

 燃え滾り、ぎらぎらと闘志を湧き立たせる血走った目を見て、平八はこれから攻め落とす城の武田の将兵達が心底哀れになった。

 人間無骨で間違いなく血祭りに上げられるだろう。

 「毛利と河尻!爺共に先を越されて堪るか!!」

 爺共《じじいども》とは、信忠軍の補佐兼目付け役として信長から遣わされた重鎮二人の事だ。

 その内の一人、毛利河内守とは昨年の京の馬揃えの一件以来、敵以上にいがみ合う間柄となっていた。

 並みの神経であれば陰口を叩いても、表向きは戦目付けの機嫌を損ねないようにするものだが、長可の神経が並でない事は言うまでもない。

 梨野峠から山道を下り、織田方に寝返った小笠原信嶺の信州松尾城を目指す。

 松尾城から程近く、北側に位置する飯田城からは未だに降伏の申し入れはない。

 長可、平八の軍勢は松尾城に陣取り、飯田城が降伏するのを暫し待つ事にした。

 「また降伏か!戦わず終いか?武田には骨のある奴はおらんのか?」

 狙いは大将の武田勝頼で間違いないのだから、力は温存しておきたいところだが、本音は退屈で仕方がない。

 進軍の疲れを癒す為に、身体を横たえ話をしているうちに平八は睡魔に襲われた。

 敵の城を前にして、降伏したばかりの元敵将の城にいるという状況を思い出し、おちおち寝てはいられないと眠気を振るい落とそうと試みる。

 結局交替で仮眠を取る事にした。

 眠りに入った平八は長可に頬を叩かれ起こされた。

 「う…もう、交替か?」

 「いや──月夜のそぞろ歩きでもせぬか?」

 「…………」

 平八はその意外な言葉で完全に目が覚めた。

 「何じゃ?妙な顔をしおって。寝惚けておるのか。」

 「……お主が…初めて乱に似ていると感じた。やはり、兄弟であったか……」

  「取りあえず同じ腹から出てきた事だけは確かじゃ!下らぬ事を言ってないで月見に行くぞ!」

 月見に行くと言いながら、しっかりと兜を被り緒を締め、人間無骨を手にして愛馬に跨がる。

 降伏前の敵城間近であれば、夜のそぞろ歩きと言っても、呑気に軽装で出掛けられる訳もない。

 だが、ただ待っているよりは余程良い。

 乱法師の旗指物『吉野竜田花紅葉更級越路乃月雪』にもあるように、信州から見る月は格別美しいのかもしれない。

 まだ雪が残るこの地は、夜が更けるごとに寒さが増し、吐く度に白い息が闇に溶ける。

 澄みきった空気が月夜を美しくも見せるが、深更の風の冷たさは身を切るように鋭い。

 平八はぶるっと身を震わせた。
 具足の下は着込んでいるが、それでも冷気が鎧の下まで入り込んでくる。

 「驚いたぞ!鬼武蔵が月とはな。中々風流なところもあるのじゃな。やはり兄弟か。月と言えば和歌。あまり得意ではないが──えぇと、わが心……」

 古今和歌集の一句から、無理矢理月を詠んだ和歌を捻り出そうとする。

 「──っしっ!静かに致せ!和歌ではなく、月と言えば兎じゃ。」

 「兎って──それにしても、お主の具足は暖かそうじゃのぅ。それは何の毛じゃ?」

 乱世の武将の甲冑は多種多様、奇をてらった物が真に多いが、中には全く意匠の狙いが理解出来ない物まであり、此度着用の長可の物も相当珍奇で奇抜だった。

 兜や甲冑全体が黒で統一されているのだが、変わっているのは兜も甲冑も黒い毛で覆われているところだ。

 兜の前立て部分が金の三日月というところまでは普通なのに、何故か微妙に長い金の耳が各左右から斜めに突き出ている。

 動物の耳を模したと思われる耳の中は金で、外側が黒い毛で覆われていた。

 「熊だ。」

 熊毛であるところから、熊を意匠として取り入れているのかと平八は納得したが、耳は余計だろうと密かに思った。

 月の光だけが頼りだが、雲の流れで時折、真の闇に変わる。

 少し夜道を進むと、未だ降伏の申し出がない飯田城の方角から騎馬武者の影がいくつも連なり、身を潜めるように進んで行くのが見えた。

 「あ!あれは……武田の……」

 平八は槍の柄を強く握り締め、ただの月見でない事を悟った。

 「兎共じゃ──狩るぞ!!平八!奴等を月には行かせん──!はァっっ!!」

  百段の鐙を蹴ると勢い良く走り出し、当に夜陰に乗じてという風情の逃亡者達に追い迫る。

 追撃に気付いた後続の騎馬は間に合わなかった。

 「──ううゥーーおおおォォァあーりゃァあーーー」

 溜まりに溜まった鬱憤を晴らす絶好の機会に長可の血が燃えたぎった。

 凄い雄叫びを上げ、怯えて逃げる敵を追い詰めて行く。

 「──ぐぐっうぎぃィィいやぁーーー」

 人間無骨の凄まじい破壊力を知るが故に迷わず敵の兜の上から振り下ろす。

 兜が半ば割れ、頭蓋がめり込む程の衝撃に鼻血が吹き出し、瀕死の状態で振り向いた瞳に最期に映ったのは地獄の悪鬼だった。

 止めの槍が眉間の間を貫くと、馬から死体となって滑り落ちる。

 「いっぴーきぃぃ──はぁはぁ。」

 最早、二人は兎を狩る狼と化し逃亡する兵を追い掛け回し屠っていく。

 自分達が軍勢を指揮する大将だという事をすっかり忘れ、縦横無尽に暴れ回る。

 二人目に追い付くと、鎌十字を横に薙ぎ払った。

 名前の由来が骨無きが如くなのだから、甲冑など無きが如くだ。

 血と腸を飛び散らせ断末魔の呻き声を上げ、のたうち回るのを馬上から喉を突き止めを刺す。
 「にひぃーきぃーー」

 百段の脚力から逃げ切れないと判断した敵兵達は逃亡を止め、戦う覚悟を見せ始めた。

 月明かりに照らされる追っ手はたった二人の若造。

 「こちらの方が数が多いぞ!討ち取って深志の城の手土産にしてくれるわ!」

 「城と城兵を見捨てて逃げ出す輩が小賢しいぃわぁ!武士の風上にも置けん!逃がすかぁーー!」

 血の気の多さを妙な正義感に変えると、平八も槍を振るって次々と敵を突き殺した。

 元は信長の馬廻り衆、次に信忠の馬廻り兼側近として仕える身であるから武勇には優れている。

 馬廻り衆とは、その名の通り大将を守護する最強の親衛隊である為、側近として家中の訴訟問題を取り扱っている時よりは余程生き生きして見えた。

 森兄弟のどちらとも親交があるが、兄の長可とは武将として、乱法師と親しくなったのは信長の側近的立場として侍していた時だ。

 彼は少しだけ不思議に思っている事があった。
 
 美濃の金山城主である森長可に先陣を命じるのは分かるが、何故、此度己がわざわざ先陣を申し付けられたのだろうかと。

 堀秀政のように側近の立場でも軍勢を率いて参戦する事もあるにはある。

  但し、堀にしても己にしても城持ちではない。
 馬廻り衆である事を考えれば、本来信忠の本陣にいる筈なのだが。

 軍勢を率いて先陣を切れば、嫌でも武功は立てられる。

『まさか─乱が──』

 と何度も思ったが、まさかそこまでは、と打ち消す。

 そう思ってしまうくらい乱法師の目に見えぬ力は凄かった。

 無論その力とは、信長の力である。

 たった十八歳の若者が手にするには、有り余る権力を今の乱法師は手にしている。

 言葉で説明するのは難しいその力の凄さを何とか言い表すとしたら、家督を継いだ嫡男信忠ですら、彼に気を使わなければならない程と言えた。

 
 何はともあれ、戦にありつけない憂さを晴らした頃には逃げ遅れた二十人近くの敵の死骸が転がっていた。

 長可はこの日、三里も敵を追撃したと云う。

 「十匹は狩ったぞ!」

 満足気に馬上で揺られながら、長可は頬に冷たい感触を感じ斜め上を見上げた。

 槍の穂先で揺れる、頭蓋を叩き割った一番目の生首の眼窩から目玉が垂れ下がり頬に当たっていたのだ。

 手で目玉を掴み投げ捨てた。

 槍の穂先だけでなく、馬にくくりつけた無数の生首が月明かりに照らされぶらぶら揺れている。

 「やっぱり月見は嘘だったのか。やれやれ可笑しいと思ったんじゃぁ。」

 騙された事には不満気ながら、平八の馬にも血だらけの生首がいくつも結び付けられていた。

 「嘘など吐いておらん。月見のついでに首を取ってきたまでじゃ!ほれ!月見団子もここにあるしなあ。」

 そう言って生首がぶら下がった槍を地面に突き立てる。

 どうやら長可の月見とは、討ち取った生首を三方《さんぽう》に積み上げ団子に見立て、酒を飲む事らしい。

 飯田城に立て籠っていた主だった武将は全員城を捨てて逃げ出した為、残された足軽だけで戦える筈もなく結局飯田城は落城した。

 一応この落城に貢献したかに見える森長可と団平八は、本陣に討ち取った首級を差し出した。

 そして──信忠にこっぴどく叱られた。

 「談合もせずに勝手に攻めるとは何事じゃ!如何に勇猛とて独断で動いてはならぬ。本隊の到着を待ち、談合の上動くべきであろう。いくらなんでも無茶のし過ぎじゃ。結果、城が落ちたから良かったが、今後勝手な行動を取る事は断じて許さぬ。」

  並の者なら軽率を悔い改め、総大将信忠の冷静な言葉には従わねばならぬと反省するところだろう。

 並みの神経ならば──

 当然、この一件は戦目付け兼補佐役の川尻、毛利の耳に入った。

 「武蔵守め!やはり予想通り勝手な真似を──あのような血の気ばかり多い輩は先陣など持っての他じゃ。後に下げた方が良いに決まっておる!上様に申し上げ御指示を仰ぐしかあるまい!」

 川尻秀隆の意見に強く賛同しながらも、長可の被害者である毛利河内守は一抹の不安を覚えた。

 信長の厳しさが、こと長可の悪行に関して全く期待出来ないとはいえ、戦目付けとして派遣されている以上、軍規違反の報告に異を唱える道理はない。

 直ちに、この一件は安土の信長に知らされた。

─────

 「上様、岩村の本陣におられる川尻殿から書状が届いておりまする。」

 「読め!」

 武田攻めの進軍状況を報せる内容に決まっているから、乱法師は書状をすばやく開き目を通した。

 「おお!とうとう飯田城が落ちたそうにございます。夜に城から逃げ出したとあります。そして、それを勝手に…………」

 乱法師は思った。
 弟の立場で兄の軍規違反を訴える書状を読み上げなければならぬ不運を。

 「乱、どうした先を読め!」

 その場には乱法師だけでなく、他の側近衆や小姓衆も多数控えていた。

 兄が一度でも己の行動を反省し、少しでも弟の立場を考えてくれた事があっただろうか。

 否──

 見た目の繊細さによらず豪胆と周囲には思われ、確かに幼き頃よりどちらかと言えば物事にあまり動じず、冷静な質であったように思う。

 そもそもあのような兄と共に育てば並大抵の事では驚かなくなるのは当然で、小姓として出仕してみたら、主がこれまた激しい気性で人を驚かせるのが大好きときていた。

 そんな主に愛されたのは、徒に恐れず遠慮せず意見を言うところであるようなのだが。

 いくらなんでも他の家臣達が居並ぶ前で、兄の愚かな行状を読み上げるのは苦しかった。

 乱法師は長可程神経が図太くないのだ。

 赤の他人の名であるかのように感情を殺して読み上げる。

 「全く血の気の多い馬鹿者共めが!」
 
  その言い様に、口で言う程怒っている訳ではないと胸を撫で下ろす。

『それにしても平八まで兄と一緒になって軍規を犯すとは──全く、報せが届く度に無茶をしていないか不安になってしまう。』

 易々と城が落ち、進軍のあまりの早さに思ったよりも簡単に片が付いてしまいそうだと誰もが感じていた。

 それに、当の信長自身が少し焦っていた。

 諸国に堂々と触れを出してしまったのに、自身が出馬する前に片が付いてしまったら、有り難みが全くなくなってしまうからだ。

 武田勝頼が自刃してから出馬する事程滑稽な事はあるまい。

 よって、河尻秀隆に森長可や団平八の勇み足を抑えるようにとの書状を書く事にした。

『城之助(信忠)には儂が出陣するまで先に行くなと、滝川一益と相談して固く申し聞かせよ。武蔵守と平八の事だが、勝手に進軍した事は、若者達故にこの時とばかり粉骨砕身して功名を上げたと儂に訴えたいのだろう。軽はずみな行動はするなと何度も言って聞かせたが、後見役として更にお前からもよくよく言い聞かせよ。それが一番大事だ。』

 
 「上様……申し訳ございませぬ。中将様にまで御迷惑を掛けてしまい、兄に代わって御詫びを申し上げます。」

 周りに人がいない時を見計らって静かに詫びた。

 「ふっふふ。始めから予期していた事じゃ。ある程度の勇み足はな。思った以上に四郎(勝頼)に従う者がおらぬということか。急がねばなるまい。河尻等がそなたの兄や平八の手綱を取り続けるのは無理であろう。」

 「では、今月中に御出馬なされますか?」

 「いや、まだ無理じゃ。こちらでやる事を済ませておかねばな。諏訪までは長い道のりじゃ。暫くこちらに戻ってこれぬからのう。だが、来月早々には出陣出来るようにせねばなるまい。」

 来月と聞き、乱法師は少し残念そうな表情になる。

 出陣したとて本陣の奥のそのまた奥の陣幕の中で、小姓とは別に信長の世話を焼くのが彼の仕事なのだから、どこにいてもあまり変わらないのだが。

 「何じゃ!そんなに早く出陣したいのか?焦るな。此度は楽しき道のりになろう。そなたにとってもな。」

 そう言うと、意味深な目で彼を見るのだった。


 飯田城から逃亡した今福昌和は足軽部隊を指揮し、鳥居峠で織田方に寝返った木曽義昌、遠山父子を含む織田軍と激突した。

  ここでも織田軍が勝利し鳥居峠を占領した為、武田軍は深志の城に立て籠った。

 総大将信忠は、岩村から途中軍勢を進ませるには辛い難所を越えながらも平谷に進み、その後飯田城に着陣した。

 到着するや、目付け役の河尻秀隆は長可と平八、特に長可に向かい詰め寄った。

 「既にその方共の勝手な振る舞い、上様より直々に御叱りがあったと思うが、重ねて儂より──」

 が、最後まで言う前に、とっととその場を立ち去る長可の背に向けて罵しるしかなかった。

 「──うぬぅーー武蔵守めぇーー」

 年上で重鎮でしかも信長の命を受けて派遣された戦目付けである己に対して、何たる態度と憤慨する河尻に信忠が声を掛ける。

 「もう良い!父上からも何度か諌められ、儂も厳しく申し聞かせたのじゃ。些かしつこかろう。そんなに何度も言われれば、聞く者も聞かなくなる。此度の事も勝手な行動とはいえ、結果として敵を討ち取り飯田城は落ちたのじゃ。斯様な勝ち戦の時につまらぬ諍いをするでないぞ。」

 「──ですが──」

『言い聞かせて聞いた事が一度でもございましたでしょうか?』

 信忠の寛容な言葉に、その後に続く言葉を呑み込んだ。

 河尻も毛利も気持ちは一緒だった。

 その場にいる信忠以外の全ての者は思った。

『諍いを起こす張本人は常に武蔵守であろう。』と。

────
 
 平八が探すと長可は物見櫓にいた。

 「次は大嶋城が落ちるか深志城が落ちるか。それが終われば、いよいよ高遠城じゃな!」

 「やれやれ!さすがに少しは年寄り共の顔を立ててやらぬとまずいのではないか?」

 長可よりは良識のある平八が言った。

 「何じゃ!お主まで爺共の味方か?あの時は儂と一緒に嬉しそうに狩っていたではないか!」

 「しかし、上様から直々に御叱りを被ったのじゃぞ!いくら何でも……」

 「たわけ!儂らが前進を止めておきたいのは上様の都合じゃ!城から敵が逃げ出すのを見て手をこまねいて見てられるか!いちいち御許しを乞うていたら逃げられてしまうではないか。それとも何か?これからも敵と切り結ぶ度に御伺いを立てねばならんというのか!大体、いつまで安土で亀のようにちんたら──」

 「うわぁーわぁーそれ以上申すな!誰かに聞かれたら何とする!」

 平八は慌てて不敬極まりない言葉を遮る。
 
  長可は自身の気持ちに正直であるが故に信長や戦目付け達の本音の部分を見透かしてしまうのだ。

 口に出せない本音、信長の出馬が果たして必要であろうかと。

 今の軍勢で勝頼を倒すのにさえ充分事足りているのに、信長に気を使い無駄に時を費やすなど愚の骨頂。

 並みの人間ならば気付いていても心の奥深くに秘め、大人しくしているものだ。

 並みの人間ならば──

 「爺共の都合に合わせて戦がやってられるか!」

 長可が言う爺共の中に、果たして信長が含まれていたかどうかは定かではない。

 何か悪巧みを思い付いたのか、長可は不敵に笑った。

 次に落ちたのは飯田城の北の方角に位置し、天竜川に面して建つ大嶋城だった。

 大嶋城には信玄の弟で、顔が瓜二つであったと伝わる武田逍遙軒信綱が守将として居たが、到底敵わぬと諦め火を放ち、城兵は夜の間に甲斐へ逃亡してしまった。

 またかと呆れはしたが、丸く作られた巨大な馬出しに、堅固で高く築かれた城塁、攻めるのに困難を極めたであろう深い堀、もぬけの殻の城に入り、夜逃げしてくれてつくづく良かったと一同思った。
 
 戦況や進軍の様子は河尻等から安土の信長に随時知らされる。

 知らせる度にむやみに戦功を焦って進軍するなと毎回うるさかった。

『進軍するなと言っても戦わずに城の方から勝手に落ちるんだからしょうがねぇだろうが!』

 長可は腹の中で毒づいた。
 そして腹の中だけでは終わらないのが長可だった。

─────
 
 「大嶋城も我が軍勢に怖れを成し落城した!武田勢など口ほどにもないわ。四郎が叔父、名に聞こえた武田逍遙軒信綱までが己が命惜しさに逃げ出す始末よ!次は難攻不落の高遠城じゃ!今こそ勢いに乗り、武田の息の根を止めてやろうぞ!進軍あるのみ!」

 総大将に相応しく、軍義の席で勇ましく信忠が皆の士気を鼓舞する。

 通常ならば一同心を一つにして「おー!」と気勢を上げ、進軍に向けて景気付けの酒宴が始まるところだろう。

 「中将様──!暫し、暫し、お待ち下されい!」

 しかし、この勢いに水を差したのは河尻秀隆であった。

 「上様より再三再四、戦功を焦り逸るな。儂が行くまで待っていよ!との御指示を頂いておりますれば、まず安土に大嶋城を落とした事を伝え、上様の御許しを頂いた上で進軍を──」
 
  「やっかましい!年寄りは引っ込んでおれ!何が安土じゃ!いちいち城を落とす度に御伺いを立てておれるかぁ!ここは戦場じゃ!御伺いを立てねば進軍出来ぬのであれば年寄り共だけ、ここで火鉢にでも当たって待っておれ!」

 立ち上がって河尻の言葉を遮ったのは無論森長可をおいて他にはなかった。

 「──な、何が年寄りじゃ!どこまでもぶ、無礼な奴め!進軍罷りならぬぞ!上様からのお達しでは、お主の勝手な振る舞いを止めるのが肝心じゃと御言葉を頂いておる!」

 「そうじゃ!そうじゃ!問題ばかり起こしおって!少しは人の話を聞かぬか、たわけ!」

 毛利河内守も立ち上がり、三名の間で火花が散った。

 負け戦が続いているならいざ知らず、殆んど無傷で順調に勝ち進む陣中では、あまり見られない光景だったかもしれない。

 「止めよ!斯様に勝ち進んでおる時に何故諍いばかりするのじゃ!この先については、落ち着いて考えねばなるまい。今までの城は降伏したり逃亡したりであったが、高遠城の守将は仁科五郎(盛信)じゃ!骨のある武将と名高い故、もし降伏させる事が出来ねば攻めるは容易ではなかろう。どちらの言い分ももっともなれど、今少し熟慮が必要であろう。」

 さすが総大将というべき発言で信忠はその場を収めた。

 「────」

 珍しく長可は何かを言いかけたが黙った。

 かに見えた──

 が、信忠が一人になった時を見計らい、すかさず耳に吹き込む。

 「殿は早く進みたくないのか?」

 「武蔵守よ!儂とて出来る事ならさっさと戦など終わらせたい。じゃが、いくら総大将とて父上の御指示を無視して勝手に進軍する訳にはいかんのじゃ。分かってくれ。」

 「分からんなあ。一体殿はおいくつになられたのじゃ?総大将の御身で、いつまでも父上、父上と。父上がおらねば御自身で判断も出来んのか?あんな年寄り共の忠告を聞いていたら軍の士気は落ちてしまうぞ。」

 長可は信忠を攻め落としに掛かった。

 「しかし、勝手には……」

 覇王と恐れられる父に逆らえない気弱さを突かれ、赤くなり口ごもる。

 信忠は人格優れ文武に秀で、真面目で律儀。

 それは彼の美徳だが、信長又は長可のような我が道を行く強さには欠けている。

 逆に長可は欠点だらけの人間だが、周囲の都合など考えない為、周りをいつの間にか巻き込む力だけは勝っていた。

  「しかし?しかししかーし、何でござるか?総大将は殿じゃ。また御父上に御伺いを立てられるか?何度聞いても御指示は同じ!勝手に先に進むな!儂が出陣する迄待っていよ!こればっかりじゃ。分かっておられるのじゃろうが。上様は御出馬される名目が欲しいだけじゃ。待て待てと言うのは御自身が出馬したから武田は滅びたのじゃと、そう世間に思わせたいからじゃ!」

 「……では、そなたはどうせよと?」

 「まずは酒でも飲みながらゆるりと話し合いましょうぞ。逆らい方が分かっておられぬようじゃ。ま、儂も逆らう頃には父は討ち死にしておりましたがのう。」

 信忠のような真面目な人間は、長可のような人間に心を揺さぶられ易い。

 攻め落とす事など造作なかった。

────

 「硯を持って参れ!」

 信長は側に控えていた力丸に命じた。

 河尻からの度々の報告に、祐筆に書かせるのももどかしく自身で筆を取り認め始めた。

『やはり、此度はさすがに怒っておられる。』

 乱法師は険しい顔で文机に向かう信長の横顔に不安を覚えた。

 内容は無論、長可と平八の勇み足を咎めるものに違いない。

 陣中の河尻秀隆からの書状は、弟として読むに忍びないものばかりだった。

 信長が筆を置き、書き終わった書状を無造作に突き出してきた。
 
 読めと言う事らしい。

 自ずと小さな溜め息が漏れ、渋々目を通す。

『武蔵守と平八については、そなたに言われた通りに儂からも何度も申し聞かせている。にも関わらず、同じ事を繰り返し行いを改めぬのはけしからん。若者故の勇み足は武功を訴えようとしているのだろう。こうした問題も儂が出陣すれば済む事じゃ。城之助には堅く申し付けているから、その通りに致せ。今はくれぐれも徒に進軍せず陣を固めておけ。後の仕置きを急げば良いだけじゃ。焦るでないぞ。儂が行くまで待っておれ。』

 書状を読み終え、何度同じような内容を目にしただろうかとまた溜め息が漏れた。

 中々出陣出来ない安土の状況に対して、異常な勢いで進軍する信忠軍。

 河尻も信長の書状も必ず冒頭は兄の名前から始まっているのにはほとほと慣れた。

 「そなたの兄にも困ったものじゃ!血の気の多い奴め!此度の書状で嗜めても猶、聞かねば──」

 乱法師も力丸も思わずはっと顔を強張らせる。

  「そなたが書状を書いて兄を諌めよ!」

 「──えっ?えええ!そ、そ……」

 万民に畏れられる主の忠告すら無視するのに、弟の言う事を聞くとは思えなかった。

 「何をそんなに驚いておる。儂の言う事も河尻の言う事も聞かぬのならば、そなたが諌めるしかなかろう。」

『そういうものであろうか?』

 乱法師は身体を固くした儘首を傾げる。
 
 だが所詮無駄と分かっていても、これ以上、主と老臣を怒らせるのは危険と感じ、震える手で長可に文をしたためた。

────
 
 その頃、駿河の江尻に配備されていた武田勝頼の義兄、穴山梅雪が、徳川家康の調略により寝返った。

 甲斐の府中に人質となっていた穴山の妻子を雨夜に紛れて救い出した。

 度重なる親族の離反に為す術なく、勝頼と従兄の信豊は、諏訪の上原の陣から新府城に撤退を余儀なくされた。

 父の代からの家臣、親族にまで裏切られ徐々に追い詰められて行く心情はいかばかりか。

 織田勢の信州への進軍を聞いた時点で、勝頼は武田家の命運が尽きたと覚悟していたかもしれない。

 負け戦と分かっていても、共に戦ってくれる家臣がいれば、どれだけ心強く気持ちを奮い立たせる事が出来ただろう。
 穴山の裏切りは、勝頼の心に痛烈な打撃を与えた。

 何よりも辛いのは、信じていた者に裏切られる事かもしれない。

 穴山梅雪を案内役として、徳川家康が甲斐への侵攻を開始した。

─────

 さて、酒に酔わせて信忠を悪の道に誘い込む事に成功した長可は、信忠を焚き付け飯島までの進軍の途上にあった。

 「全く大丈夫か?御大将にこんな事をさせちまって。まぁた安土から言われるぞ!この前の書状で何度目だ?」

 長可程積極的に悪事を犯す訳ではないが、信長の忠告に猛省している様子が全くない同じ穴の貉の団平八は言った。

 「大丈夫も糞もねえ!大嶋城で爺共と待ってるだけなんて息が詰まるだけじゃ!」

 信忠は長可の強い助言に従い、河尻と毛利には大嶋城での駐留を命じ、飯島まで進軍し陣を張る事にした。

 長可は特に自分を目の敵にしている目障りな老臣二人を体よく追っ払えて心が晴々としていた。

 間違った事を言った訳ではない。
 
 とりあえず飯島に布陣し、高遠城攻略の為に、信長からしつこく指示された『繋の城』を構築すべしと説得したのだ。

  繋の城には目的別に、防衛、連絡、攻撃用とあるが、攻め手側なのでこの場合は主に攻撃用として築城し、信長の到着を待つということになる。

 本当に今、繋の城が果たして必要なのか。

 これは繋の城を築かせるという手間のかかる仕事を与えて、血の気の多い二人を先に進ませないようにする信長の策略ではないのか。

 だが自身で書状に書いている通り、信長が中々出陣しないから悪いのであって、順調に勝っている軍勢の動きを邪魔をするような指示ばかりで、結局一体誰が一番我が儘なのか。

 「掘っ立て小屋の一つも建て、繋の城を構築したと報告すれば、上様の御指示に従ったように見えるかと存ずる。どのみち今更出陣されても、ここまで参られる時には戦は既に終わっておりましょうぞ。安土から一歩踏み出す口実を与えさえすれば十分かと。勝頼さえ健在ならば高遠城は攻め落としても臍を曲げられる心配はござらぬ。」

 所々に不敬極まりない言葉がどうしても混じってしまう長可の提案である。

 「だが──さすがに高遠城を勝手に攻めるのは、まずかろう。説得して降伏すれば良いが…」

 「無論、勝手に攻めよとも降伏を促さないとも申してはおりませぬ。せっかく飯島に陣を張ろうというのでござるから高遠城を偵察し、その上で御判断されるが宜しかろう。」

 「うむ、降伏してくれるのが一番じゃが。全軍を進ませる前に先ず偵察じゃな。かなり堅固な城と聞く。降伏せずに攻めるとなれば、繋の城を築き長期戦に及ぶ事も考え、父上の御指示を仰いだ方が良かろう。」

 正しい事を言っているように聞こえるが、どこか弱気な信忠の意見である。

 「殿!では先を急ぎましょうぞ。そういえば、忍びに探らせていたところ松姫は──」

 長可の声は心なしか大きくなり、信忠は『松姫』という言葉に強く反応してしまう。

 「松姫がどうしたのじゃ!」

 長可はにやりと笑い言った。

 「松姫は高遠城にはおらぬそうです。兄の五郎(仁科盛信)が逃がしたとか。五郎の娘と四郎(勝頼)の娘も連れて甲府に向かっておるらしいですな。」

『何じゃと?これで心置き無く攻められるではないか。』

 総大将として甘い考えは捨てねばならぬ事は重々承知しているが、松姫がいるであろう城を攻めたい訳がなかった。

  若い信忠とて勝ち戦に逸る心は抑え難い。
 
 だが愛しい松姫は仁科盛信の同母の妹故に、高遠城で庇護されていたのだ。

 高遠城から松姫が既に避難しているという情報は、信忠にとっては喜ばしい知らせだった。

 そう思うのは無理からぬ事ではあったが、これから討ち取ろうという相手が先日まで松姫を庇護していた優しい兄であるという事は、脇の脇に置いておかねばならない。

 長可の言葉で心の奥深くにあった痼《しこり》が取れ、力強く進軍しようという気持ちが湧いてきた。

 長可は信忠の尻を叩く事にまたもや成功し愉快だった。

 飯島に向かう途中の道々で民百姓が織田勢に協力すると申し出てきた。

 武田勝頼は新たに税や労役を課したり、大した罪でなくても磔刑に処したり横暴残虐であるから、是非織田軍の為に力を貸したいというのである。

 こうした事は良くある事だった。

 勝頼が実際横暴残虐であったかは定かではないが、民にまで裏切られた事だけは確かだった。

 
 「のう、降伏すると思うか?」

 夜の陣中で平八が長可に声を掛けた。 
 旧暦で、もう二月も終わりの頃。

 西国ならば桜が咲いてもおかしくない時節だが、信州では蕾が開くのはまだ先の事だろう。

 「──いや。」

 長可はきっぱり言い切った。

 「何故、そう思う?」

 「娘と松姫を逃がした。それに大嶋城が落ちた事も穴山が寝返った事も耳に入っている筈じゃ。逃げる奴等は進軍するだけで逃げて行く。飯島まで軍を進めても、向こうからは寝返る様子も逃げる様子も伝わってこない。それどころか──」

 「それどころか?」

 木々の黒い影が激しくざわめいた。

 「奴(仁科盛信)はやる気じゃ!伝わってくる。奴の怒りと決死の覚悟がな!負け戦と分かっていても向かってくる奴は手強いぞ!今度こそ命懸けの死闘になる!」

 長可はぶるっと身を震わせた。

 「気が早いな!もう武者震いか?」

 「いや、寒い……」

 そう言うと、長可は懐から折り畳んだ紙を取り出して眺めた。

 「何じゃそれは?ああ、娘の──」

 娘のおこうの手形を戦場では必ず肌身離さず忍ばせていた。
 
  もう少し幼い時には顔に墨を塗って紙を押し付け顔形を取っていたが、今そんな事をすれば怒って口を利いてくれなくなる為手形で我慢している。


───せめて娘だけは──

 負けを覚悟したら、やはり己もそう思うのだろうか。

 武家の男子など、生まれた時から命は無いものと諦めてくれ、母に対してはそう思っている。

 森家は武家の名門。
 それを誇りとして育てられながら、その現実も理解している。

 父が討ち死にして十三歳で家督を継いだ時に、既に人として生きる事を諦めたのかもしれない。

 武士の誇りと所詮取り繕ったところで獣と何が違うというのか。

 獣は喰い喰われ、命のやり取りを永久に繰り返し、螺旋のようにぐるぐる巡っていくのが運命。

 武士であるという事は、因果応報の螺旋の中に身を置くという事だ。

 武田の命運は尽きたが、滅びゆく武田とて弱き者共の血肉を喰らい、それを糧に領土を広げてきたのだ。

 武士であるという事は、己もまた喰われ何者かの血肉になる運命を受け入れる事だ。

 武士であるという事は、闘い殺生を生業とする事。

 生業ならば、獣のように女子供の命を奪う事に躊躇などあろう筈がない。

 鷹が捕らえた雛鳥を生きた儘貪り喰らう事に躊躇などあろうか。

 だが人ならば、人の心を持つならば──
 弱き者に手をかける事を躊躇うのが人なのだ。

 女子供を殺すという事は、人の心を捨て獣に成る事だ。

 武家の名門であるという事は、長きに渡り殺し合いを続けてきたという証。

 森家の家督を継ぐという事は、殺された者達の恨みを背負い、己も殺し殺される宿命をも背負うという事だ。

 この因果応報の螺旋は、武家の男子だけに課せられるものではなく、その母、姉妹、娘をも巻き込んでいくは必定。

 螺旋から逃れたければ武士を辞める他あるまい。


 長可は敵を殺める時、一匹の獣と化す。

 獣として死に往く者の鼓動を聞き、肉の震えと体温を感じ、断末魔の呻き声を耳元で聞く。

 奪う者と奪われる者が表裏一体の世界では、その瞬間憎しみよりも、誰よりも敵に親しみを覚えるのかもしれない。

 獣として命を奪うという事は、当に相手の血肉を己の糧とし、相手と一体化する事だからだ。

 武士とは、生まれながらに業を背負う、憐れな生き物だ──

  勝頼の娘と己の娘を松姫に託して落としたのは、敵の総大将と妹が恋仲である事を知っているからに違いない。

 信長も逃げた幼い娘まで探し出して殺させはしないだろうが、いざとなったら松姫が二人の娘の命乞いをする手筈になっているのだろう。

──それでも、せめて娘だけは──か。

 
 高遠城は三方が険しい山に囲まれ、麓の西から北には富士川が流れ、後ろには尾根が続き、天然の要害で守られた非常に堅固な城である。

 乱世の城は大抵山城で、堅固、難攻不落と評されるのが当たり前なので特別動じる事ではない。

 今、信州に集結した面々は皆、難攻不落と言われた城が落城するのを何度も目にしてきた。

 ただ、村里から城に至るまでの三町余りの経路は、馬が通るには難所続きで、母衣衆を引き連れ高山に登り偵察していた信忠は頭を抱えた。

 下には大きな川が流れ、上から行こうにも高い山が聳《そび》え、崖際に進もうとすると馬が一騎ずつしか通れない。

 ここで役に立ったのが織田方に寝返ったばかりの小笠原信嶺と地元の民百姓達だ。

 地の利に詳しい彼等は川に浅瀬がある事を知っていた。

 城までの突破口は見つかった──
 信忠は、待て待てとそればかりの父親は当てにせず、軍勢を貝沼原に集結させた。

 集結した軍勢は五万近くはいただろうか。

 降伏を先ず勧めてみるつもりだが、戦となれば武田勢を遥かに凌ぐ兵数での力攻めとなるだろう。

 問題は、死ぬ気で向かってくる敵に対して、大将級の士気の高さを織田軍の足軽達に求められないだろうという点だ。
 
 織田の足軽達は生きて帰る気満々だからだ。

 それでも高遠城に籠る城兵は情報によると精々三千。
 対する織田軍はその十倍。

『無駄かもしれぬが開城を促すべし。』
 
 戦を避けられるならそれに越したことはない。
 
 信忠は地元の僧侶に降伏を促す書状を持たせ、高遠城に遣わした。

 書状の内容はこうだ。

『武田勝頼は不義を重ねてきたので討伐する。木曾、小笠原も降伏し、飯田城、大嶋城まで戦わずして落城したのに、未だに城を守っているのは健気なことじゃ。勝頼は昨日、諏訪を退いたぞ。早々に罷り越し忠節を誓うのであれば、所領は望み通りとし黄金百枚を与えよう。』

 高遠城の守将、仁科盛信は静かな面持ちで文言に目を通したが、読み終えると書状を握り潰し、墨と硯の用意をさせた。

 『父、信玄以来、信長に対して遺恨を持ち続けてきた。雪が溶ければ尾張美濃まで進軍し、織田を討伐して恨みを晴らしてやろうかと思っていたところだ。ところが、この城にいたら、そちらから出向いて来たではないか。この城の末端の兵に至るまで、一命を賭して勝頼の恩に報いるつもりじゃ。不当不義の臆病者共と一緒にしないで貰いたい。さっさと馬を寄せて攻めてくるが良い。信玄の代より鍛錬してきた武勇を御覧にいれよう。』

 返書は激しい気迫に満ちていた。

 次々と裏切り逃亡する武田の家臣達に対する憤りと怒り。

 断じて降伏はしない。

 その決意を表すかのように、使者として遣わした僧侶は耳と鼻が削ぎ落とされていた。

 人として武将として、筋を通す盛信が、使者をこのような姿で返した事に、降伏を潔しとせず玉砕覚悟で戦う決死の覚悟を感じ、織田方の武将一同の身体に震えが走った。

 敵の暴挙に対する怒りではなく、同じ武士として、その勇猛で誇りある去就に深い憧憬と感動を覚えたからかもしれない。

 「戦じゃ!高遠城を攻め落とす!!」

 信忠は敵の覚悟と挑発に奮い立ち、声を大にして叫んだ。

 ところが──

 「お、お待ち下されーい!勝手に攻めてはなりませぬ。ここは敵の動きを見ながら、繋の城を築き安土の上様の御指示を!」

 河尻秀隆がまたもや若い総大将の気勢を削ぎに掛かった。

 「黙れ!黙れ!!そちはたわけかっっ!あのような返書を受け、敵の兵を遥かに凌ぐ大軍で挑み少数の敵にかかってこいと挑発され──何が安土じゃあ──寝言を言うのも大概に致せ!!この儘数に勝るこちらから何も仕掛けねば、臆病者と笑われようぞ!父を待っていたなどと知れたら末代までの笑い種じゃあ!!」

 血の気が多いという印象があまりない信忠が、手にしていた軍配を床に叩き付けて怒鳴り散らした。

 河尻は気圧され何も言い返せない。

 「好きなだけ父上に書状を書くが良い!じゃが、父上の返書が届く頃には戦は終わっておろう。進軍じゃ!これより高遠城を攻め落とす!」


────

 その頃安土では──

『また、河尻殿に書状を認めておられる。 此度もまた……』

  「逸るな」という書状を書いている当にその日に、高遠城攻めが始まろうとしているなど微塵も思っていない。

 信長は筆を置くと、また乱法師に書状を渡した。
 
 日付は三月一日だが、安土から信州にすぐ着く訳がないから、河尻が長可達の勇み足について訴え、安土に届き、更に信長が送り返し河尻が手にするとなると内容にかなりの時差が生じてしまう。

 なので、「陣を固めて儂の出陣を待て」と今回も指示を書いたが、陣を固めるどころか既に出撃してしまっているのもやむを得なかった。

 乱法師は読み終えると美しい眉を潜め溜め息を吐き、言った。

 「今頃、中将様の軍勢は大嶋と飯島の辺りに陣を敷かれている頃でございましょう。」

 大嶋や飯島どころではなかった。

 「乱!儂等は三月五日に出陣じゃ!皆に触れを出す!」

 「はっ!いよいよ、御出馬でございますね。」

 乱法師の表情はぱっと明るくなったが、いよいよどころか遅過ぎた──

 
──────

 信忠率いる軍勢は、小笠原信嶺の案内で高遠城に至る道を遮る川の浅瀬を渡り高遠城に迫っていた。

 「各務!そなたの旗指物は凄いのぅ!此度も良い働きを期待しておるぞ!」

 森家の家老、各務兵庫の旗指物が信忠の目に止まった。

 各務兵庫の背中の指物は九尺(2m70cm )もあろうかという程格段に長く、鳥の尾羽を使用した相当派手な仕様となっていた。

 さしづめ、閉じた状態の孔雀の雄の羽を背中に差していたようなものか。

 そんな長い物を背負っていては邪魔だろうと思うところだが、甲冑の意匠はともかく奇抜で派手な物が好まれた。

 戦で指揮をする大将の場合は敵を威圧し、周囲に此処にいるという存在感を示す為でもあったろうし、家臣達からすれば己の武功を大将の目に止まりやすくするという意図もあったろう。

 夜の間に城に迫った軍勢は、三月二日の払暁、大手と搦め手側の二手に分かれ一斉に攻撃を開始した。

 法螺貝が吹き鳴らされ、大手側からは森長可、団平八、河尻、毛利河内守、小笠原信嶺が突撃し、搦め手側からは信忠が攻め掛かった。

 大手口から城兵が出撃し、織田軍と白兵戦が繰り広げられた。

 「漸く骨のある奴等と戦えるぞ!」

  長可は後ろに下がる質ではないので前線で指揮を取りながら、突きまくり斬りまくった。

 返り血を浴びながら大声で下知を飛ばす。
 乱戦となり、お互いに鉄砲や矢が使えなくなった。

 暫し斬り合った後、陣太鼓の合図で高遠城の生き残り兵が城に逃げ込もうとするのを追撃するが、城壁から鉄砲、矢が射掛けられ、橋が上げられ城門は固く閉ざされてしまった。

 寄手側よりも城に籠る守備側の方が戦では有利な為、力攻めをする場合は守備側より三倍以上の兵力が必要とされる。

 織田勢は十倍の兵力を要している為、城に籠る敵をその儘にしておく道理はなかった。

 今度は織田方の陣太鼓の合図で竹束が用意される。

 竹束とは竹で作られた塀状の楯で、その後ろに潜み矢弾を避けながら城壁に近付く事が出来るのだ。

 高く組まれた井楼からは数多の鉄砲の筒が突き出し、城の方角を狙う。

 竹束を盾として堀際まで進むと、渡らせまいと城内から矢と鉄砲による猛攻撃が開始された。

 織田勢は堀を渡ろうとする味方を援護する為に、敵の何倍もの数の鉄砲で撃ち返す。

 眼前が霞む程の硝煙と砂埃が立ち込め、所々で運悪く矢弾に当たった兵達が倒れ、渡ろうとした者達が深い堀に落下していく。

 城兵は必死に防戦するも、数で勝る織田軍は徐々に堀を渡り始め城壁に迫った。

 城門城壁は極めて強固で、鳶口、手斧を使っても容易くは打ち破れない。

 敵の攻撃を受けながら破壊、もしくはよじ登ろうにも、城壁の狭間からの矢弾と上からの石礫の攻撃は凄まじく、死者怪我人が多数出て士気が衰えた為に一旦退かせた。

 「──くっそーー!こうなれば、牛と亀を用意致せ!」

 長可は堅い城門と城壁に苛立ち、命じた牛と亀とは掻楯牛《かいだてうし》と亀甲車という戦道具であった。

 防御と攻撃が同時に可能な『牛』とは、竹束や木の板を楯として三角形の形状の中に兵が入り、下には車が付いているので開いた穴から鉄砲を打ちながら前進出来る。

 亀とは、これまた三角形の楯の中に兵が入り、横には鉄砲を撃つ為の穴が穿たれている所までは『牛』と同じだが、城門を破壊する為に先端から鋭く削った丸太が突き出しているのが特徴だった。

 数で勝る織田勢は、新たな兵を前線に送り込み、竹束、牛、亀で矢弾を避け、敵が城壁から狙うのを井楼から絶え間なく鉄砲を撃ち掛け援護した。

  織田勢の切れ間ない攻撃と圧倒的な兵力、鉄砲の数に圧倒され、高遠城の兵達に疲れが見え始めた。

 亀が城門を破壊しようと何度も後ろに下がっては前に進み衝撃を加える。
 
 城門を破られては大変と、城兵の攻撃がそちらに逸れた隙に竹束の後ろに潜んだ兵達が鳶口、掛矢などを使い壁の破壊を試みる。

 森家の家老、各務兵庫は武勇に優れ、鬼兵庫の異名を持っていた。

 隙を見て素早く城壁をよじ登り、狭間の穴に手を掛け潜り込もうとしたところ、恐ろしく長い指物を背負っている事をうっかり失念していた。

 九尺もある指物が狭間に引っ掛かり、前に進めないのを力任せに抜け出ようとしたところ、群がっていた敵のど真ん中に落下してしまった。

 味方がそれに気付き、慌てて長可に報せる。

 「早く兵庫を援護せよ!儂の後に続けー!」

 亀で何度も衝撃を加えた為、後何度かで開きそうな程城門が軋んできていた。
 
 兵の替えがない高遠城は、城壁をよじ登る織田勢を防ぎ切れずに浸入を許し始めた。

 「おおうおーーりゃあぁーうがぁァぁーーいやーおりゃあくあァっ!」

 落下した各務は無我夢中で槍を振り回して敵を薙ぎ払い倒した。

 漸く城門は打ち破られ、団、河尻、毛利隊も城内になだれ込んだ。

  城門を破壊されてしまえぱ、一気に突入した織田勢には敵わず、高遠城兵は次々と斬り倒されていく。

 累々と横たわる屍は、最早どちらの兵なのか見分けがつかない。

 森長可隊は三の丸に向かった。

 その頃、本隊の信忠は山の尾根から続いた搦め手口から攻撃を加えていた。

 自ら武器を持ち、塀際まで迫ると柵を破壊させ、周囲が止めるのも聞かずに塀の上に登り下知を飛ばす。

 本隊はさすがに士気が高く、総大将自らの前線での指揮に皆ここぞとばかりに武功を競い、馬廻り衆も小姓衆も城壁をよじ登った。

 大手からも搦め手からも突入した織田勢は本丸を目指す。

 長可と平八の隊は敵を斬り伏せながら進み、三の丸に辿り着いた。

 三の丸の櫓《やぐら》に籠った兵達が、ここから先には進ませぬと窓や狭間から鉄砲と矢を射掛けてくる。

 完全に織田方優勢だが、最初から死ぬ気でいる兵程厄介なものはない。

 頑強な抵抗に、生きて帰りたい織田の足軽達はおよび腰になり、戦う振りで雄叫びばかりが勇ましい。

 長可は三の丸櫓の屋根に目を付けた。
 
  城兵の死角に回り込み、兵達を屋根に登らせる。

 城門城壁は中々打ち破れなかったが、屋根はそこまで頑強に造られていない筈だ。

 「打ち破れーー!」

 長可の鋭い下知で、城壁破壊に使用した鳶口や掛矢で屋根を破壊しにかかった。

 屋根に穴が開くと、中にいる者達が丸見えになった。

 まさか屋根を破壊して攻めてくるとは思っていなかった城内の者達は恐慌状態に陥るが、こうなっては長可隊の鉄砲の的でしかなかった。

 一瞬の内に櫓内は阿鼻叫喚の坩堝と化した。

 兵士だけでなく、その妻や子も多数いたが容赦なく撃ち殺す。

 凄まじい絶叫と轟音が鳴り響き、逃げ惑う人々が撃たれて血みどろの屍と化していく当に地獄絵図。

 女子供の悲鳴が止むまで鉄砲を撃ち込ませた。
 
 長可の甲冑は深手を負っているかのように血だらけだったが、全て敵の返り血だった。

 老若男女の屍が積み重なり、壁や床には血飛沫が飛び散る凄惨な屋内に入ると、残兵達を斬って捨て三の丸を制圧し終えるや、今度は二の丸に向かう。

 二の丸には米蔵や兵士達の為の食事を手配する台所などの建物があった。
 
 仁科盛信の言葉通り、末端の兵、女子供に至るまで決死の覚悟で向かってくる。

 台所の窓の隙間から、まだ十五、六歳の小姓と思われる美童が矢を射て織田の兵多数を倒したが、弓が尽きると刀を振り回して敵の中に突っ込んで討ち死にした。

 諏訪勝右衛門の妻は、長刀で敵を七、八人倒すも力尽きて果てた。


 織田勢は本丸に迫り、城主仁科盛信は櫓の狭間から外を眺め終わりを悟った。

 生き残りの兵達は死を覚悟し、己の妻子を引き寄せ刺し殺す。

 「最早……これまでのようじゃな。皆、良う戦ってくれた。今年は花が咲くのを見られなかったのぅ。」

 城兵達が敵勢に斬り込み時を稼ぐ間、仁科盛信はそう呟き、家臣達との別れを惜しむと短刀を腹に突き立て、十文字に掻き斬った。

 享年二十六歳。

 寄手の大将信忠と同い年であった。

 小幡五朗兵衛が介錯をした後、城に火を放ち、高遠城は三月二日に落城した。

  三月三日、高遠城が落城したと聞いた勝頼は新府城を焼き払い撤退した。

 裏切った家臣達から預かった人質を閉じ込め、城と共に焼き殺して後であった。

 人質達の嘆き悲しむ声を背に、引き連れた者達は二百余名。

 そのうち騎馬は僅か二十人程。

 勝頼の正室、側室、子供、付き人といった真に頼りない有り様だった。

 撤退と言えば聞こえは良いが、家臣達から見捨てられ孤立した武田家の人々は、頼る当てのない、既にこの時から死出の旅路であったのかもしれない。

 高遠城が落ちたという報せは直ぐに安土に発っせられた。

 
 信長は、信忠と河尻秀隆に、その三月三日の日付で、また書状を書いていた。

 内容は穴山梅雪が寝返った事や、勝頼が諏訪から新府城に撤退した事など。
 
 やはり時差があるのは仕方ないが数日前の情報である。

 そして大嶋城から飯島に陣を移す事を了承するとあるから、河尻の書状は二月の終わり頃、高遠城に進軍する前に送られ、城が落ちた三月三日に安土に届いたという事であろうか。

 またもやしつこく、これ以上の前進は一切無用であると書いていた。

 自分が直に出馬するから武田など容易く討伐出来るとも書いた。

 
──その頃、信忠は高遠城を落とした勢いに乗り、早くも三日には上諏方に進軍し諏訪大社を焼き払っていた。

 そして、高遠城が落ちたという報せが届くか届かないかという三月五日、明智光秀、細川忠興、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、蒲生賦秀、高山右近、中川清秀等、畿内の軍勢を引き連れ、漸く信長が出陣したのだった。
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