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第一章 誰が駒鳥を隠したか
【009】弾む時間
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「――パ、パスタ!」
「あれ、もう知ってた? ここのも気に入ってくれるといいんだけど」
「前菜もスープも美味しかったし、もう気に入ったわ!」
「カサンドラ、まだ食べてない。評価が早い」
ここは、異国の食事を提供する食堂の個室。賑やかに食事をしているのは、魔女と御使いと公務官という奇妙な組み合わせの三人組――ただし、内ひとりは猫――の客だ。
興奮した夜明け色の魔女が、こんなある種のリラックス状態になるまでには、ほんの少しだけ時間がかかった。
それは少しだけ時間を遡り、夕暮れが薄闇に移り変わる頃。
カサンドラがアーサーに連れられて訪れたのは、日本にあったのなら“トラットリア”の看板を掲げていそうな佇まいの店だった。
四階建ての建物は、大通りに面した赤いレンガ造りの壁に木製の扉で、その壁には立派なロンデル窓。扉枠も窓枠も白く塗られたもので、暖かく清潔な印象が強く残る。
扉の隣にある立看板には、本日提供できる主な料理が解説付きで書かれていて――つまり、文字を読める層を主に相手にしている店なのがわかる。
町の規模を考えるに、主に利用するのは湖に来た観光客か。加えて、ある程度の学を持つ町の庶民がちょっとした贅沢をするときに使うのかもしれない。
旅の途中なため特に服の用意などしてこなかった状態もあり、ドレスコードが無いとの確認は事前にしていたが、あまりにも普段着のカサンドラは冷や汗をかきそうである。なにせ、カサンドラの自意識は農民なのだ。
「気楽にして大丈夫だよ。異国の食事が出るだけの、普通の食堂だから」
「ええ。常識の違いって怖いと思っているところよ」
「ちょうど個室が開いてたから、御使い様にもゆっくりしていただけると思うし」
「お、そうなんだ。ありがとー」
「それは普通に助かるのだけれど……そうね、ありがとう」
同意者が不在なことに気がついたカサンドラは、諦めて思考を放棄した。
よって、今纏う衣服が自分で縫った作業着ではなく町の仕立て屋が誂えたものであることと、自ら編んだクロッシェ・レースは庶民のお洒落として十分なものである……ということに思い至ることはない。
店に入り、オーナーと軽く挨拶をしてから通された個室は、少人数向けで居心地の良い部屋だった。
キッチンガーデンを兼ねた裏庭に面した壁には、ロンデル窓が当然のように嵌め込まれている。暑い季節の今には使われない暖炉は清潔で、落ち着いた風合いのもの。
照明は動物脂を用いた粗悪なロウソクなどではなく、料理の邪魔にならないように異臭が出ない蜜蝋を使用したものだろう。
店のフロア席では気軽に一品料理を楽しめるらしく、そちらは確かに今のような服装でも良いのだろうが――個室にはコースのセッティングがなされているため、カサンドラは若干の場違い感が拭えない。今すぐ帰宅して一張羅に着替えたい気分で満ちている。
表向きには清貧を謳う神殿で育ったエマは、日常は粗食で過ごしていたが、聖女として食事の作法がきちんと教え込まれている。カサンドラとて貴族と食卓を共にすることが稀にあるので、作法に問題はない。ただ、慣れないから下手な気を使って疲れるだけで。
とはいえ、前菜はカジュアルな盛り方で、アスパラガスのポタージュがハンドル付きのスープカップで供されたところ、カサンドラの肩へ余計に入っていた力は抜けた。このイタリアに似た雰囲気がある異国の正式な作法は不明だが、少なくともガチガチのフルコースではないように思える。
なお、食前酒と共に供された前菜はアンチョビと塩漬けオリーブのブルスケッタ、チーズと生ハム。これらにもイタリアのような気配がするし、加工食品とはいえ久しぶりの海鮮にカサンドラは感動した。
「アンチョビって、個人でも手に入れられないのかしら……」
「あれは、どうだろう……仕入れ量の問題で特定の貴族家にしか卸してない輸入品も多いから……」
食事の合間にアーサーから話を聞いてみれば、ここはハーティ・ベル商会が出資をしていた店だった。
昔、売りたい品を探して異国を渡り歩いていたアーサーの祖父が、とある国の政変のゴタゴタに巻き込まれかけた。そして、そこの国で厳しく管理されていたはずのガラス職人の一部を、政変のゴタゴタに紛れて保護という名の引き抜きをし、家族ごとこの国に引っ張ってきたのがグラスベルの始まりなのだという。
けれど、ゴタゴタに振り回されて疲れ果ててしまった職人一家がガラス製造から離れ、心機一転思い切って開いた食堂がこの店……ということらしい。そんな経緯もあり、この店にはその国の輸入品が優先的に回されることがあるということだ。
この話を聞いたカサンドラは、よくそのままガラス産業を定着させられたなと思ったが、アーサーの祖父が保護しなければ彼らが殺されていたような状況だったというので、当時は相手国が些細な外交案件どころではなかったのかもしれない。
そんな何とも言えない話を聞きつつ、次に供されたパスタ料理に興奮したのが――カサンドラである。
この国では、主食といえばパンか麦粥であって、パスタ料理を食べたければ自分で作るしかなかった。カサンドラは、自分以外が作るパスタ料理に飢えていたのだ。
カサンドラの前に現れたのは牛豚の合挽き肉とパンチェッタをたっぷり使ったラグー・ビアンコ。もちもちのフェットチーネに野菜の旨味が凝縮されたミートソースの絡む逸品である。
「カサンドラさんのキッチンに、知っている瓶詰めがいくつかあったから、異国の料理が好きなのかなと思ったんだけど……良かった」
「ええ、もう、とても美味しい! ありがとう、アーサーさん」
「うんうん、うまいぞこれ」
エフィストも、ショートパスタを更に小さく切ったラグー・ビアンコをはぐはぐと掻き込んでいく。猫が美味しそうに食事をする光景は和むのか、それとも単に気に入ってもらえたことが嬉しいのか、アーサーは頬を緩めてエフィストを見ている。
その気持ちがよく理解できるカサンドラは、今度はアーサーにカルボナーラでも作ってみようかと頭の隅に入れながら、ゆっくりと残りの料理を口に運んだ。
「――お、アマレッティじゃん」
セコンド・ピアットのない気楽なコースを楽しんだ後は、食後酒ではなく珈琲と焼菓子がテーブルに並んだ。エフィスト曰く、焼菓子はビスコッティ・アマレッティ……に似た菓子である。
他の料理も含め、存在する材料がほぼ同じなら、異世界でも同じような料理や菓子が生まれてくるらしい。
「これは……見た目だけなら昨日カサンドラさんからいただいた菓子と似てるように感じましたけど、味も食感も全く違うんですね」
「そりゃぁ、材料も作り方も全然違うからなー。こっちのはアーモンドとメレンゲで――――――」
アーサーとエフィストが、焼菓子談義に花を咲かせている。その楽しそうな声を聞きながらカサンドラがカップを傾ければ、薫り高い苦みが喉を通る。
そうしてふと、店の入口にあった立て看板には、湖魚を使った料理の解説があったことを思い出した。そちらの料理も気になってきたことだし、この仕事が終わったら帰りがけにまた寄れないかとぼんやりと思案する。
とはいえ、結局は状況次第なので予定は未定のままでしかない。それでも、カサンドラは弾む会話を耳に入れながら、叶えたい予定に思いを馳せた。
「あれ、もう知ってた? ここのも気に入ってくれるといいんだけど」
「前菜もスープも美味しかったし、もう気に入ったわ!」
「カサンドラ、まだ食べてない。評価が早い」
ここは、異国の食事を提供する食堂の個室。賑やかに食事をしているのは、魔女と御使いと公務官という奇妙な組み合わせの三人組――ただし、内ひとりは猫――の客だ。
興奮した夜明け色の魔女が、こんなある種のリラックス状態になるまでには、ほんの少しだけ時間がかかった。
それは少しだけ時間を遡り、夕暮れが薄闇に移り変わる頃。
カサンドラがアーサーに連れられて訪れたのは、日本にあったのなら“トラットリア”の看板を掲げていそうな佇まいの店だった。
四階建ての建物は、大通りに面した赤いレンガ造りの壁に木製の扉で、その壁には立派なロンデル窓。扉枠も窓枠も白く塗られたもので、暖かく清潔な印象が強く残る。
扉の隣にある立看板には、本日提供できる主な料理が解説付きで書かれていて――つまり、文字を読める層を主に相手にしている店なのがわかる。
町の規模を考えるに、主に利用するのは湖に来た観光客か。加えて、ある程度の学を持つ町の庶民がちょっとした贅沢をするときに使うのかもしれない。
旅の途中なため特に服の用意などしてこなかった状態もあり、ドレスコードが無いとの確認は事前にしていたが、あまりにも普段着のカサンドラは冷や汗をかきそうである。なにせ、カサンドラの自意識は農民なのだ。
「気楽にして大丈夫だよ。異国の食事が出るだけの、普通の食堂だから」
「ええ。常識の違いって怖いと思っているところよ」
「ちょうど個室が開いてたから、御使い様にもゆっくりしていただけると思うし」
「お、そうなんだ。ありがとー」
「それは普通に助かるのだけれど……そうね、ありがとう」
同意者が不在なことに気がついたカサンドラは、諦めて思考を放棄した。
よって、今纏う衣服が自分で縫った作業着ではなく町の仕立て屋が誂えたものであることと、自ら編んだクロッシェ・レースは庶民のお洒落として十分なものである……ということに思い至ることはない。
店に入り、オーナーと軽く挨拶をしてから通された個室は、少人数向けで居心地の良い部屋だった。
キッチンガーデンを兼ねた裏庭に面した壁には、ロンデル窓が当然のように嵌め込まれている。暑い季節の今には使われない暖炉は清潔で、落ち着いた風合いのもの。
照明は動物脂を用いた粗悪なロウソクなどではなく、料理の邪魔にならないように異臭が出ない蜜蝋を使用したものだろう。
店のフロア席では気軽に一品料理を楽しめるらしく、そちらは確かに今のような服装でも良いのだろうが――個室にはコースのセッティングがなされているため、カサンドラは若干の場違い感が拭えない。今すぐ帰宅して一張羅に着替えたい気分で満ちている。
表向きには清貧を謳う神殿で育ったエマは、日常は粗食で過ごしていたが、聖女として食事の作法がきちんと教え込まれている。カサンドラとて貴族と食卓を共にすることが稀にあるので、作法に問題はない。ただ、慣れないから下手な気を使って疲れるだけで。
とはいえ、前菜はカジュアルな盛り方で、アスパラガスのポタージュがハンドル付きのスープカップで供されたところ、カサンドラの肩へ余計に入っていた力は抜けた。このイタリアに似た雰囲気がある異国の正式な作法は不明だが、少なくともガチガチのフルコースではないように思える。
なお、食前酒と共に供された前菜はアンチョビと塩漬けオリーブのブルスケッタ、チーズと生ハム。これらにもイタリアのような気配がするし、加工食品とはいえ久しぶりの海鮮にカサンドラは感動した。
「アンチョビって、個人でも手に入れられないのかしら……」
「あれは、どうだろう……仕入れ量の問題で特定の貴族家にしか卸してない輸入品も多いから……」
食事の合間にアーサーから話を聞いてみれば、ここはハーティ・ベル商会が出資をしていた店だった。
昔、売りたい品を探して異国を渡り歩いていたアーサーの祖父が、とある国の政変のゴタゴタに巻き込まれかけた。そして、そこの国で厳しく管理されていたはずのガラス職人の一部を、政変のゴタゴタに紛れて保護という名の引き抜きをし、家族ごとこの国に引っ張ってきたのがグラスベルの始まりなのだという。
けれど、ゴタゴタに振り回されて疲れ果ててしまった職人一家がガラス製造から離れ、心機一転思い切って開いた食堂がこの店……ということらしい。そんな経緯もあり、この店にはその国の輸入品が優先的に回されることがあるということだ。
この話を聞いたカサンドラは、よくそのままガラス産業を定着させられたなと思ったが、アーサーの祖父が保護しなければ彼らが殺されていたような状況だったというので、当時は相手国が些細な外交案件どころではなかったのかもしれない。
そんな何とも言えない話を聞きつつ、次に供されたパスタ料理に興奮したのが――カサンドラである。
この国では、主食といえばパンか麦粥であって、パスタ料理を食べたければ自分で作るしかなかった。カサンドラは、自分以外が作るパスタ料理に飢えていたのだ。
カサンドラの前に現れたのは牛豚の合挽き肉とパンチェッタをたっぷり使ったラグー・ビアンコ。もちもちのフェットチーネに野菜の旨味が凝縮されたミートソースの絡む逸品である。
「カサンドラさんのキッチンに、知っている瓶詰めがいくつかあったから、異国の料理が好きなのかなと思ったんだけど……良かった」
「ええ、もう、とても美味しい! ありがとう、アーサーさん」
「うんうん、うまいぞこれ」
エフィストも、ショートパスタを更に小さく切ったラグー・ビアンコをはぐはぐと掻き込んでいく。猫が美味しそうに食事をする光景は和むのか、それとも単に気に入ってもらえたことが嬉しいのか、アーサーは頬を緩めてエフィストを見ている。
その気持ちがよく理解できるカサンドラは、今度はアーサーにカルボナーラでも作ってみようかと頭の隅に入れながら、ゆっくりと残りの料理を口に運んだ。
「――お、アマレッティじゃん」
セコンド・ピアットのない気楽なコースを楽しんだ後は、食後酒ではなく珈琲と焼菓子がテーブルに並んだ。エフィスト曰く、焼菓子はビスコッティ・アマレッティ……に似た菓子である。
他の料理も含め、存在する材料がほぼ同じなら、異世界でも同じような料理や菓子が生まれてくるらしい。
「これは……見た目だけなら昨日カサンドラさんからいただいた菓子と似てるように感じましたけど、味も食感も全く違うんですね」
「そりゃぁ、材料も作り方も全然違うからなー。こっちのはアーモンドとメレンゲで――――――」
アーサーとエフィストが、焼菓子談義に花を咲かせている。その楽しそうな声を聞きながらカサンドラがカップを傾ければ、薫り高い苦みが喉を通る。
そうしてふと、店の入口にあった立て看板には、湖魚を使った料理の解説があったことを思い出した。そちらの料理も気になってきたことだし、この仕事が終わったら帰りがけにまた寄れないかとぼんやりと思案する。
とはいえ、結局は状況次第なので予定は未定のままでしかない。それでも、カサンドラは弾む会話を耳に入れながら、叶えたい予定に思いを馳せた。
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