フジの数え歌

小烏屋三休

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 翌日は日曜日で、二人は仕事を休むことにしている日だった。フジは引き続き、ニッキが魔法の古本屋で仕入れた本で勉強をするはずだったが、ついつい、人からもらったジグソーパスルを出しては、一から作り始めてしまった。そのパズルは雪景色の森の中に鹿が佇んでいるもので、とても気に入っていた。秋の谷では見たことがある雪だが、ここ霧の国は暖かいので、雪が降らない。
 パズルの外枠を半分ほど仕上げたところで、開け放した二階の窓から、誰かが家をぐるり取り囲むススキを掻き分けて、家の方へ近づいてくる音がした。窓から身を乗り出すと、古い埃だらけのマントをまとった若い男、ニタカの側近の捨助だった。フジは二階から大きな声を出した。
「やぁ、久しぶり。元気にしてる?兄様もお元気かしら」
 捨助は律儀に膝をついて挨拶した。マントが土の上に広がる。ぼろぼろではあるが、ニタカの紋章である鷹の刺繍が首元にさしてある、立派なマントだ。
 フジが階下に降りると、ニッキが、襟足の後れ毛を気にしつつ、捨助を出迎えているところだった。
 玄関口にフジを認めると捨助は挨拶の口上を述べようとしたが、フジの様子に不意を突かれて、一度開いた口を閉じた。もう十時になろうとしているのにフジはまだしわくちゃの黄色い寝間着のままで、髪も梳かした様子がない。髪にも顔にも埃のようなものをふわふわとまとっている。真夜中に訪問してしまったような気おくれを感じたが、すぐに気を取り直し、かしこまった所作で頭を垂れた。僧侶の読経のような重々しさで秋の谷の挨拶の文句を述べる。
「……。姫様におかれましてはつつがなくお過ごしのこととお喜び申し上げます」
「はい、ありがとう。さ、ニッキもいるし、香る国の言葉でしゃべろう」
「お気遣い恐れ多く、もったいないことでございますが、いつも通り、お言葉に甘えさせていただきます。さて、この屋敷もずいぶん痛んでまいりましたね。ところどころ修理が必要なようです」
「うん、古いからさ。でも、あまり不便はないからこのままでもいいんじゃないの」
フジが受け流そうとすると、ニッキがすかさず言った。
「あら、二階の使っていない一部屋の雨漏りがひどいんですの。修理をしていってくださると助かるわ」
「使ってないなら、今のままでいいんじゃない?」
 雨の日には家じゅうの皿をその部屋において雨受けにするが、その音を聞くのがフジは好きだった。
「お言葉ですがフジ様、雨漏りするから使えていないのでございますよ」
「わかりました、やってみましょう」
 捨助は生真面目な顔つきで答えた。この男は秋の谷にいた時分、万巻の書を読み、谷一番の秀才だと評判だった。幼いころからフジは一緒に遊んでもらっていたが、捨助は病弱で、寒風の中フジに連れまわされてはよく風邪をひいて寝込んでいた。赤ん坊のころから兄のニタカの従者と決まっていて、ニタカの香る国への婿入りの際、秋の谷を後にしたのだった。フジは当初は悲しんで、つたない文字で捨助へ手紙を書いたりしたものだ。捨助も慣れない異国で村夫子そんぷうしとそしられる中、その手紙を心の糧に日々精進を重ね、少しずつ体も強くなった。今では大分丈夫になって、こうして時折香る国から長旅をしてきては、フジの様子を見に来る。相変わらずの秀才であったが、繊細な指先は本の項をくることにのみ使われるため、大工仕事のような作業は大の苦手で、内心は大いにたじろいだ。
 ニッキはそんな捨助の心中などおかまいなしに、久しぶりの男手に屋根の修繕以外にも灯りの交換だとか雨どいが垂れ下がっているのを直すことだとかを言いつけている。
「フジ様、お茶を用意いたしました。捨助も、台所にお湯を用意したから、足を洗うといいですわ。たくさん仕事があるけど、まずはお茶を飲んで温まりなさいな。あら、お饅頭まんじゅう。気が利きますわね」
 捨助が背嚢はいのうから饅頭を出そうとしていたのをニッキは覗き込んだ。
「わあい、あたしが開けていい?」
 捨助の眼前にフジの細い首筋が飛び込んだ。フジが捨助の背嚢に飛びつき、中を覗き込んだのだった。首の先には鳥の巣のようになった頭がついていて、その巣には草やクッキーが潜んでいるのが見える。
「どうぞお願いいたします。ニッキ、ちょっと……」
 捨助はフジだけを先に居間に促し、ニッキと二人で台所に行った。二人きりなのを確認すると、捨助は声を潜めて言った。
「姫様は、な、なぜ夜着を着ていらっしゃるのだ」
「あら、そうでした?最近家ではずっとあれだから、もう見慣れてしまいましたわ」
 自分の返答に捨助の澄ました顔が一瞬ぽかんとしたのを、ニッキは小気味よく感じながら見ていた。彼の小ぶりな唇や切れ長の目は秋の谷特有であり、フジにも共通している特徴である。ニッキは自分にはないその特徴を少し羨ましく思いながら、捨助の言葉を気長に待った。捨助はあまり口が達者ではない。これで宮廷では如才なく勤められているらしいから、よくできている。どうも仕事に関することや、ニタカに何かを問われたときなどは滑らかに話す。またフジと話すときも全く問題ない。
 しかしそれ以外の人と、雑談のような話になると、一言一言が遅く、訥弁とつべんになるのだった。とくにつけつけと話すニッキと二人きりになると、つかえたり、声を喉に絡ませることが多かった。
「きち、きちんとお世話して差し、上げないと、お前」
 ようやく言葉を見つけたらしい捨助が言った。
「替えの服がないのです。今日は仕事が休みだから、いつもの服は洗濯中ですもの」
 捨助はまたもや返す言葉につまり、ニッキに詰め寄った。その体が触れんばかりになっているので、ニッキは捨助を押し返して足湯の方にすたすたと歩いて行った。
「い、一着しかないのか」
「そうですわ。こないだもう一着仕立てて差し上げたけれど、もったいながって仕舞い込んでらっしゃるわよ」
 捨助は再びニッキに歩み寄ると、ニッキのほっそりした手に封筒を握らせた。それは毎回捨助が持ってくる、ニタカからのお小遣いという名目の金だった。
「いつもながら、お心遣い、感謝いたします」
 ニッキは改まって封筒を受け取ると、一度頭の上まで持ち上げてから胸に押し抱いた。それは実際のところ、ニタカではなく捨助のお財布から出たものかもしれない。なぜなら、捨助には知らされていないようだが、ニタカにはこちらから家賃を送金しているのだ。家賃を送っているのに、それと同じくらいの額の小遣いをもらうなんて、おかしな話だ。いっそ、家賃はもういらないよと言ってくれたら手間もかからないのに!それとも、小遣いをくれたことをありがたがってほしいのだろうか。いや、ニタカは誰かに対して、特に恩を売って偉ぶるというところはなさそうだ。ただフジも同じだが、理屈が通らないことを悪びれずにする傾向があるから、なんとなく気が向いて小遣いをくれているのかもしれない。一緒に育った期間が短くとも、そういうところは兄妹で似ていた。
 とにかく出所は誰の懐かわからないそのお金を大事に戸棚にしまい、捨助に足湯を促した。捨助は足を洗いながら、なおも続けた。
「そ、その金で、もっと服を作って差し上げろ。食事も、もっと。あんな、な、に痩せてしまって」
「その言葉、そっくりあなたに返しますわ」
「ひ、姫様のことを話している。来年は十六歳で、成人なの、に、いつまでも、まるで童女の姿のまま、ままま」
「善処するわよ」
 ニッキの言葉に、捨助は苛立たしげに手ぬぐいを自分の膝に打ち付けた。潜めた声が裏返る。
「善処ではない。か、必ず作るのだ!」
「そんな時間もお金もないのよ!異国で生きるのって大変なのよ。今必要な分だけそろえるのに精いっぱい!大きな声出さないで!」
 ニッキも負けじと、纏っているエプロンを自分の腿(もも)に向かってはたいた。二人でにらみ合う。居間でフジが饅頭の包装紙をばりばりと破く音が聞こえた。
「か、髪を梳いたり、顔を洗ったりするの、に、たいして手間や金はかからん」
「両方きちんとしてるわよ。その上であれなの!」
「嘘だ!髪の毛に食べ物やら何やら入っていたし、ほんの少々、まったくかすかではあるが、み、妙な臭いもする。い、いつから、ゆ、ゆゆゆゆあ、ゆゆ」
 捨助は口ごもりながら耳まで赤く蒸気させた。一体何を想像して興奮しているのかしら、とニッキはため息をついた。
「湯あみ、でしょ」
「そ、それ、をなさっていないんだ」
「髪の毛は、わたくしも驚いたわよ」
 クッキーは、二週間も前に焼いたきりだ。バターが少なくぽろぽろとしていたが、フジは大喜びで、大切に食べていた。大方、机の引き出しの奥などにいくらかとっておいて、思い出しては一人で食べていたのだろう。変なところで神経質なくせに、変なところで不潔な姫である。こういうことは前からあって、もとは一国の姫がと思うと、初めのうちはニッキも胸を打たれたのだが、何度も続くと胸も打たれ強くなって、またやっていらっしゃるわ、あーららお腹壊しますよ、程度の気持ちになるのだった。
「今朝、きちんとお髪を梳かして差し上げたわよ。でも日焼けしてとても乾燥してるし、どこにでも寝転がるもんだから、すぐにこんがらがっちゃうのよ」
 顔中についていたあれは、埃ではなくて剥がれかけた皮かもしれない。捨助は自分の額を両手で包んで、深いため息をついた。
「しかし、お前はいつもきれいにしているではないか」
「えっ?」
 ニッキはぎょっとして捨助を見つめた。捨助は足をたらいに突っ込んだまま、うなだれている。
「お前がしているように、姫様もきれいにして差し上げればよいではないか。お前が手を抜いているとは思わないが、どうして姫様ばかり真っ黒で乾燥しているのだ」
「それは、それは、フジ様は洗濯物のバイトで日がな外に出ていらっしゃるからよ。いきなりなんてこと言うのよ」
 捨助は顔をあげ、うつろな目でニッキを見つめた。ニッキは顔が紅潮してくるのを感じて、顔をそむけた。この男、わたくしのことをきれいですって?お役目一筋で、そういう考えは持たない種類の人間かと考えていたのに。
 フジが、「先に食べていーい?」と大声をあげたので、ニッキは鼓動を強める胸を軽く叩いて落ち着かせ、そそくさと居間へ向かった。
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