フジの数え歌

小烏屋三休

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十七

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 この船は慢性的な人手不足で、小間使い、料理人、大工、航海士や機関士といったような隔てはざっくりとあるものの、皆が持ち回りでいろいろな仕事をしなければならないようだった。
 フジが次に行ったのは船の帆を縫う下甲板だった。ブツというモヒカンの中年男がすでに作業をしていて、船の揺れが荒いだとか、食事が昔より粗末だとか、しきりに文句を言っている。本当はオリバーという名前なのだが、いつもぶつぶつ独り言を言っているので、ブツと呼ばれているという。
 ヒューが小声で、
「ブツは魔法使いが大嫌いなんだ。口のきき方に気をつけろよ。あんまり強くはないんだけど、怒ると見境がないんだ」
 フジはもうこれ以上殴られるのはごめんだと思い、余計なことは言わずにいようと決めた。
「おい、お前が遅えから、波と話をしてたんだ。早く座りやがれ」
 こそこそとしていると、ブツが自分の隣を指さしながら、唾を飛ばして怒鳴った。
 ヒューとフジは座って、しばらくはヒューがところどころ指示を出す以外は静かに作業をしていた。帆布は固く、一針一針を通すのにてこずっていると、やがて男がフジのことをじろりと上目づかいに見た。
「お前さん、魔女見習いだろ」
「いや、違います」
 フジが否定すると、「嘘つくない!」とブツが帆を力任せにひっぱった。フジはひっぱられた途端に針を自分の指に突き刺してしまい、さっと指を口に運んだ。咎めるようにブツを見ると、ブツは謝るどころか、ぎょろめを剥いてフジをにらんでいるので、慌てて目を伏せた。
「こちとら知ってんだよ!魔法を使う奴らってのは本当に信用ならねぇ。俺が思うに、そのねじれた心根をなんとかしないうちは、きちんとした水の石なんてできるようにはならんのさ」
「ブツ。口のきき方にご用心!魔女様のことを言うんなら、一人っきりのトイレでやっつくんなよ」
「魔女について言ってるんじゃねぇ。魔法使いさあ!まったく小賢しい!」
 ヒューは手を胸にあててまじないを口ずさみながら、ひじでフジをつつくので、フジも、はい、と頷いた。
「ごめんなさい。あたしは魔女見習いです」
「へん、最初から素直になりやがれ。その調子でしっかり修行して、とっとと水の石を作ってくんな。なんせ俺らの最終目標は、お宝どっさりの秋の谷を浮かび上がらせることだからな」
「……秋の谷を?」
 フジの声音がこれまでと一変したのを感じ、ヒューは「おや?」という顔をしたが、ブツは帆を縫いながら続けた。
「そうよ。出来のいい水の石があれば、浅瀬のしけた国なんか浮かび上がらせなくても、簡単に緋の国の王都やら、秋の谷やらを狙えるんだ。やっぱりそういうところじゃないと碌な財宝はないのよ。気味の悪い魔女にさんざん貢いだ代わりにもらった水の石で、貧民窟を浮かび上がらせたって何にもなりゃしねぇ。赤字も赤字、大赤字さね。でも、王都に行くまで順繰りに貧民窟の方から浅くしていかないと、精霊ってやつは荒ぶって手におえないんだもの。やってらんねぇや」
「いきなりどまんなかを浮かび上がらせられたら、がっぽり儲かるのになぁ。ほんと、やってらんないね。船長も実際、いやになってんじゃないのかと俺は思うことがあるぜ」
「そりゃ、そうだろう。沈んだ土地のお宝なんて、はなから狙わなきゃよかったと後悔してるだろうよ。だが魔女と契約しちまったんだ、今更反故ほごにすることもできめえ。一生、せこせこ働かなきゃならんのだ。船長も若いのに、もう終わりだな。あのおっそろしくがめつくいババァ魔女にいつか食い殺されちまうぜ。でも、さ。俺さ、船長がだめになったら、ウパースの港の家はどうにかして俺がもらっちまいたいと思ってんだ。そんときはおめえ、協力しろよな」
「あんなぼろ屋を?あ、そうか、目当てはあのぼろ屋にへばりついてるおばちゃんか。あんた、あの女にこだわってたもんな。でもあんな性悪の年増、言えば今すぐにでも熨斗のしつけてもらえるんじゃないのか。少なくとも俺だったらそうする。なんかげんが悪いもの。そもそも、船長はどうしてあんなのに手を出したんだ。なんか弱み握られてるのかしら。あのおばちゃんに対してだけは、捨て際がよろしくないんだもの。よくよくババアに弱い船長だな」
「ガキにはわかるまいよ!」
 ブツは再び顔を紅潮させてヒューを蹴ろうと足を延ばしたが、間にフジがいるので届かない。届かなかったことに腹をたて、もう一度足を延ばしたが、やはりヒューは遠く、その代わりにフジのすねを相当な勢いで蹴ることになった。フジは痛みに息を飲んだ。作業を中断し、足を抱えて痛みが引くのをしばし待たなければならなかった。
 ブツはそれで少し気が済んだのか、再び帆に向かって針をちくちくと動かした。
「なんの。船長だってまだ御執心さ。あの女にもらった手拭きを、いまだに後生大事に使っているからなぁ。ま、この際ウパースの女はどうでもいい。魔女との契約が終わったら、ましな飯が食えるよ。今なんて、沖合でなくても虫入りの固いパンを食わされるんだもの」
「確かに、干し肉も、いつもより衝撃的に臭いよな」
「ばか、ありゃああの臭みがうまいのよ。ただし、女に会う前に食っちゃなんねえ。臭えし、筋が歯に挟まる」
「言ってらぁ。あんたの隙間だらけの歯の、どこに挟まんだよ」
「今回の停泊では、虹の市でいろんな国の果物をたんまり食べようと思ったのに、金も、売るものもなくてなぁ。そういや、ロディオンがワインを一本売ったんだが、バカみたいな値段にしかならなんだらしい」
「へぇ、あいつ、大切にしてた五十年物をとうとう売ったのか?それこそ貧民窟で引き上げたやつだろ」
「そうさ。作られたのは確かに五十年前だが、水の中で時間が止まってたはずだから、どんな味がするかは開けてみてのお楽しみだったやつさ。奴はがめついから、自分で楽しむんじゃなく、売ることにしたんだ。二百年物て、さばまで読んで。ところが、奴が二百年物と言っても誰も信じてくれん。土台、信用のおける顔じゃないんだもの。いくつ食堂を回っても、てんで相手にされない。疲れてへとへとになったころ、ようやくどこかの金持ちが、味見してから値段をつけるっていうもんだからしぶしぶ開けたんだが、犬臭い台所で昨日作った味って言われて、それで終わりさ」
「へぇ。やっぱり金持ちは舌が肥えてらぁ。はっはっは」
「しかしまあ、情けないこった。あーあ。まともに他の船を襲ってたときは、果物なんて食い放題だったんだがなぁ。魔女見習いさんよ、お前さんは気に食わないが、それでも人違いでここまで連れてこられたとなっちゃぁ、災難だわな」
「えっ、人違い?どういうことですか?」
 フジが声を上げると、ブツはしまった、という感じに口を一文字にした。おしゃべりに夢中でつい余計なことを言ってしまった、と思っているらしかった。そして恐ろしい顔をして、「おしゃべりせずに仕事してろい!」と、吐き捨てるように言った。唾がよく飛ぶのは、歯がところどころ欠けているためだろうか。フジはまた殴られたり蹴られるのかと身を竦ませたが、何もやってこなかった。仕方なく帆を縫う作業に戻る。すると、しばらくしてブツが、
「船長はさ、魔女との契約を反故にして、自由な海賊業に戻りたいのさ。気の向くままに海を行く、これが海の人間だもの。魔女に貢物をするためにここらの海だけを行きつ戻りつしても、ちっとも楽しかない。んだもんで、ありったけの金を積んで、どっかの偉い寺に厄払いに行ったのよ。結局、坊さんの力じゃ契約は反故にできなかったが、ありがたいお告げの夢を見たんだよ。虹の市でうろついてる男が、本物の水の石をくれるでしょう。そしたら魔女との契約は終了しますってな。その啓示のあった場所が、市でお前さんの店のあった辺りだったから、てっきりお前さんのことだと思ったのさ。それっぽいガラクタ飾りも持ってたし。ところがお前さんは女だった。船長も人違いだと気づいたときには、がっかりしたろうな。女なんて、めんどくせえものを連れてきちまったもんだってな。そんでもどうにか魔法使いらしいから、とりあえず魔女の島につれてくんだろう。魔女はいつもちゃんとした水の石を渡せない言い訳を、人手不足のせいだと言ってるらしいからな」
 と、再び話し出した。おしゃべりをせずにはいられない性分らしい。
「ブツ、相変わらずあんたは情報通だね」
「波が教えてくれるのよ」
 ぺちゃぺちゃとおしゃべりをしていたかと思うと、突然ブツがうずくまるように顔を隠して帆を縫い始めた。いったいどうしたのかとフジがきょろきょろと辺りを見回すと、積み上げられた樽の影に茶色い人影がある。左目に黒い眼帯をしていて、残った右目がフジの目と合うと、こちらに歩み寄ってきた。
「無駄話ばかりしている!」
 それはナメクジに似た顔をした男だった。似ている、というよりもまるっきりナメクジで、間延びした目鼻立ちを、渦巻く髪の毛で半分隠している。肌は薄茶色で鱗のように凸凹しており、頭から靴の先までしっとり濡れていて、歩いた足跡が点々と染みになった。
 ブツは甲羅にひっこんだ亀のようになっているし、ヒューも帆の影に隠れるようにして作業をしている。一人フジだけが全身をさらしているため、男も自然とフジの目の前で止まり、じろりと見下ろした。
「お前ら、さぼっていたのなら、今日は木曜だがワインはないぞ」
 ぼそりと吐き捨てた。ヒューが「どうせ二百年物のワインじゃないから、いいよ」と呟いた。ブツがひひひ、と忍び笑いをした。男は無言で足元に投げ捨てられているヒューの靴を拾うと、角度を変えつつそれをしばらく確認し、やがて元の場所にきちんとそろえ、「帆を縫うときは靴を脱ぐな」と言い残して立ち去った。
 ほっとして目だけを動かして他の二人を見ると、すでに前と同じようにのびのびした態度に戻っている。
「あー。初日から運が悪いこった」
 ブツが心底がっかりした様子で言った。
「まったく、陰気な奴だよな。おい、フジ、いつまで縮こまってんだよ。あいつだよ、ロディオンてのは。さっき二百年物のワインを売りに行ったまぬけの話をしただろう。航海長だけど、ケチで細かいことまでがみがみうるせぇんだ。このサローチカ号では、あいつにだけ特別気をつけときゃ、まあなんとか楽しい船旅さ。食い物もひどいにはひどいが、虫は栄養、カビは薬と思えばいいのさ。お前さんが魔女の島に着いた後のことは知らんがな」
 二人は注意されたことなど忘れたようにまたおしゃべりをしながら帆を縫っている。
「おっとそうそう、靴、はいとくか」
 ヒューがそろえられた靴に足を入れるやいなや、甲高い悲鳴を上げた。
「畜生!絶対ロディオンの野郎だ!」
「帆クラゲが入ってやがる。油断してるからだぜ」
 脱ぎ捨てられた靴を検分して、ブツが言った。
 痛い、痛いと騒ぐヒューをよそに、フジは今までの疲れがどっと出た気がして、それ以上分厚い帆に針を通すことができなくなってしまった。へたりこんでいると、ヒューは大げさにあきれながらも、部屋の隅っこにぼろ布を敷き詰め、フジをそこに休ませてくれたのだった。
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