フジの数え歌

小烏屋三休

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二十二

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 ニッキは落ち着かない日々を過ごしていた。フジがいなくなってから二週間が経つ。ハーテムに残っていても仕方がないので、とりあえずニッキは一人ウォリウォリに帰ることになったのだった。カリオペ女史たちは海賊に攫われたという見方で捜索を続けるが、自力で逃げ出したとか途中で捨てられたとか、あるいは実は海賊に連れ去られてはいなかったとかの場合も考えて、街中でも警察が捜索を続けるという。しかし女の子一人のためにどこまで本気で探してくれているのか、ハーテムで会ったのっぽの不親切な警官を思い出して、ニッキは胸を曇らせた。
 心配は尽きないが、毎日昼過ぎまでは店を開けていた。噂を聞きつけた近所の人々がときおり様子を見に寄ってくれるが、もちろん誰もフジの行方を知る由はなかった。そうやって店に立ち寄る多くは男性で、ニッキのやつれた姿、いつもきちんとひっつめている髪がほつれていたり、頬が痩せてなまめかしくなったのを見つけては、頬を上気させて扉を出ていった。ニッキは働き者でよく気がつき、器量もなかなかの未婚女性なので、人気がある。
「おはよう、ニッキ。おすそ分けの煮物を持ってきたよ。今日もフジはまだ帰ってこない?」
 宿屋のおかみさんが扉をくぐってきて、よくとおる声で挨拶をしたのだった。
「おはようございます。ええ、まだですの」
「フジのことだから、いつもと変わりなくひょろっと帰ってきそうなもんなのにね。案外、海賊が気に入っちまって、海の上で楽しんでるのかもしれないよ」
「ええ、そうかもしれません」
「逆に、馴染みすぎて帰る気をなくしてるかもしれないくらいさ。きっと元気にしてるよ。警察から連絡はあった?」
「いいえ……」
 フジをかどかわした海賊たちは魔法使いを攫っては、どこかに集めているらしい。そこで航海に必要な魔法の道具を魔法使いに作らせているという。フジが今どこかのアジトに連れていかれているのか、それとも海賊船に乗せられているかは定かではないが、どうやら海賊たちは未踏の航路に挑むらしく、入念な準備をしているという。未踏航路への出発日は、早くても二か月半後の新月の日を目指すのではないかと推測されていた。というのは、新月の日が潮の状態から言って、その航路が一番浅瀬に浮いてくるのだという。二か月半というのは、海賊たちの準備がまだ整っていないようだからだった。
 海賊たちが航路につく前に、どこかの港で海賊たちを捕まえ、アジトの場所をつきとめる、というのが警察の考えだ。アジトの場所についての情報はほぼ皆無で、おそらく精霊に沈められた地域に浮かぶ島ではないかと考えられている。
 警察からは右のような情報しか得られていない。警察の様子だと、二か月半の猶予があるから、それまでに自然になんとかなるかもしれない、なったらいいな、という、やる気のなさが感じられた。
 一方、カリオペ女史属する国連では、つかんでいる情報がもう少し多そうだった。だが詳細についてはまったく教える気がなさそうだった。ただ、こちらは警察ほど悠長に構えているわけでもないというのだけが感じられた。
 宿屋のおかみさんが持ってきてくれた煮物をしまおうとして、ニッキはくんくんとにおいをかいだ。
「甘辛く煮た海藻ですね。フジ様が見たら、大喜びしますのに……」
「でしょ?早く帰ってくればいいのにね」
 そのとき、店に入ってきた人物があった。
 入ってきたのは二人、一人はこの町の人間で、役場に勤めているマーテルという女性だった。もう一人の男はこの町の者ではなく、どこかで見覚えがあるが、思い出せない。でも、フジについて動きがあったのかもしれない、とニッキは身を固くした。
「あー、ニッキ。どうもこんにちは。この度は、大変なことになって……」
 マーテルは丸い鼻にのっかった眼鏡を持ち上げて、そこに溜まった汗を拭き拭き挨拶した。後についてきた男性に、どうぞおかけくださいな、と勝手に椅子を勧めている。男性はしかし、腰かけようとはしなかった。
「よっこいせ、今日ときたら、なんて暑いんでしょ。まぁ、一息ついて、ね」
「あの、フジ様のことですか?」
 ニッキが尋ねた。
「いや、まあね。まずは別件でさ。はあ、暑い。ちょっと何か飲み物を頂けませんかね」
「はい、それはもちろん」
 ニッキがてきぱきとお冷を出すと、マーテルは一気に飲み干し、ぷはあと声を上げた。
「それで、どういったご用件ですか?」
「そうそう、用件よね。それで来たんだもの。ふふふ、忘れたわけじゃないんですよ。ちょっとだけ、それどころじゃなくなっちゃったの。何しろ持病があるからね。そうそう、要件ですがね。あ、でもその前に、本当に、ちょっと休まないと、こみいった話だもの。あらかわいいお花。これなんていう名前?」
 一向に話が始まらないので、宿屋のおかみさんはやきもきしてきた。
「このとんちんかん!早くお話しよ」
 マーテルはのろのろと鼻の頭の汗をハンカチで拭いた。
「あんたは客商売のくせに、ずいぶん人当りが厳しいわよね。もっと手加減してちょうだいな。あんたのこと嫌いじゃないけど、あたしはいつだって困っちまうわよ」
 すると、後ろについてきた男性の一人、背の低い、猪首の金髪の男がしびれを切らしたのか、一歩前に踏み出して、マーテルに耳打ちした。マーテルが、
「えっ?なんですって?あなたはいったい、どういった料簡で他人が所有する屋敷に住みついているのですかと聞け、ですって?」
 と、素っ頓狂な大声で言った。
「あれ、ほほほ。せっかちですよ、この方。あー、とにかく、まだ宿屋のおかみさんもいることですし、一息ついてから当事者だけでゆっくりと話しましょうよ」
 マーテルが男に再度椅子を勧めるも、空振りだった。男はせかすようにマーテルの肩を軽くつかみ、彼女にだけ再度何やら囁いた。
「やだわ。皆せっかちで」
 マーテルは汗を拭きつつ文句を言う。そして今度は復唱せず、男が言い終わるのを待ってから、ニッキに言った。
「えーと、ニッキ。この方たちは香る国の公爵様のお家の方たちですけれどね。この方たちがおっしゃるには、ご主人様の、バーク公が怒り心頭だというのですよ。それというのも、あなたたちが住んでいる家は、バーク公の別荘の敷地内の家だというじゃありませんか」
「なんですって?」
 ニッキは金髪の男に聞き返したが、金髪の男はニッキには答えず、マーテルに耳打ちした。
「はい、はい。うん、うん。えーとね、この殿方がおっしゃるには、由緒正しく美しい血筋の公爵様の土地に、滅亡した国に縁のある方たちが住み込んでいるのは、まったく寝耳に水でしたし、縁起が悪いということだそうですよ。バーク公の奥方にあらせられては、心痛のあまりここ三日間、お風呂に入れていないとか。あら、そりゃいけませんね。頭の皮が汚れると髪が抜けちまいますよ。髪は女の命ですもの、どうぞお大事になさってくださいな。え?耳をもっと寄せろ?ふむふむ。こちらにいる殿方もね、憤りが止まらない、かぁっ、ぺっ、とのことです。あの、直接お話しになったらいかがですか?耳がくすぐったくて仕方ないんです」
 マーテルは耳をハンカチで拭いた。金髪の男はマーテルから少し体を離したものの、相変わらず彼女にだけ聞こえる声で話す。
「え?いいから伝えろって?まぁいいですけどね。若い殿方にこんなに近寄られるのもなかなかないことですよ。そりゃまあ、昔は私もそれなりにそういうこともありましたけどね」
「あ、あの家はニタカ様がご用意してくださったのです」
 ニッキが言うと、金髪の男は苛立たしげに足先でパタパタと床を蹴った。マーテルはもう諦めて、自分から耳を金髪の男に寄せていった。
「ですから、ユメハジーム公のその手配が、正規な手順をまったく無視したものだったのです、と言ってますわ、この方」
「でも、あの地域はじき霧に覆われるから、霧の国でも統治からはずれていくと伺っております。バーク公もそれをお受けになって、あの土地を返上し、他の別荘用地を賜ったのではないでしょうか」
 香る国に長く奉公していただけあって、ニッキも事情通だった。フジたちが住んでいた森の家はもとは香る国のバーク公の別荘用地だったのだ。別荘として頻繁に使われていたのは先代までで、当代のバーク公は深まりつつある霧を理由に、霧の国の中心部に近い一等地に、やや強引に別荘を移動させた。バーク公は、霧の国の第二魔女の二番目の夫で、かなりの有力者であった。
 第二魔女といえば、ニッキが香る国にいたころに仕えていた魔女だ。五人の夫があった。そもそも、ニッキはこの五番目の夫の後ろ盾を得て、第二魔女の高級侍女となれたのだった。普通は五番目の夫ともなると、年に一回お召しがあるくらいなのだが、ニッキの後見のこの夫は、タノンキ公というのだが、おっとりやで人が良かったので、第二魔女はずいぶんと心を許して、毎月お召しがあるほどだった。この夫はまめな性質で、自分が推挙して高級侍女に仕立てたニッキを、いつまでも細々と気にかけた。
 当時ニッキが心を痛めていたのは、第一魔女の皇配、すなわち秋の谷出身のニタカへ対する冷遇であった。お仕えする魔女が違うため、ニッキがニタカに会う機会はまずなかったが、その噂は頻繁に耳にした。登場が華やかだっただけに無残なまでのニタカの落潮ぶりは、一侍女であるニッキにできることなど何もなく、ニッキの憂いは深まるばかりだった。
 そこで、ニッキが秋の谷を心の故郷としていることを知っているタノンキ公は、できうる限りニタカを盛り立てようとしてくれた。ニタカは第一魔女からはおろそかにされていたが、タノンキ公のおかげで第二魔女には時折目通りが適うまでになった。第二魔女は風流を好む人だったので、落ちぶれてもどこか華があるニタカに興を示し、もっぱら書を通じて互いに良き文通相手となった。
 一方バーク公は、嫌味な性格だともっぱらの評判だったので、第二魔女に嫌われ、タノンキ公よりも、はては夫でも何でもないニタカよりも魔女に会う機会が少なかった。それをさか恨みし、ニタカのことを目の敵にして、何かと嫌がらせをしてきた。嫌がらせというのは、たとえばニタカの部屋の前にゴミや鳥獣の糞をどっさりと捨てたり、馬鹿にしたような残り飯を部屋に土産として届けたりすることだった。ところがこういうことをされても、ニタカにはそのごみを突っ返せるような手立てもなく、ただ自分で掃除するしかなかった。その代わり、意趣返しのつもりかまったく無神経にか、ニタカは第二魔女へますますの文を送り、その返事を頂戴するものだから、余計にバーク公を苛立たせた。
「返上したわけではありません。使えない土地だから、他の場所を願ったまでで、あの土地は依然としてバーク公に所属しています、とこの方は言っています」
「なんだか、都合のいい話よね。霧の国の領土でしょうにさ。香る国のお大臣だかなんだか知りませんがね、勝手に人様の国の土地を自分のもの呼ばわりしちゃって」
 宿屋のおかみさんが言うと、ねえ、とマーテルも同意した。
「え?それについては、なんとも庶民の方々には申し訳ないような気もしないではないが、どうしたって、れっきとしたバーク公の所有地である、こくぁっ、ぺえっ、ですって?」
 口を耳に寄せて物言う金髪の男を、マーテルは軽く押しやった。
「あのねぇ、そりゃ囁かれるのは悪い気持ちはしないんですけれども、耳元で唾を吐くような音を出すのはやめてくださいませんこと?いくらなんでも、失礼ですよ。え?ご無礼つかまつった、痰が絡みやすいもので、かぺっ、と、言っています。ああ、違った、今のはわたしに言ったんですね。まあ、そういうことなら、仕方ないかなぁ」
 耳を拭いたハンカチをマーテルがテーブルに置いたので、ニッキはあそこは後で念入りに拭かなければ、と思った。
「ニタカ様はなんとおっしゃっていますか」
「あ、はいはい。どうぞ、ご遠慮なさらず、もっと耳にお寄りになって。えーと、ユメハジーム公は」
 マーテルと男はもはやお互いにしがみつきあってるような状況だった。
「もう三週間もお留守ですよ。お留守なことさえ、しばらく気づかれなかったようですがね。周囲の人間から忘れ去られているのでしょう。なんでも、魔女王様のご勘気を恐れて家出なさったようですよ。甲斐性なしが、他の魔女の間男になぞなろうとするからでしょうね、と言っています。まぁまぁ、お口が過ぎますよ、カルシウムさん」
「そんな!」
 何度も捨助に手紙を出したのに、なしのつぶてだったのはこのためか、とようやく合点がいった。捨助もニタカを探すのにてんてこ舞いで飛び回っているのだろう。もしかしたら、フジがいなくなったことすら捨助はまだ知らないかもしれない。
「あー、本当に申し訳ないですけどね、ニッキ。できるだけ早く荷物をまとめてあの家を出て行ってもらいます、ごめんなさいね」
 マーテルが鼻に力を入れてメガネを持ち上げながら告げた。宿屋のおかみさんが、
「ちょっと、マーテル!住む場所取り上げるなんてひどいじゃないの、フジがいなくなっちゃって大変なときに」
 と叫んだ。
 帰る家がなくなる。フジがどうにかして海賊たちから逃げ出して帰ってきたときに、そこに誰もいなかったら、どんなに心細いだろう。
「えーと、心配なら、こちらの訴えが済む前に、不法占拠のかどで牢屋の中で寝泊まりできるように手配して差し上げます、何しろ、立派な犯罪者ですからな、とこの方は言っています」
 マーテルが告げると、金髪の男、カルシウムという名前らしいのが、ふんと鼻で笑った。ふてぶてしいこと極まりない。宿屋のおかみさんは近くにあった球根を男に投げつけた。男は球根を手で受け止めて、床に捨てた。
「ね、ニッキ。いくらなんでも、牢屋に入れなんていいませんよ。でも、とりあえずいろいろ経緯を聞かなきゃだから一緒に役場に来てくださいな。誰かが事情を説明しなきゃならないのよ」
 マーテルは小声でニッキをなだめるように言った。犯罪者、という言葉にうちのめされたニッキはのろのろと立ち上がると、瞬きすらしない無表情になって、マーテルに腕をとられて店を出て行った。宿屋のおかみさんが何か言っていたが、もはや耳に入ってこなかった。
 ホソバトネリコが赤く色づく並木道を、役場目指して歩いていく。何人かの町の人が、通りすがりにニッキやマーテルに挨拶していった。
 髪は女の命、と言っていたくせに、マーテルは風呂に入っていないのか、髪の毛がきときとと脂っこくて、後ろについて歩くと、うっすらと垢のにおいがした。それでも金髪の男は道中、何度もマーテルの耳元に口を寄せていた。歩きながらそうすると男の唇が耳に触れてしまうことがあるらしく、頬を染めて身をくねらせている。それを見るともなしにゆらゆらと歩いていたニッキだったが、ふと我に返って、口を歪めた。
「なによ、あなたたち。こそこそといやらしいわね。恋人同士というわけでもあるまいに。マーテルったら、こんな男が好みなの?そうだ、あなた、カルシウム。思い出したわ、あなたのこと。そんなにわたくしと話すのがそんなに嫌なの?昔からずっと、あなたって、とっても女々しくって、意地悪だわ」
 金髪の男は薄い青の瞳でニッキに流し目をくれてから、構わずマーテルに何事か囁きながら歩き続けた。
一方ニッキは、言ってしまってから、昔のことが思い出されてきて、どっぷりと疲労を感じた。その金髪の男は、カルシウム・ブルハティハティという名前で、香る国の王宮にいたときから何かと嫌味な人物だった。いつもバーク公の後ろに引っ付いていて、公の考える幼稚な嫌がらせを実際に仕掛ける人物だった。一度、タノンキ公の協力を経てニタカが第二魔女に贈るはずの枕カバーを、ナイフで引き裂いているところを見かけたことがある。カルシウムはそのとき、去り際に耳元で何事か囁いていた。声が小さすぎてそのときは聞こえなかったが、もしかするとこの人物は、相手の好き嫌い関係なく、人に話しかけるときは耳元で囁くというスタイルをとるのかもしれない。

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