フジの数え歌

小烏屋三休

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四十三

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 マチャルコフの勧めに従い甲板に出ると、男たちの数は、通常の半数程しかいなかった。その男たちは、ことごとく昼寝をしていた。先ほどまで雨が降っていたらしく、風はいつもより湿気ている。フジは腰を下ろせる場所を探したが、濡れていない場所はすでに昼寝の客に取られていた。
 空は完璧なまでに雲で覆われている。航海は後どのくらい続くのだろう。いつかまた、その陰気な雲から逃れて、大地に足をおろすことがあるのだろうか。いや、まあ生きていれば、きっといつかはあるだろう。ウォリウォリにも戻るだろうか。フジはウォリウォリにあって、この船にないものを思い返した。
 雨に濡れた土のにおい、枯葉や木の実を踏んで歩くときの音と感触、荷車を押しながら長く続く道を行く人や、何の屈託もないきれいなおさげの娘、いつも手を触れて歩いていたお金持ちの家の黒い柵。あの深い森の緑に抱かれた家で、ニッキに声をかけられるまで、窓辺でうつろに目を閉じたり開いたりすること。それらはすべて過ぎ去ったものであり、もう二度と手に入らない気もする。
 雲を見ながら物思いに耽っていると、ふと昔にあったある出来事を思い出した。それは、秋の谷での次のようなことだ。
 フジが八歳くらいのころだろうか。魔法を勉強してもなかなか思うように身につかず、すっかりつまらなくなって教科書を落書きだらけにしていた時期があった。教師は落第を目前にしたフジに危機感を持たせようと、開かずの間を一人で掃除するように言いつけた。
 そこは城の奥深く、長い階段を降りたところにあり、座敷牢だったこともあるらしい。フジは強がって平気な振りをしていたが、内心は縮み上がって開かずの間に向かった。誰がどうしてこんな趣味の悪い形にしたのか、ミイラのようなものが彫り込まれた扉を押すと、中は案外、埃っぽいだけの普通の部屋だった。置いてある調度も、幾分時代遅れではあるが、まあ一般家庭で見かける旧式の物だった。ただ、この気持ちの悪い意匠の扉にしては、部屋がありきたりな感じであるところが、いかにも恐ろしかった。床が板張りではなく、直に地面で冷たかったのも嫌だった。不気味さばかりが感じられて、掃除どころではなかった。それに、どこから手を付ければいいのかわからない程に、すべてのものが分厚い埃と、古くなってぱさぱさになった蜘蛛の巣をかぶっていた。
 そこに一冊だけ、新品同様のきれいな表紙の本があった。「うらない」と書かれたその本は、桃色と薄い空色の装丁だった。場違いに明るく、愛らしい本だった。埃もそれほどかぶっていない。フジは助けを求めるようにその本を手に取り、読んだ。その部屋にはその後もたびたび入れられることになるのだが、都度その本を読んだ。結果、フジはその本だけはまったく完璧にそらんじるまでになった。後で思い返すと、どう言い聞かせても勉強をしないフジに対する教師の一計だったような気がする。
 「うらない」の本は、確かにフジも興味を持てるような内容だった。そこらにいる蟻の運命だとかカエルの冬眠場所だとかについての占い方が書いてある。生活にまったく役立たない、心底どうでもいいようなことが占えるのだった。いわゆるトンでも本のようなところが、フジの気に入った。
「占いのときは、目を閉じて、ゆっくり十数えます」
 数えている間に、頭の奥が静かになっていく。体の芯に、一筋の川が流れているようなイメージが出来上がる。数え終った時に、世界が一段と明るく感じられ、いくつかの物事が鮮やかな色彩で脳裏に浮かび上がる。この感覚に爽快さがあった。深い深い知恵に触れるような感覚もあった。フジは占いにのめり込んだ。それに伴い、勉強嫌いだったのが、占いの参考書だけは真面目に読むようになったのだった。
 そうしてある日家族に占いをしてみせようと声をかけたが、姉や兄はフジを笑った。
「じゃあ、フジがいつになったら魔法塾で一番になるのかを占ってちょうだい」
「フジの宝物の、あの虫の抜け殻とか古い菓子をしまってある箱の隠し場所を占ってくれよ」
「このピーナツの殻を投げたときにゴミ箱に入るかどうか占ってくれ」
 などと、冷やかしの声しか返ってこなかった。いや、ピーナツの殻の行く末については「うらない」の本にも手ほどきがあったが、この冷やかしの場で披露する気にはなれなかった。
 フジは気分を腐らせた。そこで城の勉強室に行き、一番仲のいい兄にこの話をしようと思った。五つ年上のこの兄は、フジが来たのを知ると、読んでいた本を脇へ追いやった。フジの話を丁寧に聞いてから、何を占えるのかと穏やかに尋ねた。
 何でも占って見せる、とフジが胸を張ると、
「じゃあ、フジが魔女となったときの使いの鳥は何の鳥かな?」
 と答えた。フジは、この兄も自分をからかっているのだろうかと思った。自分が魔女になるはずがないではないか。でも、決してふざけているようには見えない。ただ優しく、妹のことを信じてくれているようだった。フジは、そうではなくて、兄自身のことで本当に知りたいことはないか考えてくれと聞き直した。というのも、占いというのは、対象が自分以外である方が成功率が高くなる傾向がある。純粋に、この優しい兄の役に立つことをしたかったのもある。
 兄は考える素振りになって、固まったように動かなくなってしまった。よほど真剣に考えてくれていたのだろう。ずいぶんと考え込むので、その間にフジも兄のことをよく観察してみた。魔法はほとんど使わないが、何しろ頭の出来が良く、言葉も行動も冴えに冴えていたので、みんなから一目おかれていた。そしてとても几帳面で真面目だった。爪に泥が入っていたり、だらしなく伸びていることなんて一度もなかった。桜貝のような素敵な爪を持っていた。そういえば、いつだったか、なぜそんなに昼も夜も勉強をするのかと聞いたとき、自分の使命を知るためだと言っていた。その答えを聞いたフジは、やはりあに様はただものではない、と気後れしたものだった。それを思い出したフジは、占いの題材を探しに心の海に出かけている兄に、では兄様の使命を占いましょうと告げた。
 兄はきょとんとした顔をしたが、すぐに「お願いしよう」と答えた。フジは兄の貝殻の爪のついた手を大切そうに持つと、目を閉じて占いを始めた。
「いーち、にーい、さーん」
 兄の手は柔らかく、なめらかで、どの娘の手よりもなよやかだと思ったのを覚えている。みずみずしく、健康的であった。暖かい手ばかりに気を取られているからか、占いの結果はいつまで待っても一向に出てこない。フジの数える声は九でずっと止まったきりだ。兄は辛抱強くずっと目を閉じている。窓の外で声の良い鳥が啼くのや、木の葉がこすれる音がした。待ち続けても何も出てこない。諦めてわからなかった旨を素直に伝えようか。でも、兄はきっとがっかりするだろうな、という予想にフジは先にがっかりした。
 言い淀み、兄の短く生えそろったまつ毛を見ているうち、口先が勝手に動いてその場しのぎの占いの結果が転がり出てきた。嘘をつこうと思ったわけではい。まったく、いったいどこから紡がれたのか勝手な言葉の羅列がもっともらしく口を突いて出てきた。確か、兄の使命は、いざというときに、身近な、大事にしているものを持ち上げることだ、という内容だった。怖くても困難でも、ただただ上に押し上げろ、というようなことをでまかせもいいところに告げると、兄は真面目な顔をして頷き、フジに礼を言ったのだった。フジはバツが悪くなって、しばらくの間は兄と二人きりになるのを避けた。
 今になって思い返すと、秋の谷の最期のとき、兄が自分を煙突に押し上げたのは、もしかしてこの言葉のせいだったのかもしれない。でたらめな占いではあったが、兄はそれを信じて、フジに母親の指輪を握らせ、とにかく上に押し上げようとしたのだろうか。そのおかげでフジは助かり、あと少しで当時の兄の年齢と同じになる。昔はずいぶんと大人に見えた兄だが、まだ成人して間もない男子だった。
 なんということだろう。そんな年若い人間に、あんなに差し迫った瞬間に、必死の力ではしごに押し上げてもらった、しかもそれというのも自分の適当な占いを信じてもらった結果だった。
 フジはいてもたってもいられず、甲板に額をこすり付けたい衝動にかられ、濡れた甲板にうつぶせになった。
 そうやって冷たい甲板に寝そべると気持ちが良かった。涙が一筋だけ流れたので、なんだ、意外とあっさり出るものだ、と思った。
 そのとき、船の縁の方でがさごそと音がした。見ると、小舟のところから聞きなれない音がする。そういえば、マチャルコフが三番目のボートを覗けと言っていた。
 三番目の小舟は、あまり使われていない小舟だった。荷下ろしや荷積み、人の乗り降りにはもっぱら一番と二番の小舟が使われ、三番目のおんぼろで小ぶりな船はほぼ使われず、手入れをされることもなかった。その中に、何か生き物がいるようだ。
 覗き込むと、暗がりの中でばさばさと小さく羽ばたきのような音がする。小舟を少し持ち上げると、ひょいと毛並みの荒れたカラスが、大きな声で
『ミツケタ!』
 と言って飛び出てきた。フジは飛び退いた。ぬるい風が頬を掠めた。
 カラスはぽちぽちと跳びながらこちらに向かってくる。足にカニの爪のようなものをひっかけているため、跳躍するたびにそれが甲板にあたって音をたてた。
 この臭い、知ってる臭いだ。
 ウォリウォリでワタリガラスを見かけたときもこの臭いがしたのだった。だからといって別に懐かしくもなんともない。生臭い、いやなにおいだ。ワタリガラスに特有の臭いなのだろうか。それとも、カニの爪をぶらさげているし、生ごみばかりをあさるからこういう臭いになってしまうのだろうか。カラス自身、気にならないのだろうか。フジはそのカラスに少し同情した。
 カラスがぶるっと身震いしたかと思うと、大きく口をあけ、嘔吐えづくように首を竦ませた。フジは思わず手を差し伸べた。
 カラスはにゅっと出てきた人の指先に驚くでもなく、そのくちばしをフジの手のひらに乗せた。驚く間もなく、その手のひらに暖かいものがころりと落ちてきた。それは、なんとなく、水の石に見えた。
 フジは慌ててその石を持ちなおし、目の前に掲げた。そう、それは水の石に見える。その温かみは懐かしく、石が放つかすかな振動は苦しい思い出を呼び起こした。
「これ、もしかして、あたしが兄様に預けたやつかしら?」
 まさか、と思いながらもワタリガラスの方を見ると、そうだ、そうだと言ってくる。それは、秋の谷が沈没する際、母の指輪を握っていたはずのフジがいつの間にか握りしめていた水の石だ。握りしめられたまま成形されたため、完全な球体ではなく、ぽちゃぽちゃした指の跡が残って少しいびつな形になっている。忘れられない形の石だ。
 ぼんやりしていると、カラスはフジの腰袋に入っていたパンを嗅ぎつけたのか、そこをつついてパンを器用に取り出した。パンをくわえると大きく羽ばたき、再びどこかへ飛んで行ってしまった。
「どうして?」
 フジは立ち尽くし、途方に暮れた。
 するとその時、マストの上の見張り台から、ぴょうっと口笛の音がした。仰ぎ見ると、ヒューが手招きしている。 今のやりとりを見ていたのだろうか。
 フジは我に返り、ヒューに見えないように涙を拭った。それから、
「自分でこっちにおりてくりゃいいじゃないのさ」
 と言いながらも、臆病口と呼ばれる比較的安全な経路でマストを上って行った。
 見張り台の上は風が少し強かった。カゴのようになっているところに、二人でひしめき合って腰を落ち着ける。
 見渡す限りの茶色い海だが、この時間は霧が出始める。茶色く濁った霧が、視界を遮っていた。霧の合間に、小さな島が見える。
 ヒューはまずフジの顔をまじまじと見ると、汚れた袖で、相手の頬に残っていた涙の跡をごしごしとこすった。フジも珍しく、されるがままになった。
「あのカラスなんだったんだよ。変なカラスだな。フジ、なんかカラスからもらってなかったか?」
「ん?なんのこと?」
 フジはとぼけた。あまりに自然にとぼけるので、ヒューはいささか面食らった。それから眉根を寄せると「おい!」と言った。フジは動じず、ヒューを見据えてもう一度、
「なんのこと?」
 と言った。ヒューは口を歪めて何やら聞き取れない言葉を言ったが、今度は違うことを聞いてきた。
「お前、どうやって外に出てきたんだよ。勝手なことしやがって」
「あんたこそ、部屋をあげるって言ってあたしをあんないじけた納戸に連れてって。しかも毎回鍵かけて。失礼でしょ」
「船長の命令さ」
 船長、船長って、あんたなんでもいいなりなんだから、とフジは海を眺めて呟いた。ヒューはフジのその横顔の、つんと尖った鼻の頭を見て、形のいい鼻だと思った。しばらく見ていたが、やがて思い出したようにもぞもぞとポケットをまさぐった。
「あのさ」
 取り出したのはフジの赤いピンだった。ピンの先のガラス細工に泥がこびりついて、いびつな形になっている。フジは思わず、あ、これ!と高い声を上げて、ピンを素早く指先でつまんだ。
「あたしの!」
「そうだよ、お前のだよ」
「どうして、あんたが持ってんのよ」
「ちょっと、借りてた」
 うつむきながら、ヒューはぽつりぽつりと話し出した。
 魔女の島に向かっているとき、ハンモックで太平楽に寝ているフジの髪から、こっそり抜き取ったらしい。時折フジの頭できらりと光るから、気になっていたのだという。すぐに返すつもりだったが、ついつい返しそびれた。フジはすっかり気づいていない様子で、そのまま魔女の島に降りて行ったので、そのままもらってしまうことにした。しかしどうしたわけか、再び魔女の島に寄港したときに、鬼と化したフジが帰ってきたのだ。返そうか、しかし今更なんと言おうかとピンを片手に考え込んでいるところを、ロディオンに見咎められたのだった。
「……フン。それはフジが髪に飾っていたのを見た覚えがあるな。お前、奴にもらったのか」
「あ、いや」
「お前ら、そういう仲か」
 じとりとした視線を向けられた。ヒューが答につまっていると、ロディオンは面白くなさそうに顔を歪めて、立ち去ろうとした。
「ガキのくせに」
 そのまま行ってしまうかと思われたが、途中で足を止め、吐き捨てた。
「フジはポウのものになるだろう。手を引いとけ」
 ヒューは打たれたように飛び上がって、その場に気をつけをした。
「いえ、違います。これは、珍しい色で金になるかもしれないからって、盗んだだけです。決して、フジにちょっかい出そうなんて考えてません!」
 ロディオンはそれもつまらなさそうに聞き流し、今度こそ自分の船室に戻って行った。その後、特にこの盗みについての咎めはなかった。ロディオンは細かい性格なので、きっとポウに伝えたにしても、盗んだものがあまりにも些細だから、ポウの方で判断して特に罰もないのかもしれない。ヒューは、サローチカ号に乗っている期間は比較的長いものの、刑罰に対するポウのさじ加減がよく把握できていなかった。このご時世だし、荒くれ者で自分勝手なことばかり言う海賊たちを束ねるのでもあるから、まさか気分で刑罰を決めるわけもなかろう。それでも、気まぐれにしているとしか感じられないときもある。まあとにかく、早めにこのピンをフジに返すに越したことはない。
 フジはピンの汚れを服の裾で拭った。
「いいけどね、返してくれたんなら」
「あの、さ。フジの故郷のことは、残念だけど……」
「まだどうなるかはわかんないじゃないか。でも、どうしたの、急に」
 先ほどの甲板にうつ伏している姿で、泣いていたとばれてしまったのだろうか。
「いや、まぁさ」
 鍵をかけたのは悪かった、だけど、さっきも言った通り、船長の命令だったんだ。
「いいよ、別にもう。当たり前のことだって、本当はわかってるよ。それよか、あたしも前に物売りの船に乗り込んだとき、お店の鉢植えを割っちゃったの。そのとき、怒ったお店の人に、自分の名前はヒューですって言っちゃった。つい口が滑っちゃったんだよ。本当に、ごめんね」
「なんだよ、今更。あのとき俺もそばにいたから聞こえてたけど、そんなの気にしねぇよ」
 気のせいか、ヒューの声音はとても優しかった。ニッキが自分をいたわるときも、こんな声の調子だった気がする。自分はこんな声で誰かに話しかけたことがあるだろうか。
 目が再び熱くなってくるのを感じて、急いで瞼を閉じた。一度泣くと、涙腺というのは緩むらしい。この感覚を覚えておけば、自在に涙を出せる気がする。それはそうとして、人前では泣くまいと、目を海風にさらすように顔をのけぞらせた。首筋に当たる冷たい風はとても気持ちが良いが、それでも涙がこぼれてしまったので、フジは顔を手で覆った。
「おい、おい、なんだよ。だからごめんってさ」
 ヒューは慌ててなだめようとするが、フジはいやいやをするように頭を振った。
「角が当たって危ねえから、落ち着けよ」
 フジは頭を振るのをやめたが、泣くのはやめなかった。ヒューはやがて見張りを再開するように海を見渡した。
「お前、ちっこいのと相談しながら航海長に何かしてるみたいだけど、もっと気をつけてやれよ。俺もあんまりごまかしきれないぜ」
 と、しばらくしてからヒューが小声で言った。あれ、やっぱり色々ばれてるみたい。どこまで知れているのだろうか。フジは顔を覆ったままの手の中で、目を見開いた。
「さ、早く戻れよ。うろうろしてるのが船長かロディオンに見つかったら面倒だぜ」
 フジはヒューに一言、礼を言うと、飛び降りる勢いで見張り台から逃げ出した。
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