北風日記

小烏屋三休

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1. 干滝殿

7.妹来たる 1

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 雨がしとど降る、じめじめとした昼下がり。
 ひさしに出て庭先の草花を雨が濡らすさまを見てしんみりと過ごそうかな、などと考えていた。蒸し暑い夏がようやく終わろうかというこの日、すでに少し肌寒さえ感じるけれど、どんな感じかな、と御簾みすをめくったときのことである。大きな物音が部屋の隅から響き、私は、ああ、まだ怒ってる、と室内をそっと振り返った。
 ぷりぷりして立ち上がった際に几帳きちょうにぶつかり、腹いせとばかりにことさらに大きな物音を立て几帳の位置を足で直しているのはあてである。女房が主の几帳を、足蹴にしている。見てはいけない。気づかないふりだ。
 御簾からちらりと見えた外の世界ではちょうど、細紐ほそひもと呼ばれる神祇伯邸の下男が、庭石を動かしているところだった。この男は非常な力持ちで、雨の日で外仕事が少ないときは力を持て余している。その有り余った力を発散させるため、私のいる離れの建物から見える、神祇伯邸で最も大きな庭石を押し動かしにくるのだ。
 細紐のことをもう少しよく見たかったが、後ろでまた荒ぶった物音がしたので、宛木の対面を保つためにもう少しの間御簾を降ろしたままでいることにした。
 なぜ宛木が怒っているのかというと、初夜に着る私の装束が彼女の期待に沿っていないからだ。生地はひと月も前に見せてもらったと思うが、いつまでたっても縫いあがらない。宛木は衣を確認した日からほぼ毎日、まだかまだかと催促していたが、ようよう出来上がったものが、いわゆる大陸風の、赤紅の装束で、肌があらわになるものだったのだ。着ぶくれして徹底的に肌や体の線を隠すここらの人にはなじみのない形だ。胸元が無数の房飾りで飾られていて、金糸の刺繍がところかしこにちりばめられているところも気に食わないらしい。
「当日まで隠すようにと、北の方様がご采配なさっていたのです。異変に気付いてこちら側で勝手に装束を改めないようにと、そういう魂胆でございますよ。危うくひっかかるところでございました!」
 私は実のところ、北の方が用意してくださった大胆な装束が気に入っていた。いくら私の見た目が若いと言っても中身は大年増なので、清楚に着飾るよりもむしろ潔く大人の色気を出していくという方針が気に入ったのだ。色も明るくはっきりしているし、形も蠱惑こわく的で、色っぽい。真っ赤な着物は胸までしかなく、むき出しの肩に羅でできた羽織をかける。伝統的な大陸の婚姻装束ではなく、大陸の流行最先端の装束なのだろう。華やかを好む北の方らしい選択だ。
 女性の薄い肩にうっすらとこの半透明の羽織が儚げに引っかかっているのを見たら、私だったらがぜん燃える。少なくとも、アメノマルツチ様のときのような騒動にはなるまい。まったく、据え膳を前に逃げるなど、あの神様は男の風上にも置けぬ。
 こほん、失礼。かしこみ、かしこみそうろう。とにかく、これさえ着ていればみすみす獲物を逃がさないだろうし、私の初夜を全力で後押ししてくれるのだという北の方の意気込みが感じられる。そう考えるとこれは私の不安を取り除いてくれる、すばらしい衣装だ。ぜひともこの装束で、安定の祝言をあげようじゃないか。
「まぁまぁ、きっと婿殿も気に入ってくれるよ。涼し気でいいじゃあない」
 わたしは宛木の心をなだめるべく、ことさらのん気な声で言った。
「ばっ」
 宛木が何かを言いかけて、やめた。バ?もしかして、「ばっかじゃないの」と言おうとしたのだろうか。いや、まさか。女房が仮でもなんでも主人にそんなことを言うはずがないもの。「馬鹿も休み休み言いたまへ」かしら?それじゃ同じか。あ、そうか、「梅花はんぺん」だ。かわいい形でおいしいのよね、あれ。
 宛木は口元を扇で隠すと、青く剃り跡の残る眉を持ち上げて言った。怒りのせいか、赤鬼のように顔色を変えているので、化粧の下の剃り跡がいつもより濃く浮き上がって見える。その上にぼんやりと隅で描いた眉もあるから、迫力だ。
 とにかく彼女は私がこの邸に来てからというもの、この婚儀の準備のために奔走してきた。そしていよいよその日が差し迫ってきたこの幾日かというもの、くるくる回る独楽というかもはや台風のような感じで、禍根となりそうなものは根こそぎ引っこ抜かれ、邪魔立てしようものならなぎ倒されかねない。
「良いですか、姫様のご結婚は人間界と神界を取り持つ儀式となります。夫婦の間でやることは同じですが、そこらの結婚とは意味合いが違うのです。特別な儀式ですので、初日からきちんと正装する必要がございます。こんな霰もない、ちょぼちょぼと足を生やしたエビのような装束で臨んだら神罰がくだりますよ」
 宛木は装束の房飾りの部分をばしりと叩いた。
「そうかなぁ。もともと着る予定だった服もエビがどうのという装束だったし、おんなじじゃない」
「おっしゃりたいのは、カニでございましょうが、カニ違いでございます!あられの模様のからぎぬでございます!霰もないどころか、霰がわんさか散りばめられている装束でございますよ。まったく、もう」
「あは、うまい!一本」
「とにかく!」
 宛木は音を立てて扇を閉めた。今は私の声も彼女を苛立たせるから、その声を聞かせないでほしい、そんな感じだった。
「急ぎ正しい装束を作らせておりますので、明日には出来上がりますでしょう。そうですね、明日、姫様の御髪みぐし澄ましが終わって、乾くころにはこちらに届くでしょう」
 では北の方がご用意くださった装束は着られないのか。それで私は大丈夫だろうか。もちろん、肌をほぼすべて隠した唐衣だと婿殿に逃げられると決まっているわけではないが、大いに心もとない。当日はもう勢いで押し切るしかないな。
 それにつけても、もっと心配なのは出費である。大体私は、背がひどく高いのだ。だから布も通常よりも多く使う必要がある。それに加えて、この作り直し。出費が続くと体調を崩すという神祇伯の特性を考えると、申し訳ない限りである。ただでさえ多いにご迷惑をおかけしているのに。
 とはいえ、祭祀さいしつかさどり、全国の官社、祝部いわいべ(神官たちのこと)を総轄そうかつする神祇官の長として、神子を迎えるのは彼の勤めである。私だって、荒ぶる神々を鎮め、良き神々の神威がこの世界のみならず、人間界にまで及ぶよう、人間と契りを結び、神と人間の仲立ちとなることが勤めである。お互い仕事だから割り切るしかないが、日に日に憔悴していく神祇伯様のご様子を見る度、心が痛む。この小寝殿にいらっしゃるたび、廂に私や宛木のものではない髪の毛が散っているのを後になって見つけるのだ。まだお若いのに、このままではもとどりも結えなくなりかねない。それに肌の色も黄色っぽかったり茶色だったりと、毎日変化している。いったいこの人は大丈夫だろうか。私が琴でも奏でられたら少しはお慰めできるのだが、あいにく、歌の修練しかしてこなかった。それも貴族の間で広くたしなまれている和歌ではなく、神々に捧げる歌なので、人を慰めるものではない。どれも美しい歌ではあるけれども。
 今私にできることは、姫らしく振舞い、婿殿を私の女の魅力でがっちりつかまえることだ。その後彼にきちんと人並の教育を施していき、二人で良き夫婦となる。そうして神祇伯のご心配を一つでも少なくすることくらいしかできないだろう。
「さ、御簾を上げて気分を変えましょう」
 私が色々考えて黙ったのを見て、宛木はさっさと御簾を巻き上げ始めた。
 御簾を上げていると、先ほどよりも大きく雨音が聞こえてくる。うむ、風情がある。
 その雨音に混じって、牛車ぎっしゃが東門の塀に着く音が聞こえてきた。
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