北風日記

小烏屋三休

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3. 師永津

2. 梅の香り

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「姫様、また雨が降ってまいりました。御簾をおろさせてくださいませ」
 庭を眺めていると宛木が寄ってきたので、私は場所を譲った。
「雪になるかしらね」
「雪になるにはもっともっと冷え込むのを待たないとなりません。年が明けたら嫌というほど見られますので、もうしばらくお待ちくださいませ」
 庭先ではヤブコウジが人知れず赤い実をつけていて、雨や風で葉が揺れるとその姿を葉陰からのぞかせる。それをもっと眺めていたかったが、実際に御簾が下ろされると冷たい風が入り込んでくるのが止まり、ほっと落ち着いた気持ちになった。
「ご心配なさらずとも、明日こそはいらっしゃいますよ」
 宛木が訳知り顔で笑っている。
「梅太郎殿が、わざわざご自分で明日は必ずいらっしゃるとお文をお書きになったのですもの」
「でも雪が積もったり、この間みたくまた土砂降りになったら、来られなくなるじゃないの」
「ほほほ。大丈夫でございますとも」
 宛木は何の根拠か、胸をどんと力強く叩いて受合った。
「なんでそう言い切れるの?もしや、何か他に事情を知ってるの?お前まさか、梅太郎とやりとりをしているとか?」
「ほーほっほ。まさかまさかでございますわ。でもこの宛木、長く女房勤めをしてまいりましたゆえ、殿方の訪いの気配がなんとなく察せられるのでございます。大丈夫、梅太郎様は万難を排していらっしゃるはずです。わたくしの母などは、この力を特に高めまして、念を放てば殿方を呼び寄せることさえできたのでございます」
「ああそう……。宛木、それはすごい特技よ。たぶん都中の姫君に重宝されるわ」
「ええ、それはもう。母はいつだって引く手あまたでございました。それにしても、恋とは人を美しく儚くさせるものございますわね、姫様。いつも勝気な額の辺りが頼りなげで、なんともなよやかなご風情で遊ばしますわ。そのようにそわそわせずとも、今度ばかりは梅太郎様も優しく振舞われるはずでございますよ」
 宛木は額に皺を寄せながらわざとらしい流し目をよこしてきた。ぷさぷさと生えてきている眉毛が三角形になって浮かび上がる。私は申し訳なく思いながらそれを眺めた。元気そうに装っているが、負傷して戻った私の世話をしつつ婚儀の支度もする、とあわただしく日々を過ごしていたので、いまだ疲れが抜けきらないのだろう。それでも久しぶりの再会に向けて手も口も休めることなく働き続け、今も私に軽口を仕掛けて気を紛らわせようとしてくれる。ここは一丁、健気な彼女の軽口に乗ってみるか。
「そうでしょうとも。こんなぴかぴかの妻を粗雑にするなめた真似する男がいたら、懲らしめて捨てるネ」
「おほほほ。北の方様によく似ていらっしゃいますわ。ああ、明日が待ちきれませぬ。むしろ今夜いらしてくださってもいいのに。あの憎たらしい男もついにこの最終形態の姫様には陥落するに違いありませんわ。姫様には一筋縄ではいかない美しさがございます。今までを毛虫に例えるなら、今の姫様は優雅な夜を舞うひとひらの蛾ですわ。ええ、そりゃ蝶のように簡単に人を魅了はしませんとも。けれどもじっと観察する者には伝わる、太々しく雄々しい魅力ですわ」
「それほどでも、ないというか、いやさ頑張って準備したし、それくらいではあってもらいたいねぇ」
 確かに準備万端、私はこれ以上磨かれることは無理であるところまでに仕上がっている。準備をすべて当日にすると焦るでしょうとの神祇伯の忠告もあり、今日の内に体中を洗い上げ、髪も洗った後、油を丹念につけてくしけずった。余分な毛も剃ったし、衣には艶美なお香も焚きしめてある。ただしこの香りは新妻の初々しさに欠けると判断したので、明日の本番は別のものを焚く予定である。あくまでも清楚でかすかに薫る程度、殿方の香りに染め上げてください、という体裁を保ちたい。
 ただし、私は宛木が考えるように、完全体の自分を見せるのが待ちきれなくてそわそわしているのではない。実は、なかなか言い出せない懸念事項がある。
「ちらりとこぼれ見える歯も素敵でございますよ。やはり渋る大殿様を押し切って、金歯にしてよろしゅうございました」
 まさにその金色の差し歯に不安が宿るのである。
 以前述べたように、私の前歯は差し歯である。還俗してすぐに神祇伯に誂えていただいたのだが、先だっての逃亡劇の間にどこかに落としてしまった。そこで急遽新しいものを用意していただけることになったが、今回勧められたのは以前のものよりもちょっと安価な、本物の人の歯を入れるやり方で、私としては抵抗があった。幸いなことに、技師のところに私の歯になりえそうなちょうどいい大きさの人の歯がなかったため、本物の歯で差し歯をこしらえる案はなくなった。そうなると、獣の歯となる。馬の歯だろうか、正確にはどの獣を使っているのか技師は最後まで教えてくれなかったというか、外国の技師なので何と言っているのか判明しなかったのだが、かなり大きな動物の、ひらぺったい歯を削ったような歯だった。削ったものであるので、舌触りがざらざらと気持ちが悪い上、茶色い木と砂の混じったような色合いをしていた。なぜその色なのかと言うと、私の腐り残っている乳歯の根元の色に合わせて獣の歯を選んだらしい。どうせなら、隣の健康な歯の色に揃えてほしかった。
 婚儀を無事に終え、名実ともに人妻になったら鉄漿を塗るのだからそれまでの辛抱だ、暗がりでは相手によく見える可能性も低いし、と私は腹をくくったが、宛木は承知しなかった。古木のような前歯をしていては若い二人があまりに気の毒、そしてこれまでの経験からして梅太郎の方はすっかり興ざめし、またぞろ結婚を白紙にしたいなぞと言いかねない。そう言い張って宛木は北の方や神祇伯の妹君である大君の後押しまで得て、とうとうその獣歯は黄金で塗装されることとなった。
「うん、この歯ね……。ありがたいことです。頑張ってくれてありがとうね、宛木」
 私がもごもごと口に手をやると、敏い宛木はすぐに聞いてきた。
「姫様?何か歯に問題でもあるのですか?」
 宛木の奮闘の上に獲得した黄金の前歯だが、実はここ二、三日、すこぶる落ち着きが悪い。つねにぐらついていたのを、舌でもてあそんでいたのが原因かもしれない。実はすでに二度ほど何でもない時に落ちているのを、私は差し直しているのだ。
 私の使っている差し歯というのは、歯茎の中に残る歯の根元にぎざぎざや凹凸をつけ、そこに義歯を押し込んだ上で固めているのだが、一度でも外れてしまうとだめになるのだ。一応差し直せるが、めっぽう接着力が弱くなり、以後は唐符(お豆腐のことね)を嚙んだだけでも外れたりする。
「いえ、大丈夫。この輝きで最近は夜、灯りなしでもいけるんだ」
 などと冗談を言って紛らわせようとしたけれど、宛木は食い下がった。
「姫様。心配事がおありなら、おっしゃってくださいまし」
 これはもう白状するしかない流れである。私は観念して差し歯をはずして宛木に見せた。私の差し歯の性質を良く知っている宛木は、目を剥いた。
「な、なんと。もう外れてしまったのですか」
 震える手で濡れて輝く義歯を両手に押し頂く。
「今回はうがいをしていたら外れたんだ」
「おお!」
 宛木の驚愕ぶりがあまりにもひどいので、私は敢えてなんでもないことのような口ぶりで言った。
「でも、明日はきっと外れないわ。なるようになるものだから、大丈夫よ」
「夫婦の夜に外れない差し歯などあるわけないではございませんか!」
 言い方は妙だが、こうなってしまった歯は十中八九外れるだろうと、実は私だって思っている。
「おお!すべてが水の泡でございます。おお!」
 宛木は天井を見上げて白眼をむいている。果たしてそこまで絶望するようなことなのだろうか。少し体裁が悪いな、程度にしか思っていなかった私は、ひどく動揺して涙が出そうになってきた。
「大丈夫。まだ結構くっつくし。ずっと抑えていれば大丈夫」
 差し歯が入る辺りの歯茎を指で押しながら、私は必死に取り繕おうとした。私よ、落ち着いてちょうだい。大したことじゃないのよ、こんなことは。その他の部分はすべて完璧なのだもの。
「終始前歯を抑えながらの夫婦の初寝などと、おいたわしや」
 天井をにらみつけながら滂沱の涙を流す宛木をよそに、私はそのまま歯茎を指先で検分した。どうもおかしい部分がある。
「あ、宛木!鏡を」
 宛木は涙を流し続けていたが、取り乱しても優秀な女房は優秀なもので、天井を見上げたまま器用に鏡箱を取ってきて中身を渡してくれた。私は顔を覗き込んだが、如何せん夜も進み、室内がとても暗くて見えない。
「き、金歯で照らしてみよう。宛木、歯を返して」
「いえ、灯台を持ってまいります。いったい、どうなさいました」
 差し歯の土台となっている子供の歯の前側の歯茎に、固いものが飛び出してきているのだ。
「こ、これ、大人の歯じゃないかしら?」
 乳歯のときに折れた歯は、永久歯にとってかわられるでもなく残った部分が抜け落ちるわけでもなく、ちびた赤ちゃん歯のまま口の前面に居座り続けていた。歯の根が死んでいると思われていた。
「はっ!?まさか、今頃になってようやく大人の歯が生えてきているのですか?姫様、もっと大きくお口を開けてくださいませ。それから、恐れ入りますが脚を広げてくださいませ」
「あ、あし?」
「暗くて見えませぬので!」
 優秀な宛木は、どうもよほど取り乱しているらしい。たいそうな剣幕で灯台をひっつかんでくる。
「うむ。入りなさい」
 私はかろうじて落ち着いて許可しようとしたが、言い終わるよりも前に宛木は私の足の間に体を入れ、遠慮なく口に手を突っ込んできた。
「あがが。熱っ!油が垂れてきたよ。あふぇひぃ、あふい」
 灯台の灯が耳を焼き、油が頬に落ちてくる。
「もっともっと大きく開けてくださいませ。金歯はもっと近く、この角度で!そうでないと灯の明かりが反射しませぬゆえ」
「あへひぃ」
 唇がもげる、と思ったとき、宛木が私の口の中に向けて大声で叫んだ。
「歯ですわ!姫様、大人の歯でございます」
「やっはり!はぁんでーい!」
「まだでございます!こちらの方の古い歯は、こうすれば抜けそうでございますよ」
「いああ」
 少し痛んだが、宛木が指先でほじくると茶色く変色した歯の根がぽろりと板敷きに落ちた。
「なんと、取れましたわ。おめでとうございます!」
「はぁんでーい!」
 私も負けずに宛木の口に向かって叫んだ。
弥栄いやさか!」
 そのとき、宛木の呼気のにおいに混じってふと、甘くさっぱりとした梅の香が漂ってきた。季節外れの香りに我に返って、覆いかぶさる宛木を押しのけて辺りを見回すと、御簾の内側に婿殿がきちんと正座してこちらを見ていた。
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