北風日記

小烏屋三休

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3. 師永津

5. 正月

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 次に梅太郎に会ったのは、それからずっと後、年が明けてしばらく経ってからのことだった。
梅太郎は予定通り一旦人間界に戻ったわけだが、一週間ほどで再びかなぐり抜きの儀が行われ、こちらに帰ってきた。
 当然私のところに挨拶に来るものと思っていたが、一向にその気配はなく、十二月の除目じもくで勘解由使の主典さかんに任じられ、そのままぶらりと地方に行ってしまった。私へのご機嫌伺いとか、恋人と別れたことの報告とか、すべきことがあったはずなのに。
 勘解由使庁は大内裏にあって本来は在京のお勤めである。しかしこの世界について右も左もわかっていない田舎者の梅太郎に、一から学ばせてあげようとの上司の粋な計らいで、除目を受ける前と同様、現地に赴いて覆面調査をしているとのことだ。
 神祇伯はこの上司のことを気配りの聞く人だとほめそやしていた。でも、私はそうは思わない。この上司は新婚夫婦というものが何たるかわかっていないようなので、おそらくまだ独身なのだろう。そして新婚夫婦の生活に思いを馳せることができない朴念仁なので、今後も結婚などできないだろう。まあ、結婚したって、いいことなんて何一つないけれどね、先輩として言わせてもらうとさ。神祇伯も神祇伯だ。何をそんなにちやほやしてこの上司なる人物と酒を飲み交わしたりしているのか。
 とまれ、私が手あたり次第に行き会う人を恨んでいる間に、世間は楽しいお正月を迎えた。

 神祇伯邸のお正月も、楽しいだけではないけれど、とにかく賑やかなお正月ではあった。
 ことの始まりは、大君おおいぎみの婿殿の主計頭かずえのかみが年始の挨拶にも表れなかったことに端を発する。
 普段はまめな婿殿だが、新年に限ってこのまめさが消えて大君がないがしろにされるのは、恒例のことらしい。今年もまた、と落胆する大君をお慰めするため、私は西の対にお見舞いに行った。
「新年早々見捨てられ、落ちぶれた女の住む対に、わざわざお見舞いに来ていただけるなど、思ってもおりませんでした」
「何をおっしゃいますか、大君様。新年のご挨拶が遅れて、申し訳のうございます」
「お忙しいのであればお気遣い無用でございますのに。皆様、わたくしのことなど後回しになさりますでしょう?わたくし、慣れっこなのでございます」
「何を、おっしゃいますか」
 年が明けると北の方が内内の宴を催して、私も大君もそれに誘われていた。私はもちろん参加して新年の挨拶の後、大いにおしゃべりしたり飲んだりしたのだが、主計頭のことで気落ちしていた大君は来なかったのだ。
「遠の君様がわたくしのことを覚えてくださっていただけでも、ありがたいことでございますわ」
「忘れるわけがないじゃないですか」
「どうでしょうか……。兄上もあまり頼りにならないこの身が、ただ露のように儚く感じられる今日この頃……」
「神祇伯様は本当にお忙しいようで、北の方様の宴にもいらっしゃいませんでした。私も、まだ今年は簡単なご挨拶しかさせていただいておりません」
 昨年の暮れにかけて神祇官を騒がした事件に影響を受けたのと新年の行事のとりまとめとで、神祇伯には身内でお正月をする間もなかったのだ。
 昨年の秋頃から、神殿から逃げ出す神子がちらほらと出た。それが暮れにかけて人数がだんだんと増えてきて、大晦日には十数人が一斉に神殿から脱走した。前代未聞の大事件であるが、世の不安をあおらないために秘匿された事件で、関係各所の少人数の人だけが知っているのを、神祇伯がある日突然教えてくれたのだ。
 神子の生活は制約が多い。祭事はもちろん、毎日の起床、禊、食事、睡眠にさえもいちいち作法があり、制限がある。日々のお勤めと制約、極端な食事制限、過酷な祭事のたびに心身を削り取られ、大体の神子は長生きをせず、二十代のうちに一生を終えることが多い。元気にしている人がある日突然ぱたりと膝から頽れ、その後五日ほどで息を引き取ってしまうのだ。短い人生を全うすると葬儀のようなものが行われるのだが、私たちは神子が死んでから葬儀が終わるまでの一連を人柱に立つ、と言っている。
 神子たちは日々のお勤めをこなしながらゆっくり、ゆっくりと儚い寿命を受け入れるようになるのだが、稀に最後までその運命を受け入れられない神子や、一旦は受け入れたものの、死の足音を意識するような歳になってくると、拒絶反応を見せる神子が出てくる。私の父もその一人で、二十代になってある日仲間とともに神殿から脱走したと聞いている。ただ、脱出の際に捕らえられたり行き倒れになったりして、無事最後まで逃げおおせたのは父だけだった。
 これまでそういう例は毎年一件あるかないか、人数も一人から五人くらいの話だった。だから数十人が脱走するというのは大事で、私は仰天した。神祇官は直接神殿を司っているわけではないが、それでもただでさえ祭祀の多い時期に様々な影響を被っていた。
「でも、まがりなりにも兄上とお会いになったんでございましょう?わたくしのほうには、とんとお運びになられません。たった一人の身内でございますのに」
 大君は恨めしそうに丸い顔をしかめる。でも、これまで大君は物忌みと称して西の対に引きこもり、お身内にも会わないようにと自分からしていたのではなかったか。このように引きこもって鬱々と暮らしていらっしゃるので、今はなんでもかんでも悪い方に考えてしまうのだろう。
「あ、それは、私が無理やり神祇伯がめずらしくお戻りの際に、神殿に押し掛けたのです。でも、お忙しいようでほんの少しの間でしたよ。ささ、大君。私は、あなた様を楽しませようと、贈り物を持ってきたのです」
 私はあらかじめ大君の侍女に渡しておいたものを大君に見せるようにと、侍女を振り返った。
それはかねてより素敵だなぁと気になっていたけれど、買うなんて思いも寄らなかった品だ。緑色がかった獅子狛犬で、御簾の鎮子ちんし(重り)にもなるものだ。滝石として市に遊びに行ったときに見かけたのだが、明らかに盗品と思われるようなまがまがしい物品が筵の上に並ぶ中、それだけは清らな佇まいでひと際光彩を放っていた。価格も異彩を放っていた。
 婿殿の訪いが耐えて日に日に憔悴していく大君を見かねて、私は決心をし、なけなしのお小遣いをはたくことにしたのだ。
「まあ、何でございましょう」
 贈り物という言葉にいそいそと身を乗り出してきた大君は、獅子狛犬を目にすると、
「なんて素敵」
 と、手を打った。早速それらを手に取って検分を始めたが、やがて次第に眉を曇らせた。
「これ、両方とも犬でございますわね」
 そう言って獅子狛犬を板敷きにことんと投げた。あ、壊れちゃわないかしら!
「両方とも角があるのですもの」
「はい。これは犬というよりも、大陸の霊獣でより源流に近いめづらかなもので……」
「角ありが二体なんて、聞いたことがございません。わたくしが長く引きこもっている間に、世間は流れますのね。獅子狛犬が、犬犬になってしまって。夫の心が移ろうのも、ことわりというもの。かなしゅうございますわね」
「大君様、こんな贈り物はお忘れください。急ぎ他のものと取り換えますから」
 私は板敷きにてんでに横たわる獅子狛犬をかき集めて片付けようとした。
「いえ、ようございますわ。わたくしのようなものは、所詮このような移ろいやすいものを所持するのが相応でございます。あ、涙が出てまいりましたが、これとてすぐに露と消えますもの」
 私がかき集める側から、大君は再度置物を取り上げる。
「いえ、もしかしたら隣に獅子が置いてあったのを、間違えて取って買ってきたのかもしれません。私もよく確認すればよかったのです。そうだ、めずらしいお菓子があるので今そちらを宛木に持ってこさせますね」
 私は大君の手から獅子狛犬を取り返す。
「でもそれはすでに阿吽像になっていますよ。取り違えだったら、両方アだったり、ウンだったりするものでしょう?諸行無常で世間が変わったのか、間違えて作られているのです。まったくひどい話でございますこと!」
「いや、これはそもそも霊獣で、間違えているわけではないのです」
「遠の君様ったら、仰っていることがめちゃくちゃ!あなたが市で取り間違えたの?作り手が間違えたの?世が犬犬に移ろったの?いったいどれよって話をしているのですけれど!」
「作り手!作り手が浅慮で間違えているんですよ、けしからんなぁ。誰か、宛木にお菓子をもってくるように伝えてねぇ」
 私は焦ったが、できるだけ平静の声で宛木を呼んだ。大君をあまり刺激してはならない。すでにどんぐり眼を大きく見開いて、だいぶん興奮されているようである。
「頂きますわ、せっかく遠の君様が選んでくださったものでございますもの」
そういって大君は狛犬たちを私からひったくった。
「こんなふうに手違いでできてしまったささやかなものでもいいから、主計頭もわたくしに何か送ってくださればいいのに。気を紛らすことができるでしょう?それなのに最近は文も何も送ってくださいません」
 大君がさもつまらなさそうに手にしたばかりの狛犬をまた床に投げ捨てたので、私も多少鼻白んでしまった。一所懸命選んできた置物を、そんな風にすることないじゃないの。
「……。大君のお眼鏡にかなうようなものを探しあてるには時間がかかりましょう。主計頭はただでさえお忙しいお方ですもの」
「まあ、まあ、当てこすりですの?わたくしは、この狛犬のようにつまらないものでも主計頭がくださるのであれば喜びますとも。もう結婚して長いのですもの。わたくしたちの仲をよく知りもせずにあてこするなんて、ひどい方ですわ。毎年どんな気持ちでわたくしが夫のいないお正月を過ごすのか。楽しいお正月をしていらした方には、わたくしの気持ちなんて到底わかりっこないのでしょうとも」
 大君がわっと泣き伏すのを見て、私も情けなさに涙が込み上げてきた。
「わ、私だって、私だって」
 私だって夫に顧みられない正月であったことは大君と同じなのだ。大君があんまり大声で泣くから、私も負けじと滂沱の涙を流してしゃくりあげていると、ふらりと北の方が現れた。
「どうしたノ、二人とも」
 大君は侍女にとりついて泣きじゃくっているから、私は北の方に背中を撫でられながら、事情を説明しようとした。
「主計頭がこなくて、狛犬が犬犬で、梅太郎もこなくて、宛木もお菓子もこなくて、ううう」
 支離滅裂な説明ではあったが、勘の鋭い北の方はこれらの断片的な言葉だけで何があったのかを悟ったようだった。聡い方である。
 北の方は置物を持ってきていた。私と同じように鎮子の置物だった。どうも大君を慰めんと、同じ贈り物を選んだらしい。しかも北の方の生国ではこういった魔除けの置物は獅子が基本らしく、獅子が二体だった。
「しくしく。ありがとうございます。あれまあ、こちらは、獅子獅子でございますわ!」
 こうして晴れて狛犬と獅子が一対ずつ御簾の四隅に安置されると、大君も私も少し落ち着いてきた。
「ぐすん。大君様、これで邪なものが入ってこないで安心ですね」
「この際、余計者の夫も入ってこなくていいヨネ」
「ぐすん、」
「ひっく」
 夫という言葉に私たちは反応して、また身を震わせたが、北の方はかまわず続けた。
「男が来ないのはムカツクけど、来たら来たデ面倒デショ。しかも来てもやっぱりムカツクのヨ。だからいいのヨ、来なくて。近くにいるとキタナイところばっかり気にナッチャウしサ」
 おどけたように言うので、私も大君も笑った。
「でも北の方様。神祇伯様はいつだって身ぎれいにしていらっしゃって、どこにも汚いところなんてないではありませぬか」
「あの方は膝の裏を洗わないから黒くなってル。何度言っても洗わないからムカツク」
「そう言えば主計頭様もくるぶしが黒ずんでらして、ひっく」
「えっと、梅太郎殿も、目が黒くて素敵で。ぐすん」
「ちょっとォ!話の流れよんでヨ!」
「とぅふふ」
 なんてぐすんぐすん、ほほほ、と夫をこきおろしたり、のろけたりしているうち、いつの間にやら会話はすっかり夫のことから離れて、私たちはおしゃべりに興じることができたりしたのだった。
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