北風日記

小烏屋三休

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3. 師永津

16. 雨乞い

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 梅太郎と再会したのはそれから二日後だった。私は奉納舞の準備に忙しくしていて、彼が私を探していたことや、伝言を残していたのにも気づかずに里を駆け抜ける日々だったのだ。出会ったのも小ぬか雨の降る道端を走っているときだった。
 私は目がいいので随分前から彼に気づいていたが、彼の方は私に声をかけられて初めて私と気づいたようだった。
「梅太郎殿。ちょうど良かった」
「どこに行っていた。ずっと探してたんだぞ」
「あれ、私に用事?」
「用事も何も」
 早口だったが、走っていた私に比べて彼はのんびりといもち山に入る道を歩いていただけなので、苛立っている故の口調だろう。特に急用ではなさそうだと判断し、私は「じゃ、後で聞くよ」と言って再び走り去ろうとした。
「ちょっと待て。今、ちょうど良かったと言ったじゃないか。俺を探してたんじゃないのか?」
 梅太郎がとっさに私の二の腕をがっちりとつかんだので、私は体勢を崩してたたらを踏んだ。
「危ないよ、もう。えっと、誰か信用できる人を探してたけど、なんか怒ってるみたいだから梅太郎殿はいいや」
「怒らせてるのは誰だ!無茶ばっかりするくせに、こんなところで連絡が取れなくなるなんて。どれだけ心配したと」
「探してたって心配してたってこと?ありがと、でも急ぎでないなら私行くね。ねえ、近くで里の人たち見た?在命たちでもいいんだけど。あ、怒ってない人ね」
「なんなんだ、さっきから。俺でいいだろう!俺が行く。だから説明しろ」
「怒ってる人はちょっと」
「怒ってなどいない!」
 そうは見えないけれど、と思ったけれど、あまり時間もない。沼に戻るまでに頭を冷やしてくれることを祈って、私は梅太郎に同行を頼んだ。
 話がつくや否やぱっと身をひるがえして歩き始めた私に、梅太郎はついてきた。
「猿にね、荷物を奪われそうになっちゃって。私が作業している間誰かに見張っていてもらいたいんだ」
「無頼の下男の次は猿か。なぜそんなにトラブルばかり起こすんだ。なぜ家でじっとできないんだ!」
「ねえ、怒ってる人は連れていっちゃダメなんです。怒ってるならついてこないで!」
「わかった。もう言わない」
 その後に「今は」と小さく続くのを私の耳は捕らえたが、いちいち反応するのも面倒だ。後でうんざりするほど私が邸でじっとできない理由を説明してやろう。そもそも私が神祇伯の家を出るのは、いつだって婿殿が理由である。婿殿がきちんと私のところに収まってくれれば、私も静かに夫婦御供のお役目に専念するというものだ。
 ついてくると決まると、梅太郎はせっかちなので、道も知らぬくせに「こっちか?こっちか?」と聞きながら、さっさと進んでしまう。少しでも回答が遅れれば、「もっと早く言え!」と声を荒げる。なかなか先ほどからの怒りが抜けないようだった。
「まあそんなに焦りなさんな。急いではいるんだけど、梅太郎殿は今ちょっと面倒くさいから、深呼吸でもしながら、私と同じぐらいの感じで進んでよ。そのうち落ち着いてくるから」
「めんどくさいだと……!?遠の君、その言い方をなんとか、言う前に考えてみろ」
「カリカリしないよ、ほら。面白いことでも考えて落ち着いてさ。大丈夫、大丈夫。そうそう、同じ速度で、私と駆けて」
 梅太郎は束の間黙り込むと、すぐに口を開き、私の言葉を繰り返した。
「遠の君と駆けて」
「うん?」
「遠の君とかけて、水をやりすぎた植木とときます」
「何?何の話?」
「その心は?と聞け」
「いやだよ。何よ藪から棒に」
「いいから、その心は、と聞け」
「ソノココロハ、なんだっつぅのよ」
「ともに葉(歯)が腐れ落ちます」
「そっちこそ言い方変えなさいよ。私の差し歯は腐れ落ちたんじゃなくて、自然と抜け落ちたのよ」
「面白いこと考えろって言ったのはそっちだ」
「大して面白くないよ!」
 そんな風に話しながら、梅太郎も少しずつ落ち着きを取り戻していったようだった。やがて、
「その服は何だ?」
 ととうとう私の巫女装束に言及した。それは緋袴、白衣にひらひらと千早を重ねた女装束で、一度着てみたいとかねがね思っていたものだ。神殿で着慣れた浄衣とは異なるが、再びこのような類の装束に身を包むことになろうとは、再びの男姿といい、この旅は過去の私に出会う旅であるわね。
「へへ、素敵でしょう?里の人が用意してくれたんだぁ」
「動いているからよく見えない」
 そこは嘘でもなんでも素敵だと言っておけばいいのに。七面倒くせぇ男である。ちらっと梅太郎を振り返ると、私の千早の裾が梅太郎の顔にばしばしと当たっていた。……。まあ、ひらひらが邪魔と言わないだけ、優しいのかもしれない。
「あ、枝に引っかかってやぶけないように、ひらひらの部分を持って走ってくれる?梅太郎殿もその方が邪魔じゃなくなるでしょうしね。それから、その茂みの先が目的地だけど、猿がいると思うから気を付けて」
 梅太郎は無言で私の千早の裾を両手で束ねた。少し走りにくいが、仕方ない。長老は黙ってその衣装を私の前に置いただけだったが、ギョロメのおじさんからは絶対に汚してくれるなと釘をさされているのだ。
 木の根を一飛びして茂みを抜けると、狭い野道から一転して、開けたところに出た。そこには鬱々とした青緑色の沼が広がっている。
 猿は先ほどより少し離れたところでわさわさと枯れ木を揺らしている。私が再び祈祷を始めたら、またからかいにやってくるだろう。
「さ、猿だ。結構いるじゃないか」
「だからそう説明したじゃないの」
「いったい何をやってるんだ、枯れ枝なんか沼に垂らして」
「沼の主をからかってるのよ。たちの悪い猿ね」
「沼の主?」
「そ。骨蹴ほねけ沼の主は大蛇だったはずよ。さあ、もう小雨が降り始めてるから急がなくちゃ。猿が邪魔するからさっきは途中でやめちゃったんだ、私。続きを早くしないと、いい加減ギョロメの人が怒るわよ」
「なんの話だ?」
「沼の主に捧げる舞をしてほしいとぎょろっとした目をした里の人に頼まれたのよ」
 その依頼者である長老とぎょろ目のにゅるどんは、いたずらな猿が跋扈しているのにも関わらず、私が舞いを始めると最後まで見届けずに一足先に里に下りて行った。
 当然最後まで見ているのだと思っていた私はぎょっとしたが、舞を投げ出して猿を追い払うわけにもいかず、やるせない気持ちで彼らの後ろ姿を目の端にとらえていた。そして少ししてから当たり障りのないところで無理やり舞の第一部の幕を引くと、こうして助っ人を求めて里に下りたのだ。とはいえ長く中断もできないので、里に着く前に梅太郎に出くわしたのは幸運であった。
 里に下りたとして長老とにゅるどん以外には助っ人もいなさそうだったのだ。
 話を進めるうちに、私に奉納舞を依頼することは個人的な依頼であるらしいことが見えてきていた。ぎょろ目のにゅるどんときたら、言うことは過激で威勢が良いけれど、猿が出てきたときも長老を押しやって自分ばかり隠れているような人だし、人の気持ちを慮って会話をすることが苦手のようだ。里の人とうまくやるのが難しい性格で、孤立しているのかもしれない。長老の方は里人から半分耄碌していると思われて、慇懃いんぎん無礼で適当な扱いを受けている。二人が来年あたりまた沼の主が荒れるぞ、とどんなに口を酸っぱくしても、里の人はそんなことは起こるまい、と、一笑に付しているだけなのだ。そこでこの二人が私に個人的に依頼に来たというわけだ。
 私はそんな風に勝手に沼の主に舞を奉納していいのか今朝もまだ躊躇していた。しかし、もうやると決心したので、これ以上は迷えない。神事の途中に迷えば、すべてが裏目にでかねない。
「沼の主にちょこっとだけ雨を降らしてもらいたいって言われたのよ。来年の大雨とそれに続く飢饉を回避するためにね」
「君はそれを受けたのか」
「私を見込んできた話よ。それに沼の主の起こす雨なら、どこかに蛇の形のしるしが現れるでしょう。それを見たら、フツを少しは元気づけられるかもしれないと思うんだ」
 龍神が姿を現せば世界が清浄になるという話にフツは惹かれているようだから、龍神らしいものを見たら気も少しは晴れるかもしれない。大蛇と蛇は違うって?たぶん同じじゃないかと思う。大蛇も勢いが付けば立派な龍神に見えるのではないか。そんなことを思って私は儀式をすべく、この二日準備を行ってきたのだ。
「引退した神子がそんなことをしていいのか」
「だーいじょうぶ、うまくやれるわ。この鈴とか枝に猿が触れないように、それから後で私がこの装束を脱ぎ棄てるからそれを猿に奪われないように守っててくれればいいの。大切な借り物だし、ほら、さすがに裸で里には帰れないじゃない?」
「ちょっ、話が見えなすぎるし、野外で裸踊りするってことか!?」。
「そっちの方が盛り上がるでしょう?」
 余計な時間はもはやないので、口をぱくぱくさせている梅太郎をそのままにして、私はさっそく荷物の中から神楽鈴と榊の枝を握って先ほど場を整えた橘の木の下に戻った。後できちんと説明するから許してね。
 鈴と枝をよさげな岩にきちんと乗せ、深く礼をすると、私は歌い始めた。囃してくれる楽器がないので自分で歌うしかないのだ。間に合わせの支度ではあるが、できることはすべて行って沼の主に受け入れていただかなくてはならない。
 しゃんしゃんと鈴を鳴らして旋回を始めると、歯をむき出しにした猿と対峙する梅太郎の姿が見えた。大丈夫、彼ならこの舞が終わるまでこの場を守ってくれるだろう。
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