北風日記

小烏屋三休

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3. 師永津

18. 物見櫓で

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 梅太郎の指示通りの場所に来た時には、すでに受領一行は櫓の上だった。全部で五人いるので、先ほどの梅太郎の掛け声はこの人数を言っていたのかもしれない。
 大声で川が増水するかもしれないとを告げると、一同は一旦こちらを見たが、すぐに何もなかったのように櫓の上で談笑を再開させた。
 遠くで叫んでても埒があかない。私は櫓の足元まで行って、避難するよう叫んだ。
すると櫓からギョロメのにゅるどんともう一人の人が下りてこちらにやってくる。にゅるどんはたいそうな剣幕で、目を普段よりもいっそう大きく見開いている。
「お前は、何をよけいなことを!」
 ひそひそと声にならない音で憤ろうとしているが、息が強いのでよく聞こえる。
 この様子ということは、にゅるどんは確信犯で、受領を亡き者にするためにこの櫓に案内したのだろう。
「しかし、まったく雨が降っていないわな。お前、ほんまに舞を最後までやったんかいの」
「やったよ」
「やっぱし、落ちこぼれて還俗した元神子なんどの舞でどうこうなるわけないわいしょ。雨ふらんのやったら、米やっちゃらんよ」
 私の奉納舞の支払いは出来高制ということだった。まあ去年不作だったと言うし、ない袖は振れないのかもしれないけれど。
「別にいりません。米のためにやったわけじゃない」
 私も少なからずむっとしているので、態度に出てしまう。本当は米も欲しくてやったのだけれど。
「ほうけ!そりゃよかった」
「どうせ沼の主も見えないだろうから、受領も櫓から下ろしたらいいよ!」
 にゅるどんは、ほうけ!ともう一度言いながら私にげんこつを落とした。
 私が頭に手をやって痛がっていると、
「ほんまのとこ、どうなん?降りそう?」
 とにゅるどんは急に不安そうに顔を寄せてきた。
 天に上る大蛇が見えます、と受領をここに案内したのに空振りだったら、面子が立たないのだろう。精一杯強がって私を殴っているが、内心不安で仕方ないらしい。
「沼ではびっくりするくらいの大雨だったけど……。あそこでだけみたい。ほら、いもち山の上に雲がまだあるのが見えるでしょう」
「確かに雲があるが、なんや範囲が狭い淡い雲だの。ああいうのんは、すぐに消えてまうよ」
 後ろにいた男、身なりが割合にいいので受領か名主のところに仕える男だろう、が顎に手をやりながら言うと、ちっ、とにゅるどんが舌打ちをした。
「おかしいな。山にいたときは真っ黒な雲に見えたんだけど。梅太郎殿はここも危ないから逃げた方がいいって言ってます」
 という私の言葉に、身なりのいい男が反応した。
「梅太郎殿?ああ、例の」
「あんた、奴を知っとるんかい?奴がに、にんげ」
 にゅるどんがぎょっとしたように言うので、私は慌ててにゅるどんの足を踏みつけて黙らせた。
「采女司の男やろう?ご主人のとこに泊めとるんよ。いや、ほかの采女司の人らは普通なんやけど、あの男だけはなんか油断なんねよ。顔だけいいのも気に食わん。うそつきの女たらしの人相や。そいつが言うんなら、やはり今回は空振りよ。龍神様はでてきやんね」
「えらいすまんのう」
「ご主人と受領はんに謝ってよ。ほな、行こら。えらい人らは宴会をとことん楽しむって。酒を追加でもってこんといけん」
 そう言うと、男とにゅるどんは元来た道を辿って行った。
 私は上に残っている三人を見上げたが、私のことなど見向きもせず、酒を飲みながら打ち興じている。私ははしごを登って行った。物見に顔を出すと、はしごを登っているときには遮られていた日光が一気に視界に入り、私は目を細めた。
 木で大雑把に組み上げられた粗末な櫓であるが、床には色とりどりの食べ物とたくさんのお酒が並べられていた。
「なんじゃお主。勝手に登ってきおって」
 例の若紫の狩衣を着た受領がさも嫌そうな顔つきで言った。がめつくて里人を困らせている割には、さらっとした顔つきの若い男性だった。ふと眉にギョロメ、皺のよった額を持つにゅるどんの方がよっぽど凶悪な顔をしている。
 驚いたのは受領のすぐ横に、よい衣をまとって烏帽子なんぞをちょこんとかぶった在命が座っていて、口いっぱいに食べ物をほおばっていたことだ。やっぱり貴族だったのか、と思う反面、うなじや鬢からほつれ出ている縮れた毛や顔色の悪さなどから、貴族のふりをしようとして成功していない土民に見える。
 本来は貴族で、梅太郎同様隠れた任務をこなしているのか、ごちそう目当てにただ紛れ込んでいるだけなのか、いずれにせよ、ここは知らないふりをしておいてあげよう。
「あの、ここは万が一のときに危ないから避難した方がいいです」
 遠慮がちに言うと、受領を取り巻いているもう一人、土色の狩衣を着た男が声を荒げた。
「さっきからうるさい小僧だ。大体誰だ、お主は。よそ者だろうが。里の者が平気と言ってるのを、何を根拠に危ない危ないと騒いでおるんじゃ」
 その男の肩越しに、先ほどまで私がいた山が見えた。ちょうど骨蹴沼があると思われるあたりの木が下から持ち上げられるようにざわめき、細長い黒い雲のようなものがにょろにょろと空に昇っていくのが見えた。
 息を飲んで凝視していると、視線に気づいた受領たちが山を振り返って、おお、と感嘆の声を上げた。
「ま、まさしく龍神だな」
「龍神ですな」
「ありがたや、ありがたや」
 三人は手を合わせて拝みだした。私の方は、ミトメの小屋を見るため、急いで櫓の端に行った。
 ミトメと二人の子ども、梅太郎におぶわれているフツは名主の館がある集落の中心部へと急いでいるところだった。
 私はフツに沼の主の姿を見てもらえるよう大声で呼んだが、さすがに遠すぎて聞こえないようだ。そのうちに骨蹴沼の主はにょろにょろと時間をかけて空を登り、やがて雲の中に消えていった。
「あーあ、フツったら、龍神様が見えるかもしれないよってあんなに言っておいたのに、見てくれなかった」
 さっき梅太郎にも念押ししておけばよかった、と肩を落としていると、後ろから頭を殴られた。振り返ると名主とよばれていた男だ。
「まったくせっかく龍神様が出とるというのに、騒いでくれたな。台無しじゃないか」
 名主は相当怒っているようで、もう一発殴ってこようと腕を振り上げたものの、急に素っ頓狂な顔つきになった。
「お?おんしゃ女か。それに、その衣は、梅太郎の狩衣やが?」
 む、目ざといわね。
「ほうか。おんしゃ、梅太郎殿と情を交わしてけっかんな。あの男、あがが出した女どもは鼻にもかけんくせに、ほうほう、こういう変わったんが好みだったんじょ。ほやさけ、白昼堂々こんなとこに男ものの衣をひっかぶってくるなんど……、どんな娘だ、おんしゃは」
 そう言いながらも名主は私の腕を取り、ぐっと腰を抱いてきた。強い酒のにおいが鼻をかすめる。
息長おきながはん、あの奇人が抱いた娘、余興にはええ塩梅かもしれやんな」
 名主は受領に言った。
「奇人の手付きの娘など、私はいやだな」
 受領が顔をしかめると、在命が、
「まさにあの奇人にしてこの妙ちくりんありですな」
 と、合いの手を入れている。
「清水殿も、そう言わずに手伝うてけえ。がいな図体やけど、顔立ちは可愛(かえ)らしよぉ。ほれ、肌もみずみずしい」
 名主はそう言いながら、私の袴をたくし上げた。私は抵抗しているのだが、先ほどから全く歯が立たないのだ。
 受領は嫌そうに眼を細めながらむき出しにされた私の足を見て、酒を口に含み、また足を見た。在命は相変わらずむしゃむしゃと口を動かしながらもうつろな目でやはりこちらを見ている。
「やめてください。今それどころじゃありません。早く逃げないとなんですよ」
 そのとき山の方から低い地鳴りが一つ聞こえて、私は首を竦めた。ところが酒が回っている三人にはその音が聞こえないのか、山を振り向きもせずに食べ物や酒を口に運び続けている。
 助けを求めて在命のほうをすがり見ると、視線に気づいた在命は顎を引いてへの字口になって、あっちにいけというように手を胸の前で降った。どうも助けるつもりがないようだ。
 あっそう。では私だって在命のことを助けないわよ。あんたの正体をばらしてしまうんだから。
 でも一応最後に念のため、正体をばらす旨を口をパクパクさせて伝えてみると、在命は口に詰め込んでいたお菓子を少し吹いた。
「ほれ、暴れるでない。じゃじゃ馬め。暴れれば余計無様に尻が見えることになるよ」
 名主は私を目いっぱいの力で押さえつけてくる。受領がもっとこちらを見物しようと立ち上がった。在命もつられたように膝を立て、
「さてと」
 と言うと立ち上がりざまだしぬけに受領の鳩尾(みずおち)に一撃を入れた。受領は声も出さずに悶絶して、膝をついた。
 受領の倒れる音に私を押さえつけている男が背後を振り返った。
「な、息長殿になんちゅうことを!清水殿、これは一体どうして」
「いや何、息長殿が私の膝に手を置いたのでびっくりしてつい手が出てしまいました。それはそうと、その娘、私によこしなさいよ、名主さん」
 そう言いながら、おぼつかない足取りでふらふらとこちらに向かってくる。名主がたじろいでいると、在命はさらに右腕をぐるんぐるんと回した。
「その娘、いい足じゃないですかぁ。よこしなさいよ」
「でも先ほど奇人の手つきはごめんだとゆっちょったでよ」
「それは息長殿でしょう。ほら、よこしなさいよ」
「いんや。一番はわい、次が清水殿と、こういう順番でもう決まっとりますよぉ」
 名主が鼻を鳴らすと、突如として在命は甲高い奇声を上げてこちらに走ってきた。名主も私もびっくりして、私は名主の手の中で身を固くした。
 それから肝を冷やした名主は私を放り出すと、梯子にとりついて蜘蛛のように素早く降りて行ってしまった。。
「へっへっ。貸し一つだな、タキ」
 在命はそのまま私の横にやってくると、にやりと唇の端を持ち上げた。
「そんなの、今すぐに帳消しになるんだから」
 私は、あたかも自然な流れで伸びてきて私の太ももを撫でる在命の手を思い切りはねのけると、避難が必要なことを説明した。
 在命は話が終わらないうちからきびきびと立ち上がって、食べ物が残る折敷を私に渡し、自分は受領を肩にかついだ。そのままやすやすと梯子を下り、いつの間にか下で待機していたゆっぴぃと落ち合った。用意のいいことにゆっぴぃは戸板を準備していて、そこに受領を乗せると二人はさっさと名主の館の方へ進んでいく。
 私はなぜか折敷を落としてはならないと思ってしまい、片手だけで梯子から落っこちそうになりながらも櫓から降りた。降り切ったときには在命たちから随分と遅れをとっていた。
 蓋がないのであまり揺すると食べ物が折敷から零れ落ちる。私は慎重に、でもできる限り早く歩いた。
「早くしろー」
 在命たちは一旦止まってこちらを振り向く。私を待っててくれるのかと思いきや、受領を戸板から下ろし、ゆっぴぃが俵のように肩に担ぎなおすと、先ほどよりずっと速く走り始めた。
 やがてひと際大きな地響きが鳴り渡った。さすがに今回は在命たちにも聞こえたようで、一度ゆっぴぃとお互いに顔を見合わせ、なおいっそう足を速めた。
「ま、待って」
 私は必死で追いすがろうとする。恐ろしい地響きが徐々に近づいてきて、それが水音もはらんでいることに気づいたとき、遠くにたたずむ三本の松の木に茶色い水の塊が襲い掛かり、なぎ倒すのを見た。三本松を蹴散らした水は、大蛇のように蛇行しながらこちらに迫ってこようとしている。
「手に持っている物を捨てろ!」
 どこからか声が聞こえたとき、私はその通りにぱっと折敷から手を離した。手ぶらになると今までの枷が一気に外れて、なんとも自由に走れる気になった。その一方、何かを握っていないと不安な気持ちもあった。
 そのせいだろう、いよいよ眼前に迫ってきた濁流に戸板が乗ってくるのを見つけた私は、それを飛びついて握らんと手を伸ばした。
 おそらく流されてくる水と、それから戸板にも当たったのだろうが、氷に顔面から激突したのかと思った。頭が梵鐘になって突かれているのかというくらいぐわんぐわんと鳴る。私はそのまま濁流内部に飲み込まれ、もみくちゃにされた。水の中でも梵鐘が鳴っていた。
それから何をどうしたのかはわからないが、気づいたときには私は戸板の上に二本足で立ち、濁流の上を滑るように渡っていた。
 それから戸板が濁流の中の岩か何かに当たると、私はくるりと転覆して水の中に落ちていった。
 その後、私は里のはずれの低い木の枝にひっかかって一命をとりとめた。風葬される人はちょうどこんな感じで、私にとってこのようなことになるのは二度目である。志那都比古神(しなつひこのかみ)とご縁があるのかもしれない、と朦朧とした頭で思いながら木の枝に二つ折りになって引っかかっているところを救出されたのだった。
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