北風日記

小烏屋三休

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4. 神殿

4. 絶間の揺らぎ

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 結局色々と詳細を明かしてしまったが、まあこういったことがあったのであの出立の日、私は梅太郎に対して不愛想で、彼が私に話しかけようとするのに結局最後まで意地を張りとおして目を合わせなかった。
 梅太郎が去ってしばらくは後悔した。何もびんたをくらわすことはなかったのだ。言葉でやんわり注意して、平手のかわりに口づけなどを降らせたらさぞかわいい新妻だったはずだ。つい意地を張って、甘い雰囲気をわざと打ち壊すようなことをしてしまった。帰ってきたら真っ先に謝ろうと思って干滝殿にこもっていたが、ひと月もしてくると私の罪の意識は時効を迎えたようで、私は謝罪の気持ちを忘れて、日記の特ダネ探しに明け暮れるようになった。
 実際、じめじめとした気持ちばかりをつづっていたって、後世に残る日記にはならないのだ。千年の後となると、さすがに紙も朽ち果てているだろう。源氏物語や枕草子が不朽の名作となっているのは、貴族の間で盛んに書き写されているからだ。私の日記も時を越えて書き継がれていかねば、千年後に梅太郎の目に触れる機会はない。
 ところが私に文才や機智はないし、ちょっと話を盛るために物語を風雅に作り上げる才もない。そこで私は淡々とした私の身の周りのことの他に、都を騒がす珍事、人の口の端に上る面白話も記すことに決めた。ただ、日記にそういった人の噂を書くのも別に珍しいことではない。著名な貴族の中にはすでに噂話ばっかりで何十巻にもなる日記を書いている人もいるので、普通に噂話を書きつけているだけでは目新しさに欠ける。
 私の日記の特徴、それは世を騒がす事件や噂について、実際に現地を探訪して関係者に取材をし、私の所感をまじえつつも、事件のより詳細、より核心を明らかにするということである。
 すでにいくつかの噂の火元には、取材を乞う文を出してある。ただ、身分もそう高くない貴族の、際立った才を持つわけでもない娘が文を出したとして、噂にときめく人々が相手にしてくれることは稀というか、ほぼなかった。そうなってくると、少々危険はあるものの、市井の面白話や怪談話を聞いてそれを確かめに行く、ということが多かった。
「それで、闇夜には旧賀茂橋のところにその幽霊が出て笛を吹き、その音を聞いた人は三日以内に死ぬんだってサ」
「なんとも空恐ろしい話ですね」
 本日私は神祇伯の北の方の対を訪れ、新たな噂の種を仕込んでいる。これは実地検分の前段階の作業である。魅力的な北の方の周りにはいつも人が集まってくるため話題も豊富で、貴族の噂話から市中の珍事まで、収穫は上々である。
 話がひと段落すると、北の方は着崩してあらわになっているふくよかな喉元をこすりながら言った。
「昨日、西洞院の兵衛督ひょうえのかみの北の方から文をもらったんだけどね。遠の君、あんた会ったこともないあの方の姉君に文を出したんだって?」
 特に咎める口調ではなかったが、私は体を緊張させて居住まいを正した。
「は、はい。時の人となっているあの方に、色々とお話を伺いたいと思いまして」
「アイ。確かに、あの方の姉君と近衛少将このえのしょうしょうが最近世間を騒がしてるらしいけど、それについて?」
「その通りです」
「文を読んでから、姉君は情けなく思って丸一日起き上がれなかったって」
「それは……。申し訳ないことをしたかもしれないデス」
「兵衛督の北の方はあんたのことを無作法だと怒ってたヨ」
「ええ、まあ……。そうでしょうね」
「大殿様も、近衛少将から苦情が来たと言っていたネ。近衛少将にも文を?」
 鷹揚な北の方には珍しく質問が続くので、私はますます背筋を伸ばした。
「もちろんでございます。女の側にも男の側にも、それぞれ事情がおありでしょうから」
「そんなに噂の真相が知りたいのカイ?あんたの個人的な日記に書くためだけに?」
「私の日記が有名になれば、個人的なものではなくなりましょう。使い方次第では、醜聞ばかりが広まるのではなく、そこにあるかもしれない美しい真実を人に知らしめることができます」
「まあ浮気に美しい真実なんてないんダロウヨ。こういう場合、ある方が少ないダロネ」
「ご迷惑をおかけして申し訳なく存じます」
 手をついて頭を下げると、北の方は、
「はた迷惑だから、今後はもう控えるかい?」
 と言った。
「控えたくは、ないのですが。北の方は私がやめることを強くお望みですか?」
 私自身はこの新しい趣味が気に入っている。
 するとしばらく間があった。それから北の方が、
「はっほほほ」
 と、呵々大笑を始めた。
「兵衛督の北の方の様子もおかしかったけど、あんたも相当おかしいヨ。じっとすることができない子ダネ。今まで、そんないきなりの文に応じてくれた人がいるのカイ?」
「床板を踏むと皇麞急おうじょうのきゅうのさわりが演奏される廊下というのには、お返事を頂いて実際に伺いました。でも、正直そんな風には聞こえませんでした」
 私が試しにぎちぎちと廊下を踏んでいると、私の足がでかいからだとか、踏み方に品がないからいつもの調子がでないのだと言われた。やがて床板皇麞急を演奏する天才という女房が出てきたが、今度は湿度が足りないからいつものように音が出ないということになった。それでも女房がやっきになって廊下を踏み鳴らすうち、その女は足を滑らせて庭に転がり落ち、頭を怪我して騒動になってしまった。
 一部始終を話していると、北の方はおかしくて仕方ないというふうに身をよじって美しく響く声で笑った。
「他ニハ、他ニハ?他にもあるデショ?」
「いやぁ、なかなか」
 実は色々とあるのだけれど、あちこち、特に治安の悪い市井へ出歩いて取材していることが神祇伯に伝わると心配をかける。何を話すか吟味が必要なところである。
 どれをお話したらいいかしらと思案していると、音もなく神祇伯が御簾の外に現れた。
北の方は手をぱたぱたと顔の前で振った。神祇伯の前ではいつもこういう仕草をして声を整え、先ほどまでとは打って変わったガラガラ声にするのだ。私と二人のときには美しい張りのある声を出し、夫の前ではしゃがれた声を出すわけだけど、なぜ逆にしないのだろう。世の夫婦というのは謎である。
「いつもながらビックリするネ。もっと音を出して現れたらどうなの」
 神祇伯はさびたお声がお好きなのかもしれない。
「お話が盛り上がっているようで、邪魔をしてはいけないと思いまして」
 これも平常通りではあるけれども神祇伯はとても疲れた顔をしていて、北の方に向かってにこりと一回微笑を浮かべただけだった。
「殿方がいないと、女人はいつだって羽目を外して楽しむものヨ」
「私がいるときにも、羽目を外していいのですよ」
「いやだヨ。大殿様に呆れられたくないモノ」
「あっは。かわいい」
 破顔したかと思うと神祇伯は顔を片手で覆ってしまったので、私もなんだかどぎまぎして目を逸らした。しかしなるほど、夫婦とはこういうふうにいちゃつくものか。ほほ笑むのにも疲れすぎているように思われた神祇伯が笑顔になったではないか。大変参考になる。
「もっとこっちにイラッシャイヨ」
「しかし、遠の君がおいでではないですか」
「いいジャナイヨ、ホラ」
 勉強にはなるものの、放っておくと目の毒になりそうなので、私はひと際大きな咳ばらいをした。
「夫を待つだけの今の私には、どうも刺激が強すぎるようで。下がらせていただきますね」
 すると、神祇伯が慌てて腰を浮かした。
「いや、いや。遠の君にお話があって参ったのです。ほら、北の方はもう少し待っていてください。後で、ね……」
 ごにょごにょと二人で目くばせをしたりささやき合っている。その時間が少々長すぎるので、
「ぐ、ぐぉっほん。いえいえ、私はお暇させていただきますので、お気になさらず」
 私は早口に告げると、その場を退散しようとした。
「お待ちください」
 神祇伯は北の方を引きはがすのに手間取っているため、私はさっさと簀子縁まで出た。けっ。待つものかよ。
 実は師永津から帰ってすぐ、神祇伯に神子の逃亡事件について詳細を乞うたのだが、のらりくらりと躱されてしまった。だから私は多少なりともすねていますよ、というのを伝えるため、当分の間は神祇伯にすげない対応をすると決めているのだ。
「しばらく。深刻な話なのです。梅太郎殿のことで」
 なんだ。深刻な話をしにきていちゃついていたのか。人の気も知らず、のんきな人である。でも、一体なんの話だろう。
「実は、先日から絶間に揺らぎがありまして」
「揺らぎ?」
 先だっても神祇伯が説明してくれたが、絶間というのはとても繊細なものらしい。几帳面な神祇伯はそれはそれは丁寧にその管理を行ってきて、これまで絶間の健全性を保ってきた。ところが最近になってその絶間が手の付けようがないほどに荒れてしまっているという。
「このまま不安定な状態が続くと、絶間が消滅してしまう可能性があります。神祇の過去に、かつてそのようなことが一度あったのです」
 二百数十年前のことだが、同じように絶間が不安定に開閉を繰り返し、消えてしまったのだと言う。
「そのときもそうですが、原因もわからなければ、対処法もないのです」
 神祇伯は隈が浮いた目の下の汗を指先で拭っている。私は一つ息をついた。今まで無意識に息を止めていたらしい。
「つまり、絶間が消えてしまいそうだけど、為すすべなく待つしかないということですか?」
 息を止めていたせいで、私の声もすこししゃがれていた。
「この絶間に関しては、そうですね」
「この絶間に関しては、とは」
「まだ当分の間は夫婦御供が必要ですので、他に絶間を探して、そこから新しく人間を連れてこなければなりません」
 神祇伯はそう言うと、伏せていた目を上げて、痛々しいものを見るように私を見た。
「遠の君。でもそれは、梅太郎殿ではないのです。絶間は九百九十界ある人間世界のいずれかにつながっていますが、それぞれの絶間は互いにつながっていないのです。つまり馬五井山の絶間とつながる世界は、他の絶間からは分断されているため、他の絶間から梅太郎殿をかなぐり抜いてくることはできないのです」
「大殿様!」
 北の方が声を上げた。神祇関係の話のときにはいつも静かに聞く側に回るだけの北の方にしては珍しかった。
「お仕事のことだから黙って聞いていようと思ったケドネ!ようやく新婚になったばかりの遠の君に、別の婿を取るってこと?あんまりじゃないか」
「そうではありませんよ。落ち着きなさい、せっかちさん」
 神祇伯は北の方の大きな手を取ると、両手で包んだ。
「遠の君と梅太郎殿はもはや対となって、正式に奉納されています。他の人とめあわせることはできません。そうではなくて、新しい妻と、新しい夫を選んで、夫婦御供を一からやり直さねばならなくなるかもしれないということですよ」
「遠の君はどうなるのサ」
「少し離れてしまって淋しいのですが、小野の叔父の屋敷に移っていただいて、そこで暮らしていただこうかと。まあこれはおいおい話して決めてまいりましょう」
 私の身の振り先まですでに具体的に描かれているようである。
「勝手ね。なんという無責任な話ダ。なんとかできないのカヨ?」
 北の方は神祇伯の手を勢いよく振り払って、私のところにすごい勢いでいざり寄ってきた。
「もちろん、今の絶間を維持するためにできるだけのことはする覚悟です。でも先ほどもお伝えしたように、静かに見守る以外、ほとんどできることというのも見つかっていないのです。神祇官としては、新たな絶間の開拓、これはもう目星がついていますが、それから新たな夫婦候補を選択していくことも並行して行わねばならないのです」
「今の絶間の維持に全力を尽くしてあげなきゃ、二人がカワイソウじゃないのヨ!人のことをなんと思ってるヨ!」
 北の方が思い切り床を叩くと、軽い神祇伯は少し浮いた。その様子は私にたんぽぽの綿毛を思わせた。神祇伯のことだから、きっとやれることを探して探して、綿毛になるほど瘦せてしまってから私に伝えに来たのだろう。
「い、いえ、北の方。私は大丈夫です。神々は気まぐれですから、もうそうなったら仕方ないというか、なんというか。私は慣れていますし。夫婦御供の準備には時間もお金もかかるのですから、もうだめになりそうなものに力を割くわけにもいかないというのも、承知しております」
「そうだヨ。大殿様ったら、あんなに準備して、ケチな性分を押し込めてお金を使っていらしたじゃないの。見ていて心配で仕方ないんだ」
 神祇伯は再び北の方の手を取って、何かを言ったが、私にはもはやその弱弱しい声が聞き取れなかった。
「駄目なワケアルカ!禿げても寝タキリでも、あなたは私の夫ね。でも遠の君と梅太郎がかわいそうネ」
「あ、本当に私の方は、もうお気になさらず……。これにてお暇いたしますので」
「待ちなヨ。遠の君。最後まで聞いてオイキよ」
「まだ、私が聞かねばならないお話がおありですか」
 神祇伯が何かを言ったが、やはり聞き取れなかった。神祇伯の声も元から小さいのだが、どうも私の耳の方でも耳鳴りをしているらしいことにそこで気づいた。
 北の方の話していることも聞こえづらくなっていたが、さかんに神祇伯といちゃついているように感じられた。
「お二人の睦言のほかには何もないようですので、これにて失礼」
 私は立ち上がろうとしたが、そのころには甲高い耳鳴りがひどくなっていて、私は平衡を失ってよろけた。
 神祇伯と北の方が揃って私の方に急ぎ、手と膝をつく私をとりあえず横たえようとする。だけど私はお二人の前で寝転がりたくなくて抵抗していた。
 やがてばたばたと他の女房たちが水やら何やらを持ってきた。そうして宛木もやって来て、私の五衣の紐と袴を緩めてくれたとき、ようやく朦朧とした意識を持ち直した。
「姫様、これで少しは苦しゅうございませんか」
 宛木はひんやりした指先を私の額にそっと置いてくれた。このまま北の対に留まっていてはいつまでも神祇伯と北の方に心配をかける。私は挨拶をするとふらつく足腰を叱咤して、立ち上がった。
 宛木は私を支えながら、なぜだかにやにやしている。訝しく思っていると、
「あらやだ。わたくしったら。姫様の大事に申し訳のうございますわ。でも勝手に頬が緩んでしまいまして。この、この。しゃんとなさいなわたくしの顔ったら」
 言いながら自分の頬を叩いている。
「でもねぇ、姫様。最近ご飯の量も少なくなっていらっしゃいますし、食の好みもよりあっさりしたものをお召し上がりになりますし。もしかして、もしかするとでございますよ。お、お、おややが……。ま、まあ、わたくしったら最近はその可能性ばかりに頭がいってしまいまして。もちろん、まだそうなるのは早いとは存じてますが。だって、梅太郎殿とそうなったのはねぇ、ついひと月前ですから。ですけれどわたくし、一度考えだしますともう楽しみが止まりませぬ。だって、まったくないとは言い切れませんもの」
 宛木は先ほど神祇伯がした話を聞いていない。私たちの夫婦御供が終わりそうなことを知らないまま早口にまくしたてるのを、北の方が咎めた。
「宛木、女房が早合点して無闇なことを口にしてはいけないヨ」
 そう言いながらも、北の方も口元が徐々に緩んでいくのを、手を当てて隠している。
 私はもう一刻も早くその場を去ろうと力を振り絞って歩き出した。目の端に険しい表情でこちらを見つめている神祇伯が映った。
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