北風日記

小烏屋三休

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4. 神殿

16. 出戻り

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 大規模な出奔騒動のあった神殿だが、中に戻るとあまり変わったところはなかった。いつも通りみそぎを行い、祈り、ご飯を食べ、稽古をし、眠り、時に粛々と神事を行う。敷地内の静かな野原では朝にスズメが遊び、夕方には蝙蝠が飛び交う。
 以前と少し違う点は、寝るための房が一人房になったのと、私と同年代の人が出奔してしまったり、儚くなってしまったりしたようで、私が最年長組の一員になっていたことくらいか。後輩と見れば見下して、嫌味の一つをわざわざ言いにくる先輩方がいなくなった。
 見たこともない新参者もいたが、昨年一年で新しく神殿に来た子は平年に比べて少ないようだった。その初々しい神子たちも顔見知りの神子たちも、押しなべて私を腫物扱いした。私はほとんど誰からも話しかけられることがなく、やるべきことがないときには敷地の境界付近まで出て空を眺めることにしていた。権禰宜とこっそり会っていた、ウツギの生垣付近の小川だ。
 神殿に入ってしまうと外界出張時以外は外界との接触はなくなる。誰から文をもらうでも、文を出すでもなく、外の情勢を聞き及ぶことはほぼない。
 ただ天気は、都と都からほど遠くないこちらもほぼ同じだろう。
「いただけない天気だなぁ」
 私は都の方の空を見てつぶやいた。最近雨が長く続いていて、晴れ間がほとんどない。ふた月の間、洗濯物が渇いた試しがない。それから水無月には大きな地震と、それに続く火事がここからも見えたから、天災や火事に関する神事の担当者は忙しそうにしている。さぞかし世間では不安がっているだろうし、作物の実りに大きな影響が出ていないといいのだけれど。
 日が傾こうとする原っぱで湿った洗濯物が少しでも水を落とすのを待ちつつ、ぼんやりと空を眺めていると、吉川大神宮の権宮司が私に用があるとのことで、人が呼びに来た。
「神宮に行くんですか?なんの御用でしょう」
「それは行ってから直接聞いてください」
 神子は基本神事以外では外に出ないので、用事があればどんなに偉い人でも神殿内に設けられている面会場に来るのが通例だった。それも高齢で歩くのが覚束ない宮司ではなく、まだ壮年の権宮司が神子を施設外に呼び出すとは。私はとりあえず、まだ湿って冷たい白丁しらはりを着こんだ。
「夕餉の支度があるんだけど」
「他の当番だけで回すしかありません。あなたは片付けまでに帰ってきたらいいでしょう」
 つまり、私の夕飯はないのだろうな。私はたちまち鳴り始めた腹の虫を手の平で抑え込んだ。
「それにしても珍しいな。なんだろな」
「行けばすぐにわかるんだから、静かにしてたらどうですか」
 このあばたの神子は安福他あぶたという名で、今回のように用事があるときに決まって私に連絡する男だった。どういうわけでそんな役回りを引き受けるようになったかは知らないが、私のことを嫌いなようである。私がこぼす言葉など、そわそわする気持ちを抑えられずに言っているだけのほぼ独り言なのに、いちいち反応して棘のある言葉を返してくる。まあいいや。この男にも出戻りの私を嫌う事情があるのでしょうが、私の知ったことではないので、放っておこう。放っておくと決めたので、私は独り言を止めなかった。
「もう二度と神殿の敷居を越えることはないと思ってたけど、なんか新鮮だな。どきどきしちゃうよ」
「本当に。よくも恥ずかしげなく行ったり来たりできるもんです。大役を二回も失敗して」
 アメノマルツチ様に見限られたことと、夫婦御供が反故になったことを言っているのだろう。そう考えると、私の人生では、私の思いや考えとは裏腹にことが進むことが多かった。人身御供しかり、夫婦御供しかり。人間界追放になった権禰宜とは二度と会えないと考えていたら、旧賀茂橋で再会することになった。二度と神殿に戻ることはないと思って還俗したのに、またここに舞い戻ってきた。今日について言えば、外界との接触はないと思っていた矢先に、準外界の神宮に行くことになった。
 この線で行って、妹の中の君とはもう会えないと考えたら妹に、宛木と会えないと考えたら宛木に会えないものだろうか。それからもちろん、梅太郎にも。いや、それは虫が良すぎるから神祇伯あたりにしておこうか。
 神殿の入り口ではわざわざ権宮司が出迎えてくれた。そこで私はニキビ面の神子から権宮司に引き渡され、いよいよ外に出た。神殿内には蝉がいないのだが、敷地を一歩出た途端、耳が痛くなるほどににぃにぃ蝉があちこちで鳴いている。
 吉川大神宮は神殿に隣接しているが、敷地がとても広い。私たちは目的地に行くため、ぐるりと敷地を取り囲む垣根を迂回することになった。四半時も歩いただろうか。垣根の切れ目にある小さな鳥居をくぐり抜けると、一見行き止まりに見える、枯れ木ばかりの藪を進んだ。
「これから行く美津狩内みつからない堂という建物に続くのは、この道だけなんだよ、君。ところがここから先は特別に許可された禰宜以上の同伴がないと通ってはいけない決まりでね。剪定の者が単独では入れないので、荒れ放題だ」
 権宮司には伴の者が一人いて、その伴が枝をかき分けたところを権宮司が進んだ。権宮司が通り抜けると伴人はたわめていた枝を離すので、それが跳ね返ってきて私は始終痛い思いをした。ほんの少し枝を押さえ続けてくれるだけでいいのだけれど。「あれぇ、痛い」と声を上げても何も考慮してもらえないので、私も両手をつっぱり、戻ってくる勢いづいた枝を打ち返しながら進んだ。
 ようやく藪を抜けると、沈んだ感じのする灰色の堂がぬっと建っていた。
 格子がすべて開けられていたので、夕刻ではあるが中がどうなっているかはまだ見通せる。私たちはきざはしを上って、中に入っていった。
 外から見るよりうんと天井が高く、天井と床との中間くらいを人が上がれるほどの幅の棚がぐるりと取り囲んでいる。よく見ると確かに人が昇ったりするようで、堂の隅っこに梯子が設置されていた。
 それから私は、おや、と思って目をこらした。棚のところの壁に貼り付けてあるのは、もしや忌札だろうか。まさかそんな。
 権宮司は堂に着くなり伴人と一緒に格子を締める作業を始めたので、私は一人で手持無沙汰にしていた。しかしやがて私が棚の上に目を凝らしているのに権宮司が気づいて、梯子を上るように促した。尖った顔に油が浮いて油断のならない顔つきだが、やけにこちらの意を察してくる。相当な切れ者か、酷薄そうに見えて実は優しい気配りの人なのかもしれない。今も、
「三段目と五段目の梯子には足をかけないように。私どものように小柄な人の重さには耐えられるのですが、君のように大柄な人はとてもだめだ」
 などと教えてくれている。
 手の平の長さのその板はやはり忌札で、七十名程度の神子たちの忌み名がそれぞれに書かれていた。農家、漁家の子によくつけるような名前もあれば、貴族のものだろう、驚くほど雅な名前もある。
 私はすぐに自分の名前の札を見つけた。というのも、木製の札は奥に行くほど古くなっていて、奥ほどに古参の神子の忌札がかかっているのだとわかるが、私の古びて色黒になった忌札は一番手前の新しい白い木札群の中に、ぽつんとうらぶれた様子で引っかかっていた。作られたのは二十年近く前だが、おととし還俗したときに奥の方から外され、また神殿に戻ってきた際に戻して、手前にかけられているのだ。
 これが私の神子生命の源である。これがここに祭ってあるかぎり私たちの祈りはより神々へ届きやすくなり、神々の声も私たちにより聞こえやすくなる。そしてこのために私たちの命は削られ続け、出奔して遠くに逃げたとしてもじきに人柱に立つことを避けられない。
 こんなに無防備に保管されているとは思ってもみなかった。もっと地下の、灯りも限られたような穴蔵に厳重な管理のもと祀り上げられているのかと思っていた。禰宜以上は来てはいけない決まりになっているとは言うけれど、藪はあれども柵も警備もない建物で、一般の参拝の人も来ようと思えば来られる。一枚一枚の札もただ壁に打ち付けられた釘にひっかけてあるだけで、中には風または地震のために落ちてしまっている札もあった。出奔する神子たちは是非ともこれを取り返してから行くべきであった。
 私は権宮司を振り返って尋ねた。
「人柱に立つことが目前に迫っている神子には忌札の在処を知らせる習わしですか」
「いや。ただ、特別に隠してあるというわけでもないのだよ、君。見たいという神子がいればいつだって見せていいものだと思っているのだから」
「なんと。それはまた……。なんとなんと。それでしたら、ぜひ神子たちが入殿したときの諸説明にここのことも加えたらどうでしょうか」
「神殿内で何を説明するかは、神殿の運営部にまかせているものでね、君」
 権宮司は慇懃な微笑を浮かべた。
「でも、運営部は神子たちで構成されています。そもそも今の運営部で知っている人がいなければ、伝えることなどできないのではないでしょうか」
 運営部は七名で構成されている。人柱に立つなどの理由で欠員がでると、残った中で最年長の神子が半強制的に参入することになっていた。年末年始の出奔で、年長者がごっそりと姿を消したため、現在運営部の構成員は皆若く、十代の子さえいる。本来なら最年長部類の私も入るべきだろうが、出戻りという経歴が敬遠されたようで、免除されている。
「君は知らないだろうが、最近こちらはとても忙しいのでね。神殿内のことにかまけている余裕はない。ただでさえ、昨年末から出奔騒ぎで面倒したというのに」
「何か私の知りえない大事があったのでしょうか」
「ふん。どこかの陰陽師が、これから長月にかけて富士の噴火とさらに大規模な地震があり、都が水没すると予言したのだ。それを受けてやけになって火付け強盗が流行るわ、暴れて社を壊すものも出てくるわと、こちらも対応しなければならない案件が多いのだよ、君」
「富士山が、噴火。それは確かですか」
「陰陽師の予想が確かなことであるはずがない。それを確認するのも君らの仕事なんじゃないかな。また、世がこのように荒ぶっているので、今後の猿獺祭えんだつさいは意気込んだものになる。君も準備を怠りなく」
「はぁ」
 私は曖昧に返事をして黙り込んだ。猿獺祭というのは、神子が死んだときにとり行われる祭だ。以前は葬儀だと思い込んでいたが、神子の魂を弔うというよりも、神様のために死んだ、もしかするとまだ生きていて死に行く神子を、人柱として捧げることに主眼が置かれる祭祀なのだろう。準備をせよと言われると死ぬのを急かされているようで落ち着かない。
 ふと権宮司も黙り込むと、私の忌札に触れた。私の忌み名を元々知っていたというよりも、先ほど私がそれをちらっと確認したのを、見逃さなかったのだろう。やはり相当目ざとい人なのだ。小さな目は三角形で、何事も見逃さじと鋭く尖っている。
悠征はるゆき
 忌札の文字を読むと、私をまじまじと見た。
「男の名だが。元は男だったとか?」
 それは私もかねてより不思議に思っていたことだった。というのも私自身、この忌み名を知ったのは夫婦御供になるために還俗する際、この札を返されたときだった。私を神殿に引き渡し忌み名を告げたのは父だろうが、何か手違いがあったのだろうか。
 なんと説明すればいいのか言いよどんでいると、梯子のところで物音がした。振り返ると、こちらへ昇ってくる木の枝の妖怪、いやよく見れば神祇伯らしき人と目があった。
 以前よりもさらにやつれた様子で、頬がげっそりとこけている。最初は骸骨と目があったと思ったほどだ。
 その消耗ぶりにも驚いたが、それよりも神祇伯までもが、忌札の置かれている私たち神子にとってとても重要な場所に自由に出入りできるという事実に、私は怒り驚きを通り越して呆れた。神祇の長官と言えど九割方部外者に違いはないのだ。
 神祇伯は足をもつれさせながらも駆け寄ってきて私の手を取った。
「ようやくお会いできました、遠の君。お元気ですか」
 私は深く頭を下げながら、頷いた。
「遠の君、顔を上げてください」
「いいえ。一方ならぬご配慮とお引き立てを頂いたのに、きちんとしたご挨拶もしないままこちらに来ることになり、合わせる顔がございません」
「いいから、あげてください」
 神祇伯はこりこりした木の枝の指で私の頬を包むと、上に向けた。
「ああ。都を去られた時より少しふっくらとされて、初めてお会いした時のように溌剌としていらっしゃいますね」
「お陰様で、最近は食欲も戻ってまいりました。ご迷惑をおかけしたので体も恥じ入ればいいものを、健康すぎてお恥ずかしい限りです。神祇伯様は、いかがお過ごしでしょうか。お忙しいと存じますが」
 私たちがしみじみと話しだすと、権宮司は神祇伯と入れ違いに静かに梯子を下りて行った。うん?やはり人一倍気配りの利く人なのかな。謎の多い人である。
 ところで、神殿に帰ることになったのは神子の出奔を助けた責を問われ、と言ったが、表立って責を問われたわけではなかった。ゆっぴぃは何も証言しなかったし、私が手助けしたという確たる証拠はどこにも見つからなかったのだ。
 西の方に逃げた神子たちは見つからなかった。どうせそう長生きしないだろうとお役人たちがたかをくくって、さらなる捜索がされなかったせいだ。終わりにはするが、このままでは落としどころがなく、格好がつかない。なんとかそれらしい落としどころを見つけたがったお役人は、神子出奔幇助について証拠はないものの、隠しようもなく粉くさい私に責任を追わせることにした。神祇伯にまで責任を波及させることはないと約束するから、私を引き渡せという話がやってきたのだ。神祇伯はそんな条件を飲まないと突っぱねた。
 折りしも神祇官では、私たちの夫婦御供のために開かれていた絶間の安全性について詮議が重ねられていた。往来のときに梅太郎が深手を負ったし、最近はぬえや河童などの物の怪がそこから漏れ出てきているということだった。そして検討を重ねたうえで、大事に至る前にこの絶間を閉鎖すること、すなわちこの絶間とともに本夫婦御供を棄却すると最終的に判断した。私も梅太郎も不要の人物ということになった。神祇官は新たな絶間を開き、新たな神子と人間を選んで夫婦御供をやりなおすことになる。
 
 私と梅太郎の夫婦御供がなくなることが分かるとすぐに、吉川大神宮はお下がりとなった私を返すようにとの要請を送ってきた。
 というのも、間もなく人柱となるはずの年長の神子たちが出奔してしまったので、人柱が足りなくなっているらしい。先程触れた猿獺祭だ。私は長く人柱というのはただ儚くなることの言葉の綾かと思っていたのだが、神宮の言い分から推察するに、天下の安寧のために祭られなければならないらしい。我ら神子は生前にさんざん祈って命を削っているが、死してもなお果たさねばならない役割があるのだ。むごいほどのこき使われようである。
 私を引き留めようと諸方面に掛け合ってくれる神祇伯をよそに、私は神宮の要請を受け入れてふたたび神子として神殿に戻ることにした。お上の落とし前と神宮の要請という小さくはない意図が絡んでいたので、神宮への出立はひっちゃかめっちゃかのわやくちゃのうちに計画されることとなった。そのため私は神祇伯邸の人々にきちんとした挨拶もできず、地方回りをしていた梅太郎にも会うことかなわないまま、ほとんど夜逃げのように舞い戻ってきたのだ。
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