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三十 あたしのあだ名を知ってる?

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「女は手加減を知らないんだ」
 結局、あたしのパンチは思いがけず彼にダメージを与えすぎたので、立ち上がることができなくなったアリフレートをあたしがえっちらおっちら小屋に引きずって行かねばならなかった。あたしは再度自分のパワーについての意見を改める局面に至ったということだ。やはり、あたしの力は強い。
 寝台も椅子も机もない、殺風景な小屋の中で、あたしたちは一夜を明かした。夏とはいえ、夜、特に明け方は冷えた。替えの服を何枚も着こんで、かろうじて備えられていた薄っぺらい毛布を頭からひっかぶる必要があった。
 小屋の隅にフクロネズミがいて、夜行性のため一晩中あっちこっちをちょろちょろ、ちょろちょろしていた。夕飯の時にアリフレートがお弁当の中に入っていた菜っ葉をやったので、これに味を占めて主にアリフレートの周りをうろうろし、彼の睡眠を妨げた。一度などは、寝ているアリフレートの髪をかじり始めたので、慌てたアリフレートが悲鳴を上げて夜中に飛び起きた。
 翌朝、寝不足で隈をこしらえたアリフレートとあたしは、近くの食堂で朝食をとると、バリケードへと向かった。あたしはアリフレートに食事について指摘されて以来、平気なことを見せつけるためにもむしゃむしゃと派手な咀嚼をしながら食事をするようにしている。
「あんたの図太さは、信じられない」
 アリフレートが悲鳴をあげたとき以外は、あたしが微動だにせず眠っていたと言って、アリフレートは恨めしげに体をぶるっと震わせた。
「寒かったし、床が固かったから体が痛い」
 本当は、あたしも寝不足だった。昨日腕を掴まれてから、アリフレートに対する恐怖心が多少なりとも芽生えてしまったせいだ。握力の強さが、異性に対する警戒心を呼び起こしたのだろう。ただ、今更アリフレートを異性として意識し、要らぬ警戒をしているなんてばれたら、辛辣にあざけられるに違いない。だから彼が身動きする度に体の芯をこわばらせながら、意地でも動くものかと頑なにみじろぎを封じていたのだった。おかげであたしも体がひどく疲れていて、バリケードまでの道のりを昨日よりずっと長く感じた。
 たどり着いたバリケード付近は、昨日と打って変わって緊迫した雰囲気だったので、あたしたちはとりあえず近くの木陰に身を潜めることにした。
 まず、警備が昨日より強化されている。ずいぶんと強化されていた。人間の警備員が二人と、十メートルおきに、呪術で作られた警備兵が配置されている。真っ黒なゼリーでできた、目も鼻もないのっぺらぼうの大人程の大きさの人形だ。これほどの量の兵隊をおけるなんて、相当な量の魔法使いと材料が必要だったはずで、ウォリウォリに毛が生えた程度の田舎町とはいえ、マルコ市も侮りがたい。
「フジ。残念かもしれないが、今回は帰省をあきらめたらどうだ?やはりこのバリケードを越えるのは無理だ。よしんばあの兵隊たちの目をかいくぐったとしても、あの小さな紙屑に襲われて終わりだ」
 アリフレートは毒植物の香りがつらいのか、喉をひゅーひゅー言わせ始めている。あまり長くここに潜んでいることはできない。
「その、あんたさえよければ、俺の実家に一緒に行かないか?」
「うん、なんて?」
 その時、ちょっと離れた茂みから急に草木を立ち割って進むような音が聞こえてきた。
 見ると、昨日の投石器の男を先頭にして、十人あまりの男が、昨日よりも大がかりな投石器を台車にのせて茂みから走り出てきたのだ。
 台車はかなり大がかりだし、茂みも邪魔するので進む速度はすこぶる遅い。ところが黒いゼリーの兵隊たちの動きも緩慢で、一歩足を踏み出すのに二秒はかかっているという塩梅だ。両者はゆっくりと互いに歩み寄っている様子だった。
「しめた。あちらで注目を集めている間に、あちら側にいけるかもしれない」
「なんだって?でも今日はなんの準備もないぞ。登るのに何がいるか、失敗したときにどうするのか、確認してからの方がいい」
「いや、今しかない!もう少し兵隊たちが動けば、守りの手薄な場所が出てくるよ」
 そうして台車は昨日の場所よりよほどバリケードから離れたところに陣取ると、石を投げる準備にかかった。そのころにはのろまの兵隊たちもようやく男たちに手が届く位置まで歩いてきて、一人、また一人と掴んでは投げ、掴んでは投げし始めた。動きはのろいが、力はすごいらしい。大の男が数メートル飛ばされている。
 するとまた別の茂みから十人程度の別同隊が現れ、こちらはまっすぐバリケードに向かって走り出した。手に大きな庭ばさみや木槌を持っていたりするから、直接バリケードを破壊しようと考えているらしい。
「今だ!」
 あたしも茂みから飛び出し、兵隊たちの間をくぐってバリケードの方へ走った。
「おい、待てよ。無茶だ!なんの準備もないじゃないか!」
「あんたはそこで見てな!」
 あたしは懐から二枚の札を出した。教頭のところからくすねた風遁の札と、火遁の札だ。
「あなかしこ、あなかしこ!」
 あたしは両方の札に息を吹きかけ、呪いを唱えた。ただのおまじないで、特に魔法の言葉でもないけれど、言うとかっこいいし、言わないよりも言ったほうが神のご加護をもらえる気がする。
「臨める兵、闘う者、皆列を|つらねて前に在り」
 アリフレートは茂みのところで地面に手をついてせき込んでいる。
 あたしを見つけた兵隊たちが、こちらに向かってのろのろとやってきた。不思議なことに、はたから見ているよりも、こちらに向かってこられるときの方が奴らの歩みは速く感じる。
 あたしは目を閉じて今度は本当の魔法の言葉を唱え始めた。いつもは呪文など唱えないので、つっかえつっかえして、なかなか進まない。でも、今回のこれは千載一遇のチャンスかもしれない。ウォリウォリにはなんとしてでも帰る。帰らなくても良かったのだが、なけなしの貯金をはたいて成人の儀の準備をしてもらったし、帰ると決めたので帰る。失敗はできない。あたしは一つ一つ丁寧に言葉を紡いでいく。
 びゅ、と音がして、投石器から何かが放たれた気配がしたが、すぐさま件の紙の人形に落とされる気配もした。誰かの悲鳴も聞こえる。
「おーん……」
 あたしが呪文を唱え終えて薄眼を開けると、すぐ近くにアリフレートがいてゼリーの兵隊に組み敷かれていた。囮になってくれたのかもしれない。兵隊の重みのせいか、植物の毒に中てられているのか、げぼっと胃の腑の中の物を吐き出している。
 アリフレートと目が合うと、アリフレートは必死の形相で顎をしゃくり、あたしを促すような仕草をした。いつも表情に乏しく、色々なことを余裕にこなすアリフレートも、こんなに必死の顔をするものか、と思った。吐いているのだから当然か。
 風遁の札の周りを風が、火遁の札の周りを炎が渦巻き始めた。
「そこ!何をしている!」
 投石器にかまっていたおじさんの警備兵が遠くから笛を鳴らし、こちらに向かってくる。
「何をしている!なんだ君は!」
 チッ、と舌を鳴らして呪文を終えると、風と炎は一層強まり、足から徐々に這い上がるようにあたしを取り巻き始めた。
「おじさん、あたしのあだ名を知ってる?」
 知るわけないけれども。おじさんはこちらに駆け付けようとしてなぜだかゼリーの兵隊に一発殴られている。めちゃくちゃだ、ここの警備は。
「あたしのあだ名は」
 大きく息を吸い込むと、一気に魔法の力を放出した。あたしは一気に大きな炎と風に包まれ、空高く舞い上がった。
「ロケットエンジンノズル、フジっていうんだ!」
 飛びついてくる紙の形代など鎧袖一触である。
「無敵!」
 あたしは飛びついてきた紙の形代を燃やし、吹き飛ばしながら上昇した。そうしてバリケードをやすやすと超えると、ウォリウォリの領域へ見事入っていけたのだった。
 ただ最大の誤算は、着地について何も算段していなかったことだった。このまま地面に激突したら、ただでは済まない。幸いバリケードのあちら側には様子を見ているウォリウォリの人々がいるから、ほったらかしにされることはないだろう。
 ここから先は記憶が曖昧だが、とにかくあたしは体の側面から地面に落ちた。頭も嫌というほど打った。でも、死んでいないようだった。少なくともすぐには死んでいない。抜けるような青空を見上げながら、あたしは助けを待った。
 ところがどうも、あたしは自分の魔法について不安が大きすぎたのか、口から血を流しながら、なおただならぬ様子で呪文を唱え続けることをやめられなかったものだから、魔法を使わないウォリウォリの人々は怯えてあたしを一時遠巻きにした。
 やがて虫の知らせか、バリケードにやってきていたニッキが人ごみをかき分けて前に出ると、半狂乱であたしの名を呼んだ。あたしもここはよく覚えている。ニッキの声が心地よくて、心の底から安心した瞬間だったから。ウォリウォリの人々もこの呼びかけでようやくあたしがフジだとわかってくれたようだった。
 あたしは血まみれの口をにったりと笑わせた。
「お久しぶり、ちょっと太ったんじゃない?」
 ニッキも見物も一部始終を見学していたその人たちも、血みどろで余裕を見せようとするあたしに呆れながらも、病院に搬送してくれた。
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