短編ア・ラ・モード

ゆぶ

文字の大きさ
上 下
16 / 21

太陽の指輪

しおりを挟む

 夕方前のこの時間。懐かしいこの時間に、商店街の入口にぼくは立っている。七夕が近く、店の前にかざられた竹の枝に結んだ短冊が、かすかに風にゆれている。あの店の短冊にいちどだけ、願いを書いたことがあった。その願いはまだかなってはいない。あと一歩だった。だけど、そこからの一歩がはるかに遠い。その一歩に、無数のライバルたちがひしめいている。感性とテクニックにさらに磨きをかけるべく、ぼくは明日、日本を飛び立つ。その前に、どうしてもここに来ておきたかった。ぼくは商店街を歩きはじめる。変わらないにおい、変わらない音。大学のときの友だちが、ふるさとの海のにおいと波音は、世界のどこにもない唯一無二のものだと話していたことをふと思い出した。ぼくにとってはきっとそれは、この商店街がそうなんだと思う。

 この商店街の通りにあるコミュニティセンター前のフリースペースに、一年間だけ、アップライトピアノが置かれていた。いわゆるストリートピアノというものだ。ぼくの家は団地で、グランドピアノやアップライトピアノといった本格的なピアノは置けなかった。ピアノに興味を持ちはじめたのは小学二年生の時。ぼくは最初は、紙に書いた鍵盤でピアノを練習していた。いや、練習したというよりも、遊んでいた。紙の鍵盤をタッチして音を想像するのはとても楽しかった。だからミスタッチなど気にすることなく、無邪気にでたらめに弾いていた。それはやがてキーボードになり、そこからさらに電子ピアノになった。それならヘッドホンをして弾けるので、団地でも気兼ねなくぼくは弾くことができた。父は地元の工場で精密部品を作っていて、母親はパートで図書館で働いていた。

 父も母もやさしくおだやかで、家のなかはいつも笑いにつつまれていた。ぼくは自分の部屋をあたえられてからはピアノに没頭した。口には出さなかったけれど、ぼくの本格的なピアノに対する渇望は日に日に大きくなっていた。そんな時、商店街に置かれたストリートピアノに出逢った。小学五年生の冬のはじめ頃のことだった。小学校には自由にピアノが弾けるクラブ活動がなかったので、ぼくはそれに飛びついた。はじめは人前で弾くことに勇気がいったけれど、三回目に弾き終えた時に拍手してくれた人がいたので、それからはストリートピアノで弾くことが毎回ワクワクするような楽しみになった。そう、ぼくにとってそこでの演奏は、たった一曲だけのコンサートをしているような、そんな気分だった。ぼくは学校帰りに寄り道してそこで弾いた。曲は、シューベルトやリストやショパンなどのクラシックがメインだった。ある日、技術力が高いと噂になっているこの町のある工場に来ていたと話すサラリーマンのおじさんが、ぼくのピアノを聴いて泣いてくれた。弾き終えたぼくに、目に一杯の涙をためて、きみはいずれすごいピアニストになると言ってくれた。そのサラリーマンのおじさんは、すごい技術を見て、すごいピアノを聴いたこの町は素晴らしいところだと感激しながら話し、これから大分に帰るところだと言いながら時計を見ると急いで向こうへと去って行った。去る間際に、また聴きに来るよ、と笑顔で添えて。でもその日以来、その人とはまだ再会していない。そこでの演奏というのは、まさにストリートピアノを言い表しているそのことばどおりの、『一期一会のコンサート』だったのかもしれない。ぼくは学校では友だちはあまりいなかったけど、そこではいろんな人たちと友だちになれた。年齢はさまざまだった。演奏会の練習に来る年下の女の子もいたし、プロのジャズピアニストの男性もいたし、独学でピアノを学んだおじいちゃんもいた。そのなかにはいまも交流が続いている人が多くいる。

 ぼくがピアノに興味を持った、そのきっかけがある。それはテレビで、ある青年が地面に書いた鍵盤で練習しているシーンをみてからだった。彼の指は血まみれだった。それをみてからそのことが頭から離れなくなった。無邪気な遊びの時間が終わり、紙の鍵盤がキーボードの鍵盤になると、ぼくはピアノを一から母と一緒に学びはじめた。母がぼくに最適な教本を何冊か買ってきてくれた。ピアノ教室に行きたいか母に聞かれたけれど、母とこうして学んでるほうがいいと首を横にふった。子供用のキーボードは一年後には中古の電子ピアノになり、ぼくは自分の部屋をあたえられ、それからは自分の耳と目でピアノを学んでいった。わからないことも多かったが、そのたびにぼくは母に助けてもらった。母はぼくが投げかける疑問に対して徹底的に調べてくれて、そして完璧な答えを用意してくれた。そしてピアノに自信がつきはじめた頃にストリートピアノに出逢った。

 その出逢いからさらに一年近く経った頃には、ストリートピアノのまわりにはいつも人だかりができるようになっていた。なのでぼくはしだいに遠慮するようになった。そんなある日、突然ピアノが撤去されていた。ぼくはショックを受けて、ピアノがあったその場所をぼう然と見ていた。その時、後ろから声をかけられた。たまにぼくのピアノを聴いてくれていた年配の男性の人だった。その人は、自分はこの商店街の組合の理事長をしている者だと名乗った。そうしている間にもその人には理事長と声がかけられ、その人は笑顔でその人と挨拶を交わしていた。大切な話があるからとその人……つまり理事長さんはぼくに言った。時間はあるかな、と。ぼくはあやしい人ではないことがわかったので、うなずいた。商店街のなかにその事務局はあった。そこで、会議室みたいな部屋に案内されて、理事長さんとふたりきりになった。理事長さんは、ぼくのピアノをときおり聴いていたことから話しはじめた。だいたい決まった時間に弾いていたからと。ぼくも気づいていて、すごく励みになっていたことを話して頭を下げた。理事長さんはぼくに興味を持ってくれたらしく、学校のことや、家のこと、そしてピアノの練習や好きなピアニストのことなどについて質問をかさねた。少し警戒がてらのぼくの話を聞いたあと、理事長さんは、その気があるなら音大附属の学校の試験を受けてみないかと切り出した。きみのピアノをたまたま通りがかったある人物が聴いていてね、わたしのところに紹介してほしいと話がまわってきたんだ、と。ぼくさえよければその件をご両親に話したいとのことだった。ぼくは両親に話してから、それからお返事してもいいですかと尋ねた。もちろんそれでいいよ、と理事長さんは答えた。

 ぼくはその夜、父と母にそのことを話した。父も母もぼくが商店街で弾いていることは知っていたと言った。父は、そこにほんとうに進学したいなら受けてみればいいと言ってくれた。何も心配しなくていいからと。その翌日には、母が理事長さんに電話をしたみたいだった。ぼくは試験を受け、入学金・学費免除の特待生としてその学校に入学することができた。その学校はこの町から遠く離れていたので、ぼくはその学校の寮に入ることになった。これから思いっきり本格的なピアノが弾けるようになることはとてもうれしかったが、そのいっぽうで商店街で弾けなくなってしまうことには言い知れぬさびしさも同時に感じていた。ぼくはまだ一時的な撤去だと思っていたし、理事長さんもそんな風なことを話していたから。ぼくは学校帰りに毎日のように弾いていた。晴れの日も雨の日も。あのピアノを。拍手のような、ぬくもりのなかで。そうそう、ぼくは雨の日にあそこで弾くのが好きだった。雨の日にはピアノはコミュニティ広場として使われている室内に置かれる。弾き終えた瞬間に、ガラス窓越しの雨音が喝采のように聞こえたからだった。

 ぼくは中学校で、可能な時間までひたすらピアノを弾き続けた。特待生も毎年の成績によっては取り消される場合もあるので必死でがんばった。エスカレーター式で継続して特待生として高校生になると、学校の先生のすすめではじめてコンクールに挑戦することになった。そこでぼくは優勝することができた。客席には、父と母がいた。雨音の向こうに夢みていた未来が現実となった瞬間だった。ぼくは高校を卒業し、これもエスカレーター式で今度は最高ランクの特待生として音楽大学に進んだ。大学で二年間学んだ後、財団が実施している奨学金で一年間ウィーンに留学した。すぐに自信は消えた。ぼくは世界レベルの洗練を受け、もがき苦しんだ。長くスランプに陥ったりもしたけれど、父から教わった心のありかたの御守りでなんとか乗り切ることができた。ぼくは留学中に国際コンクールで第二位になることができた。あと一歩だった。遠い、その一歩のはじまりだった。留学から帰国し、無事に大学を卒業すると、ぼくはレコード会社から話があって一枚のアルバムを出すことになった。そのレコード会社の人が、財団主催の報告会を兼ねた定期演奏会で弾いたぼくのオリジナル曲をたまたま聴いていたらしかった。全曲オリジナルのアルバムのタイトルは「太陽の指輪」。それは父と母のストーリーに由来している。高校生の時、母が寮に訪ねて来て泊まった夜、ずっと聞きたかったふたりのラブストーリーをぼくは母を質問ぜめにして聞いた。それらをいくつかのピアノ曲にした。父が、母に贈った太陽の指輪に込めた誓いがある。それは毎日、母をみていればわかることだった。ぼくも、アルバム『太陽の指輪』に、それを込めた。そのアルバムは秋頃に発売される。

 商店街の、フリースペースの前に来た。撤去された日から、そこにピアノは置かれていない。世界一。病室に見舞いに行ったあの日、理事長さんがぼくに言ったことばだった。その約束を、ぼくはその帰り道に、短冊に書いた。アルバム制作が終わったいま、五年に一度の国際コンクールに挑戦するためにぼくはふたたび旅立つ。年齢的にもチャンスはつぎの一回しかない。人生でいちどだけ。それも一期一会と言えるのかな、と思った。するとここでふれあったいろんな人たちの顔が思い出されて、笑みがこぼれた。ぼくは踵を返して、歩き出す。商店街を歩きながら、青空を見上げた。






 わたしが彼と出逢ったのは真冬の日曜日のことでした。昼間に鹿児島市で行われた大好きなピアニストのコンサートでのこと。彼もそのコンサートに来ていました。彼の席はわたしのひとつ前。右斜めの方向でした。わたしと歳はおなじくらいにみえました。彼はブルーのダウンコートを脱ぐと、白いフィッシャーマンズセーターを着ていました。ちらりとみえたその横顔に、わたしの胸はぎゅっとなりました。コンサート中ずっと彼のことが気になっていました。いちばん好きな曲が演奏されている時、彼をみると、彼は指でそっと涙をぬぐっていました。コンサートが終わって、わたしは一目散に出口へと向かいました。彼より先に出て、彼が出て来るを待つためです。しばらくして彼が出て来ました。着ていたブルーのダウンコートですぐにわかりました。正面からみた彼の顔をみて、さらに激しくわたしの胸はぎゅっとなり、なぜか、泣き出しそうになりました。わたしは彼の後をつけました。もう二度と会えないと思ったからです。わたしには恋愛感情がないのかもしれないといままで思ってましたから、それはそれは自分でもびっくりするような大胆な行動でした。
    
 もちろんわたしのなかには、わたしをたしなめている部分もありました。でも、ほんのわずかでも、つながっていたいという衝動にあらがうことはできませんでした。尾行しながら、ひとめぼれとはこうゆうことかと考えていました。とりあえず彼が、どこに住んでいるかだけでもわかればそれでよかったのです。それからのことはまた落ち着いて考えればいいと。もちろん、彼に迷惑をかけるつもりはまったくありませんでした。その当時はまだストーカーなる言葉が一般的に広まってはいない頃でした。いま思えば、なんて危険な行為をしたんだろうかと冷や汗をかきます。言い訳めいていますが、たぶんどこかでわたしはそのとき、何か、彼をあきらめられる理由を探していたようにも思えます。そうなれば、きれいさっぱりと彼のことを忘れられますから。そういう理由でもなければ、絶対にわたしは一生後悔し続けると思ったのです。前を歩く彼に、あとをつけているわたしの気配に気づいている様子はありませんでした。彼の町は伊佐市でした。降りた駅からバスに乗り、あるバス停で彼は降りました。わたしはそのままバスに乗ったまま、彼の行方を確認しながら、つぎのバス停で降りました。わたしは急いでいま来た道を引き返しました。しかし彼の姿はもうどこにも見当たりませんでした。途方にくれていると、前方のコンビニから青いダウンコートの男性が出てきました。彼でした。わたしは天に感謝しながらふたたび後をつけました。彼は古いアパートの一階にある郵便ポストのひとつをあけてなかのものを手に取ると、階段を上がって二階の角部屋へと入りました。部屋は2DKくらいの広さにみえました。わたしはそのアパートの下まで行って、彼の入った部屋番号を確かめてから、その部屋番号の郵便ポストをみました。名字が書いてありました。わたしはその名字を胸に刻みました。翌週の月曜日。月曜日は休みでした。わたしは図書館司書の資格は持っていましたが正式な職員としての採用はなかったので、鹿児島市内の図書館でパートととして働いていました。両親は健在で自宅に住んでいたわたしは、両親にあやしまれないために鉄道旅行だと嘘をついて、リュックを背負い完璧な防寒装備で朝早くに家を出ました。

 わたしは凍るように寒い朝から、彼のアパートの近くにある公園のベンチに座っていました。ちょうどそこから彼の部屋のドアがみえたのです。落ち着くどころか、わたしの炎は燃えさかるばかりでした。やがて彼が出て来ました。彼はすでに防寒ジャンパーの下に作業服を着ていました。彼は階段を下り、郵便ポストをあけて、何も取らずにそのまま閉めました。わたしは距離をとって尾行しました。彼はバス停には向かわずに、反対の方角へと歩いて行きました。数分ほど歩いて彼は、精密部品を作っている古びた小さな工場へと入って行きました。わたしは何気なく通り過ぎて、通り過ぎる時にちらりと工場のなかをみたのですが、なかはまだ真っ暗で何も見えませんでした。わたしはまた昼休みに来ようと思って、その先のクランクを曲がって近くの商店街のほうに歩いて行きました。商店街の喫茶店で朝食をとることにしました。それから彼の住むこの町を少し歩いてみようと思いました。

 昼休み前に、わたしはふたたび彼の勤める工場の近くまで行きました。ちょうど昼休みになったらしく、彼がひとりで出て来ました。偶然通りがかったていで、わたしは彼の後をつけました。彼は、近くにある中華食堂に入りました。わたしは待つことにしました。二十分ほどして彼が出てきて、工場へと戻って行きました。

 わたしは休みの月曜日にそのパターンをもういちどくり返しました。雨の日はさすがに公園にいるのは変なので、晴れた月曜の日に。そしてまた晴れた月曜日に、彼が出勤した後、公園にずっといてアパートの出入りをみていました。そうして彼が独り身であることをわたしは確かめました。わたしは偶然をよそおって、彼に声をかける決意を固めました。

 つぎの晴れた月曜日。いつもより早くにわたしは公園のベンチに座っていました。眠れずに、いてもたってもいられなかったのです。彼の出勤後、また町をぶらぶら観光しながら時間をつぶし、そして昼休みに声をかける計画でした。たまたま用事があってこの町に来ていたんですけど、この前ピアノコンサートに来てませんでしたかって……わたしちょうど後ろの席に座っていたんですって……。しかし彼はいつもの出勤する時間に出て来ませんでした。三十分経っても。一時間経っても。わたしは彼が病気なんじゃないかと心配して、立ち上がったその瞬間、青いダウンコートの彼が突然わたしのとなりに座ったのでした。わたしは心臓が飛び出しそうになりました。彼はなんとも言えない優しい顔でわたしをみていました。わたしはどうしていいかわからず、何も考えられずにその場に立ち尽くしていました。
「きょうは休みなんです」
 と彼は前を向いたまま言いました。
「えっ」
 とわたしは声にならない声で言いました。
「座りませんか?」
「……あ、はい」
 わたしは全身からチカラが抜けたようにベンチに座りました。
「コンサートに来てましたね」
 と彼が言いました。
 わたしは彼のほうに顔を向けることができずに、ただ、ゆっくりと、うなずきました。もう、隠しても意味はないと思いました。
 彼は前屈みの姿勢になり、
「好きですか? 彼女のピアノ」
 と聞きました。
 まるで、固まっているわたしが、彼をみやすいように。
「えっ? あ、はい……とても」
 と目だけを動かす状態でわたしは答えました。
「そうですか。ぼくもです。まあ、好きでなかったら、コンサートに足を運びませんよね。変な質問してごめんなさい」
「いえ」
「ああ、そうだ。今度また彼女のコンサートがあるんです。知ってましたか?」
「いえ」
「そうですか。またって言っても、来年の夏なんですけどね」
「ああ」
「場所は避暑地みたいです」  
「へえ~」
 それからわたしたちは場所を近くの喫茶店に移し、そこで一時間以上もお互いのことについて話し合いました。そしてその来年のコンサートには、わたしたちは恋人同士として、泊まりがけで聴きに行ったのでした。

 彼のお母さんはみずからの命とひきかえに彼を産んだそうです。そのことを彼は一時も忘れずに感謝していました。その心のありかたは、わたしにも息子にもことあるごとに話していました。それは、嫌なことやつらいことから心をガードくれる御守りだと言うのでした。実際、ほんとうに、そのとおりでした。彼はいまは施設に入っているお父さんのために、毎月入金をしているようでした。ちゃんとしたデートをしてあげられない理由を、ある日彼は話してくれました。でもわたしは、彼と過ごす時間さえあればそれでじゅうぶんしあわせだったのです。わたしたちのデートは映画がメインでした。映画をみたあとは、たいていはファミリーレストランで過ごしました。そこでは彼は決まって、いつかジュエリー工房の店を出したいという夢を語りました。わたしはそっと心のなかで、その店にいる自分の姿を想像するのがたまらないよろこびでした。そうしたある夏の晴れた日に、彼に発電所遺構へと誘われました。着くとすぐに彼が指輪を差し出しました。プロポーズでした。その婚約指輪は彼が自分で作ったものだと言いました。宝石など付いていない、リングだけの指輪。彼がそっと、指にはめてくれました。少し、ゆるかったですが。その具合をみて、彼はすかさず抜き取り、かわりのリングをポケットから出してふたたび指にはめてくれました。ぴったりでした。リングはよくみると、表面に複雑な加工が施されていました。彼が空にかかげて指輪をながめてみてと言うのでそうしました。すると、リングの上に太陽の光が反射して、まるで宝石のようにきらりと一瞬輝いたのでした。
「太陽の指輪ね」
とわたしは言いました。
 最高にしあわせな輝きでした。

 わたしたちの団地での結婚生活がはじまりました。やがてわたしは妊娠し、男の子を授かりました。息子が産まれるひと月前にお義父さんは天国へと旅立ちました。息子は大きな病気を患うことなく、健康に育ってゆきました。息子が小学二年生の時に紙に書いた鍵盤で遊んでいるのをみて、わたしたちは話し合ってまずは子供用のキーボードを誕生日プレゼントとして買うことにしました。おおげさですが、奇跡の予感がしました。息子はキーボードにあきることはありませんでしたので、つぎにわたしたちは中古の電子ピアノを買うことにしました。息子が小学校にあがってからはわたしはとなり町の図書館で短い時間のパートをしはじめていましたので、息子をどこか楽しいところへゆっくりと連れて行ってあげられなくなってしまいました。寂しい思いをさせていると心苦しく思っていたそんなある日、息子が商店街に置かれたピアノを弾いている姿を目撃しました。息子のまわりには何人かの仲間がいました。それは息子とその人たちとの様子をみればわかりました。わたしは最後まで聴きたかったので、物陰に隠れて、息子の弾くピアノを聴いていました。通りには、息子のピアノに足を止めて聴いている人もいました。こんなにも美しく弾けるようになっていたのかと、わたしは涙が止まりませんでした。それからしばらくして、息子から音大附属の中学校への受験の話を聞いたのです。わたしは理事長さんに電話をかけ、会う日時を決めました。その日、喫茶店のテラスで話してくれた理事長さんの話はつぎのようなものでした。

「息子さんは毎日のように、フリースペースに置かれたピアノを弾いていました。いわゆるストリートピアノです。……そうですか。ご存知でしたか。息子さんのピアノには、ふしぎとどこか人を心地よくさせるものがありました。感心したのは、息子さんは弾き終わるとかならずピアノに深々と礼をし、ピアノの鍵盤をハンカチで拭き、それからフリースペースのゴミをビニール袋に入れて持って帰っていたことでした。そのことを、息子さんに尋ねてみました。いつもえらいね、誰かにそうしろと言われたのと聞くと、息子さんは、父がいつもその瞬間にいちばん感謝していることで心を満たしていなさいと教えてくれたからそれをしているだけなんです、と答えました。ピアノは、感情がよく伝わる楽器です。わたしは息子さんのピアノから伝わってくるものが、その時なんとなくですがわかるような気がしました。……ピアノの設置はわたしのアイデアでした。一年間の限定でということで商店街のみなさんには賛成してもらいました。準備に半年ほどかかりました。この一年間の運営は順風満帆ではなかったですが、それでもこのプロジェクトからは多くの教訓を得ることができました。それはきっと財産となるべきものであるとわたしは確信しています。ポツンと置かれたピアノひとつで、きっかけが生まれる。見知らぬ人同士が、会話をはじめる。笑顔になって、笑い声や拍手がそこから聞こえてくる。一台のピアノから何かが生まれ、何かが育って、それによってわたしたちも育てられてゆく。そんな場所になればいいなと思ったのです。わたしは国内で最初にはじめられた鹿児島市の商店街のストリートピアノを見学しに行きました。そこでストリートピアノを実現させた組織の代表の方からお話を伺うことができました。修理や調律、管理方法や問題点などです。……ええそうですね。ヨーロッパでは盛んですね。……ストリートピアノの成果は想像以上でした。新しいつながりがどんどんと生まれ、そして広がって行きました。そのきっかけが息子さんだったと思います。しかし多くの人が弾いてくれるようになったのはうれしかったのですが、その頃から息子さんは遠慮して弾かなくなってしまいました。わたしは息子さんのファンのひとりでしたから寂しく思ってました。時をおなじくして、一年間の期限が来ました。続けようと言う意見は多かったのですが、管理するわたしの体調の関係もあり当初の約束通りいったん撤去することにしました。そんな時、わたしのところに問い合わせが来たのです。その学校の卒業生のピアニストの方が、たまたま通りがかりに息子さんのピアノを聴いて衝撃を受けたというのです。彼は学校の理事長にそのことを話し、理事長からこの街の知り合いに話が行き、またその知り合いからわたしのところに話がまわって来ました。……わたしは、息子さんの才能が羽ばたく姿をみてみたい。息子さんの音色が、世界中に輝いて広がってゆくその光景をみてみたいのです……」

 十年前くらいからわたしが管理者になってはじめていた夫のジュエリー工房のネットショップは順調に売上を伸ばしていました。来年には商店街のなかに、小さな店舗ですが工房を兼ねたジュエリーショップを出すことになっています。ついに夫は、夢を叶えるのです。わたしもあの頃、ファミリーレストランで夢みていたことが現実となりそうで、いまは毎日がとてもワクワクしています。いえ、ワクワクしなかった毎日だったということではないのです。夫は、常に、わたしをワクワクさせてくれました。いままで、ずっと。そう、また新しいワクワクをわたしに与えてくれたのです。夫にひとめぼれして、大胆な行動に出て、つきあいはじめて、そして結婚し、息子ができました。褒められるような行動ではありませんでしたが、ひとめぼれして、この町にやって来てほんとうによかったと思っています。夫とこの町がときおり重なって見えるときがあります。わたしをとがめることなく優しく受け入れてくれました。ジュエリーショップではアクセサリー教室を開く予定もあります。団地の奥様方も参加したいというお話をして下さっています。ワクワクはこれからも続くことでしょう。そうです、この町が、わたしがいちばん輝く場所なのです。息子も、さらにわたしをワクワクさせてくれています。その息子がもうじき帰ってきます。今日は、ひさしぶりに、家族三人で過ごす夜になりそうです。

しおりを挟む

処理中です...