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時計台
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わたしは大学時代、アルバイトでためたお金で世界中のありとあらゆる人形劇をみてまわった。大学を卒業して公務員になっても、ボーナスのそのほとんどをそのことに費やした。とにかく、とりつかれたように、出来うるかぎりの情報をあつめては、ひとつでもおおくの人形劇をみるためにどこへでも出かけたし、追いかけもした。そこに、日野貴男(ひのたかお)がいるかもしれないと思って。ピノキオがそうだったから、助けなきゃいけないと思って。いや、そんなわけはないってことはわかっている。でも、そうしたかった。そうしなければいけなかった。でないと、わたしはかれのことを忘れていることになると思ったからだった。そうなったら、もはやわたしは友だちではなくなってしまう。友だちでいたかった。いつまでも、かれの友だちで……
わたしが日野貴男とはじめて会ったのは、小学五年生のときだった。新学期から転入してきたかれは、わたしの席のとなりにあらたにつくられた席に座った。はじめまして、とかれは座るやいなやわたしに話しかけてきた。はじめまして、とわたしが答えると、かれはとたんにニッコリと微笑んで、よろしくね、と弾むような声で言うと、わたしにサッと右手を差し出した。長袖のポロシャツの袖がすかすかで揺れるほど、その腕は細かった……
かれの家は時計店だった。その店の屋根の上には、黄色いとんがり帽子の時計台があった。アーケード街をぬけたところに建つその店は、いわば町の中心地にあるランドマーク的な存在でもあった。わたしは腕時計をしていても、そこへくると何とはなしに時計台の時刻を確かめた。それは、そこになくてはならないものであり、そうすることは、この町の人たちにとってはごく自然なこととして、よく同窓会などで郷土における共通認識として語られていた。それくらい時計台の時刻は正確無比で、この店のご主人のように信頼され、当てにされていた。この町の人たちは、ほとんどの人がその店で腕時計を買った。それはまるで、この町のひとつの通過儀礼みたいに。あるいはまた、願いがかなう御守りのように……
店のご主人はとにかく明るい性格で、この町を愛していた。町の行事にはかならず参加し、誰もやりたがらない役目を率先して引き受けた。多岐にわたる行事の下準備や交渉や視察のために、何日ものあいだ店を空けるほどだった。結婚は若い頃に一度したが、奥さんは若い男と駆け落ちしてしまい、いまだふたりは行方不明のままだった。そんな過去があるにもかかわらず、ご主人はいつも陽気で、いつも誰ともなく気さくに話しかけては笑っていた……
行方不明のふたりのそれぞれの家族や親戚、友人や知り合いにいたるまで、駆け落ちしたあとにふたりと連絡をとれたものはひとりもいなかった。ご主人はふたりの家族らに、じぶんはもう許しているから連絡してほしい、という話を伝えていた。ふたりから連絡があったらそう伝えてもらうために。そういった一連の内輪の話がいつの間にか町の人たちにひろがっていき、そしていつしか町のほとんどの人が周知するまでの話となっていた。町の人たちがご主人の店で腕時計を買うのは、損な役割ばかりを嫌な顔ひとつみせずにやってくれることに対する、どこか後ろめたさのようなもののその対価だったのかもしれない。それが商売上の戦略だと思う人もいなかったし、駆け落ちしたふたりを許したという話も策略だと感じる人もいなかった。それほどまでにご主人はとにかく信頼され、とにかく当てされていた。時計台は、かれ自身であり、かれの象徴であり、何よりも町のいちばんのシンボルだった。話をすれば誰もがその澄んだこころに胸を打たれた。いい人すぎて、逆につまらなくなる。きっと駆け落ちした奥さんもそうだったのだろう……。それが、町の人たちが導き出した、唯一の納得できる理由だった……
日野貴男はそのご主人の養子だった。日頃から跡取りがいればと話していたご主人にとっては、夢がかなったかたちになったと町の人たちはとてもよろこんだ。わたしは学校帰りによく立ち寄るアーケード街のなかにあるふれあい広場で(そこでは毎日のようにたのしいイベントが開催されていた)、挨拶がわりに人々がそういったことを話題にしているのをいつも耳にしていた。ご主人は、貴男が養子であること以外はほとんど何も語らなかった。それはきっと、貴男に偏見を与えたくはないという想いにからなんだろうと人々は考え、そうした優しい配慮にもおおいに感心していたほどだった。ピノキオの物語では、妖精はおもちゃ屋の主人が人々によろこびを与え続けたそのご褒美に、人形を人間にかえた。だからご主人の今までのおこないと、日野貴男という名前もあって、貴男がピノキオみたいにある日妖精によって人間にかえられた人形だったというそんなうわさも、町ではまことしやかに微笑ましさをもってささやかれていた。なので町の人々は、かれのことを親しみをこめてピノキオくんと呼んだ。さらには貴男の容姿もやせていて人形のようだったことも、そうささやかれる要因のひとつだったかもしれない。実際、その細い手足の動きはどこかカクカクしていて、まさに人形のそれっぽかった。おまけに貴男はよくころんだ。半袖半ズボンのときは、かれはいつも見えるところのどこかに包帯を巻いていた……
わたしは学校に行く朝は、アーケード街をぬけ、時計店の前で待つ貴男と一緒に登校し、一緒に下校した。貴男の屈託のない性格がわたしは大好きだった。疑うことを知らず、うそも素直に信じた。それがおもしろくて、わたしはうその話ばかりを話していた。あるとき、あまりに貴男が信じるので、いやそれうそだからと言うと、かれがふと悲しそうな顔をしたので、それからはもうわたしは貴男にうその話はしないことにした。小学六年生になって貴男とはクラスはわかれた。それでもわたしと貴男はかわらず一緒に登校した。でも下校時間はまちまちとなってしまったので、はじめの頃は校門で待ち合わせして帰っていた。そしたらある日、廊下の掲示板に、わたしと貴男の相合い傘を書いた紙が画びょうでとめてあった。登校したわたしと貴男はそれをみた。わたしはその紙を引きはがして捨てた。そのとき貴男が、帰りは別々に帰ろうと、ぼそっと言った。それ以降、わたしがかれと一緒に下校することはいちどもなかった……
そんなかれが、おそらく恋をした。相手はクラスメイトの女のコで、名前は園田美由といった。髪の毛が茶色っぽくて色白の、低学年のときにいちどおなじクラスになったことがある女のコだった。かれが、登校する彼女から突然おはようと声をかけられたときの様子があきらかに変だったので、何となくピンときた(思い返せばピンときたのには理由があった)。貴男は、とんでもなく、変だった。わたしが彼女におはようと言い返す前に、貴男はわたし越しにすっとんきょうな声でおはようと彼女に言った。彼女は、うふふと笑ってから、もういちどおはようとわたし越しの貴男に言った。すると彼女は、歩くのが遅いかれの速度にあわせて歩くわたしの顔をひょいとのぞき込むようにして、声にしないおはようをわたしに投げかけると、またうふふと笑って、それからスキップしながらすたすたと先に行ってしまった。言いそびれたおはようを後悔し、彼女がのぞき込んだときのまぶしい笑顔にこころを奪われていたわたしは、そのことを悟られたくはなくて、ウキウキの貴男の少し後ろに下がるようにして歩いていた。そんなわたしをよそに、貴男はよっぽどうれしかったらしく、ときおりふり向いては、あいまいな相づちしかしないわたしのことなど気にもかけずに、ずっと話しかけてきていた。こんなによくしゃべるかれをみるのは、はじめてだった。校門につく頃には、かれのせいか、彼女のせいか、それともその両方のせいなのかわからなかったけれど、わたしも何だかえらくうれしい気分になっていた。次の日も、彼女はおはようと声をかけてきた。きのうのいいそびれもあったので、貴男のおはようのあとに続けて、おはようとわたしも彼女に言った。するとそのまま追いぬいてゆくと思われた彼女は、歩く速度をわたしたちに合わせて、わたしのとなりに並んで歩き出したのだった。
「おかあさんがね」と彼女が言った。「最近、変なひとがいるみたいだからなるべく誰かと一緒に行きなさいって。だから一緒にいい?」
「いいよ」とすかさず貴男が言った。
「青柳くんは?」と彼女。
「もちろんいいよ」とわたしは答えた。
「よかった」と彼女は言うと、またあのまぶしい笑顔をわたしたちにみせたのだった。こうしてわたしたち三人は、それからは一緒に登校することとなった。貴男は彼女といるとほんとうに生き生きとしていて、ほんとうによくしゃべった……
彼女が言ったとおり、最近、この町の県ではなかったが、となりの県で小学生の男子が行方不明なる事件が立て続けに起こっていた。大規模な捜索が行われていたが、その男子たちを発見するにはいたってなかった。いくつか寄せれていた黒いマントをした不審な人物の目撃情報などもあって、事件はしだいに神秘的な色合いを濃くして伝わっていき、わたしたちの町に届いた頃には、それは黒マントの人さらい(あるいは黒マント事件)として語られるようになっていた……
「そう言えば」ある日の朝、貴男が登校途中で言った。「ピノキオも人さらいに連れていかれたんだよね」
「そうよ。スターになれるって言われて、世界中を旅してまわっている人形芝居の親方に売られたのよ」と彼女が言った。
「それもいいかな」と貴男はしみじみと言った。
わたしは(たぶん彼女も)意味がよくわからなかったので、それからしばらく沈黙が続いた。
「あっ、遅刻しそう」とキャラクターの腕時計をみた彼女が言った。
わたしは駆け出した。彼女も続いて駆け出した。まっすぐにのびた通りのかなたに校門がみえた。貴男はかなり遅れていて、わたしたちからはだいぶ離れていた。何しろ貴男は足が遅かった。わたしはふり返って、立ち止まった。彼女もわたしをみて、立ち止まって、ふり返った。貴男がカックンカックンと走ってきた。わたしは片手を差し出した。彼女も片手を差し出した。わたしと彼女のあいだに貴男は走ってきて、両手を差し出した。わたしは貴男のいっぽうの手をとり、彼女はもういっぽうの手をとって、貴男をひっぱるようにしてわたしたちは駆け出した。貴男はわたしたちの速度についてこれなくて、わたしたちは何回も貴男を宙に浮かせた。貴男はやたらと軽かったから、思った以上に宙に浮いた。そのたびに貴男は楽しそうにおおきな笑い声(それは特徴的なあひゃひゃひゃんという笑い声)をあげた。前を歩く登校してきた児童たちが何ごとかとふり向いて、つぎつぎと道をあけた。わたしたちはゴールするように、歓声をあげて校門を駆けぬけていった……
その夜、貴男が行方不明だと家に連絡があった。わたしはその日の貴男の行動や様子、いままで遊んだ場所などを両親からくわしく聞かれた。翌朝、わたしはアーケード街をぬけ、いつもそうしてるし、きっとあのあとみつかったと思って(その朝に母はふつうに送り出してくれたから)、その日も時計店の前で待ってる貴男を迎えに行こうとした。けれど、店の前にいたのは警察官の人たちと、心配した町の人々だった。わたしは通りの向こうのその様子を血の気が引く思いで眺めていた。ふと、何気なく時計台に目をやった。時計台の時刻が朝の時間ではなかった。どうやら止まっているようだった。立ち尽くしていたわたしのとなりに、いつしか園田美由が立っていた。わたしは彼女に気づくと、彼女は、行こうと言って、歩き出した。わたしは、うんと言って、わたしも彼女に続いて、歩き出した……
数日後、事件は急展開した。黒マントの男がとなりの県ではなく県内で逮捕された。男の供述によると、さらった男子たちは海外に売り飛ばしたということだった。それにより、何人かの男子はみつかったが、貴男をふくむ何人かはみつけることはできなかった。町の人たちは心配して、あらゆる機会、あらゆる場所で、そのつどあらゆる情報をかきあつめては、それらを互いに持ち寄って警察へとどけ、さらなる貴男の行方に関する情報提供を県内および他県にもひろく呼びかけた。しかしながら人身売買の闇はあまりにも深くかつ複雑で、貴男らの発見の可能性は極めて低いというのが、わたしの耳に入ってくる大人たちのおおかたの見方のようだった。犯人の男によると、さらう男子たちはよろこんでついてきたという。また、そういう男子しか狙わなかったとも男は語っているということだった……
あれから二十年以上の月日が経った。時計店のご主人は、失意のうちに昨年の夏、病気によりこの世を去った。ご主人に身寄りはいなかったので、町内会による葬儀がとりおこなわれた。訪れる人の列は長いこと途切れることはなかった。ご主人は、財産のそのほとんどを町に寄付した。その人生に、人々はおおくの涙を流した。時計台の時刻は、貴男がいなくった日からまったく動いていない。わたしはそれを、ご主人の悲しみのしるしのように感じていた。いつしかわたしは、時計台を見なくなった。町の人たちもそうだったように思う。当てにしていたものは消えた。ご主人は店を休むことが増えていった。それはひと月に及ぶこともたびたびあった。警察の捜査が行き詰まるなか、ご主人は探偵を雇い、その情報をもとに貴男をさがしに出かけているようだった。そんなご主人に対して、もう誰もやっかいな頼みごとなどはしなくなった。いや、できなかった。そんななかでも、町の人たちはご主人の時計店で時計を購入し続けた。それはご主人へのエールだったんだと、わたしは思う。ご主人が亡くなる数ヵ月前に、わたしはご主人から突然連絡を受けた。市役所の都市計画課に勤めるわたしに相談したいことがあるとのことで、わさわざ役所まで訪ねてこられた。店をたたむにあたって、その建物と土地をわたしに管理してほしいという相談だった。それは、時計台があるこの時計店は繁華街の目印的な建物だし、老朽化はしているものの、自由にリフォームしてもらっていいので、わたしのほうで何かに利用してもらいたいという主旨のものだった。ただしそれには、ひとつだけ条件があった。貴男がいつでも帰ってこられるように、この建物の姿はそのままかえないでもらいたいということだった。そのことを、わたしならわかってもらえると思ったと、ご主人は言った。わたしはそれはご主人の祈りなんだろうと思い、承諾した。わたしは思い切って、ここを人形劇の劇場にしたいと提案してみた。わたしは世界中の人形劇をみてまわっているという話をご主人にした。世界各地からここに、ここから世界へ、そんな交流ができたらと、熱く語った。ご主人は、それはいいと賛同してくれた。貴男がふいに、その舞台にあらわれるような気がする、とご主人は微笑みながらそう言った。微笑みが消えると、ご主人は真顔になって、あなたをそうさせているのは、もしかして……と、わたしに問いかけた。わたしは、単なる趣味なんです、と答えた。それからわたしはご主人と、財産や寄付などに関するさまざまな手続きを、ひとつひとつ何日もかけて済ませていった……
わたしは園田美由と結婚した。京都の大学を卒業して、地元の市役所に勤めはじめて、その約一年後のことだった。彼女とは中学にあがると疎遠になり、高校は別の学校になった。町ですれちがえば、やあとあいさつを交わす程度だった。貴男がいなくなってから数日後、登校は大人がついたグループごとのものとなった。それから彼女と、あいさつ以外の言葉を交わすことはなくなった。彼女は高校を卒業すると、市内の大きな病院の事務員になった。市役所に勤めはじめる少し前、わたしはその病院に入院している祖母の見舞いに行ったときに、彼女に再会した。待合室の片隅で、彼女に呼び止められた。ちょっと話たいことがあるから時間ないかな、と彼女は言った。いいよ、とわたしは答えた。彼女の勤務が終わる時間に、病院近くのショッピングモールで待ち合わせをして、そこにあるカフェで、彼女とテーブルをはさんで向かい合った。彼女の前には紅茶、わたしの前には珈琲があった。
「どうして市役所だたの?」と彼女が聞いた。
「それ以外に選択肢はなかった」とわたしは答えた。
彼女は何度かうなずいて、それ以上は聞いてこなかった。
少しの沈黙のあと、彼女が口を開いた。
「京都の大学だって聞いたけど」
「うん」
「いいな」
「京都が?」
「そう」
「でも旅ばっかりしてたけどね」
「どこに?」
「人形劇があるところならどこへでも」
「人形劇が好きなんだ」
「何でもよかったんだよ。それはサーカスでも、島でも……」
彼女は何か困ったような顔をして、じっとわたしの目をみつめていた。
わたしは話題をかえた。
「京都が好きなら案内するよ。ふつうの観光では味わえないような、ディープなところにね。よかったら、ガイドとして、雇ってみない?」
「あなたを?」
「うん」
とっさの冗談だったが、彼女はその数ヶ月後に、ほんとうにわたしをガイドとして雇った……
結婚して、ふたりのあいだで貴男のことを話題にすることはなかった。それに、わたしが人形劇にはまっていることに関しても彼女は何ひとつ口出しすることはなかった。ご主人が亡くなって一年が過ぎた頃、わたしは時計店をリフォームして人形劇専用の劇場にする計画を妻に話した。妻はこころよく賛成してくれた。計画は順調に進んでいったが、思ったより建物全体の損傷が激しく、安全性を考えたら土台から新らしく建て替えたほうがいいのではという設計会社からのアドバイスがあった。費用の面などがあったが、建物の姿をかえなければいいと考えたわたしは、最終的にはそっくりにしてくれるなら建て替えようという、そういう判断を下した……
そうして、貴男は見つかった。時計台の下の土の中で、白骨化した状態で。 その両脚は骨折していた。検視の結果、日常的な虐待があったことがわかった。そのすぐそばには、大人の男女の白骨もあった。警察の調べでそのふたりはご主人の妻と、駆け落ちした若い男のものだと判明した。さらにDNA鑑定であきらかになったことは、貴男は、そのふたりのあいだに生まれたこどもだという事実だった。事件はやがて、時間の経過とともにその全容をみせはじめていった。ふたりはご主人の迫りくる復讐を感じて、生まれたばかりの貴男をある施設に預けていた。それをどこかで(たぶん探偵によって)知ったご主人は、貴男を施設から引きとった。そして復讐は遂げられた。黒マントの男が売り飛ばした何人かの子たちがみつかった海外のとある場所で、ご主人がその黒マント事件のかなり以前からそこにあらわれていたこともわかった。いわゆる常連さんだったらしい。ご主人は貴男殺害以後も、かれをさがしていたのではなく、そこで喜々として遊んでいた。その性癖が、貴男をすぐに殺さなかった理由だったんだろうと、警察からの情報をもとにマスコミは報道していた。また、黒マント事件を裏であやつり、利用したのではないかという疑惑に対しても、捜査は、行方不明のままの男子の捜索(ご主人が過去に借りていた別荘近辺を中心にしたもの)とともに、継続しておこなわれているようだった……
貴男と母親はおなじ墓に入れられた。この町からいちばん遠い場所にある母親の親戚のところに、その墓はつくられた。わたしはじふんが許せなかった。気づけなかったじぶんが。止まった時計台。それが貴男からのわたしへのSOSだったのだ。あれから毎日、呼びかけてたはずなのに。それなのに……そのための、友だちなのに。そのことを妻に話すと、それはちがうと、彼女は言った。絶望をはねつけ、希望を持ち続けることこそが、友だちなんだと。だから彼が、あなたに向かって呼びかけてるはずがないじゃないと、泣きながらそう言った……
わたしは、劇場の計画を白紙にもどした。時計店は更地のままになっていた。仕事帰りにはかならずわたしはそこへ立ち寄った。更地にはみるたびにいろんなものが投げ棄てられていた。わたしはそれらを休日ごとに片づけた。貴男がいなくなった十七日には、月ごとに妻と更地となった時計店に行って花を手向けた。わたしは更地を花壇にし、そこへ色鮮やかな花を植えることにした。その後、そこへはもう、ゴミが投げ捨てられることはなかった……
その年の暮れ、妻が妊娠していることがわかった。翌年、妻は元気な男の子を産んだ。名前はふたりで考えて貴世哉にした。貴世哉は大きな病気をすることなく育っていった。貴世哉が五歳になると、わたしたちは休日の晴れた日に、クルマで近くの高原にピクニックに行った。高原の丘を、貴世哉を真ん中にして、わたしと妻が貴世哉の手をそれぞれにとって駆け降りていった。その瞬間わたしは、三人で登校した最後の日に、わたしと妻のあいだに入ってきた貴男のことを思い出した。妻も何となく、そのことを思い出しているような表情をしていた。わたしと妻が貴世哉を高く高く持ち上げると、あひゃひゃひゃんという楽しそうな笑い声が、青空いっぱいに響きわたった。
(終)
わたしが日野貴男とはじめて会ったのは、小学五年生のときだった。新学期から転入してきたかれは、わたしの席のとなりにあらたにつくられた席に座った。はじめまして、とかれは座るやいなやわたしに話しかけてきた。はじめまして、とわたしが答えると、かれはとたんにニッコリと微笑んで、よろしくね、と弾むような声で言うと、わたしにサッと右手を差し出した。長袖のポロシャツの袖がすかすかで揺れるほど、その腕は細かった……
かれの家は時計店だった。その店の屋根の上には、黄色いとんがり帽子の時計台があった。アーケード街をぬけたところに建つその店は、いわば町の中心地にあるランドマーク的な存在でもあった。わたしは腕時計をしていても、そこへくると何とはなしに時計台の時刻を確かめた。それは、そこになくてはならないものであり、そうすることは、この町の人たちにとってはごく自然なこととして、よく同窓会などで郷土における共通認識として語られていた。それくらい時計台の時刻は正確無比で、この店のご主人のように信頼され、当てにされていた。この町の人たちは、ほとんどの人がその店で腕時計を買った。それはまるで、この町のひとつの通過儀礼みたいに。あるいはまた、願いがかなう御守りのように……
店のご主人はとにかく明るい性格で、この町を愛していた。町の行事にはかならず参加し、誰もやりたがらない役目を率先して引き受けた。多岐にわたる行事の下準備や交渉や視察のために、何日ものあいだ店を空けるほどだった。結婚は若い頃に一度したが、奥さんは若い男と駆け落ちしてしまい、いまだふたりは行方不明のままだった。そんな過去があるにもかかわらず、ご主人はいつも陽気で、いつも誰ともなく気さくに話しかけては笑っていた……
行方不明のふたりのそれぞれの家族や親戚、友人や知り合いにいたるまで、駆け落ちしたあとにふたりと連絡をとれたものはひとりもいなかった。ご主人はふたりの家族らに、じぶんはもう許しているから連絡してほしい、という話を伝えていた。ふたりから連絡があったらそう伝えてもらうために。そういった一連の内輪の話がいつの間にか町の人たちにひろがっていき、そしていつしか町のほとんどの人が周知するまでの話となっていた。町の人たちがご主人の店で腕時計を買うのは、損な役割ばかりを嫌な顔ひとつみせずにやってくれることに対する、どこか後ろめたさのようなもののその対価だったのかもしれない。それが商売上の戦略だと思う人もいなかったし、駆け落ちしたふたりを許したという話も策略だと感じる人もいなかった。それほどまでにご主人はとにかく信頼され、とにかく当てされていた。時計台は、かれ自身であり、かれの象徴であり、何よりも町のいちばんのシンボルだった。話をすれば誰もがその澄んだこころに胸を打たれた。いい人すぎて、逆につまらなくなる。きっと駆け落ちした奥さんもそうだったのだろう……。それが、町の人たちが導き出した、唯一の納得できる理由だった……
日野貴男はそのご主人の養子だった。日頃から跡取りがいればと話していたご主人にとっては、夢がかなったかたちになったと町の人たちはとてもよろこんだ。わたしは学校帰りによく立ち寄るアーケード街のなかにあるふれあい広場で(そこでは毎日のようにたのしいイベントが開催されていた)、挨拶がわりに人々がそういったことを話題にしているのをいつも耳にしていた。ご主人は、貴男が養子であること以外はほとんど何も語らなかった。それはきっと、貴男に偏見を与えたくはないという想いにからなんだろうと人々は考え、そうした優しい配慮にもおおいに感心していたほどだった。ピノキオの物語では、妖精はおもちゃ屋の主人が人々によろこびを与え続けたそのご褒美に、人形を人間にかえた。だからご主人の今までのおこないと、日野貴男という名前もあって、貴男がピノキオみたいにある日妖精によって人間にかえられた人形だったというそんなうわさも、町ではまことしやかに微笑ましさをもってささやかれていた。なので町の人々は、かれのことを親しみをこめてピノキオくんと呼んだ。さらには貴男の容姿もやせていて人形のようだったことも、そうささやかれる要因のひとつだったかもしれない。実際、その細い手足の動きはどこかカクカクしていて、まさに人形のそれっぽかった。おまけに貴男はよくころんだ。半袖半ズボンのときは、かれはいつも見えるところのどこかに包帯を巻いていた……
わたしは学校に行く朝は、アーケード街をぬけ、時計店の前で待つ貴男と一緒に登校し、一緒に下校した。貴男の屈託のない性格がわたしは大好きだった。疑うことを知らず、うそも素直に信じた。それがおもしろくて、わたしはうその話ばかりを話していた。あるとき、あまりに貴男が信じるので、いやそれうそだからと言うと、かれがふと悲しそうな顔をしたので、それからはもうわたしは貴男にうその話はしないことにした。小学六年生になって貴男とはクラスはわかれた。それでもわたしと貴男はかわらず一緒に登校した。でも下校時間はまちまちとなってしまったので、はじめの頃は校門で待ち合わせして帰っていた。そしたらある日、廊下の掲示板に、わたしと貴男の相合い傘を書いた紙が画びょうでとめてあった。登校したわたしと貴男はそれをみた。わたしはその紙を引きはがして捨てた。そのとき貴男が、帰りは別々に帰ろうと、ぼそっと言った。それ以降、わたしがかれと一緒に下校することはいちどもなかった……
そんなかれが、おそらく恋をした。相手はクラスメイトの女のコで、名前は園田美由といった。髪の毛が茶色っぽくて色白の、低学年のときにいちどおなじクラスになったことがある女のコだった。かれが、登校する彼女から突然おはようと声をかけられたときの様子があきらかに変だったので、何となくピンときた(思い返せばピンときたのには理由があった)。貴男は、とんでもなく、変だった。わたしが彼女におはようと言い返す前に、貴男はわたし越しにすっとんきょうな声でおはようと彼女に言った。彼女は、うふふと笑ってから、もういちどおはようとわたし越しの貴男に言った。すると彼女は、歩くのが遅いかれの速度にあわせて歩くわたしの顔をひょいとのぞき込むようにして、声にしないおはようをわたしに投げかけると、またうふふと笑って、それからスキップしながらすたすたと先に行ってしまった。言いそびれたおはようを後悔し、彼女がのぞき込んだときのまぶしい笑顔にこころを奪われていたわたしは、そのことを悟られたくはなくて、ウキウキの貴男の少し後ろに下がるようにして歩いていた。そんなわたしをよそに、貴男はよっぽどうれしかったらしく、ときおりふり向いては、あいまいな相づちしかしないわたしのことなど気にもかけずに、ずっと話しかけてきていた。こんなによくしゃべるかれをみるのは、はじめてだった。校門につく頃には、かれのせいか、彼女のせいか、それともその両方のせいなのかわからなかったけれど、わたしも何だかえらくうれしい気分になっていた。次の日も、彼女はおはようと声をかけてきた。きのうのいいそびれもあったので、貴男のおはようのあとに続けて、おはようとわたしも彼女に言った。するとそのまま追いぬいてゆくと思われた彼女は、歩く速度をわたしたちに合わせて、わたしのとなりに並んで歩き出したのだった。
「おかあさんがね」と彼女が言った。「最近、変なひとがいるみたいだからなるべく誰かと一緒に行きなさいって。だから一緒にいい?」
「いいよ」とすかさず貴男が言った。
「青柳くんは?」と彼女。
「もちろんいいよ」とわたしは答えた。
「よかった」と彼女は言うと、またあのまぶしい笑顔をわたしたちにみせたのだった。こうしてわたしたち三人は、それからは一緒に登校することとなった。貴男は彼女といるとほんとうに生き生きとしていて、ほんとうによくしゃべった……
彼女が言ったとおり、最近、この町の県ではなかったが、となりの県で小学生の男子が行方不明なる事件が立て続けに起こっていた。大規模な捜索が行われていたが、その男子たちを発見するにはいたってなかった。いくつか寄せれていた黒いマントをした不審な人物の目撃情報などもあって、事件はしだいに神秘的な色合いを濃くして伝わっていき、わたしたちの町に届いた頃には、それは黒マントの人さらい(あるいは黒マント事件)として語られるようになっていた……
「そう言えば」ある日の朝、貴男が登校途中で言った。「ピノキオも人さらいに連れていかれたんだよね」
「そうよ。スターになれるって言われて、世界中を旅してまわっている人形芝居の親方に売られたのよ」と彼女が言った。
「それもいいかな」と貴男はしみじみと言った。
わたしは(たぶん彼女も)意味がよくわからなかったので、それからしばらく沈黙が続いた。
「あっ、遅刻しそう」とキャラクターの腕時計をみた彼女が言った。
わたしは駆け出した。彼女も続いて駆け出した。まっすぐにのびた通りのかなたに校門がみえた。貴男はかなり遅れていて、わたしたちからはだいぶ離れていた。何しろ貴男は足が遅かった。わたしはふり返って、立ち止まった。彼女もわたしをみて、立ち止まって、ふり返った。貴男がカックンカックンと走ってきた。わたしは片手を差し出した。彼女も片手を差し出した。わたしと彼女のあいだに貴男は走ってきて、両手を差し出した。わたしは貴男のいっぽうの手をとり、彼女はもういっぽうの手をとって、貴男をひっぱるようにしてわたしたちは駆け出した。貴男はわたしたちの速度についてこれなくて、わたしたちは何回も貴男を宙に浮かせた。貴男はやたらと軽かったから、思った以上に宙に浮いた。そのたびに貴男は楽しそうにおおきな笑い声(それは特徴的なあひゃひゃひゃんという笑い声)をあげた。前を歩く登校してきた児童たちが何ごとかとふり向いて、つぎつぎと道をあけた。わたしたちはゴールするように、歓声をあげて校門を駆けぬけていった……
その夜、貴男が行方不明だと家に連絡があった。わたしはその日の貴男の行動や様子、いままで遊んだ場所などを両親からくわしく聞かれた。翌朝、わたしはアーケード街をぬけ、いつもそうしてるし、きっとあのあとみつかったと思って(その朝に母はふつうに送り出してくれたから)、その日も時計店の前で待ってる貴男を迎えに行こうとした。けれど、店の前にいたのは警察官の人たちと、心配した町の人々だった。わたしは通りの向こうのその様子を血の気が引く思いで眺めていた。ふと、何気なく時計台に目をやった。時計台の時刻が朝の時間ではなかった。どうやら止まっているようだった。立ち尽くしていたわたしのとなりに、いつしか園田美由が立っていた。わたしは彼女に気づくと、彼女は、行こうと言って、歩き出した。わたしは、うんと言って、わたしも彼女に続いて、歩き出した……
数日後、事件は急展開した。黒マントの男がとなりの県ではなく県内で逮捕された。男の供述によると、さらった男子たちは海外に売り飛ばしたということだった。それにより、何人かの男子はみつかったが、貴男をふくむ何人かはみつけることはできなかった。町の人たちは心配して、あらゆる機会、あらゆる場所で、そのつどあらゆる情報をかきあつめては、それらを互いに持ち寄って警察へとどけ、さらなる貴男の行方に関する情報提供を県内および他県にもひろく呼びかけた。しかしながら人身売買の闇はあまりにも深くかつ複雑で、貴男らの発見の可能性は極めて低いというのが、わたしの耳に入ってくる大人たちのおおかたの見方のようだった。犯人の男によると、さらう男子たちはよろこんでついてきたという。また、そういう男子しか狙わなかったとも男は語っているということだった……
あれから二十年以上の月日が経った。時計店のご主人は、失意のうちに昨年の夏、病気によりこの世を去った。ご主人に身寄りはいなかったので、町内会による葬儀がとりおこなわれた。訪れる人の列は長いこと途切れることはなかった。ご主人は、財産のそのほとんどを町に寄付した。その人生に、人々はおおくの涙を流した。時計台の時刻は、貴男がいなくった日からまったく動いていない。わたしはそれを、ご主人の悲しみのしるしのように感じていた。いつしかわたしは、時計台を見なくなった。町の人たちもそうだったように思う。当てにしていたものは消えた。ご主人は店を休むことが増えていった。それはひと月に及ぶこともたびたびあった。警察の捜査が行き詰まるなか、ご主人は探偵を雇い、その情報をもとに貴男をさがしに出かけているようだった。そんなご主人に対して、もう誰もやっかいな頼みごとなどはしなくなった。いや、できなかった。そんななかでも、町の人たちはご主人の時計店で時計を購入し続けた。それはご主人へのエールだったんだと、わたしは思う。ご主人が亡くなる数ヵ月前に、わたしはご主人から突然連絡を受けた。市役所の都市計画課に勤めるわたしに相談したいことがあるとのことで、わさわざ役所まで訪ねてこられた。店をたたむにあたって、その建物と土地をわたしに管理してほしいという相談だった。それは、時計台があるこの時計店は繁華街の目印的な建物だし、老朽化はしているものの、自由にリフォームしてもらっていいので、わたしのほうで何かに利用してもらいたいという主旨のものだった。ただしそれには、ひとつだけ条件があった。貴男がいつでも帰ってこられるように、この建物の姿はそのままかえないでもらいたいということだった。そのことを、わたしならわかってもらえると思ったと、ご主人は言った。わたしはそれはご主人の祈りなんだろうと思い、承諾した。わたしは思い切って、ここを人形劇の劇場にしたいと提案してみた。わたしは世界中の人形劇をみてまわっているという話をご主人にした。世界各地からここに、ここから世界へ、そんな交流ができたらと、熱く語った。ご主人は、それはいいと賛同してくれた。貴男がふいに、その舞台にあらわれるような気がする、とご主人は微笑みながらそう言った。微笑みが消えると、ご主人は真顔になって、あなたをそうさせているのは、もしかして……と、わたしに問いかけた。わたしは、単なる趣味なんです、と答えた。それからわたしはご主人と、財産や寄付などに関するさまざまな手続きを、ひとつひとつ何日もかけて済ませていった……
わたしは園田美由と結婚した。京都の大学を卒業して、地元の市役所に勤めはじめて、その約一年後のことだった。彼女とは中学にあがると疎遠になり、高校は別の学校になった。町ですれちがえば、やあとあいさつを交わす程度だった。貴男がいなくなってから数日後、登校は大人がついたグループごとのものとなった。それから彼女と、あいさつ以外の言葉を交わすことはなくなった。彼女は高校を卒業すると、市内の大きな病院の事務員になった。市役所に勤めはじめる少し前、わたしはその病院に入院している祖母の見舞いに行ったときに、彼女に再会した。待合室の片隅で、彼女に呼び止められた。ちょっと話たいことがあるから時間ないかな、と彼女は言った。いいよ、とわたしは答えた。彼女の勤務が終わる時間に、病院近くのショッピングモールで待ち合わせをして、そこにあるカフェで、彼女とテーブルをはさんで向かい合った。彼女の前には紅茶、わたしの前には珈琲があった。
「どうして市役所だたの?」と彼女が聞いた。
「それ以外に選択肢はなかった」とわたしは答えた。
彼女は何度かうなずいて、それ以上は聞いてこなかった。
少しの沈黙のあと、彼女が口を開いた。
「京都の大学だって聞いたけど」
「うん」
「いいな」
「京都が?」
「そう」
「でも旅ばっかりしてたけどね」
「どこに?」
「人形劇があるところならどこへでも」
「人形劇が好きなんだ」
「何でもよかったんだよ。それはサーカスでも、島でも……」
彼女は何か困ったような顔をして、じっとわたしの目をみつめていた。
わたしは話題をかえた。
「京都が好きなら案内するよ。ふつうの観光では味わえないような、ディープなところにね。よかったら、ガイドとして、雇ってみない?」
「あなたを?」
「うん」
とっさの冗談だったが、彼女はその数ヶ月後に、ほんとうにわたしをガイドとして雇った……
結婚して、ふたりのあいだで貴男のことを話題にすることはなかった。それに、わたしが人形劇にはまっていることに関しても彼女は何ひとつ口出しすることはなかった。ご主人が亡くなって一年が過ぎた頃、わたしは時計店をリフォームして人形劇専用の劇場にする計画を妻に話した。妻はこころよく賛成してくれた。計画は順調に進んでいったが、思ったより建物全体の損傷が激しく、安全性を考えたら土台から新らしく建て替えたほうがいいのではという設計会社からのアドバイスがあった。費用の面などがあったが、建物の姿をかえなければいいと考えたわたしは、最終的にはそっくりにしてくれるなら建て替えようという、そういう判断を下した……
そうして、貴男は見つかった。時計台の下の土の中で、白骨化した状態で。 その両脚は骨折していた。検視の結果、日常的な虐待があったことがわかった。そのすぐそばには、大人の男女の白骨もあった。警察の調べでそのふたりはご主人の妻と、駆け落ちした若い男のものだと判明した。さらにDNA鑑定であきらかになったことは、貴男は、そのふたりのあいだに生まれたこどもだという事実だった。事件はやがて、時間の経過とともにその全容をみせはじめていった。ふたりはご主人の迫りくる復讐を感じて、生まれたばかりの貴男をある施設に預けていた。それをどこかで(たぶん探偵によって)知ったご主人は、貴男を施設から引きとった。そして復讐は遂げられた。黒マントの男が売り飛ばした何人かの子たちがみつかった海外のとある場所で、ご主人がその黒マント事件のかなり以前からそこにあらわれていたこともわかった。いわゆる常連さんだったらしい。ご主人は貴男殺害以後も、かれをさがしていたのではなく、そこで喜々として遊んでいた。その性癖が、貴男をすぐに殺さなかった理由だったんだろうと、警察からの情報をもとにマスコミは報道していた。また、黒マント事件を裏であやつり、利用したのではないかという疑惑に対しても、捜査は、行方不明のままの男子の捜索(ご主人が過去に借りていた別荘近辺を中心にしたもの)とともに、継続しておこなわれているようだった……
貴男と母親はおなじ墓に入れられた。この町からいちばん遠い場所にある母親の親戚のところに、その墓はつくられた。わたしはじふんが許せなかった。気づけなかったじぶんが。止まった時計台。それが貴男からのわたしへのSOSだったのだ。あれから毎日、呼びかけてたはずなのに。それなのに……そのための、友だちなのに。そのことを妻に話すと、それはちがうと、彼女は言った。絶望をはねつけ、希望を持ち続けることこそが、友だちなんだと。だから彼が、あなたに向かって呼びかけてるはずがないじゃないと、泣きながらそう言った……
わたしは、劇場の計画を白紙にもどした。時計店は更地のままになっていた。仕事帰りにはかならずわたしはそこへ立ち寄った。更地にはみるたびにいろんなものが投げ棄てられていた。わたしはそれらを休日ごとに片づけた。貴男がいなくなった十七日には、月ごとに妻と更地となった時計店に行って花を手向けた。わたしは更地を花壇にし、そこへ色鮮やかな花を植えることにした。その後、そこへはもう、ゴミが投げ捨てられることはなかった……
その年の暮れ、妻が妊娠していることがわかった。翌年、妻は元気な男の子を産んだ。名前はふたりで考えて貴世哉にした。貴世哉は大きな病気をすることなく育っていった。貴世哉が五歳になると、わたしたちは休日の晴れた日に、クルマで近くの高原にピクニックに行った。高原の丘を、貴世哉を真ん中にして、わたしと妻が貴世哉の手をそれぞれにとって駆け降りていった。その瞬間わたしは、三人で登校した最後の日に、わたしと妻のあいだに入ってきた貴男のことを思い出した。妻も何となく、そのことを思い出しているような表情をしていた。わたしと妻が貴世哉を高く高く持ち上げると、あひゃひゃひゃんという楽しそうな笑い声が、青空いっぱいに響きわたった。
(終)
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