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第2章
弟子と修行①
香寧は弟子たちの名を叫びながら、丹新山の中を必死に駆けていた。
「清揺! ……微明! ……月澄!! 」
片手には居間に置かれていた弟子たちからの手紙が握られている。そこには、短くこう記されていた。
「修行に出てきます。時間がかかるかもしれませんが、心配しないでください」
その文を何度も、何度も読み返し、ようやく意味を理解した時、香寧は絶望の淵へ突き落とされたような心地がした。まず雲香宮の中を探した。自室にも、広間にも、台所にも、道場にも、庭にも、風呂にもいない。
続いて丹新山の中で、弟子たちが好んでいた場所を巡る。清揺が動物たちと戯れていた広場。微明が黙々と刀を振るっていた崖際。月澄が魚を捕まえては得意げに笑っていた川辺。
だが、どこにも彼らの姿はなかった。
丹新山は香寧の領域だ。本来なら探し回らずとも、気配を辿るだけで彼らが山に居ないことくらい分かる。
それでも、この目で確かめるまでは信じたくなかった。
荒くなった呼吸を押し殺しながら山頂へ辿り着く。そこからは麓の町並みを一望できた。
「まさか、山を出て行った……? 」
一体なぜ、どうして。
視界がぐらりと揺れる。足から力が抜け、その場へ膝をついた。震える手で手紙を見るが、書かれている内容は当然変わらない。
(降りよう、自分も、そして、探さなくちゃ……)
そう思うのに、体は言うことを聞かなかった。上手く立ち上がれず、近くの木へ縋りついて、辛うじて倒れるのを堪えた。
自分は彼らの独り立ちを願っていた。いつか訪れる別れのために、少なからず心の準備もしていたはずだった。
だが、こうして何の前触れもなく置いて行かれた時、己の本心が全く違う場所にあったことを、嫌というほど思い知らされる。
(嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ……)
胸の奥で幼子のように駄々をこねる感情が膨れ上がる。それを抑え込む気力も残っていなかった。
遠のいていく意識の中、香寧はそのまま静かに気を失った。
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「よかった。もう駄目かと思いました」
暗闇の中に、凛とした鈴のような声が響く。それは深淵へ沈みかけていた香寧の意識へ差し込む、一筋の光のようだった。頭に重いものがのしかかっているような感覚がある。その苦痛から逃れようと、香寧はゆっくり目を開けた。
……眩しい。
焦点の定まらない視界の向こうで、誰かがこちらを覗き込んでいる。何度か瞬きを繰り返し、鈍痛に耐えながら視線を凝らすと、ようやくその姿が見えてきた。
「香寧、声が聞こえますか?」
「……はい、白宵師兄……」
客間に寝かされた香寧を、白宵が静かに覗き込んでいた。
純白の長い髪が肩からさらりと零れ落ち、透き通るような青い瞳がこちらを見下ろしている。相変わらず人ならざる美しさで、ぼんやりとした意識の中では、ここが天上なのではないかと錯覚しそうになるほどだった。
「弟弟子、まるで捨てられた子犬のようですね」
香寧ははっと目を見開いた。
「……そうだ! 私の弟子は!? 」
半ば飛び起きるように身を起こす。白宵はそんな香寧を落ち着かせるように、静かに目を細めた。
「落ち着きなさい。手紙の内容を見たはずでしょう」
「何か知っているんですね!? 教えてください!! 」
香寧はそのまま白宵へ掴みかかった。だが当の本人は、不思議そうに瞬きをするだけだった。
「どうしました? 彼らなら、修行のため忘川観に居ますよ」
「忘川観!? なぜ白宵師兄がそれをご存知なのです! 」
「彼らから修行をしたいと相談を受け、私が忘川観へ案内しました」
あまりにも淡々とした口調だった。その言葉を聞いた瞬間、香寧は白宵を本気で殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
「ただ待っていれば、彼らはいずれ帰ってきます。手紙にも“心配しないでください”と書いてあったでしょう」
「しかし、忘川観には彼らへ悪意を抱いている者がおります! 」
「温のことですね。彼は少々正義感が強いだけです。弟子たちが何も悪さをしなければ問題ありません」
「なぜ彼らは修行へ行きたがったのですか!? 」
「忘川観での一件が、彼らへ何か深い傷を残したのでしょう」
「でも、何も私に黙っていることはないでしょう! 白宵、あなたまさか……! 」
そこで香寧は思い出す。原作の白宵は、悪役として弟子三人を“三邪王”へ仕立て上げた存在だった。
「まさか、弟子たちの悪念を利用しようと……! 」
その言葉を聞いた瞬間、白宵は大きく息を吐いた。香寧の手を外させ、乱れた衣を整えながら、苛立たしげに舌打ちする。
「ちっ、うっせーな……」
「……え? 」
香寧は目を見開いた。今の声音は、いつもの白宵のものではない。
白宵は一度ゆっくりと目を閉じ、それから再び香寧を見据える。そこにあった神聖さは消えていた。代わりに宿っていたのは、人を小馬鹿にするような色だった。
次の瞬間、白宵は香寧の額へ指を突きつけ、大声で怒鳴る。
「逆だよ逆!! お前が三邪王の闇落ちポイント貯めまくるから、俺様が直々に対応してやったんだよ! 昨日の黒焔魔尊のポイントとかマジでやばかったんだからな!? いつ魔界に堕ちてもおかしくなかったぞ! 何やったんだよお前マジで!! 」
「……」
香寧は呆然と口を開けたまま固まる。白宵は構わず、面倒臭そうに手を振った。
「は~、つーか今回はアレだよアレ、修行編? 的な? よくあるだろ、“修行してきます”からの、“数年後──こんなに強くなりました!”みたいなヤツ。それと一緒だよ。黒焔魔尊にはめちゃくちゃ渋られたけど、俺様だって仕方なかったんだよ」
そう言って肩を竦める。
「つーか、お前に害はないんだから、ここで大人しく待ってりゃいいだろ。お前は俺様と違って、この世界にそこまで責任ねーし……あ? なんだよ」
そこで白宵は言葉を切った。唖然としたまま固まる香寧を見て、眉を顰める。
先ほどまで背筋を伸ばし美しく正座していた男は、いつの間にか片膝を立て、後ろへ手をつきながら乱暴に髪をかき上げていた。そこに先ほどまでの神仙然とした気配はなかった。
それに加え、この世界では聞き慣れない単語の数々。香寧の脳裏に、一つの可能性が浮かぶ。……まさか。恐る恐る指を差しながら、震える声で問いかけた。
「……お前、転生者か……? 」
「あ、言ってなかったっけ、そうだよ。お前と一緒」
白宵は楽しそうに口角を吊り上げる。
「……しかも、誰だと思う? 」
挑発するような笑みに、香寧は困惑したまま首を振った。すると白宵は更に笑みを深め、一歩こちらへ近づいてくる。
「いや分かれよ。じゃあ大ヒントな、お兄さん」
そう言って、香寧へある言葉を投げかけた。転生する直前、電車の中で聞いた声。
「投げ銭とコメント……『ありがとうございます』!!! 」
その瞬間、香寧の脳裏に電撃のように記憶が蘇る。前世で自分が課金していた作品──『初雪戦火』。
その作者。
伊手オロギー!!
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香寧の脳内は大混乱を喫していた。
弟子たちが出て行ったのは、白宵に「修行したい」と相談したから。
白宵は事前に香寧へ話そうとしていたらしい。だが昨日の一件で闇落ちポイントが溜まり、彼らが危険な状態になってしまったため、急遽修行へ向かわせたのだという。
そして白宵は香寧と同じく転生者。その中身は、この世界の作者──伊手オロギー……。
「……少し横になる」
「ちょっとはリアクションしろよ! おもんねーな! 」
白宵──もとい伊手オロギーは、持参した酥餅をぼろぼろ零しながら食べていた。香寧には「後で片付けろよ……」と注意する気力すらない。
そのまま床へ倒れ込み、天井を見上げながら白宵へ問いかける。
「分かった。……伊手オロギー先生。貴方はいつからここに居たんだ。それで、この世界で何をしようとしている? 」
「俺様は一年前に転生した。この世界で言うと三邪王が生まれた年に来た。だから十数年はいるな。目的はお前と同じ。三邪王誕生の阻止だ」
「ああ、転生しちゃったから更新が止まっていたのか……。俺が転生者だって、なんで知っていたんだ? 」
「課金しただろ。だから俺様がこの世界へ招いた。本当は俺様の右腕に転生させる予定だったんだけど……手違いで、死んだ林 香寧の身体に入っちまった」
「……本当の林 香寧が、死んだ? 」
「そう。なぜかあの林で死んでたんだよ。俺様はそんな展開書いてねえし、そもそも死因も分からん。正直不明だから、それ以上は聞かないでくれ」
「……分かった。じゃあそれは一旦置いておく。俺にナビゲーターとかシステムが無いのは、不具合か何かか? 」
「えっ、無いのかよ。だからやたら相談してきたのか」
白宵もそれには予想外だったようで、素直に目を丸くしていた。
「でも結果オーライだったな。転生直後、俺様に言ってきただろ。ええと、『この子たちを真っ当に育てることを白宵師兄に誓います~』だっけ」
「っ……」
明らかに馬鹿にした声音に、香寧の顔が羞恥でかっと熱くなる。もう蒸し返さないでほしかった。
「だから俺様も三邪王をお前に任せた。まあ裏からちょこちょこ手は出してたけど。それなのに最近、黒焔魔尊の闇落ちポイントがやばくて……。本当、昨日アイツに何したんだよお前。まさか殴ったりしたのか? 」
「そんなことする訳ないだろ……っ」
昨夜、この客間で起きた出来事を思い出し、香寧は反射的に衿元を隠すように引き寄せ、そのまま白宵へ背を向けた。その「あからさまに何かありました」な反応に、白宵の目が細まった。
「おい、首、赤いぞ。……噛み跡か? 」
「……! 」
「え? ちょっと見せろ。おい、なんでそんな顔赤いんだよ。……は、え、まさか……」
白宵は香寧の前合わせを無理やり剥ぎ取る。そこに散る無数の赤い痕と、顔を染めて狼狽える香寧を見て、白宵は絶句した。次の瞬間、美貌を引き攣らせたまま香寧へ掴みかかる。
「おま……お前!! クソ変態野郎!! 俺様の子に手出したのか!? 」
「へん……!? い、いや、出してない! 出したというか、その! 」
「はっ!! まさか血冥鬼王と万妖女帝にも……っ、死ねー!!」
しばらくの間、二人は互いの襟元を掴み合ったまま床を転げ回り、何度も上下をひっくり返した。香寧がようやく誤解を解いた頃には、二人とも衣を半ばはだけさせ、肩で息をしていた。
「……と、とりあえず分かった。合意ならいいんだ……。でも師匠と弟子のくせに……何やってんだよ……」
「……」
痛いところを突かれ、香寧は俯く。そんなことは、誰より自分自身が分かっていた。
「とりあえず……俺様は仕事があるからもう帰らなきゃいけねえ。コレやる」
そう言って、白宵は白い小ぶりのピアスを投げ寄越した。
「耳に着けとけ。いつでも俺様と話せる。この世界の電話みたいなもんだ。こっちからも掛けるから、ちゃんと出ろよ」
「ありがとう……」
香寧は礼を言い、それを受け取ると迷いなく耳たぶへ針を刺した。鋭い痛みが走る。だが気にならない。いや、気にしている心の余裕がなかった。
「はあ、俺様の子が……」
白宵ががっくりと肩を落とした、その時だった。客間の扉が、音もなく開く。
「林宮主、失礼します。玄関でお声がけしても反応がなかった故、勝手ながらお邪魔させていただきました。こちらに白宵真人がいらしていると伺ったのですが……おや? 」
見慣れない男だった。淡い色の髪を中分けに垂らし、狐を思わせる鋭い目じりに薄い笑みを滲ませている。男は途中で言葉を切り、広間で向かい合う香寧と白宵を交互に見やった。
二人は衣を乱したまま、頬を染めて肩で息をしていた。香寧の首元や胸元には、赤い痕まで散っている。
狐目の男は、何かを察したように口元を手で隠し、そのまま静かに扉を閉めようとした。
「お愉しみ中のところ失礼しました~」
「「待て!!」」
再び誤解を解いた後、香寧は二人を玄関まで見送った。見慣れない男の名は洛悠。中央修仙司で白宵に仕えている一人らしい。
本当なら白宵へ聞きたいことは山ほどあった。だが、「弟子たちに問題はないから安心しろ」と何度も念を押されたため、後日改めて問い詰めることにする。弟子たちを「俺様の子供」と本気で呼んでいる辺り、彼なりに情は深いのだろう。
そして最後に、白宵は更に念を押した。
「とにかく、昨日みたいなことはほどほどにしろよ。何でか知らねーけど、闇落ちポイントが溜まるんだから」
「……」
客間へ戻った香寧は、机に向かったまま項垂れていた。
和紙へ今までの出来事を書き留めようとするものの、集中しようとすればするほど弟子たちのことを考えてしまい、筆を持つ手が止まった。
清揺の優しい声が聞きたい。
彼女ともっと虫捕りや料理をすればよかった。
微明の淹れた茶が飲みたい。
木の上で毎日一緒に星を眺めればよかった。
月澄のあの笑顔が見たい。
ああ、もっと彼を拒むんじゃなくて……。
そこまで考えて、香寧は自分の頬が熱くなっていることに気づいた。己は、一線を越えてしまった。
いっそ嵐のように巻き込まれてしまっていたなら、まだ言い訳もできた。しかし、小さいとはいえ、彼はきちんと逃げ道を用意していた。それを無視して、風の中へ飛び込んだのは自分だ。あの熱に絡め取られ、乱されることを選んだのは、外ならぬ己だった。
師として一線を越えた責任は、師である自分が取らなければならない。
けれど、月澄の嬉しそうな顔を思い出すたび、その決意はひどく鈍ってしまうのだった。
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月澄は、己の髪と師の髪を編み込んだ三つ編みを指へ絡め、熱い吐息を零した。
思い出すのは先日の師との、夢のような一件だ。──いや、本当は全部、自分に都合のいい幻だったのかもしれない。
だが、腕の中にいた師匠がどんな声で名を呼び、どんな顔で己を見上げ、どんな風に震えていたのか、その一つひとつを月澄は鮮明に覚えていた。
キスして欲しいと強請った時の赤い顔、客間の扉を気にして恥じらって伏せられた目、押し倒した時の柔い抵抗、口を吸った時、熱に溶けるように力を失っていった唇の感触、肌を噛んだ時の怯えるような吐息、触った時の縋るように揺れる腰……。夢と言うには熱すぎるし、現実にしては甘すぎる。
月澄は、再び己が兆したことに舌打ちした。景 煌瑛が言うには、修行を積めばある程度は鎮められるらしい。だが、瞑想して心を静めようとするほど、脳裏には師の顔ばかりが浮かび、欲は熱を増して膨らんで止まらない。
忘川観内の林の奥深く、誰もいない静寂の中で、月澄は再び師を求めた。微明には、部屋を抜け出したことを誤魔化せるのも時間の問題だから早く戻れと怒られるが、どうしても昂りが引かない。
まるで身体が、己のあるべきところを知ってしまったようだった。そこへ収まり滾る熱を押し付け、吐き出し尽くし、乱れた師匠の姿をこの目に映すまで――欲はどうしても満ち足りてくれない。
目を閉じて再び懸想する。次はもっとゆっくり、時間をかけて甘やかしたい。もっと熱を孕んだ声を聴きたい。もっと深いところで、互いを乱してしまいたい。もっと……。
夜空を眺める。月が出ていた。触れた熱も、掠れた吐息も、まだ忘れられない。
早く、会いたかった。
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弟子の三人が居ない雲香宮は寂しくなると思っていたが、香寧は意外にも忙しさに追われていた。
まず、己の身の回りの整理だ。家事はこれまで皆で分担していたため、一人になると、この広い楼閣を切り盛りするだけでも骨が折れる。
次に、白宵から大量に仕事を回された。今は弟子が不在である以上、白宵の弟弟子たる渡雲香君が「暇を持て余している」というのは体裁が悪いらしい。そもそも弟子三人だけで許されていたのは、彼らが揃いも揃って手のかかる子だったからだ。
仕事は多岐にわたった。任務に出て妖魔を討伐し、結界修復を手伝い、門派の弟子選抜における素質管理を行い、呪物を封印し、山のような書簡を整理する……。目が回るほど忙しかったが、かえって都合が良かった。何かしていなければ、どうしても弟子たちのことを考えてしまう。それに、他門派を巡って見聞を広げるのは意外と楽しく、人脈作りという意味でもかなり有意義だった。
また、白宵が治める中央修仙司の荘厳さには驚かされた。中央の主殿を囲うように、九つの楼閣が長い回廊で結ばれている。その姿は、まるで天上に描かれた陣図のようだった。東京ドームくらい広いと伝えると、「もっとでかいに決まってるだろう!」と胸を張っていたので、多分かなり気に入っているのだろう。
そして何より厄介なのが、白宵と並んで歩くだけで周囲が勝手に盛り上がることだった。
「なんとも目出度い」「素敵だわ」「格好いい……」「あやかりたい……」
ひそひそと囁かれるたび、白宵は露骨に鬱陶しそうな顔をしていたが、香寧は否定する気になれなかった。……正直、かなり気分が良い。
白宵は“天下白君”の異名で知られており、香寧の“渡雲香君”と合わせて、二人は天香双君などと呼ばれていた。
中央修仙司の庭で、高そうな茶と菓子を広げながら雑談する。
「そういえば、渡雲香君の通称って変えられる? 」
「あ? 優美で格好いいだろ」
「間に“うんこ”って入ってるから……」
「それレビューでも書かれたけど、ふざけんなよ!!」
白宵がぎゃーぎゃー騒いでいても、周囲からは感嘆の溜息ばかり漏れていた。
「まあ、天香双君がお揃いだわ……」
「きっと世の未来を憂いて語り合っておられるのだろう」
「有難い……なんと善き日か……」
すごい。
このままだと、抜けた髪の毛一本ですら意味を見出され、拾われて崇められそうな勢いである。
最初のうちは少し気分も良かった。だが、そんな空気に四六時中晒されていると、三日も経てば流石に気恥ずかしさの方が勝ってくる。
それ以来、必要な連絡は耳飾り越しで済ませるようになった。やはり香寧は、ふらふらと気ままに生きているくらいが一番似合う。
中央修仙司から雲香宮へ戻ると、香寧宛てに一通の手紙が届いていた。差出人は、落霞鎮の幽鬼騒ぎで世話になった沈 瑾だ。
封を開けば、まるで芸術品のように整った達筆が目に飛び込んでくる。内容は、近頃は体調も安定しており、今は夫と共に各地を巡っていること。何か困り事があれば、青都にいる金 耀蘭を頼って欲しいこと。そして最近描いた絵も同封したので、是非見てほしいこと――。
他にも細々とした近況が紙面いっぱいに綴られており、その几帳面さと丁寧さが実に沈 瑾らしい。香寧は思わず口元を緩めながら、長い時間をかけてその手紙を読み返した。
また、同封されていた絵は全部で五枚あった。それぞれ四人の似顔絵が一枚ずつ、そして最後の一枚には四人全員が描かれている。流石は一度見たものを忘れない頭脳を持ち、天が欲しがる才能を持つ彼だ。皆の特徴が驚くほど細やかに描き込まれており、それを見た瞬間、香寧の胸はいっぱいになった。危うく泣きそうになりながら、彼は絵を一枚ずつ丁寧に額縁へ入れ、部屋へ飾る。寂しさが少し和らいだ気がした。
香寧は早速、返事を書くため筆を取った。沈 瑾には、俗世のことなど気にせず旅を楽しんでほしいことと、絵への礼を書く。そして宛先を青都の金 耀蘭へ向けようとした時、ふと思い出した。
「……金 耀蘭って、天宝商会の息子だったよな……」
最新の番付帳を引っ張り出し、後付けの頁を確認する。そこには確かに、天宝商会の名が載っていた。以前土産に貰った青都茶も、確か天宝商会の品だったはずだ。
香寧は少し考えた末、金 耀蘭宛てに“番付帳の会議へ参加できないか”という一文を書き添えた。
すると返事は驚くほど早く届いた。
『お待ちしております! ですが、林 香寧先生と知られては色々差し障りがあります故、どうか装いを工夫してお越しください! 美しいお姉様など、大歓迎です!』
そんな内容が、次の会合の日取りと共に、やたら達筆な文字で綴られていた。
香寧は一瞬だけ躊躇った。だが、今は立ち止まって考える時間が良くない。気を抜けば、どうしても弟子たちのことばかり考えてしまう。
結局、彼は二つ返事で了承し、次の会議へ早速参加することになった。
長い付け髪を垂らし、体格が分かりにくいよう少し大きめの衣を纏う。更に目元と鼻筋を黒布で隠し、最後に、月澄が「似合う」と言ってくれた簪を挿した。
……自分で言うのも何だが、かなり様になっている。
その甲斐あってか、誰にも正体は気付かれなかった。口の上手い金 耀蘭には散々褒め倒され、香寧もまんざらではない気分になる。
また、番付帳の会議は想像以上に白熱した。各門派の長所や弟子事情、最近の噂話まで飛び交い、最終的に「今最も気になる門派ランキング」にて、雲香宮を二位へ押し上げることに成功したのである。
……次こそは、一位を狙う予定だ。
それから、雲香宮にも客がちらほら訪れるようになった。しかも何故か、香寧と年頃の近い男性ばかりである。宮主として無下にもできず、香寧は日々その応対に追われていた。
流石に一人では手が回らず、白宵へ人手を頼んだところ、寄越されたのはなんと、かつての道侶候補である顧 静峻と、その弟子たちだった。
最初こそ香寧は気まずさを覚えたものの、彼らは余計なことを言わず、黙々と仕事をこなしてくれる。しかも師に似て気前が良く、頼み事にも嫌な顔一つしない。お陰で香寧も意識している余裕がなくなり、いつしか自然と彼らを頼るようになっていた。顧 静峻に至っては、互いに名前で呼び合うようにまでなった。
ある日、ようやく一息つける時間ができた。顧 静峻が淹れてくれた茶を飲みながら、香寧は苦笑する。
「明日も明後日も男性の道士が来るそうです。いやあ、静峻とお弟子さん方には本当に苦労をかけます。ここは男性に人気の場所なのですね。ご飯を作っても、洗濯をしても、すぐ次の仕事ができてしまう」
「……はい」
何も知らず、美しく笑う香寧を前にして、顧 静峻はどうしてもその事実を告げられなかった。
――皆、あなた目当てで来ているのですよ。しかもその大半が、不埒な下心を隠しもしない輩ばかりだ。白宵が自分をここへ寄越したのも、恐らく牽制の意味を兼ねているのだろう。
顧 静峻は静かに茶を飲み干し、今日だけで三人追い返した男たちの顔を思い出して、そっと溜息を吐いた。
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香寧は眠りにつく前、自室で針仕事をしていた。日々の多忙な宮主生活と、沈 瑾が描いてくれた似顔絵のおかげで多少気は紛れるものの、ふとした瞬間、弟子の不在が胸に落ちてくる。顧 静峻の弟子たちを呼ぶ時、間違えて自分の弟子の名を口にしてしまったことも一度や二度ではない。その空虚を埋めるため、香寧はこの世界での「オタ活グッズ」を作ることにしたのである。日課になった白宵との寝る前の通話で、針を通しながら気になっていたことを聞いてみる。
「なあ、弟子たちって私に手紙も寄越さないけど、どうして? 」
『裴 凛雪が禁止してんだよ。お前らの弟子の弱点が師匠ってバレてるから、自立するまで暫く禁止らしい』
「裴師か。あり得そうだな」
『俺様に似て美しくてかっこいいよな、アイツ』
「うんそうだね。そういえば伊手オロギー先生って本名は何? 」
『そっちから教えろよ』
「佐藤」
『……』
「先生? 」
小さな声で返事があった。
『伊藤』
その後、『夜更かししてると洛悠に怒られる! 』という学生みたいな理由で電話が切れた。虫の声を聴きながら針を動かしているうちに、どうやら香寧は寝入ってしまったらしい。都合の良い夢を見た。
「師匠」
「ううん……」
「師匠! ここ開けてください」
窓から弟子の声がする。また屋根に登ったのか……と呆れながら返事をした。
「もう……屋根に登らないよ、落ちたら危ないんだから……」
「師匠。開けてください。清揺です」
ん? やけに涼やかな声がする。寝ぼけながら顔を上げて窓の方を見ると、香寧はその光景に目を疑った。
「皆!!」
「師匠、早く起きてくださいよ」
「お休みの所ごめんなさい、師匠」
都合の良い夢ではない。
夜空を背に、香寧の弟子三人が窓辺に立っていた。香寧は慌てて窓を開き、夜の冷気と共に三人を部屋へ招き入れる。彼らはしっとりと汗をかいており、息もこころなしか荒い。香寧は布巾で順に汗を拭ってやった。久しく見ないうちに全員背が伸び、いつの間にか香寧を追い越している。顔立ちもしっかりして、どこか大人びて見えた。
「ど、どうしたの? 修行は? もう終わったの? 」
「抜け出してきました」
「抜け出した!? 」
香寧は全員の手を取り、自分の胸元へ押し当てる。自分より大きくなっていたが、確かに弟子たちの手だった。微明がさらに整った顔で言う。
「俺が皆に霊力で分身を作る方法を教えたんです」
「それを身代わりにして抜け出してきました。下に景 煌瑛と謝 廉も居ます」
「手紙を書くのも禁止なんですよ。むかついたから直接来ました」
「いたずらっ子ども……! 」
相変わらずの悪ガキぶりに呆れながらも、笑みを隠せない。久しぶりの再会に、出て行ったことへの文句など嬉しさの前に吹き飛んでしまう。
「そうか。怪我はしてない? 風邪引いてない? 言うことを聞いてる? ご飯は食べてる? いじめられてない? 」
「師匠、俺らのこと見くびりすぎですよ」
「師匠こそ、ご飯はちゃんと食べていますか? 少し痩せられたような……」
「食べてるよ! 問題ない」
「し、師匠、それ……」
微明が、香寧の着ている衣を指さす。そこには微明の顔がいくつも刺繍されていた。
「あ、これ? 沈 瑾殿が皆の似顔絵を描いてくれてね。あそこに飾っているよ。似ているだろう? だから模して縫ったんだ。今は清揺の顔を縫っているよ。髪の部分がなかなか大変でね、ははは」
あっけらかんと言う師匠に、弟子たちは心底「来て良かった……」と思った。
月澄が金の瞳を細め、香寧の耳に触れる。
「師匠、これ何ですか? 」
熱い指先で耳と飾りの繋がった部分を擦られ、香寧は一瞬意識が飛びそうになる。慌ててそれを手で隠し、誤魔化すように笑った。
「最近仕事が忙しくてね。白宵師兄にもらった連絡用の法器なんだ。それより皆の話をしてよ! 」
「……」
月澄は少し不満げだったが、清揺と微明が話題を変える。
忘川観での暮らしは楽しいこと、裴 凛雪師を始め様々な師に世話になっていること、新しい友人ができたこと、衣食住の心配はいらないこと、修行の成果も少しずつ出ていること、もうしばらくすれば手紙を出せるので待っていて欲しいこと───。皆、座るのも忘れて夢中で束の間の再会を楽しんだ。
不意に、窓の外から声がかかる。
「渡雲香君、お邪魔して申し訳ありません。挨拶はまた今度にしましょう。おい、時間だ。戻るぞ! 」
景 煌瑛と謝 廉だ。二人も髪が伸び、以前より体格も顔立ちもずいぶん逞しくなっていた。
「師匠、抱きしめてください……」
「もちろんだよ、清揺。おいで」
清揺がそう言うので、香寧は即座に腕を広げる。彼女は師の背を越していたが、香寧にとっては今でも、動物好きの可愛らしい女の子のままだ。抱擁を終えると、一度こちらを振り返って笑い、景 煌瑛と謝 廉が待つ下へ飛び降りた。
「微明、君の淹れる茶が早く飲みたいな」
「はい。終わり次第すぐに戻ります」
修行の跡が残る手で、しっかりと握手を交わす。微明は去り際に静かに頷き、そのまま音もなく下へ飛び降りた。最後は月澄だけが残った。
「月澄……」
顔を見上げて名前を呼ぶと、突風が吹いた。それは香寧だけを捉え、短すぎた逢瀬へ縋りつくように激しかった。潤んだ金の瞳が名残惜しそうに離れ、最後に頬を撫でた。
香寧は去っていく弟子たちの姿を、窓から見えなくなってもいつまでも眺め続けていた。
「清揺! ……微明! ……月澄!! 」
片手には居間に置かれていた弟子たちからの手紙が握られている。そこには、短くこう記されていた。
「修行に出てきます。時間がかかるかもしれませんが、心配しないでください」
その文を何度も、何度も読み返し、ようやく意味を理解した時、香寧は絶望の淵へ突き落とされたような心地がした。まず雲香宮の中を探した。自室にも、広間にも、台所にも、道場にも、庭にも、風呂にもいない。
続いて丹新山の中で、弟子たちが好んでいた場所を巡る。清揺が動物たちと戯れていた広場。微明が黙々と刀を振るっていた崖際。月澄が魚を捕まえては得意げに笑っていた川辺。
だが、どこにも彼らの姿はなかった。
丹新山は香寧の領域だ。本来なら探し回らずとも、気配を辿るだけで彼らが山に居ないことくらい分かる。
それでも、この目で確かめるまでは信じたくなかった。
荒くなった呼吸を押し殺しながら山頂へ辿り着く。そこからは麓の町並みを一望できた。
「まさか、山を出て行った……? 」
一体なぜ、どうして。
視界がぐらりと揺れる。足から力が抜け、その場へ膝をついた。震える手で手紙を見るが、書かれている内容は当然変わらない。
(降りよう、自分も、そして、探さなくちゃ……)
そう思うのに、体は言うことを聞かなかった。上手く立ち上がれず、近くの木へ縋りついて、辛うじて倒れるのを堪えた。
自分は彼らの独り立ちを願っていた。いつか訪れる別れのために、少なからず心の準備もしていたはずだった。
だが、こうして何の前触れもなく置いて行かれた時、己の本心が全く違う場所にあったことを、嫌というほど思い知らされる。
(嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ……)
胸の奥で幼子のように駄々をこねる感情が膨れ上がる。それを抑え込む気力も残っていなかった。
遠のいていく意識の中、香寧はそのまま静かに気を失った。
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
「よかった。もう駄目かと思いました」
暗闇の中に、凛とした鈴のような声が響く。それは深淵へ沈みかけていた香寧の意識へ差し込む、一筋の光のようだった。頭に重いものがのしかかっているような感覚がある。その苦痛から逃れようと、香寧はゆっくり目を開けた。
……眩しい。
焦点の定まらない視界の向こうで、誰かがこちらを覗き込んでいる。何度か瞬きを繰り返し、鈍痛に耐えながら視線を凝らすと、ようやくその姿が見えてきた。
「香寧、声が聞こえますか?」
「……はい、白宵師兄……」
客間に寝かされた香寧を、白宵が静かに覗き込んでいた。
純白の長い髪が肩からさらりと零れ落ち、透き通るような青い瞳がこちらを見下ろしている。相変わらず人ならざる美しさで、ぼんやりとした意識の中では、ここが天上なのではないかと錯覚しそうになるほどだった。
「弟弟子、まるで捨てられた子犬のようですね」
香寧ははっと目を見開いた。
「……そうだ! 私の弟子は!? 」
半ば飛び起きるように身を起こす。白宵はそんな香寧を落ち着かせるように、静かに目を細めた。
「落ち着きなさい。手紙の内容を見たはずでしょう」
「何か知っているんですね!? 教えてください!! 」
香寧はそのまま白宵へ掴みかかった。だが当の本人は、不思議そうに瞬きをするだけだった。
「どうしました? 彼らなら、修行のため忘川観に居ますよ」
「忘川観!? なぜ白宵師兄がそれをご存知なのです! 」
「彼らから修行をしたいと相談を受け、私が忘川観へ案内しました」
あまりにも淡々とした口調だった。その言葉を聞いた瞬間、香寧は白宵を本気で殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
「ただ待っていれば、彼らはいずれ帰ってきます。手紙にも“心配しないでください”と書いてあったでしょう」
「しかし、忘川観には彼らへ悪意を抱いている者がおります! 」
「温のことですね。彼は少々正義感が強いだけです。弟子たちが何も悪さをしなければ問題ありません」
「なぜ彼らは修行へ行きたがったのですか!? 」
「忘川観での一件が、彼らへ何か深い傷を残したのでしょう」
「でも、何も私に黙っていることはないでしょう! 白宵、あなたまさか……! 」
そこで香寧は思い出す。原作の白宵は、悪役として弟子三人を“三邪王”へ仕立て上げた存在だった。
「まさか、弟子たちの悪念を利用しようと……! 」
その言葉を聞いた瞬間、白宵は大きく息を吐いた。香寧の手を外させ、乱れた衣を整えながら、苛立たしげに舌打ちする。
「ちっ、うっせーな……」
「……え? 」
香寧は目を見開いた。今の声音は、いつもの白宵のものではない。
白宵は一度ゆっくりと目を閉じ、それから再び香寧を見据える。そこにあった神聖さは消えていた。代わりに宿っていたのは、人を小馬鹿にするような色だった。
次の瞬間、白宵は香寧の額へ指を突きつけ、大声で怒鳴る。
「逆だよ逆!! お前が三邪王の闇落ちポイント貯めまくるから、俺様が直々に対応してやったんだよ! 昨日の黒焔魔尊のポイントとかマジでやばかったんだからな!? いつ魔界に堕ちてもおかしくなかったぞ! 何やったんだよお前マジで!! 」
「……」
香寧は呆然と口を開けたまま固まる。白宵は構わず、面倒臭そうに手を振った。
「は~、つーか今回はアレだよアレ、修行編? 的な? よくあるだろ、“修行してきます”からの、“数年後──こんなに強くなりました!”みたいなヤツ。それと一緒だよ。黒焔魔尊にはめちゃくちゃ渋られたけど、俺様だって仕方なかったんだよ」
そう言って肩を竦める。
「つーか、お前に害はないんだから、ここで大人しく待ってりゃいいだろ。お前は俺様と違って、この世界にそこまで責任ねーし……あ? なんだよ」
そこで白宵は言葉を切った。唖然としたまま固まる香寧を見て、眉を顰める。
先ほどまで背筋を伸ばし美しく正座していた男は、いつの間にか片膝を立て、後ろへ手をつきながら乱暴に髪をかき上げていた。そこに先ほどまでの神仙然とした気配はなかった。
それに加え、この世界では聞き慣れない単語の数々。香寧の脳裏に、一つの可能性が浮かぶ。……まさか。恐る恐る指を差しながら、震える声で問いかけた。
「……お前、転生者か……? 」
「あ、言ってなかったっけ、そうだよ。お前と一緒」
白宵は楽しそうに口角を吊り上げる。
「……しかも、誰だと思う? 」
挑発するような笑みに、香寧は困惑したまま首を振った。すると白宵は更に笑みを深め、一歩こちらへ近づいてくる。
「いや分かれよ。じゃあ大ヒントな、お兄さん」
そう言って、香寧へある言葉を投げかけた。転生する直前、電車の中で聞いた声。
「投げ銭とコメント……『ありがとうございます』!!! 」
その瞬間、香寧の脳裏に電撃のように記憶が蘇る。前世で自分が課金していた作品──『初雪戦火』。
その作者。
伊手オロギー!!
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香寧の脳内は大混乱を喫していた。
弟子たちが出て行ったのは、白宵に「修行したい」と相談したから。
白宵は事前に香寧へ話そうとしていたらしい。だが昨日の一件で闇落ちポイントが溜まり、彼らが危険な状態になってしまったため、急遽修行へ向かわせたのだという。
そして白宵は香寧と同じく転生者。その中身は、この世界の作者──伊手オロギー……。
「……少し横になる」
「ちょっとはリアクションしろよ! おもんねーな! 」
白宵──もとい伊手オロギーは、持参した酥餅をぼろぼろ零しながら食べていた。香寧には「後で片付けろよ……」と注意する気力すらない。
そのまま床へ倒れ込み、天井を見上げながら白宵へ問いかける。
「分かった。……伊手オロギー先生。貴方はいつからここに居たんだ。それで、この世界で何をしようとしている? 」
「俺様は一年前に転生した。この世界で言うと三邪王が生まれた年に来た。だから十数年はいるな。目的はお前と同じ。三邪王誕生の阻止だ」
「ああ、転生しちゃったから更新が止まっていたのか……。俺が転生者だって、なんで知っていたんだ? 」
「課金しただろ。だから俺様がこの世界へ招いた。本当は俺様の右腕に転生させる予定だったんだけど……手違いで、死んだ林 香寧の身体に入っちまった」
「……本当の林 香寧が、死んだ? 」
「そう。なぜかあの林で死んでたんだよ。俺様はそんな展開書いてねえし、そもそも死因も分からん。正直不明だから、それ以上は聞かないでくれ」
「……分かった。じゃあそれは一旦置いておく。俺にナビゲーターとかシステムが無いのは、不具合か何かか? 」
「えっ、無いのかよ。だからやたら相談してきたのか」
白宵もそれには予想外だったようで、素直に目を丸くしていた。
「でも結果オーライだったな。転生直後、俺様に言ってきただろ。ええと、『この子たちを真っ当に育てることを白宵師兄に誓います~』だっけ」
「っ……」
明らかに馬鹿にした声音に、香寧の顔が羞恥でかっと熱くなる。もう蒸し返さないでほしかった。
「だから俺様も三邪王をお前に任せた。まあ裏からちょこちょこ手は出してたけど。それなのに最近、黒焔魔尊の闇落ちポイントがやばくて……。本当、昨日アイツに何したんだよお前。まさか殴ったりしたのか? 」
「そんなことする訳ないだろ……っ」
昨夜、この客間で起きた出来事を思い出し、香寧は反射的に衿元を隠すように引き寄せ、そのまま白宵へ背を向けた。その「あからさまに何かありました」な反応に、白宵の目が細まった。
「おい、首、赤いぞ。……噛み跡か? 」
「……! 」
「え? ちょっと見せろ。おい、なんでそんな顔赤いんだよ。……は、え、まさか……」
白宵は香寧の前合わせを無理やり剥ぎ取る。そこに散る無数の赤い痕と、顔を染めて狼狽える香寧を見て、白宵は絶句した。次の瞬間、美貌を引き攣らせたまま香寧へ掴みかかる。
「おま……お前!! クソ変態野郎!! 俺様の子に手出したのか!? 」
「へん……!? い、いや、出してない! 出したというか、その! 」
「はっ!! まさか血冥鬼王と万妖女帝にも……っ、死ねー!!」
しばらくの間、二人は互いの襟元を掴み合ったまま床を転げ回り、何度も上下をひっくり返した。香寧がようやく誤解を解いた頃には、二人とも衣を半ばはだけさせ、肩で息をしていた。
「……と、とりあえず分かった。合意ならいいんだ……。でも師匠と弟子のくせに……何やってんだよ……」
「……」
痛いところを突かれ、香寧は俯く。そんなことは、誰より自分自身が分かっていた。
「とりあえず……俺様は仕事があるからもう帰らなきゃいけねえ。コレやる」
そう言って、白宵は白い小ぶりのピアスを投げ寄越した。
「耳に着けとけ。いつでも俺様と話せる。この世界の電話みたいなもんだ。こっちからも掛けるから、ちゃんと出ろよ」
「ありがとう……」
香寧は礼を言い、それを受け取ると迷いなく耳たぶへ針を刺した。鋭い痛みが走る。だが気にならない。いや、気にしている心の余裕がなかった。
「はあ、俺様の子が……」
白宵ががっくりと肩を落とした、その時だった。客間の扉が、音もなく開く。
「林宮主、失礼します。玄関でお声がけしても反応がなかった故、勝手ながらお邪魔させていただきました。こちらに白宵真人がいらしていると伺ったのですが……おや? 」
見慣れない男だった。淡い色の髪を中分けに垂らし、狐を思わせる鋭い目じりに薄い笑みを滲ませている。男は途中で言葉を切り、広間で向かい合う香寧と白宵を交互に見やった。
二人は衣を乱したまま、頬を染めて肩で息をしていた。香寧の首元や胸元には、赤い痕まで散っている。
狐目の男は、何かを察したように口元を手で隠し、そのまま静かに扉を閉めようとした。
「お愉しみ中のところ失礼しました~」
「「待て!!」」
再び誤解を解いた後、香寧は二人を玄関まで見送った。見慣れない男の名は洛悠。中央修仙司で白宵に仕えている一人らしい。
本当なら白宵へ聞きたいことは山ほどあった。だが、「弟子たちに問題はないから安心しろ」と何度も念を押されたため、後日改めて問い詰めることにする。弟子たちを「俺様の子供」と本気で呼んでいる辺り、彼なりに情は深いのだろう。
そして最後に、白宵は更に念を押した。
「とにかく、昨日みたいなことはほどほどにしろよ。何でか知らねーけど、闇落ちポイントが溜まるんだから」
「……」
客間へ戻った香寧は、机に向かったまま項垂れていた。
和紙へ今までの出来事を書き留めようとするものの、集中しようとすればするほど弟子たちのことを考えてしまい、筆を持つ手が止まった。
清揺の優しい声が聞きたい。
彼女ともっと虫捕りや料理をすればよかった。
微明の淹れた茶が飲みたい。
木の上で毎日一緒に星を眺めればよかった。
月澄のあの笑顔が見たい。
ああ、もっと彼を拒むんじゃなくて……。
そこまで考えて、香寧は自分の頬が熱くなっていることに気づいた。己は、一線を越えてしまった。
いっそ嵐のように巻き込まれてしまっていたなら、まだ言い訳もできた。しかし、小さいとはいえ、彼はきちんと逃げ道を用意していた。それを無視して、風の中へ飛び込んだのは自分だ。あの熱に絡め取られ、乱されることを選んだのは、外ならぬ己だった。
師として一線を越えた責任は、師である自分が取らなければならない。
けれど、月澄の嬉しそうな顔を思い出すたび、その決意はひどく鈍ってしまうのだった。
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
月澄は、己の髪と師の髪を編み込んだ三つ編みを指へ絡め、熱い吐息を零した。
思い出すのは先日の師との、夢のような一件だ。──いや、本当は全部、自分に都合のいい幻だったのかもしれない。
だが、腕の中にいた師匠がどんな声で名を呼び、どんな顔で己を見上げ、どんな風に震えていたのか、その一つひとつを月澄は鮮明に覚えていた。
キスして欲しいと強請った時の赤い顔、客間の扉を気にして恥じらって伏せられた目、押し倒した時の柔い抵抗、口を吸った時、熱に溶けるように力を失っていった唇の感触、肌を噛んだ時の怯えるような吐息、触った時の縋るように揺れる腰……。夢と言うには熱すぎるし、現実にしては甘すぎる。
月澄は、再び己が兆したことに舌打ちした。景 煌瑛が言うには、修行を積めばある程度は鎮められるらしい。だが、瞑想して心を静めようとするほど、脳裏には師の顔ばかりが浮かび、欲は熱を増して膨らんで止まらない。
忘川観内の林の奥深く、誰もいない静寂の中で、月澄は再び師を求めた。微明には、部屋を抜け出したことを誤魔化せるのも時間の問題だから早く戻れと怒られるが、どうしても昂りが引かない。
まるで身体が、己のあるべきところを知ってしまったようだった。そこへ収まり滾る熱を押し付け、吐き出し尽くし、乱れた師匠の姿をこの目に映すまで――欲はどうしても満ち足りてくれない。
目を閉じて再び懸想する。次はもっとゆっくり、時間をかけて甘やかしたい。もっと熱を孕んだ声を聴きたい。もっと深いところで、互いを乱してしまいたい。もっと……。
夜空を眺める。月が出ていた。触れた熱も、掠れた吐息も、まだ忘れられない。
早く、会いたかった。
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
弟子の三人が居ない雲香宮は寂しくなると思っていたが、香寧は意外にも忙しさに追われていた。
まず、己の身の回りの整理だ。家事はこれまで皆で分担していたため、一人になると、この広い楼閣を切り盛りするだけでも骨が折れる。
次に、白宵から大量に仕事を回された。今は弟子が不在である以上、白宵の弟弟子たる渡雲香君が「暇を持て余している」というのは体裁が悪いらしい。そもそも弟子三人だけで許されていたのは、彼らが揃いも揃って手のかかる子だったからだ。
仕事は多岐にわたった。任務に出て妖魔を討伐し、結界修復を手伝い、門派の弟子選抜における素質管理を行い、呪物を封印し、山のような書簡を整理する……。目が回るほど忙しかったが、かえって都合が良かった。何かしていなければ、どうしても弟子たちのことを考えてしまう。それに、他門派を巡って見聞を広げるのは意外と楽しく、人脈作りという意味でもかなり有意義だった。
また、白宵が治める中央修仙司の荘厳さには驚かされた。中央の主殿を囲うように、九つの楼閣が長い回廊で結ばれている。その姿は、まるで天上に描かれた陣図のようだった。東京ドームくらい広いと伝えると、「もっとでかいに決まってるだろう!」と胸を張っていたので、多分かなり気に入っているのだろう。
そして何より厄介なのが、白宵と並んで歩くだけで周囲が勝手に盛り上がることだった。
「なんとも目出度い」「素敵だわ」「格好いい……」「あやかりたい……」
ひそひそと囁かれるたび、白宵は露骨に鬱陶しそうな顔をしていたが、香寧は否定する気になれなかった。……正直、かなり気分が良い。
白宵は“天下白君”の異名で知られており、香寧の“渡雲香君”と合わせて、二人は天香双君などと呼ばれていた。
中央修仙司の庭で、高そうな茶と菓子を広げながら雑談する。
「そういえば、渡雲香君の通称って変えられる? 」
「あ? 優美で格好いいだろ」
「間に“うんこ”って入ってるから……」
「それレビューでも書かれたけど、ふざけんなよ!!」
白宵がぎゃーぎゃー騒いでいても、周囲からは感嘆の溜息ばかり漏れていた。
「まあ、天香双君がお揃いだわ……」
「きっと世の未来を憂いて語り合っておられるのだろう」
「有難い……なんと善き日か……」
すごい。
このままだと、抜けた髪の毛一本ですら意味を見出され、拾われて崇められそうな勢いである。
最初のうちは少し気分も良かった。だが、そんな空気に四六時中晒されていると、三日も経てば流石に気恥ずかしさの方が勝ってくる。
それ以来、必要な連絡は耳飾り越しで済ませるようになった。やはり香寧は、ふらふらと気ままに生きているくらいが一番似合う。
中央修仙司から雲香宮へ戻ると、香寧宛てに一通の手紙が届いていた。差出人は、落霞鎮の幽鬼騒ぎで世話になった沈 瑾だ。
封を開けば、まるで芸術品のように整った達筆が目に飛び込んでくる。内容は、近頃は体調も安定しており、今は夫と共に各地を巡っていること。何か困り事があれば、青都にいる金 耀蘭を頼って欲しいこと。そして最近描いた絵も同封したので、是非見てほしいこと――。
他にも細々とした近況が紙面いっぱいに綴られており、その几帳面さと丁寧さが実に沈 瑾らしい。香寧は思わず口元を緩めながら、長い時間をかけてその手紙を読み返した。
また、同封されていた絵は全部で五枚あった。それぞれ四人の似顔絵が一枚ずつ、そして最後の一枚には四人全員が描かれている。流石は一度見たものを忘れない頭脳を持ち、天が欲しがる才能を持つ彼だ。皆の特徴が驚くほど細やかに描き込まれており、それを見た瞬間、香寧の胸はいっぱいになった。危うく泣きそうになりながら、彼は絵を一枚ずつ丁寧に額縁へ入れ、部屋へ飾る。寂しさが少し和らいだ気がした。
香寧は早速、返事を書くため筆を取った。沈 瑾には、俗世のことなど気にせず旅を楽しんでほしいことと、絵への礼を書く。そして宛先を青都の金 耀蘭へ向けようとした時、ふと思い出した。
「……金 耀蘭って、天宝商会の息子だったよな……」
最新の番付帳を引っ張り出し、後付けの頁を確認する。そこには確かに、天宝商会の名が載っていた。以前土産に貰った青都茶も、確か天宝商会の品だったはずだ。
香寧は少し考えた末、金 耀蘭宛てに“番付帳の会議へ参加できないか”という一文を書き添えた。
すると返事は驚くほど早く届いた。
『お待ちしております! ですが、林 香寧先生と知られては色々差し障りがあります故、どうか装いを工夫してお越しください! 美しいお姉様など、大歓迎です!』
そんな内容が、次の会合の日取りと共に、やたら達筆な文字で綴られていた。
香寧は一瞬だけ躊躇った。だが、今は立ち止まって考える時間が良くない。気を抜けば、どうしても弟子たちのことばかり考えてしまう。
結局、彼は二つ返事で了承し、次の会議へ早速参加することになった。
長い付け髪を垂らし、体格が分かりにくいよう少し大きめの衣を纏う。更に目元と鼻筋を黒布で隠し、最後に、月澄が「似合う」と言ってくれた簪を挿した。
……自分で言うのも何だが、かなり様になっている。
その甲斐あってか、誰にも正体は気付かれなかった。口の上手い金 耀蘭には散々褒め倒され、香寧もまんざらではない気分になる。
また、番付帳の会議は想像以上に白熱した。各門派の長所や弟子事情、最近の噂話まで飛び交い、最終的に「今最も気になる門派ランキング」にて、雲香宮を二位へ押し上げることに成功したのである。
……次こそは、一位を狙う予定だ。
それから、雲香宮にも客がちらほら訪れるようになった。しかも何故か、香寧と年頃の近い男性ばかりである。宮主として無下にもできず、香寧は日々その応対に追われていた。
流石に一人では手が回らず、白宵へ人手を頼んだところ、寄越されたのはなんと、かつての道侶候補である顧 静峻と、その弟子たちだった。
最初こそ香寧は気まずさを覚えたものの、彼らは余計なことを言わず、黙々と仕事をこなしてくれる。しかも師に似て気前が良く、頼み事にも嫌な顔一つしない。お陰で香寧も意識している余裕がなくなり、いつしか自然と彼らを頼るようになっていた。顧 静峻に至っては、互いに名前で呼び合うようにまでなった。
ある日、ようやく一息つける時間ができた。顧 静峻が淹れてくれた茶を飲みながら、香寧は苦笑する。
「明日も明後日も男性の道士が来るそうです。いやあ、静峻とお弟子さん方には本当に苦労をかけます。ここは男性に人気の場所なのですね。ご飯を作っても、洗濯をしても、すぐ次の仕事ができてしまう」
「……はい」
何も知らず、美しく笑う香寧を前にして、顧 静峻はどうしてもその事実を告げられなかった。
――皆、あなた目当てで来ているのですよ。しかもその大半が、不埒な下心を隠しもしない輩ばかりだ。白宵が自分をここへ寄越したのも、恐らく牽制の意味を兼ねているのだろう。
顧 静峻は静かに茶を飲み干し、今日だけで三人追い返した男たちの顔を思い出して、そっと溜息を吐いた。
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
香寧は眠りにつく前、自室で針仕事をしていた。日々の多忙な宮主生活と、沈 瑾が描いてくれた似顔絵のおかげで多少気は紛れるものの、ふとした瞬間、弟子の不在が胸に落ちてくる。顧 静峻の弟子たちを呼ぶ時、間違えて自分の弟子の名を口にしてしまったことも一度や二度ではない。その空虚を埋めるため、香寧はこの世界での「オタ活グッズ」を作ることにしたのである。日課になった白宵との寝る前の通話で、針を通しながら気になっていたことを聞いてみる。
「なあ、弟子たちって私に手紙も寄越さないけど、どうして? 」
『裴 凛雪が禁止してんだよ。お前らの弟子の弱点が師匠ってバレてるから、自立するまで暫く禁止らしい』
「裴師か。あり得そうだな」
『俺様に似て美しくてかっこいいよな、アイツ』
「うんそうだね。そういえば伊手オロギー先生って本名は何? 」
『そっちから教えろよ』
「佐藤」
『……』
「先生? 」
小さな声で返事があった。
『伊藤』
その後、『夜更かししてると洛悠に怒られる! 』という学生みたいな理由で電話が切れた。虫の声を聴きながら針を動かしているうちに、どうやら香寧は寝入ってしまったらしい。都合の良い夢を見た。
「師匠」
「ううん……」
「師匠! ここ開けてください」
窓から弟子の声がする。また屋根に登ったのか……と呆れながら返事をした。
「もう……屋根に登らないよ、落ちたら危ないんだから……」
「師匠。開けてください。清揺です」
ん? やけに涼やかな声がする。寝ぼけながら顔を上げて窓の方を見ると、香寧はその光景に目を疑った。
「皆!!」
「師匠、早く起きてくださいよ」
「お休みの所ごめんなさい、師匠」
都合の良い夢ではない。
夜空を背に、香寧の弟子三人が窓辺に立っていた。香寧は慌てて窓を開き、夜の冷気と共に三人を部屋へ招き入れる。彼らはしっとりと汗をかいており、息もこころなしか荒い。香寧は布巾で順に汗を拭ってやった。久しく見ないうちに全員背が伸び、いつの間にか香寧を追い越している。顔立ちもしっかりして、どこか大人びて見えた。
「ど、どうしたの? 修行は? もう終わったの? 」
「抜け出してきました」
「抜け出した!? 」
香寧は全員の手を取り、自分の胸元へ押し当てる。自分より大きくなっていたが、確かに弟子たちの手だった。微明がさらに整った顔で言う。
「俺が皆に霊力で分身を作る方法を教えたんです」
「それを身代わりにして抜け出してきました。下に景 煌瑛と謝 廉も居ます」
「手紙を書くのも禁止なんですよ。むかついたから直接来ました」
「いたずらっ子ども……! 」
相変わらずの悪ガキぶりに呆れながらも、笑みを隠せない。久しぶりの再会に、出て行ったことへの文句など嬉しさの前に吹き飛んでしまう。
「そうか。怪我はしてない? 風邪引いてない? 言うことを聞いてる? ご飯は食べてる? いじめられてない? 」
「師匠、俺らのこと見くびりすぎですよ」
「師匠こそ、ご飯はちゃんと食べていますか? 少し痩せられたような……」
「食べてるよ! 問題ない」
「し、師匠、それ……」
微明が、香寧の着ている衣を指さす。そこには微明の顔がいくつも刺繍されていた。
「あ、これ? 沈 瑾殿が皆の似顔絵を描いてくれてね。あそこに飾っているよ。似ているだろう? だから模して縫ったんだ。今は清揺の顔を縫っているよ。髪の部分がなかなか大変でね、ははは」
あっけらかんと言う師匠に、弟子たちは心底「来て良かった……」と思った。
月澄が金の瞳を細め、香寧の耳に触れる。
「師匠、これ何ですか? 」
熱い指先で耳と飾りの繋がった部分を擦られ、香寧は一瞬意識が飛びそうになる。慌ててそれを手で隠し、誤魔化すように笑った。
「最近仕事が忙しくてね。白宵師兄にもらった連絡用の法器なんだ。それより皆の話をしてよ! 」
「……」
月澄は少し不満げだったが、清揺と微明が話題を変える。
忘川観での暮らしは楽しいこと、裴 凛雪師を始め様々な師に世話になっていること、新しい友人ができたこと、衣食住の心配はいらないこと、修行の成果も少しずつ出ていること、もうしばらくすれば手紙を出せるので待っていて欲しいこと───。皆、座るのも忘れて夢中で束の間の再会を楽しんだ。
不意に、窓の外から声がかかる。
「渡雲香君、お邪魔して申し訳ありません。挨拶はまた今度にしましょう。おい、時間だ。戻るぞ! 」
景 煌瑛と謝 廉だ。二人も髪が伸び、以前より体格も顔立ちもずいぶん逞しくなっていた。
「師匠、抱きしめてください……」
「もちろんだよ、清揺。おいで」
清揺がそう言うので、香寧は即座に腕を広げる。彼女は師の背を越していたが、香寧にとっては今でも、動物好きの可愛らしい女の子のままだ。抱擁を終えると、一度こちらを振り返って笑い、景 煌瑛と謝 廉が待つ下へ飛び降りた。
「微明、君の淹れる茶が早く飲みたいな」
「はい。終わり次第すぐに戻ります」
修行の跡が残る手で、しっかりと握手を交わす。微明は去り際に静かに頷き、そのまま音もなく下へ飛び降りた。最後は月澄だけが残った。
「月澄……」
顔を見上げて名前を呼ぶと、突風が吹いた。それは香寧だけを捉え、短すぎた逢瀬へ縋りつくように激しかった。潤んだ金の瞳が名残惜しそうに離れ、最後に頬を撫でた。
香寧は去っていく弟子たちの姿を、窓から見えなくなってもいつまでも眺め続けていた。
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人生を愛する弟に捧げることに何の迷いもなかった貴公子の絶大な愛を巡る話
(アルファ×オメガで完全固定。主人公と血の繋がらない弟の恋愛は一切なし・その気なし。ただし、作中繰り返しミカフォニス兄弟が番う番わないの話が出ます、ご注意ください)
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2026.05.13
アルファポリスのガイドラインを改めて見直しました
[ R-15 ]の性的表現について、【1-3.18歳未満の登場人物の性行為が書かれているもの。】に該当するためレーディングを見直しました
直接的な性行為描写こそ控えておりますが、全体的に性的な雰囲気があり規定違反だと判断しました
途中での閲覧範囲変更を心よりお詫び申し上げます
俺がこんなにモテるのはおかしいだろ!? 〜魔法と弟を愛でたいだけなのに、なんでそんなに執着してくるんだ!!!〜
小屋瀬
BL
「兄さんは僕に守られてればいい。ずっと、僕の側にいたらいい。」
魔法高等学校入学式。ブラコンのレイ−クレシスは、今日入学してくる大好きな弟との再会に心を踊らせていた。
“これからは毎日弟を愛でながら、大好きな魔法制作に明け暮れる日々を過ごせる”そう思っていたレイに待ち受けていたのは、波乱万丈な毎日で―――
義弟からの激しい束縛、王子からの謎の執着、親友からの重い愛⋯⋯って、いくらなんでも多すぎじゃないか!?
え、これだけじゃないって!!?
俺はただ、普通に過ごしたいだけなのにーーー!!!
転生したが陰から推し同士の絡みを「バレず」に見たい
むいあ
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俺、神崎瑠衣はごく普通の社会人だ。
ただ一つ違うことがあるとすれば、腐男子だということだ。
しかし、周りに腐男子と言うことがバレないように日々隠しながら暮らしている。
今日も一日会社に行こうとした時に横からきたトラックにはねられてしまった!
目が覚めるとそこは俺が好きなゲームの中で!?
俺は推し同士の絡みを眺めていたいのに、なぜか美形に迫られていて!?
「俺は壁になりたいのにーーーー!!!!」