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第2章
弟子と疑惑
香寧は月澄に後ろから服を着せてもらいながら、小さく溜息を吐いた。
「あのね、月澄。私とお前は、こ……そういう関係になったけれど」
「なんでしょう」
「だから、その、こっ……」
振り向くと、月澄が揶揄うように笑っている。照れ隠しに胸を軽く叩いたが、びくともしなかった。
「ゴホン。……その前に、私達は師弟だからね。公の場では、きちんと節度を持って。例えば洛悠さんの前でも───」
「師匠、襟が」
「あ、ありがとう」
「すみません。噛みすぎました」
露出した首筋を指先で撫でられる。そこに残る歯形を見て、月澄はどこか満足げに目を細めていた。
だが、香寧は即座に霊気を操り、その痕を覆い隠す。
「……師匠」
途端に不満そうな声が落ちた。
「月澄。私達にも体裁がある。いい子だから、ちゃんとできるよね」
「ですが」
「そう。じゃあ破門するけどいいよね」
「……分かりました。破門は嫌です」
不服そうではあったが、きちんと返事をしたので、香寧は満足そうに頷く。
「よし。……それと、まだ言えない?割れ目の中の幻覚のこと」
言った瞬間、月澄の目線が鋭くなる。香寧はその圧にあの時を思い出して僅かに身震いする。月澄が顔を背けて言う。
「言えません」
「ちょっとだけ」
「言えません。師匠には絶対に」
「……」
何度か聞いてもこの調子なので、香寧は諦めた。
「分かったよ。でも、これからもしかしたら聞かれるかもしれないから、心の準備はしておいてね」
「言わないので問題ありません」
「あるよ……」
折れない態度に首を振って、香寧は自室に設置された純白の移動陣へ飛び乗った。白宵師兄が置いていったもので、彼の治める中央修仙司へ繋がっている。
「師匠、まだ俺からの話が終わっていないです」
「うん。後にしよう」
「……早く行ってアイツらに会いたいだけですよね」
「当然。早く来ないと先に行くよ!」
逸る気持ちを抑えながら、香寧は陣の上で彼を待った。月澄は三つ編みを指先で弄びながら、ゆっくりと隣へ並ぶ。そして当然のように、香寧の手をぎゅっと握った。
「ちょっと」
「怖いので」
まあいいか、と思い術の発動を待つ。すると周囲が一瞬、視界を灼くほどの白に染まった。
次に気づいた時には、そこは香寧の自室ではなく、薄暗い小部屋の中だった。壁には古い術式が幾重にも刻まれ、空気には僅かに冷えた霊気が漂っている。
目の前の重厚な扉へ手を掛けながら、耳につけた法器で白宵へ連絡した。
「師兄、着いたよ」
『ほ~い』
呑気な返事を聞きつつ扉を押し開けると、視界が大きく開けた。
そこに広がっていたのは、天井が遥か頭上に霞むほど高い巨大な回廊だった。白玉と黒曜石で組まれた長い床には淡い術光が流れ、巨大な朱柱には金の霊紋が幾重にも刻まれている。壁際には古代の仙器や霊剣が静かに並び、窓の外では雲海がゆるやかに流れていた。
法衣を纏った修士達が忙しなく行き交っているにも関わらず、空間そのものは異様な静謐さを保っている。満ちる霊気は澄み切っており、呼吸をするだけで身体の内側まで洗われていくようだった。
横から来た修士が香寧にぶつかりそうになったが、その前に月澄が腕を引く。半ば抱き寄せられる形になり、香寧は目を瞬かせた。
「ありがとう」
「いえ……。行きましょう」
だが、月澄の様子はどこか妙だった。何かを警戒するように周囲へ視線を巡らせながら、肩を抱いて香寧を先へ誘導していく。
「ちょ、ちょっと。師兄の迎えが来るから待っていよう」
「大丈夫です。歩いていれば着きま――」
言い終わる前に、大きな音がして月澄の身体がぐらりと傾いた。
「月澄!?」
何事かと思い、香寧は咄嗟に腕を伸ばして倒れ込んできた身体を支えようとした。しかし、ふわりと懐かしい香りが鼻先を掠め、それどころではなくなった。
慌てて月澄の肩越しへ視線を向ける。
そこには、見慣れた二つの姿が立っていた。
「……微明、清揺!」
「師匠」
「師匠!」
愛弟子の二人が並んでそこにいた。外行き用の服で綺麗に着飾っており、以前見た時よりずっと洗練された姿に、一瞬、見知らぬ誰かに見えたが、向けられた笑顔は昔のままだ。懐かしさが込み上げ、香寧はすぐに駆け寄って二人を纏めて抱きしめた。
「二人とも!会いたかったよ!」
「はい」
「清揺もです……お元気そうで何よりです」
二人も香寧を抱きしめる。行き交う修士達が怪訝そうな視線を向けてきたが、今はそんなことどうでもよかった。無事な姿を見られただけで胸がいっぱいだった。月澄が頭を掻きながら三人に近寄る。
「おい、兄弟子を叩くなよ」
「お前が俺達を見て逃げたからだ」
「師匠、あっちで座ってお話ししましょう」
「いいね」
清揺に手を引かれながら、香寧はようやく再会の熱を落ち着けるように息を吐いた。
歩いていると、不意に一層澄み切った霊気が辺りを包み込む。まるで清水へ沈められたかのように空気が静まり返り、先程まで響いていた話し声や足音さえ遠のいていった。
不思議に思い振り向いて驚く。
そこには、この世の者とは思えないほど美しい姿をした白宵が立っていた。
雪のような白髪は淡い霊光を受けて輝き、蒼眼は静かな湖面のように澄んでいる。白銀の法衣には金糸の霊紋が流れるように織り込まれ、その周囲だけ空気すら清浄に変わって見えた。
まるで、人の姿を借りて現れた仙神そのものだ。
「香寧。再会の喜びは後にしてください。こちらへ」
後ろには付き人の洛悠と迅熾も控えており、二人揃って静かに一礼した。弟子達も慌ててそれに倣う。
香寧は白宵の隣へ並び、そのまま先頭を歩き出した。やけに畏まった様子に、思わず小声で話しかける。
「師兄、今日は随分と気合いが入っているね」
「師弟こそ、立派な服で見違えましたね。いつもの古着はどうしたのです?」
「古着……!?」
確かに最近、新しい服は買っていなかったが、そこまで言われるほど酷くはないはずだ。帰ったら確認しようと密かに決意していると、大きな扉の前へ辿り着く。
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白宵が軽く顎を上げる。すると方陣が淡く浮かび上がり、巨大な扉が音もなく開いた。
その中を見た瞬間、香寧は「裁判所みたいだ」と思った。
広い部屋を囲うように客席が並び、奥には高台の椅子が幾つも設置されている。垂れ幕に何かの文字が書かれており、神聖な雰囲気だ。中央には、まるで被告人が証言するためのような机がぽつんと置かれており、天井から差し込む光だけがそこを白く照らしていた。周りの席に座っている人々は、現れた香寧たちを見て一瞬騒めいたが、白宵が見渡すとすぐに静まり返った。
「お弟子さんはこちらへ~」
洛悠がいつもと変わらない調子で弟子達を引き連れていく。三人は一瞬だけ香寧へ目を向けたので、安心させるように静かに頷いた。
白宵に続いて高台の椅子へ通される。腰を下ろして見下ろすと、大勢の人間がいるにも関わらず、その場が張り詰めた空気に支配されていることを嫌でも実感した。白宵からは事前に「問題ない」と伺っていたが、さすがに不安になる。
隣に座る白宵の透き通った声が、張り詰めた室内へ静かに落ちた。
「暁烈、始めてください」
すると、空席だった他の高台の席へ人影が次々と現れる。どの人物も厳しい面持ちをしており、立派な法衣姿は如何にも「役所の偉い人」という雰囲気だった。
そして、他より一段高い最奥の席には、一人の人物が静かに座していた。目を閉じており、口元には穏やかな笑みがたたえられている。蒼く淡い髪が水面のように滑らかに流れており、この場の雰囲気にはまるで似つかわしくない人物だった。笑みを崩さないまま、凛とした声で言う。
「皆さま、本日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。白宵真人にもご了承いただいておりますので、本日は私、楚暁烈《ぎょうれつ》が場を預からせていただきます。此度議題となるのは、同刻に三ヶ所へ出現した“裂け目”についてです」
香寧もこの人物を知っていた。原作で白宵の右腕として暗躍し、弟子三人を邪王へ導く手助けをした人物だ。
主人公が無実の罪を着せられた時も、彼は今と同じ穏やかな笑みを浮かべたまま、逃げ道を塞ぐように追い詰め、そのまま牢へ投獄していた。思わず隣の白宵を見る。だが、当の本人は澄ました顔で座っているだけだった。
すると耳飾りから、香寧だけに届く小さな声が響く。
『こっち見んな!大丈夫だから落ち着けって』
少し不服に思いながら中央へ視線を戻すと、そこには清揺が立っていた。
周囲から絶え間なく視線を向けられているにも関わらず、彼女はまるで気にした様子もなく、いつもの柔らかな雰囲気のまま静かに背筋を伸ばしている。
天井から差し込む光を受け、その美貌は一層際立っていた。客席から小さく感嘆の息が漏れるほどだ。
さすが清揺だ、と香寧が微笑むと、彼女もまた視線に気づいたように小さく笑みを返した。
「柳 清揺。貴殿は百草堂にて妖魔王と結託し、姉弟子を生贄に邪界への裂け目を開いた疑いがある」
楚暁烈《ぎょうれつ》は目を閉じたまま文書を掲げる。香寧は内心で「それで見えてんのか」と毒づいた。既に印象は最悪である。楚暁烈《ぎょうれつ》は優しい微笑みで清揺へ語り掛ける。
「何か申し開きはありますか」
清揺も笑みを返す。天光を受けた黒髪は艶やかに輝き、その姿は罪を問われる者というより、まるで仙宴へ招かれた貴族の令嬢のようだった。
「はい。まず、私は裂け目を開いておりません。そもそも妖魔王と使い魔契約を結んだのは、裂け目より現れた異形を討伐した後になります」
澄んだ声が静かな室内へ通っていく。
「また、瑠璃師姉も異形の者達の中へ閉じ込められておりましたので、私が救出いたしました。今回の件は、大きな誤解によるものかと存じます。該当する方々へ証言を取っていただければ、潔白は証明されるかと」
「ですが」
楚暁烈《ぎょうれつ》は穏やかな笑みを浮かべたまま文書へ指を滑らせる。
「貴殿が裂け目へ嬉々として近づく姿を、大勢の者が目撃しております。更には、百草堂の弟子による制止を振り切り、裂け目の近くへ留まり続けたとも」
静かな声音のまま、淡々と言葉を重ねた。
「加えて、裂け目より現れた異形を前に、『残念』と呟いた――そのような証言も上がっておりますが、事実でしょうか」
その瞬間、客席が微かに騒めいた。清揺はそれを気にせず返す。
「はい。それらは事実です」
今度は先程よりも大きく場が騒めいた。低い囁きが幾重にも重なり、猜疑の視線が清揺へ突き刺さる。
だが、楚暁烈《ぎょうれつ》は目を閉じたまま微笑んでいた。静かな声音が、ざわめく室内をゆっくりと撫でる。
「では、お聞かせ願えますか。何故、貴殿は『残念』だと?」
楚暁烈《ぎょうれつ》がゆっくりと目を開く。
真白の双眸は、まるで俗世の色を映さぬ雪原のように静まり返っていた。感情の揺らぎ一つ見えないその瞳は、それでもなお、人の心奥に潜む偽りまでも映し出してしまうかのような神聖さを帯びている。
白宵の右腕たる所以――その瞳は、人の虚実を見抜くと恐れられていた。
視線が向けられた瞬間、客席を満たしていた囁き声が、まるで天威に触れたかのように静まり返る。誰一人として命じられてはいない。ただ、その眼差しの前では軽々しく言葉を発することすら憚られた。
だが、清揺はそれすら意に介した様子もなく、静かに言葉を続ける。
「はい。理由は二つあります。一つ目は、丹新山に現れた者ではなかったこと。二つ目は、妖界に繋がっていなかったことです」
「一つ目から詳しくお聞かせください。何故、丹新山に現れた者でなかったのが残念だったのでしょうか」
「以前、丹新山に現れた泥のような異形は、私の師匠を傷つけただけでなく……山に住む動物達の命まで奪いました」
その瞬間、清揺の顔から感情が消える。楚暁烈《ぎょうれつ》は瞬き一つせず、その僅かな変化を見つめていた。
「私はそれに、この手で復讐がしたかったのです。しかし、現れた者は私の望んだものではありませんでした」
「復讐心については理解いたしました。ですが、何故わざわざ貴殿自ら討伐へ動いたのです?貴殿が対応しなくても、百草堂の者が治めたはずです」
「それは……」
清揺がチラリと香寧を見る。香寧は「言って良いよ!」と視線を返すと、清揺は照れたように目を伏せる。
「倒せば、師匠が褒めてくださると思ったので……」
その場がシン、と静まり返る。香寧だけが笑っていた。楚 暁烈はその答えを聞き、文書を眺める。
「分かりました。では、二つ目はいかがでしょうか」
「はい。泥でない場合、次は妖魔王に会いたいと思っていたのです」
清揺は静かな声音のまま続ける。
「そして聞きたかったのです。私の師匠と動物達を傷つけた者の居場所を。異界のもののことは、異界に聞くのが一番ですから」
普通の人間であれば、そのような発想には至らない。何故なら、妖魔王へ近づこうとするだけで命を落とす可能性すらあるからだ。
客席から再び低いざわめきが広がる。非難とも畏怖ともつかぬ囁きが重なり合う中、楚暁烈《ぎょうれつ》だけは静かな微笑みを崩さなかった。
「ありがとうございます。少なくとも、貴殿が偽りを口にしていないことは十分理解できました」
柔らかな声音のまま、次の問いを落とす。
「ですが、妖魔王は何故、貴殿の前へ姿を現したのでしょう」
清揺が静かに右手を掲げた。
「それは分かりません……本人に聞いてみますか?」
「──なっ!?」
客席のあちこちで椅子が鳴り、驚愕の声が一気に広がる。ここで妖魔王を召喚する――その一言が意味する災厄の大きさを、誰もが理解していたからだ。香寧は、清揺へ媚びるように擦り寄っていた巨大な獣を思い出しながら、内心で「皆落ち着けって!」と頭を抱えていた。
そんな騒めきの中、白宵だけは静かに笑う。
「ふふっ。この場で召喚しようとするとは、面白い子ですね。制御できる自信があるのですか」
その声音に呼応するように、ざわめきがゆっくりと沈んでいく。
香寧は隣の白宵を横目で見るが、完全に無視された。清揺は胸元で静かに手を組み、真っ直ぐ答える。
「はい。制御できます。師匠に誓って、嘘はついておりません」
その言葉に、香寧は思わず小さく笑みを零した。清揺もまた彼へ視線を向け、安心させるように微かに笑い返す。
白宵はそのやり取りを眺めた後、静かに楚暁烈《ぎょうれつ》を一瞥する。視線を受けた楚暁烈《ぎょうれつ》が、穏やかな声音で口を開く。
「はい。こちらでも、彼女が偽りを口にしていないことは確認できております」
白い指先で文書を捲りながら続けた。
「もっとも、異界の存在の行動原理を、こちら側の常識で測ることはできません。仮に説明を受けたとしても、客席の方々が即座に納得されることは難しいでしょう───では次に、彼女の証言の確認へ移ります。百草堂より、汀 久雨、その師である祁 残灯《ざんか》、そして忘川観の楊 瑠璃。前へ」
呼ばれた三人が、清揺の立つ机の斜め前へ進み出る。楚暁烈《ぎょうれつ》は文書へ目を落としたまま問いかけた。
「まず、汀 久雨。貴殿は彼女が『残念』と呟いたのを聞いたと証言しております。これは事実ですか」
汀 久雨は緊張した様子で喉を鳴らし、それでもしっかりと答えた。
「……はい。本当です。彼女が言ったのを、この耳で確かに聞きました」
「ですが、当時は虫の羽音で騒がしかったと記録されています。聞き間違いの可能性は?」
「ありません。私は彼女を止めようと腕を掴み、すぐ傍に立っていました。聞き違える距離ではありません」
「分かりました。ありがとうございます」
楚暁烈《ぎょうれつ》は静かに頷き、次の人物へ視線を向ける。
「祁 残灯。弟子の証言に誤りはないと?」
残灯は肩の力を抜いたまま、ゆるく首を傾げた。
「ああ。久雨は少々思い込みの激しいところがありますが、人を貶めるために嘘を吐く性分ではありません。もし気に入らない相手が居れば、陰口など叩かず、本人へ真正面から嫌味を言うでしょうね」
庇っているのか貶しているのか分からない物言いだったが、楚暁烈《ぎょうれつ》は納得したように頷いた。
師の言葉を受け、汀 久雨は背筋をぴんと伸ばす。
「では、楊 瑠璃」
楚暁烈《ぎょうれつ》の白い瞳が静かに向けられる。
「貴殿は彼女に贄として利用され、裂け目を引き起こした――そのように疑われております。しかし彼女は、貴殿を異形の者達の中から救い出したと証言している。これは事実ですか」
清揺が静かに目を伏せる。瑠璃は紅を引いた口元を優雅に持ち上げ、落ち着いた声音で告げた。
「ええ。清揺の言葉は事実です。そもそも私は、家の用事で百草堂から帰宅する途中、何者かに襲撃されました。意識が朦朧としていたため詳細は曖昧ですが、清揺が助けてくれたことは覚えております」
一息置いて続けた。
「また、彼女は負傷した私をすぐ医館へ運び、看病までしてくださいました。私は彼女の姉弟子として長く共に過ごしてきましたが、裂け目を意図的に引き起こそうなどという兆候を見たことは一度もありません」
瑠璃は静かに清揺を見る。
「その彼女が、何故わざわざ私を利用する必要があるのでしょうか」
そこでようやく、清揺は瑠璃へ視線を向けた。安心したような、今にも泣き出しそうな顔をしている。対する瑠璃は、ただ優雅に微笑んでいた。
楚暁烈《ぎょうれつ》はその様子を静かに見つめた後、口を開く。
「最後の部分は主観を含みますので除外するとして――少なくとも、貴殿が偽りを口にしていないことは理解いたしました。三人とも、ご協力感謝いたします」
そして静かに顔を上げる。
「白宵真人。いかがでしょうか」
香寧は「頼むぞ!」と言う目で師兄を見つめた。白宵は尚も神仙然とした態度を崩さず伝えた。
「妖魔王との因縁は依然として残ります。ですが、少なくとも彼女が裂け目を意図して引き起こしたという疑いについては、晴れたと見てよいのではないでしょうか。皆さんは、どうお考えですか」
その言葉を合図にするように、沈黙を守っていた高台の者達が次々と口を開いた。
「……裂け目そのものを開いた証は確かに薄い。しかし、真人のお言葉通り、危険性が消えた訳ではありません。監視は必要でしょう」
「異形を討伐し、被害者を救い出したのもまた事実です。その力をただ危険視し、封じ込めるだけというのは短慮では?」
「では、誰が責を負うのです。妖界と繋がりを持つ者を」
「問題はそこではない。何故、妖魔王がわざわざ彼女の前へ姿を現したのか――その一点こそ最も不可解でしょう」
「異界の力は計り知れません。楚暁烈《ぎょうれつ》殿の瞳すら欺いていた可能性は?」
「……その発言、軽々しく口にしてよいものではありますまい」
「まあ、お待ちなさい。彼の言葉にも一理あります。復讐のため異界の者へ会いたいと望む時点で、常人とは発想が異なる」
「加えて、彼女には雅心宗を破門された過去もある……」
再び低い議論が広間を満たしていく。誰一人声を荒げてはいない。だが、重なり合う言葉の一つ一つが、冷たい刃のように清揺へ向けられていた。
香寧はその様子を見ながら、内心で「……終わったんじゃないのかよ」と遠い目になった。
高台の上で交わされる議論がなおも続く中、不意に白宵が静かに立ち上がった。
その瞬間、広間を満たしていた声が波のように引いていく。誰かが制したわけではない。ただ、彼が立ったというだけで、場の霊気そのものが沈み、自然と沈黙が広がっていた。
「皆さま、ご意見ありがとうございます」
白宵は穏やかな微笑を浮かべたまま続ける。
「では、こうしましょう。彼女には朱澤凰へ赴いていただきます」
その名に、客席の空気がわずかに揺れた。
「朱澤凰は聖獣を扱う門派。霊獣との契約や制御にも長けております。仮に妖魔王が現れたとしても、容易に力を振るえる環境ではないでしょう」
「しかし――」
一人の修士が眉を寄せる。
「それでも尚、妖魔王が上回る脅威であった場合は?」
白宵は視線だけを静かに横へ流した。
「その点については、残灯」
名を呼ばれた残灯は、気怠げに顎を撫でる。
「ああ。抑制用の薬を送りますよ。本来は人間向けですが、多少なりとも力は鈍るでしょうね」
「では、そのように」
白宵が静かに結論を落とす。
それだけで、先程まで続いていた議論は嘘のように収束した。誰も異を唱えない。否――唱えられないと言った方が正しいのかもしれない。
香寧はその様子を眺めながら、胸の奥が重く沈むのを感じていた。事前に聞かされていた話とはいえ、再会したばかりの清揺とまた離れ離れになる現実は、やはり簡単に受け入れられるものではない。
清揺達四人が静かに下がっていく。
そして次に、微明の名が呼ばれた。
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微明は両手を拘束され、口元には封呪の施された黒い面布まで付けられていた。だが、その切れ長の瞳だけは少しも揺らがず、冷えた湖面のような静けさを湛えている。まるで「早く終わらせろ」とでも言いたげな態度だった。きちんと結い上げられた黒髪に、張り詰めた白刃を思わせる鋭利な美貌。顔の大半を覆われてなお、その危うい気配は隠し切れていない。
しかし、彼のその姿を見た瞬間、香寧の眉間に皺が寄る。思わず隣の白宵を睨みつけた。
すると耳飾り越しに、呆れたような声が響く。
『だからパフォーマンスだって。見てみろよ、血冥鬼王本人は全然気にしてない』
香寧は霊気を微かに震わせ、白宵だけへ声を返す。
『そういう問題じゃないだろ! 危険な獣みたいな扱いしやがって!』
『はいはい。……ほら、見てるぞ』
言われて慌てて視線を落とす。微明は平気です、とでも言いたげにこちらを見上げていた。香寧はその様子に、不満を飲み込みながら小さく頷き返す。
楚暁烈《ぎょうれつ》が再び静かに目を閉じ、文書を確認する。
「霍 微明。貴殿へ確認したいことは二つあります」
白い指先で文書を捲りながら、淡々と告げる。
「一つ。忘川観に現れた裂け目は、貴殿が引き起こしたものか」
一拍置き、その静かな声が更に落ちた。
「そしてもう一つ――忘川観の裴 凛雪が鬼を喰っているという話は、事実ですか」
その瞬間、広間の空気が大きく揺らぐ。先程まで抑えられていたざわめきが再び溢れ、高台の修士達までも僅かに目を細めた。
“鬼喰い”。
その言葉は、忌避される禁忌だった。微明は楚 暁烈の瞳を一瞥して続ける。
「忘川観の裂け目は俺が引き起こしたものではありません。裴 凛雪が鬼を喰っているのは事実です」
広間が静まり返り、誰もがその続きを待った。だが、微明はそれ以上語るつもりがないのか、返答は終わったと言わんばかりに視線を伏せた。封呪の面布越しでも分かるほど、その態度は淡々としていた。
相変わらず説明不足だな、と香寧は思わず小さく笑みを漏らした。楚 暁烈が促す。
「裂け目より現れた者も、種は違えど鬼には変わりありません。なぜわざわざ姿を晒して、討伐したのでしょう」
「それは……」
微明がチラリと香寧を見る。香寧は「言いなさい!」と視線を返す。微明は小さな声で呟く。
「……倒せば、師匠が褒めてくださるかと」
その場がシン、と静まり返る。香寧だけが笑っていた。楚 暁烈はその答えを聞き、文書を眺める。
「わかりました。では、次の質問です。なぜ鬼喰いが分かったのでしょうか」
「弟に聞きました」
「弟と言うと、あなたの中にいる血鬼のことですね」
「はい」
また騒めきが起こるので、香寧は「いちいちうるさいな……」と呆れた。
「当時、貴殿はその弟と肉体を半ば共有した姿を、裴 凛雪に暴かれました。その報復として咄嗟に吐いた虚言ではないのですか?」
「いえ、違います。その件については以前から、温師へ相談しておりました」
その言葉に、既に待機していた温 如晟へ視線が集まる。
彼はいつもの柔和な笑みを崩さず、無数の視線を受けても微塵も動じなかった。楚 暁烈が静かに問い掛ける。
「温 如晟。今の話は事実ですか?」
「ええ。霍 微明の言葉に偽りはありません」
温 如晟は穏やかな口調のまま続ける。
「私は裴とは長い付き合いでしたから。以前から、彼の様子に違和感を覚えておりました。ですので相談を受け、密かに調べていたのですが……まさかこのような形で、大勢の前に露見するとは思いませんでした」
自嘲気味に笑みを浮かべ、肩を竦める。
「全く、彼は血鬼に情けをかけたのに、皮肉な話です」
「お気持ちは理解します。ですが、質問のみにお答えください」
楚 暁烈の声音は淡々としていた。
「裴 凛雪が鬼喰いであると断じられるだけの証拠は、何か掴めたのでしょうか」
「……いえ。決定的なものは何も。あるのは彼の証言のみです」
楚 暁烈が僅かに目を細める。
「温 如晟。質問には正確にお答えを」
暗に「隠し立てはするな」と告げられ、温 如晟は小さく首を振った。
「失礼しました。確証が無かったため、口にするのを控えていたのです」
一拍置き、静かに続ける。
「……裴はある時期から、霊気に微かな悪念を滲ませるようになりました。ただ、それだけです。しかも正式な検査によるものではなく、あくまで私個人の見解に過ぎません。その点をご承知の上で、お聞きいただければ」
「承知しております。裴 凛雪については、別件として引き続き調査を進める必要があるでしょう」
楚 暁烈は高台へ視線を巡らせた。
「では――皆様のご意見はいかがですか」
その言葉を合図に、高台の修士達が再び口を開き始める。
「血鬼の証言など、どこまで信用できると言うのです」
「鬼を喰った者を鬼が嗅ぎ分けた――など、あまりにも曖昧だ」
「しかし、温 如晟の証言とも一致しております」
「一致しているのは“違和感”のみだ。鬼喰いの証左には程遠い」
「慎重になるべきでしょう。裴 凛雪は忘川観でも上位の修士。証拠も無く断じれば混乱を招きかねん」
「本人不在のまま、この場で話を進めるのは些か横暴では?」
「まだ調査中との話だが……」
「そもそも血鬼だろう。その異形の言葉を信用するのか?」
香寧は飛び交う言葉を聞きながら、内心で「完全に堂々巡りじゃないか……」と遠い目になった。微明は早く帰りたいとでも言うように、ただただ虚空を見つめていた。熱くなる場を、白宵が霊気を流しながら言う。
「確かに、裴 凛雪は現在、問心宮にて調査を受けております。この場に本人が不在である以上、彼の黒白を今ここで断ずるのは別件でしょう。霍 微明は、あくまで可能性を提示し、己の知る事実を述べたに過ぎません」
「ですが、彼は血鬼でしょう」
高台の一人が鋭く言い放つ。
「その存在自体の危険性を、どうお考えですか」
「ええ。その件につきましても、柳 清揺と同様の処遇を取ります」
白宵が静かに視線を流す。
「晏 承舒」
香寧は聞きたくなくて、思わず目を逸らした。温 如晟の隣に座していた女修が、静かに頷く。
「はい。夜鬼を擁する夜哭宗が、責をもって彼を預かります」
澄み切った声音だった。そこに迷いも恐れも存在しない。楚 暁烈が微笑を浮かべる。
「そういえば……霍 微明は、長期間夜哭宗の任務へ同行していたと聞いております。その間、血鬼の気配が表へ漏れたことは?」
「一度たりとも」
晏 承舒は即答した。
「我々は彼の限界を測るため、長時間の閉鎖空間への拘束、精神への干渉、複数人による同時襲撃――あらゆる負荷を与えました。ですが彼は、一度として血鬼を暴走させることはありませんでした」
そこで温 如晟が、ふと思い出したように口を挟む。
「しかし、以前忘川観にて血鬼を顕現させていたような気もしますが? そう簡単に己を制御できるようになるものなのでしょうか」
横目で探るように視線を送る温 如晟へ、晏 承舒もまた薄く口角を上げた。
「その件でしたら、私もよく存じております。何せ、彼を糾弾したあの場に私も居ましたから。あの時は薬によって理性を奪われた状態でした。むしろ、そこまでしなければ彼を追い詰められなかった――そう証明されたのでは?」
「ああ、そうでしたね」
温 如晟が扇を揺らしながら笑う。
「貴女は夜哭宗の身でありながら、堂々と忘川観にて師を演じておられた。いやはや、実に大胆なお方だ。こうして今なお素顔を晒し、平然と発言しておられる姿には感服いたします」
誰が聞いても分かる嫌味だった。だが、晏 承舒は気分を害した様子もなく、ただ静かに微笑む。
「そもそも私が忘川観へ潜入していた理由は、異界の存在を秘匿し、生かしたまま実験している者がいる――その情報を追っていたからです。その者の名を、この場でお聞きになりますか? 温 如晟」
一瞬、空気が張り詰める。温 如晟は笑みを崩さぬまま肩を竦めた。
「……いえ。止めておきましょう。今は関係のない話ですからね」
互いに笑みを浮かべたまま、刃だけが交差していた。その空気を断ち切るように、楚 暁烈が静かに目を閉じる。
「各門派間の因縁につきましては、また別の場にてお話しいただきましょう。皆さま、ご協力感謝いたします」
「ようやく終わった……」と言わんばかりに、微明は虚空を眺めている。
香寧はその姿を見て、思わず吹き出しそうになった。「頑張ったね」という思いを込めて視線を送ると、微明は僅かにこちらを見た。けれどすぐに目を逸らし、そのまま退出していく。師を気にする素振りを見せれば、また別の嫌疑をかけられると分かっているのだろう。
最後は月澄の番だ。白宵に「トイレ休憩ないの?」と聞いたら無視された。無いらしい。
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月澄は不機嫌さを隠そうともせず、その場に立っていた。端正な顔立ちが僅かに歪むだけで、周囲を圧するほどの威迫が生まれる。すぐ後ろには洛悠と、大柄な迅熾が控えていたが、その二人すら従えてしまうような空気を纏っていた。
ふと、癖のように三つ編みに触れかけ、月澄は眉を寄せてその手を止める。
香寧はその様子を見て、内心で「少しは頑張れよ……」と頭を抱えた。
楚 暁烈が、目を閉じたまま静かに問い掛ける。
「林 月澄。貴殿は先の二人と同門です。故に、貴殿にも裂け目を開かせた疑いが向けられております。これについては?」
「開いておりません。他の者と同様です」
「当時、雲香宮では師である林 香寧と二人きりだったと聞いております。しかし貴殿は、自ら裂け目へ入った。何故、助力を待たなかったのです?」
「師匠は当時、体調を崩して休まれておりました」
「それでも声を掛けることはできたはずです。一人で対処しようとした理由は?」
「師匠に褒めていただきたかったからです」
月澄は一切の迷いもなく言い切った。
その瞬間、広間に何とも言えない沈黙が落ちる。
香寧は思わず苦笑を漏らしたが、客席からは「またか……」と言いたげなざわめきが広がっていった。
しかも、微妙に視線が香寧へ集まっている。
香寧は慌てて何事もないよう澄ました顔を作った。
楚 暁烈が静かに目を開く。
「しかし、その結果走火入魔に陥ったそうですね。間違いありませんか」
「はい。間違いありません」
その言葉に、香寧は反射的に白宵を見た。隣の横顔は相変わらず涼しげに目を閉じている。だが次の瞬間、耳飾り越しに焦った声が飛び込んできた。
『すまん!!!』
『ふざけんな!』
短い応酬を交わした後、香寧は早鐘のように鳴る心臓を押さえ込みながら、月澄へ視線を向ける。
本来、この件を知る者は必要最低限に絞られていたはずだった。
下手をすれば、月澄を止めるために何をしたのかまで暴かれかねない。
だが、香寧が本当に恐れていたのは、その方法を周囲へ知られることではなかった。
月澄自身が知ってしまうことだ。
師を襲った事実を。
あの時、自分がどれほど壊れていたのかを。
それを察したのか、白宵が耳飾り越しに小さく囁く。
『安心しろ。聞かれるのは別件だけだ。……お前にしたことまでは触れさせない』
香寧は胸騒ぎを覚えながら、話の続きを聞く。
「裂け目の中で、一体何が起こったのでしょうか」
「……幻覚を見ました。それにより、理性を失いました」
「その幻覚の内容は話せますか」
空気が張り詰める。その異様な沈黙に、白宵でさえ微かに眉を動かした。月澄は変わらぬ声音で続ける。
「話せません。……思い出したくもありません」
一拍置き、その金の瞳が冷ややかに細められた。
「これ以上踏み込まれるのであれば、再び走火入魔に陥る可能性があります」
脅しにも似たその言葉に、楚 暁烈が白宵へ視線を向ける。
白宵は僅かに首を横へ振った。
「……分かりました。無理を言ってしまい、申し訳ありません」
楚 暁烈は静かに文書へ目を落とす。
「走火入魔に陥った後のことは?」
「覚えていません。気が付いたら自室で寝ていました」
「また、走火入魔に至った要因として、薬物の使用が報告されております。その薬は、忘川観一行が滞在していた時期に持ち込まれたものです。何か心当たりは?」
「いえ。ありません」
「誰かに恨まれる心当たりは?」
「ありません」
香寧は「一体、何が聞きたいんだ……」と苛立った。
いくつか無粋な質問が繰り返された後、楚 暁烈は微笑を浮かべる。
「ありがとうございます。では――皆さまのご意見はいかがでしょうか」
途端、高台と客席のあちこちから声が飛び交い始めた。
「結局、裂け目とは無関係なのか?」
「少なくとも対処したのは事実だ」
「渡雲香君の弟子は、一体どうなっているんだ」
「だが、ここまで抑え込んできたのも彼だろう」
「彼は以前にも走火入魔を起こしたはずだ。もう何十年も前の話だが……」
「その件は白宵真人自らが責を負い、既に収めている。当時の彼はまだ幼かった」
香寧が転生してくる前の話だ。どこまで遡るんだよ、と内心で溜息を吐く。
客席でも議論が重なり、人の声は次第に大きくなっていく。月澄もまた、退屈そうに前を見据えていた。
白宵が場を収めようとした――その瞬間だった。
「理性を失っていたとはいえ、師を犯すような弟子は引き離すべきでしょう」
その言葉は、無数の声を切り裂くように広間へ響き渡った。全員が耳を疑う。
一瞬遅れて、控えていた円鈴が鋭く声を張り上げた。
「誰も動くな!!」
香寧の全身に鳥肌が走る。
その事実を知っているのは、香寧、白宵、そして、顧 静峻だけのはずだった。
動揺を抑え切れぬまま、香寧は反射的に月澄を見る。
月澄もまた、香寧を見ていた。
……その金の瞳は、絶望に染まっている。
洛悠が飴を口へ放り込む。途端、その場は彼の霊気に包まれた。
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香寧は白宵の部屋で、珍しく本気で怒っていた。
「騙すぐらいなら先に相談しろ!」
「だから悪かったって……」
襟元を掴み、容赦なく前後へ揺さぶる。
今回の一件――裂け目を作った真犯人を炙り出すため、香寧と弟子達は“餌”として利用されたのだ。しかも結果は芳しくない。謎の声を誘発できたまではいいが、誰が発したまでは特定できなかったからだ。
だからこそ余計に腹が立つ。
白宵は揺さぶられながらも、どこか疲れた声で言った。
「……あの声の発言は、洛悠の術で皆の記憶から消える。弟子達の闇落ちも進行してない。だから問題は――」
「そういう話じゃない!」
香寧は怒鳴った。
脳裏から離れない。あの時の月澄の顔が。絶望したような、壊れそうな目。
あんな顔を、たとえ一瞬でもさせたくなかった。
「師兄、いくら今まで力を尽くしてくれていたとしても、今は冷静になれない」
吐き捨てると、白宵は小さく息を吐く。
「だろうな。……それに、黒幕は顧 静峻だと思ってたんだがな。見張りからの報告だと、今も雅心宗で普通に師匠やってるらしい」
「ああそう……」
香寧は額を押さえ、そのまま寝台へ腰を落とした。
怒りたい。
責め立てたい。
だが、白宵が何故自分へ黙っていたのかも理解できてしまう。絶対に反対したからだ。
弟子三人は現在、別室で待機している。
洛悠の霊術によって、あの場に居た者達は一時的に意識を奪われた。人が次々と糸の切れたように倒れていく様は、異様を通り越して恐怖だった。
「……この後、すぐ帰っていいから」
「言われなくても帰る!」
「はぁ……」
白宵は深く溜息を吐き、隣へ腰を下ろした。
「悪かった。……謝って済む話じゃないのは分かってる」
「ああ」
「でも聞いてくれ。こうするしかなかったんだ。各門派の関係者を一箇所へ集め、一斉に反応を見る方法は」
香寧は眉を寄せる。
「だったら、どうして顧 静峻を呼ばなかった?」
「……あえて呼ばなかった。あの場には、奴以外の内通者を炙り出す必要があったからだ」
白宵の声音が低くなる。
「それに、奴には秘密封術を掛けていたはずだ。誰にも漏らしていない。なのに、あの声は知っていた」
そこで一瞬、空気が冷えた。
「つまり――もう一人いる」
香寧の表情が強張る。
「少なくとも条件は見えてきた。裂け目まで作れて、中央修仙司へ入り込めるような奴が、だ」
背筋に悪寒が走った。
もしそれが本当なら、もう一門派の問題では済まない。
中央修仙司そのものへ干渉できる存在がいるということになる。
しかも――
白宵と顧 静峻しか知らない秘密を知っている。
「そんなの……」
香寧は言葉を失う。すると白宵が、珍しく笑みを消したまま窓の外を見た。
「……ただ、確実に分かったことがある」
「何」
「敵は、俺たちが思ってるより近くにいる」
「それは……」
白宵は続けた。
「裴 凛雪の件もそうだ。あんな愚直な奴が、禁薬を手に入れて、雲香宮に居た忘川観の連中まで巻き込むような真似をするはずがない。下手をすれば、忘川観の弟子は全滅していた」
白宵は目を細める。
「もしかしたら、裴 凛雪に協力をさせられるような、“まだ表に出ていない誰か”がいる」
「……先生、心当たりは?」
白宵は露骨に顔を歪めた。言いたくない。そんな感情がありありと滲んでいる。
香寧は再び襟を掴んだ。
「……香寧」
「なに?」
白宵は一瞬だけ黙り込み、諦めたように息を吐く。
「違う。林 香寧。お前が転生してくる前の……本物の方だ」
その瞬間、空気が凍り付いた。香寧の指先から力が抜ける。
「正直、考えたくはない。だが条件が噛み合いすぎてる」
「待って。意味が分からない……」
「裂け目を作れる。中央修仙司へ干渉できる。俺と顧 静峻しか知らない情報を知ってる。裴 凛雪と協力関係が作れる。そして――」
白宵の視線が、ゆっくり香寧へ向いた。
「弟子達に異常な執着を持っている」
ぞわり、と悪寒が走る。
「いや、でも……本物の林 香寧は死んだんだろう? それで俺が転生して……」
「魂の確認をしていない」
白宵は乱れた襟元を整えながら、低く言った。
「この世界は、一度だけ蘇ることができる。主人公の江 燎炎は簡単に生き返ることができたけど、他の奴はそうじゃない。俺様が作った設定だから、そこはよく覚えてる」
その声音には、冗談めいた軽さが無かった。
「死んだ後も未練を捨てきれなかった魂は、まず鬼界に最も近い“冥府”へ送られる。冥府は鬼王がまとめて治めている。血冥鬼王の名前の由来もこれだ。そこで、魂だけの状態からやり直す必要がある」
「やり直す?」
「ああ」
白宵は窓の外へ目を向けたまま続ける。
「まず、忘川と呼ばれる川で生前の罪と向き合わされる。魂に最も近い、脆い状態でな。心が弱い奴はそこで壊れて流される。未練がある奴だけが、流されずに傷つきながら土地へ辿り着く」
部屋の空気がじわりと冷えていく。
「そして、辿り着いた土地で生き残った魂同士で喰い合うんだ」
香寧の背筋に鳥肌が立った。
「魂は摩耗する。冥府の瘴気にも侵される。途中で鬼になる奴もいれば、自我そのものが壊れる奴もいる」
「そんな……」
「よく聞けよ」
白宵は静かに言った。
「お前も死ねば、これをやることになる。残機を作るってのは、この地獄を通るってことだ」
その言葉は、妙に現実味があった。
「喰い合って、ようやく薄っぺらい肉体を手に入れる。その後でやっと冥府の門をくぐれる。だが、そこから先も終わりじゃない。既に肉体を得た冥府の住人達の中で、生き残らなきゃならない」
白宵は目を伏せる。
「そこで魂を喰われ、完全に消える奴もいる。逆に、上手く立ち回って力を得る奴もいる。だが――冥府帰りの魂は、執念だけは異様に強くなる」
「執念……」
「生前の未練に、永遠に引っ張られ続けるんだ」
香寧の喉が乾く。
「……原作の香寧は、どんな未練を持っているの」
その問いに、白宵は目を閉じる。しばらく沈黙してから、ゆっくり口を開く。
「弟子を“三邪王”にすること」
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「一番厄介なのは、肉体が生前と何一つ変わらないことだ。……裴 凛雪も、恐らくそれに惑わされたんだろうな。一応言っておくが――気を付けろよ」
何に気を付ければいいのかも分からぬまま、香寧は白宵の部屋を後にした。
騙されていたことへの怒りは消えていない。だが、弟子達の疑いを晴らしてくれたことに対する感謝も確かにあった。感情の整理が追い付かず、「また連絡する」とだけ告げて別れる。
今まで散々世話になってきたせいで、一方的に怒り切ることもできなかった。
荘厳な廊下を当てもなく歩いているうちに、いつの間にか香寧の部屋へ繋がる陣の前まで辿り着いていた。
そのまま扉の前で立ち止まった瞬間、不意に背後から柔らかな感触がぶつかる。
「師匠~」
「清揺!」
振り返ると、清揺が満面の笑みで抱き付いていた。
その後ろには微明と月澄、そして洛悠もいる。
「林宮主、お待たせしてごめんなさいねぇ~。お弟子さん達も問題ありませんので、そのままお帰りくださ~い」
愛想笑いを返す余裕も無いまま、香寧は清揺を抱き留め、そのまま扉の中へ入った。
閉まりかけた扉の向こうから、「ほんとうにごめんなさいねぇ……」という洛悠の小さな声が聞こえる。
彼も命じられただけなのだ。
そう分かっているからこそ、香寧は自分の余裕の無さに小さく息を吐いた。
清揺が嬉しそうに香寧の手を握る。
「師匠、帰ったら師匠のご飯が食べたいです」
「うん。なんでも作ろう」
すると月澄が一歩前へ出て、清揺を指差した。
「清揺、壊した俺の部屋の鍵直せよ」
その普段通りの態度に、香寧は胸の奥がようやく緩むのを感じた。
四人で陣の上へ立ち、雲香宮へ戻る。
外はすっかり日が落ちていた。
三人は着替えるとのことで、香寧は一足先に台所へ向かう。とにかく何かしていないと落ち着かなかった。
残っている食材を確認しながらレシピ帳を眺めていると、軽い足音が近付き、次の瞬間、背後から強く抱き締められる。
「師匠」
「月澄……」
呼ばれた月澄が小さく笑った。
「アイツらなら、山の様子を見に行きました。襲われた後の丹新山を見るのは今日が初めてですから」
「あ……そっか」
「師匠、元気ありませんね。師伯に何か言われたんですか?」
心配そうに覗き込まれ、香寧の胸の中がぐちゃぐちゃに掻き乱される。
色々聞きたいことはあった。だが、一番気になっていたことを、結局口にしてしまう。
「あの、月澄……」
「はい」
「走火入魔の件、聞かれてたけど……大丈夫だった?何か思い出したり……」
月澄は少し考え込むように目を伏せた。聞かない方が良かったかもしれない。そんな嫌な胸騒ぎが過る。
三つ編みを指へ絡めながら、月澄は静かに答えた。
「いえ。覚えていません」
「……そっか」
心の底から安堵し、香寧は材料へ手を伸ばす。だが次の瞬間、その顎を掴まれ、無理やり月澄の方を向かされた。
「こら!」
「分かっています。でも今日は頑張ったので、少しだけください」
月澄が目を細める。
「……それに、これからは兄弟子として、アイツらに師匠を譲りますので」
譲るも何も、私は物じゃないんだけど――。そう思ったが、月澄がゆっくり屈むので、そのまま受け入れた。
強く抱き締められ、求められると、不安が少しずつ薄れていく。
月澄はいつもより短い口づけで満足し、そのまま二人を迎えに部屋を出て行った。
その背中を見送りながら、香寧は白宵へきちんと謝って、ちゃんと話をしようと思う。
……自分がここまで単純になっていたとは、少し驚きだった。
その後、四人で久しぶりの団欒を囲み、長い夕食を共にした。
折角だから今日は広間で皆一緒に寝よう、という話になり、布団を敷いて雑魚寝をする。
香寧はその時間が楽しくて仕方なく、寝ようと急かす弟子達へ「まだ寝るな」と何度も笑いながら言い返していた。だが疲れは想像以上に溜まっていたらしい。結局、そのまま眠りへ落ちた。
――その夜、不思議な夢を見た。
弟子三人が、出会った頃の幼い姿で香寧へ何かを訴えている。
だが香寧の体は酷く重かった。まるで何かに押し潰されているようで、口も上手く回らない。声を掛けてやりたいのに、頭も鈍く、思うように動けなかった。
やがて三人が泣き出す。
仕方なく、香寧は無理やり霊気を香煙に変え、重さを取り除いて体を動かし、昔のように三人まとめて抱き上げた。すると三人はすぐ泣き止み、そのまま大人しく抱き付いてくる。
そのまま四人でゆっくり散歩した。心なしか、三人は昔より重かった。けれど、それが妙に嬉しかった。
目を覚ますと、布団の上には自分一人しか居なかった。
ぼんやりした頭で「何故広間で寝ていたんだっけ」と考え――次の瞬間、香寧は飛び起きる。
慌てて扉を開けると、弟子三人が驚いたようにこちらを見ていた。桶を持っているので、香寧のために準備してくれたのだろう。三人の顔を順に確認したその瞬間、堪え切れなくなった。
香寧は泣きながら三人へ抱き付き、そのまま全員まとめて抱き締める。
――ようやく。
ようやく、香寧の愛弟子達が揃って帰って来たのだ。
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いつも読んでくださりありがとうございます♪
「あのね、月澄。私とお前は、こ……そういう関係になったけれど」
「なんでしょう」
「だから、その、こっ……」
振り向くと、月澄が揶揄うように笑っている。照れ隠しに胸を軽く叩いたが、びくともしなかった。
「ゴホン。……その前に、私達は師弟だからね。公の場では、きちんと節度を持って。例えば洛悠さんの前でも───」
「師匠、襟が」
「あ、ありがとう」
「すみません。噛みすぎました」
露出した首筋を指先で撫でられる。そこに残る歯形を見て、月澄はどこか満足げに目を細めていた。
だが、香寧は即座に霊気を操り、その痕を覆い隠す。
「……師匠」
途端に不満そうな声が落ちた。
「月澄。私達にも体裁がある。いい子だから、ちゃんとできるよね」
「ですが」
「そう。じゃあ破門するけどいいよね」
「……分かりました。破門は嫌です」
不服そうではあったが、きちんと返事をしたので、香寧は満足そうに頷く。
「よし。……それと、まだ言えない?割れ目の中の幻覚のこと」
言った瞬間、月澄の目線が鋭くなる。香寧はその圧にあの時を思い出して僅かに身震いする。月澄が顔を背けて言う。
「言えません」
「ちょっとだけ」
「言えません。師匠には絶対に」
「……」
何度か聞いてもこの調子なので、香寧は諦めた。
「分かったよ。でも、これからもしかしたら聞かれるかもしれないから、心の準備はしておいてね」
「言わないので問題ありません」
「あるよ……」
折れない態度に首を振って、香寧は自室に設置された純白の移動陣へ飛び乗った。白宵師兄が置いていったもので、彼の治める中央修仙司へ繋がっている。
「師匠、まだ俺からの話が終わっていないです」
「うん。後にしよう」
「……早く行ってアイツらに会いたいだけですよね」
「当然。早く来ないと先に行くよ!」
逸る気持ちを抑えながら、香寧は陣の上で彼を待った。月澄は三つ編みを指先で弄びながら、ゆっくりと隣へ並ぶ。そして当然のように、香寧の手をぎゅっと握った。
「ちょっと」
「怖いので」
まあいいか、と思い術の発動を待つ。すると周囲が一瞬、視界を灼くほどの白に染まった。
次に気づいた時には、そこは香寧の自室ではなく、薄暗い小部屋の中だった。壁には古い術式が幾重にも刻まれ、空気には僅かに冷えた霊気が漂っている。
目の前の重厚な扉へ手を掛けながら、耳につけた法器で白宵へ連絡した。
「師兄、着いたよ」
『ほ~い』
呑気な返事を聞きつつ扉を押し開けると、視界が大きく開けた。
そこに広がっていたのは、天井が遥か頭上に霞むほど高い巨大な回廊だった。白玉と黒曜石で組まれた長い床には淡い術光が流れ、巨大な朱柱には金の霊紋が幾重にも刻まれている。壁際には古代の仙器や霊剣が静かに並び、窓の外では雲海がゆるやかに流れていた。
法衣を纏った修士達が忙しなく行き交っているにも関わらず、空間そのものは異様な静謐さを保っている。満ちる霊気は澄み切っており、呼吸をするだけで身体の内側まで洗われていくようだった。
横から来た修士が香寧にぶつかりそうになったが、その前に月澄が腕を引く。半ば抱き寄せられる形になり、香寧は目を瞬かせた。
「ありがとう」
「いえ……。行きましょう」
だが、月澄の様子はどこか妙だった。何かを警戒するように周囲へ視線を巡らせながら、肩を抱いて香寧を先へ誘導していく。
「ちょ、ちょっと。師兄の迎えが来るから待っていよう」
「大丈夫です。歩いていれば着きま――」
言い終わる前に、大きな音がして月澄の身体がぐらりと傾いた。
「月澄!?」
何事かと思い、香寧は咄嗟に腕を伸ばして倒れ込んできた身体を支えようとした。しかし、ふわりと懐かしい香りが鼻先を掠め、それどころではなくなった。
慌てて月澄の肩越しへ視線を向ける。
そこには、見慣れた二つの姿が立っていた。
「……微明、清揺!」
「師匠」
「師匠!」
愛弟子の二人が並んでそこにいた。外行き用の服で綺麗に着飾っており、以前見た時よりずっと洗練された姿に、一瞬、見知らぬ誰かに見えたが、向けられた笑顔は昔のままだ。懐かしさが込み上げ、香寧はすぐに駆け寄って二人を纏めて抱きしめた。
「二人とも!会いたかったよ!」
「はい」
「清揺もです……お元気そうで何よりです」
二人も香寧を抱きしめる。行き交う修士達が怪訝そうな視線を向けてきたが、今はそんなことどうでもよかった。無事な姿を見られただけで胸がいっぱいだった。月澄が頭を掻きながら三人に近寄る。
「おい、兄弟子を叩くなよ」
「お前が俺達を見て逃げたからだ」
「師匠、あっちで座ってお話ししましょう」
「いいね」
清揺に手を引かれながら、香寧はようやく再会の熱を落ち着けるように息を吐いた。
歩いていると、不意に一層澄み切った霊気が辺りを包み込む。まるで清水へ沈められたかのように空気が静まり返り、先程まで響いていた話し声や足音さえ遠のいていった。
不思議に思い振り向いて驚く。
そこには、この世の者とは思えないほど美しい姿をした白宵が立っていた。
雪のような白髪は淡い霊光を受けて輝き、蒼眼は静かな湖面のように澄んでいる。白銀の法衣には金糸の霊紋が流れるように織り込まれ、その周囲だけ空気すら清浄に変わって見えた。
まるで、人の姿を借りて現れた仙神そのものだ。
「香寧。再会の喜びは後にしてください。こちらへ」
後ろには付き人の洛悠と迅熾も控えており、二人揃って静かに一礼した。弟子達も慌ててそれに倣う。
香寧は白宵の隣へ並び、そのまま先頭を歩き出した。やけに畏まった様子に、思わず小声で話しかける。
「師兄、今日は随分と気合いが入っているね」
「師弟こそ、立派な服で見違えましたね。いつもの古着はどうしたのです?」
「古着……!?」
確かに最近、新しい服は買っていなかったが、そこまで言われるほど酷くはないはずだ。帰ったら確認しようと密かに決意していると、大きな扉の前へ辿り着く。
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白宵が軽く顎を上げる。すると方陣が淡く浮かび上がり、巨大な扉が音もなく開いた。
その中を見た瞬間、香寧は「裁判所みたいだ」と思った。
広い部屋を囲うように客席が並び、奥には高台の椅子が幾つも設置されている。垂れ幕に何かの文字が書かれており、神聖な雰囲気だ。中央には、まるで被告人が証言するためのような机がぽつんと置かれており、天井から差し込む光だけがそこを白く照らしていた。周りの席に座っている人々は、現れた香寧たちを見て一瞬騒めいたが、白宵が見渡すとすぐに静まり返った。
「お弟子さんはこちらへ~」
洛悠がいつもと変わらない調子で弟子達を引き連れていく。三人は一瞬だけ香寧へ目を向けたので、安心させるように静かに頷いた。
白宵に続いて高台の椅子へ通される。腰を下ろして見下ろすと、大勢の人間がいるにも関わらず、その場が張り詰めた空気に支配されていることを嫌でも実感した。白宵からは事前に「問題ない」と伺っていたが、さすがに不安になる。
隣に座る白宵の透き通った声が、張り詰めた室内へ静かに落ちた。
「暁烈、始めてください」
すると、空席だった他の高台の席へ人影が次々と現れる。どの人物も厳しい面持ちをしており、立派な法衣姿は如何にも「役所の偉い人」という雰囲気だった。
そして、他より一段高い最奥の席には、一人の人物が静かに座していた。目を閉じており、口元には穏やかな笑みがたたえられている。蒼く淡い髪が水面のように滑らかに流れており、この場の雰囲気にはまるで似つかわしくない人物だった。笑みを崩さないまま、凛とした声で言う。
「皆さま、本日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。白宵真人にもご了承いただいておりますので、本日は私、楚暁烈《ぎょうれつ》が場を預からせていただきます。此度議題となるのは、同刻に三ヶ所へ出現した“裂け目”についてです」
香寧もこの人物を知っていた。原作で白宵の右腕として暗躍し、弟子三人を邪王へ導く手助けをした人物だ。
主人公が無実の罪を着せられた時も、彼は今と同じ穏やかな笑みを浮かべたまま、逃げ道を塞ぐように追い詰め、そのまま牢へ投獄していた。思わず隣の白宵を見る。だが、当の本人は澄ました顔で座っているだけだった。
すると耳飾りから、香寧だけに届く小さな声が響く。
『こっち見んな!大丈夫だから落ち着けって』
少し不服に思いながら中央へ視線を戻すと、そこには清揺が立っていた。
周囲から絶え間なく視線を向けられているにも関わらず、彼女はまるで気にした様子もなく、いつもの柔らかな雰囲気のまま静かに背筋を伸ばしている。
天井から差し込む光を受け、その美貌は一層際立っていた。客席から小さく感嘆の息が漏れるほどだ。
さすが清揺だ、と香寧が微笑むと、彼女もまた視線に気づいたように小さく笑みを返した。
「柳 清揺。貴殿は百草堂にて妖魔王と結託し、姉弟子を生贄に邪界への裂け目を開いた疑いがある」
楚暁烈《ぎょうれつ》は目を閉じたまま文書を掲げる。香寧は内心で「それで見えてんのか」と毒づいた。既に印象は最悪である。楚暁烈《ぎょうれつ》は優しい微笑みで清揺へ語り掛ける。
「何か申し開きはありますか」
清揺も笑みを返す。天光を受けた黒髪は艶やかに輝き、その姿は罪を問われる者というより、まるで仙宴へ招かれた貴族の令嬢のようだった。
「はい。まず、私は裂け目を開いておりません。そもそも妖魔王と使い魔契約を結んだのは、裂け目より現れた異形を討伐した後になります」
澄んだ声が静かな室内へ通っていく。
「また、瑠璃師姉も異形の者達の中へ閉じ込められておりましたので、私が救出いたしました。今回の件は、大きな誤解によるものかと存じます。該当する方々へ証言を取っていただければ、潔白は証明されるかと」
「ですが」
楚暁烈《ぎょうれつ》は穏やかな笑みを浮かべたまま文書へ指を滑らせる。
「貴殿が裂け目へ嬉々として近づく姿を、大勢の者が目撃しております。更には、百草堂の弟子による制止を振り切り、裂け目の近くへ留まり続けたとも」
静かな声音のまま、淡々と言葉を重ねた。
「加えて、裂け目より現れた異形を前に、『残念』と呟いた――そのような証言も上がっておりますが、事実でしょうか」
その瞬間、客席が微かに騒めいた。清揺はそれを気にせず返す。
「はい。それらは事実です」
今度は先程よりも大きく場が騒めいた。低い囁きが幾重にも重なり、猜疑の視線が清揺へ突き刺さる。
だが、楚暁烈《ぎょうれつ》は目を閉じたまま微笑んでいた。静かな声音が、ざわめく室内をゆっくりと撫でる。
「では、お聞かせ願えますか。何故、貴殿は『残念』だと?」
楚暁烈《ぎょうれつ》がゆっくりと目を開く。
真白の双眸は、まるで俗世の色を映さぬ雪原のように静まり返っていた。感情の揺らぎ一つ見えないその瞳は、それでもなお、人の心奥に潜む偽りまでも映し出してしまうかのような神聖さを帯びている。
白宵の右腕たる所以――その瞳は、人の虚実を見抜くと恐れられていた。
視線が向けられた瞬間、客席を満たしていた囁き声が、まるで天威に触れたかのように静まり返る。誰一人として命じられてはいない。ただ、その眼差しの前では軽々しく言葉を発することすら憚られた。
だが、清揺はそれすら意に介した様子もなく、静かに言葉を続ける。
「はい。理由は二つあります。一つ目は、丹新山に現れた者ではなかったこと。二つ目は、妖界に繋がっていなかったことです」
「一つ目から詳しくお聞かせください。何故、丹新山に現れた者でなかったのが残念だったのでしょうか」
「以前、丹新山に現れた泥のような異形は、私の師匠を傷つけただけでなく……山に住む動物達の命まで奪いました」
その瞬間、清揺の顔から感情が消える。楚暁烈《ぎょうれつ》は瞬き一つせず、その僅かな変化を見つめていた。
「私はそれに、この手で復讐がしたかったのです。しかし、現れた者は私の望んだものではありませんでした」
「復讐心については理解いたしました。ですが、何故わざわざ貴殿自ら討伐へ動いたのです?貴殿が対応しなくても、百草堂の者が治めたはずです」
「それは……」
清揺がチラリと香寧を見る。香寧は「言って良いよ!」と視線を返すと、清揺は照れたように目を伏せる。
「倒せば、師匠が褒めてくださると思ったので……」
その場がシン、と静まり返る。香寧だけが笑っていた。楚 暁烈はその答えを聞き、文書を眺める。
「分かりました。では、二つ目はいかがでしょうか」
「はい。泥でない場合、次は妖魔王に会いたいと思っていたのです」
清揺は静かな声音のまま続ける。
「そして聞きたかったのです。私の師匠と動物達を傷つけた者の居場所を。異界のもののことは、異界に聞くのが一番ですから」
普通の人間であれば、そのような発想には至らない。何故なら、妖魔王へ近づこうとするだけで命を落とす可能性すらあるからだ。
客席から再び低いざわめきが広がる。非難とも畏怖ともつかぬ囁きが重なり合う中、楚暁烈《ぎょうれつ》だけは静かな微笑みを崩さなかった。
「ありがとうございます。少なくとも、貴殿が偽りを口にしていないことは十分理解できました」
柔らかな声音のまま、次の問いを落とす。
「ですが、妖魔王は何故、貴殿の前へ姿を現したのでしょう」
清揺が静かに右手を掲げた。
「それは分かりません……本人に聞いてみますか?」
「──なっ!?」
客席のあちこちで椅子が鳴り、驚愕の声が一気に広がる。ここで妖魔王を召喚する――その一言が意味する災厄の大きさを、誰もが理解していたからだ。香寧は、清揺へ媚びるように擦り寄っていた巨大な獣を思い出しながら、内心で「皆落ち着けって!」と頭を抱えていた。
そんな騒めきの中、白宵だけは静かに笑う。
「ふふっ。この場で召喚しようとするとは、面白い子ですね。制御できる自信があるのですか」
その声音に呼応するように、ざわめきがゆっくりと沈んでいく。
香寧は隣の白宵を横目で見るが、完全に無視された。清揺は胸元で静かに手を組み、真っ直ぐ答える。
「はい。制御できます。師匠に誓って、嘘はついておりません」
その言葉に、香寧は思わず小さく笑みを零した。清揺もまた彼へ視線を向け、安心させるように微かに笑い返す。
白宵はそのやり取りを眺めた後、静かに楚暁烈《ぎょうれつ》を一瞥する。視線を受けた楚暁烈《ぎょうれつ》が、穏やかな声音で口を開く。
「はい。こちらでも、彼女が偽りを口にしていないことは確認できております」
白い指先で文書を捲りながら続けた。
「もっとも、異界の存在の行動原理を、こちら側の常識で測ることはできません。仮に説明を受けたとしても、客席の方々が即座に納得されることは難しいでしょう───では次に、彼女の証言の確認へ移ります。百草堂より、汀 久雨、その師である祁 残灯《ざんか》、そして忘川観の楊 瑠璃。前へ」
呼ばれた三人が、清揺の立つ机の斜め前へ進み出る。楚暁烈《ぎょうれつ》は文書へ目を落としたまま問いかけた。
「まず、汀 久雨。貴殿は彼女が『残念』と呟いたのを聞いたと証言しております。これは事実ですか」
汀 久雨は緊張した様子で喉を鳴らし、それでもしっかりと答えた。
「……はい。本当です。彼女が言ったのを、この耳で確かに聞きました」
「ですが、当時は虫の羽音で騒がしかったと記録されています。聞き間違いの可能性は?」
「ありません。私は彼女を止めようと腕を掴み、すぐ傍に立っていました。聞き違える距離ではありません」
「分かりました。ありがとうございます」
楚暁烈《ぎょうれつ》は静かに頷き、次の人物へ視線を向ける。
「祁 残灯。弟子の証言に誤りはないと?」
残灯は肩の力を抜いたまま、ゆるく首を傾げた。
「ああ。久雨は少々思い込みの激しいところがありますが、人を貶めるために嘘を吐く性分ではありません。もし気に入らない相手が居れば、陰口など叩かず、本人へ真正面から嫌味を言うでしょうね」
庇っているのか貶しているのか分からない物言いだったが、楚暁烈《ぎょうれつ》は納得したように頷いた。
師の言葉を受け、汀 久雨は背筋をぴんと伸ばす。
「では、楊 瑠璃」
楚暁烈《ぎょうれつ》の白い瞳が静かに向けられる。
「貴殿は彼女に贄として利用され、裂け目を引き起こした――そのように疑われております。しかし彼女は、貴殿を異形の者達の中から救い出したと証言している。これは事実ですか」
清揺が静かに目を伏せる。瑠璃は紅を引いた口元を優雅に持ち上げ、落ち着いた声音で告げた。
「ええ。清揺の言葉は事実です。そもそも私は、家の用事で百草堂から帰宅する途中、何者かに襲撃されました。意識が朦朧としていたため詳細は曖昧ですが、清揺が助けてくれたことは覚えております」
一息置いて続けた。
「また、彼女は負傷した私をすぐ医館へ運び、看病までしてくださいました。私は彼女の姉弟子として長く共に過ごしてきましたが、裂け目を意図的に引き起こそうなどという兆候を見たことは一度もありません」
瑠璃は静かに清揺を見る。
「その彼女が、何故わざわざ私を利用する必要があるのでしょうか」
そこでようやく、清揺は瑠璃へ視線を向けた。安心したような、今にも泣き出しそうな顔をしている。対する瑠璃は、ただ優雅に微笑んでいた。
楚暁烈《ぎょうれつ》はその様子を静かに見つめた後、口を開く。
「最後の部分は主観を含みますので除外するとして――少なくとも、貴殿が偽りを口にしていないことは理解いたしました。三人とも、ご協力感謝いたします」
そして静かに顔を上げる。
「白宵真人。いかがでしょうか」
香寧は「頼むぞ!」と言う目で師兄を見つめた。白宵は尚も神仙然とした態度を崩さず伝えた。
「妖魔王との因縁は依然として残ります。ですが、少なくとも彼女が裂け目を意図して引き起こしたという疑いについては、晴れたと見てよいのではないでしょうか。皆さんは、どうお考えですか」
その言葉を合図にするように、沈黙を守っていた高台の者達が次々と口を開いた。
「……裂け目そのものを開いた証は確かに薄い。しかし、真人のお言葉通り、危険性が消えた訳ではありません。監視は必要でしょう」
「異形を討伐し、被害者を救い出したのもまた事実です。その力をただ危険視し、封じ込めるだけというのは短慮では?」
「では、誰が責を負うのです。妖界と繋がりを持つ者を」
「問題はそこではない。何故、妖魔王がわざわざ彼女の前へ姿を現したのか――その一点こそ最も不可解でしょう」
「異界の力は計り知れません。楚暁烈《ぎょうれつ》殿の瞳すら欺いていた可能性は?」
「……その発言、軽々しく口にしてよいものではありますまい」
「まあ、お待ちなさい。彼の言葉にも一理あります。復讐のため異界の者へ会いたいと望む時点で、常人とは発想が異なる」
「加えて、彼女には雅心宗を破門された過去もある……」
再び低い議論が広間を満たしていく。誰一人声を荒げてはいない。だが、重なり合う言葉の一つ一つが、冷たい刃のように清揺へ向けられていた。
香寧はその様子を見ながら、内心で「……終わったんじゃないのかよ」と遠い目になった。
高台の上で交わされる議論がなおも続く中、不意に白宵が静かに立ち上がった。
その瞬間、広間を満たしていた声が波のように引いていく。誰かが制したわけではない。ただ、彼が立ったというだけで、場の霊気そのものが沈み、自然と沈黙が広がっていた。
「皆さま、ご意見ありがとうございます」
白宵は穏やかな微笑を浮かべたまま続ける。
「では、こうしましょう。彼女には朱澤凰へ赴いていただきます」
その名に、客席の空気がわずかに揺れた。
「朱澤凰は聖獣を扱う門派。霊獣との契約や制御にも長けております。仮に妖魔王が現れたとしても、容易に力を振るえる環境ではないでしょう」
「しかし――」
一人の修士が眉を寄せる。
「それでも尚、妖魔王が上回る脅威であった場合は?」
白宵は視線だけを静かに横へ流した。
「その点については、残灯」
名を呼ばれた残灯は、気怠げに顎を撫でる。
「ああ。抑制用の薬を送りますよ。本来は人間向けですが、多少なりとも力は鈍るでしょうね」
「では、そのように」
白宵が静かに結論を落とす。
それだけで、先程まで続いていた議論は嘘のように収束した。誰も異を唱えない。否――唱えられないと言った方が正しいのかもしれない。
香寧はその様子を眺めながら、胸の奥が重く沈むのを感じていた。事前に聞かされていた話とはいえ、再会したばかりの清揺とまた離れ離れになる現実は、やはり簡単に受け入れられるものではない。
清揺達四人が静かに下がっていく。
そして次に、微明の名が呼ばれた。
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
微明は両手を拘束され、口元には封呪の施された黒い面布まで付けられていた。だが、その切れ長の瞳だけは少しも揺らがず、冷えた湖面のような静けさを湛えている。まるで「早く終わらせろ」とでも言いたげな態度だった。きちんと結い上げられた黒髪に、張り詰めた白刃を思わせる鋭利な美貌。顔の大半を覆われてなお、その危うい気配は隠し切れていない。
しかし、彼のその姿を見た瞬間、香寧の眉間に皺が寄る。思わず隣の白宵を睨みつけた。
すると耳飾り越しに、呆れたような声が響く。
『だからパフォーマンスだって。見てみろよ、血冥鬼王本人は全然気にしてない』
香寧は霊気を微かに震わせ、白宵だけへ声を返す。
『そういう問題じゃないだろ! 危険な獣みたいな扱いしやがって!』
『はいはい。……ほら、見てるぞ』
言われて慌てて視線を落とす。微明は平気です、とでも言いたげにこちらを見上げていた。香寧はその様子に、不満を飲み込みながら小さく頷き返す。
楚暁烈《ぎょうれつ》が再び静かに目を閉じ、文書を確認する。
「霍 微明。貴殿へ確認したいことは二つあります」
白い指先で文書を捲りながら、淡々と告げる。
「一つ。忘川観に現れた裂け目は、貴殿が引き起こしたものか」
一拍置き、その静かな声が更に落ちた。
「そしてもう一つ――忘川観の裴 凛雪が鬼を喰っているという話は、事実ですか」
その瞬間、広間の空気が大きく揺らぐ。先程まで抑えられていたざわめきが再び溢れ、高台の修士達までも僅かに目を細めた。
“鬼喰い”。
その言葉は、忌避される禁忌だった。微明は楚 暁烈の瞳を一瞥して続ける。
「忘川観の裂け目は俺が引き起こしたものではありません。裴 凛雪が鬼を喰っているのは事実です」
広間が静まり返り、誰もがその続きを待った。だが、微明はそれ以上語るつもりがないのか、返答は終わったと言わんばかりに視線を伏せた。封呪の面布越しでも分かるほど、その態度は淡々としていた。
相変わらず説明不足だな、と香寧は思わず小さく笑みを漏らした。楚 暁烈が促す。
「裂け目より現れた者も、種は違えど鬼には変わりありません。なぜわざわざ姿を晒して、討伐したのでしょう」
「それは……」
微明がチラリと香寧を見る。香寧は「言いなさい!」と視線を返す。微明は小さな声で呟く。
「……倒せば、師匠が褒めてくださるかと」
その場がシン、と静まり返る。香寧だけが笑っていた。楚 暁烈はその答えを聞き、文書を眺める。
「わかりました。では、次の質問です。なぜ鬼喰いが分かったのでしょうか」
「弟に聞きました」
「弟と言うと、あなたの中にいる血鬼のことですね」
「はい」
また騒めきが起こるので、香寧は「いちいちうるさいな……」と呆れた。
「当時、貴殿はその弟と肉体を半ば共有した姿を、裴 凛雪に暴かれました。その報復として咄嗟に吐いた虚言ではないのですか?」
「いえ、違います。その件については以前から、温師へ相談しておりました」
その言葉に、既に待機していた温 如晟へ視線が集まる。
彼はいつもの柔和な笑みを崩さず、無数の視線を受けても微塵も動じなかった。楚 暁烈が静かに問い掛ける。
「温 如晟。今の話は事実ですか?」
「ええ。霍 微明の言葉に偽りはありません」
温 如晟は穏やかな口調のまま続ける。
「私は裴とは長い付き合いでしたから。以前から、彼の様子に違和感を覚えておりました。ですので相談を受け、密かに調べていたのですが……まさかこのような形で、大勢の前に露見するとは思いませんでした」
自嘲気味に笑みを浮かべ、肩を竦める。
「全く、彼は血鬼に情けをかけたのに、皮肉な話です」
「お気持ちは理解します。ですが、質問のみにお答えください」
楚 暁烈の声音は淡々としていた。
「裴 凛雪が鬼喰いであると断じられるだけの証拠は、何か掴めたのでしょうか」
「……いえ。決定的なものは何も。あるのは彼の証言のみです」
楚 暁烈が僅かに目を細める。
「温 如晟。質問には正確にお答えを」
暗に「隠し立てはするな」と告げられ、温 如晟は小さく首を振った。
「失礼しました。確証が無かったため、口にするのを控えていたのです」
一拍置き、静かに続ける。
「……裴はある時期から、霊気に微かな悪念を滲ませるようになりました。ただ、それだけです。しかも正式な検査によるものではなく、あくまで私個人の見解に過ぎません。その点をご承知の上で、お聞きいただければ」
「承知しております。裴 凛雪については、別件として引き続き調査を進める必要があるでしょう」
楚 暁烈は高台へ視線を巡らせた。
「では――皆様のご意見はいかがですか」
その言葉を合図に、高台の修士達が再び口を開き始める。
「血鬼の証言など、どこまで信用できると言うのです」
「鬼を喰った者を鬼が嗅ぎ分けた――など、あまりにも曖昧だ」
「しかし、温 如晟の証言とも一致しております」
「一致しているのは“違和感”のみだ。鬼喰いの証左には程遠い」
「慎重になるべきでしょう。裴 凛雪は忘川観でも上位の修士。証拠も無く断じれば混乱を招きかねん」
「本人不在のまま、この場で話を進めるのは些か横暴では?」
「まだ調査中との話だが……」
「そもそも血鬼だろう。その異形の言葉を信用するのか?」
香寧は飛び交う言葉を聞きながら、内心で「完全に堂々巡りじゃないか……」と遠い目になった。微明は早く帰りたいとでも言うように、ただただ虚空を見つめていた。熱くなる場を、白宵が霊気を流しながら言う。
「確かに、裴 凛雪は現在、問心宮にて調査を受けております。この場に本人が不在である以上、彼の黒白を今ここで断ずるのは別件でしょう。霍 微明は、あくまで可能性を提示し、己の知る事実を述べたに過ぎません」
「ですが、彼は血鬼でしょう」
高台の一人が鋭く言い放つ。
「その存在自体の危険性を、どうお考えですか」
「ええ。その件につきましても、柳 清揺と同様の処遇を取ります」
白宵が静かに視線を流す。
「晏 承舒」
香寧は聞きたくなくて、思わず目を逸らした。温 如晟の隣に座していた女修が、静かに頷く。
「はい。夜鬼を擁する夜哭宗が、責をもって彼を預かります」
澄み切った声音だった。そこに迷いも恐れも存在しない。楚 暁烈が微笑を浮かべる。
「そういえば……霍 微明は、長期間夜哭宗の任務へ同行していたと聞いております。その間、血鬼の気配が表へ漏れたことは?」
「一度たりとも」
晏 承舒は即答した。
「我々は彼の限界を測るため、長時間の閉鎖空間への拘束、精神への干渉、複数人による同時襲撃――あらゆる負荷を与えました。ですが彼は、一度として血鬼を暴走させることはありませんでした」
そこで温 如晟が、ふと思い出したように口を挟む。
「しかし、以前忘川観にて血鬼を顕現させていたような気もしますが? そう簡単に己を制御できるようになるものなのでしょうか」
横目で探るように視線を送る温 如晟へ、晏 承舒もまた薄く口角を上げた。
「その件でしたら、私もよく存じております。何せ、彼を糾弾したあの場に私も居ましたから。あの時は薬によって理性を奪われた状態でした。むしろ、そこまでしなければ彼を追い詰められなかった――そう証明されたのでは?」
「ああ、そうでしたね」
温 如晟が扇を揺らしながら笑う。
「貴女は夜哭宗の身でありながら、堂々と忘川観にて師を演じておられた。いやはや、実に大胆なお方だ。こうして今なお素顔を晒し、平然と発言しておられる姿には感服いたします」
誰が聞いても分かる嫌味だった。だが、晏 承舒は気分を害した様子もなく、ただ静かに微笑む。
「そもそも私が忘川観へ潜入していた理由は、異界の存在を秘匿し、生かしたまま実験している者がいる――その情報を追っていたからです。その者の名を、この場でお聞きになりますか? 温 如晟」
一瞬、空気が張り詰める。温 如晟は笑みを崩さぬまま肩を竦めた。
「……いえ。止めておきましょう。今は関係のない話ですからね」
互いに笑みを浮かべたまま、刃だけが交差していた。その空気を断ち切るように、楚 暁烈が静かに目を閉じる。
「各門派間の因縁につきましては、また別の場にてお話しいただきましょう。皆さま、ご協力感謝いたします」
「ようやく終わった……」と言わんばかりに、微明は虚空を眺めている。
香寧はその姿を見て、思わず吹き出しそうになった。「頑張ったね」という思いを込めて視線を送ると、微明は僅かにこちらを見た。けれどすぐに目を逸らし、そのまま退出していく。師を気にする素振りを見せれば、また別の嫌疑をかけられると分かっているのだろう。
最後は月澄の番だ。白宵に「トイレ休憩ないの?」と聞いたら無視された。無いらしい。
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
月澄は不機嫌さを隠そうともせず、その場に立っていた。端正な顔立ちが僅かに歪むだけで、周囲を圧するほどの威迫が生まれる。すぐ後ろには洛悠と、大柄な迅熾が控えていたが、その二人すら従えてしまうような空気を纏っていた。
ふと、癖のように三つ編みに触れかけ、月澄は眉を寄せてその手を止める。
香寧はその様子を見て、内心で「少しは頑張れよ……」と頭を抱えた。
楚 暁烈が、目を閉じたまま静かに問い掛ける。
「林 月澄。貴殿は先の二人と同門です。故に、貴殿にも裂け目を開かせた疑いが向けられております。これについては?」
「開いておりません。他の者と同様です」
「当時、雲香宮では師である林 香寧と二人きりだったと聞いております。しかし貴殿は、自ら裂け目へ入った。何故、助力を待たなかったのです?」
「師匠は当時、体調を崩して休まれておりました」
「それでも声を掛けることはできたはずです。一人で対処しようとした理由は?」
「師匠に褒めていただきたかったからです」
月澄は一切の迷いもなく言い切った。
その瞬間、広間に何とも言えない沈黙が落ちる。
香寧は思わず苦笑を漏らしたが、客席からは「またか……」と言いたげなざわめきが広がっていった。
しかも、微妙に視線が香寧へ集まっている。
香寧は慌てて何事もないよう澄ました顔を作った。
楚 暁烈が静かに目を開く。
「しかし、その結果走火入魔に陥ったそうですね。間違いありませんか」
「はい。間違いありません」
その言葉に、香寧は反射的に白宵を見た。隣の横顔は相変わらず涼しげに目を閉じている。だが次の瞬間、耳飾り越しに焦った声が飛び込んできた。
『すまん!!!』
『ふざけんな!』
短い応酬を交わした後、香寧は早鐘のように鳴る心臓を押さえ込みながら、月澄へ視線を向ける。
本来、この件を知る者は必要最低限に絞られていたはずだった。
下手をすれば、月澄を止めるために何をしたのかまで暴かれかねない。
だが、香寧が本当に恐れていたのは、その方法を周囲へ知られることではなかった。
月澄自身が知ってしまうことだ。
師を襲った事実を。
あの時、自分がどれほど壊れていたのかを。
それを察したのか、白宵が耳飾り越しに小さく囁く。
『安心しろ。聞かれるのは別件だけだ。……お前にしたことまでは触れさせない』
香寧は胸騒ぎを覚えながら、話の続きを聞く。
「裂け目の中で、一体何が起こったのでしょうか」
「……幻覚を見ました。それにより、理性を失いました」
「その幻覚の内容は話せますか」
空気が張り詰める。その異様な沈黙に、白宵でさえ微かに眉を動かした。月澄は変わらぬ声音で続ける。
「話せません。……思い出したくもありません」
一拍置き、その金の瞳が冷ややかに細められた。
「これ以上踏み込まれるのであれば、再び走火入魔に陥る可能性があります」
脅しにも似たその言葉に、楚 暁烈が白宵へ視線を向ける。
白宵は僅かに首を横へ振った。
「……分かりました。無理を言ってしまい、申し訳ありません」
楚 暁烈は静かに文書へ目を落とす。
「走火入魔に陥った後のことは?」
「覚えていません。気が付いたら自室で寝ていました」
「また、走火入魔に至った要因として、薬物の使用が報告されております。その薬は、忘川観一行が滞在していた時期に持ち込まれたものです。何か心当たりは?」
「いえ。ありません」
「誰かに恨まれる心当たりは?」
「ありません」
香寧は「一体、何が聞きたいんだ……」と苛立った。
いくつか無粋な質問が繰り返された後、楚 暁烈は微笑を浮かべる。
「ありがとうございます。では――皆さまのご意見はいかがでしょうか」
途端、高台と客席のあちこちから声が飛び交い始めた。
「結局、裂け目とは無関係なのか?」
「少なくとも対処したのは事実だ」
「渡雲香君の弟子は、一体どうなっているんだ」
「だが、ここまで抑え込んできたのも彼だろう」
「彼は以前にも走火入魔を起こしたはずだ。もう何十年も前の話だが……」
「その件は白宵真人自らが責を負い、既に収めている。当時の彼はまだ幼かった」
香寧が転生してくる前の話だ。どこまで遡るんだよ、と内心で溜息を吐く。
客席でも議論が重なり、人の声は次第に大きくなっていく。月澄もまた、退屈そうに前を見据えていた。
白宵が場を収めようとした――その瞬間だった。
「理性を失っていたとはいえ、師を犯すような弟子は引き離すべきでしょう」
その言葉は、無数の声を切り裂くように広間へ響き渡った。全員が耳を疑う。
一瞬遅れて、控えていた円鈴が鋭く声を張り上げた。
「誰も動くな!!」
香寧の全身に鳥肌が走る。
その事実を知っているのは、香寧、白宵、そして、顧 静峻だけのはずだった。
動揺を抑え切れぬまま、香寧は反射的に月澄を見る。
月澄もまた、香寧を見ていた。
……その金の瞳は、絶望に染まっている。
洛悠が飴を口へ放り込む。途端、その場は彼の霊気に包まれた。
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
香寧は白宵の部屋で、珍しく本気で怒っていた。
「騙すぐらいなら先に相談しろ!」
「だから悪かったって……」
襟元を掴み、容赦なく前後へ揺さぶる。
今回の一件――裂け目を作った真犯人を炙り出すため、香寧と弟子達は“餌”として利用されたのだ。しかも結果は芳しくない。謎の声を誘発できたまではいいが、誰が発したまでは特定できなかったからだ。
だからこそ余計に腹が立つ。
白宵は揺さぶられながらも、どこか疲れた声で言った。
「……あの声の発言は、洛悠の術で皆の記憶から消える。弟子達の闇落ちも進行してない。だから問題は――」
「そういう話じゃない!」
香寧は怒鳴った。
脳裏から離れない。あの時の月澄の顔が。絶望したような、壊れそうな目。
あんな顔を、たとえ一瞬でもさせたくなかった。
「師兄、いくら今まで力を尽くしてくれていたとしても、今は冷静になれない」
吐き捨てると、白宵は小さく息を吐く。
「だろうな。……それに、黒幕は顧 静峻だと思ってたんだがな。見張りからの報告だと、今も雅心宗で普通に師匠やってるらしい」
「ああそう……」
香寧は額を押さえ、そのまま寝台へ腰を落とした。
怒りたい。
責め立てたい。
だが、白宵が何故自分へ黙っていたのかも理解できてしまう。絶対に反対したからだ。
弟子三人は現在、別室で待機している。
洛悠の霊術によって、あの場に居た者達は一時的に意識を奪われた。人が次々と糸の切れたように倒れていく様は、異様を通り越して恐怖だった。
「……この後、すぐ帰っていいから」
「言われなくても帰る!」
「はぁ……」
白宵は深く溜息を吐き、隣へ腰を下ろした。
「悪かった。……謝って済む話じゃないのは分かってる」
「ああ」
「でも聞いてくれ。こうするしかなかったんだ。各門派の関係者を一箇所へ集め、一斉に反応を見る方法は」
香寧は眉を寄せる。
「だったら、どうして顧 静峻を呼ばなかった?」
「……あえて呼ばなかった。あの場には、奴以外の内通者を炙り出す必要があったからだ」
白宵の声音が低くなる。
「それに、奴には秘密封術を掛けていたはずだ。誰にも漏らしていない。なのに、あの声は知っていた」
そこで一瞬、空気が冷えた。
「つまり――もう一人いる」
香寧の表情が強張る。
「少なくとも条件は見えてきた。裂け目まで作れて、中央修仙司へ入り込めるような奴が、だ」
背筋に悪寒が走った。
もしそれが本当なら、もう一門派の問題では済まない。
中央修仙司そのものへ干渉できる存在がいるということになる。
しかも――
白宵と顧 静峻しか知らない秘密を知っている。
「そんなの……」
香寧は言葉を失う。すると白宵が、珍しく笑みを消したまま窓の外を見た。
「……ただ、確実に分かったことがある」
「何」
「敵は、俺たちが思ってるより近くにいる」
「それは……」
白宵は続けた。
「裴 凛雪の件もそうだ。あんな愚直な奴が、禁薬を手に入れて、雲香宮に居た忘川観の連中まで巻き込むような真似をするはずがない。下手をすれば、忘川観の弟子は全滅していた」
白宵は目を細める。
「もしかしたら、裴 凛雪に協力をさせられるような、“まだ表に出ていない誰か”がいる」
「……先生、心当たりは?」
白宵は露骨に顔を歪めた。言いたくない。そんな感情がありありと滲んでいる。
香寧は再び襟を掴んだ。
「……香寧」
「なに?」
白宵は一瞬だけ黙り込み、諦めたように息を吐く。
「違う。林 香寧。お前が転生してくる前の……本物の方だ」
その瞬間、空気が凍り付いた。香寧の指先から力が抜ける。
「正直、考えたくはない。だが条件が噛み合いすぎてる」
「待って。意味が分からない……」
「裂け目を作れる。中央修仙司へ干渉できる。俺と顧 静峻しか知らない情報を知ってる。裴 凛雪と協力関係が作れる。そして――」
白宵の視線が、ゆっくり香寧へ向いた。
「弟子達に異常な執着を持っている」
ぞわり、と悪寒が走る。
「いや、でも……本物の林 香寧は死んだんだろう? それで俺が転生して……」
「魂の確認をしていない」
白宵は乱れた襟元を整えながら、低く言った。
「この世界は、一度だけ蘇ることができる。主人公の江 燎炎は簡単に生き返ることができたけど、他の奴はそうじゃない。俺様が作った設定だから、そこはよく覚えてる」
その声音には、冗談めいた軽さが無かった。
「死んだ後も未練を捨てきれなかった魂は、まず鬼界に最も近い“冥府”へ送られる。冥府は鬼王がまとめて治めている。血冥鬼王の名前の由来もこれだ。そこで、魂だけの状態からやり直す必要がある」
「やり直す?」
「ああ」
白宵は窓の外へ目を向けたまま続ける。
「まず、忘川と呼ばれる川で生前の罪と向き合わされる。魂に最も近い、脆い状態でな。心が弱い奴はそこで壊れて流される。未練がある奴だけが、流されずに傷つきながら土地へ辿り着く」
部屋の空気がじわりと冷えていく。
「そして、辿り着いた土地で生き残った魂同士で喰い合うんだ」
香寧の背筋に鳥肌が立った。
「魂は摩耗する。冥府の瘴気にも侵される。途中で鬼になる奴もいれば、自我そのものが壊れる奴もいる」
「そんな……」
「よく聞けよ」
白宵は静かに言った。
「お前も死ねば、これをやることになる。残機を作るってのは、この地獄を通るってことだ」
その言葉は、妙に現実味があった。
「喰い合って、ようやく薄っぺらい肉体を手に入れる。その後でやっと冥府の門をくぐれる。だが、そこから先も終わりじゃない。既に肉体を得た冥府の住人達の中で、生き残らなきゃならない」
白宵は目を伏せる。
「そこで魂を喰われ、完全に消える奴もいる。逆に、上手く立ち回って力を得る奴もいる。だが――冥府帰りの魂は、執念だけは異様に強くなる」
「執念……」
「生前の未練に、永遠に引っ張られ続けるんだ」
香寧の喉が乾く。
「……原作の香寧は、どんな未練を持っているの」
その問いに、白宵は目を閉じる。しばらく沈黙してから、ゆっくり口を開く。
「弟子を“三邪王”にすること」
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
「一番厄介なのは、肉体が生前と何一つ変わらないことだ。……裴 凛雪も、恐らくそれに惑わされたんだろうな。一応言っておくが――気を付けろよ」
何に気を付ければいいのかも分からぬまま、香寧は白宵の部屋を後にした。
騙されていたことへの怒りは消えていない。だが、弟子達の疑いを晴らしてくれたことに対する感謝も確かにあった。感情の整理が追い付かず、「また連絡する」とだけ告げて別れる。
今まで散々世話になってきたせいで、一方的に怒り切ることもできなかった。
荘厳な廊下を当てもなく歩いているうちに、いつの間にか香寧の部屋へ繋がる陣の前まで辿り着いていた。
そのまま扉の前で立ち止まった瞬間、不意に背後から柔らかな感触がぶつかる。
「師匠~」
「清揺!」
振り返ると、清揺が満面の笑みで抱き付いていた。
その後ろには微明と月澄、そして洛悠もいる。
「林宮主、お待たせしてごめんなさいねぇ~。お弟子さん達も問題ありませんので、そのままお帰りくださ~い」
愛想笑いを返す余裕も無いまま、香寧は清揺を抱き留め、そのまま扉の中へ入った。
閉まりかけた扉の向こうから、「ほんとうにごめんなさいねぇ……」という洛悠の小さな声が聞こえる。
彼も命じられただけなのだ。
そう分かっているからこそ、香寧は自分の余裕の無さに小さく息を吐いた。
清揺が嬉しそうに香寧の手を握る。
「師匠、帰ったら師匠のご飯が食べたいです」
「うん。なんでも作ろう」
すると月澄が一歩前へ出て、清揺を指差した。
「清揺、壊した俺の部屋の鍵直せよ」
その普段通りの態度に、香寧は胸の奥がようやく緩むのを感じた。
四人で陣の上へ立ち、雲香宮へ戻る。
外はすっかり日が落ちていた。
三人は着替えるとのことで、香寧は一足先に台所へ向かう。とにかく何かしていないと落ち着かなかった。
残っている食材を確認しながらレシピ帳を眺めていると、軽い足音が近付き、次の瞬間、背後から強く抱き締められる。
「師匠」
「月澄……」
呼ばれた月澄が小さく笑った。
「アイツらなら、山の様子を見に行きました。襲われた後の丹新山を見るのは今日が初めてですから」
「あ……そっか」
「師匠、元気ありませんね。師伯に何か言われたんですか?」
心配そうに覗き込まれ、香寧の胸の中がぐちゃぐちゃに掻き乱される。
色々聞きたいことはあった。だが、一番気になっていたことを、結局口にしてしまう。
「あの、月澄……」
「はい」
「走火入魔の件、聞かれてたけど……大丈夫だった?何か思い出したり……」
月澄は少し考え込むように目を伏せた。聞かない方が良かったかもしれない。そんな嫌な胸騒ぎが過る。
三つ編みを指へ絡めながら、月澄は静かに答えた。
「いえ。覚えていません」
「……そっか」
心の底から安堵し、香寧は材料へ手を伸ばす。だが次の瞬間、その顎を掴まれ、無理やり月澄の方を向かされた。
「こら!」
「分かっています。でも今日は頑張ったので、少しだけください」
月澄が目を細める。
「……それに、これからは兄弟子として、アイツらに師匠を譲りますので」
譲るも何も、私は物じゃないんだけど――。そう思ったが、月澄がゆっくり屈むので、そのまま受け入れた。
強く抱き締められ、求められると、不安が少しずつ薄れていく。
月澄はいつもより短い口づけで満足し、そのまま二人を迎えに部屋を出て行った。
その背中を見送りながら、香寧は白宵へきちんと謝って、ちゃんと話をしようと思う。
……自分がここまで単純になっていたとは、少し驚きだった。
その後、四人で久しぶりの団欒を囲み、長い夕食を共にした。
折角だから今日は広間で皆一緒に寝よう、という話になり、布団を敷いて雑魚寝をする。
香寧はその時間が楽しくて仕方なく、寝ようと急かす弟子達へ「まだ寝るな」と何度も笑いながら言い返していた。だが疲れは想像以上に溜まっていたらしい。結局、そのまま眠りへ落ちた。
――その夜、不思議な夢を見た。
弟子三人が、出会った頃の幼い姿で香寧へ何かを訴えている。
だが香寧の体は酷く重かった。まるで何かに押し潰されているようで、口も上手く回らない。声を掛けてやりたいのに、頭も鈍く、思うように動けなかった。
やがて三人が泣き出す。
仕方なく、香寧は無理やり霊気を香煙に変え、重さを取り除いて体を動かし、昔のように三人まとめて抱き上げた。すると三人はすぐ泣き止み、そのまま大人しく抱き付いてくる。
そのまま四人でゆっくり散歩した。心なしか、三人は昔より重かった。けれど、それが妙に嬉しかった。
目を覚ますと、布団の上には自分一人しか居なかった。
ぼんやりした頭で「何故広間で寝ていたんだっけ」と考え――次の瞬間、香寧は飛び起きる。
慌てて扉を開けると、弟子三人が驚いたようにこちらを見ていた。桶を持っているので、香寧のために準備してくれたのだろう。三人の顔を順に確認したその瞬間、堪え切れなくなった。
香寧は泣きながら三人へ抱き付き、そのまま全員まとめて抱き締める。
――ようやく。
ようやく、香寧の愛弟子達が揃って帰って来たのだ。
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いつも読んでくださりありがとうございます♪
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