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モロイココロ ツヨイココロ
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古い自転車のブレーキはよく鳴る。
キィキィ響くその音はヒステリックな金切り声のようで、どうにも神経に障る。
昔乗っていた自転車がそうだった。
怒っている時の母の声もそうだった。
だからか、今も不思議と古い自転車のブレーキ音を耳にすると子供の頃に戻ったようにはっと我に返るような気にさせられる。
昔、僕の両親は不仲だった。
それは特別な家庭の事情ではないと思う。
父の怒鳴り声、母の金切り声、何かが壁にぶつかって割れる音、それに反応したように上がる怒声と悲鳴。
テーブルを叩く音、椅子の倒れる音。
僕は部屋で耳を塞いでる。
何もかも耐えられない思いだった。
家を抜け出して、とっくに暗くなった町を歩きよく近所の公園で時間を潰した。
その内に折を見て帰ろうと思っていると、母が迎えに来る事がよくあった。父が来たことは一度も無かった。
「ごめんね、帰ろう」
さっきリビングで上げていた甲高い金切声とは似ても似つかない優しい声。
まるで正気に返ったかのようなその声につい、僕は帰りたくもない家に帰った。
そんな時、真っ暗な夜道を母と自然と手を繋いで歩いた。
(もう、僕はそんな年じゃないよ)
そう思ってたけれど、何故か言えなかった。
口にしたらまた父と怒鳴りあう時の恐ろしい母に戻ってしまうような気がして。
家に入ると、玄関も廊下ももう真っ暗になっていた。
妻と子供が出て行っているのは分かっているくせに、子供じみた父の仕打ちだった。
そういうわざとらしくて、白々しい自己満足の罰を与えてくるところが大嫌いだった。
そんなちょっとした嫌がらせに苛立ったのか母は何か小声で毒づくのが聞こえた。
何ていったのか、僕にはいつも聞き取れなかったけれど。
ただその時には母は迎えに来てくれた時の優しい母では無くなりつつあるのは分かっていた。
この家に居る限り、母は優しい母では居られなくなるんだと思った。
その内に僕は二人の喧嘩の音を布団に潜り込んでやり過ごすことを覚えた。
いちいち近所の公園に行って時間を潰すなんて、まるで優しさを取り戻した母に迎えに来てもらうのが目当ての幼稚な行為に思えるようになった。
そんな風に思うようになると、腹が立って余計にムキになって布団の中でうずくまって瞳を強く閉じた。
潜り込んだ布団の中でその内に僕はいけない遊びもちょっと覚えた。
そうして僕はちょっと強くなった。
その時はそう思ってた。
自分の心の中でよく口にする独り言ってあるだろうか。
ただストレスを少しでも発散させる言葉だったり、誰かを罵る言葉だったり、運命や自分を嘆く言葉だったり。
(止めてくれ)
それが僕の心の独り言だった。
いつ頃だっただろう。
多分、もう僕の目の前であっても両親は何の遠慮もなく、傷つけあう様になってからだろう。
覚えているのはある朝の事だ。
普段は時間をずらしていたはずなのに、その日に限って父は出勤が遅く、ゆっくり起きた僕と母も重なって家族三人で朝食を食べる事になった。
思えば何年も前から父が帰宅する前に母も僕も夕飯をそれぞれ済ませるようになっていた。
二人と話をしたくなくて、普段は見ないテレビのニュース番組に顔を向けた。
箸と口の動きはもくもくと早く、少しでも早くこの場を去れるように。
パンッ!
何かの破裂音のような不吉な音に顔を向けると、母が左の頬を抑えて俯いている。父は正気じゃないみたいに真っ赤な顔をして目を剥いて母を睨みつけていた。
何があったのかは知らない。
知りたくもない。
でもすぐに分かってしまった。
心がたちまち真っ黒になる。
息子の僕がすぐそばにいるのに殴るのを我慢できなかった父の事も、僕がすぐそばにいるのに殴られるような事をした母の事も、殺してやりたかった。
元々どちらかと言えば母に同情的だったけれど、両親の喧嘩はほぼ母の挑発のような言動や態度から始まると分かってからはその内に二人に愛想がつきた。
あまりに子供じみているし、イカれている。
(止めてくれ)
頼むからもう。
(止めてくれ)
ぱっと立ち上がるとすぐに自室に戻って鞄を持って家を飛び出した。
見ないようにした台所はさっきまでの状態だったけれど、僕が居なくなった途端に大爆発するかもしれない。
夕方帰ってきたらどっちかが死体になってたりして。
そんな事をふと考えたら、全然冗談に思えなくて足が震えてきた。
夕暮れ時、自宅が近づいてくると玄関のドアの前で母が立ち尽くしているのが見えた。
青ざめたような顔をしている。
朝叩かれた頬の跡は夕日に紛れて分からなかった。
「ごめんね」
玄関のドアに手を掛け、家に入ろうとする僕に母は謝ってきた。
謝るくらいなら挑発なんてしなきゃいいんだ。
元々母はそんな風に父に反抗的にふるまって煽って自ら叩かれるような事をする人じゃなかった。
どちらかといえば父の怒声に俯いてしまい、一人台所で顔を伏せてすすり泣いてばかりいた。
両親の喧嘩も嫌だったけれど、母の泣き声も堪らなく嫌だった。
台所で泣かれると、廊下を挟んですぐの僕の部屋まで嫌でも聞こえてくる。
何でそれが変わったのかは分からない。
子供じみた父に限界が来て、自分だけが大人しく上目遣いで譲歩する事に馬鹿馬鹿しくなったのかもしれない。
どうでもいい事だけれど。
ううん、それは母がちょっとは強くなったという事なのか?
僕が公園に頼らなくなったように。
やられっぱなしのいじめられっこが嫌な事は嫌と言えるように、やり返せるようになったと…。
でも、それは本当に強くなったっていう事なんだろうか。
思考はまとまらない。
玄関を開けると、血の匂いがひどい。
何か別の臭いも混じっている。
僕は振り返った。
夕日を背に立つ母の表情は泣いているのか笑っているのか逆光でよく見えなかった。
家の中は普段とまるで様子が違っていた。
あまり見たくなかったけれど、台所の中はめちゃくちゃになっていた。シンクの向こう側の窓は割れ、食器棚は倒されて、床には食器の破片が散乱している。
台所の奥には風呂場があるけれど、とても覗ける雰囲気じゃなかった。
力なく立ち上がって部屋に戻るけれど、何も手につかない。
空っぽの机に向かってため息をつく。
こめかみが痛い。
じきに母もやってきてベッドに腰かけた。
「ごめんね」
もう一度母が言った。
優しくも聞こえたし、そうでないようにも聞こえた。
窓の外からはセミの声が聞こえてくるけれど、部屋の中はしんと静まりかえっていた。
その内に母は何かを言いかけたけれど、僕は片手を突き出してそれを堰き止めた。
(止めてくれ)
分かってるから。
何も聞きたくない。
項垂れたままの僕の視線には母の着ている白いシャツの袖が目に付いた。
そこにはやけに赤くて不定形のひし形のように柄が滲んでいるのが見える。
まるでいつかあげたカーネーションみたいだ。
そんな事を思った。
違う。
微笑ましい記憶なんて、関係ない。
それは父の血なんだ。
分かってる。
温かかった記憶を手繰り寄せて、悲しみや不安を誤魔化したかっただけなんだ。
辛かったり、悲しい事があったりしたら、かつて僕は近所の公園に行っていた。
それからもう少し成長すると、僕は哀しみを布団の中で何とかやり過ごすことを覚えた。
でもまだそれじゃ足りない。
もっと強くならなければ、今の気持ちに耐えられない。
全然足りていない。
心より感情より衝動的に僕は母の体に抱きしめていた。
そのままもたれかかるだけになるはずだったのに、何の抵抗もなく母は後ろに倒れていく。
重なり合うような姿勢になり、母の顔を見ると表情は困り笑いのように見えた。
白くて細い首筋には小さな赤い線が入っているのが見えた。
何でついたのかは分からないけれど、鋭利な刃物で切ったような綺麗な傷だった。
本能的に僕はその赤い線に沿って舌で伝うと少しだけ鉄の味がした。
母の吐く息の音が耳のそばで聞こえた。
僕の体の下に横たわる母は細くて小さく、美しくも見えた。
涙が溢れてきた。
弱くて情けない心の象徴。
こぼさないようにずっと前から気を付けていたはずなのに。
母の頬に白い首に、胸にポタポタと涙の滴が落ちる。
悲しくて母親に縋るなんて、これが間違いなく最後だ。
これっきりにして、もっと強くならなきゃ。
気が付くと、部屋にいたのは僕一人だった。
ベッドの上にはまだ母の化粧の匂いが残っていた。
耳を澄ましてみる。
けれど、家の中には動く気配はもう感じられなかった。
遠くからサイレンの音が近づいてきて、静かな家の中を震わせるように響いてきた。
サイレンの音は警報のようで、聞いているだけで不安に胸を締め付けられる気になる。
最後まで耳を塞がずに聞き届ける事が出来たら、僕はまた強くなれる気がしてベッドに腰かけたままそうしていた。
完
キィキィ響くその音はヒステリックな金切り声のようで、どうにも神経に障る。
昔乗っていた自転車がそうだった。
怒っている時の母の声もそうだった。
だからか、今も不思議と古い自転車のブレーキ音を耳にすると子供の頃に戻ったようにはっと我に返るような気にさせられる。
昔、僕の両親は不仲だった。
それは特別な家庭の事情ではないと思う。
父の怒鳴り声、母の金切り声、何かが壁にぶつかって割れる音、それに反応したように上がる怒声と悲鳴。
テーブルを叩く音、椅子の倒れる音。
僕は部屋で耳を塞いでる。
何もかも耐えられない思いだった。
家を抜け出して、とっくに暗くなった町を歩きよく近所の公園で時間を潰した。
その内に折を見て帰ろうと思っていると、母が迎えに来る事がよくあった。父が来たことは一度も無かった。
「ごめんね、帰ろう」
さっきリビングで上げていた甲高い金切声とは似ても似つかない優しい声。
まるで正気に返ったかのようなその声につい、僕は帰りたくもない家に帰った。
そんな時、真っ暗な夜道を母と自然と手を繋いで歩いた。
(もう、僕はそんな年じゃないよ)
そう思ってたけれど、何故か言えなかった。
口にしたらまた父と怒鳴りあう時の恐ろしい母に戻ってしまうような気がして。
家に入ると、玄関も廊下ももう真っ暗になっていた。
妻と子供が出て行っているのは分かっているくせに、子供じみた父の仕打ちだった。
そういうわざとらしくて、白々しい自己満足の罰を与えてくるところが大嫌いだった。
そんなちょっとした嫌がらせに苛立ったのか母は何か小声で毒づくのが聞こえた。
何ていったのか、僕にはいつも聞き取れなかったけれど。
ただその時には母は迎えに来てくれた時の優しい母では無くなりつつあるのは分かっていた。
この家に居る限り、母は優しい母では居られなくなるんだと思った。
その内に僕は二人の喧嘩の音を布団に潜り込んでやり過ごすことを覚えた。
いちいち近所の公園に行って時間を潰すなんて、まるで優しさを取り戻した母に迎えに来てもらうのが目当ての幼稚な行為に思えるようになった。
そんな風に思うようになると、腹が立って余計にムキになって布団の中でうずくまって瞳を強く閉じた。
潜り込んだ布団の中でその内に僕はいけない遊びもちょっと覚えた。
そうして僕はちょっと強くなった。
その時はそう思ってた。
自分の心の中でよく口にする独り言ってあるだろうか。
ただストレスを少しでも発散させる言葉だったり、誰かを罵る言葉だったり、運命や自分を嘆く言葉だったり。
(止めてくれ)
それが僕の心の独り言だった。
いつ頃だっただろう。
多分、もう僕の目の前であっても両親は何の遠慮もなく、傷つけあう様になってからだろう。
覚えているのはある朝の事だ。
普段は時間をずらしていたはずなのに、その日に限って父は出勤が遅く、ゆっくり起きた僕と母も重なって家族三人で朝食を食べる事になった。
思えば何年も前から父が帰宅する前に母も僕も夕飯をそれぞれ済ませるようになっていた。
二人と話をしたくなくて、普段は見ないテレビのニュース番組に顔を向けた。
箸と口の動きはもくもくと早く、少しでも早くこの場を去れるように。
パンッ!
何かの破裂音のような不吉な音に顔を向けると、母が左の頬を抑えて俯いている。父は正気じゃないみたいに真っ赤な顔をして目を剥いて母を睨みつけていた。
何があったのかは知らない。
知りたくもない。
でもすぐに分かってしまった。
心がたちまち真っ黒になる。
息子の僕がすぐそばにいるのに殴るのを我慢できなかった父の事も、僕がすぐそばにいるのに殴られるような事をした母の事も、殺してやりたかった。
元々どちらかと言えば母に同情的だったけれど、両親の喧嘩はほぼ母の挑発のような言動や態度から始まると分かってからはその内に二人に愛想がつきた。
あまりに子供じみているし、イカれている。
(止めてくれ)
頼むからもう。
(止めてくれ)
ぱっと立ち上がるとすぐに自室に戻って鞄を持って家を飛び出した。
見ないようにした台所はさっきまでの状態だったけれど、僕が居なくなった途端に大爆発するかもしれない。
夕方帰ってきたらどっちかが死体になってたりして。
そんな事をふと考えたら、全然冗談に思えなくて足が震えてきた。
夕暮れ時、自宅が近づいてくると玄関のドアの前で母が立ち尽くしているのが見えた。
青ざめたような顔をしている。
朝叩かれた頬の跡は夕日に紛れて分からなかった。
「ごめんね」
玄関のドアに手を掛け、家に入ろうとする僕に母は謝ってきた。
謝るくらいなら挑発なんてしなきゃいいんだ。
元々母はそんな風に父に反抗的にふるまって煽って自ら叩かれるような事をする人じゃなかった。
どちらかといえば父の怒声に俯いてしまい、一人台所で顔を伏せてすすり泣いてばかりいた。
両親の喧嘩も嫌だったけれど、母の泣き声も堪らなく嫌だった。
台所で泣かれると、廊下を挟んですぐの僕の部屋まで嫌でも聞こえてくる。
何でそれが変わったのかは分からない。
子供じみた父に限界が来て、自分だけが大人しく上目遣いで譲歩する事に馬鹿馬鹿しくなったのかもしれない。
どうでもいい事だけれど。
ううん、それは母がちょっとは強くなったという事なのか?
僕が公園に頼らなくなったように。
やられっぱなしのいじめられっこが嫌な事は嫌と言えるように、やり返せるようになったと…。
でも、それは本当に強くなったっていう事なんだろうか。
思考はまとまらない。
玄関を開けると、血の匂いがひどい。
何か別の臭いも混じっている。
僕は振り返った。
夕日を背に立つ母の表情は泣いているのか笑っているのか逆光でよく見えなかった。
家の中は普段とまるで様子が違っていた。
あまり見たくなかったけれど、台所の中はめちゃくちゃになっていた。シンクの向こう側の窓は割れ、食器棚は倒されて、床には食器の破片が散乱している。
台所の奥には風呂場があるけれど、とても覗ける雰囲気じゃなかった。
力なく立ち上がって部屋に戻るけれど、何も手につかない。
空っぽの机に向かってため息をつく。
こめかみが痛い。
じきに母もやってきてベッドに腰かけた。
「ごめんね」
もう一度母が言った。
優しくも聞こえたし、そうでないようにも聞こえた。
窓の外からはセミの声が聞こえてくるけれど、部屋の中はしんと静まりかえっていた。
その内に母は何かを言いかけたけれど、僕は片手を突き出してそれを堰き止めた。
(止めてくれ)
分かってるから。
何も聞きたくない。
項垂れたままの僕の視線には母の着ている白いシャツの袖が目に付いた。
そこにはやけに赤くて不定形のひし形のように柄が滲んでいるのが見える。
まるでいつかあげたカーネーションみたいだ。
そんな事を思った。
違う。
微笑ましい記憶なんて、関係ない。
それは父の血なんだ。
分かってる。
温かかった記憶を手繰り寄せて、悲しみや不安を誤魔化したかっただけなんだ。
辛かったり、悲しい事があったりしたら、かつて僕は近所の公園に行っていた。
それからもう少し成長すると、僕は哀しみを布団の中で何とかやり過ごすことを覚えた。
でもまだそれじゃ足りない。
もっと強くならなければ、今の気持ちに耐えられない。
全然足りていない。
心より感情より衝動的に僕は母の体に抱きしめていた。
そのままもたれかかるだけになるはずだったのに、何の抵抗もなく母は後ろに倒れていく。
重なり合うような姿勢になり、母の顔を見ると表情は困り笑いのように見えた。
白くて細い首筋には小さな赤い線が入っているのが見えた。
何でついたのかは分からないけれど、鋭利な刃物で切ったような綺麗な傷だった。
本能的に僕はその赤い線に沿って舌で伝うと少しだけ鉄の味がした。
母の吐く息の音が耳のそばで聞こえた。
僕の体の下に横たわる母は細くて小さく、美しくも見えた。
涙が溢れてきた。
弱くて情けない心の象徴。
こぼさないようにずっと前から気を付けていたはずなのに。
母の頬に白い首に、胸にポタポタと涙の滴が落ちる。
悲しくて母親に縋るなんて、これが間違いなく最後だ。
これっきりにして、もっと強くならなきゃ。
気が付くと、部屋にいたのは僕一人だった。
ベッドの上にはまだ母の化粧の匂いが残っていた。
耳を澄ましてみる。
けれど、家の中には動く気配はもう感じられなかった。
遠くからサイレンの音が近づいてきて、静かな家の中を震わせるように響いてきた。
サイレンの音は警報のようで、聞いているだけで不安に胸を締め付けられる気になる。
最後まで耳を塞がずに聞き届ける事が出来たら、僕はまた強くなれる気がしてベッドに腰かけたままそうしていた。
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