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一章 立花(戸次)道雪の初陣 大永6年(1526年)

三 大神氏と大友氏、すなわち大分なり

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 藤北館の広大な庭の一角。
 普段ここは家臣や士卒しそつたちの鍛錬たんれんの場として使われているのもあり、地面にはぺんぺん草も生えておらず荒れ果てていた。

「さて、本日は多対一の戦いでも指南しますかな。準備は良いですかな?」

 両手に木刀を持ち構えている十時惟通これみちは、自身の周りを取り囲んでいる孫次郎、惟忠、惟次に話しかけた。
 孫次郎たちも愛用の得物を手にして準備万端。
 孫次郎は一刀いっとうであるが、惟忠、惟次は両手に木刀を持っていた。そう、十時家は二刀流を得意としている武門であった。

「戦場で一対一の戦いなど二百年前ならいざ知らず、いまでは集団戦法が主流ではあるが……一番乗り、一番槍、一番首はいくさの名誉。抜け駆けして単独で戦場に切り込んで行っては、このように囲まれる場合もよくあること。まずは――」

 十時惟通は息子である惟次の元へ瞬時に詰め寄り、木刀を狙って、下から斬り上げた。

――カンッ!

 打ち上げられた木刀が宙に舞う中、十時惟通は惟次の喉元に木刀の切っ先を突き差した。もちろん寸止め。

「真っ先に弱い奴を狙い、なんとしてでも数を減らせ。一人でも殺れば、他は思わず怯んでしまうものだ」

 息子だからこその隙を狙った訳でもあるが、弱者と定められことに惟次は内心立腹してしまう。
 そして孫次郎と惟忠これただも立腹していた。さも怖気づいたのだとあおられて、同時に十時惟通に向かっていった。

 十時惟通は孫次郎へと故意に接近して、太刀を受け止めると、激しい斬り合いへと展開していく。
 いくら孫次郎が鍛えているとは云え、まだ十代の若造。十時惟通ほどの剛の者ならば簡単に打ち払えるが、あえて打ち合っていた。
 惟忠への壁にするように孫次郎を誘導しているのだ。惟忠これただは切り込めずに加勢が出来ないでいた。

「背後や側面を攻めさせられないように、多勢の中でも一対一の状況を作り出せばいい。このように対人で他の相手を攻めさせないようにしたり、木や岩などを障壁として利用しても良い」

 打ち合いながら語る十時惟通。
 動く相手を誘導させるのは、よほどの腕前と実力差がなければ実行は無理だろう。

 このまま打ち合っていても埒が明かないと、孫次郎は一旦離れる為に後ずさりするも、十時惟通は左手に持っていた木刀を投げつけた。

「なっ!?」

 咄嗟とっさに孫次郎は放たれた木刀を打ち払ったが、十時惟通が飛びかかりて間合いを詰めては――右腕を凄まじい速さで突き出した。
 孫次郎は木刀の柄の間で防御するも打突の勢いを止められず、ふっ飛ばされ――後ろにいた惟忠を巻き込み衝突させたのだった。

「まだまだですな、若。それとも少し早いですがここらで休憩でもしますかな?」

 孫次郎は起き上がり、下敷きとなった惟忠に手を差し伸べては立ち上がらせた。

「何を云うか、まだだ。ただつぐ! 今度は一斉にかかるぞ!」

「良い心意気です。流石は戸次家次期当主。今度は手加減はしませんぞ」

 戸次孫次郎、そして十時家の人々。
 戸次家と十時家。

 元々両家の祖は“大神惟基おおがこれもと”の出であり、同じ氏族。

 大神惟基とは、蛇神嫗嶽じゃしんうばだけ大明神の子とする神婚譚しんこんたん……蛇神と人間の娘が交わり、子を産んだという「嫗嶽うばだけ伝説」を持つ大蛇の子であった。

 その大神惟基が戸次氏、十時氏などの豊後37姓氏の祖となり、豊後一帯を支配する豪族へとなっていき、やがて大神氏族は屈強な戦士として「騎猟きりょう」と評され、様々な戦で大いに活躍したと伝わる。

 横道にれるが、現代の感覚で神婚譚は眉唾ものである。
 現実的な出自の説としては、宇佐神宮の神官であった大神比義おおがの ひぎが豊後へ進出し支配した説。または大和朝廷の官司だった大神良臣おおみわの よしおみ氏が豊後の地を与えられて、統治の為に土着した説が提唱されている。

 どちらかが真実なのか断定は出来ないが、大神惟基の五代後の子孫である“緒方惟栄おがた これよし”が大神氏族……豊後武士団の頭領となり、豊後を統治していたのは間違いないのだ。

 時は流れ、大神氏族の運命を左右した戦い…“源平合戦(治承・寿永の乱…治承四年(1180年)から元暦二年(1185年))”が起きた。

 日本全国が源氏と平氏の争いに感化されて、各地方の豪族たちが武装蜂起・挙兵を起こし、大乱の渦が巻き起こった。

 緒方惟栄は源氏に味方して平家討伐に貢献したのだが、謀反人となった“源義経”に加担したことを咎められて流罪にされた。

 頭領(緒方惟栄)を失った豊後へ、源頼朝みなもとのよりともの御家人だった初代・大友氏……大友能直おおとも よしなおが守護として下向してくるのである。

 鎌倉幕府・大和朝廷から豊後守護職に任命されたとはいえ、余所者大友氏に豊後を統治されるのは地元民としては嫌忌けんきするものであり、当然のように軋轢あつれきが生まれ、大友氏に抵抗する者が出て来た。

 大友能直は頭領を失っても豊後を実質支配していた残存の大神氏族を平和的に配下に置くために、自分の子たちを大神氏族へ養嗣子ようししに迎えさせていった。その一つが戸次氏であった。

 戸次氏は大友親秀の子・重秀(つまりは大友能直の孫)が養嗣子ようししとして名跡を継ぎ、大神氏流ながら大友庶子家となった。

 こうして大友氏と大神氏、いびつな関係が築かれていった。

 大友能直が豊後に下向して、約三百年以上の月日が経過して土着化は進んでいったが、大友氏に面従腹背めんじゅうふくはいする大神氏族は多かった。

 かくの如き大神氏族は、偉大なる祖・緒方惟栄の誇りと豊後支配の正統を忘れぬ為に名に『これ』の字を名付けられている。

 十時家本家…十時惟安。その子、十時惟忠。
 十時家分家…十時惟通。その子、十時惟次。

 十時家は大神氏派寄りであるが――今、この藤北の地にて、大友派の戸次家と大神派の十時家が共に鍛錬して汗を流している。
 歪な関係の中で親交を築けているのは“戸次親家”の存在が大きかったのだったが、その所以ゆえんを孫次郎は知る由も無い。

 大友と大神――現在の県名の如く両一族の間は分かれており、未だ深き因縁の火種がくすぶっているのだが、それは……後々に語れり。
 藤北より遠方の地……豊前にて、戸次家にとって因縁の場所より、火の手があがろうとしていた。
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