楽将伝

九情承太郎

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第一章 赤と黒の螺旋の中で

二十八話 黒と赤(9)

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 永禄三年(1560年)
 5月19日。
 昼過ぎ。
 桶狭間。
 雹混じりの豪雨が明けると、両陣営では対局の反応が起きた。

 桶狭間山に陣取った今川義元の本陣では、織田勢二千が真正面から攻め寄って来たので、防御を固める指示を出す。
 指示が行き渡る前に、末端の兵たちが逃散し始めた。
 他の部隊であれば、矢面に立って戦う場合の心構えもあっただろう。
 本隊に配属された彼らは、
「徴兵されたけど、一番安全で楽な所」
 と思っていた。
 戦をするのは、他の部隊。
 仮に本陣に敵部隊が近寄って来ても、出向くのは東海道最強・朝比奈泰朝の部隊。
 自分たちは、戦わずに済むと思っていたのに、いきなり目前に織田の二千人が、一斉に突撃してくるのである。
 これは怖い。
 逃げる。
 彼らは職業軍人ではない。
 今川の徴兵システムで集められただけなので、命懸けで戦う気は、全くない。
 参陣して荷運びを手伝うだけで、領主への義理は果たしているのである。
 戦争は武家だけでやればいいじゃん、という空気は、いつの時代も変わりない。
 不利と見るや、その場から離れて実家に帰る事だけを、優先した。
 そして、それは今川義元も同意見だったりする。
「負けだ。沓掛くつかけ城に戻るぞ」
 昼飯前に出発した城へと逃げ戻る命令を、今川義元は即断する。
 太原雪斎が生きていたら、
「二万の軍勢を率いて、桶狭間山でランチをしてから、帰る訳ですか。結構な贅沢ですな。次はお一人でハイキングにどうぞ」
 とか嫌味を言っただろう。
 或いは、
「飢饉で兵糧に余裕がないのに、無理に大軍を揃えての進軍。戦で飢饉の穴を埋めようとするのは、下策です」
 と言って、進軍そのものを諌めただろう。
 太原雪斎が居ないと、上手くいかない事を確認しに来たような、戦になった。
(分かりましたよ、向いていませんよ、大人しく帰りますよ)
 義元は不貞腐れながら、敗走に専念する。
「輿は捨てる。馬を」
 腰を担ぐ担当者たちが逃げ出し、小姓が呆れた顔をしながら馬を曳いてくる。
 周囲の側近&有力国人衆は逃げずに防備を固めてくれているが、三百名しかいない。
 逃げるしかない。
 殿しんがり(最後尾の盾役)の指名を、義元はしなかった。
 命令するまでもなく、ここに残った三百人は、そのつもりで行動してくれる。
 豪雨の直後で、泥濘んだ山道を、今川義元は馬で逃げ降りる。
 と、その前に。
「旗は持たずに、置いて行け」
 時間稼ぎの小細工は、一応しておいた。

 桶狭間山に立ち並ぶ旗は、多少揺らいでいるが、動かずに揺らめいている。
 桶狭間な山へと馬で駆け上りながら、黒母衣衆筆頭・河尻秀隆は感心する。
「ふっふっふ、流石は『東海道一の弓取り』と謳われた戦国大名。雑兵どもが逃げても、本陣は揺るぎもせぬとは」
 と、ほぼ一番乗りで突っ込む。
 全身を黒色系統の鎧兜で統一し、黒母衣をこれ見よがしに背負いながら、河尻秀隆は黒い愛馬で桶狭間山を駆け登る。
「我こそは織田家最強・黒母衣衆の筆頭! 河尻秀隆!! 今川義元よ!! 首を寄越せ!!」
 見栄を切って高らかに名乗りあげながら、今川本陣の旗が立つ中心へと、突っ込む。
 旗は沢山あっても誰も居ないので、流石に気付く。
「逃げた~~!! 追え~~!!」
 大金星を狙って山を駆け登ったのに、空振り。
 しかも道は、泥濘んで最悪。
 桶狭間山を下りて、沓掛城へと向かう一団を追いかけて、織田軍二千の『焦りのデスロード』が始まった。
 何せほぼ半分が、放棄された旗に騙されて、桶狭間山を登って時間を無駄にしてしまった。
 しかも近所に東海道最強・朝比奈泰朝の部隊二千がいるのである。
 早めに追い付いて決着しないと、今度は織田の方が狩られる。

 飯尾尚清いいのお・ひさきよは、言われる前に馬から降り、金森可近ありちかの武運を祈る。
「五郎八(可近の通称)なら、追い付く」
「追い付きたくないけどね」
 急いで桶狭間山を登らなかった分、金森可近や後続の部隊が、先に今川義元の一団を捕捉出来た。
「一番槍なんて、自分の柄じゃないのに」
 まさかの先頭で、可近は今川の本隊に接近する羽目になった。
「こんな武運は、欲しくない!」
 追い付きそうな今川本隊から、矢が射られる。
 金森可近に。
 命中しそうな矢を刀で払い除けながら、可近は渋々先頭で馬を駆け続ける。
 盾に出来そうな味方がいない程に前に出るのは初めてなので、本当に厭々ながら、馬を走らせる。
 可近は厭々だが、後続の味方は逆にブチ切れた。
 赤母衣を背負った金森可近が一番槍を遂げそうなので、他の赤母衣衆・黒母衣衆も加速して山を降りる。
「なんで茶坊主同然の五郎八に先を越される?!」
 河尻秀隆や他の馬廻が、悔しさのあまり馬を潰す勢いで追い付き、可近を抜いて行く。
 自然と、可近に射られる矢の数が、激減する。
「よっしゃ、抜かれた!」
 味方に追い抜かれてガッツポーズをしてしまった瞬間、横を駿馬で追い抜く信長が、可近を一瞥だけして槍を構える。
 笑っていたので、小言はなしだろう。

 結果的に時間稼ぎは僅かな効果しか生まず、馬術に秀でた赤母衣衆・黒母衣衆が、先んじて今川本隊に攻撃をかける。
 赤と黒の母衣衆に斬り込まれた今川義元の護衛部隊が、徐々に削られていく。
 今川の逃げる速度も落ち、赤と黒の螺旋を目印に、織田の兵が集中していく。
 赤と黒の螺旋の中で、今川家の中枢を担ってきた面々が、汚泥の中に消えていく。
 今川側は甚大な被害を出しながらも、今川義元だけは逃がそうと、度々織田を引き離して意地を見せる。
 今川の必死の抵抗に、赤母衣衆・黒母衣衆からも、死傷者が出始める。
 それでも、大金星を前に、織田軍の勢いは衰えない。
 逃走と追撃の繰り返しは、五度に渡った。
 五度目で、今川義元が自ら太刀を振るうまでに、今川本隊の数は減った。

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