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遠江国掛川城死闘篇

最強の人

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 1569年(永禄十二年)三月五日。
 掛川城を包囲する徳川勢が一斉に距離を縮めて来たので、城内の今川勢は自分たちの名目上の主人が超絶的にしくじった事を理解する。
 城が明け渡される際には、城主が変わっても掛川城に再就職しようかとか、「帰ったら俺、彼女と結婚するんだ」とか、マサチューセッツ工科大学に留学しようとか、戦後の人生について建設的な話をしていたのに、全てご破算模様。
 原因は、今川氏真がダラダラと半月も徳川家康を待たせた結果としか、考えられない。恐るべき怠慢である。
 朝比奈泰朝の統率で良く保たれていた掛川城の士気は、「今川氏真バカヤロー」の空気に染まっていく。
 せっかく生きて帰宅出来そうだったのに、降伏も出来ないアホの所為で又々デスマッチ。
 今川勢の士気は、逆方向へと上がっていった。

「俺が覚えている限りで最低の落城は、美濃斎藤家の稲葉山城だった。過去形に出来て最悪だ。若過ぎて信長に全く対抗出来なかった国主が命辛々逃げ伸び、残った兵は皆殺し。助かったのは、俺の部隊のように華麗に脱出したお利口さんか、織田への恭順を落城前日までに誓った普通な連中だけ。
 当日になってから寝返ろうとか降伏しようとか、判断が遅過ぎるだろ? そういうクソとろい奴は、信長でなくても皆殺しにしたくなるわな。自分の生死が掛かっているのに、タイムリミットが過ぎても降伏しないって、どれだけ鈍い?
 どうせ敗北するのに、降伏を遅らせる意味なんかない! 人死にが増えるだけ! ここから先の戦死は、双方共『無駄死に』だからな! 覚えておけ、このキング・オブ・無能!!!!」

 掛川城、本丸の天守閣で行われた緊急軍議で、日根野弘就はキレた。
 日根野弘就に面と向かって責められた今川氏真は、無能呼ばわりには慣れているのでショックは受けずに、問い返す。

「そういう割には、日根野殿も降伏しなかったのでは?」
「ごめんね、君が降伏を半月も遅らせるようなアホだと思わなかったから。つーか、君の仕事だから、それ。世にも珍しい、君にしか出来ない仕事だから。普通は可能な限り早く終わらせるし。誰に言われなくても、進めるよね、降伏の段取り。平均以下だと思っていたけれど、ここまで酷いと、非常手段を取りたい」

 日根野の口から『非常手段』の四文字熟語が出たので、朝比奈泰朝が刀に手をかける。
 日根野は、朝比奈泰朝に口撃を向ける。

「お前、甘やかし過ぎだよ! 形式なんぞ無視して、お前が仕切れ! 全部! 無能を上司にするな!! お前が大名をやれば、みんな幸せになれる!」

 朝比奈泰朝は、挑発に乗らない。
 日根野は肩に担いだ五十匁筒大火縄銃を使わずに、天守閣の窓から外を指差す。

「今から直ぐに下に行って、白旗を掲げて降伏する旨を伝えろ。それでなんとか間に合う」

 今川氏真は、己がそうしている様を思い描く。

「そのやり方は、美しくない。今川家の様式美に、合わぬ」

 今川氏真は、降伏の仕方に
 家族の生命財産を保証してもらっている徳川との密約が、この凡人の甘ったれた態度を助長させていた。
 家康の幼馴染に対する温情が、最低レベルの戦国大名に要らぬプライドを温存させてしまった。
 この貴種は、『徳川の方から終戦を切り出す形式』を求めている。
 此の期に及んでも。
 此処まで落ちぶれても。
 愚劣と言われようと、今川家の誇りを落とせなかった。
 日根野は、想像を絶するバカヤローの思考に、離脱を決めた。

「あばよ、無能。適当に退職金を分捕って逃げるわ」

 朝比奈泰朝は、自分が降伏の使者として出向こうと、他の同僚に氏真の警護を任せようと周囲を見渡し…天守閣にいる殆どの味方が、日根野と同様の顔付きをしている事に気付く。
 朝比奈泰朝が氏真の側から離れた瞬間、生死を問わずに徳川への『手土産』にされかねない。

(これでは、動けぬ)

 去ろうとする激おこ日根野を辛うじて引き留め、朝比奈泰朝は一事を頼む。

「頼む、最後に一つだけ頼まれてくれ」
「仕事の依頼は、報酬を明確に提示してから。基本だ、基本。基本っ」
「源氏物語絵巻を、三巻持っている。国宝級だから、高く売れるぞ」

 日根野弘就は寛大な心を取り戻すと、朝比奈泰朝の依頼を輝く笑顔で引き受けた。


 徳川勢の士気も、「今川氏真バカヤロー」で統一されつつあった。

康重が意識不明の重体だ。吉良と同じく、風邪を拗らせた」

 本多広孝が目を血走らせながら、常春に凶報をお裾分けする。冬の滞陣に終わりが見えた瞬間に風邪を拗らせた者は少なくない。しかも、今川氏真が牛歩戦術を選んでしまった。「今川氏真バカヤロー」が徳川でもトレンド入りしてしまい、後年まで尾を引く。

「殿が薬草を分けてくれたが、助かるかどうか分からぬ」
「助かるよ。若いし。吉良だって、まだ死んでいないし」

 最前線の後詰に来た常春は、「俺を最前線に呼び戻す事態にしやがって、今川氏真バカヤロー」と言いたかったのに不幸自慢でマウントを取られて慰め役に回る。

「今日で本当に本当に、本当に今川の最後だな」

 人生の前半生で今川に搾取されまくった恨みが再発した本多広孝に、米津常春は再確認をする。

「殿から受けた仕事を忘れるなよ。殿の言った通りに事を運べば、今川氏真に至近距離から好きなだけバカヤローと言える」
「…それ、冷静に考えると、何の益もないな」
「いいから、いいから。戦国大名としての今川は、今日で本当に御終いだ」
「戦国大名として、か」
「欲をかくな。遠江と掛川城を貰うのだ。家族の安全ぐらい、保証してやらないと」
「氏真自身で、ぶち壊しているけどな」
「無能って、怖いな」
「平均的な武将で良かった」

 家康の配下で最も早く城持ち大名に出世した猛将・本多広孝の謙遜に、周囲が苦笑する。
 先鋒を任された二将のうち一人が、振り返って先輩に挨拶をしておく。

「先鋒の第一陣だけで充分。後詰の先輩方は、見物だけで済みますぞ」

 松平伊忠これただの強気な発言に、もう一人の先鋒はツッコミも感想も述べずに、十歩進んで長槍を使う間合いを確保する。
 そのまま掛川城へ進み、北門を潜る。
 家康からの号令が無くても、その武将の戦勘が神級である事を知る徳川勢は、彼に合わせて半壊した掛川城の北門を潜る。
 途端に三の丸から矢・鉄砲玉・石飛礫での迎撃が降り注ぐが、その武将には何故か有効な命中弾が全く当たらない。
 遅れを取らないように追い付いた松平伊忠が、盾や竹束で防御しながらでも次々と傷を増やしながら歯を食いしばって進む様と対照的に、全くの無傷。
 文章の綾でも比喩的表現でも無い。
 圧倒的に、無傷。

 鹿の角を付けた黒漆の兜を被り、肩から大きな数珠を提げたその武将は、曇りなく輝く笹穂型の槍身を備えた二丈余り約六メートルの長槍を振るって降り注ぐ矢弾を払いながら、掛川城の本丸へと歩みを進める。

「伊忠ぁ、付いて来られるかぁ?」
「平気だ。かすり傷しか負っていない」

 無数の擦り傷を秒単位で増やして流血している松平伊忠は、同じ戦況下にいながら本多忠勝に、ちょっとだけ羨ましそうな視線を送ってしまう。
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