安芸の島

Kyrie

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7. 神の島(2)

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新幹線の中でうとうと眠っている間に広島が近くなった。
テレビでたまに見る市民球場のそばを新幹線が通過すると、まもなく広島駅に着いた。
駅はお好み焼きともみじ饅頭と赤いカープで溢れていた。

僕は駅のそばのビジネスホテルに宿を取り、チェックインしたときには夕方近くになっていた。
広島らしいものを食べればいいのだろうが、食欲はなかった。
しかし、克彦に対する腹の虫はおさまらなかった。
コンビニで下着を買うついでに、缶ビールも数本買った。

スーツで観光もないか。
出勤途中で新幹線に飛び乗ったことを今更ながらに気がついた。
僕は駅のそばのデパートでカジュアルな服を上下とも買った。
着替えもいるから、上は2枚。
最近はずっと、克彦の好きそうな服ばかり着ていた。
本当はあまり好きではないブランドの服も着た。
久しぶりに、自分が着たい服を買った。
そうしたら止まらなくなって、靴も買った。
仕事の革靴なんていやだ。
もちろん靴下も買った。
小さなバッグも買った。
ハンカチも買った。
自分が好きなものをあれこれと買った。
そんな散財をしたら楽しい気分になってきて、ホテルに戻り荷物を放り出すと少しぬるくなったビールを開けて飲んだ。

「ははははははは」

僕は笑った。
なにもできないヤツじゃないんだ。
僕だってやるときにはやる。
克彦は僕を依存の高い人間だと称した。
そんなことはない。
依存が高いのはあなただよ、克彦!

どれくらい飲んだのか、いつシャワーを浴びたのかはっきり覚えていない。
スマホの電源を入れるのがいやで、モーニングコールを設定した。
朝、電話が鳴り、音声が流れる。

気持ち悪くて頭が痛い。
二日酔いだ。




こんな状態で宮島に行くのはどうかと思ったが、あのポスターの景色が見たくて、僕はふらつきながら30分JRに揺られ、フェリーに10分乗った。
乗り物の揺れは激しくなかったのに、今の僕にはつらかった。
他の客はフェリーの上のほうに上がり、潮風を切って騒いでいるようだったが、僕はオイルの臭いがきつい1階の隅にうずくまるしかなかった。

フェリーが宮島の桟橋に到着した。
とにかく下りなきゃ。
立ち上がると軽い貧血になって足元が揺れた。

「あんたぁ、大丈夫なん?」

低い声の広島弁が響いた。
僕はもう答えられるような状態ではなかった。
その人は僕の腕を支えるとゆっくりと桟橋の待合室まで連れていき、ベンチに座らせてくれた。
少しほっとした。
その人はすっと離れて行った。
ああ、お礼も満足に言っていないのに…
僕はベンチの背もたれに身を任せぐったりしたままだった。
どんな人かも見てないや。
またその人が戻ってきた。
よかった、これでお礼が言える。

っ!
首の後ろが急に冷たくなる。
ペットボトルが押しつけられているらしい。
気持ちいい…

僕はしばらくそのままでいた。



僕を助けてくれたのは原田くんという20歳の広島の大学生だった。
平日の宮島に、持ち始めたばかりのカメラで紅葉を撮りに来たのだという。
口数が少なく純朴そうな原田くんの態度に僕は好感を持った。
自分で言うのもあれだけど、僕は少しキレイらしい。
よくねっとりとした気持ち悪い視線でなぶられていることもある。
原田くんはこんなに近くにいるのに、そういったことを微塵も感じさせない。
広島弁のせいかぶっきらぼうに聞こえるが、優しい。
もう少し、原田くんと話がしたくなった。

「ねぇ、僕も一緒に回ってもいいかな?」

原田くんは自分が行くのはいわゆる観光ルートではなく厳島神社にも行かないのだと言った。
僕はそれでも構わなかった。
紅葉と大鳥居が見たかった。
それ以上に原田くんともうちょっといたかった。
僕が少し強引な形で原田くんの撮影に同行することになった。

こんなに積極的に人に関わったのは初めてかもしれない。
なんだかいつもの僕じゃないみたいだ。
僕を知る人が誰もいない、というのは思った以上に解放感を持たせた。




多くの観光客は桟橋から島の西の大鳥居や厳島神社を目指して歩いていくが、僕たちは反対側の東へと進んだ。

人気のあまりない道だった。
観光客の興奮気味のおしゃべりも聞こえない。
風が葉を揺らす葉擦れの音が大きく響いた。
道はすぐに上りになり、西へと向かっていた。
もみじはそんなになかったが、紅葉した葉っぱはたくさんあった。
天気がよく、赤や黄色の葉っぱは綺麗にきらめいていた。

原田くんは気になるところがあると、黙って立ち止まり写真を撮った。
たまに後戻りして、写真を撮ることもあった。
ファインダーを覗き、ときにしゃがんで写真を撮る姿はカッコよかった。
好きなものがあるっていいな。
素直にそう思った。
僕には趣味がない。
こう考えると面白味のない人間かもしれない、僕は。



のっそりと鹿が近づいてきた。
黒々と濡れた目と長い睫毛をしていた。
こんなに近くで初めて見るかもしれない。
桟橋を出てすぐのところにも鹿がいて、驚いた。
こんな人がいっぱいいるところに鹿がいるなんて。

「あ、原田くん!鹿だ!鹿がいるよ!こんなところにまで!」

かわいいなぁ。
僕は鹿が近づいてくるのに任せていると、桟橋でもらった地図に食いつかれてびっくりした。
えっえっえっ!
とにかく鹿がこんなものを食べてお腹を壊しちゃいけないので、地図をぐっとひっぱって口から離し、そしてバッグにしまった。
あー、驚いた!
鹿には気をつけよう。
近づいてきても、かわいいだけじゃだめなんだ。
歩いているときに見た「鹿は野生動物です」と書かれた看板を思い出した。
そうだ、彼らは野生なんだ。

僕は都会でなにをしてきたんだろう。












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