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わたしとらんたん

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 大学のキャンパスには、夕日がゆっくりと沈む時間が訪れていた。オレンジ色の夕焼けが空を埋め尽くし、その光が医学科講義棟の窓ガラスにきらきらと反射しているのが見える。木々の葉っぱもその光を受けて、金色に輝いていた。周りの学生たちは、講義から解放され、机に突っ伏して仮眠を取るもの、無言で教室を立ち去る者、そして一部のグループは楽しげに会話を交わしている。笑い声、そして慌ただしい足音がキャンパス内に響き渡る。私もその一部として、講義を終える。忙しい日常の中で、この時間だけは少し息をつくことができる。この一瞬の静寂が、私の学内で過ごす中で最も穏やかな時間なのかもしれない。

 サッカー部や野球部などの部活に熱心な学生たちが、東医大に向けての準備で、運動場を走り回っている。彼らの汗ばんだ顔や、声を張り上げて指示を出す上級生の姿が目に入る。私はそんな彼らの元気な姿を見ながら、部活に向かう生徒の間を俯きながらすり抜ける。

 医学部棟のキャンパスを出て約十五分以上歩くと、少し栄えた地方都市の中心部が広がっていた。道々、10階建て前後のビルが立ち並び、車の走行音や人々の声が賑やかに響いていた。各ビルには様々な店舗やオフィスが入っている様子が見受けられた。私は表通りから一歩横道にそれて、喧騒から少し離れた場所にある、お気に入りの喫茶店へと足を運ぶ。その店は、古びたレトロな雰囲気が漂い、都会の五月蠅さから逃れることができるような、特別な場所だった。

 扉を開けると、木の香りと深煎りのコーヒーの香りが混ざり合った空気が迎えてくれた。部屋の隅には小さな観葉植物が置かれている。その緑が店内に優しい、落ち着きをもたらしている。カウンターの奥では、六十代と思われる女性店員がコーヒーを淹れていた。彼女の名前は知らない。特別仲が良いわけではないが、私が訪れるたびに彼女は最低限の世間話を交わしてくれる。

「今日も読書?」彼女が微笑みながら尋ねる。頷きながら、私はカバンの中から小説を取り出した。表紙を開くと、寺での生活を描いた物語が始まる。その話の主人公は、寺の美しさに魅せられていたが、ある日、自らの感情の渦中で、寺に火をつけてしまう。

「この本、寺に火をつける僧侶の話なんです。」と私は独り言のように呟く。声にはこれから読む話への期待感が込められていた。店員の女性は、怖い小説を読んでいるのね、と短く返した。彼女の瞳には、少しの驚きと興味が浮かんでいる。

 そんなやり取りをしながら、私はその小説のページをめくり始めた。店の中は静かで、時折鳴る店のチャイムやお湯を注ぐ音、そして時々通る客の声だけが聞こえてくる。この喫茶店の穏やかな時間と、小説の中の熱い物語とのギャップがあるおかげで、より物語に入り込めていけた。
 窓際のテーブルに座りながら、外の通りを眺めると、街の人々が慌ただしく通り過ぎていく。その景色とこの店の静けさとの対比もまた、私の心を落ち着けて、一層物語に入り込めていけた。

****

 家に戻ると、目の前には乱雑に散らかった部屋が広がる。成書の山、試験対策のプリントの山、論文の山、洋服の散乱、そしてシンクに積み上げられた汚れた食器。食洗機を回したのは何日前だっただろうか。物が増えるほど、掃除のモチベーションは下がっていく。親からは度々、ハウスキーパーを雇うよう勧められているが、プライベートな空間に他人を招き入れることは考えられなかった。

 私は椅子に腰掛けガスランタンに点火する。好きなアニメに影響を受けて購入したものだ。小さな炎が目の前で静かに燃え盛るのを見つめると、現実から一歩引いたような感覚に包まれる。炎が物に触れ、それが燃え上がるその瞬間を思い浮かべ、まるで別の世界にいるような感覚に陥る。

 子供のころ、一度だけ、火遊びをして家の一部を焼いてしまった経験がある。その時の恐ろしさは忘れられない。しかし、その時の興奮もまた、忘れられない。

 私の頭の中では、部屋の中の物が炎に包まれて躍る光景、炎の後の静寂が再生される。ガスランタンの小さな炎が目の前でゆらゆらと揺れるのを見つめながら、私は深い安堵を感じていた。

 私は物を焼く事を想像するのが好きだ。もちろん、危険性や犯罪性は理解している。実際に行動に移すわけではないが、その衝動、魅力に抗うことはできるのだろうか。もし、万が一、この衝動や行為の際に事故が起きたとしたら。そして、明るみに出る日が来たら、その結果はどうなるのだろう。でも、リスクを冒す価値があると感じるのは、私がこの炎の美しさに夢中だからだ。どんな結果が待っているにせよ、私はこの炎が好きなんだ。
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