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1巻
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しおりを挟む一 花乃、出会う
「え、いつものお坊さんじゃないの?」
「それがねぇ、加藤さんぎっくり腰やっちゃったらしくて。今年はお弟子さんが来るそうよ」
お盆が始まった、ある夏の暑い日。
精霊棚に飾る茄子の牛とキュウリの馬を作っていた私に母が告げた。
現在我が家は、毎年恒例となっている棚経の準備の真っ最中である。棚経とは、お盆の時期にお坊さんが一軒一軒檀家を訪問してお経をあげること。
現代の住宅事情では仏壇が無かったり精霊棚を作らないお宅も増えてきた。だが、仏教徒で祖父母の代から一軒家に住む我が家では、毎年この時期になると仏壇の前に小さなテーブルを置き、そこに真菰のゴザを敷いてお供え物と位牌を並べた精霊棚を作る。こうして先祖の霊をお迎えする準備をするのだ。
うちにはいつも、菩提寺の住職である年配のお坊さんが来てくれていたのだけれど、ぎっくり腰では仕方がない。
「なんだ……これから加藤さんの好きな水羊羹を買いに行こうと思ってたのに。じゃあ何買ってきたらいいんだろう?」
「代わりに来るのお弟子さんみたいだし、何でも食べてくれるわよ」
私は茄子とキュウリの牛馬を母に渡し、よいしょと立ち上がる。
「お弟子さんって、若いの?」
「六十代後半の加藤さんよりは若いんじゃないの?」
「まあ、そうよね……」
仏壇を掃除しながら、母が「ほら、早く買いに行け」とばかりにしっしっと手を振る。
「もう。分かったわよ、行ってくる」
お坊さんが来る時間まであと三時間ほど。私は鞄と日傘を持って、足早に家を出た。
到着した百貨店は、最近始まった夏物セールで随分と賑わっていた。時間があればゆっくり見たいところだけど、残念ながら今日はそういった余裕はない。
後ろ髪を引かれつつ、混み合うデパ地下のお菓子売り場へ向かった。
お盆時期ということもあり、お菓子の種類は充実している。
加藤さんは毎年いらっしゃるから、どんなものが好きか何となく分かる。でも、年齢すら分からないお弟子さんの好みとなると、さっぱりだ。
いろいろと悩んだ末、私は小ぶりの葛饅頭と水羊羹を買った。
葛饅頭は見た目も涼しげだし、喉越しもいいから食べやすいだろう。
棚経に来てくれるお坊さんは、たくさんの檀家さんのお宅で何かしらご馳走になっている。だから、お茶菓子の量は控えめで、お腹が冷えすぎないものがいいらしい。
なんせお坊さんは出されたものを残せないからね。
水羊羹のほうは、ぎっくり腰の加藤さんへのお見舞いだ。
百貨店からの帰り道、日傘をさして住宅街を歩いていると、原付に乗ったお坊さんが私の横を通り過ぎた。
「ほんと、この時期は忙しそうね……」
お盆とはいえ、父も弟も仕事が忙しく休みが取れなかった。そのため今日は、シフト制で比較的融通の利きやすい私が仕事を休み、母を手伝うことにした。必ずしも棚経に二人以上いなきゃいけない決まりがあるわけじゃないんだけど、母が「せっかく来てくれるのに私一人でお経聞くのも寂しいじゃない!」と言うもんだから。
葛原花乃。二十九歳独身、彼氏なし実家暮らし。これといって没頭している趣味もなければ特技もない。隣町にある洋食店で働きながら平凡な毎日を過ごしている。
同い年の友達がどんどん結婚して出産していく中、未だ独り身で若干肩身の狭い私はこんな時くらい家族に協力しなくては。とはいえ、特に結婚を焦っているわけではない。仕事をしながら平穏に自分のペースで生きていければいいと思っていた。
この時までは。
家に戻ってきた私は、仏間の掃除に追われる。
そんなにもの凄く綺麗にする必要はないんだけど、やっぱり仏間に身内以外の人が入る機会ってなかなかないから、これを機にと思ってせっせと掃除をした。
「花乃。お坊さんもうすぐいらっしゃるから。名前は確か……支倉さん。インターホン鳴ったら出てよ?」
「はいはい」
すでにお坊さんを迎える用意はできている。
精霊棚の準備も終えたし、仏間は掃除をした後エアコンをつけて涼しくしてある。おしぼりは冷蔵庫で冷やしてるし、お茶菓子も支度済みだ。あとは支倉さんとやらが来るのを待つばかり。
しかし、予定の時刻が過ぎてもインターホンの鳴る気配はない。おやっと思っていると、我が家の固定電話が鳴った。
「はいはい」
母が電話に出ると、相手は例のお坊さんのようだ。どうやら、迷ってしまったらしく家の場所を確認する電話だった。
ざっくりと説明し受話器を置いた母は、私のほうへくるりと振り返る。
「花乃、外に出て支倉さん案内してあげて。近くまで来てるみたいだから」
「はーい……」
家の前に出て、キョロキョロと周りを見渡す。だが、近くにそれらしき人は見当たらない。
――もしかして、一本、通りを間違えたのかな。
そう思った私は、少し広い通りまでサンダル履きのまま出てみることにした。ちょっと近道して、細い路地から角を曲がろうとした瞬間、目の前をスッと影がよぎる。
「わっ!!」
「おっと」
出会い頭に人とぶつかりそうになり、咄嗟に避けようとしてバランスを崩してしまった。そんな私の腰を、相手の男性が片手で支えてくれる。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
「申し訳ありません、大丈夫ですか」
その声に、私の背中がゾクリと粟立つ。
低くて、少し甘い優しい声――
私の目の前には、下の白衣が透けて見える黒紗の法衣と、茶色の輪袈裟を身につけた男性の広い胸がある。はっとして顔を上げると、すっきりとした短髪に、やけに綺麗な顔をした僧侶が私を見下ろしていた。
「……は、支倉……さん、ですか?」
「はい、支倉です。あ、もしかして葛原さんでしょうか?」
「そうです」
私が答えると、その人はほっとしたように表情を綻ばせた。
「よかった。一本、道を間違えてしまったようですね。では、これからお伺いします」
そう言って微笑んだ支倉さんに間近から見つめられて、私の心臓がおかしな音を立てる。
「お、お願いします。ところで……あの、腰に手が……」
もう危険は回避したはずなのに、何故だか支倉さんの手は私の腰を支え続けている。
「ああ、これは失礼いたしました」
全然そう思っていなさそうな笑みを浮かべて、静かに彼の手が離れていった。だけど、彼自身は私のすぐ側に立ったままだ。
なんだろう、この人。悪気はないのだろうけど……やけに距離が近い気がする。
動揺して立ち尽くす私に、微笑んだ支倉さんが声をかけてきた。
「葛原さん? 参りましょう」
「は、はい。こちらです……」
……きっと気のせいね。支倉さんがあんまりにも綺麗な顔をしてるから、びっくりして動揺したんだ。しっかりしろ、私。
家に着くと、支倉さんは出迎えた母に丁寧な挨拶をする。たちまち目をキラキラさせた母が、支倉さんを仏間に案内していった。私もその後に続く。
支倉さんは持っていた黒い鞄を開き、中から鈴と木魚のようなものを取り出す。そして精霊棚の前に正座をすると、私達が座るのを待って静かに読経を始めた。
しかしさっきのアレは、なんだったんだろう。
柄にもなく初対面の男性にドキドキしてしまった。しかも相手はお坊さんだというのに……
綺麗な顔立ちのせい? それとも間近で見つめられたから? もしかして、腰を触られたせい?
ありがたい読経の最中だというのに、私の頭の中は煩悩でいっぱいだ。
しかし、良い声だなあ……
いつも来てくれる加藤さんも、落ち着いた素敵な声をしている。でも、支倉さんの声はうっとりするほど綺麗な低音で、凄く艶があった。
まるで心地いい音楽を聞いているような気持ちになって思わず聞き惚れてしまう。
どれくらいの時間が経ったのか。リーンと高い鈴の音が聞こえて、我に返る。
気づくと読経は終わっていて、振り返った支倉さんが頭を下げた。
「ありがとうございました」
その声にハッとして、私は急いで立ち上がる。
キッチンに行き、お茶の準備をする。その間、心得たように母が支倉さんの話し相手となってくれていた。それにしても、母の声はやけに華やいでいる。
――お母さん、支倉さんがイケメンだから嬉しそうだな……
そんなことを考えながら手早くお盆に煎れ立てのお茶とお茶菓子、冷たいおしぼりをのせて仏間に戻った。そこにはすでに小さなちゃぶ台が用意されていて、上機嫌な母の声が響いている。
「まあ、じゃあ将来は実家のお寺を継がれるんですか?」
「そうですね。たぶんそうなると思います」
私が支倉さんの前にお茶を置くと、にっこりと会釈された。
つられて私も笑顔で会釈する。
「支倉さんて、今おいくつ?」
唐突な母の質問に、支倉さんは穏やかに三十一ですと答える。
「じゃあもうご結婚はされているのかしら」
「いえ、独身です。なかなかご縁が無くて」
少しはにかみながら、彼は葛饅頭に竹楊枝を刺して少しずつ口に運んだ。
そんな支倉さんの手に、私はつい目がいってしまう。
綺麗な手だな……。指が長くて、ちょっと骨ばってて。なにより所作が美しい。
気づくと、彼の手の動きをじっと目で追っていた。
「あら、じゃあうちの娘なんてどう? 二十九で彼氏もいないし。顔立ちだって悪くないのに、ちっともご縁が無くてねえ……そろそろお見合いでもと思っていたのよ」
思いがけない母の言葉に、カアーッと顔が熱くなる。私は、隣にいる母を睨みつけた。
「ちょっとお母さん!! 何、いきなり。そういうことはご迷惑だから、やめてよ!」
私が割り込むと支倉さんは、「いえ、そんなことは決して」と言って優しく微笑んだ。
ここでタイミングよく、家の電話が鳴る。これ幸いと私が立ち上がろうとすると、何故か母に止められた。
「私宛かも! ちょっとごめんなさい! 花乃、お相手してて」
勢いよく立ち上がった母は、少し慌てぎみに仏間から出て行ってしまう。
私は母が出て行った襖を見つめたまま、しばし茫然とした。
――ええー、ちょっと、このタイミングで二人きりにしないでよ。……どうしよう、一体何を話せばいいわけ……
「花乃さん、と仰るのですか」
困惑して言葉が出てこない私に、支倉さんが静かに声をかけてきた。
「あ、はい」
「どのような漢字ですか?」
「植物の花に、乃……って分かりますか、こう……」
指でちゃぶ台に乃の字を書くと、支倉さんは理解した様子で「ああ」と頷いた。
「素敵なお名前ですね。貴女にぴったりだ」
「あ、ありがとうございます……」
きっと気を遣ってくれているのだろう。ちょっと申し訳なく思いながら会釈をした。
「先ほどの話ですが」
「はい?」
先ほどの話ってなんだ?
支倉さんが優しい笑みを浮かべながら私を見つめる。
「お付き合いをされている方は、本当にいらっしゃらないのですか?」
そこ、突っ込んできますか。
「……ええ、まあ」
「世の中の男は見る目がありませんね。こんなにお綺麗なのに」
「…………」
あまりにストレートな褒め言葉に思わず固まる私。
この人、よくこんな恥ずかしいこと面と向かって言えるな。こっちが照れるんだけど……
「き、綺麗かどうかはさておき、なかなかご縁が無くて。それに、こういうことは自然に任せようと思っています」
話している間、支倉さんはずっと私から視線を逸らさなかった。
そんなにじっと見られると、落ち着かないのですが。なんか……今すぐ洗面所の鏡で自分の姿を確認したくなってくる。
……大丈夫かしら。私、どっか変なとこでもある……?
「そうでしたか、ならばこれもご縁でしょうか」
私をじっと見つめていた彼が、そう言って笑みを深めた。
「え? 何がですか?」
支倉さんが何を言いたいのかよく分からず、彼の顔を凝視する。彼も何故か私の顔をじっと見つめた。
その時、電話を終えた母が、パタパタと小走りで仏間に戻って来る。
「途中でごめんなさいねぇ。娘、ちゃんとお相手してました?」
「はい。楽しくお話しさせていただきました」
支倉さんが母ににっこりと笑みを向けた。
どこが楽しく?
疑問に思いながら、黙って母と支倉さんの会話を聞いていると、ふと支倉さんが腕時計に目をやった。
「ああ、楽しくてつい喋りすぎてしまいました。次に行かねばなりませんので、これにてお暇いたします」
そう言うと深く頭を下げ、支倉さんは立ち上がる。
玄関に向かう支倉さんの後を母がついていく。その後ろ姿を見送っていたら、ふと加藤さんへのお見舞いを渡すのを忘れていたことに気づいた。急いでキッチンに戻り紙袋を掴むと、私は小走りで玄関に向かった。
「あ、すみません、これ……」
支倉さんに紙袋を渡そうとしたら、横から母の声が飛んできた。
「花乃、支倉さんお車でいらっしゃってるそうだから、そこまでお見送りしてあげて!」
「…………はい」
こういう時、母の命令は絶対だ。私は紙袋を持ったまま家を出て、彼が車を停めている近所のコインパーキングまで、支倉さんと並んで歩く。
「車でいらしてたんですね……」
「さすがに徒歩で全てのお宅を回るのでは、時間がかかってしまいますからね。バイクの日もありますけど、今日はお伺いするお宅の範囲が広かったので車にしました」
私の何気ない呟きにも、いい声で、丁寧な答えが返ってきた。
「今の時期はやっぱりお忙しいんですか?」
「そうですね、かなり……。特に今年は住職が回れないこともあり、いつも以上の忙しさですね」
「そうなんですか……大変ですね……」
毎年加藤さんも忙しそうだったけど、今年はその加藤さんが動けないんだから余計に大変だよね。
「花乃さんは普段どういったお仕事をされているんですか?」
今度は逆に質問された。
「隣町の、老舗の洋食店で働いています」
「なんというお店ですか?」
間髪を容れず、支倉さんが聞き返してくる。
「菫亭っていう店ですけど……」
「ああ、聞いたことがあります。あの辺りにも檀家さんがいて、その店のオムライスが美味しいと仰っていました」
「あ……ありがとうございます。お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください」
「はい、ぜひ」
当たり障りのない会話をしながら歩いていたら、コインパーキングが見えてきた。支倉さんが鍵を取り出すと、ハイブリッドのセダンがピピ、と音を発する。
これでようやくお役御免だとばかりに、私は支倉さんに持っていた紙袋を差し出した。
「これ、加藤さんのお好きな水羊羹です。よかったら皆さんで召し上がってください」
支倉さんの視線が、紙袋ではなく私に注がれる。彼は紙袋を差し出した私の手を、大きな手で包み込んだ。その行動の意味が分からなくて、私は一瞬頭が真っ白になる。
「へっ? あの……」
「花乃さん」
彼の声のトーンが少し低くなったような気がする。見上げると、支倉さんが射抜くような眼差しを向けてきた。
「貴女さえよければ、本気で考えていただきたい」
「え、何を……」
「私の妻になることを」
思いがけない突然の言葉に、私の思考が停止した。
…………つま??
「……は、支倉さん、いきなり何を仰ってるんですか?」
まるで状況が理解できない私は、なんとか平静を装い支倉さんから視線を逸らした。しかし、包まれた手を通して伝わってくる支倉さんの熱に、変な汗が出てくる。
「ここで出会ったのも何かのご縁。私はこの出会いが意味の無いものとは思えない」
支倉さんが、じり、と私との距離を詰めてきた。
「すぐにどうこうとは言いません。ただ、私との未来を考えてみていただけませんか」
「そ、そんなこと急に言われても困ります! 大体、今日お会いしたばかりの方と、いきなり結婚なんて無理です!」
私の言葉に少し冷静さを取り戻したのか、支倉さんがふっ、と笑った。
「……そうですね。貴女が仰る通り、いきなり過ぎました」
そう言いながら彼は一歩後ろに退いた。私の手から掌を離し、代わりに紙袋の持ち手を掴む。
「すみません、驚かせてしまって。でも――」
紙袋を受け取る間際、彼の長い指が私の手の甲を、つ、と撫でた。
予期せぬ接触に、私の胸がドキンと跳ねる。
「先ほどの言葉に嘘はありません。お土産をありがとうございます。では、また」
きっぱりとそう言い放った彼の表情は、なんだかとても嬉々としたものに見えた。大袈裟かもしれないけど、まるで宣戦布告されているような気になる。
茫然と突っ立ったままの私をその場に残し、支倉さんの乗った車がコインパーキングから出ていく。私の横を通り過ぎる時、それはそれは綺麗な笑みを残して。
……いまのは、なに?
二 花乃、逃げる
「葛原さん、どうした?」
店長に声をかけられた私は、ハッとなって我に返る。
いけない、仕事中だった……!
老舗の洋食店、菫亭のランチタイム。いつもなら誰より忙しく動き回っている時間帯だというのに、私は空を見つめたままぼーっとしていたようだ。
「すみませんっ、何でもないです」
慌てる私を不思議そうに見ながら、店長は出来上がったオムライスをカウンターに置いた。
「珍しいねえ……葛原さんがぼーっとするなんて。何かあった?」
「い、いいえ! 何もないですよっ!? 行ってきます」
オムライスの皿を手に取り、私は笑顔を取り繕ってカウンターを離れた。
すみません店長。何もないどころか、大ありです!
そう、あれは一週間前の出来事。
なんと、会ったばかりの人に、いきなりプロポーズされたんです。あんなの、動揺しないほうがおかしいでしょう。しかも相手は美形のお坊さん……
もう、一体何に突っ込んでいいやら分からない。支倉さんと別れた後、魂が抜けたみたいに何も頭に入らず、そのまま一日を終えた。
それから数日は何事もなかったけれど、頭が冷静になってくると、徐々に疑問が浮かんでくる。
支倉さんは結婚に縁が無いと言っていたけれど、あれだけ格好よかったら、絶対に周りが放っておかない。きっとたくさんの縁談が来ているはずだ。
それなのに何故、会ったばかりの私にプロポーズ? それこそ、意味が分からない。
まるで狐にでも化かされた気分だ。
とはいえ、お盆が終わればお坊さんに会う機会など滅多にないし、会わなければ支倉さんだって私のことなど忘れるでしょう!
なーんて思っていた私に、今日母が、衝撃の事実を告げた。
『あ、花乃。来月お祖母ちゃんの三回忌だからね。お盆の時にちゃーんと支倉さんにお願いしておいたから。加藤さんの腰もその頃はおそらく大丈夫だろうけど、自分もお手伝いしますって言ってくれたわ』
その話を聞いた瞬間、ガツン、と頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
別れ際に、支倉さんが口にした言葉を思い出す。
――では、また、って……そういうことだったのか……!
一体どんな顔をして会えばいいのか考えると、私は途端に滅入ってくる。
つい、ため息をついてしまうと、店長が心配そうな顔で近づいてきた。
「本当に大丈夫かい? 具合が悪かったら奥で休んでれば?」
店長は五十代半ばの温厚な人だ。先代が始めたこの店の味を二十年近く守り続けている。
そんな店長と私は、学生時代のアルバイト以来、そろそろ十年の付き合いになる。
「だっ大丈夫ですよ! 先日ちょっといろいろあって、疲れただけなんで」
だめだ、こんなことで店長に心配をかけてはいけない。
「ならいいけど。看板娘の葛原さんが元気ないなんて知ったら、葛原さん目当ての常連さんがみんなすっ飛んで来ちゃうよ?」
「やだ、店長ったら。そんなわけないじゃないですかー」
「いや、気づいてないの葛原さんだけだから……」
店長が何故か苦笑してため息をつく。
まあ、目当てかどうかはさておき、確かによく話しかけてくれる常連さんは多い。だけど、そこから恋愛に発展するかというと……そんなことはなかったりする。
でも、今回のは今までと何か違う。
『妻に』なんて言われたのは、生まれて初めてだ。
もの凄い直球ストレート。それも豪速球だ。
そりゃ、凄くイケメンだったし、声も良くて、体型だってスラッとして背も高かった。そんな素敵な人に妻になってくれ、なんて言われたら決して嫌な気はしない。
かといって結婚するかと問われたら答えはノーだ。
相手がどんな人かも分からないし、まして会ったばかりなのに、結婚なんてできるわけがない。
それに……お坊さんでしょ。正直なところ、お寺や仏教やお坊さんについてなんてよく分からないし。イメージとして厳しい世界という印象もある。私には無理だよ、きっと……
「……うん。ちゃんとお断りしよう」
どうして支倉さんが私を気に入ってくれたか分からないけど、彼だって結婚するならしっかりと自分を理解してくれる人のほうがいいに決まってる。
「よし、仕事しよ……」
頬をぱちぱちと軽く叩き、気持ちを入れ替えた私は再び仕事に戻った。
そして迎えた、祖母の三回忌。
あんなに悩んでいたくせに、ここ一週間くらいはすっかり支倉さんのことを忘れていた。今日になってまた思い出し、にわかに緊張する。
会ったらちゃんと、お断りする――そう心に決めて、私は家族と一緒に家を出た。
うちの菩提寺であるこのお寺は、そこそこ歴史のある大きなお寺だ。大きな山門から覗く本堂は立派で、そこに安置されている御本尊は秘仏となっている。
今日は休日ということもあり参拝客もちらほら見えた。
喪服に身を包んだ私達は控え室に通され、法要の始まる時間までお茶を飲んだりして待つことになる。
「姉貴、なんかソワソワしてねえか?」
弟の佑が湯呑にお茶を注ぎながら、私に疑惑の視線を送る。ちなみにお茶はセルフサービスだ。
私は一瞬ビクッとするもなんとか平常心を装った。
「し、してないし。久しぶりのお寺だから緊張してるだけ」
佑はふーん、と言ってお茶菓子に手をつけるが、表情はまだ訝しげだ。
「何か朝から様子がおかしいんだよなぁ」
「気のせいよっ」
くっ、佑。何故こんな時ばっかり鋭いんだ……
「頭の後ろ、髪ほつれてるぞ。トイレで直してきたら」
お茶菓子の袋をビリビリと破きながら、佑が私の後頭部を指さした。
「えっ、ほんと?」
頭に手を持っていく。今日は背中のまん中まであるストレートの髪をハーフアップにしてきたのだが、いつの間にか乱れていたようだ。
法要が始まるまでもう少し時間がある。私は、髪を直すために一人で控え室を出てお手洗いに向かった。
応援ありがとうございます!
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