上 下
114 / 237
還元作戦/越神伴奏ベーゼンドルファー

形而上のパラノイア( Ⅰ )

しおりを挟む
『ハイパーゾーン、反転現象……止まりません』



 突如上空に現れた、球体状の雲の塊。『ハイパーゾーン』と呼称されたソレは、未だにその膨張が止まることを知らなかった。



 ハイパーゾーン出現後、28分経過———。



◆◇◆◇◆◇◆◇



『自分の存在が分からない』

 この空間はそう言う場所だった。自分の輪郭を見つめているようで、実際に見つめていたのは虚無だったりするからだ。

 そのうち自分自身が溶けていくのが分かった。自分の顔も、形も、心も。

 全てが海の中に落ちて、水の中で溶け出して混ざり合うような、そんな包容力のある感触を感じ続け、ソレに浸り続ける。

 音はずっと聞こえていた。いつまで経っても水の底にいるかのように鈍い音が聞こえるだけ。本当に僕は海の中にいるのだろうか。


 そうして。自分自身の姿形さえ忘れてきた頃。



「嫌い」

 久しぶりに、耳の奥まで突き抜けた音を聞いた。女の声だった。


「大っ嫌い」

 自分に向けられているのか。他人に向けられているのか。ソレを聞いているのは自分なのか、ソレを聞かされているのは自分だけなのか、そもそもここにいるのは自分だけなのか。

 それすらなにひとつ。何も分かりはしなかった。


『ほんっとうに。……ほんとにほんとに、大っ嫌い』


 僕に言われているのか。
 

『嫌いよ』
『受け止めてあげるから』
『よろしくね、██!』
『君のことが好き! 好きなのよ!』
『嫌い』
『嫌いよ』
『嫌い、嫌い、本当にどこまでも大っ嫌い!』

 僕に向けられた言葉なのか。
 コレが。この全てが。この混沌が?

『生きろ』
『生きて』
『お願いだから……生きて……!』
『この人殺しが』
『どう繕ったって無駄だぞ、人殺し』
『……すまん』

 誰に? どこで? いつ? 何があって、そんなこと言われたんだ?
 僕は今誰と話している?
 誰の前に僕は立っている?
 僕は誰だ?
 誰だ、誰だ、誰なんだ?

 教えてくれよ、教えてくれよ、赤子みたいな僕に教えてくれよ。

『親切心なのにね』

「もう来ないでくれ……僕のところに来ないでくれよ!」

 なんで拒絶するんだ?

『親切にしてやってるのにね』
「僕はそういうのいらないんだよ!」
『いるでしょ。だってそれがなきゃ、君はすぐに死んじゃうじゃない』
「いらないって言ってるだろ!」
『なんで拒絶するの?』
「…………」
『求めてるはずなのに、どうして私を拒絶するの?』

「…………………………」





「君は誰なんだよ。誰の話をしてるんだよ」
『』

 

「ここはどこなんだよ。なんでさっきから声が聞こえるんだよ」

『助けて』
『痛いよ、胸が痛くてとまらないんだ———!』

『死にたくないんだよぉお!』
『なんでお前なんかに!』
『一緒に求め合いましょう?』
『キモいんだよ』
『なんでそう思っちゃうかなぁ?!』



『ホントは助けて欲しいのにね』

「助けなんていらない。僕が助けにきたんだ」

『嘘言って。どうせ私に近づきたかっただけでしょ?』

「そんなわけない、僕は、君のことを想って」
『嘘ね。嘘、嘘よ。そうしてれば、私が惚れると思った? そんなに私が、都合の良さそうな女に見えた?』
「見えるわけないだろ、僕は君が欲しくて———」

『結局、自分勝手じゃん』

 頬に痛みを覚える。
 ビンタだ。

「何するんだよ……何するんだよっ!」
『助けにきたんじゃないの?』
「君を助けにきたんだ!」


『嘘じゃない。結局都合のいい現実を求めてるだけよ』
「そんなわけない、そんなわけないんだ、僕は君を救いたい、その一心でここまで」
『でもさ、君。自分の信じたことを、信じることができなかったじゃん』
「あの時はあの時だ!」
『そういう人間だったってことよ』



 そうなの?
 僕は、そういう人間なの?!
 そうなの?
 本当に、そうなのか?
 本当に本当に、僕はそういう奴なのか?

「自分も信じれない、クソ野郎……」
『そうよ。結局、そうなのよ』



「…………っ!」


 右手には、いつの間にかナイフが携えられていた。
 剣でも、杖でもない。
 僕にとって大事なはずだったあの2人両親を殺した、ナイフだ。




「なら、死んじゃえ」

 脆いモノだった。こんなにも、どこまでも脆いモノだった。

 すごく、あっさり。

「結局、力があったなら最初っからこうしてたのかもしれない」
『未熟な自分が気に入らないから?』

 既に彼女を突き刺したはずなのに、血を吹き出しながら彼女は話し続ける。
 


 うるさい。

「死んじゃえばいいんだ、何もかも。僕もみんなも、何もかも」
『逃げるの?』

 刺しながら。ぐしゃぐしゃに傷付けながら。

「愛していたんだ」
『嘘でしょ。自分の心にまで嘘ついてるのね』
「あいしていたんだってばあっ!」

 また突き刺す。愛を叫びながら、傷付けて傷つけて傷つける。

 愛してるから。

「死ね、死ねばいいんだ、僕の思い通りにならないなら、死ねばいいんだよ、君も、僕も!
 いらない、こんな僕なんていらない、何もいらない! 想いを貫くことも、決意を固めることもできない僕なんて、いらない、いりやしないんだよ!」

『なんで親切を、素直に受け取ることができないの』
「分かれば苦労しないだろう、僕にだって……分からないんだよぉっ!」
『現実から逃げるの?』
「逃げたいよ」
『逃げられると思ってる?』
「逃げるよ」
『無理だよ』


 もう一度、深く握りしめて。
 最後に、もう一度、突き刺した。
しおりを挟む

処理中です...