藤枝にて

宮浦透

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藤枝にて(完成版)

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 人生の「始まり」は知っていた。
 「始まり」があれば、「終わり」があることを。
 窓から見える風に憧れた私は、窓を貫き外へ出ることを恐れてしまっていた。外側にある広すぎる世界は私にとっては少し早く進みすぎる。そしてこの外界と一線を引いた列車はさらにその先を走っている。私は何より、空っぽだ。少しばかりの持ち物と言えば周りと噛み合わない感性という足枷だけで、他に目を当てればそこは地獄だった。
 遂に今日は人生の十八年二ヶ月と十五日を記念した。それだけ経ってもまだ私は風にはなれない。どんな形になれどこの醜さだけは残り続けるだろう。この身勝手な得も言われぬ汚さは、綺麗を追い求める自身にとっては払拭したい物になっていった。これから先も風は吹くのだろう。また風は私たち醜い塊の数歩先を走り続けている。そして列車はその風に並んでいる。まさに今という時間軸の中で風に並んでいられる電車という空間だけが、唯一の蜘蛛の糸になった。後何十年この足枷を握りしめて風を眺めるのだろう。暑い日差しでさえ身体を隠す私の長袖を否定した。全てを曝け出せば否定の意を浮かべることは目に見えている。そのくせ何もかもを秘密にはさせてくれなかった。
 そしてその醜さは私を藤枝へと連れ込んだ。西より三百三十キロの道のりは少し面倒なものだったが、必ず何かがそこにあると確信していた。藤枝には風に執着した自身に大きな起点を与えるものがあるはずで、なかでも私はその起点を蓮華寺池に求めていた。四百年余り前に造られたそこは可憐な蓮が咲き誇っているらしい。
 若さの象徴というものか、心に何も響かなくなることがある。以前何よりの満悦を引き起こしていた趣味ですらも、私は世界に置いてきぼりなことを知るともう足は出なかった。そしていつしか世界を置いてけぼりにし、尚且つ永久に存在する風に憧れを持つようになった。気付けばその風に追いつくために鉄の塊の中に身を頻繁に入れるようになった。この響かなくなった心とは裏腹に動き続けようとする身体もまた若さの象徴と言えるのだろう。どれほど遠くへ行っても、どれほど身近なものを見つめても、やはり風という絶対的執着を押し破れるものは現れなかった。
 傍観的に見れば綺麗に写る夕陽がまた長袖をグサリ、と刺しこんでくる。その夕陽から逃げ込むように宿へと足を進めた。
 宿はやけに涼しく、先程までの日差しとは似ても似つかぬ哀愁を漂わせている。気付けば足を踏み入れてきたはずの後面にはもう光はなく見たことないほどの薄暗い世界が広がっていた。そのまま部屋に案内され風呂を済ましお世辞にも広いとは言えない館内を心向くままに徘徊した。
 立てかけられる新聞、床に敷かれた畳、空間の雰囲気を作り出す土壁、そして何より壁に吊るされた電画に群がる大人数人、には混ざらず椅子に座り一人鉛筆を握る眼鏡の老人に私は釘付けになっていた。数分観察した後、調子、良いですか。と鉛筆の横に茶を差し出した。眼鏡を外して一度背もたれに身を任せ、そして体を起こし私に目を合わせ、まずまずだね、あなたは。と返した。一度合わせたはずの目線をすぐさま外し茶に口を運ぶ。電画に夢中の人間には興味もないようで、ましてそれだけでなく私にすらも興味はあまりないような様子だった。面倒そうにも私にも貴方と同じくらいの歳の孫が居てね、と他愛の無い会話を繰り返した。然し遂に、では、ここで。と荷物を纏めてその場を後にしてしまった。そしてその場に残ったものは明朗な彼方とは表裏を成すような薄暗い不安な空間だった。
 どうやら今夜は地雨らしい。何かを訴える雨、窓を蹴る風、私を照らす薄暗い光、全てが私に現実だと叫んでみせた。その場に居ることすらままらなくなった私はふと何かを思い出したかのように席を立ちそのまま部屋へ足をすすめた。あのお茶を出した時、眼鏡の老人の手元には原稿用紙があった。その数十枚と重ねられた用紙には題名と、奥底深い努力が滲み出す結晶が詰まっている気がした。
 ──そして私はその日から彼を先生と呼ぶことにした。
 宿に泊まっていた一週間のうちに私は先生に様々な知識を与えてもらった。連絡先は、と聞くと、私にそんなものはない。でもこれは。と住所を記したメモ書きを渡された。またある日には原稿を書いている横に座れば嫌な顔をされ、差し入れにメロンを持っていけば、私は遠慮しておくよ、と一切口をくけずその場に残した。そんな人間味溢れる先生だった。私が宿を出る数日前には先生は帰宅するようで、その頃にはもう原稿は完成した様子だった。
 とは言え、私も連日宿に居続けたわけではない。毎日昼間は外へ足を運び存分に藤枝を堪能した。蓮華池寺にも顔を出したが思い描いていたほどの驚きはなく、ただただ綺麗な世界が広がっていた。それだけだった。それなら私は、鉛筆を手にし、原稿と睨み合う先生の方が趣きがあるように感じた。
 先生が帰宅してからの夜はとても退屈なものへと変化した。地雨はただただ嫌で、蟲の声も段々と鬱陶しくなり、最終的には窓を全て閉鎖し、更には光すらも遮ってしまった。何か一つのものを押し付けてくる世界が、とてつもなく嫌になった。しかしそうかと思えば今度は藤枝の世界がとても感慨深く思えた。私は私に振り回されていた。
 全てを終わらせ気色の悪い鉄の塊に身を投じた私は風になりたいとは思えなかった。以前楽しかったこの空間は、私にとって退屈なものになってしまっていた。
 人生の「始まり」は知っていた。
 「始まり」があれば、「終わり」があることを。
 藤枝の一週間を終えた私にある日一通の手紙が寄せられた。この手紙は、先生のお孫様が白血病で倒れたと言うのである。来年の春まで生きる見込みはないそうで、少し寂しくなると記されていた。しかしそこには悲しみの一言もなく、俯瞰的な言葉が連なっていた。さいごの思い出を残せたらしく、悔いはないそう。だとか、兎に角幸せを押し付けるような言葉ばかりだった。きっと、先生は全てを知っている。その娘が誰よりも悔いを残して死んでいくこと。そして何より先生自身が一番悲しんでいること。あの面倒くさがりの眼鏡の老人がわざわざ鉛筆を握る時は、何かがある時だ。
 そして、また藤枝で機会があれば、と濁して結論が何も書かれないまま手紙は最後の文字を浮かばせた。出てくる葛藤と憤怒とを気持ち悪く混ざり合わせ嘔吐を促した。返書の意は無かったが何より礼儀を重んじる先生を前にそんなことはできず、結局は私も鉛筆を持つ羽目になった。しかし所詮私が吠えたところで画面越しに蔓延る言葉と何ら変わりない物になってしまう。捻れた思考を元に戻し結局はそこらに落ちる平坦な言葉を、左様ですか、それは誠に、と並べるだけになってしまった。…もし私と先生が血縁だと言うなら、また変わったかかもしれない。
 ──そしてその日から、本屋に先生の本が並んだ。
 それは手に取ろうしなくても感じ取れるほど異質なのだ。「囚われの生」と刻まれたそれは私をあまりの威圧感と険悪感で身体を蝕んでいくように地獄へと落とした。蜘蛛の糸すらないそこには凪が吹き一つだけハッキリとした地獄という世界が私に痛みを押し付けた。
 呼吸すら困難になりそうなその世界には、先生がただ一人鉛筆を動かしていた。きっと先生はこの世界に生きていた。私が見ていた眼鏡の老人はこの世界に馴染んだかのように化けた怪物だった。何一つ表情を変化させずただ鉛筆を動かすその怪物は私が近づくことを拒んだ。
 しかし憧れたものに拒まれたからと素直に引き下がる私ではなかった。広すぎる世界は、この地獄よりもより一層地獄を作り上げていた。俗世を離れ自由な生を送る眼鏡の老人、私の目に映った憧れの先生、誰よりも不自由な空間に住み着く怪物、その一人に風より強いものを感じた。きっと誰よりも自由な人間は誰よりも不自由になる。きっと一つに囚われ、執着する人間はそこから風が吹くことはない。だから私はその怪物を踏み倒すことにした。
 現実に戻った私は鉛筆を握り、私だけの地獄に落ちた。そこには凪が吹く。
 私の目標はあの怪物である。
 それまでは彼には会わないこととしよう。
 ここは恐らく私にとって楽園だ。
 私は鉛筆を手に取った。
 そして、地獄に閉じこもった。
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