藤枝にて

宮浦透

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3話 手紙と終点

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 先生が帰宅してからの夜はとても退屈なものへと変化した。地雨はただただ嫌で、蟲の声も段々と鬱陶しくなり、最終的には窓を全て閉鎖し、更には光すらも遮ってしまった。何か一つのものを押し付けてくる世界が、とてつもなく嫌になった。しかしそうかと思えば今度は藤枝の世界がとても感慨深く思えた。私は私に振り回されていた。
 全てを終わらせ気色の悪い鉄の塊に身を投じた私は風になりたいとは思えなかった。以前楽しかったこの空間は、私にとって退屈なものになってしまっていた。
 藤枝の一週間を終えた私にある日一通の手紙が寄せられた。この手紙は、先生のお孫様が白血病で倒れたと言うのである。来年の春まで生きる見込みはないそうで、少し寂しくなると記されていた。しかしそこには悲しみの一言もなく、俯瞰的な言葉が連なっていた。さいごの思い出を残せたらしく、悔いはないそう。だとか、兎に角幸せを押し付けるような言葉ばかりだった。きっと、先生は全てを知っている。その娘が誰よりも悔いを残して死んでいくこと。そして何より先生自身が一番悲しんでいること。あの面倒くさがりの眼鏡の老人がわざわざ鉛筆を握る時は、何かがある時だ。
 そして、また藤枝で機会があれば、と濁して結論が何も書かれないまま手紙は最後の文字を浮かばせた。出てくる葛藤と憤怒とを気持ち悪く混ざり合わせ嘔吐を促した。返書の意は無かったが何より礼儀を重んじる先生を前にそんなことはできず、結局は私も鉛筆を持つ羽目になった。しかし所詮私が吠えたところで画面越しに蔓延る言葉と何ら変わりない物になってしまう。捻れた思考を元に戻し結局はそこらに落ちる平坦な言葉を、左様ですか、それは誠に、と並べるだけになってしまった。…もし私と先生が血縁だと言うなら、また変わったかかもしれない。
 ──そしてその日から本屋に先生の本が並んでいた。
 それは手に取ろうしなくても感じ取れるほど異質だ。「囚われの生」と刻まれたそれは私をあまりの威圧感と険悪感で身体を蝕んでいくように地獄へと落とした。蜘蛛の糸すらないそこには凪が吹き一つだけハッキリとした地獄という世界が私に痛みを押し付けた。呼吸すら困難になりそうなそこには先生がただ一人、鉛筆を動かしていた。きっと先生はこの世界に生きていた。私が見ていた眼鏡の老人はこの世界に馴染んだかのように化けた怪物だった。何一つ表情を変化させずただ鉛筆を動かすその怪物は私が近づくことを拒んだ。
 しかし憧れたものに拒まれたからと言って引き下がる私ではなかった。広すぎる世界は、この地獄よりもより一層地獄を作り上げていた。俗世を離れ自由な生を送る眼鏡の老人、私の目に映った憧れの先生、誰よりも不自由な空間に住み着く怪物、その一人に風より強いものを感じた。きっと誰よりも自由な人間は誰よりも不自由になる。きっと一つに囚われ、執着する人間はそこから風が吹くことはない。だから私はその怪物を踏み倒すことにした。
 現実に戻った私は鉛筆を握り、私だけの地獄に落ちた。そこに風はない。だがその地獄に執着出来る私という怪物を見つけた。
 私の目標はあの怪物である。
 それまでは彼には会わないこととしよう。
 ここは恐らく私にとって楽園だ。
 私は鉛筆を手に取った。
 そして、地獄に閉じこもった。
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