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第一部「妖艶の宴」第1話
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大丈夫だよ
もう少しだからね
もう少しで外に出られるの
だからもう少し我慢しようね
もう少しだけ
もう少しだけ
☆
大正元年。
その地方の一番の地主、田上家。
五代目当主、田上華平太────齢は五三。
先代が明治初期にアヘンの密売で財を倍増させたことで、田上家の地位はその地で揺るがないものとなった。明治初期にはすでにアヘンは法的に禁止されていたが、いわゆる裏の世界でのし上がったのが田上家だった。そのため裏の世界での力も強く、地元の警察権力でも手出しの出来ない地位を確立していた。
それは身内が犯罪を犯しても揉み消せる程のものだった。
そして田上華平太の唯一の子供である重蔵が、総ての事の発端となる事件を起こす。
当時二九才だった重蔵は、当主の華平太から幾度となくお見合いを勧められていたにも関わらず、遊び三昧の日々を過ごしていた。周りから重蔵が道楽息子と揶揄されていたことに業を煮やした華平太は重蔵を追い詰めた。
「今夜は珍しいな。こんな早い時間にお前が家にいるとは…………」
いつもの華平太の重い声が、田上家の夕食時の空気を震わせた。
御猪口で清酒を口に運びながらの華平太の言葉が続く。
「丁度いい機会だ…………いい加減お前にも田上家の六代目としての責任を意識してもらわねばならん。所帯を持て。相手ならいくらでも探してやる。お前が出入りしているような店では、まともな相手が見付かるとも思えん。しかもお前は俺の一人息子だ…………」
畳み掛けられる華平太の言葉を、やがて重蔵が遮る。
「俺に兄弟がいないのは父親のあんたのせいだろ? あんたが女遊びに忙しかったからなんだろ?」
重蔵の隣で、華平太の妻────重蔵の母であるヨシが御膳に箸を置いた。
その音に、空気が張り詰める。
重蔵が言葉を続けた。
「街では有名な話だ。妾を取らなかったのは外に女がいたからなんだろ? お袋だって知ってることじゃねえか」
口元に笑みを浮かべた重蔵がヨシに顔を向ける。
ヨシは顔色も変えずに湯呑み茶碗を持ち上げるだけ。
「どうせお袋は最初から愛情なんてなかっただろうけど」
「お前は……」
重蔵の言葉を遮った華平太が続けた。
「女というより遊女にうつつを抜かしていると聞くぞ…………下世話な女と交わりおって……」
「あんたに言われたくないよ」
そう返した重蔵が華平太に鋭い目を向けると、華平太から返されたのは蔑んだような目。
そして重い声。
「自分で嫁を見つけられないなら強引にでも話を進める」
それからおよそ一週間後。
まだ日中から重蔵は遊郭街にいた。
しかしこの日は、田上家の使用人を二人従えていた。
視線の先にはある店は、この街の遊郭街では高級なほうだ。
そしてその店には、重蔵が惚れていた遊女────ウタがいた。
もちろんお気に入りの遊女は何人もいた。しかしウタは遊女の間でも噂になるくらいの美人。重蔵も誰が一番かと聞かれたら間違いなくウタを上げた。
華平太に焚き付けられたのもあったが、重蔵は常々ウタを自分だけのものにしたいという思いを持っていた。
店を張っていた使用人の情報で、ウタが週に二度ほど病院に通っていることが分かる。
重蔵はそのタイミングしかないと考えた。
いつも迎えに来る車。
運転手は一人。
付き添いは誰もいない。
その日、いつものように店の裏手に停まった車にウタが乗り込もうとした時。
ウタは車の後部座席に強引に押し込まれた。
声を上げる暇もない。
ドアの側に立っていた運転手が、男と揉み合う。
やがて怒号が飛び交った。
まだ昼を過ぎたばかり。
周囲が騒つくのが、口を塞がれて目を震わせるウタにも分かった。
やがて男が運転席に乗り込み、ウタを体全体で押さえ付ける重蔵が叫ぶ。
「────出せっ‼︎」
その目には、震えと迷いがあった。
重蔵は田上家の裏山の別邸にウタを隔離した。
そのまま重蔵は、使用人に車を遠くに乗り捨ててくるように指示する。
その裏山は田上家の敷地の一部。林に囲まれた別邸の蔵の中で、ウタの手足を縛って逃げられなくし、見張りに使用人を一人つける。
女を見付けたと言う重蔵を、華平太が許すわけはない。
「馬鹿者が‼︎ 街は誘拐騒ぎだ‼︎ お前が置き去りにした使用人が逮捕されないとなぜ思った‼︎」
重蔵が何も言い返せないまま、その日の夜の内に華平太自らが動いた。
警察の上層部に賄賂を送り、重蔵の罪を揉み消した。もちろん人々の間では噂は広がっていくが、華平太は新聞社にまで賄賂を送り、地元の暴力団を使って世間を黙らせた。
ウタのいた店にもかなりの額を積んだと噂が広がる。
そしてそれは、嘘ではなかった。
そんな華平太の苦労も知らず、重蔵は一日の大半をウタのいる蔵で過ごすようになる。
それから、華平太は重蔵の顔を見る度に叱責した。
重蔵は後先を考えてはいない。
その時の欲望だけ。
いつの間にか、重蔵は華平太から受けた鬱憤をウタの体にぶつけていた。
使用人に食べ物や下の世話をさせ、体を洗わせ、一日に何度も重蔵はウタの体を弄んだ。
ウタの目は、日に日に生気を失っていく。
月日が流れ、半年。
ウタが妊娠していることに重蔵は気付いた。
まるで廃人のようになっているウタを本邸に入れるか、重蔵は初めて迷う。子供が出来たからと言って華平太が許してくれるとは思えなかった。
「貴様はあの女をどうするつもりなんだ!」
毎日のように浴びせかけられる華平太のそんな言葉に、重蔵も追い詰められていく。
華平太も解決策を見付けられないままに重蔵に感情をぶつけるだけ。
その日の夜も、重蔵は華平太に叱責されて蔵に向かった。いつものように怒りをウタにぶつけようとしていた。例え間違っていたとしても、その毎日が重蔵の生きる糧となっていた。
いつも蔵の前にいるはずの使用人がいない。
重蔵は自分で蔵の扉を開けると、そこには、ウタに覆い被さる使用人の姿。
そして、重蔵は我を失った。
力の限り使用人を殴りつけ、周囲の〝何か〟を持ち、それを振り下ろしていた。
やがて、使用人はその体の原型が崩れるほどにボロボロになって息絶えていた。
だらしなく体を開いたままの隣のウタの目には表情が無い。
まるで生きているとは思えなかった。
「………………売女が…………」
重蔵はウタの体を殴り、蹴った。
すでにボロボロとなっていたウタの体は脆い。
ウタの血が溢れ出し、弾けた歯が床で音を立てた。
重蔵はウタの腹部にめり込んだ自分のつま先を見ると、さらに気持ちの中で何かが弾ける。
ウタの冷たい肌とは違い、なぜかその血と内臓は温かい。
「────重蔵様⁉︎」
恐れ慄いて座り込んだ女中の声に、台所に入ってきたヨシも眉を細めた。
台所の裏口に立ち尽くす重蔵の着物は血だらけ。
呆然とするその重蔵の表情に、すでに生気は無かった。
〝蔵で何かがあった〟とヨシはすぐに判断する。
「二人……重蔵さんを動けないように押さえつけていなさい」
そして別の使用人一人を従えて蔵へ向かった。
ヨシはウタと使用人の遺体を別邸の裏に埋めることを数人の使用人に指示する。
その日の内に、話はヨシから華平太へ。
まるで、華平太はヨシに借りを作ったように感じた。
華平太は、初めて冷静なままのヨシの表情に恐怖を覚える。
翌日、華平太から家中に箝口令が出された。
重蔵が殺した使用人の家には華平太自ら「行方不明になった」旨の手紙を出す。
華平太は重蔵を叱責しなかった。
しかしそれ以来、重蔵は華平太に逆らうことが出来なくなっていった。
二年後。
大正三年。
田上重蔵────三一才。
華平太が見付けてきた資産家の娘と結婚する。
☆
一週間の外泊が終わり。
萌江は日曜日に咲恵の運転で山の中の自宅へ。
その道中での咲恵の話に萌江は食いついていた。
「つまり、お金持ちってこと?」
家に着くなり冷凍していたカレーを鍋で温めながら、萌江が話の続きを引き出す。
咲恵はコーヒーメーカーのスイッチを入れながら応えていた。
「うん。それは間違いないみたい。地主って言うの? そんな家だと思うよ」
咲恵も久しぶりに大きな話を持って来れたからか、声が明るい。
「よくそんな所から仕事取ってきたねえ。さすがみっちゃん」
そう返す萌江も表情がいつもより明るい。その萌江の目の前の鍋から香辛料の香りが広がり出した。
〝みっちゃん〟とは二人に裏の仕事を斡旋してくれている人物。その人物から咲恵が相談されたことが総ての始まりでもあった。そしていつもはその〝みっちゃん〟から仕事がくる。萌江は当然今回もそうだろうと何の迷いもなく思った。
しかし咲恵は、香辛料の香りを気持ちで追いながら返す。
「今回は違うの。ヨウちゃん」
「ヨウちゃん?」
「波蔵酒店のヨウちゃん。覚えてる?」
「……ああ……いたね。ヨウちゃん。まだ働いてたんだ」
「何言ってるのよ。あれでも今じゃ酒屋の専務なんだよ」
地元では老舗の古い酒屋だった。決して大きな会社ではなかったが、地元の飲食店では知らない店はない。ヨウちゃんと二人が呼ぶのは現社長の息子。当然働いて長い。配達もしていたために酒屋の顔となっていた。
もちろん萌江も知っていた。咲恵と出会ったバーで働いていた時に週に一度は顔を見ている。
「社長入れて従業員が五人くらいだっけ?」
「小さいけど老舗の酒屋なんだよ…………で、そのヨウちゃんが配達の時に相談してきてね」
「あれ? 彼って私たちのこと…………」
今回はいつもの〝元締め〟を経由しない初めての仕事。
それを自ら持ってきた咲恵が応える。
「まさか。困り果てて誰か相談に乗れる人知らないかって聞かれたの。なんでもお馴染みさんのお屋敷らしいんだけどね…………」
「いい感じの響きだねえ。老舗の酒屋のお馴染みさんのお屋敷…………あ、帰ってきたばっかりでお米無いからパンね」
萌江が冷蔵庫からロールパンの袋を出して電子レンジに放り込んだ。
咲恵も同じ冷蔵庫からザルに入ったままのサラダを取り出して皿に盛り付けていく。
そして返した。
「でしょ? そのお屋敷の奥さんから相談されたんだって…………誰かお祓いみたいなこと出来る人を知らないかって」
「そんな大きなお屋敷なら、神社とかお寺とか行けばいいのに」
萌江はそう言いながら深めのスープ皿にカレーを注ぐ。
咲恵はテーブルにサラダの皿を移動しながら。
「……つまりさ……何か…………訳ありってことなんじゃない?」
カレーと共に二人がテーブルにつくと、咲恵がコーヒーをマグカップへ。
「いい感じの響きだねえ……訳あり」
そう言った萌江は、目の前のサラダにたっぷりとオリジナルのドレッシングをかけた。
それを見ながら咲恵が返す。
「でしょ? ドレッシングはかけ過ぎだけど」
「オリーブオイルは大丈夫だよ」
「ポン酢も塩も胡椒も入ってるでしょ。もう若くないんだから塩分は控えないと」
「へいへい」
適当にそう応えながら、萌江は水菜と玉ねぎのサラダを頬張る。
そして続けた。
「その塩分の話って結構怪しい情報みたいだけどね」
「どんなものも取り過ぎていいってことはないでしょ?」
「この水菜を来年はレタスにするぞ」
──……これを可愛いと思っちゃう私も悪いんだよねえ…………
そんなことを思いながら、咲恵が話を戻した。
「その奥さん曰く、この家は呪われている…………ということらしいの。ヨウちゃんはその家のことは地主ってことしか知らなかったらしいんだけど、酒屋の社長────ヨウちゃんのお父さんね────に聞いてみたら〝あまりあの屋敷には関わらないほうがいい〟と先代から聞かされていた、ということみたい。気になるでしょ?」
「いい感じの響きだねえ」
「でしょ? じゃ、来週の日曜日に迎えに来るので今日は私は帰ります」
そう言ってロールパンを千切る咲恵に萌江が声を上げる。
「なんで⁉︎ 泊まって行かんのかい⁉︎」
「昨日まで一週間も私の部屋に泊まり込んだでしょ。おかげで由紀ちゃんは元気になったけど…………萌江を泊めると私の体力が持たなくて…………」
「喜んでたくせに…………」
そう言いながらニヤニヤとした笑みを浮かべる萌江に、咲恵が返す。
「毎日…………しなくてもよかったでしょ」
「最終日は咲恵から────」
「分かった────分かった────分かったから、泊まるから来週はそのお屋敷に話を聞きに行くってことでいいわね」
「仕方ないなあ咲恵は…………泊めてあげるからゆっくりしていきな」
すると溜息を吐きながら咲恵がパンをカレーに浸す。
「久しぶりに稼げそうだから、カレーお代わりしよっかな」
萌江がそう言って台所に移動すると、再び咲恵は溜息を吐いていた。
──……手に負える仕事ならいいけど…………
萌江は99.9%幽霊や心霊現象を信じていない。それには萌江なりの考えや根拠がある。元々の幼い頃からの霊感体質を経て辿り着いた思考。
もちろん咲恵もその萌江の考えに感化され、受け入れられたからこそ興味を抱き、そして付き合いを続けてきた。
それでも咲恵の中では90%。咲恵自身はそのくらいに思っていた。意見に相違があるわけではない。
しかし、世の中には事実として不可解なことは存在する。それを心霊現象で片付けてしまうことは簡単だ。そして萌江がそれを嫌うことも知っている。その通りだと咲恵も思う。だからこそ萌江が知識を蓄えて、自分で勉強していたことも知っていた。
それでも咲恵は怖かった。いつか0.1%の〝何か〟に出会ってしまったら、萌江はどうなってしまうのか。
それだけが、咲恵には怖かった。
☆
一週間後の日曜日。
一四時。
待ち合わせ場所は市街地からは離れた静かな駅だった。
周囲には大きな建物は無い。
隣に駐車場の広いスーパーマーケットと、そこを囲むような簡素な住宅街。
雨が降るほどではないように感じられたが、曇り空のせいもあるのか風が冷たく感じられた。
「よくある田舎街だね」
冷たい風に肩をすくめながら、そう言った萌江が続ける。
「大してこの近辺に人口が集中してるわけでもないのに、駅だけこんな立派な物建てちゃって…………利用者が少ないからタクシー乗り場にタクシーが一台もいないし……私たち以外に誰もこの駅で降りなかったし…………」
小さく溜息を吐いた咲恵も素っ気なく返した。
「……確かに…………よくあるね」
「今時さあ、駅だけ立派にしたって都市開発なんか進まないんだからさ。いつの時代の考え方か知らないけどもっと税金の使い道を考えて欲しいわね」
「でも鉄道は民営でしょ?」
「今でも税金は投入されてるよ。民営化なんて眉唾」
「所得税も払ってないくせに」
すると途端に萌江が声のトーンを上げる。
「あ────あれが迎えの車かなあ?」
駅前のタクシー乗り場で二人に近付いたのはレトロな黒塗りの車だった。不思議とそれだけで高級車であることが分かる。
すると急に声のトーンを落とした萌江が呟くように口を開いていた。
「嘘でしょ…………シルヴァークラウドじゃん…………ロールスロイスだ」
「は⁉︎ 外車⁉︎」
おかしなくらいに高い声を上げた咲恵は車の知識をほとんど持っていない。そもそも興味がない。自分の車にしても、中古車屋で値段とデザインだけで選んでいる。
それに対して萌江は車に詳しい。しかもレトロな名車と言われる部類にうるさかった。
目の前に停まったその名車に、当然のように萌江は目を配り始める。
「使い込んでるけど凄い…………ピカピカだ…………」
右ハンドルの運転席から黒いスーツの男性運転手が降りてくる。五〇才まではいかないくらいだろうか。印象のいい立ち振る舞いだ。車の前から回り、二人の前で軽く頭を下げる。
「黒井様と恵元様ですね。お待たせ致しました」
そのまま後部座席のドアを開ける。
「はい…………どうも」
咲恵が応えながら辿々しく乗り込む。シートの感触が自分の車と違うことに驚くも、懸命に冷静を保っていた。
続けて乗り込む萌江は満面の笑み。シート、天井等、周囲の装飾に目を配らせる。
運転手が閉めたドアの音にまで品を感じる。そのまま運転手が車の後ろを回り始めると先に口を開いたのは咲恵だった。
「外車って左ハンドルじゃないの?」
目の前のハンドルは日本と同じ右ハンドル。
すぐに萌江が返した。
「オリジナルの右ハンドルだよ」
「オリジナル?」
「ロールスロイスはイギリスの会社。イギリスは日本と同じ右ハンドル。もちろん左ハンドルの国向けに作られた左ハンドル仕様が日本に来れば左ハンドルに────」
「よく分からないけど分かった」
「絶対分かってないでしょ。これから咲恵も外車を買うかもしれないし…………左ハンドルの国の車でもイギリス経由でイギリス仕様のやつなら右ハンドルで────」
「買わない買わない絶対買わない」
運転手が乗り込み、エンジンを掛けた。ルームミラーに目を配りながら柔らかい口調が届く。
「ここから一時間程かかりますが、もし途中でお寄りになりたいところが御座いましたら、いつでもお申し付け下さい」
それに、咲恵が小さく応える。
「…………はい」
──……この車でコンビニは無理だなあ…………
どこにも寄らずにまっすぐ向かった所は、だいぶ人里から離れた山沿い。
それでも街を見下ろせる小高い所に、その屋敷はあった。
周囲に民家が無いわけではなかったが、点々とあるその建物は草木に覆われて明らかに廃墟。
道路沿いから見えるのは高い塀だけ。
不必要なくらいに高いその塀は、木製のだいぶ古い物だ。まばらな色の変化に時間を感じさせる。そのせいで中は見えない。
その塀の切れ間に車が入ると、すぐに背の高い門が現れる。
すると両開きのその門が開いた。使用人と見られる男たちが重そうな門を動かしていた。
車の中から呆然としながらその光景を見ていた萌江と咲恵の目の前に現れたのは、巨大な豪邸。古くもしっかりと管理された印象までが威圧感を感じさせる。
すると萌江が小さく呟いた。
「同じ古い日本家屋でも…………我が家とは違うねえ」
車が停まり、運転手が後部座席のドアを開ける。
車を降りた二人は更に興奮した。豪邸の玄関まで続く石畳と、その周囲の砂利までが美しい。
「我が家の庭もこのくらいに────」
その萌江の呟きに、咲恵が鋭く返した。
「いや…………おかしいから」
萌江の家くらいの広さの玄関を抜け、萌江の家の寝室くらいの幅の通路を歩いて通された綺麗な和室は、明らかに咲恵の経営するバーが三つは入る。日頃何に使われている部屋なのか想像も出来ない広さ。
部屋に取り残された二人は、自然と正座になる。座布団の厚みですら高級感を感じさせた。
すると咲恵が小さく呟いた。
「足が痺れる前に来てくれるかな…………」
「んー…………」
萌江はそれだけ返すと、首の後ろに両手を回す。ネックレスを外すと、左手の中指に巻き付け、ぶら下がった水晶を左手で握った。
そして急に正座を崩して胡座をかく。
それを見た咲恵が思わず声を上げた。
「ちょっと────」
その咲恵に対して、萌江は冷静に返した。
「…………何か、変だね」
「…………え?」
──……しまった…………スカートにしなきゃよかった…………
咲恵がそう思った時、背後の襖が開く音がした。
すぐに振り返る咲恵に対して、萌江は振り返らない。
そして、落ち着きのある女性の声。
「大変お待たせしてしまって…………」
二人の前に回った女性の年の頃は四〇代半ばといったところだろうか。派手過ぎない品のある黒い和服に身を包んだその女性は静かに二人から距離を置き、前に膝を降ろす。
そして、深々と頭を下げた。
「田上家当主……田上浩一の妻……裕子と申します。この度はこんな遠くまで御足労頂きましてありがとう御座います」
裕子は頭を上げると、続けた。
その目の鋭さが、咲恵には気になった。
「大したおもてなしも出来ませんが…………」
「いや」
遮るように口を開いたのは萌江だった。
その萌江が続ける。
「違うよね。話の本筋を知ってるのはあなたじゃない」
──……もう何か……見えてる…………?
そう咲恵が思った直後、意外にも裕子の声はすぐ。
「これはこれは…………」
視線を落とした裕子は、僅かではあるが明らかに困惑の表情を浮かべていた。
萌江はその裕子から視線を外さない。
相手に関わらず、萌江はこの仕事に於いては堅苦しい言葉を嫌う。相手によっては敬語を選ぶが、これまでもこのパターンのほうが多い。かつて、接客業の世界で働いていた人間としては珍しいかもしれない。そのくらい萌江にとっては明確な違いがあるのだろう。また、そこを完全に切り分けたいという感情もあった。
すると、裕子の背後の襖から声がする。
「…………裕子さん」
ハッとして目を見開いた裕子が、静かに目を閉じた。
背後の声が続く。
「そちらのお嬢さんは…………もうお分かりみたいですよ…………」
明らかな老婆の声。
すると裕子は腰を軽く上げ、膝を曲げたまま背後の襖の前へ。そのまま腰を落とすと、両手の先を襖に添えた。そしてその襖を静かに開く。反対側に回ると、残りの襖を開いた。
そこには同じくらいの和室。
その中央に、やけに分厚い紫色の座布団に身を沈めた老婆の笑顔があった。
だいぶ背中が曲がっているのか、顔の位置は低い。真っ白な髪を後ろで束ねているようだった。しかしその白髪は不釣り合いなくらいにまっすぐ整えられている。
そして顔と手の皺から、かなりの高齢に見えた。
しかし着物はその年に似合わず派手だった。薄いピンクを基調としながらも、所々に緑や黄色。帯は合わせたのか、落ち着きながらも主張の激しい赤。
襖の脇にいた裕子が口を開く。
「当主、田上浩一のお母上様です」
そして、先程から聞こえていた老婆の声が、空気を震わす。
「……イト……と、申します」
僅かに頭を下げ、そして頭を上げると、そこには老婆とは思えないような、妖艶な瞳があった。
「……決して…………楽しいお話ではありませんよ…………でも…………聞いてもらいましょうかね…………」
そして、咲恵の背中に悪寒が走った。
イトの口角が、少しだけ上がる。
☆
聞かされた田上家の歴史は、想像を絶するものだった。
正直、咲恵は自分が冷静でいるのか自信がなかった。イトの話に合わせて、まるで自分がその光景を見ているかのような感覚に襲われていた。
いや、咲恵には見えていた。
こんな時、咲恵は自分の能力を恨む。
本来なら自分が知ることのない他人の過去。自分が見ることなどなかった他人の歴史。
しかもそれは、見たくないもののほうが多い。
なぜだろうかと咲恵も不思議に思う。
──……どうして…………人の歴史は重いんだろう…………
いつの間にか体が小刻みに震える。
田上家の歴史もやはり重かった。
それはあまりにも残酷な光景。
すると、強く握られた膝の上の両手に、萌江の手が被さった。水晶を持った左手。
熱かった。
その熱が全身に伝わる。
──……大丈夫……大丈夫…………
少しずつ咲恵の気持ちが落ち着いていった。
──……さすが……萌江…………
咲恵は萌江に顔を向ける。
萌江の目は怒りに震えていた。
──……萌江にも……同じ光景が見えてるの…………?
そして、イトの話が続く。
「結婚から二年ぐらいと聞いていましたが、長女が産まれたそうで御座います…………しかし二才で病死……詳しい病名等は分かりませんで…………どちらが先だったか、同じ頃に長男が産まれ…………その多一郎が七代目当主になり……私が嫁いで参りました。多一郎が産まれた数年後に次女も生まれたそうですが…………やはり二才で…………」
「……それが、呪い…………?」
口を挟んだのは萌江だった。懸命に冷静を装っているのが咲恵にも分かる。
すぐにイトが返していく。
「それも…………ありますな………………裕子さん────」
「はい」
少し驚いたように裕子が返した。
しかしイトは視線を萌江に向けたまま、続ける。
「なかなか、面白い方々を紹介して頂けましたね…………浩一さんの所にお連れを…………」
「──お母様…………それは…………」
応えた裕子の目が泳ぐのを、萌江も咲恵も見逃さなかった。
しかしイトの声は落ち着いたまま。
「見て頂かなくては…………解決はいたしませんよ…………この方々には、もしかしたら…………もう……見えているのかも…………」
「どこにあるの?」
萌江が質問をぶつける。
「当主の浩一さんって人、そこにいるんでしょ? その〝蔵〟まで連れてって」
その声に、イトの口元に笑みが浮かんだ。
そしてその口が開く。
「さすがに私はこの歳故……案内は致しかねますが…………裕子さん、お願いしますよ」
裕子は何も返さず、少し間を空けてから立ち上がる。
その視線は、ただ足元を見つめていた。
☆
場所は本邸の裏山。
そこに別邸があるという。
家の敷地を囲む塀の数カ所に門があり、その一つが裏山に通じているとのことだった。
黒いスーツの使用人を二人先頭に、裕子、そして萌江と咲恵が続いてその門を出た。門が開くと、そこからまっすぐ山へ小道が続いていた。周囲は雑草が多い。塀の中とはだいぶ雰囲気が違う。それよりも、目の前の真っ赤な鳥居に萌江と咲恵は驚いていた。太い木を使ったかなり大きな物だ。
──……神社でもないのにどうして?
咲恵がそう思った時、隣から萌江の声。
「ご大層だこと」
萌江は軽く呟く。
萌江は神社や寺院が嫌いだった。古くからの信仰というものを否定しているわけではないし、その歴史も知っていた。しかし萌江に言わせれば、そのどちらも人間程度が作り上げた宗教というものの産物に過ぎない。
萌江が好きなものを敢えて宗教と呼ぶなら、それは八百万の神と呼ばれる土着信仰だけだ。それは歴史の権力者が利用してきた一神教とは対極に位置している。しかもそれがあるのは日本だけではない。
門をくぐった直後、萌江は足を止めて声を上げた。
「ねえ、ここに盛り塩置いてるのは誰?」
門の外側の両脇に小さな皿とその上には綺麗に三角に盛られた塩。
振り返った裕子がすぐに応えた。
「私が指示を出して使用人に────」
「何のため?」
「……それは…………」
「意味が無いから必要ないよ。盛り塩で除霊は出来ないから。呪いにも効果は無いしね」
「……そう…………でしたか…………」
「さ、案内して」
鳥居を潜り、細い道を登っていく。山といってもそれほど大きな物ではなかった。その代わりに横に広いのか、鬱蒼とした林の木々はどれも高い。ただでさえ季節的に薄暗くなる時間、その道は周囲の木々のせいで、更に暗さを増長させていた。
それでも歩いて一〇分程だろうか。聞いていた別邸が姿を現した。
本邸程ではないが、決して小さくはない二階建て。違いはあまり整備されているようには見えないことだ。庭と思われる部分には雑草も多く。あまり頻繁に人の手が入っているようには思えない。
何より不自然なのは、なぜこんな場所に別邸があるのか、ということだろう。まるで隠されてでもいるかのように、ひっそりと存在しているとしか思えない場所だ。
隠す理由があると考えるほうが自然なその光景に、萌江と咲恵は違和感しかなかった。
二人の使用人と裕子は家には入らず、雑草だらけの脇から裏に回った。裕子は着物に小さな枝が触れても気にしている様子はない。
萌江と咲恵も後ろを着いて裏に移動した。そこにあったのは、二人が頭の中の映像で見ていた大きな蔵。壁に入った無数のヒビが古さを物語る。素人目にも修繕の跡は見られない。
裕子はその扉の前に立つと使用人に開けさせた。だいぶ重そうな両開きの扉が開く。黒い内扉が横にスライドするが、そこに見えるのは闇だけ。
裕子が背後の萌江と咲恵に振り返って口を開いた。
「……田上家当主…………浩一です」
そして薄らと浮かび上がった影。
蔵の中央、両腕を上げたまま立っている浴衣のような薄手の和服を着た人影がある。
上から両手を広げて吊るされ、頭は項垂れて、顔は見えない。
「座らせると……頭を膝にぶつけて自殺をしようとするので…………こうして立たせたままにしております…………」
震える裕子の言葉に続いて、蔵の中から、ゆっくりと異様な匂いが漂う。
裕子が着物の袖で口と鼻を押さえて続けた。
「若い女性にお見せするものでは御座いませんね…………少し離れましょう」
裕子は二人を促して少しだけ蔵から離れると、使用人に指示を出した。
「すいません……綺麗にしてください…………」
使用人はすぐ近くの井戸から水を汲み始める。その井戸も周囲を雑草に囲まれ、決して管理された印象には見えなかった。水が枯れていないとは言っても、綺麗な水とはとても思えない。
裕子の話が続く。
「私たちにも娘がおりました…………しかし呪いのせいで二才で亡くなり…………それ以来、浩一は気がおかしくなりまして…………訳の分からないことを言い始めたかと思うと、手当たり次第に暴力を振るう始末で…………」
「病院には行ったんですか?」
その咲恵の質問に、裕子は言いずらそうに返した。
再び目が泳ぐ。
「いえ…………その…………お母様が…………呪いは病院に行っても無駄だからと…………」
「食事は…………」
「はい……食事の時だけは猿ぐつわも外して────」
「猿ぐつわ⁉︎」
「舌を噛もうとするんです! ────私たちにもどうしたらいいのか…………」
裕子の声がか細くなったかと思うと、膝を落とし、咲恵の服の袖にその細い指をかけて続ける。
「……どうか…………どうか主人を…………! お願いします……私たちにはもう…………」
裕子は、咲恵にしがみつくようにして泣き崩れていた。
しかし咲恵は感じる。
──……何か…………違う…………
それが何かだけが分からなかった。
そして萌江が口を開く。
「……ここが…………あの蔵か…………」
萌江にも見えているに違いない、と咲恵は感じていた。
そして咲恵も口を開く。
「他にも……いるよね」
萌江はすぐに返す。
「うん…………最初の二人だけじゃない」
そして萌江は裕子の横に膝をつくと、泣き崩れる裕子に顔を向ける。
「裕子さん、一旦戻ろう。使用人の人たちには悪いけど…………私はこれ以上ここにはいられない……ちょっとキツいかな」
──……やっぱり萌江…………今までとは違う…………大丈夫なの?
そう思った咲恵が、不安気な萌江の姿を見下ろした。
──…………違う……これは0.1%なんかじゃない…………
事は急ぐ必要がありそうだった。
しかし、古い歴史を紐解かなくてはならない。それに、まだ聞いていない話もありそうだった。
「次は……水曜日にお伺いします」
本邸に戻った萌江がイトに伝える。
「……もしかしたらこちらの都合かもしれませんが…………あまり時間は無いようです……ただ、少し、色々と整理する必要もありそうなので…………」
すると、その言葉にイトはすぐには応えなかった。
なぜか少し間を空け、しかし表情は変えないままに、ゆっくりと返す。
「……分かりました…………よろしくお願いします」
イトはそういうと、深々と頭を下げた。
駅に送ってもらった時には、すでに辺りは夜。
早目の最終電車に乗り、着いた先で咲恵の車に乗り込むと、二人とも何となくホッと胸を撫で下ろしていた。
「とりあえず……送るよ」
そう言って車を走らせる咲恵に、助手席の萌江が返した。
「泊まってって…………今夜は一人でいたくない」
「うん…………」
咲恵は左手を伸ばして萌江の手を握る。
日中に田上家で見た光景が頭から離れない。
何も理由は分からない。
ただ、咲恵の中で静かに膨れ上がる不安が何か、それが分からないもどかしさ。
その咲恵が続けた。
「私も…………」
「でもごめん…………抱けないかも…………」
「私も……今夜はちょっとね…………」
「でも一緒に寝てね」
そう言う萌江の頭に、何が見えているのか、咲恵は計りかねた。
咲恵と同じものを見ているだけでは、ないと思えた。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第一部「妖艶の宴」第2話へつづく ~
もう少しだからね
もう少しで外に出られるの
だからもう少し我慢しようね
もう少しだけ
もう少しだけ
☆
大正元年。
その地方の一番の地主、田上家。
五代目当主、田上華平太────齢は五三。
先代が明治初期にアヘンの密売で財を倍増させたことで、田上家の地位はその地で揺るがないものとなった。明治初期にはすでにアヘンは法的に禁止されていたが、いわゆる裏の世界でのし上がったのが田上家だった。そのため裏の世界での力も強く、地元の警察権力でも手出しの出来ない地位を確立していた。
それは身内が犯罪を犯しても揉み消せる程のものだった。
そして田上華平太の唯一の子供である重蔵が、総ての事の発端となる事件を起こす。
当時二九才だった重蔵は、当主の華平太から幾度となくお見合いを勧められていたにも関わらず、遊び三昧の日々を過ごしていた。周りから重蔵が道楽息子と揶揄されていたことに業を煮やした華平太は重蔵を追い詰めた。
「今夜は珍しいな。こんな早い時間にお前が家にいるとは…………」
いつもの華平太の重い声が、田上家の夕食時の空気を震わせた。
御猪口で清酒を口に運びながらの華平太の言葉が続く。
「丁度いい機会だ…………いい加減お前にも田上家の六代目としての責任を意識してもらわねばならん。所帯を持て。相手ならいくらでも探してやる。お前が出入りしているような店では、まともな相手が見付かるとも思えん。しかもお前は俺の一人息子だ…………」
畳み掛けられる華平太の言葉を、やがて重蔵が遮る。
「俺に兄弟がいないのは父親のあんたのせいだろ? あんたが女遊びに忙しかったからなんだろ?」
重蔵の隣で、華平太の妻────重蔵の母であるヨシが御膳に箸を置いた。
その音に、空気が張り詰める。
重蔵が言葉を続けた。
「街では有名な話だ。妾を取らなかったのは外に女がいたからなんだろ? お袋だって知ってることじゃねえか」
口元に笑みを浮かべた重蔵がヨシに顔を向ける。
ヨシは顔色も変えずに湯呑み茶碗を持ち上げるだけ。
「どうせお袋は最初から愛情なんてなかっただろうけど」
「お前は……」
重蔵の言葉を遮った華平太が続けた。
「女というより遊女にうつつを抜かしていると聞くぞ…………下世話な女と交わりおって……」
「あんたに言われたくないよ」
そう返した重蔵が華平太に鋭い目を向けると、華平太から返されたのは蔑んだような目。
そして重い声。
「自分で嫁を見つけられないなら強引にでも話を進める」
それからおよそ一週間後。
まだ日中から重蔵は遊郭街にいた。
しかしこの日は、田上家の使用人を二人従えていた。
視線の先にはある店は、この街の遊郭街では高級なほうだ。
そしてその店には、重蔵が惚れていた遊女────ウタがいた。
もちろんお気に入りの遊女は何人もいた。しかしウタは遊女の間でも噂になるくらいの美人。重蔵も誰が一番かと聞かれたら間違いなくウタを上げた。
華平太に焚き付けられたのもあったが、重蔵は常々ウタを自分だけのものにしたいという思いを持っていた。
店を張っていた使用人の情報で、ウタが週に二度ほど病院に通っていることが分かる。
重蔵はそのタイミングしかないと考えた。
いつも迎えに来る車。
運転手は一人。
付き添いは誰もいない。
その日、いつものように店の裏手に停まった車にウタが乗り込もうとした時。
ウタは車の後部座席に強引に押し込まれた。
声を上げる暇もない。
ドアの側に立っていた運転手が、男と揉み合う。
やがて怒号が飛び交った。
まだ昼を過ぎたばかり。
周囲が騒つくのが、口を塞がれて目を震わせるウタにも分かった。
やがて男が運転席に乗り込み、ウタを体全体で押さえ付ける重蔵が叫ぶ。
「────出せっ‼︎」
その目には、震えと迷いがあった。
重蔵は田上家の裏山の別邸にウタを隔離した。
そのまま重蔵は、使用人に車を遠くに乗り捨ててくるように指示する。
その裏山は田上家の敷地の一部。林に囲まれた別邸の蔵の中で、ウタの手足を縛って逃げられなくし、見張りに使用人を一人つける。
女を見付けたと言う重蔵を、華平太が許すわけはない。
「馬鹿者が‼︎ 街は誘拐騒ぎだ‼︎ お前が置き去りにした使用人が逮捕されないとなぜ思った‼︎」
重蔵が何も言い返せないまま、その日の夜の内に華平太自らが動いた。
警察の上層部に賄賂を送り、重蔵の罪を揉み消した。もちろん人々の間では噂は広がっていくが、華平太は新聞社にまで賄賂を送り、地元の暴力団を使って世間を黙らせた。
ウタのいた店にもかなりの額を積んだと噂が広がる。
そしてそれは、嘘ではなかった。
そんな華平太の苦労も知らず、重蔵は一日の大半をウタのいる蔵で過ごすようになる。
それから、華平太は重蔵の顔を見る度に叱責した。
重蔵は後先を考えてはいない。
その時の欲望だけ。
いつの間にか、重蔵は華平太から受けた鬱憤をウタの体にぶつけていた。
使用人に食べ物や下の世話をさせ、体を洗わせ、一日に何度も重蔵はウタの体を弄んだ。
ウタの目は、日に日に生気を失っていく。
月日が流れ、半年。
ウタが妊娠していることに重蔵は気付いた。
まるで廃人のようになっているウタを本邸に入れるか、重蔵は初めて迷う。子供が出来たからと言って華平太が許してくれるとは思えなかった。
「貴様はあの女をどうするつもりなんだ!」
毎日のように浴びせかけられる華平太のそんな言葉に、重蔵も追い詰められていく。
華平太も解決策を見付けられないままに重蔵に感情をぶつけるだけ。
その日の夜も、重蔵は華平太に叱責されて蔵に向かった。いつものように怒りをウタにぶつけようとしていた。例え間違っていたとしても、その毎日が重蔵の生きる糧となっていた。
いつも蔵の前にいるはずの使用人がいない。
重蔵は自分で蔵の扉を開けると、そこには、ウタに覆い被さる使用人の姿。
そして、重蔵は我を失った。
力の限り使用人を殴りつけ、周囲の〝何か〟を持ち、それを振り下ろしていた。
やがて、使用人はその体の原型が崩れるほどにボロボロになって息絶えていた。
だらしなく体を開いたままの隣のウタの目には表情が無い。
まるで生きているとは思えなかった。
「………………売女が…………」
重蔵はウタの体を殴り、蹴った。
すでにボロボロとなっていたウタの体は脆い。
ウタの血が溢れ出し、弾けた歯が床で音を立てた。
重蔵はウタの腹部にめり込んだ自分のつま先を見ると、さらに気持ちの中で何かが弾ける。
ウタの冷たい肌とは違い、なぜかその血と内臓は温かい。
「────重蔵様⁉︎」
恐れ慄いて座り込んだ女中の声に、台所に入ってきたヨシも眉を細めた。
台所の裏口に立ち尽くす重蔵の着物は血だらけ。
呆然とするその重蔵の表情に、すでに生気は無かった。
〝蔵で何かがあった〟とヨシはすぐに判断する。
「二人……重蔵さんを動けないように押さえつけていなさい」
そして別の使用人一人を従えて蔵へ向かった。
ヨシはウタと使用人の遺体を別邸の裏に埋めることを数人の使用人に指示する。
その日の内に、話はヨシから華平太へ。
まるで、華平太はヨシに借りを作ったように感じた。
華平太は、初めて冷静なままのヨシの表情に恐怖を覚える。
翌日、華平太から家中に箝口令が出された。
重蔵が殺した使用人の家には華平太自ら「行方不明になった」旨の手紙を出す。
華平太は重蔵を叱責しなかった。
しかしそれ以来、重蔵は華平太に逆らうことが出来なくなっていった。
二年後。
大正三年。
田上重蔵────三一才。
華平太が見付けてきた資産家の娘と結婚する。
☆
一週間の外泊が終わり。
萌江は日曜日に咲恵の運転で山の中の自宅へ。
その道中での咲恵の話に萌江は食いついていた。
「つまり、お金持ちってこと?」
家に着くなり冷凍していたカレーを鍋で温めながら、萌江が話の続きを引き出す。
咲恵はコーヒーメーカーのスイッチを入れながら応えていた。
「うん。それは間違いないみたい。地主って言うの? そんな家だと思うよ」
咲恵も久しぶりに大きな話を持って来れたからか、声が明るい。
「よくそんな所から仕事取ってきたねえ。さすがみっちゃん」
そう返す萌江も表情がいつもより明るい。その萌江の目の前の鍋から香辛料の香りが広がり出した。
〝みっちゃん〟とは二人に裏の仕事を斡旋してくれている人物。その人物から咲恵が相談されたことが総ての始まりでもあった。そしていつもはその〝みっちゃん〟から仕事がくる。萌江は当然今回もそうだろうと何の迷いもなく思った。
しかし咲恵は、香辛料の香りを気持ちで追いながら返す。
「今回は違うの。ヨウちゃん」
「ヨウちゃん?」
「波蔵酒店のヨウちゃん。覚えてる?」
「……ああ……いたね。ヨウちゃん。まだ働いてたんだ」
「何言ってるのよ。あれでも今じゃ酒屋の専務なんだよ」
地元では老舗の古い酒屋だった。決して大きな会社ではなかったが、地元の飲食店では知らない店はない。ヨウちゃんと二人が呼ぶのは現社長の息子。当然働いて長い。配達もしていたために酒屋の顔となっていた。
もちろん萌江も知っていた。咲恵と出会ったバーで働いていた時に週に一度は顔を見ている。
「社長入れて従業員が五人くらいだっけ?」
「小さいけど老舗の酒屋なんだよ…………で、そのヨウちゃんが配達の時に相談してきてね」
「あれ? 彼って私たちのこと…………」
今回はいつもの〝元締め〟を経由しない初めての仕事。
それを自ら持ってきた咲恵が応える。
「まさか。困り果てて誰か相談に乗れる人知らないかって聞かれたの。なんでもお馴染みさんのお屋敷らしいんだけどね…………」
「いい感じの響きだねえ。老舗の酒屋のお馴染みさんのお屋敷…………あ、帰ってきたばっかりでお米無いからパンね」
萌江が冷蔵庫からロールパンの袋を出して電子レンジに放り込んだ。
咲恵も同じ冷蔵庫からザルに入ったままのサラダを取り出して皿に盛り付けていく。
そして返した。
「でしょ? そのお屋敷の奥さんから相談されたんだって…………誰かお祓いみたいなこと出来る人を知らないかって」
「そんな大きなお屋敷なら、神社とかお寺とか行けばいいのに」
萌江はそう言いながら深めのスープ皿にカレーを注ぐ。
咲恵はテーブルにサラダの皿を移動しながら。
「……つまりさ……何か…………訳ありってことなんじゃない?」
カレーと共に二人がテーブルにつくと、咲恵がコーヒーをマグカップへ。
「いい感じの響きだねえ……訳あり」
そう言った萌江は、目の前のサラダにたっぷりとオリジナルのドレッシングをかけた。
それを見ながら咲恵が返す。
「でしょ? ドレッシングはかけ過ぎだけど」
「オリーブオイルは大丈夫だよ」
「ポン酢も塩も胡椒も入ってるでしょ。もう若くないんだから塩分は控えないと」
「へいへい」
適当にそう応えながら、萌江は水菜と玉ねぎのサラダを頬張る。
そして続けた。
「その塩分の話って結構怪しい情報みたいだけどね」
「どんなものも取り過ぎていいってことはないでしょ?」
「この水菜を来年はレタスにするぞ」
──……これを可愛いと思っちゃう私も悪いんだよねえ…………
そんなことを思いながら、咲恵が話を戻した。
「その奥さん曰く、この家は呪われている…………ということらしいの。ヨウちゃんはその家のことは地主ってことしか知らなかったらしいんだけど、酒屋の社長────ヨウちゃんのお父さんね────に聞いてみたら〝あまりあの屋敷には関わらないほうがいい〟と先代から聞かされていた、ということみたい。気になるでしょ?」
「いい感じの響きだねえ」
「でしょ? じゃ、来週の日曜日に迎えに来るので今日は私は帰ります」
そう言ってロールパンを千切る咲恵に萌江が声を上げる。
「なんで⁉︎ 泊まって行かんのかい⁉︎」
「昨日まで一週間も私の部屋に泊まり込んだでしょ。おかげで由紀ちゃんは元気になったけど…………萌江を泊めると私の体力が持たなくて…………」
「喜んでたくせに…………」
そう言いながらニヤニヤとした笑みを浮かべる萌江に、咲恵が返す。
「毎日…………しなくてもよかったでしょ」
「最終日は咲恵から────」
「分かった────分かった────分かったから、泊まるから来週はそのお屋敷に話を聞きに行くってことでいいわね」
「仕方ないなあ咲恵は…………泊めてあげるからゆっくりしていきな」
すると溜息を吐きながら咲恵がパンをカレーに浸す。
「久しぶりに稼げそうだから、カレーお代わりしよっかな」
萌江がそう言って台所に移動すると、再び咲恵は溜息を吐いていた。
──……手に負える仕事ならいいけど…………
萌江は99.9%幽霊や心霊現象を信じていない。それには萌江なりの考えや根拠がある。元々の幼い頃からの霊感体質を経て辿り着いた思考。
もちろん咲恵もその萌江の考えに感化され、受け入れられたからこそ興味を抱き、そして付き合いを続けてきた。
それでも咲恵の中では90%。咲恵自身はそのくらいに思っていた。意見に相違があるわけではない。
しかし、世の中には事実として不可解なことは存在する。それを心霊現象で片付けてしまうことは簡単だ。そして萌江がそれを嫌うことも知っている。その通りだと咲恵も思う。だからこそ萌江が知識を蓄えて、自分で勉強していたことも知っていた。
それでも咲恵は怖かった。いつか0.1%の〝何か〟に出会ってしまったら、萌江はどうなってしまうのか。
それだけが、咲恵には怖かった。
☆
一週間後の日曜日。
一四時。
待ち合わせ場所は市街地からは離れた静かな駅だった。
周囲には大きな建物は無い。
隣に駐車場の広いスーパーマーケットと、そこを囲むような簡素な住宅街。
雨が降るほどではないように感じられたが、曇り空のせいもあるのか風が冷たく感じられた。
「よくある田舎街だね」
冷たい風に肩をすくめながら、そう言った萌江が続ける。
「大してこの近辺に人口が集中してるわけでもないのに、駅だけこんな立派な物建てちゃって…………利用者が少ないからタクシー乗り場にタクシーが一台もいないし……私たち以外に誰もこの駅で降りなかったし…………」
小さく溜息を吐いた咲恵も素っ気なく返した。
「……確かに…………よくあるね」
「今時さあ、駅だけ立派にしたって都市開発なんか進まないんだからさ。いつの時代の考え方か知らないけどもっと税金の使い道を考えて欲しいわね」
「でも鉄道は民営でしょ?」
「今でも税金は投入されてるよ。民営化なんて眉唾」
「所得税も払ってないくせに」
すると途端に萌江が声のトーンを上げる。
「あ────あれが迎えの車かなあ?」
駅前のタクシー乗り場で二人に近付いたのはレトロな黒塗りの車だった。不思議とそれだけで高級車であることが分かる。
すると急に声のトーンを落とした萌江が呟くように口を開いていた。
「嘘でしょ…………シルヴァークラウドじゃん…………ロールスロイスだ」
「は⁉︎ 外車⁉︎」
おかしなくらいに高い声を上げた咲恵は車の知識をほとんど持っていない。そもそも興味がない。自分の車にしても、中古車屋で値段とデザインだけで選んでいる。
それに対して萌江は車に詳しい。しかもレトロな名車と言われる部類にうるさかった。
目の前に停まったその名車に、当然のように萌江は目を配り始める。
「使い込んでるけど凄い…………ピカピカだ…………」
右ハンドルの運転席から黒いスーツの男性運転手が降りてくる。五〇才まではいかないくらいだろうか。印象のいい立ち振る舞いだ。車の前から回り、二人の前で軽く頭を下げる。
「黒井様と恵元様ですね。お待たせ致しました」
そのまま後部座席のドアを開ける。
「はい…………どうも」
咲恵が応えながら辿々しく乗り込む。シートの感触が自分の車と違うことに驚くも、懸命に冷静を保っていた。
続けて乗り込む萌江は満面の笑み。シート、天井等、周囲の装飾に目を配らせる。
運転手が閉めたドアの音にまで品を感じる。そのまま運転手が車の後ろを回り始めると先に口を開いたのは咲恵だった。
「外車って左ハンドルじゃないの?」
目の前のハンドルは日本と同じ右ハンドル。
すぐに萌江が返した。
「オリジナルの右ハンドルだよ」
「オリジナル?」
「ロールスロイスはイギリスの会社。イギリスは日本と同じ右ハンドル。もちろん左ハンドルの国向けに作られた左ハンドル仕様が日本に来れば左ハンドルに────」
「よく分からないけど分かった」
「絶対分かってないでしょ。これから咲恵も外車を買うかもしれないし…………左ハンドルの国の車でもイギリス経由でイギリス仕様のやつなら右ハンドルで────」
「買わない買わない絶対買わない」
運転手が乗り込み、エンジンを掛けた。ルームミラーに目を配りながら柔らかい口調が届く。
「ここから一時間程かかりますが、もし途中でお寄りになりたいところが御座いましたら、いつでもお申し付け下さい」
それに、咲恵が小さく応える。
「…………はい」
──……この車でコンビニは無理だなあ…………
どこにも寄らずにまっすぐ向かった所は、だいぶ人里から離れた山沿い。
それでも街を見下ろせる小高い所に、その屋敷はあった。
周囲に民家が無いわけではなかったが、点々とあるその建物は草木に覆われて明らかに廃墟。
道路沿いから見えるのは高い塀だけ。
不必要なくらいに高いその塀は、木製のだいぶ古い物だ。まばらな色の変化に時間を感じさせる。そのせいで中は見えない。
その塀の切れ間に車が入ると、すぐに背の高い門が現れる。
すると両開きのその門が開いた。使用人と見られる男たちが重そうな門を動かしていた。
車の中から呆然としながらその光景を見ていた萌江と咲恵の目の前に現れたのは、巨大な豪邸。古くもしっかりと管理された印象までが威圧感を感じさせる。
すると萌江が小さく呟いた。
「同じ古い日本家屋でも…………我が家とは違うねえ」
車が停まり、運転手が後部座席のドアを開ける。
車を降りた二人は更に興奮した。豪邸の玄関まで続く石畳と、その周囲の砂利までが美しい。
「我が家の庭もこのくらいに────」
その萌江の呟きに、咲恵が鋭く返した。
「いや…………おかしいから」
萌江の家くらいの広さの玄関を抜け、萌江の家の寝室くらいの幅の通路を歩いて通された綺麗な和室は、明らかに咲恵の経営するバーが三つは入る。日頃何に使われている部屋なのか想像も出来ない広さ。
部屋に取り残された二人は、自然と正座になる。座布団の厚みですら高級感を感じさせた。
すると咲恵が小さく呟いた。
「足が痺れる前に来てくれるかな…………」
「んー…………」
萌江はそれだけ返すと、首の後ろに両手を回す。ネックレスを外すと、左手の中指に巻き付け、ぶら下がった水晶を左手で握った。
そして急に正座を崩して胡座をかく。
それを見た咲恵が思わず声を上げた。
「ちょっと────」
その咲恵に対して、萌江は冷静に返した。
「…………何か、変だね」
「…………え?」
──……しまった…………スカートにしなきゃよかった…………
咲恵がそう思った時、背後の襖が開く音がした。
すぐに振り返る咲恵に対して、萌江は振り返らない。
そして、落ち着きのある女性の声。
「大変お待たせしてしまって…………」
二人の前に回った女性の年の頃は四〇代半ばといったところだろうか。派手過ぎない品のある黒い和服に身を包んだその女性は静かに二人から距離を置き、前に膝を降ろす。
そして、深々と頭を下げた。
「田上家当主……田上浩一の妻……裕子と申します。この度はこんな遠くまで御足労頂きましてありがとう御座います」
裕子は頭を上げると、続けた。
その目の鋭さが、咲恵には気になった。
「大したおもてなしも出来ませんが…………」
「いや」
遮るように口を開いたのは萌江だった。
その萌江が続ける。
「違うよね。話の本筋を知ってるのはあなたじゃない」
──……もう何か……見えてる…………?
そう咲恵が思った直後、意外にも裕子の声はすぐ。
「これはこれは…………」
視線を落とした裕子は、僅かではあるが明らかに困惑の表情を浮かべていた。
萌江はその裕子から視線を外さない。
相手に関わらず、萌江はこの仕事に於いては堅苦しい言葉を嫌う。相手によっては敬語を選ぶが、これまでもこのパターンのほうが多い。かつて、接客業の世界で働いていた人間としては珍しいかもしれない。そのくらい萌江にとっては明確な違いがあるのだろう。また、そこを完全に切り分けたいという感情もあった。
すると、裕子の背後の襖から声がする。
「…………裕子さん」
ハッとして目を見開いた裕子が、静かに目を閉じた。
背後の声が続く。
「そちらのお嬢さんは…………もうお分かりみたいですよ…………」
明らかな老婆の声。
すると裕子は腰を軽く上げ、膝を曲げたまま背後の襖の前へ。そのまま腰を落とすと、両手の先を襖に添えた。そしてその襖を静かに開く。反対側に回ると、残りの襖を開いた。
そこには同じくらいの和室。
その中央に、やけに分厚い紫色の座布団に身を沈めた老婆の笑顔があった。
だいぶ背中が曲がっているのか、顔の位置は低い。真っ白な髪を後ろで束ねているようだった。しかしその白髪は不釣り合いなくらいにまっすぐ整えられている。
そして顔と手の皺から、かなりの高齢に見えた。
しかし着物はその年に似合わず派手だった。薄いピンクを基調としながらも、所々に緑や黄色。帯は合わせたのか、落ち着きながらも主張の激しい赤。
襖の脇にいた裕子が口を開く。
「当主、田上浩一のお母上様です」
そして、先程から聞こえていた老婆の声が、空気を震わす。
「……イト……と、申します」
僅かに頭を下げ、そして頭を上げると、そこには老婆とは思えないような、妖艶な瞳があった。
「……決して…………楽しいお話ではありませんよ…………でも…………聞いてもらいましょうかね…………」
そして、咲恵の背中に悪寒が走った。
イトの口角が、少しだけ上がる。
☆
聞かされた田上家の歴史は、想像を絶するものだった。
正直、咲恵は自分が冷静でいるのか自信がなかった。イトの話に合わせて、まるで自分がその光景を見ているかのような感覚に襲われていた。
いや、咲恵には見えていた。
こんな時、咲恵は自分の能力を恨む。
本来なら自分が知ることのない他人の過去。自分が見ることなどなかった他人の歴史。
しかもそれは、見たくないもののほうが多い。
なぜだろうかと咲恵も不思議に思う。
──……どうして…………人の歴史は重いんだろう…………
いつの間にか体が小刻みに震える。
田上家の歴史もやはり重かった。
それはあまりにも残酷な光景。
すると、強く握られた膝の上の両手に、萌江の手が被さった。水晶を持った左手。
熱かった。
その熱が全身に伝わる。
──……大丈夫……大丈夫…………
少しずつ咲恵の気持ちが落ち着いていった。
──……さすが……萌江…………
咲恵は萌江に顔を向ける。
萌江の目は怒りに震えていた。
──……萌江にも……同じ光景が見えてるの…………?
そして、イトの話が続く。
「結婚から二年ぐらいと聞いていましたが、長女が産まれたそうで御座います…………しかし二才で病死……詳しい病名等は分かりませんで…………どちらが先だったか、同じ頃に長男が産まれ…………その多一郎が七代目当主になり……私が嫁いで参りました。多一郎が産まれた数年後に次女も生まれたそうですが…………やはり二才で…………」
「……それが、呪い…………?」
口を挟んだのは萌江だった。懸命に冷静を装っているのが咲恵にも分かる。
すぐにイトが返していく。
「それも…………ありますな………………裕子さん────」
「はい」
少し驚いたように裕子が返した。
しかしイトは視線を萌江に向けたまま、続ける。
「なかなか、面白い方々を紹介して頂けましたね…………浩一さんの所にお連れを…………」
「──お母様…………それは…………」
応えた裕子の目が泳ぐのを、萌江も咲恵も見逃さなかった。
しかしイトの声は落ち着いたまま。
「見て頂かなくては…………解決はいたしませんよ…………この方々には、もしかしたら…………もう……見えているのかも…………」
「どこにあるの?」
萌江が質問をぶつける。
「当主の浩一さんって人、そこにいるんでしょ? その〝蔵〟まで連れてって」
その声に、イトの口元に笑みが浮かんだ。
そしてその口が開く。
「さすがに私はこの歳故……案内は致しかねますが…………裕子さん、お願いしますよ」
裕子は何も返さず、少し間を空けてから立ち上がる。
その視線は、ただ足元を見つめていた。
☆
場所は本邸の裏山。
そこに別邸があるという。
家の敷地を囲む塀の数カ所に門があり、その一つが裏山に通じているとのことだった。
黒いスーツの使用人を二人先頭に、裕子、そして萌江と咲恵が続いてその門を出た。門が開くと、そこからまっすぐ山へ小道が続いていた。周囲は雑草が多い。塀の中とはだいぶ雰囲気が違う。それよりも、目の前の真っ赤な鳥居に萌江と咲恵は驚いていた。太い木を使ったかなり大きな物だ。
──……神社でもないのにどうして?
咲恵がそう思った時、隣から萌江の声。
「ご大層だこと」
萌江は軽く呟く。
萌江は神社や寺院が嫌いだった。古くからの信仰というものを否定しているわけではないし、その歴史も知っていた。しかし萌江に言わせれば、そのどちらも人間程度が作り上げた宗教というものの産物に過ぎない。
萌江が好きなものを敢えて宗教と呼ぶなら、それは八百万の神と呼ばれる土着信仰だけだ。それは歴史の権力者が利用してきた一神教とは対極に位置している。しかもそれがあるのは日本だけではない。
門をくぐった直後、萌江は足を止めて声を上げた。
「ねえ、ここに盛り塩置いてるのは誰?」
門の外側の両脇に小さな皿とその上には綺麗に三角に盛られた塩。
振り返った裕子がすぐに応えた。
「私が指示を出して使用人に────」
「何のため?」
「……それは…………」
「意味が無いから必要ないよ。盛り塩で除霊は出来ないから。呪いにも効果は無いしね」
「……そう…………でしたか…………」
「さ、案内して」
鳥居を潜り、細い道を登っていく。山といってもそれほど大きな物ではなかった。その代わりに横に広いのか、鬱蒼とした林の木々はどれも高い。ただでさえ季節的に薄暗くなる時間、その道は周囲の木々のせいで、更に暗さを増長させていた。
それでも歩いて一〇分程だろうか。聞いていた別邸が姿を現した。
本邸程ではないが、決して小さくはない二階建て。違いはあまり整備されているようには見えないことだ。庭と思われる部分には雑草も多く。あまり頻繁に人の手が入っているようには思えない。
何より不自然なのは、なぜこんな場所に別邸があるのか、ということだろう。まるで隠されてでもいるかのように、ひっそりと存在しているとしか思えない場所だ。
隠す理由があると考えるほうが自然なその光景に、萌江と咲恵は違和感しかなかった。
二人の使用人と裕子は家には入らず、雑草だらけの脇から裏に回った。裕子は着物に小さな枝が触れても気にしている様子はない。
萌江と咲恵も後ろを着いて裏に移動した。そこにあったのは、二人が頭の中の映像で見ていた大きな蔵。壁に入った無数のヒビが古さを物語る。素人目にも修繕の跡は見られない。
裕子はその扉の前に立つと使用人に開けさせた。だいぶ重そうな両開きの扉が開く。黒い内扉が横にスライドするが、そこに見えるのは闇だけ。
裕子が背後の萌江と咲恵に振り返って口を開いた。
「……田上家当主…………浩一です」
そして薄らと浮かび上がった影。
蔵の中央、両腕を上げたまま立っている浴衣のような薄手の和服を着た人影がある。
上から両手を広げて吊るされ、頭は項垂れて、顔は見えない。
「座らせると……頭を膝にぶつけて自殺をしようとするので…………こうして立たせたままにしております…………」
震える裕子の言葉に続いて、蔵の中から、ゆっくりと異様な匂いが漂う。
裕子が着物の袖で口と鼻を押さえて続けた。
「若い女性にお見せするものでは御座いませんね…………少し離れましょう」
裕子は二人を促して少しだけ蔵から離れると、使用人に指示を出した。
「すいません……綺麗にしてください…………」
使用人はすぐ近くの井戸から水を汲み始める。その井戸も周囲を雑草に囲まれ、決して管理された印象には見えなかった。水が枯れていないとは言っても、綺麗な水とはとても思えない。
裕子の話が続く。
「私たちにも娘がおりました…………しかし呪いのせいで二才で亡くなり…………それ以来、浩一は気がおかしくなりまして…………訳の分からないことを言い始めたかと思うと、手当たり次第に暴力を振るう始末で…………」
「病院には行ったんですか?」
その咲恵の質問に、裕子は言いずらそうに返した。
再び目が泳ぐ。
「いえ…………その…………お母様が…………呪いは病院に行っても無駄だからと…………」
「食事は…………」
「はい……食事の時だけは猿ぐつわも外して────」
「猿ぐつわ⁉︎」
「舌を噛もうとするんです! ────私たちにもどうしたらいいのか…………」
裕子の声がか細くなったかと思うと、膝を落とし、咲恵の服の袖にその細い指をかけて続ける。
「……どうか…………どうか主人を…………! お願いします……私たちにはもう…………」
裕子は、咲恵にしがみつくようにして泣き崩れていた。
しかし咲恵は感じる。
──……何か…………違う…………
それが何かだけが分からなかった。
そして萌江が口を開く。
「……ここが…………あの蔵か…………」
萌江にも見えているに違いない、と咲恵は感じていた。
そして咲恵も口を開く。
「他にも……いるよね」
萌江はすぐに返す。
「うん…………最初の二人だけじゃない」
そして萌江は裕子の横に膝をつくと、泣き崩れる裕子に顔を向ける。
「裕子さん、一旦戻ろう。使用人の人たちには悪いけど…………私はこれ以上ここにはいられない……ちょっとキツいかな」
──……やっぱり萌江…………今までとは違う…………大丈夫なの?
そう思った咲恵が、不安気な萌江の姿を見下ろした。
──…………違う……これは0.1%なんかじゃない…………
事は急ぐ必要がありそうだった。
しかし、古い歴史を紐解かなくてはならない。それに、まだ聞いていない話もありそうだった。
「次は……水曜日にお伺いします」
本邸に戻った萌江がイトに伝える。
「……もしかしたらこちらの都合かもしれませんが…………あまり時間は無いようです……ただ、少し、色々と整理する必要もありそうなので…………」
すると、その言葉にイトはすぐには応えなかった。
なぜか少し間を空け、しかし表情は変えないままに、ゆっくりと返す。
「……分かりました…………よろしくお願いします」
イトはそういうと、深々と頭を下げた。
駅に送ってもらった時には、すでに辺りは夜。
早目の最終電車に乗り、着いた先で咲恵の車に乗り込むと、二人とも何となくホッと胸を撫で下ろしていた。
「とりあえず……送るよ」
そう言って車を走らせる咲恵に、助手席の萌江が返した。
「泊まってって…………今夜は一人でいたくない」
「うん…………」
咲恵は左手を伸ばして萌江の手を握る。
日中に田上家で見た光景が頭から離れない。
何も理由は分からない。
ただ、咲恵の中で静かに膨れ上がる不安が何か、それが分からないもどかしさ。
その咲恵が続けた。
「私も…………」
「でもごめん…………抱けないかも…………」
「私も……今夜はちょっとね…………」
「でも一緒に寝てね」
そう言う萌江の頭に、何が見えているのか、咲恵は計りかねた。
咲恵と同じものを見ているだけでは、ないと思えた。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第一部「妖艶の宴」第2話へつづく ~
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