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第十四部「憎悪の饗宴」第2話
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そこは七福神の名を冠した恵比寿神社。
しかしそれは表向きの名前。
この神社に於いて、正式には〝蛭子〟の漢字を使う。
そして読み方は〝ヒルコ〟。
それは古事記に登場するイザナギとイザナミの子供の名前。
そこは清国会の拠点の一つ。
その地域ではかなりの規模を誇る神社でもある。
神社を護る宮司の家系は、いつの頃からかも分からないほど古くから清国会の一部として暗躍してきた。御世によって一度は意識操作を受けるも、現在でも清国会にとっては重要な拠点に他ならない。
そして蛭子神社代表の宮司────加藤苑清を筆頭に、全員が浮き足立っていた。
それは突然訪れた咲をもてなしている時に聞かされた言葉が理由だった。
「……近々…………我らの念願だった〝日の本の大掃除〟が始まります…………こちらにもこれまで以上のご協力を賜ることになるかと存じます」
もちろん神社としてはこれほど名誉なことはない。
清国会は全国に拠点を持つ。その神社の数は大小含めて五〇〇を超えた。歴史が古いだけに、当然のように派閥も存在する。それぞれの中心になるのはやはり地域に大きな影響力を持てるだけの規模を誇る蛭子神社のような所だ。
組織の二番手でもある御陵院神社の当主が直々に頭を下げに来ることだけでも名誉なこと。いざ事が動いてからの自分達の立ち位置に影響を及ぼすと考えるのも当然だった。
苑清もすでに七〇近い年齢だったが、代表の座を息子に譲らずに頂点に居続けたのは、一重にこの時の為。清国会での立場を確固たるものとした時に、自分が代表でいたかった。
その苑清は咲に深々と頭を下げた。しかし正面ではない。距離を置いて斜め前。雄滝神社の滝川家と御陵院家に対しては、同じ清国会内部での礼儀とされた。他に許されるのは背後だけ。
元々の中心となる金櫻家に至っては、頭を上げることすらも許されないというのが掟とされていた。
つまり、金櫻家の唯一の直系である萌江に対して頭を上げることが出来る清国会の会員は、滝川家と御陵院家のみ。
苑清はそれでも最大級の敬意を咲に向けるためか、起こしかけた頭を完全には上げないまま口を開いていた。
「御陵院様直々にお越し頂いたとあらば、協力など惜しむ理由は御座いません。心血を注がせて頂きます…………」
「期待をしております苑清殿。貴殿は幾多の社を束ねる御方。いざとなりは…………多くの〝力〟をも動かせる身の上のはず」
「いかにも」
「我らに反旗を向ける者たちもおります…………少々手の掛かる問題になるやも知れません。その時はお願い致します」
「何なりと」
この日、咲は一人ではない。
美由紀を伴っていた。
この時の美由紀には、すでに抵抗する理由はない。行き場などどこにもなかった。すでに自分で何かを考えることすらやめていた。
咲に誘われるまま〝西沙のためだから〟という言葉だけでここまで着いてきた。
もちろん咲の本当の目的は違う。
美由紀には〝力〟があった。
しかし、それがどれほどのものかは咲にもまだ分からない。
何より本人が自覚していない。
咲は初めて会った時に気が付いた。学校で孤立していた西沙の唯一の友達。高校時代に西沙が気が付いていたかどうかは確信が持てなかった。しかし今は確信を持って感じる。
──……西沙が気が付いていなかったはずがない…………
西沙の事務所が開設される頃には、恵麻にもその存在が知れる。
「いざという時の為に、あの娘は側に置いておくといい」
それが恵麻の指示だった。
都合のいいことに、美由紀は西沙の事務所で働くことになる。
しかし美由紀の能力は未知数。何をきっかけに目覚めるか分からない。しかも自分に反対の姿勢を見せる西沙になびく可能性は高い。
清国会としては、西沙が亡くなったことで、西沙のポジションの依代として美由紀を利用しようとしていた。同時に萌江と咲恵を引き寄せられたらそれが一番の理想。
咲は美由紀を雄滝神社に連れていく前に、どうしても美由紀の〝力〟を確かめておきたかった。御陵院神社では西沙の〝念〟が残っている可能性があると考えた。その代わりの神社として蛭子神社なら不足はない。
美由紀は慣れない巫女服に着替えさせられ、祭壇の前の咲の後ろに正座していた。
その美由紀は板間の上の座布団の端を眺めながら咲に言葉を投げる。
「……咲さん…………西沙は…………どうして死んだんですか?」
祭壇の松明がパチパチと音を立てる中、咲は背中を向けたまま視線を落として応えた。
「……おそらくは…………自分の使命に、耐えられなくなったのかと…………」
「使命…………とはどんなものですか?」
すると、咲は返答に少し間を開ける。
「……そうですね…………美由紀さんにもいずれはお話ししなくてはなりませんね…………」
咲は顔を上げて続けた。
「あれは…………自らの運命を受け入れられなかった結果でもあるのですよ」
すると、美由紀も顔を上げる。
咲の背中を見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「西沙がいつも言っていました。目の前にあるものは運命ではありません…………未来です」
咲が少しだけ顔を横に向けた。
不思議な感覚が去来する。
☆
萌江、咲恵、杏奈の三人は二カ所目の神社へと向かっていた。
最初の福禄寿神社からはそれほどの距離ではないが、それでも時間的に一泊は覚悟しなくてはならない。ルート途中の街で安いビジネスホテルを探したが、中核都市から距離があるせいかなかなか見つからない。
やっと見つかったのは小さな温泉宿。
どうせ泊まるだけだからと電話をすると部屋は空いていた。小さいとは言っても小綺麗で感じのいい宿だった。
せっかくだからと温泉で疲れを癒やし、部屋でまさかの豪勢な夕食を取りながらお酒も進む。
それでも話に登るのはやはり清国会の話題。
「福禄寿って七福神の名前なんですよね。あまり有名じゃないですけど」
やはり疲れていたのか、割と早めに顔を赤くした杏奈がそう言葉を投げると、それを咲恵が受けた。
「そうみたいよ。七福神の名前の神社って全国にあるけどね。でもあそこに関しては元々人が立ち寄るような神社でもなかったわけでしょ。変よね……御大層な名前の割に…………」
「おかげでネットには情報が一切ありません」
そこに萌江。
「とすると……やっぱり裏七福神か…………」
「裏ってどういうことなんですか?」
その杏奈の質問に、萌江は姫竹の天ぷらを口に運びながら応える。
「春だよねえ…………春は厳しい冬の終わりを告げる季節。でもその反対は? 寒い冬の訪れを感じさせる秋…………七福神は一般的には縁起物の神様。裏の七福神ってことは?」
「なんとなく…………」
「まあ公式に言われてるものじゃないけどね。都市伝説みたいなものだよ。でも清国会ならそういった感覚を利用しててもおかしくはないんじゃないかな」
そして咲恵が挟まる。
「わざわざ七福神の名前の神社を目立たないように作ってまでってことは、可能性は高いんでしょうね」
咲恵はタラの芽の天ぷらを口に運んで続けた。
「いい宿ね。当日予約の、それも夜の六時過ぎに電話してきた客に季節の料理を振る舞うなんて……しかもこれは天然物の香り…………温泉も良かったし」
すると返したのは萌江。
「常に余裕は残しておくものだよ。ましてこの天ぷらにしても茶碗蒸しにしても、ここは職人がいる所だね。それだけに料金も安くはないけど…………プロの余裕を感じる。本当に優れた人間はどこかに余裕を欠かさないからプロなんだと思うよ」
「私たちもプロだね…………」
咲恵がそう返すと、杏奈が小さく言葉を投げた。
「お二人はそうでしょうけど…………私は何も力がないし…………」
すると、お猪口に日本酒を注いだ萌江が、それを手に取りながら拾う。
「そう? プロのジャーナリストじゃん。私と咲恵だけだったらこんなにも早くは動けないよ。情報収集も早いしね」
そして日本酒を一気に喉に流し込んだ。
「そう……ですか?」
杏奈の顔はますます赤くなっていた。
そこに咲恵。
「どうせ私たちが温泉に入ってる間にも資料眺めてたんでしょ?」
「ええ、まあ…………」
そう応えながら、杏奈は鞄からタブレットを取り出して指を滑らせる。西沙からもらった資料の総てのページが画像データとして納められていた。
杏奈が続ける。
「次の寿老人神社って所は廃神社ではないので、色々とネットで情報は見付かりました。黒い噂もありますよ…………密教みたいな儀式をしてるって話もあるみたいです」
返すのは萌江。
「ネット情報じゃ信憑性は怪しいけど…………どうせ心霊スポットにでもなってるんでしょ?」
「御名答」
「でも…………今日の所が先に手が回ってたとすると、あまり期待は出来ないかもね」
「まあ…………」
「とはいうけど…………」
そう言って挟まった咲恵は自分の徳利が空になってるのに気付き、さりげなく隣の萌江の徳利に手を伸ばしながら続ける。
「そもそも私たちの目的はそこじゃないでしょ」
そして萌江から徳利を貰いながらさらに続けた。
「清国会の存在は確かに無視出来ないけど、私たちが今一番追いかけてるものは違う」
すると、隣の萌江が自分のお猪口を咲恵の前に出しながら言葉を拾う。
「確かにね。だから余裕を持っていられる」
しかし咲恵が傾けた徳利は空。
「半分ちょうだい、ちょっとだけでいいから」
そう言う萌江に杏奈が自分の徳利を差し出して口を開く。
「もう……余裕ないですねえ……」
☆
寿老人神社は福禄寿神社に比べると大きな神社だった。
街中からもそれほど離れてはいない。近くの街から少し山道に入ったくらいで到着出来た。廃神社ではないからか、道中に数カ所、看板も存在する。
広く管理された駐車場からすぐに大きな鳥居と、そこから続く長い階段。
駐車場に他に車は無かった。どうやら参拝客はいないようだ。
今日は天気もいい。
春の強めの風が少しだけ気になる程度。
その風が気になったのか、咲恵は車を降りるなり長い髪を後ろで一本に束ねた。
「スカートにしなきゃ良かったなあ」
そう呟く咲恵に萌江が返す。
「一度帰るつもりだったからね」
「嘘……分かってたくせに…………私にスカート履かせたがるのは萌江でしょ」
二人の後ろにいた杏奈が、その会話に気持ちを刺激されていた。
──……無駄に色気を感じるのはなぜ?
鳥居も綺麗な朱色のまま。ひび割れ一つ見当たらない。近くで見るとその大きさがさらに際立った。
その鳥居を潜り、三人は階段を登り始めた。
階段を囲む左右の林の隙間から、僅かに涼しげな風が三人の間を掠っていく。
その風の心地よさからか、長い階段もそれほど苦にはならなかった。
登り切ると、途端に空間が開ける。
風が変わった。
広い敷地に真っ直ぐな砂利の参道。
その左右の土ですら綺麗に整地されていた。
空の雲の流れが早い。
参道の先には大きな本殿。立派な建物だった。本殿の扉は閉まったまま、人影は無い。
参道の初めで三人は足を止めた。
最初に萌江が口を開く。
「静かだね…………何か見える?」
返すのは咲恵。
「……見えないね…………邪魔されてる?」
「多分ね…………」
萌江はそう応えると参道の砂利道を歩き始めた。
お互いになんの映像も見えない。周囲に人影がない状態で扉の閉まった本殿だけが存在する。しかし中の光景も見えなければ、萌江は未来も、咲恵は過去も見えない。
当然、逆に誰かの存在を感じた。
誰かの〝力〟を感じる。しかもそれは感じたことのある〝力〟。
「誰かいるね」
何気ない口調でそう言った咲恵が続ける。
「────一人だけ」
そしてほとんど同時に萌江と咲恵が首の後ろに両手を回す。
お互いにネックレスのチェーンを左の指に絡めて水晶を握った。
後ろを歩きながらその光景を見ていた杏奈は、全身に鳥肌が立つのを感じ、緊迫感と共に恐怖心も湧き出す。いつの間にか砂利を踏みしめる両足にも力が入っていた。
あと少しで本殿という時、本殿の扉が左右に動き始める。
その変化に三人は反射的に足を止めた。
ゆっくりと、扉の動きは滑らか。
その少し奥に、巫女服の姿。
身長は低く、その顔はまだ若く幼い。
萌江も咲恵も、思い出すまでに少し時間が掛かった。
その背後から杏奈の声。
「────陽麻さん?」
その姿は間違いなく滝川恵麻の妹────陽麻。
萌江と咲恵は一度、幻の姿で見ただけだったが、杏奈は雄滝神社への取材をした時に何度か会っていた。しかし恵麻からの紹介で会った時の印象と、今三人の目の前に現れた雰囲気のギャップに杏奈は驚いていた。
まるで印象が違う。
表情が違う。
幼い表情の中に、静かな狂気が浮かんでいた。
杏奈がその表情に寒気を覚える中、萌江が口を開く。
「〝あの時〟…………いた子ね…………どうやら幻じゃなさそうだ」
それに続くのは咲恵。
「この子にそんな能力はないよ。手を使わずに扉を開けるくらいは出来るみたいだけど」
「にしても、まさか巫女服でタクシー? あそこからじゃ遠いから自分で運転してきた?」
「巫女服で運転じゃ大変だったでしょ? 途中でコンビニも寄れないだろうし」
「お抱えの運転手でもいるんじゃない?」
しかし、わざとふざける二人に陽麻は顔色一つ変えない。
萌江が続ける。
「若いのに冗談も通じない…………あまり好きじゃないな…………わざわざこんな所まで来たってことは、よほど私たちに見られたくない物があったってことかな?」
そして、やっと陽麻の口が動く。
動くのは小さな唇だけ。体は微動だにしない。
「……ここには何も御座いません…………御二人をお待ち申しておりました…………」
それに萌江が即答する。
「嘘…………ホントは私たちが来る前に処分したかった…………だから私たちが来たのに気が付いて慌てた」
陽麻は何も応えない。
萌江が続ける。
「だって、あなた…………怯えてる…………」
それを拾うのは咲恵。
「私たちの動きは見えなかったはず…………あなたたちには見えない…………〝私たちを守る者たち〟が、私たちを隠してくれる」
そう言うと、咲恵は左足を一歩前に出しながら左腕を上げた。掌を広げ、水晶をかざしながら続ける。
「どきなさい────金櫻家の人間に楯突くなど…………貴様如きに出来ることではない」
それはもはや、咲恵の声でありながら咲恵のものではない。
萌江も当然気が付いていた。
──……今日は、大丈夫…………
萌江がそう思った時、陽麻の唇が再び動く。
「……御二人が御探しのものとは…………」
すぐに応えるのは萌江。
「秘密。教えると思ってる?」
「……どうすれば…………」
「だから秘密だってば。あなた如きの小者に用は無いから早く帰って報告でもしたら? 今回もやられましたって」
「そのような御言葉使いは…………」
そう言った陽麻が僅かに視線を落とす。
そこに萌江が食い込んだ。
「悪役みたいでしょ。別に正義の味方になるつもりはないよ。何が正しいかどうかなんて興味はない。私は大事なものを見付けたいだけ」
それを拾うのは咲恵。
「あなた方は自分たちが正しいと思ってるはず。自分たちを世界の救世主だとでも考えてるんでしょ? それって、悪役そのもの…………結局は何を信じられるか…………」
すると、陽麻は顔を伏せたまま返した。
「……私を……惑わすおつもりか…………」
萌江が即答する。
「別に。さっさと消えて欲しいだけだよ」
「それは…………御期待には添えません…………」
「そう? じゃあ対立するだけだね」
「……御探しのものとは…………」
その時、萌江と咲恵の背後から杏奈の小さな声。
「────なにか…………燃えてる…………」
そして、周囲にパチパチという小さな音が聞こえ始めた。
萌江は右手を少しだけ後ろにやると、杏奈に向けて手を上下させる。当然杏奈も気が付く。
──…………伏せろ…………?
杏奈はゆっくりと両膝を曲げ始めた。
萌江は陽麻に言葉を投げる。
「もう処分したんでしょ? 清国会に関するものは…………」
すると、俯いた陽麻の口元に笑みが浮かぶ。
直後、本殿の横の壁が弾け飛んだ。
煙を伴った木材の破片が飛び散る。
慌ててしゃがみ込む杏奈の目に映るその光景は、一気に恐怖感を生み出すには充分だった。
壁から飛び出した炎の塊が空気に飛びかかり、周囲に大きな風を起こす。そのまま、屋根を伝うように炎が本殿全体に広がっていった。
その中で、陽麻の声が響く。
「貴女様は唯一の末裔────貴女様の後にはどなたもおりません! 我らと共に…………〝日の本の大掃除〟を────!」
──…………なるほどね…………
そう思った萌江が応えた。
「古いよ。そういうの…………かっこ悪い」
その直後、萌江と咲恵の手を杏奈が掴む。
「早く! 消防来たら面倒なことに巻き込まれますよ!」
三人は階段を駆け降りた。涼しげな風を包んでいた石の階段も、熱の波を含んだように空気が澱む。
急いで車に乗り込むと、慌てたように杏奈がアクセルを踏み込んでいた。
揺れる車の後部座席で萌江が咲恵に言葉を投げる。
「あれが有名なバックドラフトってやつかな?」
すると髪を束ねていたヘアゴムを外しながら咲恵が即答した。
「かもね。ああなることが分かってたから、あの子はあそこから動かなかった。物理的に火災を起こしたみたいね。あの子にあんな能力はないよ。扉を開けたのもたぶん機械仕掛け…………ご苦労さまだこと…………私たちを上げなかったのも仕掛けを見られるからでしょ? わざわざあんな演出のために…………能力の代わりに知識と技術はありそうね……あの子」
「分かってて煽ってたの? 咲恵は若い子には厳しいなあ」
「若い子っていうより…………子供よね」
「怖いんですけど」
「萌江にしか興味ないから安心してよ」
「よく分からない安心だ」
そんな会話を運転しながら聞いていた杏奈は思っていた。
──……なんか色々と凄い…………
街に入った頃、車は何台もの消防車とすれ違った。
☆
その後、三人は一度帰路についた。
情報を改めて精査するべきだと感じたからだ。もっともルート的なこともあった。全国に点在した拠点である神社の位置は多方面だ。萌江の家を挟んで反対側にも多い。
早目の夕食後に街を後にすると、一番近い高速道路の入口までは山道が続く。それでも舗装された道路だけで行ける。
時間は深い夕方。
山肌に柔らかいオレンジ色が差し込み始めた頃、ホルダーに固定した杏奈のスマートフォンが鳴った。
すぐに杏奈は道路脇の待避スペースに車を停めた。
「警察の知り合いからです」
杏奈のその言葉に、萌江と咲恵は気を利かせて車を降りる。杏奈が佐々岡のことを二人に話したことはない。それでももちろん二人が気が付いているかもしれないことは予測していた。萌江と咲恵の能力を考えれば当然だったが、もちろん二人はそのことに口を出そうとはしない。そして杏奈は二人のそんなところも好きだった。
杏奈が電話に出ると、佐々岡はいきなり声を荒げる。
『だめだ。今回の件は終わりにしろ』
その言葉に杏奈の中の不安が膨らんでいく。
「何よ……公安が絡んでることは知ってたけど…………」
『それは間違いない。でもそんなレベルの話じゃないんだ…………内閣府が絡んでる』
「なんで……? 国が絡んでるってこと?」
『裏に内閣府がいるんだ』
小さいながらも、なおも声を荒げた佐々岡は、言葉を返せないままの杏奈の様子を感じたかのように続けた。
『俺は抜けさせてもらう…………お前も遅くない。もう関わるな』
「……そんな…………いまさら…………」
『どんな小さなことからでも未来は変えられるって言ったのはお前じゃないか』
佐々岡の懇願するかのような表情が杏奈の目に浮かんだ。
そして過去が甦る。
佐々岡との関係を解消する時に杏奈が言った言葉だった。
〝どんな小さなことからでも未来は変えられる。だから、今からだって間違いは正せる〟
「…………そうだね」
杏奈の声は、無意識に震えた。
『気をつけてな』
それだけ言うと、佐々岡が電話を切る。
そして、杏奈はしばらく動けなかった。
西沙の資料にも内閣府のことは書かれていない。
──……私たちは…………国を相手にしてるとでも言うの?
一度は引き返さないと誓った。
しかし杏奈の中に、それまで以上の恐怖が広がる。
車の外には萌江と咲恵。車に背を向けたまま遠くの山に沈んでいく夕陽を眺めていた。
──……萌江さんも咲恵さんも…………相手が誰でもやめないんだろうな…………
──…………私は?
──……また権力に歯向かうの? また何かを失うかも…………
──…………もう誰も助けてはくれない…………お母さんにも迷惑をかける…………
そして、夕陽に照らされる萌江と咲恵の背中を見ながら、気持ちを決めた。
──…………強い人たちだな…………
──……あの二人の信念にはなんの揺らぎもない…………
──…………お父さんも、そうだったの?
──………………お父さんなら……………………
杏奈は再びスマートフォンに指を乗せた。
電話の相手は母。
仕事中なのか、すぐに留守録に切り替わる。
「……お母さん…………ごめんね…………やっぱり私は……お父さんの娘だったよ…………」
その夜、佐々岡が深夜の路上で遺体となって見付かる。
警視総監の孫であることも、死因に関しても、家族のことについても報道発表はなかった。
その小さな出来事は、誰の注目も浴びなかった。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十四部「憎悪の饗宴」第3話へつづく ~
しかしそれは表向きの名前。
この神社に於いて、正式には〝蛭子〟の漢字を使う。
そして読み方は〝ヒルコ〟。
それは古事記に登場するイザナギとイザナミの子供の名前。
そこは清国会の拠点の一つ。
その地域ではかなりの規模を誇る神社でもある。
神社を護る宮司の家系は、いつの頃からかも分からないほど古くから清国会の一部として暗躍してきた。御世によって一度は意識操作を受けるも、現在でも清国会にとっては重要な拠点に他ならない。
そして蛭子神社代表の宮司────加藤苑清を筆頭に、全員が浮き足立っていた。
それは突然訪れた咲をもてなしている時に聞かされた言葉が理由だった。
「……近々…………我らの念願だった〝日の本の大掃除〟が始まります…………こちらにもこれまで以上のご協力を賜ることになるかと存じます」
もちろん神社としてはこれほど名誉なことはない。
清国会は全国に拠点を持つ。その神社の数は大小含めて五〇〇を超えた。歴史が古いだけに、当然のように派閥も存在する。それぞれの中心になるのはやはり地域に大きな影響力を持てるだけの規模を誇る蛭子神社のような所だ。
組織の二番手でもある御陵院神社の当主が直々に頭を下げに来ることだけでも名誉なこと。いざ事が動いてからの自分達の立ち位置に影響を及ぼすと考えるのも当然だった。
苑清もすでに七〇近い年齢だったが、代表の座を息子に譲らずに頂点に居続けたのは、一重にこの時の為。清国会での立場を確固たるものとした時に、自分が代表でいたかった。
その苑清は咲に深々と頭を下げた。しかし正面ではない。距離を置いて斜め前。雄滝神社の滝川家と御陵院家に対しては、同じ清国会内部での礼儀とされた。他に許されるのは背後だけ。
元々の中心となる金櫻家に至っては、頭を上げることすらも許されないというのが掟とされていた。
つまり、金櫻家の唯一の直系である萌江に対して頭を上げることが出来る清国会の会員は、滝川家と御陵院家のみ。
苑清はそれでも最大級の敬意を咲に向けるためか、起こしかけた頭を完全には上げないまま口を開いていた。
「御陵院様直々にお越し頂いたとあらば、協力など惜しむ理由は御座いません。心血を注がせて頂きます…………」
「期待をしております苑清殿。貴殿は幾多の社を束ねる御方。いざとなりは…………多くの〝力〟をも動かせる身の上のはず」
「いかにも」
「我らに反旗を向ける者たちもおります…………少々手の掛かる問題になるやも知れません。その時はお願い致します」
「何なりと」
この日、咲は一人ではない。
美由紀を伴っていた。
この時の美由紀には、すでに抵抗する理由はない。行き場などどこにもなかった。すでに自分で何かを考えることすらやめていた。
咲に誘われるまま〝西沙のためだから〟という言葉だけでここまで着いてきた。
もちろん咲の本当の目的は違う。
美由紀には〝力〟があった。
しかし、それがどれほどのものかは咲にもまだ分からない。
何より本人が自覚していない。
咲は初めて会った時に気が付いた。学校で孤立していた西沙の唯一の友達。高校時代に西沙が気が付いていたかどうかは確信が持てなかった。しかし今は確信を持って感じる。
──……西沙が気が付いていなかったはずがない…………
西沙の事務所が開設される頃には、恵麻にもその存在が知れる。
「いざという時の為に、あの娘は側に置いておくといい」
それが恵麻の指示だった。
都合のいいことに、美由紀は西沙の事務所で働くことになる。
しかし美由紀の能力は未知数。何をきっかけに目覚めるか分からない。しかも自分に反対の姿勢を見せる西沙になびく可能性は高い。
清国会としては、西沙が亡くなったことで、西沙のポジションの依代として美由紀を利用しようとしていた。同時に萌江と咲恵を引き寄せられたらそれが一番の理想。
咲は美由紀を雄滝神社に連れていく前に、どうしても美由紀の〝力〟を確かめておきたかった。御陵院神社では西沙の〝念〟が残っている可能性があると考えた。その代わりの神社として蛭子神社なら不足はない。
美由紀は慣れない巫女服に着替えさせられ、祭壇の前の咲の後ろに正座していた。
その美由紀は板間の上の座布団の端を眺めながら咲に言葉を投げる。
「……咲さん…………西沙は…………どうして死んだんですか?」
祭壇の松明がパチパチと音を立てる中、咲は背中を向けたまま視線を落として応えた。
「……おそらくは…………自分の使命に、耐えられなくなったのかと…………」
「使命…………とはどんなものですか?」
すると、咲は返答に少し間を開ける。
「……そうですね…………美由紀さんにもいずれはお話ししなくてはなりませんね…………」
咲は顔を上げて続けた。
「あれは…………自らの運命を受け入れられなかった結果でもあるのですよ」
すると、美由紀も顔を上げる。
咲の背中を見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「西沙がいつも言っていました。目の前にあるものは運命ではありません…………未来です」
咲が少しだけ顔を横に向けた。
不思議な感覚が去来する。
☆
萌江、咲恵、杏奈の三人は二カ所目の神社へと向かっていた。
最初の福禄寿神社からはそれほどの距離ではないが、それでも時間的に一泊は覚悟しなくてはならない。ルート途中の街で安いビジネスホテルを探したが、中核都市から距離があるせいかなかなか見つからない。
やっと見つかったのは小さな温泉宿。
どうせ泊まるだけだからと電話をすると部屋は空いていた。小さいとは言っても小綺麗で感じのいい宿だった。
せっかくだからと温泉で疲れを癒やし、部屋でまさかの豪勢な夕食を取りながらお酒も進む。
それでも話に登るのはやはり清国会の話題。
「福禄寿って七福神の名前なんですよね。あまり有名じゃないですけど」
やはり疲れていたのか、割と早めに顔を赤くした杏奈がそう言葉を投げると、それを咲恵が受けた。
「そうみたいよ。七福神の名前の神社って全国にあるけどね。でもあそこに関しては元々人が立ち寄るような神社でもなかったわけでしょ。変よね……御大層な名前の割に…………」
「おかげでネットには情報が一切ありません」
そこに萌江。
「とすると……やっぱり裏七福神か…………」
「裏ってどういうことなんですか?」
その杏奈の質問に、萌江は姫竹の天ぷらを口に運びながら応える。
「春だよねえ…………春は厳しい冬の終わりを告げる季節。でもその反対は? 寒い冬の訪れを感じさせる秋…………七福神は一般的には縁起物の神様。裏の七福神ってことは?」
「なんとなく…………」
「まあ公式に言われてるものじゃないけどね。都市伝説みたいなものだよ。でも清国会ならそういった感覚を利用しててもおかしくはないんじゃないかな」
そして咲恵が挟まる。
「わざわざ七福神の名前の神社を目立たないように作ってまでってことは、可能性は高いんでしょうね」
咲恵はタラの芽の天ぷらを口に運んで続けた。
「いい宿ね。当日予約の、それも夜の六時過ぎに電話してきた客に季節の料理を振る舞うなんて……しかもこれは天然物の香り…………温泉も良かったし」
すると返したのは萌江。
「常に余裕は残しておくものだよ。ましてこの天ぷらにしても茶碗蒸しにしても、ここは職人がいる所だね。それだけに料金も安くはないけど…………プロの余裕を感じる。本当に優れた人間はどこかに余裕を欠かさないからプロなんだと思うよ」
「私たちもプロだね…………」
咲恵がそう返すと、杏奈が小さく言葉を投げた。
「お二人はそうでしょうけど…………私は何も力がないし…………」
すると、お猪口に日本酒を注いだ萌江が、それを手に取りながら拾う。
「そう? プロのジャーナリストじゃん。私と咲恵だけだったらこんなにも早くは動けないよ。情報収集も早いしね」
そして日本酒を一気に喉に流し込んだ。
「そう……ですか?」
杏奈の顔はますます赤くなっていた。
そこに咲恵。
「どうせ私たちが温泉に入ってる間にも資料眺めてたんでしょ?」
「ええ、まあ…………」
そう応えながら、杏奈は鞄からタブレットを取り出して指を滑らせる。西沙からもらった資料の総てのページが画像データとして納められていた。
杏奈が続ける。
「次の寿老人神社って所は廃神社ではないので、色々とネットで情報は見付かりました。黒い噂もありますよ…………密教みたいな儀式をしてるって話もあるみたいです」
返すのは萌江。
「ネット情報じゃ信憑性は怪しいけど…………どうせ心霊スポットにでもなってるんでしょ?」
「御名答」
「でも…………今日の所が先に手が回ってたとすると、あまり期待は出来ないかもね」
「まあ…………」
「とはいうけど…………」
そう言って挟まった咲恵は自分の徳利が空になってるのに気付き、さりげなく隣の萌江の徳利に手を伸ばしながら続ける。
「そもそも私たちの目的はそこじゃないでしょ」
そして萌江から徳利を貰いながらさらに続けた。
「清国会の存在は確かに無視出来ないけど、私たちが今一番追いかけてるものは違う」
すると、隣の萌江が自分のお猪口を咲恵の前に出しながら言葉を拾う。
「確かにね。だから余裕を持っていられる」
しかし咲恵が傾けた徳利は空。
「半分ちょうだい、ちょっとだけでいいから」
そう言う萌江に杏奈が自分の徳利を差し出して口を開く。
「もう……余裕ないですねえ……」
☆
寿老人神社は福禄寿神社に比べると大きな神社だった。
街中からもそれほど離れてはいない。近くの街から少し山道に入ったくらいで到着出来た。廃神社ではないからか、道中に数カ所、看板も存在する。
広く管理された駐車場からすぐに大きな鳥居と、そこから続く長い階段。
駐車場に他に車は無かった。どうやら参拝客はいないようだ。
今日は天気もいい。
春の強めの風が少しだけ気になる程度。
その風が気になったのか、咲恵は車を降りるなり長い髪を後ろで一本に束ねた。
「スカートにしなきゃ良かったなあ」
そう呟く咲恵に萌江が返す。
「一度帰るつもりだったからね」
「嘘……分かってたくせに…………私にスカート履かせたがるのは萌江でしょ」
二人の後ろにいた杏奈が、その会話に気持ちを刺激されていた。
──……無駄に色気を感じるのはなぜ?
鳥居も綺麗な朱色のまま。ひび割れ一つ見当たらない。近くで見るとその大きさがさらに際立った。
その鳥居を潜り、三人は階段を登り始めた。
階段を囲む左右の林の隙間から、僅かに涼しげな風が三人の間を掠っていく。
その風の心地よさからか、長い階段もそれほど苦にはならなかった。
登り切ると、途端に空間が開ける。
風が変わった。
広い敷地に真っ直ぐな砂利の参道。
その左右の土ですら綺麗に整地されていた。
空の雲の流れが早い。
参道の先には大きな本殿。立派な建物だった。本殿の扉は閉まったまま、人影は無い。
参道の初めで三人は足を止めた。
最初に萌江が口を開く。
「静かだね…………何か見える?」
返すのは咲恵。
「……見えないね…………邪魔されてる?」
「多分ね…………」
萌江はそう応えると参道の砂利道を歩き始めた。
お互いになんの映像も見えない。周囲に人影がない状態で扉の閉まった本殿だけが存在する。しかし中の光景も見えなければ、萌江は未来も、咲恵は過去も見えない。
当然、逆に誰かの存在を感じた。
誰かの〝力〟を感じる。しかもそれは感じたことのある〝力〟。
「誰かいるね」
何気ない口調でそう言った咲恵が続ける。
「────一人だけ」
そしてほとんど同時に萌江と咲恵が首の後ろに両手を回す。
お互いにネックレスのチェーンを左の指に絡めて水晶を握った。
後ろを歩きながらその光景を見ていた杏奈は、全身に鳥肌が立つのを感じ、緊迫感と共に恐怖心も湧き出す。いつの間にか砂利を踏みしめる両足にも力が入っていた。
あと少しで本殿という時、本殿の扉が左右に動き始める。
その変化に三人は反射的に足を止めた。
ゆっくりと、扉の動きは滑らか。
その少し奥に、巫女服の姿。
身長は低く、その顔はまだ若く幼い。
萌江も咲恵も、思い出すまでに少し時間が掛かった。
その背後から杏奈の声。
「────陽麻さん?」
その姿は間違いなく滝川恵麻の妹────陽麻。
萌江と咲恵は一度、幻の姿で見ただけだったが、杏奈は雄滝神社への取材をした時に何度か会っていた。しかし恵麻からの紹介で会った時の印象と、今三人の目の前に現れた雰囲気のギャップに杏奈は驚いていた。
まるで印象が違う。
表情が違う。
幼い表情の中に、静かな狂気が浮かんでいた。
杏奈がその表情に寒気を覚える中、萌江が口を開く。
「〝あの時〟…………いた子ね…………どうやら幻じゃなさそうだ」
それに続くのは咲恵。
「この子にそんな能力はないよ。手を使わずに扉を開けるくらいは出来るみたいだけど」
「にしても、まさか巫女服でタクシー? あそこからじゃ遠いから自分で運転してきた?」
「巫女服で運転じゃ大変だったでしょ? 途中でコンビニも寄れないだろうし」
「お抱えの運転手でもいるんじゃない?」
しかし、わざとふざける二人に陽麻は顔色一つ変えない。
萌江が続ける。
「若いのに冗談も通じない…………あまり好きじゃないな…………わざわざこんな所まで来たってことは、よほど私たちに見られたくない物があったってことかな?」
そして、やっと陽麻の口が動く。
動くのは小さな唇だけ。体は微動だにしない。
「……ここには何も御座いません…………御二人をお待ち申しておりました…………」
それに萌江が即答する。
「嘘…………ホントは私たちが来る前に処分したかった…………だから私たちが来たのに気が付いて慌てた」
陽麻は何も応えない。
萌江が続ける。
「だって、あなた…………怯えてる…………」
それを拾うのは咲恵。
「私たちの動きは見えなかったはず…………あなたたちには見えない…………〝私たちを守る者たち〟が、私たちを隠してくれる」
そう言うと、咲恵は左足を一歩前に出しながら左腕を上げた。掌を広げ、水晶をかざしながら続ける。
「どきなさい────金櫻家の人間に楯突くなど…………貴様如きに出来ることではない」
それはもはや、咲恵の声でありながら咲恵のものではない。
萌江も当然気が付いていた。
──……今日は、大丈夫…………
萌江がそう思った時、陽麻の唇が再び動く。
「……御二人が御探しのものとは…………」
すぐに応えるのは萌江。
「秘密。教えると思ってる?」
「……どうすれば…………」
「だから秘密だってば。あなた如きの小者に用は無いから早く帰って報告でもしたら? 今回もやられましたって」
「そのような御言葉使いは…………」
そう言った陽麻が僅かに視線を落とす。
そこに萌江が食い込んだ。
「悪役みたいでしょ。別に正義の味方になるつもりはないよ。何が正しいかどうかなんて興味はない。私は大事なものを見付けたいだけ」
それを拾うのは咲恵。
「あなた方は自分たちが正しいと思ってるはず。自分たちを世界の救世主だとでも考えてるんでしょ? それって、悪役そのもの…………結局は何を信じられるか…………」
すると、陽麻は顔を伏せたまま返した。
「……私を……惑わすおつもりか…………」
萌江が即答する。
「別に。さっさと消えて欲しいだけだよ」
「それは…………御期待には添えません…………」
「そう? じゃあ対立するだけだね」
「……御探しのものとは…………」
その時、萌江と咲恵の背後から杏奈の小さな声。
「────なにか…………燃えてる…………」
そして、周囲にパチパチという小さな音が聞こえ始めた。
萌江は右手を少しだけ後ろにやると、杏奈に向けて手を上下させる。当然杏奈も気が付く。
──…………伏せろ…………?
杏奈はゆっくりと両膝を曲げ始めた。
萌江は陽麻に言葉を投げる。
「もう処分したんでしょ? 清国会に関するものは…………」
すると、俯いた陽麻の口元に笑みが浮かぶ。
直後、本殿の横の壁が弾け飛んだ。
煙を伴った木材の破片が飛び散る。
慌ててしゃがみ込む杏奈の目に映るその光景は、一気に恐怖感を生み出すには充分だった。
壁から飛び出した炎の塊が空気に飛びかかり、周囲に大きな風を起こす。そのまま、屋根を伝うように炎が本殿全体に広がっていった。
その中で、陽麻の声が響く。
「貴女様は唯一の末裔────貴女様の後にはどなたもおりません! 我らと共に…………〝日の本の大掃除〟を────!」
──…………なるほどね…………
そう思った萌江が応えた。
「古いよ。そういうの…………かっこ悪い」
その直後、萌江と咲恵の手を杏奈が掴む。
「早く! 消防来たら面倒なことに巻き込まれますよ!」
三人は階段を駆け降りた。涼しげな風を包んでいた石の階段も、熱の波を含んだように空気が澱む。
急いで車に乗り込むと、慌てたように杏奈がアクセルを踏み込んでいた。
揺れる車の後部座席で萌江が咲恵に言葉を投げる。
「あれが有名なバックドラフトってやつかな?」
すると髪を束ねていたヘアゴムを外しながら咲恵が即答した。
「かもね。ああなることが分かってたから、あの子はあそこから動かなかった。物理的に火災を起こしたみたいね。あの子にあんな能力はないよ。扉を開けたのもたぶん機械仕掛け…………ご苦労さまだこと…………私たちを上げなかったのも仕掛けを見られるからでしょ? わざわざあんな演出のために…………能力の代わりに知識と技術はありそうね……あの子」
「分かってて煽ってたの? 咲恵は若い子には厳しいなあ」
「若い子っていうより…………子供よね」
「怖いんですけど」
「萌江にしか興味ないから安心してよ」
「よく分からない安心だ」
そんな会話を運転しながら聞いていた杏奈は思っていた。
──……なんか色々と凄い…………
街に入った頃、車は何台もの消防車とすれ違った。
☆
その後、三人は一度帰路についた。
情報を改めて精査するべきだと感じたからだ。もっともルート的なこともあった。全国に点在した拠点である神社の位置は多方面だ。萌江の家を挟んで反対側にも多い。
早目の夕食後に街を後にすると、一番近い高速道路の入口までは山道が続く。それでも舗装された道路だけで行ける。
時間は深い夕方。
山肌に柔らかいオレンジ色が差し込み始めた頃、ホルダーに固定した杏奈のスマートフォンが鳴った。
すぐに杏奈は道路脇の待避スペースに車を停めた。
「警察の知り合いからです」
杏奈のその言葉に、萌江と咲恵は気を利かせて車を降りる。杏奈が佐々岡のことを二人に話したことはない。それでももちろん二人が気が付いているかもしれないことは予測していた。萌江と咲恵の能力を考えれば当然だったが、もちろん二人はそのことに口を出そうとはしない。そして杏奈は二人のそんなところも好きだった。
杏奈が電話に出ると、佐々岡はいきなり声を荒げる。
『だめだ。今回の件は終わりにしろ』
その言葉に杏奈の中の不安が膨らんでいく。
「何よ……公安が絡んでることは知ってたけど…………」
『それは間違いない。でもそんなレベルの話じゃないんだ…………内閣府が絡んでる』
「なんで……? 国が絡んでるってこと?」
『裏に内閣府がいるんだ』
小さいながらも、なおも声を荒げた佐々岡は、言葉を返せないままの杏奈の様子を感じたかのように続けた。
『俺は抜けさせてもらう…………お前も遅くない。もう関わるな』
「……そんな…………いまさら…………」
『どんな小さなことからでも未来は変えられるって言ったのはお前じゃないか』
佐々岡の懇願するかのような表情が杏奈の目に浮かんだ。
そして過去が甦る。
佐々岡との関係を解消する時に杏奈が言った言葉だった。
〝どんな小さなことからでも未来は変えられる。だから、今からだって間違いは正せる〟
「…………そうだね」
杏奈の声は、無意識に震えた。
『気をつけてな』
それだけ言うと、佐々岡が電話を切る。
そして、杏奈はしばらく動けなかった。
西沙の資料にも内閣府のことは書かれていない。
──……私たちは…………国を相手にしてるとでも言うの?
一度は引き返さないと誓った。
しかし杏奈の中に、それまで以上の恐怖が広がる。
車の外には萌江と咲恵。車に背を向けたまま遠くの山に沈んでいく夕陽を眺めていた。
──……萌江さんも咲恵さんも…………相手が誰でもやめないんだろうな…………
──…………私は?
──……また権力に歯向かうの? また何かを失うかも…………
──…………もう誰も助けてはくれない…………お母さんにも迷惑をかける…………
そして、夕陽に照らされる萌江と咲恵の背中を見ながら、気持ちを決めた。
──…………強い人たちだな…………
──……あの二人の信念にはなんの揺らぎもない…………
──…………お父さんも、そうだったの?
──………………お父さんなら……………………
杏奈は再びスマートフォンに指を乗せた。
電話の相手は母。
仕事中なのか、すぐに留守録に切り替わる。
「……お母さん…………ごめんね…………やっぱり私は……お父さんの娘だったよ…………」
その夜、佐々岡が深夜の路上で遺体となって見付かる。
警視総監の孫であることも、死因に関しても、家族のことについても報道発表はなかった。
その小さな出来事は、誰の注目も浴びなかった。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十四部「憎悪の饗宴」第3話へつづく ~
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