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第十八部「花と香りと罪」第2話
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御坂圭の両親が離婚したのは、圭が一〇才の時。
小学四年生。だいぶ物事の分別がつく多感な年齢。
専業主婦だった母は生活の場を求め、とりあえず娘の圭を連れて実家に帰るしかなかった。
そこは地方の山肌の村。村でも一番大きな地主の家だった。
歓迎されたわけではなかった。出戻りという世間体もあったのかもしれないが、元々家の反対を押し切っての結婚だったこともあり、二人は小さな離れを充てがわれただけで食事も母が母屋まで取りに行く。しかも決して贅沢な食事ではない。母屋の人間と顔を合わせることもほとんど無かった。
家は村を見下ろせる一番上。そこで一週間程経った頃、母は毎日村まで降りて仕事を探した。しかし田舎の小さな村。出戻りの親子の話はすでに村中に広がっていた。
学校にも通えない日々が続く。
仕事が見付からないままに、母はしだいに衰弱していく。フラフラとした足取りで咳き込むことが多くなり、そこで暮らし始めてから一年ほどで死んだ。
朝になっても起きない母から、いつもとは違う嫌な匂い。
圭は母屋に走った。
火葬だけはしてくれた。
葬儀はなかった。
二日後、圭は母の小さな骨壷を受け取る。両手で包める大きさしかない。
──……こんなに小さいんだ…………
墓には入れてもらえなかった。
それからしばらくの間、使用人としての労働を強制された。
例え娘の子供であっても、同時に嫌っていた男の子供。
暴力は日常茶飯事だった。
そのまま、どれくらいの日々が過ぎたのだろう。
ある夜、圭はこっそりと離れを抜け出した。服のポケットに母の骨壷を入れただけ。他には何も持ってはいない。
山の森の中をただただ歩き続けた。明るくなっても歩き続けた。
やがて大き目の道路に出るが、進む方向が分からない。出来るだけ村から離れたかった。
その道路を歩き続けて、やっと足が疲れてきた。大きな道路とは言っても山の中。水の音を頼りに川を探す。小さな川を見付け、やっと水を飲むことが出来た。川沿いの石に座り、少し休むと、途端に眠気が襲ってくる。
気が付いた時には、辺りはすでに夜。
圭は再び歩き始めた。
疲れる度に、母の骨壷を触って元気をもらう。
やがて辿り着いたのは大きな町。
目的地があったわけではない。
それでも気持ちが緩んだ。
体力は限界。
服はボロボロで泥だらけ。靴底が剥がれて足の指が見えるほどに擦り切れたスニーカー。
どこかは分からない。建物の横で座りこみ、やがて倒れた。
そのまま病院に担ぎ込まれ、警察に保護される。
何年かぶりの、まともな食事を食べた。もしかしたら普通の食事だったのかもしれない。それでも圭にとってはご馳走だった。
警官から色々なことを聞かれた。
しかし、圭が応えたのは〝圭〟という名前だけ。母からもらった大事な名前だと思えたからだ。
「君が持っていたのはこれだけだった…………これは骨壷だよね…………」
警官のその言葉に、圭は警官の手から骨壷を奪い取ると胸に抱いた。
そして驚く警官に向けて小さく言葉を投げる。
「……お母さん…………」
ボロボロになって母親の骨壷を抱きしめる少女。
その姿に、警官の中にも何か感じるものがあったのだろう。
「……そうか……ごめんね……大事な物だよね…………」
〝圭〟という名前から、すでに調査が進んでいた。
しかし行方不明の届出などはない。
やがて圭は行政に引き渡され、一時的という形で保護施設へ。
それから実家がどうしたのかは、もちろん圭には分からないまま。
少なくとも探してはいなかったのだろう。死んだことにでもされたのか。
圭は保護施設で何年も過ごすことになる。
おおよその年齢から仮の戸籍再生が行われ、中学から高校へ。
しかし施設でも学校でも問題行動が多かった。感情を暴力で表現することが多かった。警察の世話になったことも一度や二度ではない。
それはまるで、それまで知らずに溜め込んでいた何かを吐き出しているかのようだった。
高校の卒業と同時に就職した先は社員寮のある他県の工場。施設からも煙たがられていた圭にとっては、やっと自由になれるチャンスの一歩だった。
圭は毎日の短調な日々の中でお金を貯め、アパートを借りて転職。とは言っても選べる職種は少ない。経験は工場での仕事ばかり。
やっと見付けたのは夜の仕事。初めは難しくなかった。スナックで客の相手をしながらお酒を作ればいい。しかしその世界にはその世界なりの難しさがあった。それを学んでいく中で、やっと圭は社会の厳しさを感じていた。
そんな頃に二つ年上の店の客に見染められて付き合い、やがて結婚と共に仕事を辞めた。
幸せだった。
そんな日々が一年ほど続き、娘が産まれる。
圭。二〇才。
やっと、人生に何かを求め始めた。
☆
咲恵は隔週で店に顔を出していた。
一週間出て、また一週間休む。そんな生活をしてすでに数ヶ月。
咲恵のいる週はやはり常連の入りは多いが、それでも最近は他の女の子たち目当ての客も増えた。元々自分の店とは言っても、そんな部分に咲恵はホッとしていた。
──……そろそろ……このお店は一人歩きするのかな…………
少しだけ、寂しい気持ちが無いわけではない。
あまりにも多くの思い出があった。しかし今の咲恵には、もっと大事なものがあるのも事実。
その日は開店前に満田が来ていた。
以前はよく萌江も開店前に来ていたが、最近は満田が裏の情報の擦り合わせに来ることがほとんど。
咲恵が満田の目の前にボトルセットを並べ始めると、すぐに満田の口が開く。
「内閣府が動いてる」
しかし咲恵は平然とウィスキーの水割りを作りながら返した。
「夏には衆院選でしょ。お忙しいことね」
「内閣府には関係無いよ。どうせ結果は見えてる。消化試合みたいなもんだ」
満田がいつもの濃い目の水割りを口に運びながらそう言うと、あくまで咲恵も世間話でもするかのように返す。
──……前はこんな世間話で盛り上がれる頃もあったのにね…………
「内閣府が動かなくたって……あの人たちが色々とちょっかいかけてくるけどね」
「向こうからすればこっちが邪魔してると思ってるだろうさ。それに内閣府は表立っては動かんよ。今回も地味に立坂の事務所に税務調査だとさ。あいつは行政の人間ですら顧客にしてる税理士だってのに…………どんな冗談だっていうのかね」
すると、咲恵は満田のボトルで自分の水割りを作りながら返した。それはいつものこと。
「脅し?」
「おそらくな…………前に殺された県警の刑事…………あいつの名刺を捜査員の一人がこっそりと置いてったそうだ」
すると、咲恵は目を細める。
「…………悪趣味なことするのね」
満田の言う県警の刑事とは、杏奈と付き合っていた男。杏奈の依頼で清国会を調査することで殺されたと見られていた。
「あれじゃ現代の秘密結社だ。まるでCIAだよ」
「神社を潰したくらいじゃ無駄ってことなの?」
「そんなことはない。事実、それがあるから脅しに来たとも言える」
「立坂さんもそうだけど、みっちゃんにも危険が及ぶことはないの?」
自分たちなら、自分たちで身を守ることは出来るだろう。しかし実質的に別働隊のような満田と立坂を守るのは難しい。しかも咲恵たちのような能力者でもない。
いわば二人は〝蛇の会〟の情報屋のような立ち位置だ。危険な立場になる可能性も高い。
しかし心配する咲恵に対して、満田は相変わらずの明るい声で応えた。
「無くはないな。どうせ素性は割れてるだろうさ。もっとも俺たちだって覚悟の上だ。男ってのはいくつになってもカッコつけたいのさ」
それに、少しだけ間を開けた咲恵。
「…………バカ……」
「そっちだって命賭けてるんだろ」
その満田の言葉に、咲恵の目は無意識に鋭くなった。
「…………そうね…………でも、みっちゃんと立坂さんには家庭もあるでしょ」
「まあな……とは言っても俺たちも今さら足を引っ込めることは出来んさ。ま、今回は一応、報告と忠告だ」
「…………うん」
咲恵はなぜか寂しさを感じていた。
「俺たちは後方支援しかできねえ。この国の救世主を守るのは……力のある人間にしか出来ないだろ」
満田は数枚のA4用紙を三つ折りにして咲恵に手渡し、続けた。
「次に行く所の新しくかき集めた資料だ。一応な。いつも通りデジタルデータは消してる。俺が持ってると色々と厄介だ。ただ……毘沙門天は気を付けたほうがいい…………武闘派がいるようだ…………」
「穏やかじゃないのね。ま、いつものことよ」
咲恵はそう返しながら、素早く用紙を鞄に入れる。
「内閣府が一番懇意にしてる所らしい。あいつらが常に周りに張り付いてる…………」
その満田の言葉に、心なしか咲恵は声を落とす。
「それだけ大事な場所?」
「多分な。それ以上はさすがに分からなかった…………後は頼むよ」
「いいわ。どうせ私たちの素性だって知られてるんだろうし」
「変な車とかに着けられてないか?」
「任せて。私たちの存在は恵麻だって見付けられない…………」
それは萌江の能力なのか、なぜか萌江たちの動きは清国会からは見えなくなっていた。家ですら見付けられずにいる。
もちろんその謎の力によって助けられているのは事実。
それでもその理由は分からないまま。
☆
まだ夏祭りの時期には早い。
少しずつスケジュールが発表されてはいたが、まだ先だった。
それでも全国で一番早い花火大会が隣の県で開催されることは萌江も咲恵も知っていた。夏の始まりを告げるようなお祭りでもある。もちろん全国から観光客が押し掛ける。
「行かない理由はないね」
お祭りのホームページを見ながらそう言う萌江の隣で、ラップトップのモニターを覗き込みながら西沙が目を輝かせていた。
「いつなの?」
明らかに興奮気味なその口調に、隣のソファーの杏奈も微笑ましく感じていた。西沙と出会った頃には見られなかった表情だ。
最近は杏奈にとっても精神的に辛いことが多過ぎた。三人を信じてここまでやってきた。何が正しいのか、今の時点で結論を出すつもりはない。三人のためだけではない。自分で選択してきた。
母親を捨てたのは自分。その気持ちを忘れたことはない。
それでいいと思った。忘れて生きていくつもりもない。
それを背負って生きていくだけ。そう思った。
それでも、たまにあるこんな明るい日々が、杏奈には何より嬉しい。
「二週間後…………ホテル取れるかな」
萌江のその言葉に、西沙はもちろん飛び付く。
「取れるよ。お願い」
「へいへい」
半ばふざけて応えながらも、萌江も笑顔が消えない。
思えば、清国会関係以外で四人で旅行というのも初めてのこと。
意外にもあっさりと駅前のビジネスホテルが取れた。しかも四人部屋のファミリールーム。申し分なく事が進んでいく。
──……まるで何かに呼ばれてるみたい…………
萌江はその時、何気なくそう思っていた。
そして二週間後。
杏奈の運転で隣の県まで四人で向かうが、さすがに道中の道路はどこも混み合っていた。調べると毎年ホテルの予約を取るのが大変らしい。前日入りする観光客がそれほど多いという事だろう。
「よくホテル取れたよねえ」
途中で寄った高速のサービスエリアで買ったフランクフルトをかじりながら萌江がそう言うと、運転席の杏奈が笑顔で返す。
「ホントですよねえ。日頃の行いのお陰じゃないですか?」
「なんかいいことしたっけ」
後部座席の萌江のその言葉に、隣の咲恵と助手席の西沙が同時に顔を向ける。
驚く萌江が言葉を漏らす。
「……な……なによ……」
西沙が満面の笑みを浮かべて前に顔を戻す。
口を開いたのは咲恵だった。
「私たちは……あなたがいるからここにいるの…………みんな萌江には感謝してる」
それに繋げるのは杏奈。
「みんなに会えて、私は幸せですよ」
萌江は窓の外に顔を向ける。
「……まったく…………」
それでも、その微笑みは隠せていなかった。
ホテルに到着した時はすでに夕方。
ロビーは観光客で埋め尽くされているほど。スーツ姿のサラリーマンの姿は見当たらない。大きなお祭り等の時にサラリーマンが出張を外すと言うのは本当らしい。ホテルは間違いなく満室だろう。従業員も忙しそうだ。
チェックインの時に夕食のことを聞かれたが、せっかくだからと外に食べに行くことを伝える。部屋に荷物を置くと、すぐに四人はホテルを出た。
駅前を歩きながら、従業員が勧めてくれた地元料理の食べられる店を目指した。
そこは、駅の入り口の前。
突然、西沙が足を止めた。
他の三人も釣られるように足を止める。
すぐに声をかけたのは咲恵。
「どうしたの?」
言いながら西沙の顔を覗き込む。
西沙は呆然と正面を見たまま、その目からは涙が零れていた。
「…………あれ? …………なんだろ…………これ…………」
すぐに咲恵が西沙の手を取った。
意識を読み取る。
同時に萌江も何かを感じた。
途端に緊張が走る。
そして、誰かが萌江の服の裾を引っ張った。
萌江が視線を落とすと、そこには、まだ小学生にもなっていないような小さな女の子。
「呼ばれたか」
そう呟いた萌江が走り出した。
駅の中に入ると、改札近くの駅員に声を上げる。
「二番ホームの女の人! 青いジーンズに上が茶色のカーディガン! もうすぐ飛び込むよ!」
驚いた表情のその駅員が走った。
真意を確かめるよりも早く、何かに突き動かされるように走った。
二番ホーム。
そこに、香がいた。
電車がホームへ。
飛び込もうとする香をギリギリで駅員が止める。
周囲がザワついた。
項垂れる香の体を支えながら駅員が改札まで戻ってくると、そこにはホッとした顔の萌江と咲恵、西沙の姿。
駅員が近くのベンチに香を座らせた。
そこにペットボトルを持って駆け寄ってきたのは杏奈。
杏奈がそれを萌江に渡すと、萌江は蓋を開けて香の手に持たせた。
「飲んで。もう大丈夫だから…………」
そこに未だ息を切らした駅員の声。
「危ないじゃないですか──どうして…………」
それを宥めたのは杏奈だった。
「すませんでした……勘弁してあげて下さい。色々あったもので…………」
とりあえずそんな言葉を並べて誤魔化す。
「こちらとしては助かりましたが……あなた方はこちらの女性の…………」
「まあ…………知り合いみたいなものでして…………」
三人と違い、杏奈には詳細は分からない。この場合は例え嘘の言葉でもいい。今までのジャーナリストとしての癖のようなものが役に立った。
しかし信じた。
──……これには必ず意味がある……だから大丈夫…………
咲恵が膝を落とし、黙って香の手を取って目を閉じた。
驚く香の前で、萌江と西沙も手を重ねる。
香の記憶が三人に流れ込む。
自分の感情の奥底に誰かが入り込む不思議な感覚。もちろん香にとっては初めての感覚。
そして、自然と涙が零れる。
咲恵が顔を上げ、優しい瞳を向けた。
「……うん…………分かりました…………誰もあなたを責めたりはしませんよ…………」
その言葉を掬い上げるのは西沙。
「……子供たちも…………あなたを恨んでなんかいない…………」
香の両目から、大粒の涙が落ちていく。
萌江は水晶のネックレスを左手に絡めると、その水晶を香の額へ。
そして、香の中の記憶が修正されていく。
萌江の声が、ゆっくりと香の中に染み込んでいった。
「あなたの罪悪感が、あなたの死にたい気持ちを作り上げた…………苦しかったね…………ほら……見えるでしょ? 子供たちが懸命にあなたを守ってる…………私たちは子供たちに呼ばれたの…………」
香の頭に光景が浮かぶ。
〝 階段から落ちた時に、下敷きになるようにして香の体を支える女の子 〟
〝 駅のホームで、すぐ隣の男性に気付かせようとする男の子 〟
〝 そして、萌江の服の裾を引っ張る女の子 〟
香の気持ちの中に、不思議な温もりが広がった。
「私は99.9%幽霊なんか信じない。でも……あなたの子供たちは信じられる…………」
咲恵が顔を上げる。
「杏奈ちゃん……〝香さん〟を家まで送って行きたいの」
杏奈は即答する。
「いいですよ。車取ってきます」
その杏奈の瞳は、力強い。
☆
すでに辺りは暗くなっていた。
助手席の香の案内で、香のアパートを目指す。
香は言葉の端々で、何度も「すいません」を繰り返していた。それでも四人の気持ちは晴れやかな感情しかない
それは杏奈も同じ。
──……やっぱり…………着いてきて正解だった…………
赤信号で停まる。
住宅街。
斜め向かいの戸建ての家の庭が見えた。
両親と、まだ幼い子供が三人。
家族で花火を楽しんでいた。
──……私も……子供たちとあんな時間を過ごしてみたかった……………………
そう思った香の脳裏に、古い記憶が蘇る。
それは、僅かな母との思い出だった。
何才の頃のものかは覚えていない。
母親がいた頃に暮らしていた小さな八百屋の前。
夜に二人だけで花火をした。
楽しそうな母の笑顔を思い出す。
一度だけの思い出。
幸せだった。
──………………お母さん……………………
アパートの前に車が停まる。
香は助手席を降りて深々と頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けして…………」
後部座席の窓を開けた萌江が声を掛ける。
「香さんの職場の利用者さんに……〝御坂圭〟っていうおばあちゃんいるでしょ?」
香は仕事のことは話していなかった。それどころか、ここに来るまで、誰も香に何も聞こうとはしなかった。
それに驚きながらも、香が記憶を探る。
「……もしかしたら……最近新しく入った利用者さんの中に……確か…………でもどうして…………」
「明日……声掛けてみて……………………あなたはもう大丈夫…………」
走り去る車に、香は何度も頭を下げた。
──……私は…………生きててもいいの…………?
──…………子供たちが助けてくれた……それなのに私は…………
☆
御坂圭────七八才。
最近デイサービスを利用するようになった利用者だった。
身寄りはいなかった。
特別養護老人ホームから週に三回デイサービスを訪れる。もっともそれは本人の意思ではない。老人ホームがケアプランに則って作ったスケジュールに過ぎない。
事実、香はその利用者の笑顔を見たことがない。他の利用者と会話をしているのも見た事がなかった。
いつも、一人だった。
数年前に腰椎骨折をしてから車椅子の生活。軽度の認知症ということだが、特別そういった素振りは見えなかった。
──……昨日の人は、どうして御坂さんのことを知ってたんだろう…………
昨夜の経験は、香にとってはただただ不思議なことという他なかった。
しかし、大きく助けられたことは事実。
子供たちの本当の気持ちに気付くことが出来た。
まるで〝神様〟にでも出会った気分。
〝奇跡〟の中に自分がいた。
そして、御坂圭に声を掛けろというのが最後の指示だとすれば、信じてみようと思った。
誰が話しかけても、いつも素っ気ない利用者。
香はきっかけを探した。
それでも、不思議なほどに香に迷いはなかった。
「……御坂さん……今夜…………花火大会ですよね」
今日は花火大会初日。毎年のことだが、この日はいつもより長目の滞在時間になっていた。職員と利用者が一緒に庭で花火を眺められる日。庭の向かいに邪魔な建物が無いお陰で毎年綺麗に花火を見ることが出来た。
「…………花火…………?」
か細い圭のその声に、嫌な印象はなかった。
「みんなで一緒に見れるんですよ。あそこの庭から────」
香は大きなガラスの向こうの広い庭を指差した。
ガラスに映るのは、二人の姿。
すると、その光景に顔を向けたまま、圭が話し始める。
「昔…………私にも娘がいたの…………一度だけ……家の前で花火をしました……どうしても娘がしたがって…………お金も無くて立派な物は買えなかったんだけど…………でも…………幸せだった…………」
──…………そうか……………………
圭の言葉が続く。
「最近ね、小さな子供が三人…………夜になると遊びに来てくれるの…………その度に、娘を思い出して…………」
──……………………うん……………………
そして、圭が話し始めた。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十八部「花と香りと罪」第3話(第十八部最終話)へつづく ~
小学四年生。だいぶ物事の分別がつく多感な年齢。
専業主婦だった母は生活の場を求め、とりあえず娘の圭を連れて実家に帰るしかなかった。
そこは地方の山肌の村。村でも一番大きな地主の家だった。
歓迎されたわけではなかった。出戻りという世間体もあったのかもしれないが、元々家の反対を押し切っての結婚だったこともあり、二人は小さな離れを充てがわれただけで食事も母が母屋まで取りに行く。しかも決して贅沢な食事ではない。母屋の人間と顔を合わせることもほとんど無かった。
家は村を見下ろせる一番上。そこで一週間程経った頃、母は毎日村まで降りて仕事を探した。しかし田舎の小さな村。出戻りの親子の話はすでに村中に広がっていた。
学校にも通えない日々が続く。
仕事が見付からないままに、母はしだいに衰弱していく。フラフラとした足取りで咳き込むことが多くなり、そこで暮らし始めてから一年ほどで死んだ。
朝になっても起きない母から、いつもとは違う嫌な匂い。
圭は母屋に走った。
火葬だけはしてくれた。
葬儀はなかった。
二日後、圭は母の小さな骨壷を受け取る。両手で包める大きさしかない。
──……こんなに小さいんだ…………
墓には入れてもらえなかった。
それからしばらくの間、使用人としての労働を強制された。
例え娘の子供であっても、同時に嫌っていた男の子供。
暴力は日常茶飯事だった。
そのまま、どれくらいの日々が過ぎたのだろう。
ある夜、圭はこっそりと離れを抜け出した。服のポケットに母の骨壷を入れただけ。他には何も持ってはいない。
山の森の中をただただ歩き続けた。明るくなっても歩き続けた。
やがて大き目の道路に出るが、進む方向が分からない。出来るだけ村から離れたかった。
その道路を歩き続けて、やっと足が疲れてきた。大きな道路とは言っても山の中。水の音を頼りに川を探す。小さな川を見付け、やっと水を飲むことが出来た。川沿いの石に座り、少し休むと、途端に眠気が襲ってくる。
気が付いた時には、辺りはすでに夜。
圭は再び歩き始めた。
疲れる度に、母の骨壷を触って元気をもらう。
やがて辿り着いたのは大きな町。
目的地があったわけではない。
それでも気持ちが緩んだ。
体力は限界。
服はボロボロで泥だらけ。靴底が剥がれて足の指が見えるほどに擦り切れたスニーカー。
どこかは分からない。建物の横で座りこみ、やがて倒れた。
そのまま病院に担ぎ込まれ、警察に保護される。
何年かぶりの、まともな食事を食べた。もしかしたら普通の食事だったのかもしれない。それでも圭にとってはご馳走だった。
警官から色々なことを聞かれた。
しかし、圭が応えたのは〝圭〟という名前だけ。母からもらった大事な名前だと思えたからだ。
「君が持っていたのはこれだけだった…………これは骨壷だよね…………」
警官のその言葉に、圭は警官の手から骨壷を奪い取ると胸に抱いた。
そして驚く警官に向けて小さく言葉を投げる。
「……お母さん…………」
ボロボロになって母親の骨壷を抱きしめる少女。
その姿に、警官の中にも何か感じるものがあったのだろう。
「……そうか……ごめんね……大事な物だよね…………」
〝圭〟という名前から、すでに調査が進んでいた。
しかし行方不明の届出などはない。
やがて圭は行政に引き渡され、一時的という形で保護施設へ。
それから実家がどうしたのかは、もちろん圭には分からないまま。
少なくとも探してはいなかったのだろう。死んだことにでもされたのか。
圭は保護施設で何年も過ごすことになる。
おおよその年齢から仮の戸籍再生が行われ、中学から高校へ。
しかし施設でも学校でも問題行動が多かった。感情を暴力で表現することが多かった。警察の世話になったことも一度や二度ではない。
それはまるで、それまで知らずに溜め込んでいた何かを吐き出しているかのようだった。
高校の卒業と同時に就職した先は社員寮のある他県の工場。施設からも煙たがられていた圭にとっては、やっと自由になれるチャンスの一歩だった。
圭は毎日の短調な日々の中でお金を貯め、アパートを借りて転職。とは言っても選べる職種は少ない。経験は工場での仕事ばかり。
やっと見付けたのは夜の仕事。初めは難しくなかった。スナックで客の相手をしながらお酒を作ればいい。しかしその世界にはその世界なりの難しさがあった。それを学んでいく中で、やっと圭は社会の厳しさを感じていた。
そんな頃に二つ年上の店の客に見染められて付き合い、やがて結婚と共に仕事を辞めた。
幸せだった。
そんな日々が一年ほど続き、娘が産まれる。
圭。二〇才。
やっと、人生に何かを求め始めた。
☆
咲恵は隔週で店に顔を出していた。
一週間出て、また一週間休む。そんな生活をしてすでに数ヶ月。
咲恵のいる週はやはり常連の入りは多いが、それでも最近は他の女の子たち目当ての客も増えた。元々自分の店とは言っても、そんな部分に咲恵はホッとしていた。
──……そろそろ……このお店は一人歩きするのかな…………
少しだけ、寂しい気持ちが無いわけではない。
あまりにも多くの思い出があった。しかし今の咲恵には、もっと大事なものがあるのも事実。
その日は開店前に満田が来ていた。
以前はよく萌江も開店前に来ていたが、最近は満田が裏の情報の擦り合わせに来ることがほとんど。
咲恵が満田の目の前にボトルセットを並べ始めると、すぐに満田の口が開く。
「内閣府が動いてる」
しかし咲恵は平然とウィスキーの水割りを作りながら返した。
「夏には衆院選でしょ。お忙しいことね」
「内閣府には関係無いよ。どうせ結果は見えてる。消化試合みたいなもんだ」
満田がいつもの濃い目の水割りを口に運びながらそう言うと、あくまで咲恵も世間話でもするかのように返す。
──……前はこんな世間話で盛り上がれる頃もあったのにね…………
「内閣府が動かなくたって……あの人たちが色々とちょっかいかけてくるけどね」
「向こうからすればこっちが邪魔してると思ってるだろうさ。それに内閣府は表立っては動かんよ。今回も地味に立坂の事務所に税務調査だとさ。あいつは行政の人間ですら顧客にしてる税理士だってのに…………どんな冗談だっていうのかね」
すると、咲恵は満田のボトルで自分の水割りを作りながら返した。それはいつものこと。
「脅し?」
「おそらくな…………前に殺された県警の刑事…………あいつの名刺を捜査員の一人がこっそりと置いてったそうだ」
すると、咲恵は目を細める。
「…………悪趣味なことするのね」
満田の言う県警の刑事とは、杏奈と付き合っていた男。杏奈の依頼で清国会を調査することで殺されたと見られていた。
「あれじゃ現代の秘密結社だ。まるでCIAだよ」
「神社を潰したくらいじゃ無駄ってことなの?」
「そんなことはない。事実、それがあるから脅しに来たとも言える」
「立坂さんもそうだけど、みっちゃんにも危険が及ぶことはないの?」
自分たちなら、自分たちで身を守ることは出来るだろう。しかし実質的に別働隊のような満田と立坂を守るのは難しい。しかも咲恵たちのような能力者でもない。
いわば二人は〝蛇の会〟の情報屋のような立ち位置だ。危険な立場になる可能性も高い。
しかし心配する咲恵に対して、満田は相変わらずの明るい声で応えた。
「無くはないな。どうせ素性は割れてるだろうさ。もっとも俺たちだって覚悟の上だ。男ってのはいくつになってもカッコつけたいのさ」
それに、少しだけ間を開けた咲恵。
「…………バカ……」
「そっちだって命賭けてるんだろ」
その満田の言葉に、咲恵の目は無意識に鋭くなった。
「…………そうね…………でも、みっちゃんと立坂さんには家庭もあるでしょ」
「まあな……とは言っても俺たちも今さら足を引っ込めることは出来んさ。ま、今回は一応、報告と忠告だ」
「…………うん」
咲恵はなぜか寂しさを感じていた。
「俺たちは後方支援しかできねえ。この国の救世主を守るのは……力のある人間にしか出来ないだろ」
満田は数枚のA4用紙を三つ折りにして咲恵に手渡し、続けた。
「次に行く所の新しくかき集めた資料だ。一応な。いつも通りデジタルデータは消してる。俺が持ってると色々と厄介だ。ただ……毘沙門天は気を付けたほうがいい…………武闘派がいるようだ…………」
「穏やかじゃないのね。ま、いつものことよ」
咲恵はそう返しながら、素早く用紙を鞄に入れる。
「内閣府が一番懇意にしてる所らしい。あいつらが常に周りに張り付いてる…………」
その満田の言葉に、心なしか咲恵は声を落とす。
「それだけ大事な場所?」
「多分な。それ以上はさすがに分からなかった…………後は頼むよ」
「いいわ。どうせ私たちの素性だって知られてるんだろうし」
「変な車とかに着けられてないか?」
「任せて。私たちの存在は恵麻だって見付けられない…………」
それは萌江の能力なのか、なぜか萌江たちの動きは清国会からは見えなくなっていた。家ですら見付けられずにいる。
もちろんその謎の力によって助けられているのは事実。
それでもその理由は分からないまま。
☆
まだ夏祭りの時期には早い。
少しずつスケジュールが発表されてはいたが、まだ先だった。
それでも全国で一番早い花火大会が隣の県で開催されることは萌江も咲恵も知っていた。夏の始まりを告げるようなお祭りでもある。もちろん全国から観光客が押し掛ける。
「行かない理由はないね」
お祭りのホームページを見ながらそう言う萌江の隣で、ラップトップのモニターを覗き込みながら西沙が目を輝かせていた。
「いつなの?」
明らかに興奮気味なその口調に、隣のソファーの杏奈も微笑ましく感じていた。西沙と出会った頃には見られなかった表情だ。
最近は杏奈にとっても精神的に辛いことが多過ぎた。三人を信じてここまでやってきた。何が正しいのか、今の時点で結論を出すつもりはない。三人のためだけではない。自分で選択してきた。
母親を捨てたのは自分。その気持ちを忘れたことはない。
それでいいと思った。忘れて生きていくつもりもない。
それを背負って生きていくだけ。そう思った。
それでも、たまにあるこんな明るい日々が、杏奈には何より嬉しい。
「二週間後…………ホテル取れるかな」
萌江のその言葉に、西沙はもちろん飛び付く。
「取れるよ。お願い」
「へいへい」
半ばふざけて応えながらも、萌江も笑顔が消えない。
思えば、清国会関係以外で四人で旅行というのも初めてのこと。
意外にもあっさりと駅前のビジネスホテルが取れた。しかも四人部屋のファミリールーム。申し分なく事が進んでいく。
──……まるで何かに呼ばれてるみたい…………
萌江はその時、何気なくそう思っていた。
そして二週間後。
杏奈の運転で隣の県まで四人で向かうが、さすがに道中の道路はどこも混み合っていた。調べると毎年ホテルの予約を取るのが大変らしい。前日入りする観光客がそれほど多いという事だろう。
「よくホテル取れたよねえ」
途中で寄った高速のサービスエリアで買ったフランクフルトをかじりながら萌江がそう言うと、運転席の杏奈が笑顔で返す。
「ホントですよねえ。日頃の行いのお陰じゃないですか?」
「なんかいいことしたっけ」
後部座席の萌江のその言葉に、隣の咲恵と助手席の西沙が同時に顔を向ける。
驚く萌江が言葉を漏らす。
「……な……なによ……」
西沙が満面の笑みを浮かべて前に顔を戻す。
口を開いたのは咲恵だった。
「私たちは……あなたがいるからここにいるの…………みんな萌江には感謝してる」
それに繋げるのは杏奈。
「みんなに会えて、私は幸せですよ」
萌江は窓の外に顔を向ける。
「……まったく…………」
それでも、その微笑みは隠せていなかった。
ホテルに到着した時はすでに夕方。
ロビーは観光客で埋め尽くされているほど。スーツ姿のサラリーマンの姿は見当たらない。大きなお祭り等の時にサラリーマンが出張を外すと言うのは本当らしい。ホテルは間違いなく満室だろう。従業員も忙しそうだ。
チェックインの時に夕食のことを聞かれたが、せっかくだからと外に食べに行くことを伝える。部屋に荷物を置くと、すぐに四人はホテルを出た。
駅前を歩きながら、従業員が勧めてくれた地元料理の食べられる店を目指した。
そこは、駅の入り口の前。
突然、西沙が足を止めた。
他の三人も釣られるように足を止める。
すぐに声をかけたのは咲恵。
「どうしたの?」
言いながら西沙の顔を覗き込む。
西沙は呆然と正面を見たまま、その目からは涙が零れていた。
「…………あれ? …………なんだろ…………これ…………」
すぐに咲恵が西沙の手を取った。
意識を読み取る。
同時に萌江も何かを感じた。
途端に緊張が走る。
そして、誰かが萌江の服の裾を引っ張った。
萌江が視線を落とすと、そこには、まだ小学生にもなっていないような小さな女の子。
「呼ばれたか」
そう呟いた萌江が走り出した。
駅の中に入ると、改札近くの駅員に声を上げる。
「二番ホームの女の人! 青いジーンズに上が茶色のカーディガン! もうすぐ飛び込むよ!」
驚いた表情のその駅員が走った。
真意を確かめるよりも早く、何かに突き動かされるように走った。
二番ホーム。
そこに、香がいた。
電車がホームへ。
飛び込もうとする香をギリギリで駅員が止める。
周囲がザワついた。
項垂れる香の体を支えながら駅員が改札まで戻ってくると、そこにはホッとした顔の萌江と咲恵、西沙の姿。
駅員が近くのベンチに香を座らせた。
そこにペットボトルを持って駆け寄ってきたのは杏奈。
杏奈がそれを萌江に渡すと、萌江は蓋を開けて香の手に持たせた。
「飲んで。もう大丈夫だから…………」
そこに未だ息を切らした駅員の声。
「危ないじゃないですか──どうして…………」
それを宥めたのは杏奈だった。
「すませんでした……勘弁してあげて下さい。色々あったもので…………」
とりあえずそんな言葉を並べて誤魔化す。
「こちらとしては助かりましたが……あなた方はこちらの女性の…………」
「まあ…………知り合いみたいなものでして…………」
三人と違い、杏奈には詳細は分からない。この場合は例え嘘の言葉でもいい。今までのジャーナリストとしての癖のようなものが役に立った。
しかし信じた。
──……これには必ず意味がある……だから大丈夫…………
咲恵が膝を落とし、黙って香の手を取って目を閉じた。
驚く香の前で、萌江と西沙も手を重ねる。
香の記憶が三人に流れ込む。
自分の感情の奥底に誰かが入り込む不思議な感覚。もちろん香にとっては初めての感覚。
そして、自然と涙が零れる。
咲恵が顔を上げ、優しい瞳を向けた。
「……うん…………分かりました…………誰もあなたを責めたりはしませんよ…………」
その言葉を掬い上げるのは西沙。
「……子供たちも…………あなたを恨んでなんかいない…………」
香の両目から、大粒の涙が落ちていく。
萌江は水晶のネックレスを左手に絡めると、その水晶を香の額へ。
そして、香の中の記憶が修正されていく。
萌江の声が、ゆっくりと香の中に染み込んでいった。
「あなたの罪悪感が、あなたの死にたい気持ちを作り上げた…………苦しかったね…………ほら……見えるでしょ? 子供たちが懸命にあなたを守ってる…………私たちは子供たちに呼ばれたの…………」
香の頭に光景が浮かぶ。
〝 階段から落ちた時に、下敷きになるようにして香の体を支える女の子 〟
〝 駅のホームで、すぐ隣の男性に気付かせようとする男の子 〟
〝 そして、萌江の服の裾を引っ張る女の子 〟
香の気持ちの中に、不思議な温もりが広がった。
「私は99.9%幽霊なんか信じない。でも……あなたの子供たちは信じられる…………」
咲恵が顔を上げる。
「杏奈ちゃん……〝香さん〟を家まで送って行きたいの」
杏奈は即答する。
「いいですよ。車取ってきます」
その杏奈の瞳は、力強い。
☆
すでに辺りは暗くなっていた。
助手席の香の案内で、香のアパートを目指す。
香は言葉の端々で、何度も「すいません」を繰り返していた。それでも四人の気持ちは晴れやかな感情しかない
それは杏奈も同じ。
──……やっぱり…………着いてきて正解だった…………
赤信号で停まる。
住宅街。
斜め向かいの戸建ての家の庭が見えた。
両親と、まだ幼い子供が三人。
家族で花火を楽しんでいた。
──……私も……子供たちとあんな時間を過ごしてみたかった……………………
そう思った香の脳裏に、古い記憶が蘇る。
それは、僅かな母との思い出だった。
何才の頃のものかは覚えていない。
母親がいた頃に暮らしていた小さな八百屋の前。
夜に二人だけで花火をした。
楽しそうな母の笑顔を思い出す。
一度だけの思い出。
幸せだった。
──………………お母さん……………………
アパートの前に車が停まる。
香は助手席を降りて深々と頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けして…………」
後部座席の窓を開けた萌江が声を掛ける。
「香さんの職場の利用者さんに……〝御坂圭〟っていうおばあちゃんいるでしょ?」
香は仕事のことは話していなかった。それどころか、ここに来るまで、誰も香に何も聞こうとはしなかった。
それに驚きながらも、香が記憶を探る。
「……もしかしたら……最近新しく入った利用者さんの中に……確か…………でもどうして…………」
「明日……声掛けてみて……………………あなたはもう大丈夫…………」
走り去る車に、香は何度も頭を下げた。
──……私は…………生きててもいいの…………?
──…………子供たちが助けてくれた……それなのに私は…………
☆
御坂圭────七八才。
最近デイサービスを利用するようになった利用者だった。
身寄りはいなかった。
特別養護老人ホームから週に三回デイサービスを訪れる。もっともそれは本人の意思ではない。老人ホームがケアプランに則って作ったスケジュールに過ぎない。
事実、香はその利用者の笑顔を見たことがない。他の利用者と会話をしているのも見た事がなかった。
いつも、一人だった。
数年前に腰椎骨折をしてから車椅子の生活。軽度の認知症ということだが、特別そういった素振りは見えなかった。
──……昨日の人は、どうして御坂さんのことを知ってたんだろう…………
昨夜の経験は、香にとってはただただ不思議なことという他なかった。
しかし、大きく助けられたことは事実。
子供たちの本当の気持ちに気付くことが出来た。
まるで〝神様〟にでも出会った気分。
〝奇跡〟の中に自分がいた。
そして、御坂圭に声を掛けろというのが最後の指示だとすれば、信じてみようと思った。
誰が話しかけても、いつも素っ気ない利用者。
香はきっかけを探した。
それでも、不思議なほどに香に迷いはなかった。
「……御坂さん……今夜…………花火大会ですよね」
今日は花火大会初日。毎年のことだが、この日はいつもより長目の滞在時間になっていた。職員と利用者が一緒に庭で花火を眺められる日。庭の向かいに邪魔な建物が無いお陰で毎年綺麗に花火を見ることが出来た。
「…………花火…………?」
か細い圭のその声に、嫌な印象はなかった。
「みんなで一緒に見れるんですよ。あそこの庭から────」
香は大きなガラスの向こうの広い庭を指差した。
ガラスに映るのは、二人の姿。
すると、その光景に顔を向けたまま、圭が話し始める。
「昔…………私にも娘がいたの…………一度だけ……家の前で花火をしました……どうしても娘がしたがって…………お金も無くて立派な物は買えなかったんだけど…………でも…………幸せだった…………」
──…………そうか……………………
圭の言葉が続く。
「最近ね、小さな子供が三人…………夜になると遊びに来てくれるの…………その度に、娘を思い出して…………」
──……………………うん……………………
そして、圭が話し始めた。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十八部「花と香りと罪」第3話(第十八部最終話)へつづく ~
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