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第二二部「冷たい命」第1話
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御陵院神社。
そこは憑き物専門の神社であると同時に、古くから清国会のナンバー2としての立場を堅持してきた。
清国会の設立当初から頂点に君臨する雄滝神社から最も信頼を置かれている神社でもある。三番手に位置する蛭子神社とは〝位〟の点で大きな開きすら有する。蛭子神社のような派閥も存在しない。他の社からすれば、いわば別格の存在。清国会にとっても唯一雄滝神社を支えることの出来る社としての立場。
しかしそこに、いや、だからと言うべきか、大きな問題が存在した。病巣に巣食う腫瘍のように、やがてそれは清国会を悩ます。
御陵院神社の現在の当主は咲。
夫の祐也は婿養子。元々神職の血筋ではなく、地元の財閥の産まれで会計士をしていた過去を持つ。現在も経営の分野で御陵院神社を支えていた。もちろんその繋がりを作ったのは清国会。
代々女宮司だけで繋がれてきた神社。なぜか必ず三姉妹が産まれ、誰かが病気などで命を落とすようなことがあっても替えがいた。
咲は比較的若い内に当主となったが、その能力の高さは雄滝神社からも重宝されていた。その咲にも娘が三人。
長女────綾芽。
次女────涼沙。
三女────西沙。
その中でも三女の西沙は雄滝神社の現当主である滝川恵麻と同じ日に産まれ、その能力は幼い頃から二人の姉を凌いだ。
そして日本神話に登場する〝ヒルコ〟の産まれ代わりとされた。
イザナギとイザナミの間に産まれた最初の子。
最初の〝神〟────。
しかしヒルコは海に流される。
古事記には〝産める子良く有らず〟としかその理由は記されていない。
誰にもその訳が伝えられることのないまま歴史に埋もれた神。
それでも、清国会はそこに〝負の念〟を見出した。
〝穢れ〟の存在を感じた。
日の本を統治する天照大神の血筋を支えられるのは、同じ血を持つヒルコしかいないと考えた。
その〝穢れた血〟が欲しかった。
その産まれ代わりが西沙であると最初に気が付いたのは雄滝神社の滝川恵麻。
まだ恵麻が当主になる前。幼い頃。
しかし清国会にとっての腫瘍は、まさにそこにいた。
西沙は清国会に対抗する組織として〝蛇の会〟を立ち上げ、母や姉、強いては清国会に弓を引いてきた。
親姉妹を捨ててでも、西沙は自らの道理を通したかった。
それは、自分を恐れ、自分を受け入れてくれず、自分を突き放そうとした家族への反抗でもあった。
☆
真実を知ること
それは
恐怖を受け入れること
☆
すでに夕暮れで空が赤く染まり始めていた。
空気までもが色を帯びる。
税理士の立坂修二が顧客である御陵院神社に呼ばれることは滅多にあることではない。もちろん仕事の関係で月に数回出入りしてはいたが、咲から直接呼び出されるなど、西沙が神社を出た時以来だろう。
立坂が御陵院神社を顧客にしてから、すでに長い年月が経っていた。まだ西沙が高校生の頃だ。立坂は仕事上で神社の裏帳簿に疑問を持って調べ始め、やがて清国会の存在に辿り着く。そして同じく清国会に疑問を持っていた西沙と共に〝蛇の会〟を立ち上げて清国会を調べた。
西沙の能力に驚異を感じていた咲に対して、立坂は自らが身元引受人になることを提案し、やっと西沙は御陵院神社から物理的に解放された。
その前後に何度か咲から西沙のことで呼び出されることはあったが、それからしばらくは仕事上の付き合いだけ。西沙の事務所が閉鎖されてからは電話もほとんどなかった。とは言っても清国会自体は蛇の会の存在そのものは認知している。当然のように立坂の存在も調べはついているはず。そう立坂は思っていたが、泳がされているのか、御陵院神社の側から直接の動きは無い。立坂も御陵院神社とは少しずつ距離を置き始め、最近では事務所の別の職員に任せることが多くなっていた。
御陵院神社の本殿とは別の社。別邸のような建物に、神社の事務所があった。いつも立坂が出入りするとしたらその|事務所くらいのもの。
立坂が夕方に到着すると、そこには咲と夫の祐也だけ。
以前にも立坂の税理士事務所に調査と称して内閣府の人間が訪れたことがある。それはいわば脅しのようなものだったが、内閣府を直接動かせるとしたら清国会でも雄滝神社か御陵院神社だけ。そうやって物理的に動いてきた過去があるだけに、立坂も少々身構えていたのは事実。
駐車場には御陵院家の所有する車が二台あっただけ。しかし立坂の後に内閣府が来れば簡単なこと。車の有無だけでは安心出来なかった。
事務所は決して狭くはない。事務机が二つと書類用の棚が壁一面を埋めていたが、一番存在感があるのは応接室のような役割でも賄えそうな向かい合った大きなソファー。その間にある小さなテーブル。
そのテーブルを挟んで、立坂の前には咲と祐也が座っていた。
窓からの夕焼けが二人の顔を照らす中、咲がゆっくりと口を開く。
「本日は、どうしても立坂さんにお伝えしなくてはならないことがございまして……」
すると立坂は仕事上の慣例なのか、あくまで冷静に返した。
「改まってどうされました? 何か帳簿上で問題でも?」
「……その帳簿のことなんですが…………」
その咲の言葉に、本能的に立坂の中に嫌なものが走り抜ける。
咲の言葉が続いた。
「立坂さんが作った裏帳簿の件で……ちょっと…………」
「────なかなか面白いことをおっしゃいますね」
──……冷静になれ…………
「あれは前任の税理士から引き継いだ物です……それは咲様もご存知のはず……」
しかし咲は表情も変えずに、微かな笑顔を浮かべるだけ。
──……さすがは清国会の屋台骨…………まともな人間じゃない…………
それに応えたのは咲の横の祐也。
「警察の方々が見えられています」
その言葉を咲が拾う。
「お分かりですね?」
──…………なるほど……
咲の言葉が続く。
「立坂さんが未だ娘と関わっていらっしゃることは調べがついております……まあ、普通に考えるならば感謝こそすれ…………〝蛇の会〟は、ちょっと…………」
──……何を言っても無駄か…………
「では、警察と内閣府の方々をお招きさせていただきますね」
その咲の言葉を受け、祐也が立ち上がる。無言で部屋を出て行った。廊下の足音がいつもより大きく聞こえる。
──…………内閣府……そういうことか…………
立坂は、人間とは思えない、冷静で冷たい、咲のその笑顔を見続けていた。
☆
室町時代。
大永二年。
西暦一五二二年。
そこは小さな村だった。決して歴史に名を残すような土地柄でもない。どこにでもあるような山間部に挟まれた小さな集落。
戌亥村。
そんな小さな村でも、やはり古くからの信仰は存在した。遥か昔から人々の中に浸透してきた神道。それはもはや生活の一部でもあった。
その中心にいたのは小さな神社────戌亥神社。
村人の心の拠り所となっていたような場所。その神社を中心に村の総てが動いていたと言ってもいい。それが土着信仰であり、当時はそれに疑問を持つ者など誰もいなかった。だからこそ平穏が保たれた。
戌亥神社を護ってきたのは加藤家。元々戌亥村を集落として定着させた最初の血筋だったと文献には残っていた。
現在の当主は四代目の加藤砂宮────三五才。
妻は村の家から嫁いできたばかりのオユキ────二五才。
跡取りはまだいない。
そして、二人とも外の世界を知らなかった。
村の中だけが、二人と村人達の世界。そして、村人の誰もがそれ以上を求めてはいない。
砂宮の村人達からの信頼は厚かった。村人達からの相談にも真摯に耳を傾けて的確な答えを導き出していく砂宮に、村人達もその人柄を支えていった。そして砂宮もそれに応え続け、やがては先代以上に村の中心となっていく。それは砂宮の持つ〝先を見る力〟に村全体が信頼を寄せていたからに他ならない。
砂宮はまだ先代が生きていた若い頃から自分の能力を明確に認識していた。すぐ先の小さなことから後々に起こるであろう大きな出来事までを言い当てた。しかも砂宮自身、自らのその力に決して臆することはなく、村の人々の為に役立てようと邁進してきた。
その日は、時期も然る事ながら寒い夜だった。
子の刻。
月明かりも無いような暗い夜。
砂宮は、小さく、小さな社を揺らす振動に目を覚ました。
暗い夜であることは障子から入る月明かりの弱さで分かった。
しだいに大きくなる振動に、砂宮はオユキを揺り起こす。
お互いに顔を見合わせた直後、本殿の板戸が叩かれた。音の方角的に裏口ではない。
二人は本殿に向かう。何度も繰り返し叩かれる正面の板戸を開けた。
そこには狩衣姿の神職の人間と思われる若者。その背後には位の上であろう狩衣姿の男。狩衣の色からそれは予想出来た。
さらにその後ろの参道には大きな籠と数十名の従者の姿。どこかの大きな神社からの使者であることが推測された。
板戸を開けた若い神職の男が最初に口を開く。
「かような夜更けに辱き事。戌亥神社御当主、加藤砂宮殿とお見受けいたしまするが、相違はござらぬか」
小さい神社とは言っても砂宮も神職に関わる者。決して臆することなく応えた。
「いかにも。我が加藤砂宮である。今宵は御急ぎの御用件でございまするか」
すると、若い男の後ろにいた男が一歩踏み出す。
そして砂宮に言葉を向けた。
「我は雄滝神社が当主、滝川氏綱と申す者。清国会の頂点に座しておる」
氏綱は齢四二。
雄滝神社の当主になったのは三年程前。それは同時に清国会の頂点に立つということでもある。その肩に掛かる重責は決して軽いものではない。
そして、氏綱は大きな問題を抱えていた。それは今に始まったものではない。長い年月の中で清国会を悩ませてきた問題だった。
しかし砂宮がそんなことを知るはずもない。
「清国会……失礼ながら初めてお聞きする御名前……何せ我等は御覧の通りの貧しき神社ゆえ……」
「清国会は朝廷をも動かす神道の中核」
そんな組織が存在することなど知るはずがない。しかも朝廷をも動かすと聞かされてもすぐに信じられるものではなかった。
──……信じてよいものかどうか…………
「そのような畏れ多い方々が何故にかような所へ────」
そう言う砂宮の不安を感じ取ったのか、氏綱は畳み掛ける。
「では、恵比寿神社は御存知であるか」
恵比寿神社の存在は砂宮でも聞き知っていた。しかも神社自体の大きさだけに留まらず、その派閥とも言える勢力の大きさは戌亥村のような小さな集落にまで響いていたほど。
砂宮は言葉を選びながらも返していく。
「……確かに聞き存じてはおりますが…………」
「かの神社は他国の社をも束ねる影響力の強き所。そこを御主に任せたくて馳せ参じた次第」
「……任せるとは…………いや……そのような大それた事…………」
反射的にそう返した砂宮に対し、氏綱は顔色一つ変えずに応えた。
「程なくして現当主の遠藤家が失脚する〝予見〟がある。御主にも先が見えると聞いておる」
氏綱は清国会の人脈を利用して加藤家のことを調べ上げていた。その上で加藤砂宮に目を付ける。清国会内部ではなく外部の人間を求めたのは、その素性や人間関係からの派閥を恐れたから。田舎の小さな神社の名も無き宮司なら、言わば無垢のようなもの。清国会としては扱いやすいと考えた。
しかし砂宮は毅然と応えた。
「有難き御言葉なれど、我は代々戌亥神社を護る立場……村人達を見捨てる訳には参りませぬ」
その直後、籠の遥か後ろの空が明るくなる。
砂宮は胸騒ぎを覚えた。
──……あの空…………いつぞやの夢で…………
その明るさは、大きく揺らぎ、そして広がっていく。
そして氏綱の言葉が砂宮の不安を増幅させる。
「……始まったようだ…………」
「────一体何が起こったと────」
「…………恵比寿の遠藤重富だ……村を焼き払って御主の力を奪いに来たのだ……御主の力は強大にて野放しには出来ぬ……かような小さな村で終わる器ではない」
しかし、村に火を放ったのは実は氏綱だった。
この夜の事は砂宮の〝怨みの念〟を作り出す為の自作自演に過ぎない。
それを企てた氏綱は、小さく呟くかのように口を開いた。
「御主にもこの光景は見えていたはず…………かような狼藉……決して許されぬ…………」
恵比寿神社当主、遠藤重富は清国会にとってはいわば暴れ馬。しかもその派閥の影響力は大きい。しかも清国会の内紛の元となっていた。このままでは内乱は大きくなるばかり。
氏綱は遠藤家ではなく、その勢力を取り込もうとした。
そしてその圧倒的な情報量は、砂宮の冷静な判断力を失わせていく。
☆
電話番号は変えた。
何も言わずに引っ越した。
しかも引っ越し先は山の中の萌江の家。
杏奈の仕事上の取引先など、もちろん母の果穂は知らない。
警察に捜索願いを出さない限り、杏奈が見付かるはずがない。
しかも母の家と杏奈の生活圏はまるで違う。仕事の関係で移動の多い杏奈と違い、看護士をしている果穂が暮らしている街を出ることは稀だった。
咲恵を街まで送った夕方。
どうしてその街に母がいるのか、杏奈は最初全く理解が出来ないまま。
──……帰る前に買い物しようなんて……なんで思ったんだろう…………
最近通い始めた古着屋の帰り。
最近たまにそんなことがある。杏奈が街まで買い物に行くタイミングで咲恵を街まで送る。そして咲恵が休みの前日の夜に迎えに行く。
杏奈に時間が出来たことも理由だった。しばらくは岡崎の出版社にも出入り出来ずにいた頃。事実、岡崎からの依頼も八頭鴉島の一件以来止まっていた。
──……こんなに長く休んだことないな…………
決して大きな通りではない。裏通りの細い道。大きな通りほど人も歩いてはいない。
そんな中で、例え久しぶりとはいえ、母親の顔を見間違えるわけがなかった。どうしてそこにいるのかなど考える余裕もない。
しかしそれは母の果穂にとっても同じ。
忘れるわけがない一人娘。
お互いに目を合わせたまま、何も言葉が出てこない。
何の音も聞こえない。
もう会えないかもしれない────合うことはない…………そう杏奈は思っていた。
──……でも…………お母さんは…………?
その母に無言で促されるまま、杏奈は近くの喫茶店に足を向ける。
目の前で母がドアを引き開け、そのドアが杏奈の視界の中で、ゆっくりと閉まりかける。
──……このまま閉まれば……総て無かったことに出来るの…………?
──…………このまま逃げ出せば………………
杏奈は、目の前の閉まりかけたドアを手で止めていた。
そして開く。
時は止まらない。
どんなに願っても、未来はしだいに押し寄せる。
昔ながらの歴史を感じさせる店内。
まだ外は明るいが、それでも間接照明が僅かに灯る店内は薄暗い。
パチパチとBGMのレコードからの埃の音が微かに空気を揺らす。古いアコースティックなジャズが流れるが、ゆっくりとした曲調が店の雰囲気を演出していた。
経営者のセンスを感じる。元々杏奈もこういった個人経営のこじんまりとした店が好きだった。そしてそれは、なにより母の影響でもある。
元々は父の好み。その父が遠くの戦場で消息を経ったのは杏奈がまだ学生の頃だった。杏奈が社会人になってから、母と二人でよくこんな店に通っていた。そして、母がそんな小さな店を好きになったのが父の影響であることは聞いていた。
──……お父さんも……この店なら気に入ってくれるかな………………
不思議と杏奈は父のことを思い出していた。
ほとんど家にはいなかった記憶しかない。たまに日本に帰ってきても、いつも疲れた顔の思い出ばかり。それでも杏奈には出来るだけ笑顔を向けてくれていることは分かっていた。
いつも何かに疲れ、そして優しい父。
父がもう帰らないと母から聞かされた夜、初めて杏奈は父親の仕事を知った。
戦場で〝人の死〟を写真に収める仕事。
しかし杏奈は父親の仕事をこう理解した。
父は人間の〝極限の生き様〟を見たかった────もちろん真意は分からない。どうして父親がそれほどまでに〝生き様〟というものに興味があったのか。杏奈の印象では、それほど他人に興味がある人には見えなかった。そんな父がなぜ危険な戦場に自ら飛び込んでいったのか、想像するしかない。
だから杏奈もジャーナリストの道を選んだ。
父の求めたものを、見てみたかった。
〝死〟を〝エンターテイメント〟と考える人々がいる。
父親もそうだったのかもしれないと考えたことがあった。しかし、それならあんなに寂しい表情を浮かべるとも思えない。
〝死〟を〝生〟と捉える人々がいる。
杏奈には想像もしていない世界だった。真逆の存在だと思い込んでいた。しかしそれが〝生き様〟に繋がるものであると杏奈は無意識に感じていた。
それを気付かせてくれた西沙と出会っていなかったら、自分も戦場に行っていただろうと常々思っている。
そして未だ何かが霧に包まれたまま、今でも戦場への夢を諦めてはいない。
「……いつも……あなたは一人で決めるのね…………」
母の果穂が冷めかけたコーヒーを見つめながらまるで呟くようにそう言うが、杏奈は空になりかけたコーヒーカップを両手で抱えたまま何も返せないまま。
杏奈が答えにくい投げ掛けであることは果穂も分かっていた。だからこそ答えを待たずに続ける。
「お父さんと同じ…………突然……勝手にいなくなって…………」
──…………そうだよね…………
「勝手かもしれないけど……あの人にはあの人なりの信念があったんだと思う…………もちろん夫婦だって相手のことを総て理解なんか出来ないから……私の願望なのかもしれないけど…………決して、あなたやお母さんを蔑ろにしていたわけじゃない」
──……今は……私にもそれは分かる…………
「……あなたの行動にも…………意味があるのよね………………」
その果穂の言葉に、杏奈は懸命に言葉を選んでいた。
──……お母さんに危険が及ぶのが怖かった…………でも説明出来ない…………
──……誰も知らない清国会も蛇の会も……どう説明したらいいの…………
──…………命の危険なんて…………心配をかけるだけだ…………
「あなたの選択は、間違ってないのね?」
真っ直ぐな果穂の目が、杏奈の気持ちを揺さぶる。
──……私が選んだことは…………ホントに正しかったのかな…………
──…………私があそこにいる意味って何だろう…………
──……どうして私はみんなと一緒にいるんだろう…………
──…………私には何の力も無いのに………………
そして杏奈は、やっと口を開いていた。
「…………段々と…………分からなくなってきて…………私ってもしかしたら…………」
いつの間にか、杏奈の目に涙が浮かぶ。
無意識に感情が揺れていた。
そして、果穂が溢れそうになる一人娘の気持ちを受け止める。
「……どんなことでも、とは言わない……でもきっとチャンスはある……それを見付けることが出来れば、やり直せるものよ…………私がそうだったから…………もしも気持ちに迷いがあるなら、いつでも戻ってきなさい」
果穂はそう言ってコーヒーカップを両手で持ち上げた。
☆
咲恵が買い出しを終えて店の鍵を開けた頃、すでに空は夕陽から夜の色へ。
レジ袋を持ったままカウンターの中を通りバックヤードへ。
壁のスイッチを押して電気を点けた時、満田からの電話に咲恵は軽く溜息を吐いた。
「どうしたの? こんな時間に……今週ならお店に出てるから────」
いつの間にかプライベートとは違う少し気怠い口調へと変わっていることには咲恵も気が付いていた。どこかで無意識の内に切り替えている。客商売の長さが伺えた。
しかし満田の口調が咲恵をプライベートに引き戻す。
『立坂が拘束された』
「どういうことよ」
咲恵は反射的に返していた。
それに応える満田の声は重い。
『まだ逮捕令状は出てない。捜査令状付きの任意同行だ……それでも二四時間以上警察庁に拘束されたまま……こんなバカな話があるか……しかも内閣府も絡んでる』
「ってことは…………咲さん?」
その咲恵の声が僅かに弱まる。
『拘束された場所は御陵院神社だから間違いないだろうな。あからさまに攻めてきやがった…………』
満田が唇を噛み締めている様が咲恵の頭に浮かんだ。
その満田が続ける。
『あの神社の税務処理をしていたのは立坂だ。例の裏帳簿の存在がある限りはいくらでも罪状なんてでっち上げられるさ。最も、アレが無かったら今の蛇の会も無いけどな』
「みっちゃんは大丈夫なの⁉︎」
『俺はしばらく裏の連中の所に身を隠すよ。あいつらの情報提供のお陰で早く動けたしな。俺の事務所と家にも捜査員と称する奴らは来たらしい』
たまに満田から聞いたことはあったが、満田と付き合いの長い咲恵でも満田の裏の人間関係までは知らない。満田も教えようとはしなかった。しかしそれが情報収集に役立ってきたのは事実。
「それじゃ時間の問題じゃないの…………」
咲恵はそう応えながら自分の心臓の音が早くなっているのを感じていた。満田とは自分の店を始める前、前の店からの長い付き合い。そして、萌江と咲恵に裏の仕事を最初に持ち込んだのも満田だった。しかも現在は蛇の会を大きくした立役者でもある。
──……外堀から物理的に攻めてきてるって言うの…………?
『そうなる前に何とか頼むよ。俺も立坂もこうなりゃ無力だ…………みんなも気を付けてくれ…………』
満田はそう言うしかなかった。
そんな珍しい満田の弱気な発言に、咲恵も精一杯の虚勢を張るしかないまま。
「……何とかする…………任せて…………」
その咲恵からの報告を山の中の家で受けたのは萌江と西沙だった。
「何か裏があるね…………」
そう言ってコーヒーを口に運んだ萌江の側で、西沙も不安そうな表情を浮かべたまま。
薪ストーブの中で炭化した薪が崩れる音。その音が僅かに空気を揺らした。
スマートフォンのスピーカーから咲恵の声が続く。
『物理的に動いてきたね……今までは西沙ちゃんの力で押さえ込めてたけど、そこを崩してきた誰かがいる…………』
「……まさか……」
思わずそう呟いた西沙にすぐに返したのは萌江だった。
「完璧というものは存在しないよ。しかも私たちより優れた人間はいくらでもいる…………咲恵、雫さんにも連絡をしておいてもらえる? こっちでも動きがありそうだ。また連絡するよ」
萌江が含みを持たせた言葉遣いをした時点で、電話の向こうの咲恵は何かを感じ取った。
『……分かった。そっちは頼むわね』
咲恵はそれだけ応えると通話を切る。
「相変わらず二人だけで会話しないでよ」
すぐにそう言った西沙が続ける。西沙も二人のやり取りに何かを勘づいていた。
「何があるっていうのよ⁉︎」
明らかに西沙は苛立っていた。それは自らの〝幻惑〟の能力が破られたからに他ならない。今までは毘沙門天神社のみならず蛇の会のメンバー全員を西沙の能力が守ってきた。今回のような物理的な攻撃を防いできた────はずだった。
しかしそれが今回〝誰か〟によって崩された。
──……完璧なはず…………綾芽にも涼沙にも破れなかった……恵麻にだって…………
西沙の中で不安だけが膨らんでいく。
実際、雄滝神社の恵麻のみならず、直接の西沙の姉妹である綾芽と涼沙、ましてや母の咲ですら西沙の居場所さえ特定することが出来ていなかった。
──……力が弱まってる…………?
──…………私の責任なの…………?
八頭鴉の一件以来、西沙は確かに気持ちの中にわだかまりのようなものを抱えていた。それこそが〝穢れ〟というものであることは西沙自身も理解はしている。
御世を長い歴史から解放することが出来た。そのこと自体は間違ってはいない。
しかし何かが気持ちの中心で疼いている。
西沙は〝自分〟と向き合っていた。
しばらく無言でいた萌江が立ち上がり、薪ストーブへと向かうと膝を落として扉を開く。室内はすでに充分過ぎるほど暖まっていた。ストーブ内部の火はだいぶ小さく落ち着いている。萌江はそこに小ぶりな薪を一本だけ差し込むように入れると、ゆっくりと扉を閉じた。
西沙は落ち着かないままその萌江の背中を見つめていた。懸命に気持ちを抑える。取り乱しそうになる自分がいる。何かは分からないが、気持ちのどこかが不安を押し上げる。
──……私の悪い癖だ…………落ち着かなきゃ………………
その時、外からの車の音。
二人には聞き慣れた杏奈の車の音。
西沙が縁側のガラス戸へと顔を向けた。
西沙の中の何かがザワつく。
時間はすでに夜。厚手のカーテンがその大きなガラスを塞いでいる。
そこに聞こえるのは背中越しの萌江の声。
「……何があっても……冷静にいなきゃダメだよ……」
──………………え?
西沙が萌江に顔を向けるが、未だ萌江は背中を向けたまま。
そのまま呟く。
「…………嫌だね…………こういうの…………」
萌江のその声が、まるで宙に浮いたように室内に漂った。
そして萌江の感じ取った〝未来〟が、西沙に届く。
──…………そんな………………
外から聞こえる小さな足音が縁側の前で止まる。
その足音の主────杏奈はカーテンの隙間から僅かに漏れる灯りを眺めていた。
──……私の気持ちなんて…………すぐに分かっちゃうんだろうな…………
──……私はいつも自分の存在価値を求めてた……だから頼られると嬉しかった…………
カーテンが大きく揺れたかと思うと、ガラスと一緒に開く。
室内の灯りが瞬時に漏れ出し、不安気な杏奈の顔を照らした。その目に映るのは、いつもの黒いゴスロリ姿の西沙。その唇が小さく揺れる。
直後、杏奈は目を逸らすように顔を伏せていた。
──……きっと今の私は酷い顔だ…………西沙さんに見られたくない…………
冷たい外の空気が室内に飛び入り、西沙の周りの温度を急激に下げていく。
その西沙が縁側の板を歩く音が杏奈の耳に届いた。
やがてその音は縁側の下へ。
冷たい土を黒いソックスで踏みしめた西沙が、杏奈の胸元に顔を埋める。両腕を杏奈の背中に回していた。元々身長の低い西沙だったが、底の厚いブーツを履いた杏奈とで、さらにそれは際立った。
杏奈に全身が震えるような感覚が走る。
それは、まるで地面が揺れるような鈍い痛み。
杏奈の耳に届く西沙の声は、小さかった。
「……ずっと……一緒にいられるような…………そんな未来が見えてた…………」
その言葉に、杏奈の感情が涙となって溢れる。
──……私が求めていたのはなに? 何をしたかったの…………?
その杏奈に、西沙の言葉が刺さる。
「いつも我儘を言った…………いつも杏奈に甘えてた…………」
その声は僅かに震えていた。
──……我儘なのは私…………ただの自己満足で…………
「…………苦しめた…………ごめん…………」
──……違う……みんなは悪くない…………
──……私が勝手に居場所を見付けた気になってただけ…………
「でも……違う未来なんか見たくない……見えても見ない……例え萌江と咲恵に捨てられたって……杏奈にだけは捨てられたくない…………私の見た未来を…………信じさせて…………」
──……どうして…………?
──…………私には何の力も無いのに………………
──……私には…………自分の居場所が分からない…………
──…………西沙さん…………ごめんなさい………………
「かなざくらの古屋敷」
~ 第二二部「冷たい命」第2話へつづく ~
そこは憑き物専門の神社であると同時に、古くから清国会のナンバー2としての立場を堅持してきた。
清国会の設立当初から頂点に君臨する雄滝神社から最も信頼を置かれている神社でもある。三番手に位置する蛭子神社とは〝位〟の点で大きな開きすら有する。蛭子神社のような派閥も存在しない。他の社からすれば、いわば別格の存在。清国会にとっても唯一雄滝神社を支えることの出来る社としての立場。
しかしそこに、いや、だからと言うべきか、大きな問題が存在した。病巣に巣食う腫瘍のように、やがてそれは清国会を悩ます。
御陵院神社の現在の当主は咲。
夫の祐也は婿養子。元々神職の血筋ではなく、地元の財閥の産まれで会計士をしていた過去を持つ。現在も経営の分野で御陵院神社を支えていた。もちろんその繋がりを作ったのは清国会。
代々女宮司だけで繋がれてきた神社。なぜか必ず三姉妹が産まれ、誰かが病気などで命を落とすようなことがあっても替えがいた。
咲は比較的若い内に当主となったが、その能力の高さは雄滝神社からも重宝されていた。その咲にも娘が三人。
長女────綾芽。
次女────涼沙。
三女────西沙。
その中でも三女の西沙は雄滝神社の現当主である滝川恵麻と同じ日に産まれ、その能力は幼い頃から二人の姉を凌いだ。
そして日本神話に登場する〝ヒルコ〟の産まれ代わりとされた。
イザナギとイザナミの間に産まれた最初の子。
最初の〝神〟────。
しかしヒルコは海に流される。
古事記には〝産める子良く有らず〟としかその理由は記されていない。
誰にもその訳が伝えられることのないまま歴史に埋もれた神。
それでも、清国会はそこに〝負の念〟を見出した。
〝穢れ〟の存在を感じた。
日の本を統治する天照大神の血筋を支えられるのは、同じ血を持つヒルコしかいないと考えた。
その〝穢れた血〟が欲しかった。
その産まれ代わりが西沙であると最初に気が付いたのは雄滝神社の滝川恵麻。
まだ恵麻が当主になる前。幼い頃。
しかし清国会にとっての腫瘍は、まさにそこにいた。
西沙は清国会に対抗する組織として〝蛇の会〟を立ち上げ、母や姉、強いては清国会に弓を引いてきた。
親姉妹を捨ててでも、西沙は自らの道理を通したかった。
それは、自分を恐れ、自分を受け入れてくれず、自分を突き放そうとした家族への反抗でもあった。
☆
真実を知ること
それは
恐怖を受け入れること
☆
すでに夕暮れで空が赤く染まり始めていた。
空気までもが色を帯びる。
税理士の立坂修二が顧客である御陵院神社に呼ばれることは滅多にあることではない。もちろん仕事の関係で月に数回出入りしてはいたが、咲から直接呼び出されるなど、西沙が神社を出た時以来だろう。
立坂が御陵院神社を顧客にしてから、すでに長い年月が経っていた。まだ西沙が高校生の頃だ。立坂は仕事上で神社の裏帳簿に疑問を持って調べ始め、やがて清国会の存在に辿り着く。そして同じく清国会に疑問を持っていた西沙と共に〝蛇の会〟を立ち上げて清国会を調べた。
西沙の能力に驚異を感じていた咲に対して、立坂は自らが身元引受人になることを提案し、やっと西沙は御陵院神社から物理的に解放された。
その前後に何度か咲から西沙のことで呼び出されることはあったが、それからしばらくは仕事上の付き合いだけ。西沙の事務所が閉鎖されてからは電話もほとんどなかった。とは言っても清国会自体は蛇の会の存在そのものは認知している。当然のように立坂の存在も調べはついているはず。そう立坂は思っていたが、泳がされているのか、御陵院神社の側から直接の動きは無い。立坂も御陵院神社とは少しずつ距離を置き始め、最近では事務所の別の職員に任せることが多くなっていた。
御陵院神社の本殿とは別の社。別邸のような建物に、神社の事務所があった。いつも立坂が出入りするとしたらその|事務所くらいのもの。
立坂が夕方に到着すると、そこには咲と夫の祐也だけ。
以前にも立坂の税理士事務所に調査と称して内閣府の人間が訪れたことがある。それはいわば脅しのようなものだったが、内閣府を直接動かせるとしたら清国会でも雄滝神社か御陵院神社だけ。そうやって物理的に動いてきた過去があるだけに、立坂も少々身構えていたのは事実。
駐車場には御陵院家の所有する車が二台あっただけ。しかし立坂の後に内閣府が来れば簡単なこと。車の有無だけでは安心出来なかった。
事務所は決して狭くはない。事務机が二つと書類用の棚が壁一面を埋めていたが、一番存在感があるのは応接室のような役割でも賄えそうな向かい合った大きなソファー。その間にある小さなテーブル。
そのテーブルを挟んで、立坂の前には咲と祐也が座っていた。
窓からの夕焼けが二人の顔を照らす中、咲がゆっくりと口を開く。
「本日は、どうしても立坂さんにお伝えしなくてはならないことがございまして……」
すると立坂は仕事上の慣例なのか、あくまで冷静に返した。
「改まってどうされました? 何か帳簿上で問題でも?」
「……その帳簿のことなんですが…………」
その咲の言葉に、本能的に立坂の中に嫌なものが走り抜ける。
咲の言葉が続いた。
「立坂さんが作った裏帳簿の件で……ちょっと…………」
「────なかなか面白いことをおっしゃいますね」
──……冷静になれ…………
「あれは前任の税理士から引き継いだ物です……それは咲様もご存知のはず……」
しかし咲は表情も変えずに、微かな笑顔を浮かべるだけ。
──……さすがは清国会の屋台骨…………まともな人間じゃない…………
それに応えたのは咲の横の祐也。
「警察の方々が見えられています」
その言葉を咲が拾う。
「お分かりですね?」
──…………なるほど……
咲の言葉が続く。
「立坂さんが未だ娘と関わっていらっしゃることは調べがついております……まあ、普通に考えるならば感謝こそすれ…………〝蛇の会〟は、ちょっと…………」
──……何を言っても無駄か…………
「では、警察と内閣府の方々をお招きさせていただきますね」
その咲の言葉を受け、祐也が立ち上がる。無言で部屋を出て行った。廊下の足音がいつもより大きく聞こえる。
──…………内閣府……そういうことか…………
立坂は、人間とは思えない、冷静で冷たい、咲のその笑顔を見続けていた。
☆
室町時代。
大永二年。
西暦一五二二年。
そこは小さな村だった。決して歴史に名を残すような土地柄でもない。どこにでもあるような山間部に挟まれた小さな集落。
戌亥村。
そんな小さな村でも、やはり古くからの信仰は存在した。遥か昔から人々の中に浸透してきた神道。それはもはや生活の一部でもあった。
その中心にいたのは小さな神社────戌亥神社。
村人の心の拠り所となっていたような場所。その神社を中心に村の総てが動いていたと言ってもいい。それが土着信仰であり、当時はそれに疑問を持つ者など誰もいなかった。だからこそ平穏が保たれた。
戌亥神社を護ってきたのは加藤家。元々戌亥村を集落として定着させた最初の血筋だったと文献には残っていた。
現在の当主は四代目の加藤砂宮────三五才。
妻は村の家から嫁いできたばかりのオユキ────二五才。
跡取りはまだいない。
そして、二人とも外の世界を知らなかった。
村の中だけが、二人と村人達の世界。そして、村人の誰もがそれ以上を求めてはいない。
砂宮の村人達からの信頼は厚かった。村人達からの相談にも真摯に耳を傾けて的確な答えを導き出していく砂宮に、村人達もその人柄を支えていった。そして砂宮もそれに応え続け、やがては先代以上に村の中心となっていく。それは砂宮の持つ〝先を見る力〟に村全体が信頼を寄せていたからに他ならない。
砂宮はまだ先代が生きていた若い頃から自分の能力を明確に認識していた。すぐ先の小さなことから後々に起こるであろう大きな出来事までを言い当てた。しかも砂宮自身、自らのその力に決して臆することはなく、村の人々の為に役立てようと邁進してきた。
その日は、時期も然る事ながら寒い夜だった。
子の刻。
月明かりも無いような暗い夜。
砂宮は、小さく、小さな社を揺らす振動に目を覚ました。
暗い夜であることは障子から入る月明かりの弱さで分かった。
しだいに大きくなる振動に、砂宮はオユキを揺り起こす。
お互いに顔を見合わせた直後、本殿の板戸が叩かれた。音の方角的に裏口ではない。
二人は本殿に向かう。何度も繰り返し叩かれる正面の板戸を開けた。
そこには狩衣姿の神職の人間と思われる若者。その背後には位の上であろう狩衣姿の男。狩衣の色からそれは予想出来た。
さらにその後ろの参道には大きな籠と数十名の従者の姿。どこかの大きな神社からの使者であることが推測された。
板戸を開けた若い神職の男が最初に口を開く。
「かような夜更けに辱き事。戌亥神社御当主、加藤砂宮殿とお見受けいたしまするが、相違はござらぬか」
小さい神社とは言っても砂宮も神職に関わる者。決して臆することなく応えた。
「いかにも。我が加藤砂宮である。今宵は御急ぎの御用件でございまするか」
すると、若い男の後ろにいた男が一歩踏み出す。
そして砂宮に言葉を向けた。
「我は雄滝神社が当主、滝川氏綱と申す者。清国会の頂点に座しておる」
氏綱は齢四二。
雄滝神社の当主になったのは三年程前。それは同時に清国会の頂点に立つということでもある。その肩に掛かる重責は決して軽いものではない。
そして、氏綱は大きな問題を抱えていた。それは今に始まったものではない。長い年月の中で清国会を悩ませてきた問題だった。
しかし砂宮がそんなことを知るはずもない。
「清国会……失礼ながら初めてお聞きする御名前……何せ我等は御覧の通りの貧しき神社ゆえ……」
「清国会は朝廷をも動かす神道の中核」
そんな組織が存在することなど知るはずがない。しかも朝廷をも動かすと聞かされてもすぐに信じられるものではなかった。
──……信じてよいものかどうか…………
「そのような畏れ多い方々が何故にかような所へ────」
そう言う砂宮の不安を感じ取ったのか、氏綱は畳み掛ける。
「では、恵比寿神社は御存知であるか」
恵比寿神社の存在は砂宮でも聞き知っていた。しかも神社自体の大きさだけに留まらず、その派閥とも言える勢力の大きさは戌亥村のような小さな集落にまで響いていたほど。
砂宮は言葉を選びながらも返していく。
「……確かに聞き存じてはおりますが…………」
「かの神社は他国の社をも束ねる影響力の強き所。そこを御主に任せたくて馳せ参じた次第」
「……任せるとは…………いや……そのような大それた事…………」
反射的にそう返した砂宮に対し、氏綱は顔色一つ変えずに応えた。
「程なくして現当主の遠藤家が失脚する〝予見〟がある。御主にも先が見えると聞いておる」
氏綱は清国会の人脈を利用して加藤家のことを調べ上げていた。その上で加藤砂宮に目を付ける。清国会内部ではなく外部の人間を求めたのは、その素性や人間関係からの派閥を恐れたから。田舎の小さな神社の名も無き宮司なら、言わば無垢のようなもの。清国会としては扱いやすいと考えた。
しかし砂宮は毅然と応えた。
「有難き御言葉なれど、我は代々戌亥神社を護る立場……村人達を見捨てる訳には参りませぬ」
その直後、籠の遥か後ろの空が明るくなる。
砂宮は胸騒ぎを覚えた。
──……あの空…………いつぞやの夢で…………
その明るさは、大きく揺らぎ、そして広がっていく。
そして氏綱の言葉が砂宮の不安を増幅させる。
「……始まったようだ…………」
「────一体何が起こったと────」
「…………恵比寿の遠藤重富だ……村を焼き払って御主の力を奪いに来たのだ……御主の力は強大にて野放しには出来ぬ……かような小さな村で終わる器ではない」
しかし、村に火を放ったのは実は氏綱だった。
この夜の事は砂宮の〝怨みの念〟を作り出す為の自作自演に過ぎない。
それを企てた氏綱は、小さく呟くかのように口を開いた。
「御主にもこの光景は見えていたはず…………かような狼藉……決して許されぬ…………」
恵比寿神社当主、遠藤重富は清国会にとってはいわば暴れ馬。しかもその派閥の影響力は大きい。しかも清国会の内紛の元となっていた。このままでは内乱は大きくなるばかり。
氏綱は遠藤家ではなく、その勢力を取り込もうとした。
そしてその圧倒的な情報量は、砂宮の冷静な判断力を失わせていく。
☆
電話番号は変えた。
何も言わずに引っ越した。
しかも引っ越し先は山の中の萌江の家。
杏奈の仕事上の取引先など、もちろん母の果穂は知らない。
警察に捜索願いを出さない限り、杏奈が見付かるはずがない。
しかも母の家と杏奈の生活圏はまるで違う。仕事の関係で移動の多い杏奈と違い、看護士をしている果穂が暮らしている街を出ることは稀だった。
咲恵を街まで送った夕方。
どうしてその街に母がいるのか、杏奈は最初全く理解が出来ないまま。
──……帰る前に買い物しようなんて……なんで思ったんだろう…………
最近通い始めた古着屋の帰り。
最近たまにそんなことがある。杏奈が街まで買い物に行くタイミングで咲恵を街まで送る。そして咲恵が休みの前日の夜に迎えに行く。
杏奈に時間が出来たことも理由だった。しばらくは岡崎の出版社にも出入り出来ずにいた頃。事実、岡崎からの依頼も八頭鴉島の一件以来止まっていた。
──……こんなに長く休んだことないな…………
決して大きな通りではない。裏通りの細い道。大きな通りほど人も歩いてはいない。
そんな中で、例え久しぶりとはいえ、母親の顔を見間違えるわけがなかった。どうしてそこにいるのかなど考える余裕もない。
しかしそれは母の果穂にとっても同じ。
忘れるわけがない一人娘。
お互いに目を合わせたまま、何も言葉が出てこない。
何の音も聞こえない。
もう会えないかもしれない────合うことはない…………そう杏奈は思っていた。
──……でも…………お母さんは…………?
その母に無言で促されるまま、杏奈は近くの喫茶店に足を向ける。
目の前で母がドアを引き開け、そのドアが杏奈の視界の中で、ゆっくりと閉まりかける。
──……このまま閉まれば……総て無かったことに出来るの…………?
──…………このまま逃げ出せば………………
杏奈は、目の前の閉まりかけたドアを手で止めていた。
そして開く。
時は止まらない。
どんなに願っても、未来はしだいに押し寄せる。
昔ながらの歴史を感じさせる店内。
まだ外は明るいが、それでも間接照明が僅かに灯る店内は薄暗い。
パチパチとBGMのレコードからの埃の音が微かに空気を揺らす。古いアコースティックなジャズが流れるが、ゆっくりとした曲調が店の雰囲気を演出していた。
経営者のセンスを感じる。元々杏奈もこういった個人経営のこじんまりとした店が好きだった。そしてそれは、なにより母の影響でもある。
元々は父の好み。その父が遠くの戦場で消息を経ったのは杏奈がまだ学生の頃だった。杏奈が社会人になってから、母と二人でよくこんな店に通っていた。そして、母がそんな小さな店を好きになったのが父の影響であることは聞いていた。
──……お父さんも……この店なら気に入ってくれるかな………………
不思議と杏奈は父のことを思い出していた。
ほとんど家にはいなかった記憶しかない。たまに日本に帰ってきても、いつも疲れた顔の思い出ばかり。それでも杏奈には出来るだけ笑顔を向けてくれていることは分かっていた。
いつも何かに疲れ、そして優しい父。
父がもう帰らないと母から聞かされた夜、初めて杏奈は父親の仕事を知った。
戦場で〝人の死〟を写真に収める仕事。
しかし杏奈は父親の仕事をこう理解した。
父は人間の〝極限の生き様〟を見たかった────もちろん真意は分からない。どうして父親がそれほどまでに〝生き様〟というものに興味があったのか。杏奈の印象では、それほど他人に興味がある人には見えなかった。そんな父がなぜ危険な戦場に自ら飛び込んでいったのか、想像するしかない。
だから杏奈もジャーナリストの道を選んだ。
父の求めたものを、見てみたかった。
〝死〟を〝エンターテイメント〟と考える人々がいる。
父親もそうだったのかもしれないと考えたことがあった。しかし、それならあんなに寂しい表情を浮かべるとも思えない。
〝死〟を〝生〟と捉える人々がいる。
杏奈には想像もしていない世界だった。真逆の存在だと思い込んでいた。しかしそれが〝生き様〟に繋がるものであると杏奈は無意識に感じていた。
それを気付かせてくれた西沙と出会っていなかったら、自分も戦場に行っていただろうと常々思っている。
そして未だ何かが霧に包まれたまま、今でも戦場への夢を諦めてはいない。
「……いつも……あなたは一人で決めるのね…………」
母の果穂が冷めかけたコーヒーを見つめながらまるで呟くようにそう言うが、杏奈は空になりかけたコーヒーカップを両手で抱えたまま何も返せないまま。
杏奈が答えにくい投げ掛けであることは果穂も分かっていた。だからこそ答えを待たずに続ける。
「お父さんと同じ…………突然……勝手にいなくなって…………」
──…………そうだよね…………
「勝手かもしれないけど……あの人にはあの人なりの信念があったんだと思う…………もちろん夫婦だって相手のことを総て理解なんか出来ないから……私の願望なのかもしれないけど…………決して、あなたやお母さんを蔑ろにしていたわけじゃない」
──……今は……私にもそれは分かる…………
「……あなたの行動にも…………意味があるのよね………………」
その果穂の言葉に、杏奈は懸命に言葉を選んでいた。
──……お母さんに危険が及ぶのが怖かった…………でも説明出来ない…………
──……誰も知らない清国会も蛇の会も……どう説明したらいいの…………
──…………命の危険なんて…………心配をかけるだけだ…………
「あなたの選択は、間違ってないのね?」
真っ直ぐな果穂の目が、杏奈の気持ちを揺さぶる。
──……私が選んだことは…………ホントに正しかったのかな…………
──…………私があそこにいる意味って何だろう…………
──……どうして私はみんなと一緒にいるんだろう…………
──…………私には何の力も無いのに………………
そして杏奈は、やっと口を開いていた。
「…………段々と…………分からなくなってきて…………私ってもしかしたら…………」
いつの間にか、杏奈の目に涙が浮かぶ。
無意識に感情が揺れていた。
そして、果穂が溢れそうになる一人娘の気持ちを受け止める。
「……どんなことでも、とは言わない……でもきっとチャンスはある……それを見付けることが出来れば、やり直せるものよ…………私がそうだったから…………もしも気持ちに迷いがあるなら、いつでも戻ってきなさい」
果穂はそう言ってコーヒーカップを両手で持ち上げた。
☆
咲恵が買い出しを終えて店の鍵を開けた頃、すでに空は夕陽から夜の色へ。
レジ袋を持ったままカウンターの中を通りバックヤードへ。
壁のスイッチを押して電気を点けた時、満田からの電話に咲恵は軽く溜息を吐いた。
「どうしたの? こんな時間に……今週ならお店に出てるから────」
いつの間にかプライベートとは違う少し気怠い口調へと変わっていることには咲恵も気が付いていた。どこかで無意識の内に切り替えている。客商売の長さが伺えた。
しかし満田の口調が咲恵をプライベートに引き戻す。
『立坂が拘束された』
「どういうことよ」
咲恵は反射的に返していた。
それに応える満田の声は重い。
『まだ逮捕令状は出てない。捜査令状付きの任意同行だ……それでも二四時間以上警察庁に拘束されたまま……こんなバカな話があるか……しかも内閣府も絡んでる』
「ってことは…………咲さん?」
その咲恵の声が僅かに弱まる。
『拘束された場所は御陵院神社だから間違いないだろうな。あからさまに攻めてきやがった…………』
満田が唇を噛み締めている様が咲恵の頭に浮かんだ。
その満田が続ける。
『あの神社の税務処理をしていたのは立坂だ。例の裏帳簿の存在がある限りはいくらでも罪状なんてでっち上げられるさ。最も、アレが無かったら今の蛇の会も無いけどな』
「みっちゃんは大丈夫なの⁉︎」
『俺はしばらく裏の連中の所に身を隠すよ。あいつらの情報提供のお陰で早く動けたしな。俺の事務所と家にも捜査員と称する奴らは来たらしい』
たまに満田から聞いたことはあったが、満田と付き合いの長い咲恵でも満田の裏の人間関係までは知らない。満田も教えようとはしなかった。しかしそれが情報収集に役立ってきたのは事実。
「それじゃ時間の問題じゃないの…………」
咲恵はそう応えながら自分の心臓の音が早くなっているのを感じていた。満田とは自分の店を始める前、前の店からの長い付き合い。そして、萌江と咲恵に裏の仕事を最初に持ち込んだのも満田だった。しかも現在は蛇の会を大きくした立役者でもある。
──……外堀から物理的に攻めてきてるって言うの…………?
『そうなる前に何とか頼むよ。俺も立坂もこうなりゃ無力だ…………みんなも気を付けてくれ…………』
満田はそう言うしかなかった。
そんな珍しい満田の弱気な発言に、咲恵も精一杯の虚勢を張るしかないまま。
「……何とかする…………任せて…………」
その咲恵からの報告を山の中の家で受けたのは萌江と西沙だった。
「何か裏があるね…………」
そう言ってコーヒーを口に運んだ萌江の側で、西沙も不安そうな表情を浮かべたまま。
薪ストーブの中で炭化した薪が崩れる音。その音が僅かに空気を揺らした。
スマートフォンのスピーカーから咲恵の声が続く。
『物理的に動いてきたね……今までは西沙ちゃんの力で押さえ込めてたけど、そこを崩してきた誰かがいる…………』
「……まさか……」
思わずそう呟いた西沙にすぐに返したのは萌江だった。
「完璧というものは存在しないよ。しかも私たちより優れた人間はいくらでもいる…………咲恵、雫さんにも連絡をしておいてもらえる? こっちでも動きがありそうだ。また連絡するよ」
萌江が含みを持たせた言葉遣いをした時点で、電話の向こうの咲恵は何かを感じ取った。
『……分かった。そっちは頼むわね』
咲恵はそれだけ応えると通話を切る。
「相変わらず二人だけで会話しないでよ」
すぐにそう言った西沙が続ける。西沙も二人のやり取りに何かを勘づいていた。
「何があるっていうのよ⁉︎」
明らかに西沙は苛立っていた。それは自らの〝幻惑〟の能力が破られたからに他ならない。今までは毘沙門天神社のみならず蛇の会のメンバー全員を西沙の能力が守ってきた。今回のような物理的な攻撃を防いできた────はずだった。
しかしそれが今回〝誰か〟によって崩された。
──……完璧なはず…………綾芽にも涼沙にも破れなかった……恵麻にだって…………
西沙の中で不安だけが膨らんでいく。
実際、雄滝神社の恵麻のみならず、直接の西沙の姉妹である綾芽と涼沙、ましてや母の咲ですら西沙の居場所さえ特定することが出来ていなかった。
──……力が弱まってる…………?
──…………私の責任なの…………?
八頭鴉の一件以来、西沙は確かに気持ちの中にわだかまりのようなものを抱えていた。それこそが〝穢れ〟というものであることは西沙自身も理解はしている。
御世を長い歴史から解放することが出来た。そのこと自体は間違ってはいない。
しかし何かが気持ちの中心で疼いている。
西沙は〝自分〟と向き合っていた。
しばらく無言でいた萌江が立ち上がり、薪ストーブへと向かうと膝を落として扉を開く。室内はすでに充分過ぎるほど暖まっていた。ストーブ内部の火はだいぶ小さく落ち着いている。萌江はそこに小ぶりな薪を一本だけ差し込むように入れると、ゆっくりと扉を閉じた。
西沙は落ち着かないままその萌江の背中を見つめていた。懸命に気持ちを抑える。取り乱しそうになる自分がいる。何かは分からないが、気持ちのどこかが不安を押し上げる。
──……私の悪い癖だ…………落ち着かなきゃ………………
その時、外からの車の音。
二人には聞き慣れた杏奈の車の音。
西沙が縁側のガラス戸へと顔を向けた。
西沙の中の何かがザワつく。
時間はすでに夜。厚手のカーテンがその大きなガラスを塞いでいる。
そこに聞こえるのは背中越しの萌江の声。
「……何があっても……冷静にいなきゃダメだよ……」
──………………え?
西沙が萌江に顔を向けるが、未だ萌江は背中を向けたまま。
そのまま呟く。
「…………嫌だね…………こういうの…………」
萌江のその声が、まるで宙に浮いたように室内に漂った。
そして萌江の感じ取った〝未来〟が、西沙に届く。
──…………そんな………………
外から聞こえる小さな足音が縁側の前で止まる。
その足音の主────杏奈はカーテンの隙間から僅かに漏れる灯りを眺めていた。
──……私の気持ちなんて…………すぐに分かっちゃうんだろうな…………
──……私はいつも自分の存在価値を求めてた……だから頼られると嬉しかった…………
カーテンが大きく揺れたかと思うと、ガラスと一緒に開く。
室内の灯りが瞬時に漏れ出し、不安気な杏奈の顔を照らした。その目に映るのは、いつもの黒いゴスロリ姿の西沙。その唇が小さく揺れる。
直後、杏奈は目を逸らすように顔を伏せていた。
──……きっと今の私は酷い顔だ…………西沙さんに見られたくない…………
冷たい外の空気が室内に飛び入り、西沙の周りの温度を急激に下げていく。
その西沙が縁側の板を歩く音が杏奈の耳に届いた。
やがてその音は縁側の下へ。
冷たい土を黒いソックスで踏みしめた西沙が、杏奈の胸元に顔を埋める。両腕を杏奈の背中に回していた。元々身長の低い西沙だったが、底の厚いブーツを履いた杏奈とで、さらにそれは際立った。
杏奈に全身が震えるような感覚が走る。
それは、まるで地面が揺れるような鈍い痛み。
杏奈の耳に届く西沙の声は、小さかった。
「……ずっと……一緒にいられるような…………そんな未来が見えてた…………」
その言葉に、杏奈の感情が涙となって溢れる。
──……私が求めていたのはなに? 何をしたかったの…………?
その杏奈に、西沙の言葉が刺さる。
「いつも我儘を言った…………いつも杏奈に甘えてた…………」
その声は僅かに震えていた。
──……我儘なのは私…………ただの自己満足で…………
「…………苦しめた…………ごめん…………」
──……違う……みんなは悪くない…………
──……私が勝手に居場所を見付けた気になってただけ…………
「でも……違う未来なんか見たくない……見えても見ない……例え萌江と咲恵に捨てられたって……杏奈にだけは捨てられたくない…………私の見た未来を…………信じさせて…………」
──……どうして…………?
──…………私には何の力も無いのに………………
──……私には…………自分の居場所が分からない…………
──…………西沙さん…………ごめんなさい………………
「かなざくらの古屋敷」
~ 第二二部「冷たい命」第2話へつづく ~
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