SSS集

小野遠里

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杞憂

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 則夫が待ち合わせの喫茶店に着くと、俊介が珈琲を飲みながら心配そうに空を見上げていて、やあ、というと、やあ、と答えたけど、心ここにあらずの感じで空ばかり見ている
「何を見てる?」
「空だよ。落ちてこないか心配なんだ。心配で心配で夜も眠れない。もし空が落ちてきたら、どこに逃げればいいんだろう、どこに住めばいいんだろう」
「馬鹿だな。そういうのを杞憂ていうんだ」
「杞憂てなんだ?」
 則夫は電子国語辞典を作る会社に勤めている
「昔、杞の国の人が、空が落ちてこないかと、君みたいに心配して、夜も眠れなかったそうなんだ。しかし、空なんて落ちてくるわけがないから、無駄な心配という意味になってる。心配したけど、杞憂に終わってよかったよ、そんなふうに使うんだな」
「昔の話だろ。人がまだ地上に住んでいた頃の。空なんて落ちてくるわけがなかった頃の。今じゃ、みんな地下で暮らしていて、空はドームだ。人が地下に潜って五百年、近頃じゃ、資材不足、人手不足、資金不足で、ドームの修理ができてないらしいから、所々でコンクリが傷んでいるし、鉄骨も錆がきてるらしいし、もういつ崩れ落ちてきても不思議はないってネットで言われてる」
 則夫も空を見上げる
 青空に雲が流れている
 太陽が西に傾いてきている
 いつもながらの美しいホログラムである
「綺麗な空だ。綻びは見えないよ」
「ホログラムだからね。その向こうにあるドーム本体は真っ黒になってきてるんだ。政府で調べたらしいんだけど、ごく簡単な補修以外手の打ちようがないってさ。お手上げさ」
 と万歳の格好で、手のひらを上に向けて、まるで天を支えようとするかのように、手を挙げる
「もはや杞憂ではないということか」
「いや、杞憂だろ。空が落ちてくるのを心配してるんだから」
「うん、杞憂だな。しかし、もう杞憂とは言えない・・・ 空が落ちてくるのを心配するのが杞憂で、その心配は正しいから、だから杞憂ではないと言いたいけれど、やはり杞憂なんだな」
「訳わかんないよ」
「まったく・・・」
 と言いつつ、則夫は腰を上げる
「用を思い出した」
「なんだよ、来たばかりなのに」
「うん。会社に帰って、会議を開いて、電子辞書の『杞憂』の定義を決めなくては。このままではバベルの塔だ」
 則夫が走り去るのを見て、俊介が天を仰いで呟いた
「はじめに言葉ありきか」
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