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三章

まさかこんなところに入るとは

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 電車を乗り継ぐこと七回。いいかげん、うんざりしかけてた頃に睦月は俺をやっと地上に導いた。出掛けにあれだけ降っていた雨は今は降ってはいない。だが空はまだ暗いからじきにまた降り出すだろう。そんなことを考えつつ、俺は歩きながらちらっと睦月をうかがった。かく乱ったってこんな限られた範囲で動いてたら意味ないんじゃねえの。そんな俺の問いに睦月は酷くあっさり答えた。遠くの人のまばらな場所に行くより、手近な人ごみの方がいいんだと。

 ああ、確かに俺は言ったよ。落ち着いて話せる場所に行こうってな。だが、俺が言ったのは、ドアからちょっと入ったところにどでかいベッドが据えてあるような特殊な部屋じゃない! 二人で寝転んでもまだ余りそうな特殊っぽいベッド、特殊アイテム自動販売機、特殊ビデオディスクしかかけられない特殊な形のモニタ、特殊照明、特殊風呂に特殊トイレに……ああああ、違うんだ。俺が言ったのは断じてこんな場所じゃない! 甚だしく日常から離れた空間に佇んで俺は頭をかきむしった。

 そりゃ、俺もな。この手の場所に一度も来たことがないとは言わないよ。だけど幾ら何でもこの状況でそれはないだろう。あ? 何で部屋に入るまで気付かなかったのかって? この建物の入り口やカウンターは驚くほど普通なんだよ! チェックインとかもごく当り前のホテルと同じで疑う隙がどこにもなかったんだよ!

 ああ、判ってるさ。普通は女の子の方が俺みたいな反応をするんだよ。どこぞのファッション系サイトでも頻繁に特集が組まれてるよ。そういう場所を嫌う子をどうしても連れ込みたい場合、入り口だけはお行儀のいいこういったホテルが警戒されなくていいとかな。ご丁寧なことに、どうすれば女の子がおちるだの、いざ本番の時にこうするべしだの、本当かよって疑いたくなるようなテキストが当り前に晒されてるサイトもあるよ、確かに。ああ、ごめんなさい。よく見てます。そういうサイト。

 いや、今はそうでなくてだな!

 あの場合でもその場合でもどの場合でもだ! 男の方が騙されて連れ込まれてどうする! しかも相手は若い女の子なんだぞ! やばいだろ、犯罪だろ、捕まるだろそれは!

 周囲に誰もいないこともあって、俺は思ったまんまを睦月にぶちまけた。すると睦月が平然と言う。

「私はシステマですから問題はありません。むしろ経営者にとって能戸さんは一人で二人分の部屋代を支払う客なのですから、喜ばれはするでしょうが通報されるようなことはありません。まして告訴もありえませんし」

 つらつらと語る声はあくまでも穏やかなのに、俺にとって睦月のせりふはとても凶悪に思えた。

「違うんだ、頼む、落ち着け」

 そう言ってから俺は、いや、落ち着くのは俺だと自分に言い聞かせた。睦月は最初っから落ち着き払ってるんだよ。慌ててるのは俺一人でだな。でもさっきの睦月のセリフはちょっと否定したいぞ。俺は睦月をシステマとは……。

 でも俺がとりあえずここまで逃げられたのは睦月のシステマとしての機能のおかげなんだよな。そう思うと複雑な気分だ。俺は睦月に人になって欲しいのか、それともシステマとして存在していて欲しいのか。

「私は落ち着いています。むしろ能戸さんの方が落ち着いていないように見受けられますが」
「そ、そうか」

 深呼吸しますか、と真顔で問われて俺は首を横に振った。何が悲しくてこんなところで女の子に心配されにゃならんのだ。

 落ち着きなく周りを見回していた俺の肩を睦月が唐突に突く。何事かと慌てた声を上げた俺はよろけた拍子にでかいベッドに座る格好になった。焦って睦月を見やる。だが睦月はごく普通の穏やかな表情のままだ。何をするでもなく俺の前に立っている。俺はうろたえて視線をあちこちに向けた。だがどこを見ても落ち着かない。

「まず先ほどのカードの件ですが、あのカードはIIS本社ビル内の開発部試験フロアでのみ有効です。他の場所では使用することは出来ません」

 試験フロアってのは本社のビルの四十二階のことだ。淡々と語る睦月の言葉を聞いているうちに俺の気分は少しずつ落ち着き始めた。そうだよな。睦月がまさかそんな艶っぽいこと考えてるわけ、ないよな。落ち着くと同時にちょっとだけ残念な気分になる。

 あの白いカードは所持者の脳波を読み、専用の信号に変換して発信する機能を持つ。それだけなら俺たちがいつも携帯してるIDカードと同じだ。が、この発信される信号があのカード独特のものらしい。睦月の説明に俺は黙って頷いた。

 脳波信号受信、発信機能を不用意に変質させてはいけない。それはどんなシステマにも組み込まれている制限なのだという。だから睦月はカードの本来の機能である人間の脳波受信、信号変換、発信機能については一切触っていないと言う。へ? それならどうして。そんな俺の間抜けな質問に睦月は滑らかに答えた。

「先ほどのカードには全く別の発信機が付けられていたんです」

 なるほど。つまり開発部長が俺にくれたカードには、最初っから全く別の発信機が仕込まれてたってことかよ。ちなみに睦月曰く、こっちの発信機は実にお粗末だったらしい。そうでなければ睦月でも細工は出来なかったという。

 この発信機は一定間隔で信号を発信するタイプだったようだ。その間隔は変えずに、付近のシステマ用のインターフェイスを介して別のインターフェイスから信号を発信させるように仕組んだと睦月は説明してくれた。つまり、カードの近くのシステマや中継ポイントが信号を読む。この後、信号を転送する。この際の信号転送についてはランダムに場所が設定される。その後、転送先のシステマや中継ポイント等が偽信号を発信する、と。こういうことらしい。

 ……ごめん。真剣にこの仕事辞めた方が身のためって俺、思ったわ。最初は睦月の言いたいことの半分も理解出来てなかった。何度か聞いてもこの程度だ。多分、睦月はそれほど難しいことを言ってるんじゃないとは思う。

 これまで俺はいつも客から質問されてもてきとうにごまかしてきた。最悪の時は技術営業に出張願うのだが、出来るだけそれも避けてきた。技術営業は俺たちみたいな時間の使い方は出来ない。どうしても忙しくなってしまうのだ。しかもギャラも高い。だが本当に俺がシステマのことを理解してれば技術営業に頼らずに済むのだ。中條先輩みたいにな。

 出来るだけ楽にやって行こうとして俺は色んなことを避けてきた。だがそれが逆に遠回りになってしまっていたのだと俺は初めて気がついた。今からシステマはもっと複雑になっていくだろう。そうなった時、俺はどうするつもりだったんだろう。

「これで少しは時間が稼げるはずです。カードそのものが発見されてしまえば終わりですが」

 うなだれてため息をついた俺に気を遣ったのか、睦月はそう話をくくった。確かにそうだな。今は落ち込んだりしてる場合じゃなかったな。

「それで? 解決策だが、どうする」

 警察沙汰には出来ないだろうと中條先輩は言っていたが、相手はでかい企業だ。そう長い間、ごまかし続けることも出来ないだろう。かと言って逃げ続けることも出来ない。

 そうだ。俺は考えてる途中だったんだよ。市場が荒れるのを防いで得するのが誰か。でもそんなこと本当は考えるまでもない。仕掛けたのは開発部長だろ。きっとあいつが別企業の誰かと繋がってるんだ。もしかしたら睦月と時雨を引き渡そうとしてる相手ってのもそいつかも知れない。

 だが真っ当な繋がり方じゃないのも確かだ。もし、誰に知れても問題ない関係なら、真っ先に警察に頼るだろう。だからって俺が警察に駆け込むことも出来ない。何しろ開発部長は法に触れてはいないのだ。正当な取引として睦月と時雨を他企業に差し出すんだろうからな。

 ひょっとしたら土壇場でRC2が製品化決定したのにも何か理由があるんじゃないか? 土壇場だからこそ内部はかなり騒然となったし、実際に勝亦の上司らしいチームリーダーは辞職したって言ってた。事情はよく判らんが、開発部長はそのチームリーダーが邪魔でもあったんじゃないのか。

 あー、くそ。考えてりゃきりがねえんだよ、こんな話。しかも巻き込まれてから考えたってどうにもならんだろ。俺は呻いて頭をかきむしった。俯けていた顔を上げてからようやく気付く。

「どこかに座れよ。立ちっぱなしだと疲れるだろ?」

 俺って間抜けだな。慌てたり落ち込んだりで睦月がずっと立ったまんまだってこと忘れてた。睦月はぐるりと部屋を見回してから俺の方を見た。ああ、そうだな。椅子はあるがインテリアらしいからな。座ってくつろげる形はしてないよな。そうなるとベッドに腰掛けるのが無難だよな。それは判る。判るんだが……。ええい、くそ。睦月にそんな気はないんだから気にしなきゃいいだろ、俺も!

 躊躇してから俺は睦月に頷いた。すると睦月が首を傾げて言う。

「不快でしたらここに座ります」

 そう言って睦月がぺたん、と床に座る。ああ、誤解させちまった。

「別に並んで座るのが嫌とかじゃなくてだな」

 やれやれ。俺ってやっぱり下手くそだな。そう思いながら俺は腰を上げて睦月の手を引いた。引き起こされた格好になった睦月が大人しく俺の横に腰掛ける。

 隣に座る睦月を俺は横目に見た。俺がシステマのことをもっと知っていれば、睦月のこともシステマにしか見えなかったんだろうか。そんな考えも浮かんでくる。柔らかそうな髪も細い肩も整った横顔も、もっと見ていたいと思わずに済んだのかも知れない。

 睦月は少し考えるように黙ってからこっちを見た。まともに視線が合ってしまってから俺は慌てて目を逸らした。熱くなった顔を睦月に見せないように背けてみる。インターフェイスを装着していてもだな。やっぱり睦月って俺には人間の女の子にしか見えないんだよ。

 システマとして生きるより、人として生きる方がずっといいに決まっている。その俺の考えは変わらない。だが俺は昨日のように思ったままを睦月に伝えようとは思わなかった。あの時に見た悲しそうな微笑みが俺の脳裏に焼きついてどうしても消えてくれないのだ。

 睦月はあの時、何かを言おうとしていたような気がする。だがどれだけ考えてみても俺には睦月の考えていることが判らない。もし、人になれば睦月の思っていることが判るようになるだろうか。そう考えて俺は思わず苦笑しちまった。答えは否だろうからだ。

 ふと俺のシャツを何かが引く。つい考えに没頭していた俺は慌ててそっちを見た。睦月がシャツの袖を引っ張っているのだ。上目遣いに見つめられて俺は思わずじっと睦月を見つめてしまった。い、いかん。

「一つ訊きたい事があるのですが」

 俺のやましい気持ちとは対照的に睦月の眼差しや声はとても透き通っている。俺は出来るだけ平然を装って睦月に何事かと問い返した。でもやっぱり駄目だ。どうしたって声が焦りに裏返っちまう。

「あ、あんまり難しいことは判らないぞ、俺は」

 ごまかすつもりでそう言った俺に睦月が首を振る。つまり難しいことじゃないって意味か。睦月がえらく真面目な顔してるもんで、俺の気分は急速に冷えていった。

「能戸さんは私は人になった方がいいと思いますか」

 シャツだけじゃない。俺の腕を強くつかんで睦月が真剣に問い掛ける。俺は言葉をなくして目を見張った。緊張して自然と息が詰まる。

「な、んでそんなこと、急に」

 言えるかよ、そんなこと。俺にだって判んねえんだよ。睦月は焦る俺を真剣に見つめ、着けていたインターフェイスを外した。ヘッドホン型のインターフェイスが外れると、睦月がシステマだという気配すら感じられなくなってしまう。

「急ではないと思います。能戸さんはまだ、私が人になった方がいいと思いますか」

 ひと言ずつゆっくりと睦月が問う。俺は口の中に溜まった唾を無理やり飲み込んで睦月から目を逸らした。何て答えればいいのか判らない。本音を言えばな。俺は睦月に人として生きて欲しいと思う。

 何でかって? そんなこと、最初っから本当は判ってた。

 俺は睦月を好きなんだよ。理由なんか知るか。あの時、一面の青い液体に浮かぶケースに収まった睦月を見た時から、多分俺は惹かれてたんだと思う。

「そう、ですか……」

 黙りこんだ俺に睦月が弱々しい声で言う。それから睦月は俺の手をそっと離した。判りました、と告げた睦月を俺はのろのろと頭を動かして見た。睦月は俯いてしまっている。

 何でこういう時に限ってでまかせが言えないんだ。簡単だろう。営業で幾らでもそれらしい嘘は吐き慣れてる。クライアントを納得させるなんて得意技のはずなのに、何で睦月を安心させてやれないんだろう。俺は自分のばかさ加減を呪った。

 今なら判る。睦月は多分、人になりたくないんだ。そのことに気付かなかった俺は睦月を知らないうちに傷つけていたんだろう。あの時の悲しそうな微笑みには諦めがこめられていたんだ。

「私の役目は、能戸さんを無事に逃がすことです」

 小声で言いながら睦月が外していたインターフェイスを装着する。だが睦月は顔を上げようとはしなかった。俯いたままで続ける。

「私に考えがあります。解決策については任せて頂けますか?」

 俺は情けない気分で睦月に頷いた。伏せていた顔を上げた時、睦月の様子はいつもと変わりなく、そこには穏やかな表情しかなかった。
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