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一章
頭とハサミと弁当と
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「多輝! なんで逃げるのよ!」
廊下を全力疾走しながら絵美佳は大声で喚いた。だが多輝は振り返りもしない。必死で廊下を走っている。昼休憩の時間を楽しんでいた生徒たちが驚愕に目を見張り、そんな二人のために道を空ける。絵美佳はそのことすら気付かず、生徒たちの間を白衣をはためかせながら駆け抜けた。
「うっせえ! そんなもん、食えるかあ! てめ、こないだ何やったか覚えてねえのか!」
振り返らなかったが、多輝はそう絵美佳に喚き返した。絵美佳は弁当を握る手に力を込め、鋭い眼差しで多輝の背中を睨んだ。
「そんなもんって、何よ!」
失礼ね! そう続けざまに叫んで絵美佳は白衣のポケットに手を突っ込んだ。何かが手に触れる。怒りのままに絵美佳は手に触れたそれを多輝の後頭部目掛けて投げつけた。固い音がして、多輝が急に足を止める。その背中に全力でぶつかってから、絵美佳は足を止めた。多輝は激突されて廊下に突っ伏している。
「今日は、ほんとに普通のお弁当なのに。多輝に食べてもらおうと頑張って作ったのに……」
絵美佳は涙ぐんで多輝の頭元にしゃがみこんだ。だが多輝は呻いているだけで身動きしない。よく見ると多輝の後頭部にはさみが刺さっているような気がしたが、絵美佳はそれを見なかったことにした。
「あの、多輝ってば大丈夫?」
とぼけて絵美佳が告げると、多輝は勢いよく身体を起こした。何事かを喚きながら後頭部からはさみを引っこ抜く。血まみれになった後頭部を押さえ、多輝は大きく息を吸った。片手に握られているはさみも血だらけだ。
「大丈夫なわけ、あるかあ! 絵美佳、ほんっとにおれを殺す気か!?」
それにな、とまで言って多輝は再び息を吸う。絵美佳は真剣な顔で頷きつつ、はさみからは目を逸らしていた。自慢ではないが、スプラッタはあまり得意ではないのだ。
「お前、こないだ弁当に睡眠薬を五十倍盛りにしたとか言ってやがっただろう! 普通、死ぬぞ!」
多輝は勢いよくそう喚いた。だが絵美佳は笑って多輝の肩を叩いた。ついでに弁当を差し出す。
「あはは。大丈夫よ。あんたの身体って、それくらいでどーにかなるような、やわなつくりはしてないし」
そりゃ、そーだけど。多輝は不服そうな顔でそうぼやく。既に廊下には生徒たちの輪が出来上がっている。いつものことと見ている者もあれば、蒼白な顔で多輝を見つめる者もある。だが多輝は注目されていることを全く気にしていないらしく、ため息をついて何事もなかったかのように絵美佳の弁当を受け取った。
「ほんとに毒とか入ってないな?」
そう言いながら多輝は立ち上がって歩き出した。絵美佳はそんな多輝の後ろを追いながら頷く。何しろ、今日の弁当にはいつもより気合が入れてあるのだ。大嫌いな母親の由梨佳に頼んでまで、新しいメニューを入れたのだ。それを無駄にされるのは絶対に嫌だ。
「そんなの、入ってるわけないでしょ? それに、今のあんたには、睡眠薬五百倍盛りしても効果ないと思うわ」
廊下を曲がり、二人は階段を降り始めた。告げた絵美佳に多輝が虚ろな眼差しを返してくる。だが絵美佳は気にせずに一人で何回も頷いた。何しろ、苦労したのだ。いかにして原型を留めたままの石狩鍋をおかずとして弁当に入れるか。そのメニューの研究に苦労したことを思い出し、絵美佳は深々とため息をついた。
「それ、誉めてねえぞ。ちっとも」
ぼんやりとした顔で呟いてから、多輝は手にしていたはさみを絵美佳に突き出した。だが絵美佳ははさみを見もせずに、そんなことないわよと笑った。絵美佳に完全に無視された血まみれのはさみは、脱靴場のごみ箱の中へと葬られる。ポリ容器の底に当たったはさみの音を聞き、絵美佳はほっと胸をなで下ろした。今度から投げるときは刺さらないものにしよう。
多輝の出血はとうの昔に止まっている。髪にこびりついていた血までが綺麗さっぱりなくなっている。絵美佳は多輝の後頭部を眺め回し、感嘆の声を上げた。だが多輝は舌打ちをしただけで中庭へ続く道に入る。絵美佳は小走りで多輝に追いついた。
「すごいわ。もう治ってるし」
言いながら絵美佳は多輝の後頭部に触れた。柔らかな髪にはどこにも血の影はない。さらりと指の間を通り抜け、零れ落ちる。何度か多輝の髪に触れ、絵美佳はまじまじと後頭部の様子を眺めた。すでに諦めているのか、多輝は嫌がらない。無言で進んでいく。
多輝が人でないと知ったのは去年の秋のことだった。それから絵美佳は多輝の傍で人間業ではない力を目の当たりにしてきた。だが何度見ても、その特殊な力には驚いてしまう。こうやって怪我がすぐに癒えてしまうところにも、だ。
「ほんとに、多輝って何者なのかしら? あんた、ほんとに知らないの?」
多輝の横に並び、絵美佳はそう訊ねた。だが多輝は舌打ちをして知らね、とだけ答える。その内に二人は中庭に辿り着いた。多輝は黙ってベンチを目指す。藤棚をくぐり、絵美佳も多輝の横に腰を下ろした。
「大体な。おれだって教えて欲しいくらいなんだからな」
文句を言いながら多輝は膝の上に弁当を据えた。可愛らしい柄のラッピングを丁寧に解き始める。多輝はこういう所はとてもまめだ。掃除や洗濯、炊事などの家事に関しては絵美佳より多輝の方が上手だ。しかも悲しいことに多輝は料理が得意だったりする。絵美佳は緊張しながら多輝の手元に注目した。
「汁をこぼさないように気を付けてね」
絵美佳は緊張したまま告げた。すると多輝の手がぴたりと止まる。うろんな眼差しを絵美佳に向け、多輝は片眉を跳ね上げた。
「……汁?」
弁当をラッピングしていた布はきれいに解かれ、畳んで多輝の隣に置いてある。多輝の手元にあるのはアルミの弁当箱だけだ。蓋はきっちりと弁当箱を塞げるものにした。その蓋は白いから中身は多輝には見えない筈だ。絵美佳は頷いて多輝の顔を見やった。すると多輝が顔をしかめる。蓋に手をかけながら多輝はぼやいた。
「何で弁当が汁なんだよ。さては煮物の汁きりせずに入れ」
そこで多輝は再び動きを止めた。言葉や表情、全てが凍り付いている。だが絵美佳はそのことに気付かず、多輝が蓋を開いた弁当箱を指差した。
「どう、美味しそうでしょ?」
絵美佳は石狩鍋が崩れずに弁当箱の中に収まっていたことにほっとして、満面に笑みを浮かべた。にっこり笑った絵美佳を見ながら多輝がぎこちなく首を動かす。弁当の中をじっくり眺め、続いて絵美佳の笑顔を見つめる。それから多輝はため息をついた。
「なんだ。これは」
「石狩鍋弁当よ」
絵美佳は即答した。他の何に見えるのだ、これが。その意味を込めて告げた絵美佳を凝視したまま、多輝は片頬だけを引きつらせた。器用ねえ、と絵美佳が心の中で呟いた時、多輝は大きく息を吸った。
「鍋物を弁当にするばかが、どこにいる! ああっ! しかも冷たいし!」
多輝は喚きながら弁当箱を両手で包み込んだ。冷たいのは当り前だ。何しろ、弁当に詰める時におかずを冷やしておくのは常識なのだ。暖かいままのおかずを弁当に詰めると良くない、とものの本にも書いてある。絵美佳は淡々とそのことを説明した。その間、多輝はちっとも言葉を挟まなかった。
「要するに……悪意はないんだな?」
絵美佳が弁当のおかずに関するあらゆる事項について説明し終えた時、疲れた声で多輝がそう呟いた。がっくりと肩まで落としている。絵美佳は訝りながら多輝の顔を覗き込んだ。そんなにこの弁当は不味そうなのだろうか。だがそんな筈はない。味見はちゃんとしているのだ。
「悪意ってなによ! 石狩鍋は好物だって言ってたじゃない! だから、だから、あたし……」
そう言いながら絵美佳は段々と涙ぐんだ。多輝がそう言ったからこそ、決心して由梨佳に石狩鍋の作り方を教わったのだ。なのに多輝は喜んでいない。そのことに絵美佳はショックを受けた。
多輝はしばらくそんな絵美佳を見つめていた。絵美佳は鼻を啜って目尻に溜まった涙を指で拭った。多輝の顔と弁当を見比べる。どこが気に入らないのだろう。改善しなければならないのはどこなのだろう。必死で考えてみる。だがどうしても問題点が判らない。
「判った。おれが悪かったよ。とりあえずさ、部室に行こうぜ。そこで食わせてもらうからさ」
多輝が弁当の蓋を閉めながら告げる。絵美佳は浮かんでくる涙を拭いながら問い掛けた。
「だって、食べたくないんでしょ? 嫌なんでしょ?」
だったら無理して食べてくれなくても。そう続けようと思った時、多輝が苦笑して絵美佳の頭を撫ぜた。絵美佳は驚いて俯けていた顔を上げた。
「そうじゃない。どうせならあったかくして食いたいじゃん? 鍋なんだしさ」
多輝はさっさと弁当を包み直して腰を上げた。絵美佳に手を差し出してくる。絵美佳はうろたえながらその手を取った。引っ張られるようにして多輝に立たされる。多輝はしょうがないなあ、と笑いながら絵美佳の手を引いたまま歩き出した。
「そうか、そうよね! 鍋なんだから熱々でないと! ありがと、多輝! 改良点がわかったわ!!」
弁当箱の保温にはどんな機能をつければいいのだろう。核融合で手っ取り早く一気に温めるというのはどうだろう。絵美佳は歩きながら多輝にそう提案してみた。だが、多輝はあっさりとその案を却下した。折角、いい方法だと思ったのに。絵美佳は呟きながら多輝に連れられて地下の部室へと降りた。
「アルミってのは助かったな。おい、絵美佳。三脚とアルコールランプ、あんだろ。ちょっと出してくんない?」
第一実験室に入った多輝がそう告げる。絵美佳は笑顔で頷いた。
「わかったわ! ちょっと待ってね」
第一実験室は上の校舎にある科学室と同じように実験器具が揃えられている。絵美佳はそれらが収まっている棚に駆け寄った。言われた器具を取り出してテーブルに向かう。多輝は再び弁当箱を開き、絵美佳の渡した器具をテーブルに据えた。
「でも、やっぱり核のほうが手っ取り早くない?」
絵美佳は多輝に言われた通り、椅子に座りながらそうぼやいた。すると多輝が困ったように笑う。アルコールランプに火を灯し、三脚の下に入れる。三脚の上には弁当箱が乗せられている。
「おれ、鍋をあっためてるのを待つの、そう嫌いじゃないし。核はやめろ、とにかく」
言われて絵美佳は少し考えた。核は駄目。そう内心で呟いてから顔を上げる。アルコールランプの弱々しい火を見つめ、絵美佳は感情のない声で告げた。
「じゃあ、反物質炉は? マイクロブラックホールでもいいわよ?」
アルコールランプの火よりよほど効率よく鍋を温められる。そう告げると多輝が渋面になった。ため息をついて首を横に振る。
「頼む。普通に鍋を温めさせてくれ。それとも絵美佳の家では鍋をそういうもので温めるのか?」
確かに食卓で鍋を囲む時、簡易コンロが出てくるような気がする。そういえばどうして由梨佳はそんなもので鍋をあぶっているのだろう。ガスを使うよりもよほど核の方がいいのに。よし、今度提言してみるわ。絵美佳は力を込めてこぶしを握り、呟いた。途端に多輝がうんざりした顔になる。
「お。煮えてきた。へえ。美味そうじゃん」
一気に話を逸らし、多輝が嬉しそうな声を上げる。絵美佳はつられて弁当箱の中を見やった。弁当箱の縁にぷつぷつと泡が浮かんできている。絵美佳もにっこりと笑い、頷いた。
ただ、あれがどの程度の熱に耐えられるのかの実験、まだやってないのよねえ。絵美佳は煮える弁当箱を眺めつつ、内心でそう呟いた。
廊下を全力疾走しながら絵美佳は大声で喚いた。だが多輝は振り返りもしない。必死で廊下を走っている。昼休憩の時間を楽しんでいた生徒たちが驚愕に目を見張り、そんな二人のために道を空ける。絵美佳はそのことすら気付かず、生徒たちの間を白衣をはためかせながら駆け抜けた。
「うっせえ! そんなもん、食えるかあ! てめ、こないだ何やったか覚えてねえのか!」
振り返らなかったが、多輝はそう絵美佳に喚き返した。絵美佳は弁当を握る手に力を込め、鋭い眼差しで多輝の背中を睨んだ。
「そんなもんって、何よ!」
失礼ね! そう続けざまに叫んで絵美佳は白衣のポケットに手を突っ込んだ。何かが手に触れる。怒りのままに絵美佳は手に触れたそれを多輝の後頭部目掛けて投げつけた。固い音がして、多輝が急に足を止める。その背中に全力でぶつかってから、絵美佳は足を止めた。多輝は激突されて廊下に突っ伏している。
「今日は、ほんとに普通のお弁当なのに。多輝に食べてもらおうと頑張って作ったのに……」
絵美佳は涙ぐんで多輝の頭元にしゃがみこんだ。だが多輝は呻いているだけで身動きしない。よく見ると多輝の後頭部にはさみが刺さっているような気がしたが、絵美佳はそれを見なかったことにした。
「あの、多輝ってば大丈夫?」
とぼけて絵美佳が告げると、多輝は勢いよく身体を起こした。何事かを喚きながら後頭部からはさみを引っこ抜く。血まみれになった後頭部を押さえ、多輝は大きく息を吸った。片手に握られているはさみも血だらけだ。
「大丈夫なわけ、あるかあ! 絵美佳、ほんっとにおれを殺す気か!?」
それにな、とまで言って多輝は再び息を吸う。絵美佳は真剣な顔で頷きつつ、はさみからは目を逸らしていた。自慢ではないが、スプラッタはあまり得意ではないのだ。
「お前、こないだ弁当に睡眠薬を五十倍盛りにしたとか言ってやがっただろう! 普通、死ぬぞ!」
多輝は勢いよくそう喚いた。だが絵美佳は笑って多輝の肩を叩いた。ついでに弁当を差し出す。
「あはは。大丈夫よ。あんたの身体って、それくらいでどーにかなるような、やわなつくりはしてないし」
そりゃ、そーだけど。多輝は不服そうな顔でそうぼやく。既に廊下には生徒たちの輪が出来上がっている。いつものことと見ている者もあれば、蒼白な顔で多輝を見つめる者もある。だが多輝は注目されていることを全く気にしていないらしく、ため息をついて何事もなかったかのように絵美佳の弁当を受け取った。
「ほんとに毒とか入ってないな?」
そう言いながら多輝は立ち上がって歩き出した。絵美佳はそんな多輝の後ろを追いながら頷く。何しろ、今日の弁当にはいつもより気合が入れてあるのだ。大嫌いな母親の由梨佳に頼んでまで、新しいメニューを入れたのだ。それを無駄にされるのは絶対に嫌だ。
「そんなの、入ってるわけないでしょ? それに、今のあんたには、睡眠薬五百倍盛りしても効果ないと思うわ」
廊下を曲がり、二人は階段を降り始めた。告げた絵美佳に多輝が虚ろな眼差しを返してくる。だが絵美佳は気にせずに一人で何回も頷いた。何しろ、苦労したのだ。いかにして原型を留めたままの石狩鍋をおかずとして弁当に入れるか。そのメニューの研究に苦労したことを思い出し、絵美佳は深々とため息をついた。
「それ、誉めてねえぞ。ちっとも」
ぼんやりとした顔で呟いてから、多輝は手にしていたはさみを絵美佳に突き出した。だが絵美佳ははさみを見もせずに、そんなことないわよと笑った。絵美佳に完全に無視された血まみれのはさみは、脱靴場のごみ箱の中へと葬られる。ポリ容器の底に当たったはさみの音を聞き、絵美佳はほっと胸をなで下ろした。今度から投げるときは刺さらないものにしよう。
多輝の出血はとうの昔に止まっている。髪にこびりついていた血までが綺麗さっぱりなくなっている。絵美佳は多輝の後頭部を眺め回し、感嘆の声を上げた。だが多輝は舌打ちをしただけで中庭へ続く道に入る。絵美佳は小走りで多輝に追いついた。
「すごいわ。もう治ってるし」
言いながら絵美佳は多輝の後頭部に触れた。柔らかな髪にはどこにも血の影はない。さらりと指の間を通り抜け、零れ落ちる。何度か多輝の髪に触れ、絵美佳はまじまじと後頭部の様子を眺めた。すでに諦めているのか、多輝は嫌がらない。無言で進んでいく。
多輝が人でないと知ったのは去年の秋のことだった。それから絵美佳は多輝の傍で人間業ではない力を目の当たりにしてきた。だが何度見ても、その特殊な力には驚いてしまう。こうやって怪我がすぐに癒えてしまうところにも、だ。
「ほんとに、多輝って何者なのかしら? あんた、ほんとに知らないの?」
多輝の横に並び、絵美佳はそう訊ねた。だが多輝は舌打ちをして知らね、とだけ答える。その内に二人は中庭に辿り着いた。多輝は黙ってベンチを目指す。藤棚をくぐり、絵美佳も多輝の横に腰を下ろした。
「大体な。おれだって教えて欲しいくらいなんだからな」
文句を言いながら多輝は膝の上に弁当を据えた。可愛らしい柄のラッピングを丁寧に解き始める。多輝はこういう所はとてもまめだ。掃除や洗濯、炊事などの家事に関しては絵美佳より多輝の方が上手だ。しかも悲しいことに多輝は料理が得意だったりする。絵美佳は緊張しながら多輝の手元に注目した。
「汁をこぼさないように気を付けてね」
絵美佳は緊張したまま告げた。すると多輝の手がぴたりと止まる。うろんな眼差しを絵美佳に向け、多輝は片眉を跳ね上げた。
「……汁?」
弁当をラッピングしていた布はきれいに解かれ、畳んで多輝の隣に置いてある。多輝の手元にあるのはアルミの弁当箱だけだ。蓋はきっちりと弁当箱を塞げるものにした。その蓋は白いから中身は多輝には見えない筈だ。絵美佳は頷いて多輝の顔を見やった。すると多輝が顔をしかめる。蓋に手をかけながら多輝はぼやいた。
「何で弁当が汁なんだよ。さては煮物の汁きりせずに入れ」
そこで多輝は再び動きを止めた。言葉や表情、全てが凍り付いている。だが絵美佳はそのことに気付かず、多輝が蓋を開いた弁当箱を指差した。
「どう、美味しそうでしょ?」
絵美佳は石狩鍋が崩れずに弁当箱の中に収まっていたことにほっとして、満面に笑みを浮かべた。にっこり笑った絵美佳を見ながら多輝がぎこちなく首を動かす。弁当の中をじっくり眺め、続いて絵美佳の笑顔を見つめる。それから多輝はため息をついた。
「なんだ。これは」
「石狩鍋弁当よ」
絵美佳は即答した。他の何に見えるのだ、これが。その意味を込めて告げた絵美佳を凝視したまま、多輝は片頬だけを引きつらせた。器用ねえ、と絵美佳が心の中で呟いた時、多輝は大きく息を吸った。
「鍋物を弁当にするばかが、どこにいる! ああっ! しかも冷たいし!」
多輝は喚きながら弁当箱を両手で包み込んだ。冷たいのは当り前だ。何しろ、弁当に詰める時におかずを冷やしておくのは常識なのだ。暖かいままのおかずを弁当に詰めると良くない、とものの本にも書いてある。絵美佳は淡々とそのことを説明した。その間、多輝はちっとも言葉を挟まなかった。
「要するに……悪意はないんだな?」
絵美佳が弁当のおかずに関するあらゆる事項について説明し終えた時、疲れた声で多輝がそう呟いた。がっくりと肩まで落としている。絵美佳は訝りながら多輝の顔を覗き込んだ。そんなにこの弁当は不味そうなのだろうか。だがそんな筈はない。味見はちゃんとしているのだ。
「悪意ってなによ! 石狩鍋は好物だって言ってたじゃない! だから、だから、あたし……」
そう言いながら絵美佳は段々と涙ぐんだ。多輝がそう言ったからこそ、決心して由梨佳に石狩鍋の作り方を教わったのだ。なのに多輝は喜んでいない。そのことに絵美佳はショックを受けた。
多輝はしばらくそんな絵美佳を見つめていた。絵美佳は鼻を啜って目尻に溜まった涙を指で拭った。多輝の顔と弁当を見比べる。どこが気に入らないのだろう。改善しなければならないのはどこなのだろう。必死で考えてみる。だがどうしても問題点が判らない。
「判った。おれが悪かったよ。とりあえずさ、部室に行こうぜ。そこで食わせてもらうからさ」
多輝が弁当の蓋を閉めながら告げる。絵美佳は浮かんでくる涙を拭いながら問い掛けた。
「だって、食べたくないんでしょ? 嫌なんでしょ?」
だったら無理して食べてくれなくても。そう続けようと思った時、多輝が苦笑して絵美佳の頭を撫ぜた。絵美佳は驚いて俯けていた顔を上げた。
「そうじゃない。どうせならあったかくして食いたいじゃん? 鍋なんだしさ」
多輝はさっさと弁当を包み直して腰を上げた。絵美佳に手を差し出してくる。絵美佳はうろたえながらその手を取った。引っ張られるようにして多輝に立たされる。多輝はしょうがないなあ、と笑いながら絵美佳の手を引いたまま歩き出した。
「そうか、そうよね! 鍋なんだから熱々でないと! ありがと、多輝! 改良点がわかったわ!!」
弁当箱の保温にはどんな機能をつければいいのだろう。核融合で手っ取り早く一気に温めるというのはどうだろう。絵美佳は歩きながら多輝にそう提案してみた。だが、多輝はあっさりとその案を却下した。折角、いい方法だと思ったのに。絵美佳は呟きながら多輝に連れられて地下の部室へと降りた。
「アルミってのは助かったな。おい、絵美佳。三脚とアルコールランプ、あんだろ。ちょっと出してくんない?」
第一実験室に入った多輝がそう告げる。絵美佳は笑顔で頷いた。
「わかったわ! ちょっと待ってね」
第一実験室は上の校舎にある科学室と同じように実験器具が揃えられている。絵美佳はそれらが収まっている棚に駆け寄った。言われた器具を取り出してテーブルに向かう。多輝は再び弁当箱を開き、絵美佳の渡した器具をテーブルに据えた。
「でも、やっぱり核のほうが手っ取り早くない?」
絵美佳は多輝に言われた通り、椅子に座りながらそうぼやいた。すると多輝が困ったように笑う。アルコールランプに火を灯し、三脚の下に入れる。三脚の上には弁当箱が乗せられている。
「おれ、鍋をあっためてるのを待つの、そう嫌いじゃないし。核はやめろ、とにかく」
言われて絵美佳は少し考えた。核は駄目。そう内心で呟いてから顔を上げる。アルコールランプの弱々しい火を見つめ、絵美佳は感情のない声で告げた。
「じゃあ、反物質炉は? マイクロブラックホールでもいいわよ?」
アルコールランプの火よりよほど効率よく鍋を温められる。そう告げると多輝が渋面になった。ため息をついて首を横に振る。
「頼む。普通に鍋を温めさせてくれ。それとも絵美佳の家では鍋をそういうもので温めるのか?」
確かに食卓で鍋を囲む時、簡易コンロが出てくるような気がする。そういえばどうして由梨佳はそんなもので鍋をあぶっているのだろう。ガスを使うよりもよほど核の方がいいのに。よし、今度提言してみるわ。絵美佳は力を込めてこぶしを握り、呟いた。途端に多輝がうんざりした顔になる。
「お。煮えてきた。へえ。美味そうじゃん」
一気に話を逸らし、多輝が嬉しそうな声を上げる。絵美佳はつられて弁当箱の中を見やった。弁当箱の縁にぷつぷつと泡が浮かんできている。絵美佳もにっこりと笑い、頷いた。
ただ、あれがどの程度の熱に耐えられるのかの実験、まだやってないのよねえ。絵美佳は煮える弁当箱を眺めつつ、内心でそう呟いた。
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