貝合わせ異聞

柚木

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再会

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 特に何をするでもなく、暇つぶしのように書物を読んでいたら、女の童の騒々しい声が聞こえてきた。

 姫君は何事だろうと身構える。

 近くで同じく書物を開いていた常葉殿の姿は、すっと掻き消えた。
 
 御簾の前で衣擦れの音が止まった。

「姫さま! 右大臣家の蔵人少将さまがいらっしゃいました!」

「何用ですか」

 ぴしゃりと跳ねつけるような声が出た。

 御簾の向こうで二人が息を飲んだのがわかった。



 いつも威勢のいい女の童が押し黙ってしまったので、少将は焦ったが、なけなしの勇気を振り絞って言う。

「姫君」

 息を整えて、口を開いた。

「あなたは私の声など聴きたくもないかもしれませんが……」


 私は――。


「私は、あなたと話がしたいのです」


 姫君は、すぐには返事をしなかった。

 姫君の突き放すような声に気勢を削がれ、しおらしい態度を取っていたはずの少女は、
「なあんだ」
と笑ってみせた。

 さらに、小声で付け加える。

「やればできるんじゃないですか、少将さま」

 大いに見くびられたものだ、と恨めしいが、今までの不甲斐なさを思えば致し方ないことだろう。

 ややあって、姫君が苛立たし気に座り直す気配がした。

「何を話すことがあると仰るのですか?」

 すげない姫君の返答にも動じることなく、少将は続けた。

「あなたの想い人のことをお聞かせ願いたいのです」

 隣の女の童が意表を突かれたように少将を見る。

 もの問いたげな少女の視線をかわし、少将は姫君だけを見据えた。

「あなたの歌才を花開かせた方のことを」

 姫君が口を開く前に、女の童が叫ぶような声で言った。

「少将さま、はっ、人ではないんですよ! あんなの、想い人なんてものじゃ――」



「それは違う」



 少将にしては珍しく、きっぱりとした口調であった。

「皆、人ならぬものと言うが、彼はかつて人であった者なのだよ。そのことを忘れてはいけないと、私は思う」




 姫君ははっと顔を上げた。それは姫君自身が、常葉殿の自嘲的な物言いをたしなめる言葉とよく似ていたからだ。



「……お通しして」

「姫さま」

「お通ししなさい」

 有無を言わさぬ語調で言い放ち、姫君はさらさらと音を立てて奥に下がった。

 女の童が慌てて御簾の内に入り、几帳を立て回す。

「少将さま、どうぞ」

 幾分ぶっきらぼうに言い、女の童は少将と入れ替わるように御簾の外へ出た。

 御簾の内には歌を書き散らした料紙がそこら中にあって、姫君との束の間のやり取りで腕を上げた気になっていた少将は恥じ入ってしまう。

 口火を切ったのは姫君の方であった。

「常葉殿の名を出せば話ができるとお思いなのでしょうね」

「とんでもない。私は本当に彼のことを知りたいのです」

「なぜ常葉殿のことをお聞きになりたいのですか?」

 なぜ、と問われると自分でもはっきりとはわからないのであった。

 姫君の部屋に来るまでは、呪符のことを問い質そうとしか考えていなかった筈なのに。

 脈絡もなく、あの古参女房の顔が頭を過る、そして、次兄の顔が。

 そうだ、私が訊きたかったのは――


「例えば、人が人の身を超えたいと望んだ時、物の怪がその気持ちに呼応するというようなことが――この世にはありふれているのでしょうか」


「そのようなことを知ってどうなさるのです」

 姫君の声は怪訝そうであったが、少将は構わず続けた。

「私の兄の……恋人の話を聴いてもらえませんか」

 少将は次兄に告白された秋萩の姫の話を忠実に伝えた。

 己の身に起こったことでなくともあまりに辛く、思わず顔が歪む。

 一方の姫君は、たじろぐ気配はなく――もっとも少将には姿は見えないのだが――話を聴き終えた。

「兄上は物の怪の誘惑には動じませんでしたが、例えば私なら……見鬼とはいえ、宮中で誇れる才のない私なら、舞や音曲の才の誘惑には勝てないのでは、と思ってしまうのです」

 少将は恥じ入りながらも、弱い自分の本心を告げた。

「では秋萩の姫も誘惑に負けた、と仰るのね……。むしろ秋萩の姫は、ご自分で物の怪を望まれたのではないのでしょうか?」

 姫君の言葉に、少将は二の句が継げなくなる。

「秋萩の姫……音曲の才に秀でたお方……私でも知っているような、とても高名なお方です」

 姫君の声は凛として聞き取りやすいのに、少将は耳に意識を集中させてしまう。

 彼女が何を言い出すのか見当がつかないからだろうか。

 見当はつかないくせに、彼女はきっと核心に迫ってしまう、という予感はあった。

 自分は核心に迫りたいのか、迫るのが怖いのか――。

 少将の葛藤をよそに、姫君は続ける。

「けれども彼女の身分は……はっきりと覚えてはいませんが……少なくとも右大臣さまのご次男と釣り合う程のお家柄ではなかったと思います」

「……」

「憶測ですが、右大臣家のどなたかがお二人の仲を認めず、思いつめた姫が物の怪に心を売り渡してしまった、とか――」

 思わず少将は口にした。

「引き裂く風、ですね」

「は? 何と仰いました?」

「存えて 引き裂く風を 吹かすなら 青き下葉の 露と消えゆけ」

「青き下葉……」

 姫君が反応したのも少将と同じ箇所であった。

「実はこの歌が私たちの邸の床下に埋められていたのです。青き下葉という言葉を見た時、私は常葉殿を思い浮かべました。もしかして、あなたも――」


「いいえ。私が思い浮かべたのは」

 姫君は静かに告げた。


「秋萩の葉です」
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